幕藩体制も疲弊、そして黒船も渡来し、時代は嵐を呼ぶ「幕末」に突入します。西宮も、その動乱に巻き込まれていくことになります。
 当時のトレンドは「尊皇攘夷」です。天皇を敬い、鎖国を国是としてきた日本に開国を迫る諸外国を追い払え、ということです。そんなね、圧倒的に国力の違う欧米諸国を駆逐するなんて無理だということは幕府首脳はわかっていましたし、声高に叫ぶ長州藩だってそんなの方便ですよ。ただ幕府の首を絞めるのに「攘夷」はいい旗印でした。

 プチャーチン率いるロシア艦隊が大阪湾に停泊したときには京都も摂津も大騒ぎとなりました。艦隊は鳴尾沖にも姿を見せています。この時は後に西宮と深い縁を持つ適塾の伊藤慎蔵が通訳として交渉を行っています。
 長州藩の尊皇攘夷派は公家をさかんに焚き付けて幕府の責任を追及させました。何のための征"夷"大将軍か、というわけ。幕府もそう言われれば動かざるを得ず、安政2年(1855)には当時の幕府海防掛(防衛大臣)川路聖謨らが西宮に来ています。視察検分ですね。
 さらに文久3年(1863)、老中格小笠原長行を台場築立御用掛に任じ、長行は軍艦奉行並であった勝海舟と、摂海防衛のための砲台建設の準備に入ります。そして海舟が実地調査、西宮にも2ヶ所の砲台を設置することになりました。これが「西宮砲台」「今津砲台」です。

 私事ですが、僕は西宮に越してくるときに、西宮にある史跡で唯一事前に知っていたのは「西宮砲台」だけでした。写真でしか見たことがなかったので、見学するのを楽しみにしていました。
 西宮の浜には防波堤があり、道路から直接海岸を見ることはできません。その防波堤の脇、民家の角に「史蹟 西宮砲台」の碑があります。大正時代のものですね。

 西宮砲台碑西宮砲台碑

 振り返ると…!!

 西宮砲台頭

 防波堤から砲台が頭を覗かせています。最初に見たときはビックリしました。

 砲台全景西宮砲台

 西宮砲台。相当に大きいです。自転車を前に置きましたので比べていただければと。
 何だかコンクリート製の現代建築みたいなのですが、間違いなく国指定史跡です。高さ約12m、直径約17m。でかい。花崗岩の切石を円形に積み上げ漆喰で固め、周囲に12個の窓をあけています。この窓から砲弾が発射されます。
 そもそも石造りで、幕府も無くなり攘夷の必要もなくなった明治以降は荒れ、さらに火災もおき保存状態も良くなかったようなのですが、昭和49年より補修され現在の姿となったようです。

 砲台土塁

 砲台の西側、松林があるあたり、塁ですね。かつては、砲台を円形に石塁が取り囲んでいたようです。ただ、当時のものがそのまま残っているのかは定かではありませんね。
 
 砲台前

 砲台の南側には巨石がいくつも散乱(?)しています。これは何でしょうか。石塁の欠片、と考えるのが妥当とは思いますが、手前のものなどは砲台の欠片のようにも思えるくらい形が整っています。

 この西宮砲台に伝わる話として、完成後、大砲を二門設置し、空砲を撃ったところ内部に煙が充満し砲手涙目、とても実戦の役に立たへんシロモンやないかと庶民が噂したという話があります。これは吉井良秀氏の「老の思ひ出」に記された話で、西宮市史もこれを引用します。そのことから、砲台は全く実用的ではなかったものとする説が定着し、結局倒れかけの幕府の仕事はこれだから…とよく言われたりするのです。もうあちこちで見ます。
 この話、どうも一人歩きしているように思えるのですね。「老の思ひ出」の原文を引用しますと、
(前略)一時二三門を据へて試みに空砲を發つた事が有るが、煙が内に充滿して堪へられなかつた、あれでは迚も實戰の用には立つまいと當時豪い評判であつた
と書かれているわけです。
 これが例えば東薫氏の「新阪神史話」になりますと、
(前略)外見は立派に完成したが、当時の心ある人は「これは実戦に役立たぬ」と冷やかに言った由。事実、西宮の場合、一度この中で砲門を開いたそうだが、煙ばかり立ちこめ、砲をうった人もいたたまれなくて逃げ出したという。
 と、まるで見てきたかのような描写になっています。心ある人、と書かれていますが、誰のことでしょう。試射する前に見切った人が居た、とも読める内容です。それが砲術家か要塞専門家ならばまだしも「心ある人」とは。うーんかなり色眼鏡が入っているような気がするんですけれども…。

 この砲台、設計責任者は勝海舟です。洋式砲術家の佐久間象山と密接な繋がりを持ち(義兄弟)、長崎海軍伝習所で塾頭も勤めた勝のとっつぁんが、そんな中途半端なものを造るか、というところに、僕には多少の疑問が残ります。
 海舟は門人でもある幕府軍艦方の佐藤政養(明治後は民部省出仕、技術者として新橋-横浜間の鉄道敷設に尽力)に図面と模型を作らせ、しっかりと設計しています。
 「日本城郭大系」によれば、円形堡塔は弾を受けても大破しにくく、英国ポーツマスのスピットバンク要塞に類似しており、海舟設計の堡塔は設計ミスとは一概にはいえない、と評価しています。そして砲手涙目の件については「大砲が悪かったのではないか」と論じています。
 砲台の完成日時ははっきりとはわからず、西宮市史によれば慶応2年(1866)5月ですら工事中だったとのことですから、2年末か3年だったのではないでしょうか。ということは大砲試射の頃にはもう、勝海舟の手は離れていますね。

 ここからは丸ごと想像の話です。勝海舟の愚痴を(笑)。
 そもそも勝海舟は砲台建設に積極的であったかどうか。小笠原長行との視察も最初は「風邪引いた」と言ってサボっています。長州がゴリ押しして建造命令が出たわけですが、何が攘夷だ、今の日本の国力で外国艦に砲撃したりしたら大変じゃねぇかべらんめえ、と考えていた可能性も。
 しかし勝海舟も幕府官僚です。与えられた仕事はやらなくてはなりません。現時点では意味が無いものでも、将来の日本も見据えて、体裁だけでなくしっかり造ろうと設計しました。なのに、何ぃ、金がねぇから造れねえだと。
 西宮市史によりますと、当初砲台の設計は星型稜堡であったらしいのです。函館の五稜郭の小型版のような。建造見込図が残っており、市史に載っています。しかし困窮していた幕府予算の都合でそれは却下されたものと考えられます。なので、実戦の役に立つ最小限の建造物を工夫した。それが、あの円形堡塔とそれを囲む石塁であったのではないでしょうか。
 勝のとっつぁんはその後流転。坂本龍馬はんと「未来の日本のため」に作った神戸海軍操練所は閉鎖され、自身は蟄居させられます。しかし追い詰められた幕府によって復帰させられ、負けた長州征伐の後始末を。尻拭いの仕事ですな。けれどもせっかく談判してまとめた和議も、徳川慶喜がひっくり返してしまいます。海舟は怒って辞職し江戸に帰ってしまいます。
 その頃ですかね。西宮砲台で試射、砲手涙目事件は。
 勝海舟がこのことを知っていたかどうかはわかりません。しかし、知っていたら怒ったでしょうね。どうせ安もんの砲を使ったんだろ。オイラは大砲のことも詳しいんだ。なんで相談しねぇ。これで、後々まで「勝の砲台の設計ミスじゃないか」と言われるじゃねぇか。てやんでぃ、あれはちゃんと設計したんだぜぃ。
 と、勝海舟が涙目になったのではと勝手に妄想(笑)。あまりにも「実用に耐えるものではなかった」と数多くの書物や、果てはブログなどでまで断言されているので、一言擁護したくなりましてね。

 ※追記:その後、西宮砲台については再考察し、きわめて実用に適した要塞であったことを証明する仮説をたてました。
  是非、ご一読いただければと思います。

  →凛太郎亭日乗:西宮砲台1 以降最終話まで全30話です。

 今津にも砲台が建設されましたが、こちらは現在残っていません。
 西宮砲台と同時期の完成だったと思われますが、その後使用される機会がなく、明治43年に民間に払い下げられ、大正4年に石材として解体されました。現在は、当時砲台があった場所近くに、その使用されていた石材のひとつが記念碑として残されているのみです。

 今津砲台今津砲台跡

 こういうのをよく「時代のあだ花」と表現しますよね。

 さて、少し時間を戻します。
 西宮は西国街道と中国街道の分岐点であり、良港を擁し交通の要衝であったことから、軍事的にも重要な場所となってきます。ことに時代が風雲急を告げ、政局が江戸から京都大阪に移り、さらに長州など西日本の雄藩と幕府が対峙することになると、西宮は動乱に巻き込まれることになります。
 文久3年の「八月十八日の政変」によって長州が京都の政局から落とされ、それによる長州の軍事行動である禁門の変。そして幕府による長州征伐。さらには長州らの武力討伐軍の東上と、軍隊が西と東を移動します。そうなればその途中にある西宮はどうしても影響を受けます。

 「八月十八日の政変」において「七卿落ち」がありますが、三条実美らは京都を出て、翌日は西宮泊、公家の象徴であった「おはぐろ」をここで落としたといいます(「老の思ひ出」より)。
 池田屋事件に激昂した長州は京都に攻め上ります(禁門の変)。このときも長州軍は西宮に上陸。軍隊がわんさかやってきます。この戦さは長州が敗退、落武者たちは西宮を多数通過したようです。この時姫路藩、豊岡藩、岸和田藩兵が西宮に入り、さらに紀州藩も西宮入り、町は騒然としたといいます。
 その後の長州征伐(第一次・第二次とも)でも西宮には尾張藩はじめ多くの兵が駐屯し、宿営地となったことで相当の迷惑を被っています。軍は町を潤さずむしろ徴収したのですね。夫役や御用金などを課され、米価は高騰し打ちこわしもありました。お上はヒドいことをなさるもので。

 さらに幕府はこの長州征伐に失敗、薩長同盟もあり倒幕の機運が高まります。そして、今度は長州軍が討幕軍として再び西宮へやってきます。慶応3年の暮れ。
 打出浜に上陸した長州藩兵は最初、西国街道を抑えようとしたのか下大市村や上ヶ原に駐屯しようとします。
 旧長州藩文書を中心に編纂された維新史「防長回天史」によりますと、
毛利内匠及び諸隊順次に陣を上ヶ原に移す楫取石部二人留まりて親王寺に在り陣址を掃除せしむ此日地方に宣言して民心を安ず土人は甚だ驚擾せず頗る我に懐くの状あり
 と描写されています。楫取とは楫取素彦のことでしょうか。軍参謀ですね。責任者を最初上陸した打出の親王寺に残し清掃までした、と実に品行方正であった様が書かれ、土人(つまり西宮市民のことですな)は歓迎して長州兵を迎え入れたと。
 宣言とは長州の行動の正当性を謳うもので、その中に軍令的なものもあり「兵士陣外出行不法之所行致者有之節は逐一本陣へ可訴出候事」とも。品行方正な軍ながら、もし問題を起こしたならばすぐに訴えてください、と言っています。
 で、むろん防長回天史には問題など書かれてはいないのですが、市史によりますと、長州の銃隊が永福寺や付近の民家に宿営所を要求し、断ると「藩兵は聞き入れず太鼓を打ち鳴らして村方へ入り込ん」だといいます(原典は大日本維新史料稿本「長州兵西宮宿陣記録」三通のうちの村人の訴え状)。

 永福寺永福寺

 この訴え状によると、えらい迷惑な話です。品行方正どころか傍若無人だなあ。
 どうとらえていいのかはわかりませんよ。「老の思ひ出」には「豫て長州は豪い者だ」などという描写もありますのでね。ただ「維新史の基本的史料」の評価もある防長回天史も、ひとつの側面であるということかもしれません。

 翌日、下町へ転陣します。遊撃隊が昆陽口、振武隊が芦屋親王寺に駐屯した以外は、西宮です。
 ちょっと長州藩の軍制についてですが、長州藩には「諸隊」というものがありました。長州において軍隊は武士のみならず、多くの庶民が身分に関わらず参加しています。これは、高杉晋作が結成した奇兵隊から始まっています。奇兵隊に触発され、様々な義勇軍的団体が結成され、その数100を超えたときがありました(後統合整理される)。これら庶民軍は諸隊と呼ばれ、のちに藩の正規軍になっていきます。「遊撃隊」「振武隊」というのはそういう存在です。

 西宮における長州軍の駐屯状況ですが、本陣は六湛寺へ。

 六湛寺公園六湛寺公園

 今は六湛寺はありませんけれども、ここが本陣だったということですね。長州軍は禁門の変においても、六湛寺に陣を置いています。

 奇兵隊は海清寺に。

 海清寺海清寺

 諸隊のさきがけとなった奇兵隊。第二次長州征伐の際にも獅子奮迅の活躍をしています。この時は高杉晋作は既に亡く、赤禰武人も粛清されています。軍監だった山県有朋も、参加していることが僕には確認出来ませんでした。だれが率いていたのかな。山内梅三郎かな。

 整武隊は正念寺へ。

 正念寺正念寺

 整武隊とは、御盾隊が元になっています。御盾隊は、御堀耕助、山田顕義、品川弥二郎らが結成した、諸隊の中でもかなり初期から存在する隊です。ここに伊藤博文が結成した力士隊が加わり、さらに軍制改革で鴻城隊と合併しました。
 御堀らはこの時点で藩幹部となっています。

 鋭武隊は西安寺へ。

 西安寺西安寺

 鋭武隊はやはり軍制改革で八幡隊と集義隊が合併したものです。

 膺懲隊は順心寺に。

 順心寺順心寺

 膺懲隊については、僕はよく分からないんですけれども。赤川敬三が結成した隊だとは思いますが、この時はどうなっていたのか。第二奇兵隊と合併したとの話もありましたが。

 その第二奇兵隊は信行寺へ。

 信行寺信行寺

 第二奇兵隊は白井小助、世良修蔵らの真武隊が発展した形で、長州征伐においては周防大島奪還に功があった隊です。世良修蔵がこの時に西宮に居たかどうかはちょっとわからないのですけれども、鳥羽伏見では世良は第二奇兵隊を率いている実績がありますから、西宮に居たかもしれません。世良はのちに奥羽鎮撫隊参謀となり、強硬姿勢から仙台藩士に襲われ殺されます。それが、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍の戦争の火蓋を切ることになります。
 積翠寺 
 なお、「病院 積翠寺」の記載があります。積翠寺は現在神原町に移転していますが、当時は今在家町にありました。
 小説からの話で恐縮ですが、司馬遼太郎氏の「花神」によれば、軍隊に野戦病院を設置したのは当時の長州陸軍司令官だった大村益次郎で、そもそも自身が蘭方医であったという経歴からであるようです。しかも「衛生部隊」ではなく「病院」と正称していたとの由。

 そんな感じで長州が西宮に駐屯していた頃、京都では「王政復古の大号令」というクーデターが画策されていました。そして、軍は西宮から京へ向かい「鳥羽・伏見の戦い」に繋がるわけです。

 
より大きな地図で 西宮砲台と幕末動乱 を表示