西宮えびす神社。大練塀と瑞垣の間に空間があり、部分的に庭になっています。いつも美しく保たれていますね。ところで、その空間には、何だかわからないものがいくつもあるんです。例えば、こういうの。

 いわし干鰯屋さん?

 「當(当)所 干鰯屋」と読めばいいのでしょうか。
 西宮は、度重なる水害で砂地も多く、そもそも河川による堆積地や砂浜を開拓したわけですから、水田に向かない土地が多かったわけです。そういう土地に商品作物を作る場合がありました。また、江戸時代の経済発展で、商品作物を二毛作で、ということも多く。その作物は、菜種であったり綿花だったりしたわけです。
 綿花などは高額商品だったのですが、大量の肥料を必要とします。そうした中、北海道のニシンを肥料用に大量輸送した例もありました。そういうものは「金肥」と呼ばれます。肥料は元来自給自足したものですが、それでは追いつかなくなってきたのです。
 西宮浜では、イワシが大量に獲れました。「宮じゃこ」と呼ばれました。このイワシを干して肥料にするやり方が江戸時代盛んになります。干鰯(ほしか)と言います。その肥料の問屋が存在しました。
 その干鰯肥料問屋の石標なのではないかと推測されます。これは、歴史的にも貴重なもののように思えるのですが、何の説明もなくぽつんと建っています。

 他にも、こういうものが。

 大々講大々神楽講?

 「江戸大々神楽○六人講中」かな?(読めんぞな)。江戸とあるからには、江戸時代のものでしょう。
 太々神楽祭というものが、えべっさんにはあるらしいですね。(→HP) 拝見したことがないのでよく知らないのですが、それに江戸から講を組み奉納したのかな。南門を入ったところすぐの東側にも、同様の石造物があります。でも、これだけではよくわからない(汗)。太々神楽祭は、「神楽町」の由来であるかもしれないのですが。
 そもそも、江戸で講をつくって摂津西宮に奉納、なんて相当なものだと思います。えびす信仰を全国的に広めた傀儡師の力であるかもしれませんが、もしかしたら関東に行って定着した摂津漁民の講であるかもしれません。先ほど「干鰯」について書きましたが、江戸時代、漁民は鰯などを求めて西宮浜だけでなく遠くにも出漁しました。なんせこの地の漁民は、名次神社以来の伝統があり腕に覚えあり。その腕で、他漁場で定着することもあったのです。そうした摂津出身の漁民が、漁の神であるえびすさんへの信仰を、ルーツの地を離れても持ち続けてこのように神楽を奉納した、ということも考えられます。
 いろんなことが考えられるのです。でも、解説がどこにもないからよくわかんない(汗)。

 石造物その他にみんな説明板をつけろ、などとは申しませんよ。そんなことしたら景観が悪くなります。重要文化財の大練塀と、市指定文化財の常夜燈型道標だけで十分です。でも、どこかに金石表みたいなものがあってもいい。ワープロ一枚のものを「えびす資料館」に置いてくれるだけでいいんだけどなぁ。贅沢でしょうか? しかしえびす神社は古来より西宮文化の中心的存在で、歴代宮司は史家としても高名、僕も吉井良尚氏や吉井良隆氏の書かれたもので勉強させていただきました。なのでねぇ。 
 もちろん、ちゃんと説明してくださっているのもありますよ。

 神池えびす境内神池

 境内の憩いの場、神池。綺麗になりましたね。

 神池寄進3寄進碑

 この石碑は、元禄9年に池の石垣が寄進されたことを記念して彫られた石碑であることがちゃんと説明されています。なるほど。願主は千足氏で、西宮の名家ですね。
 確かに、あまり細かなことは必要ありません。神池の中に建つ石灯籠はいかにも古そうで、いったいいつ建てられたものなのかなんて、僕は個人的には非常に興味がありますが(笑)、そんなところまでフォローしなくてもいい。
 でも、学問文化の項で書きましたが、中庭松林にある天保の芭蕉・鬼貫の真蹟石碑。これなんか解説があってもいいんですが、ただ置いてあるだけです。もったいないと思うんですよ。

 なんやこれはこれは何?

 これはいったいなんだ? 見ただけではさっぱりわからん(笑)。
 飯田寿作氏の「酒都遊観記」を読みますと、これは隣にある青銅灯籠の顕彰碑であるらしい。「ともし火をかゝくるからにさゝ竹のさやに恵の露も見ゆらん」と千種有功の和歌が刻まれているとか。読めない(汗)。正三位源有功という名は何とか読めますのでそうじゃないかと。飯田氏によれば、有功はなかなか筆を採らないので有名だったのですが、酒を送ると喜んですぐさま書いたとか(笑)。
 この「酒都遊観記」記載の話は、吉井良秀氏の「老の思ひ出(昭和3年)」が出典です。つまりもともとはえびす神社発信の話なんです。しかし、この古い書籍はそう気軽に手に取れるものでもありません。そういう「酒で釣った」みたいな面白い話は、西宮史学の総本山であるえびす神社がやはり今の時代にそって発信してくれないと。惜しいじゃないですか。

 と、西宮えびす神社の話ばかりになりましたが、この項では今まで取り上げてこなかった(うまくまとめられなかったとも言う)、西宮の江戸時代の歴史的遺物などをまとめて書いてみたいと思います

 これは、西福町にある義民四郎右衛門碑です。

 西福寺義民碑義民四郎右衛門碑
 
 四郎右衛門という人物の事跡はよくわかりませんが、庄屋さんだったようです。諸説あるのですが、「西宮ふるさと民話」には、水利権争いのことが書かれています。四郎右衛門の居た芝村は百間樋の井子村のひとつでありしかも下流。様々な問題が生じていたのかもしれません。
 旱魃時の用水の不利、また御手洗川氾濫による水害など、芝村はかなり厳しい状況が続いていたと考えられます。しかも自治権侵害があった模様で、四郎右衛門さんは、領主への直訴を考えます。
 ふるさと民話には「青山の殿様」と書かれていますので青山氏支配(分家旗本の幸正系)の時代と考えられます。
 直訴、というものは手続き無視の行為であり、御法度です。しかし殿様の駕籠に訴状を掲げて「お願いでございます」と走り寄ったところで、直ぐに斬捨てられるというようなものではないはずですが、四郎右衛門さんの場合、差し出した両腕を斬られ最後は口に訴状をくわえて差し出した、という悲惨な状況が語られています。
 四郎右衛門さんの命と引換えの訴えに、状況は好転したと伝えられます。
 その旧芝村の象徴的存在である西福寺。重厚かつ荘厳。初めて僕はこの寺の前を通りかかったとき、その威容に驚きました。開基は天正年間、現在の本堂は明治の建立です。

 西福寺西福寺

 このあたり、震災では相当な被害をうけました。西福寺も本堂は何とか倒壊を免れたものの、外塀や庫裡は全壊だったようです。
 
 街の真ん中にある海清寺。市役所の向かいですから誰もが知っています。大きなクスノキで有名です。その海清寺の山門です。

 海清寺山門海清寺山門

 文化財指定のある建築物は、市内にはそう多くありません。国指定重要文化財としてえびすさんの表大門と大練塀。県指定として大市八幡神社本殿と、これままだ採り上げていませんが辰馬喜十郎邸。市指定として、公智神社神輿殿、今津灯台、神呪寺仁王門と、この海清寺山門です。
 建立されたのは享保二年(1717)です。海清寺も、震災でかなりの被害を受けました。残ったのは、この丹塗りの「赤門」と呼ばれる山門だけと言っていい状況だったそうです。

 市指定文化財のもうひとつの山門である、神呪寺仁王門です。神呪寺の項ではとりあげていませんでした。これも、江戸時代のものです。

 神呪寺山門神呪寺仁王門

 文化元年(1804)の建立です。

 歴史に篤いといえば、何と言っても旧甲東村です。これは、段上墓地です。ここでは、古来よりの呼び名である「貝之介墓地」として説明板が建てられています。

 貝の介墓地貝の介墓地
  
 このように、墓地にもその由来や伝説、歴史的事象などを説明してくれています。有難いですね。えびす神社や満池谷墓地も甲東地区にあったらよかったのに(笑)。

 極楽橋 例えばこれは「極楽橋」の解説ですけれどもね。百間樋川にかかっている小さな橋です。樋之口ではお盆の仏さまの送り迎えをここまで来て行ったそうらしい。送り火も焚いたのでしょうか。しかしこうなると歴史なのか民俗学なのか何だか僕もよくわかりません。
 このように、甲東地区ではあらゆるものを解説してくれています。このサイトでは何度も申し上げていますが、甲東地区、偉い。

 その全てを取り上げるわけにもいきませんが(多すぎるので)、今まで言及してこなかったものから少しだけ見てみます。

 門戸庚申塚門戸庚申塚

 門戸の庚申塔です。やくじんさん筋の、門戸厄神参道より少し南の、ちょっと西側に奥まったところにあります。庚申信仰については京都生まれの僕も八坂の庚申塔などでおなじみなんですけれども、ここらへんでも庶民に根付いていたようですね。この庚申塔ですごいのは、建立年が刻まれていることです。それがなんと「元禄」。しかも、実に美しく残っています。神社の石造物なんかではこの時代ですとかなり風化が進んでいて読みにくいものが多いのですが、これには墨が入っているとはいえ、最近出来たもののように鮮やかです。やはり祠に入っていて風雨から守られてきたせいでしょうか。
 甲東地区には、庚申塚がいくつもあります。これは、神呪町のもの。

 神呪庚申塚神呪庚申塚

 江戸時代初期のものと推定されているようですね。
 甲東地区では、お地蔵さんも時代考証がなされています。

 地蔵上大市地蔵

 これは、上大市二丁目の住宅の玄関先にあるものですが、説明板があり、江戸時代前期のものと推定されています。「上大市辻の地蔵」と呼ばれています。
 お地蔵さんはもうどこにでもあり、夏にはそれぞれの地区で地蔵盆がとり行われています。風物詩ですね。市内には、結構古いお地蔵さんもあるのかしらん。みんな時代考証すればいいのに(笑)。
 地蔵といえば、これをとりあげておかないと怒られるかもしれません。腹切地蔵です。

 腹切地蔵腹切地蔵

 中のお地蔵さんのお腹が割れています。そのため、腹に関する病はこのお地蔵さんに祈ると治る、と言われます。一種の「身代わり地蔵尊」ですね。信仰が集まっているようです。おそらく江戸時代のものだとは思いますけれども。
※追記:腹切地蔵脇に、地蔵型道標があります。(→参照)

 旧甲東村というところは、歩いても歩いても何かしらにぶつかりますね。

 さて、甲東地区はこのくらいにして、鳴尾へ。
 鳴尾の一本松の碑も、江戸時代のものです。まずは説明板から。

 鳴尾一本松説明

 ここには、大僧正慈鎮の「我が身こそ鳴尾に立てる一の松 よしもあしきも亦たぐいなし」の歌がでっかく示されてますけど、大国ノ隆政の「四方に名も高く鳴尾の一の松 雲の上まで生いのぼりけり」の方がいいと思うんですけれどもね。いや、大国ノ隆政という方は存じ上げませんが(汗)。いずれも「捨玉集」なので鎌倉時代の歌だと思われます。
 そも、鳴尾の一本松というのは何か、ということなんですけど、こうして歌にも詠まれるくらいの雲つく大きな松が鳴尾にそびえていた、ということです。「朝日には須磨や一ノ谷に影を映し夕陽には天王山に影を落とした」と謳われた松。それだと多分スカイツリーより高いな(笑)。平安時代からもう知られていまして、「霞の松」と称されました。
 それを称えて、弘化2年に「鳴尾孤松銘」碑が建立されたのです。

 鳴尾一本松碑文鳴尾一本松碑文

 ちょっと汚れてるな(汗)。
 裏面には催主として、高須、濱、辰馬の名が刻まれています。鳴尾の名家ですね。
 で、この碑文なんですけれども、漢文で難しいんですが、その中にこういう文言があります。「凡三繼植以到千今云」と。つまりこの弘化2年の段階で3回植え継がれていたということなんです。3代目の松。縄文杉じゃないんですから遠く奈良平安からずっと生き続けて、なんてことはさすがにないわけで。
 初代の松は、その平安鎌倉の頃に歌に詠まれた松であると思われます。高かったのでしょうね。当時はビルもなく、行き交う船の格好の目印となったでしょう。また万治の戸崎切れなんかの前ですから、海岸線も近かったことが予想されます。しかし、その初代松はどこにあったのかはわかりませんね。鳴尾であったのは間違いないのでしょうけれども。
 2代目の松は、何と旧株が昭和初めまで残っていたそうです。自然石で囲われ、おそらく神域とされていたのでしょう。場所は西畑と言いますから、甲子園の三井住友銀行の裏あたりですね。もちろん今は、ありません。でもすごいですね。少なくとも120年以上は古株が守られていたということです。
 そして、鳴尾孤松銘碑で顕彰されている3代目の松ですが、もう弘化二年には名にし負う鳴尾の一本松の貫禄があったのでしょうか。そこが、この一本松の話でちょっと腑に落ちないところなんですけれどもね。
 というのは、「摂津名所図会」が、一本松について「今さだかならず、古歌の詠ず」と記しているのです。摂津名所図会は寛政8〜10年の発行ですから1796〜98年。このときは鳴尾に松は無かったんです。2代目の松が枯れたところだったのかしらん。(2代目一本松の古株は120年以上前〜と前述したのは、2代目の松が枯れた時期をそうして推定したからです)
 さて、3代目。弘化2年は1845年ですから、松が無かった1796〜98年から半世紀も経ちません。なのにそんなに「一本松」と謳われる立派な松が…とちょっと疑問。
 思うに「鳴尾の一本松」というのは認定制じゃないのですね。この松は大きいから2代目と呼ぼう、みたいなことじゃない。ならば生えている場所でしょうか。と思えば2代目は西畑(甲子園七番町)で3代目は里中町。場所でもない。今の時代じゃなくて鳴尾が海岸だった時代は、孤立している松なんてたくさんあったでしょうに。何をもって「一本松」なのだろうな。接木でもしたのかな。
 3代目の松って、何と昭和19年(1927)まであったそうです。写真も残っていて鳴尾村誌に載っています。その写真を見ますと、確かに大きな松ですがびっくりするほどではないかな。孤松というわけではありませんが、鳴尾八幡神社の松の方が高かったのではないでしょうか。あそこには相当に高くそびえる松があります。神社でお話を伺いましたら、その松は室町時代には既にあったと。5〜600年経ってます。そのような松と比べれば…。
 ただ、3代目の松が独立弧松であるのは確かで(それが重要)、以後もっと大きくなる可能性はありました。ですが、9月17日の高潮による塩害で枯れたそうです。戦前、こんなところまで波が来たのか、津波みたいだなと驚きですが。ともかくも「霞の松」未満で3代目は惜しくも枯れたわけです。
 4代目が同じところに植えられたそうなのですが、根付かなかったようで。そして、5代目が今、霞の松となるべく育っています。

  一本松五代目鳴尾一本松

 3代目の松も、このように「名にし負う一本松を植え育てよう」と植樹されたのかもしれません。この5代目も、まだまだマンションに隠れるくらいですが、あと200年もすれば…。
 
 さて、最後に神社の百度石をひとつ紹介。
 西宮の神社に百度石はたいていありますね。もちろんこれはお百度参りをされる方の目標となるのですが、西宮には「千度石」「萬度石」までありますね(汗)。スパルタ的だなと思いました。ちなみに「千」は松原神社、「万」は津門神社で見かけました。
 それはともかく。

 髪結保次郎山の上の百度石

 この百度石の寄進者が、なんとも江戸時代っぽいなと。その名も「髪結保次郎」。なんだかまるで時代劇の登場人物のようですね。
 もちろん髪結いという仕事はザンギリ頭となった明治以降もあったわけで、これが江戸時代のものか、と言われれば難しいかもしれませんよ。しかし、雰囲気はありますね〜。山口の丸山稲荷のものです。

 
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