前回より、西宮における太平洋戦争の跡を訪ね歩いていますが、西宮で最も大規模な戦争遺跡は「甲陽園地下壕跡」と「鳴尾飛行場跡」ではないのか、と書きました。甲陽園地下壕は前回ふれましたので、今回は鳴尾飛行場跡を訪ねてみたいと思います。
 西宮に飛行場があった。これはちょっとびっくりする話です。ですが、戦争が激化した末期、わずかな期間だけ軍用飛行場が存在しました。場所は、当時はまだ西宮市と合併する前の鳴尾村。細かくは、北はだいたい臨港線、東西は甲子園筋から鳴尾川の間です。甲子園九番町、古川町、枝川町あたり。武庫川女子大や附属、東高校、浜甲子園小中学校や浜甲子園団地のある一帯です。 

 その飛行場の跡をたどろうと思うのですがその前に、関連してちょっと言及しておきたい施設があります。それは、「浜甲子園阪神パーク」です。
 かつて西宮には阪神パークという遊園地が甲子園球場の東隣りにありましたが、時代の流れで数年前に閉鎖されました。現在は「ららぽーと甲子園」となっていますが、浜甲子園阪神パークとは、その阪神パークの前身です。
 阪神電鉄は、枝川の廃川によってこの地域の開発を大正末期から行います。前述した甲子園球場開設、住宅地開発の他に、電車路線である阪神甲子園線、運動場やテニス場などのスポーツ施設のほか、海岸沿いに娯楽施設を建設します。
 昭和3年に昭和天皇の即位式があり、同時期に「御大典記念国産振興阪神大博覧会」が旧枝川河川敷で開催されました。甲子園球場の東側に正門を設け、浜までの間に展示館、物産館、演芸場、大汐湯(昔のスーパー銭湯みたいなもんかな)などが出来ます。
 この博覧会を引き継ぐ形で、海岸寄りに昭和4年7月「甲子園娯楽場」が誕生します。レジャー施設として多くの人を集めました。阪神ナウ甲子園の開発というページに、甲子園娯楽場が載っています。
 この甲子園娯楽場が昭和7年に名称を「浜甲子園阪神パーク」と改め、動物園と遊園地施設を増やします。
 動物園の売りは「生態展示」でした。現在北海道の旭山動物園が生態展示で有名ですが、その元祖と言えるかもしれません。サルは大きな池の中に島を作って放し飼い(お猿島)、ヤギは岩山を作って斜面を登らせる(山羊の峰)など、自然の状態に近い形で提供しました。こういうのが戦前にあった、ということは驚きです。
 遊園地にはメリーゴーランド、飛行塔、ミニ汽車などが設置されました。これで人気が出ないわけがありません。
 昭和10年には、ここに水族館が開設されます。日本一の水槽を擁し、水槽を下から見上げるという工夫も既にされていました。さらに翌年にはゴンドウクジラを運び飼育するという世界初の試みもなされました(→画像)。

 浜阪神パーク地図昭和13年頃の浜甲子園阪神パーク絵図

 この絵図は、甲子園浜自然環境センターにあったものを許可を得て撮影させていただきました(以下の地図や写真の画像も同様)。クリックして拡大していただければ、演芸館や風呂、遊戯施設、猿島やアシカの海などの生態展示、鯨の池と水族館などが示されています。
 戦前にこれほど充実した遊園地はなかなか無かったでしょう。相当に賑わったということです。

 戦前地図昭和12年(1937)地図

 当時の地図です。
 地図の左上部に甲子園球場が見えます。その横の路面電車が走る道が、枝川を廃して出来た甲子園筋。そして、地図中央には大きく阪神競馬場(鳴尾競馬場)があります。甲子園球場ができる前は、この競馬場の中に野球場を二面作って全国中等野球大会を開催していたことは既に述べました。
 その競馬場と甲子園筋の間にあるのが甲子園南運動場。ここでは陸上競技や球技などが行われ、2万人の観客が収容できました。ここで”暁の超特急”吉岡隆徳が走り、全国中等学校蹴球大会が開催されました。サッカーとラグビー両方です。つまり現在のサッカーにおける国立競技場、ラグビーにおける花園ラグビー場を兼ねた場所であったということになります。もしもこのまま推移すれば、甲子園球場含めこの場所は野球・サッカー・ラグビーと、高校スポーツの大聖地であったかもしれません。
 そして、海側に浜甲子園阪神パークがあります。
 競馬場の南には、広く埋立地が出来ています。鳴尾沖の埋立ては、昭和4年に認可されて始まりました。工業用地確保のためです。阪神築港株式会社(後の東洋建設)によって、第一工区(現在の鳴尾浜方面)と第二工区(鳴尾川〜旧枝川間)が計画されました。第一工区は結局完成しませんでしたが、第二工区は昭和8年に施行。11年末に45200坪が完成しました。地図上に四角く見える埋立地がそれで、12年8月に鳴尾村字港町と命名されます。
 この範囲が、昭和18年に飛行場になってしまうのです。

 なぜここに飛行場が築かれることになったのでしょうか。
 その前に少し話がそれますが、鳴尾はそもそも飛行機とは縁が深い地でした。
 明治36年(1903)、ライト兄弟が世界で初めて飛びました。そして7年後の明治43年、日本も代々木錬兵場において実験飛行に成功します。
 その後しばらくは「飛行機が空に舞う」ということは、観客が呼べる催しとなります。入場料をとって空に舞い上がる飛行機を見せる「飛行大会」なるものが開催されました。明治44年3月に大阪の城東錬兵場でアメリカの飛行団による大会が催され、その一週間後には鳴尾でも飛行大会が開催されます。場所は、鳴尾競馬場でした。大正2年には帝国飛行協会が創立され、翌年には第1回民間飛行競技会が開催されました。これも、鳴尾競馬場においてです。その後も飛行大会は開催され、20万人を超す観客を集めた、と鳴尾村誌には書かれています。20万ってちょっと想像つかないや。こうして、鳴尾は飛行機の黎明期を語るに欠かせない地名となったのです。
 しかし、この鳴尾村と飛行機の明治以来の縁によってここに飛行場が造られたわけではありません。

 上記地図には、東側にゴルフ場があるのがわかります。ここは、明治41年に出来た鳴尾速歩競馬場の跡です。当時の大商社、鈴木商店が所有していましたが、昭和2年に金融恐慌が起こり鈴木商店が倒産。このゴルフ場は、一種の管理物件のようなかたちになります。その土地の一部に、昭和5年航空機製作会社の「川西航空機」が本社工場を移転してきました。
 この川西航空機は技術肌の会社で、のちに時節柄、軍用機開発も手がけることとなり、あの米軍を恐れさせた戦闘機「紫電改」を生み出すに至るのですが、この川西航空機が昭和13年に海軍管理工場となったことから、鳴尾村が大きく戦争に巻き込まれていくことになります。

 鳴尾川の東は現在の上田西町、中町、東町、そして高須一丁目二丁目です。

 武庫川団地武庫川団地

 ことに高須町は、現在は武庫川団地が大きく広がっていますが、ここは江戸末期に開拓され、明治末にゴルフ場が出来た他は田畑でした。ここに川西航空機がやってきます。それ以前には鈴木商店の製油部があり(のちに豊年製油となる)、工場もほつりぽつりと存在しましたがそれほどでもなく、昭和5年頃は川西航空機も大きな面積を占めていたわけではありませんでした。しかし戦況が深まると、どんどん戦闘機を作らねばならなくなり、豊年製油や昭和電極以外はほとんど川西航空機の敷地となり、従業員は徴用によって6万人を超えました。資材輸送のために軍は鉄道も敷設しました。当時の省線(現JR)西ノ宮駅から甲子園口駅を経由して武庫川の堤沿いに川西航空機工場まで直接線路を引き込みました。これについては別項でまた追いたいと思いますが、この路線が後に阪神武庫川線となりました。

 このあたりは当時は大変な賑わいだったわけですが、工場跡については、現在では全く遺物は残っていないと言っていいでしょう。上画像のように団地が大きく広がっています。唯一の名残は、阪神武庫川線でしょうか。
 話が前後してしまうのですが、この地に大きく広がっていた川西航空機は、戦後はもちろん進駐軍によって飛行機の製造を中止させられます。川西航空機はその後紆余曲折あって、新明和工業と名を改め、機械メーカーとして現在も存続しています。
 
 新明和工業新明和工業株式会社

 現在川西航空機の後身である新明和工業は鳴尾にはなく、本社を宝塚市に移しています。(→HP) ただし、この正面玄関の所在は西宮市田近野町です。ここはかつて尼崎だったところですが昭和44年に西宮市に合併されました。運命とは面白い。
 この川西航空機〜新明和工業の歩みは、城山三郎氏の小説「零からの栄光」に細密に描写されています。 その飛行機屋の情熱とロマンは感動を呼びますが、興味深い話も。川西航空機は戦後、飛行機を作れなくなり、本社屋も無くなり禅寺を借りたと書かれています。これ、海清寺のことのようです。そして、食っていくために鍋釜米櫃の製造や三輪自動車製造、また印刷製本出版や病院経営までやります。
 明和病院 その病院というのは、上鳴尾町にある明和病院のことです。そもそも、戦前に6万人の従業員を抱えた川西航空機の付属病院だったのですが、戦後独立します。新明和工業は本社屋が無かった頃、何と病棟の一部を本社に当てていた時代もあったようです。
 明和病院は僕も最寄の総合病院としてよく通っていまして、入院したこともあります。かつては、この病院はあの川西航空機と関係があったのか。そんなことは「零からの栄光」を読むまで全く知りませんでした(汗)。

 話が戦後までずれ込んでしまいました。閑話休題。
 川西航空機の主力は、そもそもは飛行艇でした。水上飛行機ですね。これは、飛行場を必要としません。しかし、戦局が深まるとどうしても戦闘機の需要があり、古くなった零戦に代わるべく川西航空機は「強風」「紫電」「紫電改」と開発製造していきます。「紫電改」は、海軍航空隊の救世主とまで言われ、米軍を恐れさせました。
 そのような陸式戦闘機を生産するためには、どうしても飛行場が必要になります。
 既に川西航空機は海軍管理下にあり、増産のために工場は拡張し現在の武庫川団地のかなりの部分が川西航空機の工場となっていました。飛行場を作る土地は上田・高須側にはなく、どうしても西側の阪神競馬場(鳴尾競馬場)を中心とした場所に設置せざるを得ませんでした。
 したがい、阪神競馬場、甲子園南運動場、阪神パークは昭和18年に全て閉じられ、接収されて整地され、突貫工事で飛行場が造られました。阪神パークは、このようにして消滅の憂き目に遭うのです。

 先に戦況の話をしますと、確かに紫電改は米軍機を次々と落とし戦果を上げ続けましたが、紫電改が登場した昭和19年には、もう既に太平洋戦争の行く末は見えていました。紫電改による起死回生は叶わなかったのです。昭和20年を迎え、3月19日に鳴尾村は初めて空襲を受け、それを含めて8回、襲われます。中でも6月9日、そして8月6日の空襲(阪神大空襲)は鳴尾村を壊滅させました。米軍も、紫電改をどこで製造しているのかは、よく知っていたのです。
 多くの犠牲を出して、8月15日に戦争は終わりました。

 では、その鳴尾飛行場跡をたどっていきたいと思います。
 武庫川女子大HPの「70年史こぼれ話」を見てください。「浜甲子園キャンパスの今昔」の写真気法■愀身行場の遠景が見えます。飛行場の全景が写る貴重な写真です。
 さらに、戦後すぐの航空写真が残っています。既に米軍に接収された後ですが、競馬場や阪神パークが壊され平らにされ、その跡地に飛行場が出来たことがよくわかります。

 解説付航空写真1948年9月撮影

 この航空写真は上記地図と少し向きが異なりますが、わかりやすい解説がついています。飛行場の滑走路は1200×100mが2本、X型に交差しています。飛行場はこのとき米軍占領下にあり、滑走路には米軍の施設が置かれていますが、様子はよくわかります。
 その飛行場の痕跡は、現在どこかに残っているのでしょうか。

 昔01現在1

 先ほどの地図と方角を同じにして、昔と現在を比べてみます。左が戦後すぐの写真。右が2004年9月の写真です。
 海岸線が違うのがすぐにわかっていただけると思います。
 前述したように、昭和11年末に旧枝川〜鳴尾川間に埋立地がつくられ海岸線は南へ延びています。戦後すぐの写真にはその埋立地があります。
 前回「戦時下の西宮」冒頭で、水害の話をしました。室戸台風の高潮被害。それを受けて鳴尾村は、昭和12年に防潮堤を竣工させます。したがって、この埋立地部分にも防潮堤は建設されていたはずです。
 しかし飛行場建設により、防潮堤は外されてしまいました。埋立部分には滑走路の先端が位置し、防潮堤が離発着の障害になるためです。したがい、高波は防ぐことができません。
 昭和19年に鳴尾の一本松が塩害で枯れるほどの高潮が鳴尾を再び襲いました。大変な被害でした。あの高潮被害は、つまり人災なのです。せっかく設置した防潮堤を外したことによって生じたのです。
 この飛行場は戦後米軍が接収しますが、高潮被害を恐れて防潮堤を新たに建設します。その防潮堤が左の写真にはっきりと映っていますね。それが、現在の海岸線になっているわけです。
 防潮堤の外にはみ出た埋立地の部分は、現在では既に失われています。これは人為的に破壊したというわけではなく、その後の自然災害(ジェーン台風など)で高波をかぶり土砂も流出し、沈下し水没してしまったと考えられます。 トリミング1 
 全くもってヘタな落書で申し訳ありませんが、赤線が戦後築かれた防潮堤で、すなわち現在の海岸線です。
 そして、その外側にあたる旧阪神パーク敷地部分、そして埋立地部分が、水没してしまったのです。黒線でその水没部分の枠組みを示しています。
 さらに、水没部分には滑走路の先端部分も含まれています。青線で示した部分です。

 鳴尾飛行場は、陸地部分には全くその痕跡を留めていません。
武庫川女子 わずかに管制塔代わりに使用された阪神競馬場貴賓館が武庫川女子の教棟として残っていますが(→阪神間モダニズム)、そもそも管制塔として建設されたものではなく、競馬場の遺物です。歴史的に交錯してはいますが、鳴尾飛行場の名残りととらえるわけにはいきません。
 なお、武庫川女子大浜甲子園キャンパスの校舎の並び方は、周りの道路と比べて軸が30度ほどずれています。これを、X型の滑走路の痕跡だとする見方もあるようですが、照らし合わせてみますとそれも違います。この軸のずれは、阪神競馬場が斜めに設置されていたことに起因し、かつての競馬場本館が校舎に再活用されたことで、その向きに他の校舎も合わせたのでしょう。したがってこれも飛行場の名残りとは言えません。

 しかし海中には、鳴尾飛行場の遺跡らしきものが実は残っているのです。

裏見1裏見2裏見3裏見4

 これは、埋立地甲子園浜側から北向きに海岸を見た画像です。小さくてわかんないか(拡大してください)。上図で示した黒線、つまり埋立地の枠部分が水面から突出しているのが見えます。埋立地の護岸跡は、まだ残っているのです。

 手前見1

 海岸側〜鳴尾浜公園あたりから見ています。護岸跡が二重に見えると思いますが、内側が旧阪神パーク跡、外側が埋立地護岸跡、つまり飛行場の外枠と考えられます。これは、干潮になるともっとはっきり現れます。では日を改めます。

 ある日の干潮の時間。東から見ていこうと思います。鳴尾川河口付近です。

 干潮1

 これはやはり、埋立地の護岸跡ですね。上図黒線のいちばん右側の線。鳴尾飛行場の外枠ラインどおりです。ではもう少し西へ移動しましょう。

 干潮2

 干潮には、鳴尾川河口より少し西側にこんな干潟が現れます。どうみても丸いですよね。沖側が円形。これはやはり、滑走路の先端部分だと推測できます。コンクリートの地が出ています。
 このあたりは、護岸枠や滑走路跡の干潟などのおかげで野鳥のサンクチュアリとなっており、生物保護区域となってます。一応、戦争の遺跡と考えられますが、なんだか今ではとても平和を感じます。鳥たちがたくさん居ます。
 もっと西に歩を進めますと、浜甲子園阪神パークの護岸枠がはっきりと浮き出ています。

 干潮3

 なだらかなカーブを描くので、すぐにそれとわかります。しっかりと残っていますね。
 この旧阪神パーク敷地部分にも、滑走路の先端が少しかかっているはずですが…。

 干潟4

 旧阪神パーク敷地部分は、例えば大潮の日であればここまであらわになる日もあります。
 真ん中に、コンクリートで広く平らに固めた部分がありますが、ここが滑走路の先端部分でしょう。円形ですし、位置的にもそう思えます。
 X型滑走路の先端部分は、両方とも残っていました。これらは、まず間違いない鳴尾飛行場の痕跡です。

 ところで、このあたりは阪神パークを突貫工事で均して、その上に滑走路を置いた部分です。いずれも波に洗われる現在となっては、どこまでが飛行場の遺跡でどこまでが阪神パークの名残りであるのかは、はっきりと判別出来ない状態と言えます。上画像にも四角い枠組などが残っているのが見てとれますが、それが飛行場の何かの基礎だったのか、動物の檻の枠だったのかははっきりとわからないのです。個人的には、惜しまれつつその姿を消した旧阪神パークの遺物と思いたいのですが、断言は出来ません。
 とにかくこの、かつて阪神パークが存在したあたりには、いろんな残骸がいっぱいありまして。

 阪神パーク遺物0

 檻の枠組にしては小さいかな。四角枠はいくつもあります。

 阪神パーク遺物4

 旧阪神パークの細密図とか、設計書でもあれば対比させてわかるのかもしれないのですけれどもね。

 阪神パーク遺物1

 こういうの、遊戯具の飛行塔の基礎だったのなら面白いのですがね。しかし僕が見てもさっぱり判別がつきません。明らかに人工建造物である、と言えるだけです。

 阪神パーク遺物2

 こんなに大きなものも残されているのです。キングコングのはしごくらいの大きさ。見る人が見れば何の痕跡かわかるのでしょうが。どなたか鑑定の出来る方はいらっしゃらないでしょうか。
 ※追記:鑑定出来る方いらっしゃいました!コメント欄参照。
 しかし誰が見ても、これは旧阪神パークのものだと断言できるものがあります。それはこいつです

 ライオン

 知る人ぞ知る…存在なのかどうなのか。市内の人は先刻ご承知かもしれません。僕は甲子園浜自然環境センターでこれに類した資料を見るまで全く知りませんでした。普段は海の下です。大潮の日を狙えば、潮の引くわずかな時間、このように姿を現します。
 手前にある藻が生えている緑色の石塊。これだけでわかる人はわかりますね。では、付着している藻をこそげ貝やフジツボを剥ぎ取り掃除します。さすれば…。

 ライオン01

 おわかりいただけますでしょうか。ライオンです。

 ライオン03

 これは絶対に阪神パークの名残です。間違いありません。飛行場にこんなのあるものか。
 このライオン像は、園内にあった噴水の装飾の一部であったとも言われています。公園内の設備は全て取り壊したはずでしたが、突貫工事でもあり、ならした地面の下に残ってしまったのでしょう。それが波に洗われて徐々に姿を浮かび上がらせ、新月に近い潮がよく引く日にだけ数時間、その百獣の王としての顔をあらわすようになった。こういうのに僕などは、何ともロマンティシズムを感じてしまったりするのです。

 ※地図は拡大して航空写真に切り替えたほうが面白いと思います。
 
より大きな地図で 旧阪神パークそして鳴尾飛行場 を表示