阪神武庫川線には、蒸気機関車が走っていた。
 この話を僕がはじめて知ったのは、西宮に越してきてもう6、7年が過ぎた頃だったと思います。酒の席でした。その時は「へぇ阪神電車が阪神汽車やったことがあるんや」なんて阿呆なことを考えてしまいましたが、よく考えればそんな訳はありません。これは、戦時の国策によるものでした。そのことは、鳴尾飛行場の項でも少し言及しました。
 多少の繰り返しになりますが、昭和初年より、現在武庫川団地が広がる高須町のあたりに、川西航空機という飛行機メーカーが存在しました。この川西航空機が戦争の深化により軍需工場化し、規模を大幅に拡大して戦闘機の大量生産を始めます。ゆえに鳴尾村(当時)の高須町へ、大量の従業員および物資の輸送の必要性が生じました。
 そのため、既に武庫川駅を開業させていた阪神電鉄は、軍の要請により武庫川駅〜高須町への路線建設を開始します。突貫工事を必要とされたため、阪神は一般社員から勤労奉仕の学生達をも動員しました。着工が昭和18年の夏、その年の11月には、武庫川駅〜洲先駅(現在の武庫川団地前駅に相当する)間を開業させました。驚くべき早さです。この路線が、ほぼ現在の武庫川線の原型です。
 さらに、当時は阪神電鉄が現在の国道2号線上で路面電車を走らせていました。阪神国道線です。それに接続させるため、武庫川線をさらに北上させ、国道線武庫大橋駅と接続させました。武庫大橋駅〜武庫川駅の開業は昭和19年8月。一年余りで阪神は武庫川沿いに国道2号線から洲先まで路線を敷設したのです。相当な急工事であり、武庫川の堤防で古くから愛でられていた松並木はかなり切り倒されたということです。
 さらに、です。旅客専門の阪神電鉄では物資の輸送が困難です。そのため、同時期にJR線(当時は鉄道省線)との接続路線敷設の工事も進められていました。この路線は省線西ノ宮駅から東に延び、甲子園口駅を経由して武庫川堤防に沿って南下、阪神武庫川線と接続しました。昭和19年11月のことです。
 これにより、西宮駅〜甲子園口駅〜武庫大橋駅〜武庫川駅〜洲先駅という路線が誕生しました。これを便宜的に「旧武庫川線」と呼びます。もちろん、武庫川駅〜洲先駅(現・武庫川団地前駅)だけが現役で、あとは全て廃線となっています。

 この旧武庫川線の特徴は、何といっても三線軌条です。
 簡単に言ってしまえば、阪神電鉄と省線(JR)では、線路の幅が違うのです。阪神の方が広く、省線の方が狭い。その軌間の異なる鉄道車両を同一区間で運転させるため、三本のレールを敷きました。これにより、阪神の車両と省線の車両が同じ路線をゆくことが可能になりました。
 当時、省線が貨物輸送に使っていたのは、蒸気機関車です。なので、武庫川線をSLが走ることとなったのです。
 こちらの画像を見ていただきたいと。→「語り部ノートにしのみや」より
 これは、武庫川線を電車と汽車が同時に走っているところを撮影した貴重な写真です。こんなことがありえるのですね。時代の要請で強引にこのようなことになってしまった訳ですが、今見れば実に興味深い。
 なお、この三線軌条は武庫大橋駅〜武庫川駅〜洲先駅間に敷設されました。西宮駅〜甲子園口駅〜武庫大橋駅の部分は、貨物のみの取り扱いで旅客列車は走りませんでした。

 旧武庫川線の寿命は、短いものでした。この短さは注釈付きになりますが。
 まず、昭和20年6月9日に鳴尾村を襲った大空襲により被災。そして、戦後直ぐに運行休止となります。戦争によるダメージはもちろんのこと、終戦により軍需産業が必要ではなくなったことがあります。川西航空機の流転については以前書きました。
 その後鳴尾村の海岸側は進駐軍が駐屯し、そのため物資輸送が必要とされ、旧武庫川線は一時的に運行を再開させます(貨物のみ)。しかし貨物需要は徐々に減り、進駐軍も引き上げると運行もなくなり、昭和33年に貨物線は休止となりました。事実上の廃止ですね。
 ところが、そのまま路線は残り、正式に廃止となったのは昭和45年のことでした。形だけでも、戦後25年間は西宮〜甲子園口〜武庫大橋〜武庫川間の貨物線(汽車区間)は命脈を保っていたこととなります。
 電車区間は、戦後は昭和23年に武庫川駅〜洲先駅間が旅客営業を再開しましたが、武庫大橋駅〜武庫川駅間は旅客営業を復活させることがなりませんでした。ただ、こちらも長らく休止状態が続き、正式に廃止となったのは何と昭和60年のことでした。既に昭和50年に接続駅の武庫大橋駅を擁する阪神国道線が廃止になっているのにもかかわらず、です。
 つまり、実働は約一年間であったにもかかわらず、貨物線は戦後25年、電車区間は40年も生き残っていたという珍しい路線です。なので、注釈付きなのです。
 ということで、この路線は「休線時代」が長い。事実上は廃線であるのに線路などが残されたままになっている時代が長きにわたり、実質稼動期間と比べて遺物が多く人々の記憶に残る結果となったのです。
 では、西宮駅からその痕跡を探してゆきたいと思います。
 
 もっとも、西宮駅にはその痕跡は全く残っていません。が、雰囲気を見つけるとすれば、駅1番線の南側に待避線があり、それが旧武庫川線の名残に見えないことはありません。
 
 合流神祇官町あたり

 その待避線が、ちょうど今津西線をまたぐあたりで吸収されていきます。この線路が合流せずまっすぐ西へ向かっていたら…と想像して廃線跡ファンはニンマリとするわけです(笑)。
 次に東海道線は津門川を渡ります。

 橋1津門川橋梁

 鉄橋の一番手前、赤茶けた塗料が塗られた部分には、上に線路がありません。東海道線はこの橋の向うを走っています。おお、これは旧武庫川線の遺構ではないのですか!

 橋3

 と、一瞬喜んだりするのですがね(笑)。これが落とし穴なんです。津門川は、百間樋のときに書きましたように戦後つくられた人造川です。正確には昭和29年。旧武庫川線が敷かれたときには、まだこの津門川は、ありません。
 じゃこれは何、という話ですけれども。
 以前は、西宮駅でも貨物取扱いを行っていまして、この鉄橋の東側にあるアサヒビール西宮工場、そして住友セメントへの専用輸送線が敷かれていました。この鉄橋は、その名残りです。
 昭和61年に貨物線が廃止されましたので、この鉄橋も鉄道遺跡としては長いわけですが、旧武庫川線開通時のものとは違い、津門川が新しく開削されたときに架けられたものに相違ありません。
 しかし、この新・津門川の西側には、旧・津門川がまだ流れています。この旧津門川はもちろん戦前から存在します。ここには、何かあるはずだ。では、のぞいてみます。

 旧橋1旧津門川橋梁

 やはり手前に、赤茶色の使われていない鉄橋があります。これは、旧武庫川線のルートに間違いはないでしょう。
 ただし、この鉄橋が武庫川線開通の昭和19年に架けられたものか、と言われればそれは難しいのですが。
 アサヒビールへの貨物輸送線はいつからあったのか。戦前の地図には、その貨物線が確認出来るものがあります。(戦前はアサヒビールではなく日本麦酒鉱泉→大日本麦酒ですが)
 これをもって云々は出来ませんけれども、貨物輸送線が旧武庫川線に活用されたのか、あるいはその逆か、ということははっきりとはわかりません。したがって、この橋が戦前からの貨物線時代のものか、旧武庫川線として架けられたのか、それとも戦後新しく架け替えられたのかは判断できないのです。

 旧橋3

 橋にはプレートがあるんですけど、潰れていて年月日までは見えない。新津門川の鉄橋とは形状が違うので、旧武庫川線に活用されたものだと思いたいですけれどもね。
 こうして見ますと、橋脚の部分に相違は確認できます。本線の部分はレンガ積みですね。このレンガ積みが明治7年のものだったらすごいのですが、それもよくわかりません。
 いずれにせよ、旧武庫川線のルートが現在もここに残されていることには間違いありません。
 
 さらに東進して中津浜線の東側です。工場地帯を過ぎましたので、ここより東にあるものはアサヒビール等の貨物輸送線ではなく、すべて旧武庫川線の痕跡となります。
 小公園があり、そこにこのようなものがあります。 

 給水給水塔跡

 これは、蒸気機関車の給水塔がモニュメントとして残されたものです。公園名は何とSL公園です。もちろんSLがあるわけではなく、ここをSLが走っていたことから名付けられています。
 
 説明

 モニュメントには説明プレートが付けられています。ありし日の給水塔の姿が見えます。
 この給水塔は、昭和19年の戦争末期に蒸気機関車の給水塔として軍需輸送のために阪神電鉄により武庫川線として敷設され、当時の省線(JR線の旧称)との間で相互乗り入れが行われていた。(左、写真)
 この路線は、その後、工場資材などの輸送を行ってきましたが、昭和30年代までにその役目を終え廃止されました。
 以上、説明がなされています。東海道線は既に電化されていましたが、旧武庫川線の貨物路線部分は汽車によっていたわけで、給水塔が必要とされたのでしょう。

 これより東、路線の南側にはこのように立派な石積みの築堤が続きます。

 堤1築堤1

 築堤は、東海道本線よりかなり南側にふくらんで造られています。これは、もう一本路線がそこに存在したからと考えられます。この石積みは旧武庫川線の痕跡と思われます。
 突貫工事であったはずの旧武庫川線建設において、こんなにしっかりとした石積みで築かれたのかということは驚きですが、確かにこの部分は後から作られています。それは、この築堤の途中にある甲子園口マンボウを覗けばわかります。

 内部甲子園マンボウ

 甲子園口マンボウは、南から入ればこのように天井が円形をしておらず、四角です。この四角の部分が、後から継ぎ足された部分です。旧来は、奥に見える円形の部分までが築堤でした。
 同様の形状は、甲子園口駅の東側にある新堀川沿いの道路の部分でも見られます。そちらも、のぞいてみます。

 口2甲子園口トンネル

 「新西宮歴史散歩(郷土資料館)」には「甲子園口の東側にあるトンネルは、南側の数メートルだけが断面が異なり、天井が箱型からアーチ型に変わっている。箱型が廃線跡部分」と言及されています。旧武庫川線の痕跡としては、マンボウよりこちらの方が有名でしょう。
 もうひとつ。

 口3

 これも同じです。奥に見える円形型の天井の部分が旧来のトンネルであり、手前の四角い天井の部分が旧武庫川線敷設の時に継ぎ足された部分です。
 このトンネルの形状差は、確かに廃線の痕跡を浮かび上がらせる結果となっています。
 口7
 北側からトンネルを見ますと、南側と明らかに違うのがわかります。美しいアーチ型の仕上がりです。表面のレンガ積み模様は後年付けられたものだと思われますが、実際もレンガ積みで築造されており、内部壁には塗装が剥れてレンガが浮き出している部分も見られます。
 この形状差については、旧武庫川線の急な工事に原因があり、もう少し計画的な工事であれば、継ぎ足し部分もそれと分からぬよう丁寧にレンガで円形アーチ型に造ったのではないか、との見方もあります。
  その見方には首肯できる部分もあります。少なくとも、甲子園口マンボウの形状差についてはそうだと思います。この新堀川のトンネルも、そういう見方も出来るとは思いますが、全体像を見ますともうひとつ理由があるようにも思えます。

 口6

 南側から見たトンネル部分ですが、前の廃線跡部分の上部と、後ろを走る東海道線の盛土部分との高さに差異があるのがわかります。北側から見たトンネル(上の画像)と比べてもわかりますが、廃線跡部分は明らかに屋根(?)が低い。
 この部分は、最初は実は橋梁だったのではないのでしょうか。
 土木工学については素人でよくわかりませんが、甲子園口駅はそもそも高所に建造されています。これは、蒸気機関車は急な傾斜に弱く、武庫川の堤防を上るために徐々に築堤を高く上げてゆかざるを得ないわけで、その途中に駅が建造されたため高架駅となったと考えられます。SLであればこんな上り坂(神戸側から見て)の途中に駅を設けるなどということは考えられなかったのですが、昭和9年の東海道線電化によって停車が可能になり、駅が造られたわけです。
 東海道線は、武庫川の堤防を越えるためさらに高度を上げ続けますが、旧武庫川線は武庫川手前で南折するため高度は必要なく、駅を越えれば徐々に降下すればいいことになります。
 駅の東ですぐに交差する新堀川と道路については、トンネルを造らねばならないほどの築堤は必要なく、切り通して上に橋をかけた方が適います。なので、当初はこの部分は橋梁(あるいはそれに近いもの)だったのではないでしょうか。ここの天井部分が四角い(平ら)なのは、そこに原因を見つけたいようにも思います。

 堤2築堤2

 そのトンネル(鉄橋?)の東側には、石積みの築堤が延びています。この石積み、まだかなり高くなっていますが、駅と新堀川&道路さえ越えてしまえば、旧武庫川線部分は徐々に高度を下げていきます。遠近感でわかりにくいのですが下がっています。その先で、少し築堤が右側(南)にカーブしているのがおわかりいただけると思います。あそこで、線路は南に折れていきました。正面マンションは、その路線跡に建っています。

 線9

 逆側(東側)の武庫川堤防から見た状況です。正面の緑の部分(若木が二列に植えられている)が、旧武庫川線の跡です。ここから左(南)へカーブします。繰り返しますが、左側のマンションが路線跡です。
 東海道線との高度差は、この時点でかなり大きくなっているのがわかります。
 
 線11築堤3

 旧武庫川線は南へ大きくカーブし、武庫川に沿って南下します。この部分の廃線跡を見つけるのはかなり困難と思われます。ここに見える石垣は新しく、旧武庫川線とは関係ないようです。
 おそらくは、それほど高い位置に路線は敷かれなかったものと推測できます。石垣奥には遊歩道のようなものもありますが、それを廃線の道床跡とは断定できません。このあたりだった、という感じです。

 樋門

 枝川樋門前ですが、ここも線路がどこにあったのかは特定できません。正面に見える橋は路線跡に合致するようですが、これも推測です。
 
 線12痕跡1

 鳴尾浄水場、旧甲子園ホテルの裏側あたりです。用水の右(西側)あたりが、なんとなく廃線跡の位置です。

 線13痕跡2

 振り返って、国道2号線から見ます。右側(東側)にある空き地が、廃線跡です。ちなみに、画像左上に旧甲子園ホテルの双塔が見えています。
 旧武庫川線は、このあと国道2号線の下をトンネルで抜けます。そして2号線の南側に「武庫大橋駅」があったはずでした。

 駅跡武庫大橋駅跡

 しかし現在は、影も形もありません。かつては画像正面あたりにトンネルがあり、この道路がおそらくは路線跡でした。ここから旅客取り扱いとなるため、汽車・電車併用路線の三線軌条が始まった地点でした。しかし、駅跡を探すどころではありません。比較的近年までここは空き地で、ある程度は想像の翼を広げることが出来たのですが。
 武庫大橋駅周辺はこうして住宅分譲されてしまいましたが、これより南は、路線跡も見事に住宅地として分譲されています。路線跡に一軒づつ住宅が並ぶ様は、新しい廃線跡探訪の可能性を見るようです。

 線17痕跡3

 用水路沿いに見ますと、住宅の裏側になります。ずらりと並んだ分譲住宅は、全て廃線跡に建っています。
 ちょっと振り返って北向きに。

 線29痕跡4

 廃線跡に住宅が連なっている様子がよくわかると思います。グーグルマップなど航空写真で見ればもっとよくわかりますよ。
 なお、このあたりに「小松駅」という停留所があった、という話を聞いたことがあるのですが、資料で確認がとれません。どなたかご存知の方はいらっしゃらないでしょうか?

 その分譲住宅の行列を過ぎると廃線跡は駐車場になり、ここは比較的容易にかつての姿を彷彿とさせてくれる場所です。

 線3痕跡5

 ただし、この画像は2010年のものです。これは旧国道からの撮影ですが、先日通りかかったらどうもここにも住宅が建つようです。これは時代の流れですが、出来れば廃線跡だとわかるような分譲の仕方をしていただければ有難いなと思ったりして(笑)。

 線1廃線1

 さて、その旧国道から南側を向けば、いかにも廃線跡っぽくなります。休止したのが戦後すぐ、正式廃止からも四半世紀以上経つのにこの状態は信じられませんが、これは阪神が引込線としてまだ部分活用しているからですね。右側(西側)の線路は一応現役で、車止めが見えます。この線路は、車両を本線へ戻し入れする場面で使われています。

 線26廃線2

 踏切から北を向いています。右側(東側)の線路は、廃線ですね。レールも放置されたままで、整備もされず歪んでいます。

 川駅武庫川駅

 武庫川駅までやってきました。ここから南は現役路線であり、廃線跡ウオッチにはなりませんが、もう少し進んでみます。
 なお、昔は本線武庫川駅の駅舎は尼崎にしかなかったようですね。したがって、本線から武庫川線に連絡するには、尼崎側で下車して武庫川を歩いて渡って乗り換えなければならなかったと聞きます。
 阪神武庫川線は、駅を出て兵庫医大をかすめ、国道43号線の下をくぐります。

 墓地小松墓地

 これは、小松墓地です。武庫川線の突貫工事のひとつとして「墓地の中もかまわず突っ切った」というのがあります。それは上田墓地を指しているともされますが、小松墓地もこのように分断しています。当時は複線でしたので突っ切り方も広い。
 しばらく行くと、東鳴尾駅に着きます。

 東鳴東鳴尾駅

 現在は単線ですので、ここで交換をします。このあたりは、かつて鳴尾百花園があった場所で、昭和になり阪神電鉄が買い取って「武庫川学園」と名を改めて継続していましたが、武庫川線の敷地となり消えました。
 その次は、洲先駅です。

 洲先洲先駅

 洲先駅は何回移転したのか。これがよくわからないでいます。何度も申しますように従来は洲先駅が武庫川線終着であり、それは現在の武庫川団地前駅に相当しました。戦後一旦営業休止となり、昭和23年に武庫川〜洲先駅間で再開するのですが、その時の洲先駅の位置は武庫川団地前より少しだけ手前だったという話、また今の洲先駅の位置くらいだったという話があります。昭和41年に約0.6km戻り、現在位置に置かれたという話も。さらに昭和59年の武庫川団地前駅開業によって少し移転したという話もあり、実態がよくわからずにいます。

 前駅武庫川団地前駅 
 
 武庫川団地前駅が開業したのは、昭和59年でした。
 この場所がほぼ戦中の洲先駅に相当することは既に述べていますが、戦中はここから川西航空機の工場群に向けて引込み線が蛸の足のように延びていました。もちろん現在、それらは全て廃線となっています。団地が建ち並び痕跡を辿ることは全く出来ません。
 高須町米軍進駐の後、昭和30年代には武庫川車両工業が現駅の場所におかれ、車両の製造とメンテを行っていました。その武庫川車両が昭和58年に移転、武庫川団地の充実もはかられることとなり、ここに新駅が設置されました。 
 本来はもう少し延伸も検討されていたのですけれども(団地内駅として)、目前に小学校もあり断念されたという話もあります。その高須東小は既に廃校なんですけれども…。ただ、もう少し南に駅の設置が考えられていたとすれば、それは洲先駅の位置にも関係したはずで、団地前駅が現在位置に決まった段階で洲先駅が少し北側に動くという処置は、やはりあったのかなと思います。
 旧武庫川線の象徴である「三線軌条」の痕跡は、団地前駅が出来る以前には結構残っていたらしいのですが、現在では影も形もありません。

 
より大きな地図で 廃線跡ウォッチ2〔旧武庫川線〕 を表示