スジエビの不思議

私の知っているスジエビの紹介を終えました。第2部「生き物雑記帳,時々脱線」を始めました。

 「ヘンシ~ン」と言えば,仮面ライダーやウルトラマンなど,アニメの特撮ヒーローの変身ポーズを思い浮かべる人が多いでしょう。しかし,生物学を生業にしてきた私が第一に思い浮かべるのは,毛虫が蛹を経て美しい蝶に変化するという「変身」です(生物学的には変態=Metamorphosisといいます)。
 そして,私が二番目に思い浮かべるのは,フランツ・カフカの小説「変身」です。ふとしたきっかけで,妻が青虫に変身するという妄想を私は抱いたのですが,その話の前に,まずはカフカの小説を紹介しましょう(実は,この話の方が本筋なのですが・・・)。
 フランツ・カフカ(チェコ出身)・著の「変身」を私が初めて知ったのは,大学受験勉強の「国語」においてでした。欧米の有名な文学の一つとして紹介されており,その小説のタイトルと著者をただ単に受験情報として暗記しました。大学入学後に古本屋で偶然その本を見かけ,気まぐれに買い求め,初めて驚愕の中味を知りました。
カフカ

 図:フランツ・カフカ(引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b4/Kafka.jpg/200px-Kafka.jpg)。
 主人公のグレゴール・ザムザは販売員を仕事とするごく普通の青年ですが,ある朝目覚めて,自分が巨大な芋虫に変身していることを知って驚くところから物語は始まります。あれこれ悩みながらも家族の前に姿を現わした彼を見て,みんなは驚愕!それ以後,彼は自分の部屋に閉じこもって生活し,彼の世話は妹がすることになりました。彼の嗜好は次第に変わり,新鮮な食べ物よりも腐りかけた野菜やチーズに食欲が湧くようになります。そのうち,壁や天井を這い回る技も身につけます。しかし,家族からは嫌われ,うとまれ続け,妹にも見放され,やがて失意のうちに部屋の中で息絶えてしまいます。家族はほっとして新たな生活を始め,彼の存在そのものもやがて忘れ去られてしまう,というあらすじです。
 この小説の内容は,いま日本で大きな問題となっている「引きこもり」に重なってみえます。長期間自宅,自室に閉じこもり,外の社会との関係を絶ってしまった人々のことです。200万人を超えると推定されている引きこもりの人は20~30代の男性に多いといいます。まさに,「変身」の主人公と同じ世代です。小説の主人公と同じ悲惨な最期を迎えることのないように何とか立ち直ってもらいたいと思うばかりです。
 私が読んだ訳本では「芋虫に変身した」となっていました。しかし,最近テレビの紹介番組知りましたが,原文ではUngeziefer,すなわち,有害な小動物(害虫)というあいまいな言葉が使われてようです。さらに,カフカはこの小説の出版に際して,版元へ「昆虫そのものを挿絵や表紙に描いてはいけない」,「遠くからでも変身した姿を描いてはいけない」と注文をつけていたそうです。主人公がどんなものに変身したのかは,あくまで読み手個々人の想像に委ねたいという作者の意図ではないかと思われます。私が訳本で知った「芋虫」という概念を捨て去ると,いろいろな想像が浮かんできます。変身した姿はハエやゴキブリのようなものだったかもしれません(腐りかけた食べ物やチーズを好むとか,天井を這うという記述から)。あるいは,実は本人の外見は普通であって,歪んだ精神状態に陥ったために自分自身が害虫のように見え,家族も自分が害虫に変身したと思い込んでしまっただけなのかもしれません。こう考えると,変身した主人公は,まさにいま問題になっている「引きこもりの人達」に重なって見えます。“カフカの変身”は実在しているのです。
 著者のフランツ・カフカはプラハのユダヤ人家庭に生まれ,保険局員として勤めながらこの小説を書きました。3度も婚約しながら,いずれも結婚に至らず,独身のまま結核で40歳の生涯を閉じました。1924年のことです。彼はプラハにあるユダヤ人墓地に埋葬されたということです。彼のお墓についてネット検索をすると,その場所を捜して訪問した人の観光日記がみつかりました。プラハ近郊のストラシュニッツにあるユダヤ人墓地に彼の墓があると分かり,その写真も見ることができました。
カフカの墓

 図:カフカのお墓(引用:http://marimemo.cocolog-nifty.com/blog/photos/uncategorized/2009/12/13/img_3187.jpg)。

 カフカの「変身」談議がずいぶん長くなってしまいました。実は「変身」を思い出したきっかけは妻のささいな一言,「私は青虫じゃないわ!」だったのです。
 今年も我が家の家庭菜園で野菜の栽培がうまく行きました。サニーレタス,タマレタス,ミズナ,セロリ,カブ,ルッコラ,シソ,キュウリ,ゴーヤー,ツルムラサキなど,みんな順調に育ちました。たくさん収穫できたので,山盛りサラダとして毎日食卓へ提供してきたのですが,夫婦二人では食べきれず,ついに妻が音を上げました。「いくら完全無農薬,有機肥料栽培の野菜だからといって,連日こんなにたくさんは食べられない。私は青虫じゃないわ!」。
 それでも私は「もったいないから・・・」と言いながら,毎日家庭菜園の野菜をせっせと収穫しています。「このまま大量の野菜を食べさせ続ければ,もしかしたら妻は青虫に変身するかもしれない」。「そうしたら,エサ欲しさのあまり,私になついて言うことを聞くようになるかもしれない」。「やがて蛹になって静かになるかもしれない」。そして,「蛹から羽化し,見紛う程の美女に変身するかもしれない・・・」と,私の妄想は続くのです。
キアゲハ若齢幼虫
キアゲハ終齢幼虫
キアゲハ成虫

 上図:我が家のミツバの葉を食べるキアゲハの若齢幼虫。中図:キアゲハの終齢幼虫。下図:ミツバを訪れたキアゲハ成虫。


 つい先日,北海道新聞で「峠三吉とノーベル賞」と題する記事を読みました(2017年10月29日付け)。とても良い記事だったので,全文を以下に画像で紹介します。どうぞ読んでみてください。
新聞記事2017年10月29日a
新聞記事2017年10月29日b
 図:北海道新聞記事。

 この記事を読みながら,今から30年前,峠三吉の詩碑と出会った頃のことを思い出しました。
  「5月28~30日,広島へ出張した。原爆被爆50周年-日本放射線影響学会・日本環境変異原学会合同シンポジウムに出席するためである。
 29日は朝から滋雨であった。国際会議場に向かう途中,原爆ドームの前で傘をさしたまま暫し佇んだ。ドーム周囲の菩提樹の若葉は雨に輝き,満開の小さな花は雨に打たれて足元にいっぱい散乱していた。
 菩提樹の下のベンチにはみすぼらしい老人が一人傘もささずに座っていた。浮浪者かと思っていた時,原爆投下時刻の8時15分となり,平和公園の鐘が雨にこもって鳴り始めた。老人は手を合わせて深々と頭を垂れ,やがて立ち去った。その姿に広島の深い悲しみを見た。私は今,原爆被爆50周年シンポジウムに出席するためにこの道を歩いている」(1995年の私の日誌から抜き書き)。
原爆ドーム

 図:広島原爆ドーム。

 私の広島通いは1987年から7年間続きました。広島大学・原爆放射線医学研究所との共同研究(放射線が染色体へ及ぼす影響の研究)のためです。
 広島平和公園を訪問することは私の長年の願いでした。映画好きだった私は,大学時代に原爆被爆の映画(「原爆の子」,新藤兼人監督,1952年;「ひろしま」,関川秀雄監督,1953年)を観て強い衝撃を受けました。被爆を題材にした小説「黒い雨」(井伏鱒二)や漫画「はだしのゲン」(中沢啓治)も読みました。北大大学院時代に観た映画「ヒロシマの証人」(斎村和彦監督,1968年)のシナリオは今でも手元に残っています。
 そんな中で私は,広島・長崎を一度訪問して原爆で亡くなった人々へ慰霊の気持ちと不戦の誓いを伝えたいと思い続けていました。
 広島大学との共同研究でやっとその機会を得ることができた私は,研究の合間を縫って何度も平和公園を訪れ,数多くの慰霊碑を巡りました。そして,公園内のトイレに寄った時,その裏手に小さな詩碑を見つけました。観光客の多くは原爆ドーム,平和記念資料館(原爆資料館),原爆死没者慰霊碑,平和の鐘,原爆の子の像などに集まっており,この詩碑の周囲に人影はありませんでした。
 石碑に刻まれた詩を読んで,私は胸が締め付けられました。遠くにいる大勢の観光客や修学旅行生達に向かって,「この詩を,被爆者の魂の叫びを,読んでほしい」と叫びたい衝動に駆られました。
 その詩は峠三吉の「原爆詩集」に「序」と題して書かれたものでした。

 一九四五年八月六日,広島に,九日,長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人,また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人,そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人,さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。
「序」
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

 そして,この詩は「八月六日」,「死」,「炎」,「盲目」と続いてゆきます。全文ひらがなで記述されている「序」の詩からは,すべての人に読んでほしいという三吉の強い意志が感じられました。
 石碑の裏面には,世界中の人々にこの詩を読んでほしいという願いから,大原三八雄の英訳が添えられています。

Preface (Give back the Human)
Give back my father, give back my mother,
Give grandpa back, give grandma back,
Give my sons and daughters back.

Give me back myself,
Give back the human race.

As long as this life lasts, this life,
Give back peace,
That will never end.
峠三吉詩碑(表面)
峠三吉詩碑(裏面)
峠三吉氏

 上図:峠三吉詩碑(表面)。中図:同(裏面)。下図:峠三吉氏の写真(引用:http://www.hiroshimapeacemedia.jp/wp-content/uploads/2017/01/dda782ff9db3a8409b7615649ae5b6c4.jpg)。

 著者の峠三吉氏は1917年に広島で生まれ,1945年28歳のときに被爆しました。1951年に「原爆詩集」を自費出版し,多くの人々に感銘を与えました。しかし,1953年に肺病の手術中に死没しました。被爆後8年,詩集出版から2年後,36歳の時でした。彼を偲び,この石碑が建立されたのは彼の死後10年目,1963年のことでした。私事ながら,私が大学へ入学した年でもあります。

 一番最初に紹介した北海道新聞記事の冒頭部分「この人(峠三吉)が生きていたら,どんな言葉を発しただろう」を,私はいま一度深く噛みしめています。


(四) 後遺症
 助かった。よかった。と思いつつ右腕を伸ばそうとしたら,妙に脇の下が引きつって,おまけに軽い痛みを感じたのです。腕がうまく伸びません。脇の下に何か異物でも挟まっているようで変だなぁと思い,左手で触りながらよく見たら,何と驚いた事に,鶏卵(あるいは,南部地方の妙丹柿)大の瘤(こぶ)がゴロンとぶら下がっていたではありませんか。リンパ腺肥大とでも言うのでしょうか。毒物がこの一ヶ所に集まったものとしか考えられなかったのです。
 腕を屈伸しようにも,その脇の下の瘤が邪魔になって思うようにできないため,日常の仕事がうまくできなかったし,特に体操などは痛みを伴うので,とてもできるような状態ではなかったのです。2人の兄達も同じように脇の下に大きな瘤(出物)がニョキッと下がっていました。お互いに触り合ってみましたが,誰のも同じ形で,かなり固く,少し熱っぽさがありました。
 瘤それ自体には痛さを感じなかったのですが,腕を動かすと痛みがあり,腕を自由に使えない不自由さが,かなり長く続くのには閉口したものです。日が経つにつれて小さくなりましたが,瘤が半分くらいになった頃から,痛みもさして感じなくなって,忘れかけてはいましたが,時として少しむず痒さを感じる事もあったりで,完全に消えてなくなるまでには3ヶ月ほどを要したものです。
 さて,話を少し元に戻して,鯉について書いてみます。3日目,ふらつきもやっと治った昼下がり,自分の係であった鯉を見るために外へ出ました。やたらに光る陽光をとても眩しく感じながら,池の縁に立ちました。
 降り注ぐ太陽の光で底まではっきり見えます。水の底の豊かな黒い泥だけはやたらにはっきり浮かんで見えたものです。30匹ほどの真鯉,蚕の蛹をたくさん食べて丸々と太った30cm前後の元気だった鯉が,群れをなして堂々と泳ぐ姿はそこにはもう消えてなく,池の中はがらんどう,片隅に小さな小鮒ほどの真鯉が2, 3匹と,ごく小さい金魚が2匹,物足りなそうにひ弱に游いでいるのを見届けました。「はあー」と大きな溜息が出ました。死の池の静けさに,しばし立ちすくんでしまうのでした。
 一日目の夜中,苦悶懊悩・七転八倒と,さながら地獄絵図を見る思いで,腕を組んでこの惨状を見詰めていた父が,一言ぽつりと呟いたそうです。
 「この中の誰かが,一人は死ぬだろうなっ!」
 みんな全快してしばらく立ってから,このことを母から聞かされたのです。

 この事件は,大正14年の9月中旬の出来事で,私は小学校5年生の時でした。翌大正15年,長兄が八戸市(当時は町)の湊町大沢片平にお菓子屋を開業して,次兄と私と3人で大沢の新築店舗に移って仕事を始めました。私は小学校6年生で湊小学校に転校,兄達と生活を共にする事になったのです。父母と三人の弟妹は遠瀬小学校に居住していたので,当時私は炊事当番の役目でした。
 完全に環境が変わりましたし,ちっぽけな田舎の部落から軒並みの続く大きな町の中へと,まったく大きな変化でした。爽やかな風の吹く9月,透き通るような青い空,運動会の季節でもある中旬のある日の夕方でした。兄弟3人とも体調の異常をお互いに訴え始めたのです。長兄が,
 「風邪を引いたはずもないのに,背中がぞくぞくする。どうしたのだろう」
 と言うのです。それに次兄が答えて
 「俺もさっきからそうなんだよ。寒い日でもないというのに,どうしたんだろう」
 3人とも,しかも同じ日の同じ時刻頃にどうしてこんな変なことが・・・と考えているうちに,去年のあの夜の七転八倒の苦しみが思い出されました。瞬間,私が
 「兎の毒だ。去年のちょうど今頃だった。きっとそうだ・・・」
 と叫んだのです。二人の兄も
 「どうも,そうらしい。そうとしか考えられない」
 と,口を揃えて言うのでした。
長兄「震えが来て,高熱が出て,気怠くなるぞっ。早く飯を食って寝よう」
 と,励ますのでした。
 医者に行っても分からない,手当の仕様もまったくないと言われ,薬の調剤の仕様もないのです。無い無いづくしだから,寝て自然に治すしか仕様がないのです。
長兄「3日も寝込んだのでは,商売もあがったりだ。いやあ,大変なものだなあ」
 と嘆息を漏らすのでした。お互いに励まし合い,急いで食べ,衣類や汗取り用のシャツ,タオルなどなどを枕元に積み上げて早々に布団へ潜り込み,速やかに症状が去るのを念じたものです。実際はやっぱりそんな生易しいものではなかったのです。
 悪寒が次第に強まり,夜半から高熱にうなされ,「わあ!痛い,痛い」どしん,ばたんと,あっちでも,こっちでも七転八倒,寝返りの音がしきりに続く・・・。3人とも昨年と同じ症状であったし,やっぱり私も昨年通りの鼻血で驚きました。昨年との違いは,やたらに窓の多い明るい建物だったから,夜明けも早かった事が何よりも幸いしていました。
 このようにして3日目,やっぱり昨年通り右脇下に大きな瘤ができて症状が治まるのでした。何となく症状は昨年より軽くて済んだように思われましたが,脇の下の大きな瘤はやっぱり無くなるまでには3ヶ月かかりました。その間,瘤が邪魔であったことは昨年通りでした。
 昭和元年の9月,天高く馬肥ゆるの候となり,またしてもあの忌まわしい症状に襲われはしまいかと戦々恐々としていましたが,やっぱりあの強烈な毒性から逃れる事はできなかったのです。執拗なまでに襲いかかって来る恐怖の魔,野兎病のその真相も分からぬまま,夜明け近くまで悩まされるのでした。
 症状は昨年の2日目くらいの病状で,体熱も38.9度前後くらいで収まるのでした。脇の下の瘤も前の年より一回り小形で,鶉(うずら)の卵を少し大きくしたくらいのもので,そんなに邪魔というほどでもなく,2ヶ月くらいでスウーッと消失していきました。
 4年目の秋,9月がやって来ました。また病むだろう,「くそっ!どうにでもなれっ」と心密かに覚悟を決めていたのですが,体感では何となく,ふらっとするような,運動神経のバランス感覚に狂いが生じたような気分だけでした。風邪と同じような症状は現れたものの,あの強烈な悪寒,倦怠感などの症状らしいものが弱くて済んだのは何よりも幸いでした。体温も37.9度で止まっていましたし,脇の下の瘤を手で触ってみましたが,かすかに瘤らしいものに触れるだけで,少し強く押すとかなりの痛さは感じましたが,体調には別に影響するほどの事ではなかったのです。しばらくして,病状は完全に収まりました。
 目にも見えない,世にも不思議な恐怖に満ちた恐ろしい魔の病に翻弄されて悪戦苦闘の満4年,やっと5年目にして,あの忌まわしい悪魔の毒精から解放されて,今日に至りました。あれから70年余。次兄もいまだ元気。齢(よわい)90歳。この事件が昨日のように鮮明に思い出されるのも不思議なことです。

 (註記一) たった,触ったということだけで,地獄の責め苦に遭わされるという,何とも信じがたい嘘(うそ),作り事のようにも似た事実。真実の物語。今日(こんにち)の科学の粋を集めて解明に努めても,まったく謎として未だに不明の由と聞く。大自然の中には限りない美と恩恵が充ち満ちている反面,毒魔もこっそり潜んでいる事を固く肝に銘じた次第です。
この記録の実年
  大正14年の9月 キノコ狩りが発端。    病状 重症
  大正15年の9月 再発。八戸市在住。   病状 重中症
  昭和元年の 9月 再発。 同上      病状 重下症
  昭和 2年の9月 再発。 同上      病状 軽症
  昭和 3年の9月 寒気程度で解放される。 病状 無
  昭和 4年の9月 病状皆無。

 (註記二) 病状の不思議な点
  (1) 9月中旬,キノコ狩りの日に病む(4年連続この頃に発病)。
     (2) 必ず3日間病むこと。
     (3) 3日目,脇の下に瘤が出ること(体調は爽やかになる)。
     (4) 脇の下の瘤は3人とも必ず右脇の下に出たこと。
     (5) 3人とも4年間,同じに病んだこと(枕を並べた)。

 やっさんの(注) 野兎病(tularemia)は,東北・関東地方で見られる人畜共通感染症で,2008年にも感染例が報告されています。野兎病菌(Francisella tularensis)はグラム陰性の桿菌で,かなり強い感染力をもっています。
ペットの宇佐次郎
 図:ペットの宇佐次郎(重~い話だったので,気分転換に)。

(三) 発病
 一家全滅死亡事件の話を聞き終わった時は,もうとっくに8時を過ぎていました。兎の件で巨大な舞茸の話題はすっかり影をひそめ,台所の片隅の籠に入ったままゴロンと放りっぱなしになっていました。強烈なキノコの匂いも芳香も鼻にあまり感じなくなっていました。
 夕食を済ませた頃はもう9時を過ぎていましたし,強行軍の疲れもありましたから,何となくうっすらと眠気に襲われ,あまりはしゃぐ風もなかったのです。しばらくぶりで会った兄達2人も何となく沈みがちで,あの賑やかさがすっかり消え失せていました。歩き疲れにしては体中のうだるさはちょっと変だと思っていたら,2人の兄も同じく
 「今日は疲れた。陽に当たり過ぎかも知れない。少し怠い感じがする。早く寝よう。明日はまた職場へ帰らなければならないから」
 と言って2人とも奧へ入って寝てしまいました。
 私もどうも体の調子がよくなかったので,兄達に続いて床に入ることにしました。10時頃になったら,何となく寒気がしてきました。2人の兄達も「ああ寒い,寒い」と騒ぎ始めました。「布団,布団」と叫んでいるのです。夜が深くなり,次第に全身にゾクゾクッと悪寒が走るのです。何枚重ねてもいっこうに暖かくなりません。奥歯がガクガクと音を立てて鳴るようになりました。
 これはただ事ではありません。全身が鳥肌で,バラバラと手に触れるほどの荒れようで,悪寒が強くなる一方,今度は全身の筋肉が引きつって震えが出始め,足腰も胴体も首もブルブルです。歯は以前よりもひどくガクガクと鳴ります。3人ともまったく同じ症状で,いくら小さくなって縮んでも,震えはいっこうに止まりそうもなかったのです。
 夜の12時頃になったら,どうやら悪寒が去って震えも止まり,やれやれと思った途端,今度は高熱が襲ってくるのでした。ボウッ,ホウッと熱さが体内から噴き出してくるのです。それに伴って,どっと汗も噴き出してきます。今度は先ほどとは反対に,布団や衣類を一枚一枚とはね除け,燃えるような熱さから逃れようともがくのです。関節の痛みもひどくなってきて,やがて体中の関節がちぎれてばらばらになったような感じがするまでになりました。おまけに筋肉の怠さが,これまた全身を襲うのです。何とその気怠い辛さよ。思わず「ああっ!」と声が出るのでした。
 長兄は特に重症のようで,最後の布団をはね除け,「ウオーッ」と,まさに野獣でも吠えるような大きな声をあげ,同時に右腕を突き上げ,拳を固く握って体を左側にひっくり返しざまに畳をドシンと強打し,「フウーッ」と太い溜息を吐きます。1分と経たないうちに「ウオーッ。痛い,痛い」と叫びながら,今度は左腕を突き上げ,拳を握って体を右側に一転,ドシーンと叩きつけるのです。「フウーッ,フウーッ」と太い溜息と唸り声・・・。
 このようにして,右に左にと寝返り転々,呻吟(しんぎん)すること数時間。次兄も仕草・行動はほとんど同じでした。私も同じで,燃えるような高熱は40度を超えていましたし,関節の痛みと体全体の怠さ,気怠さ,言いようのない倦怠感,苦悶から何とかして逃れようと動いているうち,無意識に胎児姿勢をとっていました。この姿勢は一番楽で,少し長続きするのでした。両手で両膝を抱きかかえ,頭をへその上に乗せるようにしてクルンと丸くなった姿勢なのです。分かりやすく言いますと,母胎内の姿勢なのです。のたうち回る数時間をこの姿勢で安らぎを得つつ,朝が来るのを待ち焦がれるのでした。
 鼻の下に妙な生温さを感じました。鼻水にしてはおかしい,熱があるのに鼻水とは変だ。起き上がってみたら,生ぬるいものが下へ流れるのに気付いたのです。全部消灯してあったので,座って手で触ってぬたら,ぬるぬる,ねばねばしたものが流れています。鼻水にしてはおかしいと思ったので,父を呼び,ローソクを点(とも)してもらいました。
 何とそれは真っ赤な血ではないですか。冷たい手拭いを持って来てくれたので,それで冷やしてみたのですが,いっこうに効き目がなかったのです。母が心配そうにして,新聞紙を切った紙片を沢山持って来てくれましが,拭けども拭けども血が出てくるのです。何十分か経ったらやっと止まり,熱が少し下がったようでしたが,体中は依然として痛いし,気怠かったので,胎児姿勢をとっていました。しばらくしたら,今度はコン,コン,コンという微かな音とともに,鼻の下に再び生温いものを感じたのです。その頃は紙どころではなかったので,腹這いになって枕元の炉端から顔を突き出して,灰の上に流れ落ちるにまかせて,じぃーっと我慢するしか仕方がなかったのです。早く夜が明けてくれればと,祈るように夜明けを待ったし,待つしかなかったのです。待つほどに真っ暗な夜は長いのでした。兄達も前よりはぐっと静かになっていましたが,寝返りだけは頻繁に繰り返していました。眠っていないのです。いや,眠れないのです。
 ちょうどその頃,家の前の池の辺りからジャバ,ジャバ,ジャバ,ゴーッ,ゴーッ,ザボッ,ザボッと,バケツで水面に水を撒き散らしたような音が聞こえて来ました。「はて,何だろう。こんな夜中に」と思ったのですが,自分の体の気怠さと熱っぽさにほだされて,それ以上は意識に留まらなかったのです。
 数時間も悪戦苦闘,七転八倒を繰り返し,やっと鶏鳴が遠くからかすかに聞かれる頃にようやく熱も下がり,発汗も止まり,体調もかなりまで戻って,やっと眠れるまでになるのでした。何時間か眠って,目覚めた時にはもう昼近くになっていました。家族は心配そうにみんな枕元に車座になって見守っていてくれました。3人とも一斉に「水をくれ」と一言叫ぶのでした。生きている証でもあったのです。
 昼頃に村医が馬で駆け付けてくれたのですが,何が何だかさっぱりで,病状やはり不明とあり,手の施しようもなく,手当も薬もないまま早々に帰院して行きました。体のどこが悪いからという病気でもなかったし,兎の肉を食べての食あたりというのでもありませんし,3人とも揃って同じ症状で苦しむ仮病なんてあり得るものでもないのです。摩訶(まか)不思議としか言いようのない事件なのでした。昼頃やっと粥にありつき,2杯ほど飲み干して,やっと小用に立てるようになったのです。頭がふわっとして,足元が安定しませんでした。
 私は鯉の飼育係を言いつかっており,呻吟(しんぎん)中も,人なつっこく育った鯉が気になっていましたので, 「昨夜の池の辺りの音はなんだったのですか」
 と,父に聞いてみました。父は,
 「12時過ぎ頃から水の音が始まった。時折池の水がひっくり返ったようなゴーッという音がしたり,時にはバケツで水を一気に投げ落としたような音,それはそれは大変な音と騒ぎようだった。暗くてよくは見えなかったが・・・。池の水面が盛り上がるように見えたり,渦を巻いているようにも見えた。30cm前後に丸々と太った真鯉が30匹以上もの集団で大暴れするのだから,大変なものだった」
 と言われました。また私が
 「今は静かだからみんな元気でいるでしょうか」
 と聞いてみました。父は
 「うん」
 と少し間を置いて
 「みんな死んでしまったよ」
 と言って顔を曇らせました。まさかと思っていた事が本当だったのです。ドキッと来て,すぐに言葉が出ませんでした。私は
 「どうしてそうなったのでしょうか」
 と尋ねました。父は
 「兎の肉が流れて行って池に入ったようだ。それを食べたらしい。早朝に池を覗いたら,白い腹を上にしてほとんど死んでプカプカと浮いていた。そのうちの何匹か排水溝を通って川下に流れて行ったのもあったので,川下の人に伝えた。死んで流れて行った鯉は絶対に食ってはならない。猛毒をもっているから・・・と村人達に伝えて欲しいと連絡してある」
 と言いながら,
「まったく人騒がせな兎だったのにはあきれてしまった」
 と,淋しそうに話してくれるのでした。
 話を聞いている間にも何となく体調がはっきりしなかったので,2人の兄に続いて床に入って横になったら,すうっとそのまま夕方まで眠ってしまいました。
 さて,夕方に呼ばれ,3人とも食膳に就きましたが,何となく食欲がなかったのです。酸っぱい梅漬けをもらって食欲をかき立て,やっとこさ一膳詰め込みました。鶏卵を丼にぽんと落として,刻んだネギを入れ,よくかき混ぜて熱湯を注ぎ,これをフウフウやりながら,やっと一杯飲んだのです。風邪ではなかったのですが,これしか仕方がなかったのです。
 お互い何故か,だんまりこくったまま座っているうちに,もう10時になっていました。またしても昨夜のようにゾクゾクッと悪寒が全身を襲うのでした。
 「風邪を引いたはずはないし,これはやっぱり兎の毒だ。触ったというだけなのに,こんなにまでなるとはまったくひどいもんだ」
 と独り言を言いながら床に潜り込んだのです。
 この夜も一番苦しそうなのは長兄でした。悶え苦しみ,周りの草をなぎ倒して最後は草むらに頭を突っ込んで死んでいた兎を拾い上げた時は,まだ体温があり,かなり温かであったというのです。それからじいーっと抱えたり首に巻いたりして,帰宅するまで持ち歩いていたのだから,かなりの長時間触っていた事になります。体調に変化が早く現れるのも長兄でした。長兄は,
 「悪寒がする。寝るよ。掛け布団を1~2枚くれ」
 と言って奧へ入って行った。続いて次兄,3番目は私でした。触った長さによって症状に違いがあるようで,その夜も前夜とさして変わらない苦悶懊悩(くもんおうのう)の姿態が繰り返されるのでした。全身の震えが止まると,高熱に襲われ,関節が痛み,全身の怠さ,気怠さは体を伸ばしても縮ませてもさして変わらなかったのです。
 前夜のように鼻血が流れ出る事を一番気にしていました。あんなに多量の血が出たのでは命に関わることと,ひたすら神仏に祈りを捧げながら,左右に転々とし,時には胎児姿勢に安息の一時を求めつつ,ただでさえ長い夜を過ごさなければならなかったのです。かすかな遠い鶏鳴で,待ちに待った夜明けを知り,幸いに鼻血もなかった事の安堵感が急に眠りを誘うのでした。
 昼近くなってやっと目が覚め,食事にありつき,小用に出歩いたものの,何とも体が重く,体を動かすのは億劫なまま仮眠し,うとうとしているうちに,またしても怖い3日目の夜を迎えなければならなかったのです。同じように10時頃から始まりました。寒気,震え,発熱,関節の痛みと全身の気怠さは幸いなことに前夜ほどではなく,寝相も割に安定して,静かな体位・姿勢も割に持続できるようになっていました。
 2日間とも熟睡できなかった事と,高熱で完全に疲れ切っていた事も手伝ってか,割にその夜は早めに眠る事ができたし,夜中の2時頃からだったか,3人とも泥のように眠りこけてしまいました。朝7時頃,割に爽やかな目覚めを迎える事ができ,昨夜までのあの苦しみたるや悪夢のように消え去っていました。
ウサギ

 図:兎(私の木版画)。

(二) 兎肉鍋
 ちょうどこの作業が終わる頃,奧の方に捜しに行った長兄の叫ぶ声が森内に響き渡りました。
 「おーい,兎を見つけたぞーっ。今死んだばかりの兎だよーっ。まだ体が温かだよーっ・・・」
 と叫びつつ満面に笑みを浮かべながら,右手で高々と兎を掲げて近寄ってきました。キノコを見せると,
 「やあ,大きなものだなあ!よい匂いがする」
 と言っただけで,兎の方がよっぽど嬉しかったらしく,兎の話に夢中だったのです。
 「これ,ピンピンした兎だ。死んで間もないようだ。体温がある」
 と言うから,「ほんとう?」と言って,そっと触ってみました。
 「あら,ほんとうだ」
 次兄も触ってみながら,顔,耳,毛並み,尾と丹念に見ていましたが,どこにも怪我とか傷など何一つなかったのです。
 「不思議だなあ」
 と,ただ一言いって首をかしげました。これで3人とも地獄への近道一丁目の橋を渡る切符が与えられていた事を知る由もなかったのです。「知らぬが仏」です。
 大物を獲た一行3人の足どりは,今日の爽やかな秋晴れのように軽やかでした。おまけに,帰りは下り道で,そのうえに太陽の照りつけも収まっていました。夕近くの気温は微風となって肌に柔らかな温もりを与えてくれ,自然にいつしか早足になっていました。部落を通るたび,長兄は
 「兎をみつけたよーっ。死んだばかりの兎で,まだ温かだよーっ」
 と,大声で叫び通して来たのです。だが,村人達に通じたのかどうかは,まったく分からなかったし,反応がなかったのも事実でした。世にも稀な巨大な舞茸,二度と見る事もできないほどの珍しいキノコは,兎の拾得によってその影がしっかり薄れてしまったのでした。帰宅の第一声,「兎を拾って来たよーっ」。
 これが挨拶の第一声だったのです。家に残っていた3人の弟妹も奧から駆け出して来たのですが,真っ白なかなり大きい兎を離れて見ただけで,触れる時間の余裕がなかったのはせめてもの幸いでした。夕食のために,すぐ兎の解剖にかかったのです。次兄は鳥獣の解剖が得意だったから,お手のものです。あれよ,あれよの間に兎は皮を剥ぎ取られ,内臓を引き抜かれ,頭と足のない胴体だけになってしまったのです。
 「こらっ!五郎。お前これを川で洗って来い」
 と次兄からの命令が下りました。川とは,家のすぐ前を流れる灌漑用水路の事で,川幅1mの広さしかなかったのですが,常時堰満々の水量で流れていました。幅広く長くて分厚い松の板が1枚ドシッとまたいでいたし,そのすぐ後ろに鉄砲式桶型風呂のある風呂場が建てられていました。食器類や洗濯などの洗い場に都合よくするために,小川を堰き止めるように丸太が1本底に浅く埋められていて,自然に水面が一段高くなっていたので,水はゴボ,ゴボ,ゴオーッと音を立てて勢いよく流れ落ちるのでした。言われるままこの洗い場で,勢いよく流れる水流にドブンと突っ込みました。水中で2, 3度振り回した後,手のひらで体の表面と胴中を撫で回してから引き上げてみました。
 「あれっ」と思わず叫びました。肉の肌色に気をひかれ,妙に怖さを感じたのです。ギラギラッと底光りする肌色に,瞬間,指ほどの太さのたまくらミミズ(極太のミミズ)が頭に浮かんだのです。動かす度に底光りする色の変化,あの色にそっくりなのに驚き,しばし,ボオーッとして眺めるのでした。紫色と濃紺と小豆色とが,ある部分では単色に,またある部分では二色や数色混合に重なり合ったような色合いで,底光りしていました。斜めにして見ると,また変わった色にも見えたりで,肉の色とはほど遠い毒々しい色をしていたのです。
 「こんなの,食べられるかしら」
 と,独り言を呟きました。決して食欲をそそるような,そんな肌色ではなかったのです。
 次兄が肉と骨とに切りほぐし,小刻みにして鍋に入れ,里芋,ゴボウ,ニンジンと煮えがたい物から順に入れて煮立て,砂糖少々と醤油,焼麩,ネギの順で終わるのでした。次第に焼麩,ネギ,肉の匂いが混じり合い,一体となった甘ったるい匂いとなって部屋いっぱいに漂うのでした。兄弟はみんな炉の吊り鍋を真ん中にして周りに集まっていました。
囲炉裏

 図:囲炉裏(私の木版画)。

 長兄「ひとつ味見をしてやろう。美味しそうな匂いだなあ」
 と言いながら,おもむろに蓋を取り,お椀に半分くらいよそおって,そばの飯台の上に置きました。
 長兄「まだ熱くて飲めない。少し冷ましてからにしよう」
 と言っている時でした。7時少し過ぎ,外は真っ暗闇のシーンとした静けさを破るように微かな音,馬の蹄の音のようなものが大地を伝わって来るのに皆が気付いたのです。「はて,何だろう?」と考えた頃にはもうズシン,ズシンと大地を揺るがして近づいて来る馬の蹄の音。どこへ行くのだろうと思ったその時,馬の急停止の足の乱れと「バババ」と叫ぶ馭者(ぎょしゃ)の声,フウーッ,フウーッと馬の太く荒く息をする音,同時にドシンと人の下りる音,入口の前です。3秒ほどしたら,台所(玄関)の引き戸が力いっぱいにガラガラッ,ドシン,バアーンと大音響を立てて開かれました。
 現れた顔の眉はギュッとつり上がり,ギョロッと光る大きな目,額(ひたい)と頬の深い皺(しわ),まさに不動明王そのものの姿に見えました。そして,大きく開いたその口から,大喝一声。
 「その肉,食ったがあーっ」と。
 居並ぶ兄弟はびっくり仰天して開いた口がしばし塞がらないほどでした。瞬時,
 「はっ,悪い事をしてしまったのだな。捕ってならぬ物を捕ってしまったのだなっ・・・」
 と思いました。叱られたと考えたのです。長兄はすぐに答えました。
 長兄「いいえ,まだ食っていません」と一言答えたら,
 訪者は「はあーっ」と太い溜息をついて,
 「あーあ,よかった。間に合ってよかった。よかった」
 と言いながら,上がり口の炉の一角へヘナヘナと座り込んで言うのでした。
 訪者「肉鍋は全部捨てなさい。盛ったお椀も捨てなさい。鍋は一晩川に沈めて置きなさい。片付けたらゆっくり,死んだ兎の話をします」
 と教えてくれたのです。
 長兄が「五郎。お前が川へ捨てて来い」と言って,肉鍋をそっくりそのまま私に渡しました。
 悪い事をしたのではなかったと思ったら,急に元気が出てきました。「はい」と言って,さっきまでブツブツ煮えたぎっていた鍋を持って急いだのです。せめて可愛がって育てている鯉にでもと思って足先を池の方に向けたのでしたが,暗さは暗いし,重い鍋を下げて万一転倒したらと考えたら怖くなって中止し,いつもの小川の洗い場へ向かいました。
 橋の真ん中に立って,ゴボゴボゴーッと音を立てて溢れ落ちる水つぼの深い所を目がけてドボンと勢いよく一気に沈めました。渦巻く水面から,かすかな白い湯気とともに,たまらない肉鍋の甘い匂いが周りに漂い,鼻を突くのでした。中の物は水中をグルグル回り転げながら浮き上がり,黒い川面を浮いたり沈んだりして川下へ静かに流れて行くのがかすかに見えていました。帰ったら,すぐ「そこに座れ」と言われました。
 訪者「山で死んだ兎を拾って食べ,苦しんだ挙げ句,一家5人が全滅した」
 そして,その話を細々(こまごま)と知らせてくれるのでした。しかも,話にあった「甲地」という部落を今日さっき通ったばかりであった事を思い出して,背筋がゾーッと寒くなるのを感じたものでした。話が終わって訪者(助け人)との別れ際,誰言うともなく兄弟一同正座して深々とお辞儀した様は,まさに不動明王を奉拝するそのものの様相に似ていたものでした。
 「いやあー。お陰様で助かった」
 と,心の中で思わず合掌しました。食べなかった事で一件落着と,ほっと胸を撫で下ろしていたのでしたが,事はそんなに単純なものではなかったのです。天の神ならぬ悪魔の仕業か,これで無罪放免とならぬ事を誰もが予期しておらず,新たな事件が展開されていくのでした。


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