英国のロスリン研究所で,体細胞からクローン羊を作成することに成功したという衝撃的な記事が新聞に載ったのは,今から約20年前の1997年2月24日でした。「成体の体細胞から新個体が生じるなんて,そんなことあり得ない!」と私は叫びました。世界中の多くの人達もそう思ったにちがいありません。それまでの生物学の常識では考えられないことだったからです。でも,このニュースは本物でした。
クローン羊ドリー

 図:クローン羊誕生の新聞記事。

 詳しい話をする前に少し関連知識を紹介しましょう。
 まずはクローンについて。クローンとは1個の細胞から分裂・増殖し,元の細胞と同じゲノム(遺伝子構成)をもっている一群の細胞のことです。この細胞群から新しい個体を何匹も作成すれば,それらの個体もまた同一のゲノムをもつことになり,クローン個体と呼ばれることになります。
 次に,哺乳動物の発生について。ヒトを含む哺乳動物の受精卵は細胞分裂を繰り返して「胚盤胞(はいばんほう)」と呼ばれる初期発生胚に変化します。胚盤胞は透明帯という薄い膜で包まれており,その内部には胞胚腔と呼ばれる大きな空所があります。まるでゴムボールのようです。やがて透明帯は消失し,胚盤胞は子宮粘膜に着床します。
 胚盤胞には2種類の細胞群があります。一つは,胚盤胞の一番外側にあり,将来胎盤になる細胞群(栄養膜細胞)です。もう一つは,栄養膜細胞の内側の一ヶ所に集まって存在し,将来,胎児になる細胞群(内部細胞塊)です。
マウスの胚盤胞

 図:マウスの胚盤胞。矢印の部分が内部細胞塊。

 内部細胞塊の細胞は,将来,体を構成するすべての細胞に変化する(「分化」という)能力(万能性)を持っています。その後,内部細胞塊は外胚葉,中胚葉,内胚葉の3層に分かれ,皮膚,脳,筋肉,心臓,骨など色々な臓器に分化してゆきます。いったん皮膚に分化した細胞は分裂・増殖しても皮膚にしかなれず,筋肉の細胞は分裂・増殖しても筋肉にしかなれません(単能性)。体を構成する細胞はすべて同じゲノムを持っていますが,各細胞の役割が決まって行く過程で,その細胞が活動する上で必要のない遺伝子には“鍵”がかけられて働かないようになります。つまり,分化とは「細胞の持つ遺伝子のあちこちに鍵をかけながら,次第にその細胞の役割を規定してゆく過程」ということができます。「高等動物の分化の過程は一方通行で,逆戻りはできない(一度かけられた鍵を外すことはできない)。すなわち,単能性となった細胞はもはや万能性を取り戻すことはできない」。長い間,これが生命科学の常識とされてきました。しかし,今回のクローン羊の誕生によって,この常識が覆されたのです。
 「万能性」のことをもう少し正確に書きます。初期卵割胚の割球細胞は胎盤と内部細胞塊のどちらにも分化できるので,「全能性である」といいます。一方,内部細胞塊は,体のすべての細胞に分化できますが,胎盤になる能力をもっていないので,正確には「多能性である」といいます。しかし,一般向けの話のときには,内部細胞塊が体のどの組織にもなれるという意味を強調して,「万能である」,「万能細胞である」と表現されることが多いのです。
 新聞報道からしばらくして,雑誌「遺伝」(1997年7月号)のトピックスにもクローン羊の解説記事が載りましたので,その図を利用しながら研究内容を紹介しましょう。
クローン羊の作り方

 図:クローン羊の作り方。

 まずは,従来のクローン羊の作り方(図の左側)について。
 受精卵が卵割を繰り返し,32細胞胚になったとき,1個の割球細胞を取り出します。これを,核を取り除いた未受精卵の脇(透明帯の内側)に注入し,電気刺激で細胞どうしを融合させます。割球細胞由来の核は全能性をもっているので,融合胚は卵割を繰り返して正常な胚盤胞へと発生します。この胚を代理母ヒツジの子宮内へ移植すれば,仔ヒツジが誕生します。もし,32個の割球細胞を別々に発生させ,うまく誕生させることができれば,32匹の仔ヒツジたちはクローン個体ということになります。
 次に体細胞からのクローン羊の作り方(図の右側)について。
 雌ヒツジの成体から採取した乳腺上皮細胞を継代培養した後,5日間,貧栄養条件下で培養し,乳腺細胞の細胞周期を休止期(G0期)に誘導します。この処理が,乳汁を作るしか能のなかった細胞(単能性)に,初期胚の細胞と同様の全能性を具えさせたと考えられています。この操作を「細胞の初期化」といいます。このG0期細胞を除核した未受精卵に電気融合させます。このような手順でうまく融合した細胞277個を数日間ヒツジの輸卵管内で培養した後,247個が回収されましたが,そのうち29個のみが移植可能な桑実胚~胚盤胞まで発生していました。この29個が13頭の代理母ヒツジの子宮に移植され,1頭の仔ヒツジ「ドリー」が誕生しました(1/277という低い成功率ではありますが)。この方法を繰り返して仔ヒツジを複数作れば,それらはまったく同じゲノムをもつクローン個体ということになります。そのため,ドリーはまだ第1号ですが,「クローン羊」と呼ばれました。
 体細胞核の移植でクローン個体を作出するということは,すでにカエルでは成功しています(ガードンの実験)。その後,哺乳類でも成功していますが,その方法というのは,初期発生胚の割球細胞の核(まだ全能性を保持している)を卵細胞に入れて発生させるというものです(図の右側)。今回のように,完全に分化を終了した細胞からクローン個体を作出したことは驚くべき結果です。この研究により,条件が整えば,単能性細胞も万能性細胞に逆戻りできることが明らかになりました。
 「外胚葉性の乳腺細胞が体外培養条件を変えただけで本当に全能性に戻る(初期化される)ものだろうか・・・と,いまだに信じられない気持ちだ。もし,これが本当ならば,将来,事故などで失った手足の回復や癌化した臓器の交換などが可能になるかもしれない。すごい発見だ」と,当時の私のノートに記されていました。
 こうして誕生したクローン羊のドリーは,その後どうなったのでしょうか。その後日談については次回紹介したいと思います。