太平洋戦争史ブログ

太平洋戦争の歴史を綴ったブログです

第二次朝鮮戦争シュミレーション【番外編第13】

今回はもし第二次朝鮮戦争が勃発したら、どのような戦いになるのか?シュミレーション(予想シナリオ)を述べていきたいと思う。

多くのマスコミや専門家が関心を寄せている、北朝鮮の核兵器関連施設へのアメリカ軍の攻撃は当然、あり得るとは思うが、メインは大規模な地上戦になるだろう。

大方のマスコミや専門家によると、開戦当初から米韓軍は北朝鮮軍を圧倒し、38度線(南北国境線)を越えて北朝鮮に進撃し、その後まもなく、首都ピョンヤンを占領するだろうという予想が大方を占めているように思われる。


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これに関して私は全く反対のシナリオを予想している。つまり、開戦初頭の地上戦は『北朝鮮優位』に進むだろうということである。


私がそう考える理由を下記列挙したいと思う。


1.北朝鮮陸軍兵力は米韓陸軍の”約2倍”であること

装備の古さや食糧不足といった問題点はあるもの、北朝鮮陸軍は100万人を超える大兵力を擁している。対する韓国陸軍は約50万人、在韓米陸軍にいたっては2万人強である。北朝鮮陸軍が“数”に物を言わせて、(旧式とはいえ)多数の砲兵部隊による砲撃の援護のもと、“人海戦術”で韓国になだれ込んでくれば、米韓軍は退却を余儀なくされると思われる。


2北朝鮮軍自走砲

2.ソウルが38度線の近くにあること

韓国の首都ソウルは、38度線からわずか40キロ程度のところにある。このことは北朝鮮軍に2つの優位性をもたらすことになると思われる。第1に北朝鮮軍の数百門の火砲(大砲)の射程距離圏であることである。数年前、北朝鮮の外交官が「ソウルを火の海にする」と発言したことがあるが、この言葉は『”誇張”ではあっても”虚構”』ではない。第2に北朝鮮軍のソウル郊外の市街地、または中心部に進撃できる可能性が高いことである。もしそのような事態になった場合、米韓軍は北朝鮮軍への空爆が行えなくなる可能性が出てくると思われる。地上兵力の格差を、圧倒的に有利な空軍力で埋め合わせるというのが、米韓軍の”基本戦略”である。このことは朝鮮戦争(1950~53年)で実証済みである。しかし、ひとたび北朝鮮軍がソウルの市街地(住宅街)への進撃を果たしたところに、空爆を実施すれば韓国市民を巻き添えにしてしまう。米韓軍が空爆を躊躇している間に、北朝鮮軍がどんどん南下していくというシナリオは十分可能性があるのではないかと思われる。


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3.韓国軍の反撃能力の不確実性

私は韓国や韓国軍を過小評価するつもりは全くないが、韓国軍の反撃能力や非常時の即応力にはかなり疑いを持っている。たとえば2010年の延坪島(ヨンピョン島)砲撃事件や同年の天安沈没事件(韓国哨戒艇が北朝鮮海軍に攻撃、撃沈された事件)などの事例のように、北朝鮮軍が武力行使した際の韓国軍の対応がいつも、後手後手に回っている感が否めないからである。さらに付け加えれば数年前に北朝鮮軍の兵士が38度線の韓国軍の地雷原や警戒ラインをやすやすと突破して韓国側警備室の扉をノックしたという事例もある。


4延坪島(ヨンピョン島)砲撃事件

以上のことから、第二次朝鮮戦争が勃発した場合、開戦初頭は北朝鮮軍が米韓軍を押しまくるという状況になるのではないかと予想する。そして米韓軍は、38度線どころか、漢江のラインも維持できないのではないかと推測する。そうなるとソウルの維持も困難になると思われる。

ソウルから退却した米韓軍は、防御に適した地形に防衛線を築くものと推測される。具体的には大田市北を流れる錦江にそって、部隊を配備し防衛ラインを構築すると推測する(また大田市は韓国中部の交通の要衝であり、道路も集中しているため、燃料、弾薬、食料、その他軍需物資を集積する後方支援拠点及び司令部の設営地に適していると思われる)。


5洛東江防衛ラン(丸で囲まれた地域)

ちなみにもしこの錦江防衛ラインも突破された場合は、朝鮮戦争(1950~53年)の時のように、洛東江の線(韓国南部)まで後退せざるを得ないと思われる。

しかしながら錦江か洛東江の防衛ラインまで北朝鮮軍が進撃した場合、さすがに北朝鮮軍も補給線が伸び切り、攻勢も限界点に達するのではないかと思われる(米韓軍は圧倒的に優勢な空軍力を駆使して、北朝鮮軍の補給路への空爆を行って、北朝鮮の補給線を締め上げていくものと予想する)。

北朝鮮軍の疲弊するタイミングを見計らって、米韓軍は一気に反転攻勢に転じるものと思われる。攻勢は朝鮮戦争時のように、戦線後方への大規模な別動隊の上陸、即ち仁川上陸⇒ソウル侵攻、あるいはより野心的な北朝鮮の元山上陸⇒平壌侵攻の2つが考えられると予想される。

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あるいは戦線後方への上陸作戦を“陽動”とし、北朝鮮軍の注意を仁川、元山方面にそらし、北朝鮮軍の戦力の一部を仁川、元山方面に移動させ、主戦線の戦力を弱体化させた後、北朝鮮軍の防御の薄いポイントに戦力を集中、突破、その後北朝鮮軍主力部隊を包囲、撃滅するという“電撃戦”という選択肢もあり得ると思われる(1940年のアルデンヌ、ダンケルクの再現、乃至は1991年の湾岸戦争の砂漠の嵐作戦の再現)。

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北朝鮮軍敗退後のシナリオはいくつかあると思われる。具体的には1)北朝鮮体制崩壊⇒新政権発足、2)米韓軍、北朝鮮に侵攻⇒親米韓政権発足or南北朝鮮統一、3)北朝鮮混乱⇒“治安維持”と称して、中国軍が北朝鮮を占領する⇒親中政権発足、が考えられる(いずれのパターンが発生しても、間もなく戦争は終結すると思われる)。

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核ミサイル(ICBM)及び関連施設だが、米軍は最重要ターゲットと捉えているものと考えられるので、開戦直後から米空軍及び海軍(巡航ミサイルなどを装備したイージス艦及びトライデント級、ロサンゼルス級潜水艦)による、徹底的かつ集中的な攻撃を受け、恐らくは発射される前に壊滅的ダメージを受けるものと推測する(湾岸戦争で多国籍軍が、イラク軍のスカッドミサイルや関連施設を空爆したように)。

以上が私が予想する、第二次朝鮮戦争シナリオである。




マッカーサーは名将か?【番外編第12回】

ダグラス・マッカーサー。言うまでもなく太平洋戦争で活躍した、アメリカ陸軍軍人である。

このブログ本編(第27回 バターン半島の戦い)や拙著でも触れているように、開戦直後はフィリピンの戦いで日本軍に敗れて、オーストラリアに脱出したものの、その後は南西太平洋方面軍を率いて、パプアニューギニアや、フィリピンで日本軍と戦い、連合国軍を勝利に導いた。

太平洋戦争終結後は連合軍最高司令官として、戦後の日本を統治した。そして朝鮮戦争では国連軍最高司令官として、国連軍(米韓英豪トルコなど)を指揮している。

1ダグラス・マッカーサー


『ザ・ワールド・ウォーズ』(ヒストリーチャンネル)というドキュメンタリー番組では、マッカーサーを「たぐいまれな名将」と褒めたたえている。
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確かにパプアニューギニアのホーランジア、アイタペや朝鮮戦争での仁川(インチョン)など、敵の意表を突いた上陸作戦を成功させた事例を見れば、名将と言えるだろう。

また戦史上、士官学校を優秀な成績で卒業した軍人が有能な指揮官となった例は(私の知る限り)極めて少ないと思われるが、その点では、マッカーサーは非常に”稀有”な軍人とも言えるのではないかと思われる(マッカサーの士官学校入学時と卒業時の成績はともにトップであった)。

さらに1930年には、アメリカ陸軍史上最年少の50歳で、陸軍トップの陸軍参謀長に就任している。

士官学校の成績はトップ、後方勤務でも参謀長というトップのキャリアをこなし、なおかつ戦場での指揮官としてもいくつもの勝利を収めたマッカーサーは、キャリア面から見ると、”バランスのとれた軍人”と言えるのではないかと思われる。

「だが本当にマッカーサーは名将なのだろうか?」このブログ本編を書いていた時から、常々このような疑問を持っていた。

その一つの例が朝鮮戦争である。

前述した仁川上陸作戦を成功させたマッカーサーは、国連軍を北上させ、北朝鮮軍を中朝国境(鴨緑江)近くまで追い詰める。その北朝鮮を救うべく、中国がアメリカにメディアを通じて”警告”を発したが、マッカーサーはただの「ハッタリ」であると一蹴した。

それでも中朝国境付近に集結しつつある、中国軍(義勇軍)の動きを国連軍の偵察機はキャッチし、マッカーサーに報告している。しかしマッカーサーは中国の参戦の可能性や、その兵力などを過小評価し、何ら有効な対策を立てなかった。その結果、中国軍の奇襲を受けた国連軍は敗走し、38度線(南北朝鮮国境)まで押し戻されてしまったのである。

『GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり』というプレジデントオンライン記事では、この時のマッカーサーの無能ぶりをボロクソにけなしている(事実なので反論のしようもないと思われるが・・・)。
2朝鮮戦争のアメリカ軍

ただ、マッカーサーの指揮官の資質を疑いたくなるもう一つの事例がある。

それは「フィリピンの戦い」である。フィリピンの戦いといってもここで取り上げたいのは、マッカーサーが日本軍に占領されたフィリピンを奪回するために、アメリカ軍を率いて戻ってきた1944~45年(昭和19~20年)の戦いではない。太平洋戦争開戦直後の1941~42年(昭和16~17年)の戦いである。

この戦いでマッカーサーの指揮官としての資質を疑う事例は、次の2つである。

1.開戦前(1935~41年)
2.開戦後(1941~42年)

まず1について述べたい
ブログ本編でも述べているように、アメリカ陸軍を退役したマッカーサーは、1935年にフィリピン軍の顧問となった。

当時アメリカの植民地であったフィリピンは、アメリカ議会の議決によって1946年(昭和21年)に独立することが決まっていた。その独立への準備の一環として、フィリピン軍が創設された。マッカーサーの使命は、フィリピンが独立するまでにフィリピン軍を整備することであった。

3aフィリピン軍


しかしフィリピン軍の整備は遅々として進まなかった。予算不足のため、十分な数の兵士も、武器や装備も整えることができなかった。

当時マッカーサーの副官として、マッカーサーとともにフィリピンに赴任したドワイト・アイゼンハワーは、このフィリピン軍整備の実務を担当していた。

アイゼンハワーはフィリピン軍整備のため、マッカーサーにアメリカ政府に追加予算を要求するよう願い出た。しかしマッカーサーは、フィリピン軍整備にあまり関心がなかったのか、アメリカ政府が許可した追加予算は、アイゼンハワーが見積もった額の10分の1以下であったと言われている。

ブログ本編でも触れているが、マッカーサーはフィリピン政府から高額な報酬と宿舎(マニラホテルのスウィートルーム)を与えられていた。それなのにフィリピン軍の整備が遅々として進まなかったのは、”職務怠慢”と言われても仕方ないのではないだろうか?

またマッカーサーのフィリピン軍顧問在職中、日米の関係は次第に悪化していき、両国の開戦の可能性は日に日に高まっていった。それにも拘わらず、マッカーサーはフィリピン軍の整備を怠っていたのである。

その結果、太平洋戦争開戦時にフィリピン陸軍は兵力約10万人と、数だけは取り揃えたが、武器と装備、そして訓練は”絶望的”と言えるほど不足しており、到底中国戦線で戦闘経験を積んだ”百戦錬磨”の日本軍の敵ではなかった。
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フィリピンの戦いで指揮を執るマッカーサー(右)とウェインライト少将(左)


これがマッカーサーの指揮官としての資質を疑う、1つ目の事例である。


次に2つ目の事例(開戦後)について述べていきたい。

太平戦争開戦後、フィリピンに駐留していたアメリカ航空機部隊(極東航空軍)指揮官のブレアトン少将は、台湾の日本軍航空基地への攻撃をマッカーサーに進言した。しかし、マッカーサーは許可を出さなかった。この結果、台湾から出撃した日本軍航空機部隊は易々とアメリカ軍航空基地を攻撃した。アメリカ軍航空部隊は飛び立つこともできず、その大半は地上で破壊されてしまった。

これが開戦後にマッカーサーがおかしたミスの1つ目である。

ミスの2つ目は、地上戦での指揮ぶりである。

前述したように、訓練・装備ともに不足していたフィリピン陸軍約10万人とフィリピンに駐留するアメリカ陸軍約2万人(彼らの大半も訓練不足であった)では、到底、フィリピン全土の防衛は不可能であるとワシントンのアメリカ軍首脳部は開戦前から判断していた。

そこでアメリカ軍は、日本軍がフィリピン(特に首都マニラのあるルソン島)に上陸してきたら、マニラを放棄し、地形の険しいバターン半島と要塞化したコレヒドール島に立てこもり、アメリカ本土からの援軍が到着するまで持ちこたえるという作戦をたてた。

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ところが開戦前に、マッカーサーはこの作戦からフィリピン全土で日本軍を迎え撃つ作戦への変更を決定した。


マッカーサーが作戦を変更した理由は「アメリカ・フィリピン(米比)軍は日本軍と互角に戦える」というものであった。しかしこれは何の具体的根拠も持たないものであった。

ところが1941年(昭和16年)12月にフィリピンに上陸した本間雅晴中将率いる日本軍約4万人の前に、米比軍は敗退を続け、マニラの防衛もおぼつかい状態となった。


そこでマッカーサーは、再び従来の作戦、即ちマニラを放棄し、地形の険しいバターン半島と要塞化したコレヒドール島に立てこもる作戦への変更を命じた。

4マニラに進撃する日本軍


ただちに米比軍はマニラを捨て、バターン半島への退却を開始した。しかしこの急な作戦変更そして、日本軍の進撃スピードの速さのため、長期間籠城するための十分な食糧や医薬品をバターン半島とコレヒドール島に輸送することはできなかった。

更にバターン半島には避難民約3万人が逃げ込んでいた。その結果、米比軍はバターン・コレヒドールの籠城戦初頭から、食糧と医薬品不足に苦しむことになった。

結局、マッカーサーは翌1942年(昭和17年)3月に約8万人の部下を残したまま、コレヒドール島からオーストラリアに脱出した。

残された米比軍の兵士は、抵抗を続けたが、食糧不足とマラリヤで多くの兵士が死ぬか病床に伏すようになり、これ以上の戦闘続行は困難になっていった。結局同年4月上旬にバターン半島の、翌5月初旬にはコレヒドール島の米比軍が日本軍に降伏した。

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コレヒドール島で降伏するアメリカ兵


戦闘終了後、降伏した米比軍兵士たちは皆痩せこけ、よろめきながらジャングルから出てきた(その後、降伏した米比軍兵士たちのうち、約1万人近くが「バターン死の行進」で死亡したと言われている)。

フィリピンでアメリカ軍が降伏した1か月後の6月に、ミッドウェー海戦で日本海軍は主力空母4隻を失うという大敗北をきっした。さらにその2か月後の8月には、アメリカ軍海兵隊が南太平洋のガダルカナル島に上陸している。

もしマッカーサーが”尊大”にならず、現実的かつ冷静に日本軍と米比軍の戦力差を認めて、フィリピンの戦いの当初から十分な食糧・医薬品を蓄えさせたバターン・コレヒドール
に立て籠もることを決定していたらどうなっていただろうか?

少なくともあと3か月から半年間くらいは、持ちこたえられたのではないだろうか?

そのうちにミッドウェー、ガダルカナルの戦いが起これば、日本軍の作戦も大幅な見直しを迫られた公算が大きかったのではないだろうか?

元々日本陸軍は太平洋・東南アジア方面に大兵力を送ることに消極的であったので(陸軍は自分たちの主要敵はソ連・中国であり、主戦場はアジア大陸だと考えており、この考えは太平洋戦争開戦後も変わることはなかった)、或いはもしミッドウェー・ガダルカナル後もフィリピンの米比軍が抵抗を続けていたら、太平洋戦争の継続そのものに陸軍は反対(講和の主張)をするか少なくとも疑問は呈していたのではないだろうか?

そう考えると、マッカーサーはもしかしたら太平洋戦争早期終結の機会を自ら潰してしまったと言えるかもしれない。自分のプライドを数万人の兵士たちの命と引き換えにして。

マッカーサーの朝鮮戦争での指揮については、多くの本やドキュメンタリー番組で取り上げられている。しかしフィリピンの戦い(1941~42年)でのマッカーサーの指揮については、アメリカ本国でもあまり検証されていないように見られる。

しかし死ななくてもよかったかもしれない、アメリカ・フィリピン兵たち(とフィリピンの民間人たち)数万人の命を奪い、更に太平戦争の早期終結の芽を摘んでしまったという、”とてつもない”大きなミスをマッカーサーは犯してしまったと言うことができるのかもしれない。

もしそうだとすればマッカーサーは、名将どころか”歴史に残る愚将”として、後世記憶されることになるかもしれない。
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マッカーサー記念館(バージニア州ノーフォーク)のマッカーサー像


映画「マッカーサー」予告編(グレゴリー・ペック主演)

会津落城の悲劇と太平洋戦争・後編【第11回】

前回の

会津落城の悲劇と太平洋戦争・前編【第10回】

に引き続き、今回は戊辰戦争開戦前の会津藩と、太平洋戦争開戦前の日本の共通点について、述べていきたい。

幕末から戊辰戦争にいたる、会津藩の経緯を追いながら、太平洋戦争開戦にいたる日本の過程と比較していきたいと思う。

1853年、アメリカの黒船来航により日本は開国を迫られた。
時の政権である江戸幕府は、アメリカやイギリス、フランスなどの欧米列強に半ば”押し切られる”という形で、開国を認めた。

これに激しく反発した、全国の尊王攘夷(天皇を敬い、外国勢力を打ち払おうという考え)の志士(主に浪人)たちは、天皇のいる京都に集まり、幕府や開国を支持する要人や武士などを次々と暗殺していった。その結果、京都の治安は急速に悪化した。

事態を重く見た幕府は、京都の治安維持を目的とした”京都守護職”を新たに設置、会津藩主松平容保をその役に任命した。

1松平容保

当初容保は辞退したが、たび重なる幕府からの要請により、結局引き受けることとなる。

容保は約1000人の会津兵を率いて京都に駐留した。その後、浪士によって結成された新撰組も”会津藩お抱え”となり、京都の治安維持にあたった。

しかしこの京都守護職は、会津藩に多大な出費を必要とした。幕府から財政援助はあったものの、きわめて微々たるものであったため、会津藩は多大な財政負担(財政赤字)を負うこととなった。

これが後の戊辰戦争での、会津藩の敗因の一つとなった。京都守護職に関わる多大な出費によって、会津藩は資金が枯渇し、薩摩、長州、土佐のように、十分な数の銃や大砲などの”近代兵器”を海外から購入して、そろえることができなかったのである。

2新政府軍

これは太平洋戦争開戦の約4年前から日本が、中国との全面戦争(日中戦争)を行い、その結果、太平洋戦争開戦の時点で、すでに日本の経済や産業は弱体化していたことと似ている。事実、当時の日本の国民総生産(GDP)や鉄鋼の生産量は、太平洋戦争開戦2年前の1939年(昭和14年)をピークに、その後下降の一途をたどっていたのである。

つまり太平洋戦争前の日本にとっての日中戦争が、会津藩にとっての京都守護職だったといえるのではないだろうか。

また京都駐留時に、会津藩や新撰組が、取り締まった尊王攘夷派の志士たちには、薩摩、長州、土佐の出身者が多数含まれていた。その結果、戊辰戦争で、会津藩はこれら薩長土佐、とりわけ長州から”目の敵”にされた。

これは大陸で戦線がどんどんと広がっていった日中戦争で、中国人が日本への敵意を深めていったことと、アメリカをはじめとする欧米諸国と日本の関係が悪化したことと似ているように思われる。

さらに幕末では、京都が当時の日本の政治・政争の中心あった。つまり会津藩は、当時の日本のめまぐるしく変わる政情に関する最新情報を得られる立場にあったのである。

薩長などはこれを最大限活用した。そして幕府の勢力が日に日に衰えていき、もはや政権を維持する力がないと判断したこれら雄藩は、同盟を組んで、幕府打倒へと動いていくのである。

一方、会津藩はこの動きからまったく取り残されてしまった。明らかに会津藩には、天下の情勢に関する情報収集への意識が薄かったと言わざるを得ないだろう。

これは満州事変で国際連盟を脱退し、国際的孤立を深めていった日本に似ていると思われる。

最後に会津戦争において、会津兵は自国の領民から食糧を略奪し、時には「新政府軍に利用させないため」という理由で、村を焼き払っている

3会津藩兵

このことを深く恨んだ会津の領民たちは、自ら進んで新政府軍に協力して、道案内などを行った。前回で触れたように、新政府軍が会津軍の守りの薄い、母成峠を攻めたのも、領民たちからの情報提供や道案内によるところが大きいと言われている。

太平洋戦争末期においても同様のことがあった。日本軍はフィリピンやビルマ、ベトナムなどで、住民から食糧や家畜を”強制的に”徴収した(特にベトナムでの米の強制徴収により、ベトナムでは深刻な飢餓が発生し、一説によれば約200万人のベトナム人が餓死したと言われている)。

この影響で、これらの地域での反日、抵抗運動は激化した。そしてこれらの抵抗組織は、侵攻してきた連合軍に積極的に協力したり、連合軍から供与された武器で日本軍にゲリラ攻撃を仕掛けた。

「歴史は繰り返す」と言われるが、会津落城の悲劇と太平洋戦争の敗戦の類似点は、その一例と言えるのではないだろうか?










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