太平洋戦争史ブログ

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番外編 第5回 石橋湛山

拙著「いまこそ読みとく太平洋戦争全史」に入れたかったが、断念した人物やエピソードがいくつかある。

今回はそのうちの一人、石橋湛山(いしばし たんざん)について触れたいと思う。

はじめに石橋湛山がどういった人物で、太平洋戦争とどう関わったかについて述べたい。

石場湛山は戦前から「日本は海外領土拡大政策を捨てるべきである、さらに当時保持していた植民地(朝鮮、台湾など)を放棄すべきである」と主張した人物である。

また戦後は、政治家・閣僚(大蔵大臣、総理大臣など)として活躍し、日本のアメリカ一辺倒の外交政策を批判し、ソ連(ロシア)、中国とも同等に付き合う「均等外交」を提唱した人物である。

1石橋湛山


では湛山について少し詳しく見ていきたいと思う。

湛山は1884年(明治17年)、東京に生まれた。父親は、日蓮宗の僧侶であった。

湛山は早稲田大学に入学した。専攻は哲学、とくにアメリカで発達した”プラグマティズム(実用主義)”であった。

大学卒業後、毎日新聞、陸軍勤務などを経て1911年(明治44年)、東洋経済新報社に入社した。

1921年(大正10年)、湛山は東洋経済に「一切を棄つるの覚悟」というタイトルの社説を執筆している。

この社説で湛山は、冒頭で述べた「日本は海外領土拡張政策とすべての植民地を放棄するべきである」という主張を行っている。

湛山のこの主張は、理想主義から出たものではなく、現実的な見地から導き出された結論であった。

「かつて植民地は、自国経済の発展、繁栄に必要な時代もあった。だが現在では、植民地の統治・運営や、軍隊駐留などにかかるコストの方が高くつくようになった。ならばいっそのこと、これら植民地を独立国とし、その上で貿易を行うべきである。そうすれば我が国は、植民地維持のためのコスト負担から解放され、貿易から得られる利益(果実)だけを享受することができる」これが(きわめて大雑把ではあるが)、湛山の主張の主旨である。

その後昭和に入って、満州事変、日中戦争と日本が中国への軍事的関与(要するに”侵略”)を深めていく中、湛山は反対の論陣を張った。

「”満州、朝鮮は日本の生命線だ”と主張する輩が多いが、これは本当だろうか?我が国と米英との貿易額は満州、朝鮮とのそれをはるかに上回る。しかるに我が国は満州問題で、米英との関係を悪化させ、両国との貿易関係にも悪影響を及ぼしている。我が国の国益を経済的見地から考えてみれば、満州・朝鮮と米英との関係、貿易維持、どちらがより重要かは自明の理である」。湛山はこのような主旨の主張をしたのである。

日本のみならず、ヨーロッパ、アメリカといった世界の主要国の間で、「植民地」という概念が当たり前だった大正時代に、湛山が「一切を棄つるの覚悟」を執筆したことは、いかに湛山が慧眼であり、時代の先を読んでいた人物であったかを示す事例と言えるだろう。

余談だが拙著でも述べたが、世界恐慌後、大蔵大臣に就任した高橋是清が取った政府による”積極的な財政政策”は、”自由放任主義”(要するに恐恐や不景気など、放っておけばそのうちなんとかなるという考え方)が世界の経済学の主流であった当時において、極めてユニークな政策であった。

2高橋是清


しかしその後、イギリスの著名な経済学者であるケインズが、国による積極的な経済介入などを骨子としたいわゆる、”ケインズ経済学”を確立したことにより、後に高橋は「ケインズ以前の”ケインジアン”(ケインズ主義者)であった」と評価されることになる。つまり高橋も湛山同様、”時代の先を読んだ”(あるいは読める)人物だったのだろう。

余談の余談で恐縮だが、時代を先取りした日本人に安藤昌益(あんどう しょうえき)という人物がいる。この安藤は明治でも大正でも昭和の人物でもなく、江戸時代、しかも元禄時代に生きた人物である。

安藤は秋田藩出身の医師であり、思想家であり、哲学者であった。彼はまだ幕藩体制が強固であった元禄時代(五代将軍綱吉)にあって、士農工商という身分制度を批判し、完全な平等主義を唱えた。また安藤は「働きもせず、ただ農民から搾取する武士」を”盗人”呼ばわりした。さらに”お布施”や”寄進(寄付)”という形で庶民から富を得る、僧侶、はては信仰の対象である仏さえも”泥棒”、”悪党”呼ばわりしている。

3安藤昌益


ただし生前、安藤は自分の著作を公開せず(当たり前だが)、そのため長い間、安藤の名と彼の思想は誰にも知られることはなかった。

安藤の存在と彼の思想が初めて知られたのは、太平洋戦争後のことであり、それを紹介したのは、当時駐日カナダ大使であり、日本学者であったハーバート・ノーマンという人物であった。

4ハーバート・ノーマン


すっかり余談が長くなってしまった。話を元に戻したいと思う。

湛山のこのような主張、思想はおそらく、大学時代に学んだ”プラグマティズムに依るところが大きいのではないかと思われる。

付け加えると、湛山は大学卒業後、社会人になってから独学で膨大な経済学の本を、”原書”(和訳ではなく)で読み漁って、経済に関する知識、見識を深めた。

しかし日本は結局、太平洋戦争に突入した。

戦争中も湛山は東洋経済社長として、東洋経済の発行を続けた。政府や軍の目が厳しくなったため、その論調はトーンダウンしたものの、巧みに当局の検閲をかわして、雑誌の発行を続けた。

終戦直後、湛山は「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」という論説を発表し、「日本は科学立国として再建できる。日本の将来は明るい」と述べている。

戦後、湛山は自由党(後の自民党)の政治家として、大蔵大臣などを歴任した。そして1956年(昭和31年)に自民党総裁選で対立候補の岸信介を僅差で破り、総理大臣に就任した。

5石橋内閣


しかしその後まもなく軽い脳梗塞にかかり、湛山は入院することになる。

医者からは「2か月間の治療が必要」と言われた。しかし湛山は「2か月とはいえ国会答弁など、政務が執行できない」ことを理由に、首相を辞任することを決めた。

周囲からは「辞職する必要はありません。総理代行(すでに岸信介がその任についていた)を立てればいいではないですか」という慰留の声が多かったが、湛山は「私の政治的良心に従う」と述べ、潔く総理を辞任した。総理在任期間はわずか65日であった。

その後、湛山は「日本は中国、アメリカ、ソ連との友好関係を深めるべき」という「日中米ソ平和同盟」を主張した。そして1959年(昭和34年)にまだ国交がなかった中国を訪問、周恩来首相と会見を行っている。

1972年(昭和47年)、日中国交正常化交渉のため、中国訪問をひかえた田中角栄首相は、出発前、すでに政界を引退していた湛山の新宿の自宅を訪問している。

田中は病床にあった湛山の手を握りしめて言った。「石橋先生、これから中国へ行ってまいります」。
同年「日中共同声明」が締結された。

6田名角栄と周恩来


翌年の1973年(昭和48年)、湛山はその生涯を終えた。享年88歳。

湛山が亡くなった5年後の1978年(昭和53年)、日中平和友好条約が締結された。そして1989年(平成元年)、米ソ首脳によるマルタ会談が開催され、冷戦の終結が宣言された。

終生、徹底的な現実主義の視点から時代の先を読み、世界と日本の共存と繁栄の道を説いた人物、それが石橋湛山であったのではないかと思う。









番外編 第4回 ヒトラーは生きている?

今から72年前の1945年5月、ナチス・ドイツは連合軍に無条件降伏した。その前月末にアドルフ・ヒトラーは自殺した。今回はこのヒトラーを取り上げたいと思う。
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ヒトラーに関する誤解

ヒトラーは、その著書「我が闘争」で、「自分は若い頃から、根っからの反ユダヤ主義者、反共産主義であった」といった趣旨のことを述べている。しかし、これは事実ではないようである。

青年期、ヒトラーはウィーンで暮らしていた。この当時の彼の夢は、「画家」になることであった(結局美術学校受験に失敗したが)。

この時、ヒトラーが熱烈に恋した女性はユダヤ人であった(しかし、シャイではにかみ屋のヒトラーは彼女に、告白どころか、声すらかけることができなかったのだが)。

映画「アドルフの画集」では、画家志望の青年ヒトラーと、ユダヤ人画商との交流の物語が描かれている。ストーリーはフィクションだが、ヒトラーが若いころからの反ユダヤ主義者でなかった点は事実と言えるだろう

映画「アドルフの画集」日本版劇場予告

 

また反共主義についてだが、彼は第一次世界大戦後、一時、共産主義グループの活動に参加していたという記録が残っている。恐らくは、戦後ドイツの政治的、経済的混乱と様々な政治グループ間の闘争の中で、次第に反ユダヤ、反共産主義へと傾いていったというのが、真相ではないかと思われる。

 

権力への階段と相次ぐ暗殺未遂

その後、ヒトラーが当時党員30人にも満たない弱小政党「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)」に入党し、そこで「演説」という天賦の才能を開花させて、有力政党にのし上げたのは、有名な話である。

ミュンヘン一揆や投獄といった、挫折を経つつもついに1933年、ナチスは政権与党となり、ヒトラーは首相に選出された。

その後、ヒトラーとナチス党は急速に権力を強化していった。そのヒトラーをドイツにとっての脅威と感じた人々も少なからずいた。そのような人々による、ヒトラー暗殺の試みは何度もなされた(記録に残っているものだけで、暗殺計画は40以上にのぼると言われている)。

初期の暗殺未遂で最も有名な事例は、1939年11月に行われた、ミュンヘン・ビヤホールでの爆殺計画であろう。ミュンヘンビヤホールで演説中のヒトラーを爆殺するという試みであったが、ヒトラーが予定より早く演説を終えて会場を去った後、ビヤホールに仕掛けられた時限爆弾が爆発、ヒトラーは難を逃れた。ちなみにこの暗殺計画は、たった1人のドイツ人の家具職人によって行われたことに、ナチス関係者は驚いたという。映画「ヒトラー暗殺、13分の誤算」はこの史実を描いた作品である。

映画『ヒトラー暗殺、13分の誤算』予告編  

最後にして最も成功しかけたヒトラー暗殺計画は、1944年7月に行われた、ヒトラー爆殺計画だった。これは首謀者のシュタウフェンベルク大佐が、ヒトラーが出席する作戦会議の会議室に時限爆弾を仕込んだ鞄を持ち込み、爆殺するという計画であった。爆弾は爆発したものの、ヒトラーは奇跡的に軽症を負ったに過ぎなかった(その後、シュタウフェンベルク大佐他、関係者及び容疑者数千名が処刑された)。

映画「ワルキューレ」この史実を描いた作品である。

映画『ワルキューレ』 予告編

 

ヒトラーは生きている?

結局ヒトラーは、翌年の4月にソ連軍に包囲されたベルリンの総統地下壕で、結婚したばかりの妻のエヴァ・ブラウンと自殺した。このヒトラーの最後の日々を描いたのが、映画「ヒトラー・最期の12日間」である

映画 『ヒトラー 〜最期の12日間〜』  日本語予告編

しかしヒトラーの死体は発見されなかった。そのため戦後長い間、「ヒトラーは生きている」という”ヒトラー生存説”が世界中で、広く語られるようになった。

私が子供のころに読んだ本には、「ヒトラーはベルリン陥落直前に、Uボート(潜水艦)で南米に脱出し、アマゾンの密林に秘密基地を作り、ナチス帝国の再建を目指している」、あるいは「ヒトラーは南極大陸に秘密基地を作り、そこから正体不明の飛行物体を世界中に飛ばしている。つまりUFOは、ナチスの秘密兵器なのである」などといった話が多数書かれていた。

なお、ヒトラー生存ではないが、戦後、ナチスの残党がヒトラーの遺伝子から体外受精で赤ん坊を生んで、”第二のヒトラー”を作ろうとするという、ストーリー(もちろん、フィクションである)を描いた映画で「ブラジルから来た少年」という作品がある。

映画「ブラジルから来た少年」予告編(英語)

 

結局、ヒトラーの死亡が確認されたのは、戦後約50年後のことであった。自殺したヒトラーの遺体は、彼の部下たちによって焼却された。その焼却遺体をソ連軍が、母国に持ち帰ったのである。しかしソ連はその事実を長年、隠していた。この事実が明るみになったのは、ソ連崩壊後のことである。現在もヒトラーの頭骸骨の一部と言われているものなどが、ロシア国内で厳重に保管されている。

 

自殺したヒトラーが、タイムスリップして、現在のドイツで生き返るという奇想天外なストーリーを描いたのが、去年(2016年)公開された、映画「帰ってきたヒトラー」である。

映画『帰ってきたヒトラー』予告編


映画レビュー「帰ってきたヒトラー」あなたは最後まで笑っていられるか

この映画の前半部分は、自分が未来にタイムスリップしたということが呑み込めないヒトラーと、現代のドイツ人との”ちぐはぐ”なやりとりが笑いを誘う、コメディーとなっている。しかし、「ヒトラーそっくりのモノマネ芸人」として一躍有名になり、テレビ・メディアで引っ張りだことなったヒトラーは、ドイツ人大衆が失業問題や、移民問題に不満を持っていることを見抜く。そしてこの状況は、自分が権力を握った1930年代とそっくりであることに気づいたヒトラーは、次第に政治活動を開始し、着実にドイツ国内に支持を広げていくという、後半では笑えないどころか、ある種の”怖さ”さえ感じてしまう構成になっている。

映画の終盤でヒトラーは言う「私は君たちの一部だ」。これは人間には、「日ごろ抱えている問題や不平・不満などを、誰か強力な指導者に解決して欲しい」といった願望や、「自分たちの生活が苦しいのは、国内で働く外国人たちだ」などどいった感情が常にあり、その願望や感情を体現してくれる人物、すなわち”独裁者”を常に求める傾向がある、ということを暗示しているように思われる。その意味では、ヒトラーは私たちの中に存在し、彼が”帰ってくる”日が来るかもしれないというのは、まったくの絵空事ではないかもしれない。

番外編 第3回 アメリカの移民政策が太平洋戦争を招いた?~トランプ移民政策と排日移民法

拙著「いまこそ読みとく太平洋戦争史」の広告が2月5日(日)毎日新聞の読書欄に掲載されました。


最近、アメリカ合衆国大統領、ドナルド・トランプの移民政策に関するニュースが連日、報道されている。
彼が打ち出している移民政策は主に下記2点である。

1.メキシコからの不法移民の入国を阻止するため、メキシコとの国境に壁を建設する。
関連記事:
砂漠の地道な支援活動=移民の移動経路に物資―米西部の対メキシコ国境
       トランプ氏、メキシコへ軍派遣を示唆? 麻薬組織制圧で

2.イスラム教徒の多い、シリア、イラク、イラン、リビア、ソマリア、スーダン、イエメンの7か国の移民の入国を90日間禁止。
関連記事:
<米入国禁止差し止め>当局、搭乗認める 仮処分全米で効力
       7カ国の客、搭乗再開=米大統領令差し止めで―全日空・日航
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イランを含むイスラム教国7カ国の難民や移民のアメリカ入国を大規模に制限する大統領令に署名したトランプ大統領

実はアメリカが特定の国や地域からの移民を禁止したり、制限したのは今回が初めてではない。1924年(大正13年)には日本からの移民を禁止したいわゆる「
排日移民法」がアメリカ議会で可決、成立している。

日本人のアメリカへの移民は、明治時代初頭から始まった。当初は主な移民先はハワイであったが、その後、アメリカ本土(主に西海岸)への移民も増えていった。

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アメリカに移民した日本人

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20世紀(1900年代)になると、アメリカで主導権を握っていた北ヨーロッパ系(イギリス、ドイツ、及び北欧)の白人たちは、増え続ける南欧、東欧、そしてアジア(日本、中国など)からの移民に脅威を感じるようになった。この頃、「自分たちの仕事や政治、経済面での主導権を奪われるのではないか?」という一種の強迫観念が北ヨーロッパ系の白人の間に広まっていたのである。
また「北ヨーロッパ系の白人こそが、人類文明を築いた”優れた人種”である」という考えが、当時のアメリカで広まっていたことも背景にあった。事実、1920年代には白人至上主義団体のクー・クラックス・クラン(いわゆる”KKK”)による、黒人、イスラム教徒、ユダヤ人などへの迫害(暴行、リンチ、殺人など)がほぼ”公然”と行われていたのである。

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ワシントンを行進するKKK

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KKKによって殺された黒人たち

このような時代背景のもと、1924年(大正13年)に「排日移民法」が成立したのである。この法律制定後、アメリカへの日本人移民は全面的に禁止された。

この排日移民法によって、日本は大きな移民先を失った。明治以降、日本は多産系であり、いわゆるピラミッド型の人口構成であった。その増えすぎた人口の最大の移民先がアメリカだったのである。これ以降、日本は別の移民先を見出さなければならなくなった。そして軍部(陸軍)主導により、日本は満州への進出を進めていったと言われている(ただし、当時から日本の人口、経済問題の解決策として海外に領土を広げるという考え方に異論をとなえた日本人もいた。石橋湛山(いしばし たんざん)はそのような異論を主張した有名な論客である。彼については、別の回で論じたいと思う)。

日系アメリカ人を描いた映画「ヒマラヤ杉に降る雪 」(出演:工藤夕貴ほか)。


そして1931年(昭和6年)に「満州事変」が起こり、日本は満州の事実上の”植民地化”を進めていった。

※満州事変については「第1回 世界恐慌と満州事変」を参照願います。
その後の日中戦争、フランス領インドシナ(ヴェトナム)への日本軍進駐等により、日米関係は急速に悪化し、太平洋戦争開戦にいたったのである。

このように戦前のアメリカの反日移民政策が、太平洋戦争の”原因”であったと見ることもできる。
もちろん太平洋戦争(第二次世界大戦)はアメリカをはじめとする、連合国の勝利に終わり、戦後アメリカは”超大国”の道を歩んでいった。しかしその一方、この太平洋戦争で決して少なくないアメリカ人の命が失われたことも事実である。

現在、多くのアメリカ人が移民によって自分たちの仕事が奪われるのではないかという恐れを抱いていることや、ヨーロッパやカナダなどで起こったイスラム系住民(移民)による”無差別テロ”に脅威を感じるのは、当然の感情とも言えるだろう。
しかし”一時の感情”で、特定の国や民族の移民に制限を加えることは、更なる国家間、民族間の対立を呼び、そしてテロや戦争といったより大きな悲劇を招く危険があることも、この「排日移民法」の事例から読み解くことができるのではないだろうか?

アメリカ合衆国は宗教、価値観などが異なる様々な民族で成り立っている国家である。多種多様な民族を受け入れてきた歴史の中で、アメリカはいろいろな苦難に直面してきた。南北戦争や、1960年代の公民権運動などは、その最たる例であろう。しかし、そのような困難や人種、宗教の違いを克服し、そして”多様性”とあらゆる人種、宗教、価値観を受け入れる”寛容性”によってアメリカは現在の”超大国”の地位と繁栄を築き上げてきたのだと思う。

南北戦争で、アメリカ上初めて編成された黒人部隊(北軍)の実話をもとにした映画「グローリー」(
第62回アカデミー賞および第42回ゴールデングローブ賞受賞、監督エドワード・ズウィック、出演:マシュー・ブロデリック、デンゼル・ワシントン、モーガン・フリーマン他)


歴史上、アメリカは”保守的”になる時代がしばしば存在する。1920年代の白人至上主義(これに禁酒法も加えることもできるかと思う)、そして1950年代の”赤狩り(マッカーシニズム)”などはそのよい例であろう。しかしそのような”保守反動”、または”揺り戻し”といった時代を乗り越えて、アメリカは”自由と民主主義”を旨とする、多様性と寛容性に富んだ国として更なる発展を遂げてきた。
今回もアメリカは、現在の”保守反動”の時代を乗り越え、より成熟した自由と民主主義を重んじる更なる”偉大な国家”へと脱皮していくことを期待したい。

ちなみにブラジルも明治時代以降の日本の主要な移民先であった。
戦後の日系ブラジル移民を描いた映画「汚れた心」(ブラジル映画、出演:伊原剛史、常盤貴子、奥田瑛二)。


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