拙著「いまこそ読みとく太平洋戦争史」のラストは、戦艦「ミズーリ」艦上での日本無条件降伏文書調印式となっている。これは日本が連合国に降伏の意思を国内外に伝えたのは1945年(昭和20年)8月15日(いわゆる”終戦の日”)であるが、正式に降伏したのは同年9月2日に行われたこの降伏文書調印式であると考えるからである。
日本降伏文章調印式1

太平洋戦争を扱った本やテレビ番組、映画などのほとんどは、この降伏文書調印式を単なる”儀式”として、関係者(連合国および日本)間で淡々と(かつ粛々と)行われたように扱っているように思われるし、事実、私たち日本人の大半もそう考えているのではないかと思う。

しかしこの9月2日の降伏文書調印式当日を詳しく見ていくと、実は”緊迫した”1日であったということがうかがえる。

では改めてこの降伏文書調印式当日の動きを見ていきたいと思う。
1945年(昭和20年)9月2日朝、日本代表団が横浜港に到着した。実はこの代表団(日本政府代表:重光外務大臣、日本軍代表:梅津陸軍参謀総長以下11名)であるが、誰が代表団のメンバーなのかについては、この調印式当日まで、公表されなかった。また日本政府、軍部内においても、限られたごく少数の人々しか知らなかった。これは降伏文書調印式に反対する、国内勢力の”妨害”(代表団メンバーの暗殺など)を避けるための措置であった。

さて日本代表団は横浜港で連合軍の軍艦に乗り、約1時間の航海の後、東京湾に停泊している「ミズーリ」に到着した。
ここで私には2つの疑問点がある。1つ目は「なぜ降伏調印式が、洋上の戦艦で行われたのか?」、2つ目は「なぜミズーリは、横浜港から1時間の航海を必要とする沖合に停泊していたのか?」である。
1つ目の疑問について私は長い間、「東京は空襲で”焼野原”となってしまっていたため、降伏調印式を行える建物がなかったからだ」と思い込んでいた。しかし、実際には東京には焼け残っていた建物は複数あった。例えば、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に使用された第一生命ビル(皇居前に立っているビルで、戦時中は東部軍司令部として使われていた)、アメリカ大使館(戦後はマッカーサーの宿舎として使用された)、そして市ヶ谷台(陸軍省・陸軍参謀本部が置かれた建物、戦後は東京裁判が行われた)などである。
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第一生命ビル
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市ヶ谷台

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この2つの疑問点の答えを考える前に、降伏文書調印式の流れを続けて見ていきたい。拙著にも書いているが、「ミズーリ」甲板上でマッカーサー司会による「日本降伏文書調印式」が執り行われた。
日本降伏文章調印式4

全代表者の降伏文書への署名が終わり、マッカーサーの「閉会の言葉」をもって、調印式は終了した。その直後、ミズーリの上空を数百機のアメリカ軍爆撃機、B-29が通過していった。公にはこれは「連合軍の勝利を祝う飛行」と言われている。しかしこのB-29の大編隊の飛行には、もう一つの”隠された目的”があった。
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これらB-29全機には、”爆弾”が満載されていたのである。なぜ降伏調印式にB-29は爆弾を搭載していたのか?実はこの時点においても、アメリカ軍はじめ連合国軍は、日本の無条件降伏(あるいはその意思)を疑っていたのである。
連合国軍は太平洋の島々や、東南アジア、インド、ビルマなどの戦線で、降伏を拒み、文字通り「最後の一兵まで」死ぬまで戦う日本兵と死闘を繰り広げてきた。「その日本軍が天皇の命令で、簡単に降伏に応じるだろうか?」そう疑ったのである。
ミズーリ上空を飛んだB-29の大編隊は「もし、日本が降伏調印を拒んだり、または降伏をいさぎよしとしない日本軍(の一部など)が連合軍に攻撃をしかけてきたら、ただちに日本本土を攻撃(爆撃)せよ」という命令を受けていたのである。

そうなると前述した、2つの疑問の答えもおのずと見えてくるものと思われる。「
なぜ降伏調印式が、洋上の戦艦で行われたのか?」、「なぜミズーリは、横浜港から1時間の航海を必要とする沖合に停泊していたのか?」。連合軍が日本軍の攻撃、妨害を恐れていたからである。

こうして見ると、9月2日の降伏文書調印式は、日本、連合国双方が相当緊迫した中で行われたのだということが分かる。そういう視点から降伏調印式の映像を見直してみると、マッカーサーが日本代表団に降伏文書への署名を求めた時(下記You Tubeの2分30秒以降あたり)、なんとなくマッカーサーの表情が”こわばっている”(緊張している)ようにも見える。


マッカーサーの名誉のために言うと、彼は決して臆病な指揮官ではなく、大変勇気のある(時には無鉄砲とも思えるくらい)軍人である。連合軍が日本進駐を開始した8月26日のわずか4日後の8月30日に、彼は愛機バターン号で厚木飛行場に降り立っている。おそらくこの時点で、日本に上陸した連合国軍は1万人もいなかったのではないだろうか。一方、降伏したとはいえ、日本本土には武装した日本軍兵士が数十万人いたのである。そんな状況の日本に連合国軍最高司令官として、拳銃すら携帯せずに堂々と日本に降り立ったマッカーサーの”胆力”は相当なものであったと思う。
そのマッカーサーが、ミズーリでの降伏文書調印式でもし、緊張していたとすれば、やはりこの9月2日は太平洋戦争史、そして日本の歴史にとって”重要な日”であったといえるのではないだろうか?

日本が無条件降伏を決定するまでの24時間(8月14日正午から翌15日正午)をドキュメンタリータッチで描いた映画「日本のいちばん長い日」(原作:半藤一利、監督:岡本喜八、出演:三船敏郎、山村聡、笠智衆、他)は、私の最も好きな戦争・歴史映画の一つであり、傑作だと思う(1967年に制作された作品を指す。2015年のリメイク版(出演:役所広司、本木雅弘山崎努、堤真一、松坂桃李、他)は”駄作”だと思う)。拙著でも触れているいるが、この24時間に日本降伏までの御前会議をはじめとする日本政府、軍首脳たちの緊張したやり取り、そして降伏を阻止しようとして近衛師団を使って皇居を占拠した青年将校たちの、息も詰まる緊迫した様々なドラマを経て、8月15日正午の”玉音放送”を迎えたのである。その意味でこの24時間は、まさに「日本のいちばん長い日」であったと思う。


今回取り上げた、1945年(昭和20年)9月2日の日本降伏文書調印式は、8月15日の次に日本にとってもっとも長い日、すなわち「日本の二番目に長い日」と呼べるのでないだろうか?いつか
、このタイトルで本を執筆できればと個人的には考えている。



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