拙著「いまこそ読みとく太平洋戦争全史」に入れたかったが、断念した人物やエピソードがいくつかある。

今回はそのうちの一人、石橋湛山(いしばし たんざん)について触れたいと思う。

はじめに石橋湛山がどういった人物で、太平洋戦争とどう関わったかについて述べたい。

石場湛山は戦前から「日本は海外領土拡大政策を捨てるべきである、さらに当時保持していた植民地(朝鮮、台湾など)を放棄すべきである」と主張した人物である。

また戦後は、政治家・閣僚(大蔵大臣、総理大臣など)として活躍し、日本のアメリカ一辺倒の外交政策を批判し、ソ連(ロシア)、中国とも同等に付き合う「均等外交」を提唱した人物である。

1石橋湛山


では湛山について少し詳しく見ていきたいと思う。

湛山は1884年(明治17年)、東京に生まれた。父親は、日蓮宗の僧侶であった。

湛山は早稲田大学に入学した。専攻は哲学、とくにアメリカで発達した”プラグマティズム(実用主義)”であった。

大学卒業後、毎日新聞、陸軍勤務などを経て1911年(明治44年)、東洋経済新報社に入社した。

1921年(大正10年)、湛山は東洋経済に「一切を棄つるの覚悟」というタイトルの社説を執筆している。

この社説で湛山は、冒頭で述べた「日本は海外領土拡張政策とすべての植民地を放棄するべきである」という主張を行っている。

湛山のこの主張は、理想主義から出たものではなく、現実的な見地から導き出された結論であった。

「かつて植民地は、自国経済の発展、繁栄に必要な時代もあった。だが現在では、植民地の統治・運営や、軍隊駐留などにかかるコストの方が高くつくようになった。ならばいっそのこと、これら植民地を独立国とし、その上で貿易を行うべきである。そうすれば我が国は、植民地維持のためのコスト負担から解放され、貿易から得られる利益(果実)だけを享受することができる」これが(きわめて大雑把ではあるが)、湛山の主張の主旨である。

その後昭和に入って、満州事変、日中戦争と日本が中国への軍事的関与(要するに”侵略”)を深めていく中、湛山は反対の論陣を張った。

「”満州、朝鮮は日本の生命線だ”と主張する輩が多いが、これは本当だろうか?我が国と米英との貿易額は満州、朝鮮とのそれをはるかに上回る。しかるに我が国は満州問題で、米英との関係を悪化させ、両国との貿易関係にも悪影響を及ぼしている。我が国の国益を経済的見地から考えてみれば、満州・朝鮮と米英との関係、貿易維持、どちらがより重要かは自明の理である」。湛山はこのような主旨の主張をしたのである。

日本のみならず、ヨーロッパ、アメリカといった世界の主要国の間で、「植民地」という概念が当たり前だった大正時代に、湛山が「一切を棄つるの覚悟」を執筆したことは、いかに湛山が慧眼であり、時代の先を読んでいた人物であったかを示す事例と言えるだろう。

余談だが拙著でも述べたが、世界恐慌後、大蔵大臣に就任した高橋是清が取った政府による”積極的な財政政策”は、”自由放任主義”(要するに恐恐や不景気など、放っておけばそのうちなんとかなるという考え方)が世界の経済学の主流であった当時において、極めてユニークな政策であった。

2高橋是清


しかしその後、イギリスの著名な経済学者であるケインズが、国による積極的な経済介入などを骨子としたいわゆる、”ケインズ経済学”を確立したことにより、後に高橋は「ケインズ以前の”ケインジアン”(ケインズ主義者)であった」と評価されることになる。つまり高橋も湛山同様、”時代の先を読んだ”(あるいは読める)人物だったのだろう。

余談の余談で恐縮だが、時代を先取りした日本人に安藤昌益(あんどう しょうえき)という人物がいる。この安藤は明治でも大正でも昭和の人物でもなく、江戸時代、しかも元禄時代に生きた人物である。

安藤は秋田藩出身の医師であり、思想家であり、哲学者であった。彼はまだ幕藩体制が強固であった元禄時代(五代将軍綱吉)にあって、士農工商という身分制度を批判し、完全な平等主義を唱えた。また安藤は「働きもせず、ただ農民から搾取する武士」を”盗人”呼ばわりした。さらに”お布施”や”寄進(寄付)”という形で庶民から富を得る、僧侶、はては信仰の対象である仏さえも”泥棒”、”悪党”呼ばわりしている。

3安藤昌益


ただし生前、安藤は自分の著作を公開せず(当たり前だが)、そのため長い間、安藤の名と彼の思想は誰にも知られることはなかった。

安藤の存在と彼の思想が初めて知られたのは、太平洋戦争後のことであり、それを紹介したのは、当時駐日カナダ大使であり、日本学者であったハーバート・ノーマンという人物であった。

4ハーバート・ノーマン


すっかり余談が長くなってしまった。話を元に戻したいと思う。

湛山のこのような主張、思想はおそらく、大学時代に学んだ”プラグマティズムに依るところが大きいのではないかと思われる。

付け加えると、湛山は大学卒業後、社会人になってから独学で膨大な経済学の本を、”原書”(和訳ではなく)で読み漁って、経済に関する知識、見識を深めた。

しかし日本は結局、太平洋戦争に突入した。

戦争中も湛山は東洋経済社長として、東洋経済の発行を続けた。政府や軍の目が厳しくなったため、その論調はトーンダウンしたものの、巧みに当局の検閲をかわして、雑誌の発行を続けた。

終戦直後、湛山は「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」という論説を発表し、「日本は科学立国として再建できる。日本の将来は明るい」と述べている。

戦後、湛山は自由党(後の自民党)の政治家として、大蔵大臣などを歴任した。そして1956年(昭和31年)に自民党総裁選で対立候補の岸信介を僅差で破り、総理大臣に就任した。

5石橋内閣


しかしその後まもなく軽い脳梗塞にかかり、湛山は入院することになる。

医者からは「2か月間の治療が必要」と言われた。しかし湛山は「2か月とはいえ国会答弁など、政務が執行できない」ことを理由に、首相を辞任することを決めた。

周囲からは「辞職する必要はありません。総理代行(すでに岸信介がその任についていた)を立てればいいではないですか」という慰留の声が多かったが、湛山は「私の政治的良心に従う」と述べ、潔く総理を辞任した。総理在任期間はわずか65日であった。

その後、湛山は「日本は中国、アメリカ、ソ連との友好関係を深めるべき」という「日中米ソ平和同盟」を主張した。そして1959年(昭和34年)にまだ国交がなかった中国を訪問、周恩来首相と会見を行っている。

1972年(昭和47年)、日中国交正常化交渉のため、中国訪問をひかえた田中角栄首相は、出発前、すでに政界を引退していた湛山の新宿の自宅を訪問している。

田中は病床にあった湛山の手を握りしめて言った。「石橋先生、これから中国へ行ってまいります」。
同年「日中共同声明」が締結された。

6田名角栄と周恩来


翌年の1973年(昭和48年)、湛山はその生涯を終えた。享年88歳。

湛山が亡くなった5年後の1978年(昭和53年)、日中平和友好条約が締結された。そして1989年(平成元年)、米ソ首脳によるマルタ会談が開催され、冷戦の終結が宣言された。

終生、徹底的な現実主義の視点から時代の先を読み、世界と日本の共存と繁栄の道を説いた人物、それが石橋湛山であったのではないかと思う。