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いまこそ読みとく 太平洋戦 [単行本(ソフトカバー)]


1945年(昭和20年)8月15日、鈴木首相は辞任した(鈴木は1948年(昭和23年)4月に80歳で亡くなった)。鈴木の後を継いで、皇族で陸軍大将の東久邇宮が首相に就任した。
 
玉音放送が流れた8月15日以降も依然として、「徹底抗戦」を訴える軍人が複数いた。
 
厚木飛行場の第三〇二海軍航空隊司令官の小園大佐は、日本の降伏を受け入れず、8月15日に「三〇二海軍航空隊は降伏しない」ことを宣言した。しかしその後小園はマラリアにかかって入院した為、反乱は21日に鎮圧された。
 
8月17日、「東京で終戦を阻止する為、立ち上がった部隊がいるらしい(宮城事件のこと)」という情報を聞いた水戸教導航空通信師団の士官達は、部隊を率いて東京に向かった。

彼らは上野公園内にある東京美術学校(後の東京芸術大学美術学部)を占拠して立てこもった(上野公園占拠事件)。

しかし宮城事件はすでに終結済みであることを知った彼らは、19日に水戸の師団に戻った。そしてこの事件を指導した士官数名が自決した。

8月24日には、宮城事件に参加した窪田陸軍少佐が埼玉県寄居町の陸軍予科士官学校の生徒67人を引き連れ、埼玉県川口市にあるラジオ放送所を占拠した(川口ラジオ放送所占拠事件)。

しかし東部軍管区司令官の田中大将が現場に駆けつけて、窪田を説得した。

田中の説得に応じた窪田は、部隊を引きつれて列車で寄居町に戻った(なお、田中大将は29日に皇居へのアメリカ軍の爆撃を防げなかった責任を取って、拳銃で自決している)。

8月17日、大本営は皇族の朝香宮鳩彦王を中国及び東南アジアに派遣した。朝香宮は各地の司令官や部隊に、「降伏は天皇の意志であり、連合軍に対して決して強硬な態度を取らぬように」と説得して回った。


田中静壱
田中静壱(しずいち)大将