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いまこそ読みとく 太平洋戦 [単行本(ソフトカバー)]


今回は沖縄戦最後の県知事・島田叡(しまだ あきら)について書いていきたいと思う。

2島田叡

※沖縄戦については、下記記事をご参照願います。

第117回 アメリカ軍、沖縄上陸
第118回 菊水作戦
第119回 戦艦「大和」の最期 
第120回 沖縄戦終結(1)
第121回 沖縄戦終結(2)


島田の生涯についてはテレビでもしばしば取り上げられている。

2015年8月にNHK BS番組『英雄たちの選択』で『”命どぅ宝”~沖縄県知事 島田叡からの伝言~』というタイトルで放送されている。
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また2013年8月にはTBSで『報道ドラマ 生きろ 戦場に残した伝言』という番組が放送されている。
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まず島田叡の略歴について述べたいと思う。

島田は1901年(明治34年)に兵庫県で生まれた。

東京帝国大学法学部卒業後、内務省に入省する。

内務省では主に警察畑を歩んだ。

1945年(昭和20年)1月、当時大阪府内務部長を務めていた島田は、沖縄県知事に任命される。

現在と違い戦前・戦中の都道府県知事は、選挙による選出ではなく、内務省の役人(官僚)が任命されるという『官選』であった。

島田が知事に任命された時期は、すでにフィリピンでの戦いで日本軍の敗色が濃厚となり、次の連合軍の侵攻先が小笠原諸島や沖縄と目されていた状況であった。

しかも島田の前任者である泉守紀(いずみ しゅき)は、頻繁に日本本土に出張しており、結局沖縄には帰らなかった(泉については後述)。

また沖縄県庁の重役の何名かも、出張と称して日本本土に行ったまま帰ってこないという状況であった(そうである)。

そんな戦場となることが確実視されている沖縄県の知事を、島田は拝命する。

沖縄に赴任した島田は、沖縄県民のために『全力を尽くした』(と言われている)。

当時約70万人いた県民のうち、約7万人を県外、そして約5万人を県北部に疎開させたと言われている(沖縄戦は主戦場は県南部であった)。

また単身台湾に行き、約450トンの米を調達している。

その島田が常に口にしていたのが、『命どぅ宝(命こそ一番大事な宝という沖縄の言葉)』という言葉であったと言われている。

そして1945年(昭和20年)4月、連合軍は沖縄本島に上陸する。

激戦が行われた最中にあって、島田は県民の命を救うべく奔走したと言われている。

そして沖縄での組織的な戦闘が終結した6月25日の翌月の7月、島田は戦死した(一説には自決したとも言われている。なお、島田の遺体は現在も見つかっていない)。

現在も、島田は沖縄県民から深く敬愛されている。

以上が世間一般で知られている、島田の略歴である。

しかし島田は本当にこのような偉人であったのだろうか?

以下私が疑問に思うことを述べていきたいと思う。

確かに沖縄戦開始前の約3か月弱、島田は食料調達や県民の疎開などに奔走した。

また前任者の泉知事と異なり、島田は日本軍(第32軍)との良好な関係維持にも腐心している。

しかし一たび沖縄戦が開始されると、島田の活躍はほとんど見られなくなる。

県南部に退却する日本軍と避難する県民と島田は行動を共にする。

日本軍が首里撤退を決定した際、『県南部に避難した県民が犠牲になる』と反対したものの、軍に無視されてしまう(日本軍の首里撤退の決定は、『日本本土防衛準備の時間を稼ぐため、少しでも沖縄の戦闘を長引かせて、連合軍を沖縄にくぎ付けにする』という方針転換を意味する。即ちこの時点で、日本軍は『沖縄県民の命を守る』という任務を完全に捨て去ったことを意味する)。

また日本軍は一部の沖縄県民を『スパイ容疑』で殺害したが、この件に関して島田が日本軍に抗議したり、止めさせるよう働きかけたという記録はない(もっとも島田自身がこのことを死ぬまで知らなかったという可能性もあるが)。

中でも個人的に一番不可解に思えるのは、沖縄戦終盤での島田の行動である。

6月7日、島田は警察部長の荒井と共に、第32軍司令官・牛島中将のもとを訪れている。

そこで牛島は島田に『貴方たちは文官だから死ぬことはない』と言っている。

3牛島満

しかし島田はその2日後の6月9日に県及び警察組織の解散を命じ、6月26日、すなわち牛島や長参謀長が自決し、組織的な戦闘が終結した翌日、島田と荒井は摩文仁の壕を出たきり消息を絶った(前述したように、自決したという説もある)。

命どぅ宝』を常に口にしていた島田が、本当に最後まで沖縄の住民の命を救うために奔走していたのであれば、なぜ沖縄戦の終盤で県及び警察組織の解散を命じたのだろうか?

むしろ沖縄戦が事実上終結した6月下旬以降こそ、島田が住民の命を救うために再度活躍できる絶好の機会だったのではないだろうか?

例えばこの時点で県知事として連合軍に交渉を求め、県民の投降と保護を要求することもできたはずである。

そしてもしその交渉が成立していれば、生き残った県職員や警察官を動員して、住民たちに連合軍への投降と保護を求めるよう通達することも可能となっていたであろう。

当時沖縄県民総人口約70万人中、約7万人が県外に疎開し、約10万人が戦闘で亡くなっている。

ということは沖縄戦終結時、島には約50数万人の県民がいたと考えられる。

彼ら彼女らのほとんどは、家屋・財産など全てを失い、着の身着のままで毎日の食料にも事欠いていたはずである。

また中には重傷を負ったり、栄養失調や病気にかかり、生死の境をさ迷っていた県民も多くいたはずである。

もし島田の信念が
本当に『命どぅ宝』であったならば、どんなことをしてでも沖縄戦を生き抜き、そして沖縄戦後、全てを失い、傷ついた県民たちの命を1人でも救うべく、全力を尽くすべきではなかっただろうか?

しかし島田はそうはしなかった。

それどころか県及び警察組織を解散し、荒井警察部長と摩文仁の壕を出て、消息を絶っている。

さらに言えば戦闘中に単身連合軍に乗り込み、一時休戦と住民の県北部への避難または保護を要求するという行動を取ることはできなかったのであろうか?

恐らく島田にはそういったことは、できなかったのであろう。

島田は知識と教養を備えた、優れた官僚であったと思われる。

しかし同時に戦前・戦中の価値観、すなわち『日本は必ずこの戦争に勝利する』『日本及び日本人に”降伏”の二文字はない』という考え方から最後まで脱却できなかったのであろう。

島田を肯定的に捉えれば、『彼はそのような価値観と与えられた状況の中で、沖縄県民の命を救うため、精いっぱいの努力をした』と言えるかもしれない。

しかしそれが島田の限界であったのだろう。

ちなみに島田が赴任する前の沖縄では、日本軍の綱紀が乱れに乱れていたそうである。

一部の日本兵は民家を住民から取り上げ、宿舎として使用した。

また日本兵は遊郭で毎晩乱痴気騒ぎに明け暮れ、女性を巡って喧嘩をしたり、果ては発砲騒ぎにまで発展したそうである。

そればかりか未亡人や女子学生に乱暴を働いた日本兵もいたそうである。

また沖縄防衛戦に関する、大本営の作戦方針がしばしば変更されたため、日本兵のいら立ちはつのり、その結果『誰が沖縄を守ってやっていると思ってるんだ』『我々は死ぬ気でここに来ているんだぞ』などと言って、沖縄県民に八つ当たりする日本兵もいたそうである。

そしていざ沖縄戦が始まると、一部の日本兵は地下壕から住民を追い出したり、スパイ容疑で殺害したりといった蛮行を行っている。

その一方で日本軍は、年端もいかぬ少年少女たちを『鉄血勤皇隊』や『ひめゆり学徒隊』などに徴用して、多大な犠牲を強いている。

『こんな沖縄県民のことを考えない日本軍に協力し続けても、犠牲者が増え続けるだけだ』と考え、『県民の命最優先』で連合軍に住民保護を要求しようと島田は決断できなかったのであろうか?

このように考えていくと、島田は『日本軍と連合軍という巨大な象に蟻のように踏みつぶされていく、沖縄県民をただ傍観することしかできなかった人物』だったのではないかとさえ思えてくる。

少なくとも本記事の冒頭で触れたような、『沖縄県民の命を救うために命を懸けた偉人』という”島田像”は、かなり美化された『偶像』と言えるのではないだろうか?

ちなみに『”命どぅ宝”~沖縄県知事 島田叡からの伝言~』で司会の磯田道史が、『戦後70年私はどうしてもこの人を取り上げたかったんです。私たちの国にかつてこういう役人がいたんだと見ると、何か私は救われる気がして、改めて行政や役人やまた民を守るということについてやっぱりこの人のことを見直したいと思う』『島田さんがいなかったら、沖縄県民の犠牲者はもう10万人は増えていたはず』などと、島田を『気持ち悪いくらい』褒めちぎっているが、正直言って違和感しか感じられないし、とても客観的で冷静な見解とは言い難いと思われる。

5磯田道史

ちなみに島田の前任の泉知事は、日本軍の傍若無人な振舞いに愛想をつかして、転任届を出して、その後香川県知事に就任している。

もし泉が沖縄県知事の職を放棄して、本土に逃亡したのであれば、香川県知事などに任命されなかったのではないだろうか?

その点で泉に対する現在の『沖縄を見捨てた卑怯者』という評価は、いささか酷なものに感じられる。

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以上のことから『偉人の島田・卑怯者の泉』という2人の人物像は、史実からかなり歪められたものであると言えるのではないだろうか?