太平洋戦争史ブログ

太平洋戦争の歴史を綴ったブログです

牛島

第121回 沖縄戦終結(2)

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戦力をズダズダにされた日本軍は八原参謀の意見を採用し、首里市内での戦いをあきらめて地形が険しくて洞窟が多数ある、沖縄南端の喜屋武(きゃん)半島に撤退して持久戦を行うことを決定した。

日本軍は5月末に豪雨にまぎれて首里から撤退した。

日本軍が退却した後の5月29日、アメリカ軍は首里を占領した。5月30日、牛島中将は摩文仁の司令部に移動した。


第32軍の退却によって、那覇近くの小禄半島で戦っていた大田少将指揮下の海軍部隊は敵中に孤立した。

アメリカ軍の攻撃で自分の司令部が孤立したことを知った大田は、6月13日、地下壕で拳銃で自決した。


大田は自決する前の6月6日、東京の海軍次官に宛てて次のような電報を送っている。

「この沖縄の戦いで、沖縄県民は勇敢に戦いまた献身的に協力しました。沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世、特別のご高配を賜りますようお願い申し上げます」。

6月18日、喜屋武半島の前線を視察していたバックナー中将は、日本軍の砲弾の破片に胸を貫かれ、戦死した(バックナーは、太平洋戦争で戦死した最高位のアメリカ軍の軍人となった)。

バックナーの後任にはビルマ戦線で日本軍と戦った、ジョセフ・スティルウェル大将が任命された(6月23日着任)。


喜屋武半島に退却した日本軍は抵抗を続けたが、アメリカ軍の攻撃と「鉄の暴風」と呼ばれる猛烈な艦砲射撃と空爆によって、日本軍は戦力を減らし、ついに半島の最南端へと追い詰められていった。

サイパンの戦いと同様、多くの沖縄県民が手りゅう弾で集団自決したり、摩文仁の崖から飛び降りていった。

しかしその一方、アメリカ軍の降伏の呼びかけに応じて、多くの沖縄県民や日本兵が投降した。

中には数千人単位で投降した県民や、数百人単位で投降した日本兵もいた。


6月23日、牛島中将と長少将は摩文仁の司令部で割腹自決した(八原大佐は牛島の命令でアメリカ軍に投降し、捕虜となった)。

この日をもって、沖縄での日本軍の組織的抵抗は終わった(沖縄戦終結日は、この6月23日とされている)。


この沖縄の戦いでの日本軍の戦死者は約6万6000人、沖縄県民の死者は民間人、軍人合わせて約12万人と言われている。アメリカ軍の戦死者は約1万2000人と言われている。


看護兵として沖縄の戦いに参加したひめゆり部隊の女学生達は、歌を歌ったり、小説を読んだり、まだ見ぬ未来の恋人に思いを巡らして、胸をときめかす多感な10代後半の女性達であった。

その彼女達が沖縄の戦いでは看護兵として、弾が飛び交う戦場で命懸けで水くみに行ったり、麻酔なしの負傷兵の手足の切断手術に立会ったり、負傷兵の体にわいたウジ虫をピンセットで取り除くなどといった仕事に従事した。

また「お母さん、お母さん・・・」とつぶやきながら死んでいく負傷兵の最後を看取ったりした。


この沖縄の戦いで「ひめゆり部隊」に参加した教師、生徒約240人中、136人が死亡した(この中には荒崎海岸で毒薬を飲んで自決した、教師1人と生徒9人が含まれている)。

鉄血勤皇隊に参加した約1780人中、約890人が戦死したと言われている。

ある鉄血勤皇隊員が家族に宛てて、次のような遺書を残している。

「お父さん、お母さん、英米の野獣に家を焼かれ、壕生活をして、皆も苦しいでしょう。平和な時が来たら、今よりも立派な家を建てるのですよ。楽しく暮らしていこうと思えば、何よりも体が大切であって、体が残っていなければ、何にもなりません。ですからお父さん、お母さん、マサアツ、ヨシ、皆元気でいて下ささい。まずや一番、命あり。命があってこそ、何事も思い通りに出来るのである」。


鉄の暴風
大田実
大田実少将
バックナー
バックナー中将
沖縄戦4
白旗の少女

第120回 沖縄戦終結(1)

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日本軍はその主力を島の南部に集中し、北部には1個大隊のみを配置した(アメリカ軍第6師団はこの大隊を全滅させ、4月22日に島の北部を制圧した)。

日本軍は島の南部の洞窟や地形を利用した地下陣地を構築して、アメリカ軍を迎え撃った。


4月2日から7日にかけて日本軍は、丘陵や高地など地形を利用した防衛戦を行った。

特に歩兵を伴った戦車で前進してくるアメリカ軍に対し、まず砲爆撃を加えて歩兵を退却させて戦車を孤立させた後、爆弾や地雷を抱えた兵士が戦車に突っ込んでいき自爆して戦車を破壊するという「肉弾攻撃」戦法によって、日本軍は多数のアメリカ軍戦車を撃破した。


激戦の末、アメリカ軍はこれらの日本軍を退却させて前進した。

しかし今度は首里北方の嘉数(かかず)高台と呼ばれる丘陵地帯に築かれた、日本軍の強固な陣地からの激しい攻撃を受けた。 


ここを守っていた日本軍第62師団は、巧みにアメリカ軍の攻撃を防いだ。ア

メリカ軍の砲爆撃が行われている間、日本兵達は丘の反対側斜面の陣地に避難する。

そして砲爆撃が止んでアメリカ軍が前進してきた時、地下トンネルを通って敵軍に面した斜面の陣地に移動して、アメリカ軍を迎え撃った(この日本軍陣地は「反斜面陣地」と呼ばれた)。


4月8日から24日までの16日間にわたって、日本軍は嘉数高台でアメリカ軍をよく防いだが、戦力も3分の1まで減少した為、日本軍は退却した。

この嘉数高台の戦闘の最中、第32軍は度重なる陸軍参謀本部からの北飛行場と中飛行場の奪回命令を受け、4月12日、アメリカ軍に対して攻撃を仕掛けた。

この攻撃を強く主張したのは、第32軍参謀長の長勇少将であった。

「持久戦」を主張した八原大佐に対し、長は以前から、積極的な攻撃を主張していた。

しかしこの12日の攻撃は失敗に終わった。

日本軍は2個大隊を失って、後退したのである。


しかしこの敗北にもかかわらず、4月29日に首里で開かれた作戦会議で、長は再びアメリカ軍への攻撃を提案した。

長は言った「このまま防御戦闘を続けても、いたずらに戦力を消耗するだけである。それよりもまだ第24師団と第44旅団が無傷の今のうちに、思い切って攻勢をかけ、死中に活を求めるべきである」。


八原は長のこの意見に反対した。

しかし彼を除くほとんどの指揮官と参謀が、長の提案に賛成した。牛島は攻撃開始日を5月4日に定めた。


しかし日本軍の攻勢は失敗に終わった。

日本軍の攻撃を受けたアメリカ軍は、当初は一時混乱したものの、体制を立て直すと、戦車、大砲、迫撃砲、機関銃など、豊富な火力にものを言わせて猛反撃した。

更に夜が明けると航空機部隊が飛来し、日本軍に激しい空爆を行った。

結局攻勢は5月5日に中止され、日本軍は多数の死傷者を出して退却した。


「日本軍は主力部隊を失った」と判断したバックナーは、5月11日、首里への攻撃を開始した。

日本軍は首里郊外の高地(アメリカ軍はこの高地を「シュガーローフ」と呼んだ)に反斜面陣地と砲兵陣地で構成された、強固な陣地を築いて激しく抵抗した。

しかし5月19日に、この高地もアメリカ軍の手に落ちた。

沖縄戦1
沖縄戦2
沖縄戦3

第117回 アメリカ軍、沖縄上陸

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いまこそ読みとく 太平洋戦 [単行本(ソフトカバー)]


硫黄島の次のアメリカ軍の攻略目標は、沖縄であった。大本営も次の戦場は沖縄であると予想した。しかし沖縄でどうアメリカ軍と戦うのかについては、陸海軍の間に隔たりがあった。

陸軍はアメリカ軍との決戦を、日本本土で行う「本土決戦」構想を持っていた。

沖縄はその本土決戦体制が整うまでの、「時間稼ぎ」を行う戦場であると主張した。

一方海軍は沖縄で特攻隊を中心とする全航空戦力を投入し、アメリカ軍と決戦を行う戦場であると主張した。


更に陸軍内部においても、沖縄戦をどう戦うのかという作戦方針について意見の相違があった。

東京の陸軍参謀本部は、「水際撃滅作戦」を現地の部隊に指示していた。

しかし沖縄を守備する牛島満中将指揮下の第32軍は、この方針に反対した。


元々沖縄には、3個師団と1個旅団が配置されていた。

ところが1944年(昭和19年)11月に台湾に配置されていた第10師団がレイテ島に送られた穴埋めの為、沖縄に配置されていた精鋭の第9師団が台湾に送られてしまった。

その穴埋めの為、大本営は第84師団を沖縄に送ることを約束していたが、実施されなかった。

結局牛島は2個師団と1個旅団という「戦力不足」の状態では「水際撃滅作戦」は実行不可能と判断し、硫黄島と同様の「縦深陣地」による「持久作戦」に切り替えることを主張したのである。

なお、この具体的な作戦計画を立案したのは、第32軍作戦参謀の八原道博大佐であった。


八原も硫黄島の栗林と同様、陸軍士官学校と陸軍大学を優秀な成績で卒業し、アメリカに駐在した経験を持っている「欧米通」であった。

その為か栗林と同じ様に、合理的な考え方の持ち主であった。

陸軍参謀本部は第32軍に「水際撃滅作戦」の実施を指示し続けたが、結局、両者の作戦計画のすり合わせが行われないまま、アメリカ軍の沖縄上陸を迎えることになったのである。

つまり日本軍は、陸海軍の作戦構想の相違と、陸軍参謀本部と第32軍との作戦方針のかい離という問題を抱え、それを解決できないまま、アメリカ軍の沖縄上陸を迎えることになったのである。


硫黄島攻略に続いてアメリカ軍の沖縄攻略の指揮を執ったのは、第5艦隊司令長官・スプルーアンス大将であった。

この作戦に艦船約1300隻、艦載機約1700機、総兵力約55万人(うち上陸部隊約18万人)が参加した。


対する日本軍は、陸軍第32軍の約6万9000人と、大田実海軍少将率いる海軍部隊約8000人、計約7万7000人であった。

また日本軍は兵力不足を補う為、満17歳から45歳までの県民男性約2万5000人を兵士として動員した。この他に14歳から17歳の少年兵から成る「鉄血勤皇隊」も編制された。

また負傷兵を看護する為、沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の教師と女子生徒による「ひめゆり部隊」も編制された。


なお、アメリカ軍が沖縄に上陸する前に、県民約70万人のうち約10万人が島外に疎開していた(沖縄の小学生や住民などを乗せた客船「対馬丸」は長崎に向けて航海中の1944年(昭和19年)8月22日、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け、わずか11分後に爆発、沈没した。この攻撃で乗っていた約1700人中、1500人近くが死亡した)。

1945年(昭和20年)4月1日、アメリカ軍沖縄攻略部隊は沖縄西中部沖に現れた。

そして激しい砲爆撃の後、バックナー中将率いる上陸部隊の第一陣、約2万人が嘉手納海岸に上陸した。

いつものように日本軍からの激しい反撃を予想していたアメリカ兵達であったが、日本軍からの反撃は一切なかった。

前述したように、日本軍は沖縄の内陸部の洞窟や地形を利用した「縦深陣地」にこもる「持久作戦」を取った為、嘉手納海岸には1人の日本兵も配置していなかったのである。

その為アメリカ軍は、その日のうちに嘉手納近くにある日本軍の北飛行場と中飛行場を占領した。

牛島満
牛島満
八原
八原道博
沖縄戦 地図
沖縄上陸
沖縄に上陸するアメリカ軍

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