2005年10月17日
有機農業への取り組みの記録
〇有機農業への道 10年間の軌跡 Vol.9
Tさんは、毎年長野のアースデイを主催していました。Tさんはそのアースデイのイベントの中に「野菜サミット」という会合を開き、長野県在住の有機農業に関心を持つ人たちの横断組織を作ろうとしていました。私もアースデイのたびにその野菜サミットという会合には参加していました。おととしの11月頃だったと思います。そのTさんから連絡が入り今度安曇野のシャロムヒュッテ(結構有名なペンションです。)で野菜サミットを開きたいのでぜひ参加してくださいという事でした。家庭教師で忙しかったのですが、無理をしてその会合に参加することにしました。その野菜サミットの会合には、中条村で有機農業に取り組んでいるKさんや、飯縄高原で企業向けのセミナーや精神世界の講座などを会員制で開催しているSさん、小布施でソバの芽を出荷しているKさん、大手包装資材メーカを経営するNさん、鹿教湯温泉のホテルのオーナーのSさん、東部町で米作りに取り組むNさん、それにシャロムヒュッテのUさんなど色々な分野で活躍する人たちが少人数でしたが集まっていました。話のテーマーは環境保全型の有機農業をこの長野県で拡げるための作戦会議でした。私はまだそのときは家庭教師をやるかたわら農業を趣味的に取り組んでいるだけといった中途半端な立場でしたが皆さんの熱気に当てられて(皆さん本気で自分の経済的な利益をなんら求めることなく本気で取り組もうとしていたのですから)その会合を契機に自分の中に有機農業に本格的に取り組もうという方向性が固まったのでした。その野菜サミットは毎月1回今後定期的に開く事になりました。その後私もそのサミットには定期的に参加したのですが、その会合の参加者の幅の広さはとてもユニークなものでした。長野県の経済界の人たちや新規就農で自給自足に近い生活をしている人たち、県の農政課の担当者、ホテル業界の人たち、など普段全く接点のない人たちが、環境保全型農業の振興というテーマで集まったのです。参加メンバーには都会から炭焼き職人になった若者もいて、彼は日本の伝統技術を継承する事で里山文化や環境保全を図ることを自分の天職としてとらえていました。皆さんそれぞれ強烈な個性のもち主ばかりで、議論はいつも白熱しました。私もいつの間にかふるば村自然農園と名乗り、名は体を招きいつの間にかそれは実体になりました
ふるば村自然農園の渡辺と述べることで、本当にそうなっていく流れができて行ったのです。
Tさんは、毎年長野のアースデイを主催していました。Tさんはそのアースデイのイベントの中に「野菜サミット」という会合を開き、長野県在住の有機農業に関心を持つ人たちの横断組織を作ろうとしていました。私もアースデイのたびにその野菜サミットという会合には参加していました。おととしの11月頃だったと思います。そのTさんから連絡が入り今度安曇野のシャロムヒュッテ(結構有名なペンションです。)で野菜サミットを開きたいのでぜひ参加してくださいという事でした。家庭教師で忙しかったのですが、無理をしてその会合に参加することにしました。その野菜サミットの会合には、中条村で有機農業に取り組んでいるKさんや、飯縄高原で企業向けのセミナーや精神世界の講座などを会員制で開催しているSさん、小布施でソバの芽を出荷しているKさん、大手包装資材メーカを経営するNさん、鹿教湯温泉のホテルのオーナーのSさん、東部町で米作りに取り組むNさん、それにシャロムヒュッテのUさんなど色々な分野で活躍する人たちが少人数でしたが集まっていました。話のテーマーは環境保全型の有機農業をこの長野県で拡げるための作戦会議でした。私はまだそのときは家庭教師をやるかたわら農業を趣味的に取り組んでいるだけといった中途半端な立場でしたが皆さんの熱気に当てられて(皆さん本気で自分の経済的な利益をなんら求めることなく本気で取り組もうとしていたのですから)その会合を契機に自分の中に有機農業に本格的に取り組もうという方向性が固まったのでした。その野菜サミットは毎月1回今後定期的に開く事になりました。その後私もそのサミットには定期的に参加したのですが、その会合の参加者の幅の広さはとてもユニークなものでした。長野県の経済界の人たちや新規就農で自給自足に近い生活をしている人たち、県の農政課の担当者、ホテル業界の人たち、など普段全く接点のない人たちが、環境保全型農業の振興というテーマで集まったのです。参加メンバーには都会から炭焼き職人になった若者もいて、彼は日本の伝統技術を継承する事で里山文化や環境保全を図ることを自分の天職としてとらえていました。皆さんそれぞれ強烈な個性のもち主ばかりで、議論はいつも白熱しました。私もいつの間にかふるば村自然農園と名乗り、名は体を招きいつの間にかそれは実体になりました
ふるば村自然農園の渡辺と述べることで、本当にそうなっていく流れができて行ったのです。
2005年08月03日
有機農業への道 10年の軌跡
〇有機農業への道 10年の軌跡 Vol .8
信州新町に住み、家庭教師をやりながら農作業を続けていました。そうした中、Tさんという若者に出会いました。あれは今から4年前ぐらいのアースデイの日のことです。家族で長野市の若里公園でアースデイの会場に遊びに出かけました。Kさんという中条村で無農薬栽培に取り組む若い生産者も野菜の苗を販売していました。Kさんの話は前々から耳にしていたので、野菜の苗を購入し、話も少ししました。アースデイにはあの田中知事も来ていて、アースデイに祝辞の弁を述べていました。ちょうどその時その若者のTさんが飛び入りし田中知事と話をしだしたのです。有機農業を県としてバックアップして欲しいというような話だったと思いますが、詳しくは覚えていません。ただ若いのに、度胸があって物怖じしないその威勢の良さに好感を持ちました。実は彼と後に述べる柴本さんという中野市で無農薬栽培に取り組む生産者の二人がこの私が思い切って有機農業への道を一歩踏み出すきっかけを作ってくれたのです。
田中知事が去ってから、私はそのTさんに話しかけました。Tさんは今は市場で働いていて無農薬栽培をしている生産者を探して、市場でもそういう野菜を扱うように今動いているというのです。自分は有機野菜の生産者のエージェントになるんだといっていました。変わったやつだなぁと思いましたが、若い感性を感じて、今後も連絡が取り合えるように名刺交換をしました。Tさんは翌年も長野のアースデイの実行委員として、動き回っていました。彼は環境イベントのプロデューサーとして生計を建てようとそのときはもう市場をやめていました。彼はアースデイの中で野菜サミットという会合を企画していました。そこには先ほど述べた中条村のKさんや、にんじんクラブでもおなじみの藤岡東さんや県の農政部の人など全部で20人ぐらいが集まり自己紹介方々、自分の有機農業への考え方を意見発表しました。そのときの話はよく覚えてはいないのですが、自分が大きく有機農業への道を踏み出す伏線になっていたのです。
信州新町に住み、家庭教師をやりながら農作業を続けていました。そうした中、Tさんという若者に出会いました。あれは今から4年前ぐらいのアースデイの日のことです。家族で長野市の若里公園でアースデイの会場に遊びに出かけました。Kさんという中条村で無農薬栽培に取り組む若い生産者も野菜の苗を販売していました。Kさんの話は前々から耳にしていたので、野菜の苗を購入し、話も少ししました。アースデイにはあの田中知事も来ていて、アースデイに祝辞の弁を述べていました。ちょうどその時その若者のTさんが飛び入りし田中知事と話をしだしたのです。有機農業を県としてバックアップして欲しいというような話だったと思いますが、詳しくは覚えていません。ただ若いのに、度胸があって物怖じしないその威勢の良さに好感を持ちました。実は彼と後に述べる柴本さんという中野市で無農薬栽培に取り組む生産者の二人がこの私が思い切って有機農業への道を一歩踏み出すきっかけを作ってくれたのです。
田中知事が去ってから、私はそのTさんに話しかけました。Tさんは今は市場で働いていて無農薬栽培をしている生産者を探して、市場でもそういう野菜を扱うように今動いているというのです。自分は有機野菜の生産者のエージェントになるんだといっていました。変わったやつだなぁと思いましたが、若い感性を感じて、今後も連絡が取り合えるように名刺交換をしました。Tさんは翌年も長野のアースデイの実行委員として、動き回っていました。彼は環境イベントのプロデューサーとして生計を建てようとそのときはもう市場をやめていました。彼はアースデイの中で野菜サミットという会合を企画していました。そこには先ほど述べた中条村のKさんや、にんじんクラブでもおなじみの藤岡東さんや県の農政部の人など全部で20人ぐらいが集まり自己紹介方々、自分の有機農業への考え方を意見発表しました。そのときの話はよく覚えてはいないのですが、自分が大きく有機農業への道を踏み出す伏線になっていたのです。
2005年07月28日
有機農業への道 10年の軌跡
〇有機農業への道 10年の軌跡7
200坪以上ある水内の畑を借りて耕す事になりました。その水内の畑で色々と野菜作りに挑戦してみようと一畝ごとに違った野菜の種まきをしました。年間を通じてたぶん30種類ぐらいの野菜を作ったと思います。種の撒き時を間違えて発芽しなかったり、虫に食われてしまい全滅したり、自分の口に入る野菜より虫に食われる野菜の量の方が多かったと思います。アブラムシに牛乳のスプレーを試したり、ニンニクをすりおろしたものを水に薄めて散布したり色々試した見ましたが上手くいった試しがありませんでした。折角種を発芽させてポットで育て畑に定植したとたん虫に食われて全滅してしまうというような事ばかり繰り返してきたような気がします。それでもやっているうちにたとえば葉物は虫が多く発生する6月以前に収穫できるように3月には播種してしまうとか、害虫から野菜を守るために被覆材を使ってトンネルを作ったりとか、畑によって虫の種類が違うので、畑によって作る野菜を変えたりとか、色々な工夫が出来るようになりました。それでもまだもちろん虫の害がなくなることはありませんが、前よりは知恵がついたと思います。
でも無農薬で野菜を作る一番ポイントはやはり土作りです。健康な土には病害虫はあまり発生しないものです。時間は確かにかかりますが、土の中の微生物が活動できるような土にする事が無農薬野菜の栽培には不可欠です。
さて水内ではもちろん家庭教師をやりながらの農作業でしたし、結構家庭教師が忙しく、午後からはもう家庭教師に出かけるというような日々でした。家庭教師の評判もよく、次々新しい生徒にめぐり合えました。不登校の子、浪人生、高校を中退して大検を受けようとしている子、もちろん高校受験、大学受験を目指している子など、本当に色々な子とめぐり合うことが出来ました。社会人になってもたまに連絡をくれる子もいたりして、家庭教師の仕事も気に入ってはいました。でも長野には農業をするために来たという思いが心の中にはあったのです。
200坪以上ある水内の畑を借りて耕す事になりました。その水内の畑で色々と野菜作りに挑戦してみようと一畝ごとに違った野菜の種まきをしました。年間を通じてたぶん30種類ぐらいの野菜を作ったと思います。種の撒き時を間違えて発芽しなかったり、虫に食われてしまい全滅したり、自分の口に入る野菜より虫に食われる野菜の量の方が多かったと思います。アブラムシに牛乳のスプレーを試したり、ニンニクをすりおろしたものを水に薄めて散布したり色々試した見ましたが上手くいった試しがありませんでした。折角種を発芽させてポットで育て畑に定植したとたん虫に食われて全滅してしまうというような事ばかり繰り返してきたような気がします。それでもやっているうちにたとえば葉物は虫が多く発生する6月以前に収穫できるように3月には播種してしまうとか、害虫から野菜を守るために被覆材を使ってトンネルを作ったりとか、畑によって虫の種類が違うので、畑によって作る野菜を変えたりとか、色々な工夫が出来るようになりました。それでもまだもちろん虫の害がなくなることはありませんが、前よりは知恵がついたと思います。
でも無農薬で野菜を作る一番ポイントはやはり土作りです。健康な土には病害虫はあまり発生しないものです。時間は確かにかかりますが、土の中の微生物が活動できるような土にする事が無農薬野菜の栽培には不可欠です。
さて水内ではもちろん家庭教師をやりながらの農作業でしたし、結構家庭教師が忙しく、午後からはもう家庭教師に出かけるというような日々でした。家庭教師の評判もよく、次々新しい生徒にめぐり合えました。不登校の子、浪人生、高校を中退して大検を受けようとしている子、もちろん高校受験、大学受験を目指している子など、本当に色々な子とめぐり合うことが出来ました。社会人になってもたまに連絡をくれる子もいたりして、家庭教師の仕事も気に入ってはいました。でも長野には農業をするために来たという思いが心の中にはあったのです。
2005年07月13日
有機農業への道 10年の軌跡
〇有機農業への道 10年の軌跡6
空き家と農地を求めて、信州新町の役場に行きました。担当のSさんという方が丁寧に応対くださり、空き家のいくつかを紹介していただいたり、現在建設中のIターン者専用の住宅(他の地域から信州新町に移り住みたいという家族に優先して入居していただくという町営住宅です。)の話も伺い私たちも応募する事になりました。それから数ヶ月後の3月に応募者の抽選があり、競争率2倍の中幸運にも抽選にあたり、信州新町に移り住む事となりました。長野市の塩崎から一つ山を越えて私たちは信州新町に引っ越しました。名古屋から長野に移り住んで3年目の事だと思います。信州新町に来てから最初に農政課に行って、農地を探していると相談しました。町民に貸す農地があるからといわれて15坪ほどの狭い農地を1年間借りる事にしました。家庭教師を夜やって昼間は農業と考えていましたが、収入的には大変だったので、まだ市場の早朝のバイトに午後からの家庭教師とスケジュールは一杯でした。合間をぬって農作業をしました。ジャガイモの種芋を購入して少しだけ植えてみたり、トマトやナス、ピーマンの苗を数本ずつ購入して畑に植えてみたり、ままごとのような
農業でした。栽培面積も狭く作っている野菜も自家用に食べていただけですが、やはり自分の作ったものという事もあるかもしれませんが、市販のものに比べると随分と美しく感じられました。虫や病気にもずいぶんとやられ、無農薬で作る野菜の難しさも少しはわかってきました。秋には家族でサツマイモを掘ったりして楽しみながら農業をやっているという感じでした。信州新町に来て2年目に入り町の役場にも農地をもう少し借りたいといっていたのですがなかなか情報が得られませんでした。自分の連れ合い(妻の事です)が病院の調理の仕事をしていてその職場のMさんが畑を貸してくれるということになりました。畑を見に行ったのですが少し傾斜があったものの、面積は7畝(230坪くらい)ほどあり、自分が今までに市民菜園のようなところで借りていた規模にくらべればはるかに広い面積でした。
小型の耕運機も農協から購入し、雪解けと同時に耕し始めました。ケイフンを畑に撒き、鍬で畝をたてる。6畝程の面積でしたが結構な労働でした。こうしてファーマーとして初めて
一人で畑をやることになったのです。長野に来て5年目のことだと思います。
空き家と農地を求めて、信州新町の役場に行きました。担当のSさんという方が丁寧に応対くださり、空き家のいくつかを紹介していただいたり、現在建設中のIターン者専用の住宅(他の地域から信州新町に移り住みたいという家族に優先して入居していただくという町営住宅です。)の話も伺い私たちも応募する事になりました。それから数ヶ月後の3月に応募者の抽選があり、競争率2倍の中幸運にも抽選にあたり、信州新町に移り住む事となりました。長野市の塩崎から一つ山を越えて私たちは信州新町に引っ越しました。名古屋から長野に移り住んで3年目の事だと思います。信州新町に来てから最初に農政課に行って、農地を探していると相談しました。町民に貸す農地があるからといわれて15坪ほどの狭い農地を1年間借りる事にしました。家庭教師を夜やって昼間は農業と考えていましたが、収入的には大変だったので、まだ市場の早朝のバイトに午後からの家庭教師とスケジュールは一杯でした。合間をぬって農作業をしました。ジャガイモの種芋を購入して少しだけ植えてみたり、トマトやナス、ピーマンの苗を数本ずつ購入して畑に植えてみたり、ままごとのような
農業でした。栽培面積も狭く作っている野菜も自家用に食べていただけですが、やはり自分の作ったものという事もあるかもしれませんが、市販のものに比べると随分と美しく感じられました。虫や病気にもずいぶんとやられ、無農薬で作る野菜の難しさも少しはわかってきました。秋には家族でサツマイモを掘ったりして楽しみながら農業をやっているという感じでした。信州新町に来て2年目に入り町の役場にも農地をもう少し借りたいといっていたのですがなかなか情報が得られませんでした。自分の連れ合い(妻の事です)が病院の調理の仕事をしていてその職場のMさんが畑を貸してくれるということになりました。畑を見に行ったのですが少し傾斜があったものの、面積は7畝(230坪くらい)ほどあり、自分が今までに市民菜園のようなところで借りていた規模にくらべればはるかに広い面積でした。
小型の耕運機も農協から購入し、雪解けと同時に耕し始めました。ケイフンを畑に撒き、鍬で畝をたてる。6畝程の面積でしたが結構な労働でした。こうしてファーマーとして初めて
一人で畑をやることになったのです。長野に来て5年目のことだと思います。
2005年07月06日
有機農業への道 10年の軌跡
長野市の塩崎で新しくアパートを借りて、松代の市民菜園へ日曜日に家族で畑に出かけるという生活が始まりました。なかなか楽しい時間ではあったのですが、仕事の面では実に忙しい日々でした。家庭教師の仕事が本格的になってきて、一日に5人ぐらいを毎日2時間ずつ教えるという日々でした。中学生や高校生、浪人生、不登校の子などいろいろな子を毎日朝から夜遅くまで教えるという日々でした。それ以外にも早朝市場で野菜の仕分けのバイトを平日毎日3時間ぐらいするなどまさに超人的なスケジュールだったと思います。元々資金を持って長野に移住したわけではないので、今までほとんど無収入だったしわ寄せを回収するため必死に働きました。朝4時ごろ起きて市場に出かけ野菜の仕分け作業をしてから10時ごろには1件目の家庭教師の仕事。一旦家に戻って昼を食べてから、また午後の2時ごろから2件目の家庭教師、続いて5時から、7時30分から、10時からという感じで家庭教師をこなし家に帰ると12時を軽く回っていました。そんな感じで月曜から土曜までぶっ通しで仕事をし日曜日にはようやく休めるという感じでした。それでも生徒の試験が近くなると日曜日も関係なく教える事もありました。家庭教師は大学時代に経験はありましたが、もう時間も随分と経っているので忘れている事も多く、中学から高校生までのあらゆる学年の勉強を教えるという事はなかなか難儀なことでした。それでもつかの間の時間を利用して、高校の数学・英語・物理・化学・生物を独習しました。何でも教えてくれる先生という事で評判も立ち家庭教師の仕事は順調でした。
でも農業をするために長野来たという思いは常にあったので、その当時いろいろな自治体でIターン者を受け入れるための住宅を建設していましたので、平谷村や美麻村にその場所を見学にも行きました。大岡村は畑つきの住宅で、家賃も安く魅力的でしたが、あいにく申込者がいっぱいですでに締め切った後でした。こうして信州新町の役場に空き家情報を探しに行ったのです。
でも農業をするために長野来たという思いは常にあったので、その当時いろいろな自治体でIターン者を受け入れるための住宅を建設していましたので、平谷村や美麻村にその場所を見学にも行きました。大岡村は畑つきの住宅で、家賃も安く魅力的でしたが、あいにく申込者がいっぱいですでに締め切った後でした。こうして信州新町の役場に空き家情報を探しに行ったのです。
2005年06月28日
有機農業への道
〇有機農業への道 10年の軌跡
1年ほどいろいろとお世話になった長野市信更町高野のYさんの元を離れる事になりました。長野市篠ノ井にアパートを見つけて、家族で大晦日の日にあわただしく引っ越しました。電気とガスはもう通っていましたが、電灯もガス台もないというような状況でした。元日から開いているスーパーへ行って生活用品を買い揃え、あわただしい正月を迎えました。耕すべき畑もなく、農機具も何もいっさいなく、農業への取り組みは全く一からのやり直しという事になりました。生活費を稼ぐため、Yさんのところにいたときから始めていた家庭教師の仕事を増やしました。家庭教師なら、学生時代に経験があるし、夜の仕事だから、昼の農業の仕事と両立できるかもしれないと思ったからですが、収入も安定せず、3月の受験シーズンが終わると、仕事も激減し、収入が途絶える時期もありました。その当時は農業をやろうというどころではなく、まずは家族4人で何とか生活していかなければならないという切迫した状況でした。家庭教師の仕事が増えるまで、青果市場の野菜の仕分けのバイトも始めました。朝5時から5・6時間日曜日以外は毎日働きましたし、セブンイレブンへ惣菜類を納品する工場で短期のバイトも経験しました。その後次第に家庭教師の仕事も増え始め、家庭教師を斡旋する協会と専属の雇用契約も結び、苦しくはありましたが、安定した収入も得る事も出来るようになって来ました。そんな時期に新聞で長野市松代で家庭菜園の畑を希望者に貸し出すという記事を見つけ、応募したところ幸運にも一区画借り受ける事ができました。こうして再び土を耕す生活が一部自分の日常生活の中に入ってきました。
でも車で20分近くかかる畑でしたので、毎日通うというより休みの日曜日に家族で出かけ、土いじりをするというような感じでした。子供達もまだ保育園に通うような年でしたのでかわいい盛りで、今でも家族で畑に通う車中の雰囲気が忘れられません。家庭教師の仕事や市場の仕事で非常に忙しかったのですが、毎週日曜日には家族でのんびり出来ましたので幸せな日々でした。畑で草取りをしてから、近くのプールで水遊びをしたり、買い物をしたり充実した時間でした。このままこんな生活をしていくのも悪くはないのかなとも思っていました。
1年ほどいろいろとお世話になった長野市信更町高野のYさんの元を離れる事になりました。長野市篠ノ井にアパートを見つけて、家族で大晦日の日にあわただしく引っ越しました。電気とガスはもう通っていましたが、電灯もガス台もないというような状況でした。元日から開いているスーパーへ行って生活用品を買い揃え、あわただしい正月を迎えました。耕すべき畑もなく、農機具も何もいっさいなく、農業への取り組みは全く一からのやり直しという事になりました。生活費を稼ぐため、Yさんのところにいたときから始めていた家庭教師の仕事を増やしました。家庭教師なら、学生時代に経験があるし、夜の仕事だから、昼の農業の仕事と両立できるかもしれないと思ったからですが、収入も安定せず、3月の受験シーズンが終わると、仕事も激減し、収入が途絶える時期もありました。その当時は農業をやろうというどころではなく、まずは家族4人で何とか生活していかなければならないという切迫した状況でした。家庭教師の仕事が増えるまで、青果市場の野菜の仕分けのバイトも始めました。朝5時から5・6時間日曜日以外は毎日働きましたし、セブンイレブンへ惣菜類を納品する工場で短期のバイトも経験しました。その後次第に家庭教師の仕事も増え始め、家庭教師を斡旋する協会と専属の雇用契約も結び、苦しくはありましたが、安定した収入も得る事も出来るようになって来ました。そんな時期に新聞で長野市松代で家庭菜園の畑を希望者に貸し出すという記事を見つけ、応募したところ幸運にも一区画借り受ける事ができました。こうして再び土を耕す生活が一部自分の日常生活の中に入ってきました。
でも車で20分近くかかる畑でしたので、毎日通うというより休みの日曜日に家族で出かけ、土いじりをするというような感じでした。子供達もまだ保育園に通うような年でしたのでかわいい盛りで、今でも家族で畑に通う車中の雰囲気が忘れられません。家庭教師の仕事や市場の仕事で非常に忙しかったのですが、毎週日曜日には家族でのんびり出来ましたので幸せな日々でした。畑で草取りをしてから、近くのプールで水遊びをしたり、買い物をしたり充実した時間でした。このままこんな生活をしていくのも悪くはないのかなとも思っていました。
2005年06月17日
10年の軌跡 Vol.2
〇10年間の軌跡
最初の1年間は長野市信更町高野のYさん宅で農業の基本を覚えました。
田植え・トラクターの運転・インゲンの収穫と出荷・堆肥撒き・草取り・野沢菜の種まき・などなど、どれもが始めての体験でした。朝から午前中にかけてインゲンを収穫し、午後からそれをサイズ別に、S・M・Lの規格に分け、それを2kg箱に丁寧にならべるのですが、それが実に面倒な作業で、形が曲がっているものは、はねてまっすぐに実が伸びているものを選んで箱にモザイク細工のようにきれいに並べていくのです。私は農業1年生という事もあり、最初は全部Yさん(とやんと呼んでいました。)
の言うとおりにやろうと決めていたので、毎日2Kg箱を5〜6ケース、多いときは10ケース出す事もありましたが,全部農協出荷をしました。翌日には伝票が回ってきて、昨日の出荷額が分かるのですが、それを見て愕然としました。その価格は1ケース2Kgで良いときで1000円ひどいときは200円という事がありました。朝早くから収穫して、箱詰めをし、夜までかかって作業をしても1日たったの1000円!!日本の農業が山村から消えていくのはあたりまえだと本当に実感しました。 年金を貰いながら、かろうじて先祖伝来の田・畑を守っている。それが大部分の日本の山村の農業の実態です。後継者が出ようはずもありません。会社勤めをしながら、休みの日に、米を作るのが精一杯のところなのです。高齢化はますます進み、長野の山村では高齢化率が40%を超えるところも出てきました。
あと10年も経たないうちに、山村は自治が成り立たなくなり、田畑は荒れ放題になるでしょう。
農産物の値段の安さという事では、こんな事もありました。とやんと1反部(333坪)ほどの畑にお盆過ぎに大根(丈の短い漬物用の大根です。)を3000本ほど種まきをしました。11月ぐらいに収穫したのですが、とやんは漬物屋さんが大根を買ってくれるから、連絡を取ってくれと、電話番号を教えてくれたのです。私が連絡をすると、ビニール袋に大根を詰めておいてくれというので、肥料袋に20袋ほど大根をぎっしりつめておくと、さっそくトラックで漬物屋さんが大根を取りに来ました。一袋500円というのが漬物やさんの提示した額でした。3ヶ月間ぐらい、草取りをしたり、手間をかけた大根が全部で1万円ほどにしかならないのです。農協に頼り、一般市場に頼るだけでは、自立した農業は成立しえない。このことを痛いほど実感しました。
最初の1年間は長野市信更町高野のYさん宅で農業の基本を覚えました。
田植え・トラクターの運転・インゲンの収穫と出荷・堆肥撒き・草取り・野沢菜の種まき・などなど、どれもが始めての体験でした。朝から午前中にかけてインゲンを収穫し、午後からそれをサイズ別に、S・M・Lの規格に分け、それを2kg箱に丁寧にならべるのですが、それが実に面倒な作業で、形が曲がっているものは、はねてまっすぐに実が伸びているものを選んで箱にモザイク細工のようにきれいに並べていくのです。私は農業1年生という事もあり、最初は全部Yさん(とやんと呼んでいました。)
の言うとおりにやろうと決めていたので、毎日2Kg箱を5〜6ケース、多いときは10ケース出す事もありましたが,全部農協出荷をしました。翌日には伝票が回ってきて、昨日の出荷額が分かるのですが、それを見て愕然としました。その価格は1ケース2Kgで良いときで1000円ひどいときは200円という事がありました。朝早くから収穫して、箱詰めをし、夜までかかって作業をしても1日たったの1000円!!日本の農業が山村から消えていくのはあたりまえだと本当に実感しました。 年金を貰いながら、かろうじて先祖伝来の田・畑を守っている。それが大部分の日本の山村の農業の実態です。後継者が出ようはずもありません。会社勤めをしながら、休みの日に、米を作るのが精一杯のところなのです。高齢化はますます進み、長野の山村では高齢化率が40%を超えるところも出てきました。
あと10年も経たないうちに、山村は自治が成り立たなくなり、田畑は荒れ放題になるでしょう。
農産物の値段の安さという事では、こんな事もありました。とやんと1反部(333坪)ほどの畑にお盆過ぎに大根(丈の短い漬物用の大根です。)を3000本ほど種まきをしました。11月ぐらいに収穫したのですが、とやんは漬物屋さんが大根を買ってくれるから、連絡を取ってくれと、電話番号を教えてくれたのです。私が連絡をすると、ビニール袋に大根を詰めておいてくれというので、肥料袋に20袋ほど大根をぎっしりつめておくと、さっそくトラックで漬物屋さんが大根を取りに来ました。一袋500円というのが漬物やさんの提示した額でした。3ヶ月間ぐらい、草取りをしたり、手間をかけた大根が全部で1万円ほどにしかならないのです。農協に頼り、一般市場に頼るだけでは、自立した農業は成立しえない。このことを痛いほど実感しました。
2005年06月16日
10年間の軌跡 Vol.1
〇 10年間の軌跡 その一
1995年に私達家族は、名古屋から長野県に移り住みました。最初は私の連れ合いの(つまり私の妻、回りくどい言い方ですみません。)母が育った場所である長野市信更町高野のYさんのところに居候させていただいたのです。そこは長野市といっても山奥の集落で、標高も800mほどあり、11月には初雪が降るような場所でした。Yさんは生まれつき耳が悪く、そのため最初コミュニケーションをとることが非常に大変でした。Yさんはその当時72歳くらいだったと記憶していますが、私に農作業を教えるために今から考えると、驚異的な体の動かし方をしてくれました。朝6時ごろ畑に一緒に行き、8時ごろ朝飯を取るために家に戻って、すぐに畑に行って、昼頃まで農作業をし、いったん昼食をとって1時間だけ昼寝(貴重な休息の時間でした)をした後、また畑に行って、暗くなるまで農作業という毎日でした。あの年齢でよくもまあ1年間続いたものと、本当に驚くと同時に、自分に農業を継がせようと一生懸命にしてくれた好意に感謝の念でいっぱいです。いろいろな事情があり残念ながら、そこは1年間あまりで後にしなければならなかったのですが、いろいろな意味で自分にとって貴重な1年間でした。Yさんは奥さんが脳梗塞で倒れ、娘さん夫婦が引き取り、一人暮らしでした。生活は実に質素で、まきを割り、風呂を炊き、水は山の水、食べるものは自分のところで取れた米と野菜、それ以外はぜいたく品でした。たぶんかなり昔から、その家で続いていた生活がそのまま保存されているような感じでした。祖霊を敬う仏壇と、豊作を祈るための神棚が祭られ、仏壇には戦死した兄弟の戒名も祭られていました。そうした空間の中で1年間過ごした経験はまるで自分が、昭和の山間の部落での生活を追体験したような錯覚にとらわれる事があります。
私の農業の基本はそのときにYさんと一緒に体を動かした事から覚えたものです。種籾を蒔き、稲を発芽させ、ビニールで覆ったハウスの中で苗を育て、田に水を張って田植えをする。一歩一歩手順を踏んで、地道に次の作業に取り掛かる。畑の草を刈るときは、地面にはいつくばってただ黙々と草を刈り、冬に入り寒くなると、畑の白菜の寒さ対策に、新聞紙を切り取りのりで輪を作り、割り箸を白菜の周りに立てて、その新聞紙で作った風除けをかぶせる。Yさんのすべての生活は農業と一体のものでした。
1995年に私達家族は、名古屋から長野県に移り住みました。最初は私の連れ合いの(つまり私の妻、回りくどい言い方ですみません。)母が育った場所である長野市信更町高野のYさんのところに居候させていただいたのです。そこは長野市といっても山奥の集落で、標高も800mほどあり、11月には初雪が降るような場所でした。Yさんは生まれつき耳が悪く、そのため最初コミュニケーションをとることが非常に大変でした。Yさんはその当時72歳くらいだったと記憶していますが、私に農作業を教えるために今から考えると、驚異的な体の動かし方をしてくれました。朝6時ごろ畑に一緒に行き、8時ごろ朝飯を取るために家に戻って、すぐに畑に行って、昼頃まで農作業をし、いったん昼食をとって1時間だけ昼寝(貴重な休息の時間でした)をした後、また畑に行って、暗くなるまで農作業という毎日でした。あの年齢でよくもまあ1年間続いたものと、本当に驚くと同時に、自分に農業を継がせようと一生懸命にしてくれた好意に感謝の念でいっぱいです。いろいろな事情があり残念ながら、そこは1年間あまりで後にしなければならなかったのですが、いろいろな意味で自分にとって貴重な1年間でした。Yさんは奥さんが脳梗塞で倒れ、娘さん夫婦が引き取り、一人暮らしでした。生活は実に質素で、まきを割り、風呂を炊き、水は山の水、食べるものは自分のところで取れた米と野菜、それ以外はぜいたく品でした。たぶんかなり昔から、その家で続いていた生活がそのまま保存されているような感じでした。祖霊を敬う仏壇と、豊作を祈るための神棚が祭られ、仏壇には戦死した兄弟の戒名も祭られていました。そうした空間の中で1年間過ごした経験はまるで自分が、昭和の山間の部落での生活を追体験したような錯覚にとらわれる事があります。
私の農業の基本はそのときにYさんと一緒に体を動かした事から覚えたものです。種籾を蒔き、稲を発芽させ、ビニールで覆ったハウスの中で苗を育て、田に水を張って田植えをする。一歩一歩手順を踏んで、地道に次の作業に取り掛かる。畑の草を刈るときは、地面にはいつくばってただ黙々と草を刈り、冬に入り寒くなると、畑の白菜の寒さ対策に、新聞紙を切り取りのりで輪を作り、割り箸を白菜の周りに立てて、その新聞紙で作った風除けをかぶせる。Yさんのすべての生活は農業と一体のものでした。
2005年06月15日
ふるば村自然農園便り Vol 1
始めまして!ふるば村自然農園の渡辺啓道と申します。私事になりますが、もう22年ほど前になるでしょうか。名古屋で中部リサイクル運動市民の会という市民団体で、資源回収の仕事をしていました。環境問題に関心を持っていた私は、平日は資源回収を生業として、土・日と有機農業で自給用の野菜を作ることを、漠然と考えていました。当時、設楽に農業大学を作ろうという事でYさんという方が、愛知県設楽町に校舎を建てていました。農学校の寮(といってもぼろぼろの民家でしたが。)に一室を借りて、土・日は畑を耕し、平日は当時豊明市にあった、資源リサイクルセンターに通ったのです。くずやと有機農業。大げさかもしれませんが、自分の今の日本での仕事はそれしかないと考えていたのです。大量生産、大量消費された商品が、地球の資源をむさぼり、廃棄し、その果てに来る荒廃とした環境破壊。その流れを止めることは出来ないかもしれないが、空き缶を一つずつ拾うことで、罪滅ぼしが出来たらと考えていました。
あれから22年。月日は流れ、今私は、長野県上水内郡信州新町という山間の町で、有機農業を生業としようとしています。そしてこの野菜セットは、私にとっては、やはり特別な意味のあるものです。長野に農業をやろうと移住し、はや10年。試行錯誤を繰り返しながら、いろいろな人と出会いながら、ようやくここまで来る事ができました。ひょっとしたら遠い回り道をしてきたのかもしれません。それでも軌道を変えることなく、目標を求める事が出来ていることには、ささやかながら自負の念を抱いております。こんな事しかできていないくせに。と、誰かに叱られそうですが、まだ私の有機農業に対する試みは、まさに序の口です。でも気負うことなく、やれる事を一つ一つ積み重ねていくことにしようと考えています。
前置きが長くなりました。私は、長野に来て少しずつ、自給用の野菜を今までに作ってきました。今年はこうして本格的に野菜を出荷することになりました。
栽培技術的には素人に毛の生えたものかもしれません。でも今年作っている野菜はいつもと少し違うのが分かります。自分に気合が入っているせいか、野菜たちもそれに答えようとしているのがわかるのです。この少雨の中、野菜たちはすくすく成長してくれています。ほうれん草も、チンゲンサイも、大根もサニーレタスも、今まで自分が作ったものとは比べられないほど、立派に成育してくれています。普段は虫にやられてしまう、かぶも、今年は虫の害にもめげず畑の中で出荷を待っててくれるようです。もちろん全部が全部上手く行っているわけではありませんが。早植えしてしまったモロッコインゲンが遅霜にあって全滅したり、新しく借りた畑に植えた葉物類が虫で全滅したりとか、失敗はたくさんあるのですが、私がよく様子を見に行っている畑の野菜たちは、大健闘です。野菜は人の足音を聞きながら成長するという言葉がありますが、分かるような気がします。
それでは今までに畑に植えた野菜の品目をご紹介しておきます。
下市場の畑(1反2畝)
ほうれん草・ネギ・ズッキーニ・インゲン・ブロッコリー・カリフラワー・サニーレタス・伏見甘長ピーマン・はつか大根・ほうれん草・小松菜・チンゲンサイ・水菜・重宝菜・コカブ・トマト
大原の畑 (1反4畝)
ジャガイモ(男爵・アンデス)白菜・ネギ・大根・キャベツ・サニーレタス・ブロッコリー・にんじん・牛蒡・とうもろこし・里芋・カボチャ・長いも・落花生・インゲン・ミョウガ・
村続の畑 (6畝)
トマト・ミニトマト・ピーマン・ナス・オクラ・しし唐・カラーピーマン・キュウリ
水内の畑 (6畝)
エンドウ・ニンニク・タマネギ
穂刈の畑 (3畝)
にんじん・イチゴ
鹿道の畑 (6畝)
モロッコインゲン・ナス・トマト
日原西の畑 (6畝)
エンドウ・枝豆
6月の前半までに、大岡の畑などまだ空いている農地に、豆類を10種類(大豆・小豆・花豆・くらかけ豆・など)モロヘイヤ・セルリー・水ナス・キュウリ・それからたかきびなどの雑穀も植えつける予定です。現在植え付けと、夏野菜の支柱たてそして草取りに大忙しの毎日です。
あれから22年。月日は流れ、今私は、長野県上水内郡信州新町という山間の町で、有機農業を生業としようとしています。そしてこの野菜セットは、私にとっては、やはり特別な意味のあるものです。長野に農業をやろうと移住し、はや10年。試行錯誤を繰り返しながら、いろいろな人と出会いながら、ようやくここまで来る事ができました。ひょっとしたら遠い回り道をしてきたのかもしれません。それでも軌道を変えることなく、目標を求める事が出来ていることには、ささやかながら自負の念を抱いております。こんな事しかできていないくせに。と、誰かに叱られそうですが、まだ私の有機農業に対する試みは、まさに序の口です。でも気負うことなく、やれる事を一つ一つ積み重ねていくことにしようと考えています。
前置きが長くなりました。私は、長野に来て少しずつ、自給用の野菜を今までに作ってきました。今年はこうして本格的に野菜を出荷することになりました。
栽培技術的には素人に毛の生えたものかもしれません。でも今年作っている野菜はいつもと少し違うのが分かります。自分に気合が入っているせいか、野菜たちもそれに答えようとしているのがわかるのです。この少雨の中、野菜たちはすくすく成長してくれています。ほうれん草も、チンゲンサイも、大根もサニーレタスも、今まで自分が作ったものとは比べられないほど、立派に成育してくれています。普段は虫にやられてしまう、かぶも、今年は虫の害にもめげず畑の中で出荷を待っててくれるようです。もちろん全部が全部上手く行っているわけではありませんが。早植えしてしまったモロッコインゲンが遅霜にあって全滅したり、新しく借りた畑に植えた葉物類が虫で全滅したりとか、失敗はたくさんあるのですが、私がよく様子を見に行っている畑の野菜たちは、大健闘です。野菜は人の足音を聞きながら成長するという言葉がありますが、分かるような気がします。
それでは今までに畑に植えた野菜の品目をご紹介しておきます。
下市場の畑(1反2畝)
ほうれん草・ネギ・ズッキーニ・インゲン・ブロッコリー・カリフラワー・サニーレタス・伏見甘長ピーマン・はつか大根・ほうれん草・小松菜・チンゲンサイ・水菜・重宝菜・コカブ・トマト
大原の畑 (1反4畝)
ジャガイモ(男爵・アンデス)白菜・ネギ・大根・キャベツ・サニーレタス・ブロッコリー・にんじん・牛蒡・とうもろこし・里芋・カボチャ・長いも・落花生・インゲン・ミョウガ・
村続の畑 (6畝)
トマト・ミニトマト・ピーマン・ナス・オクラ・しし唐・カラーピーマン・キュウリ
水内の畑 (6畝)
エンドウ・ニンニク・タマネギ
穂刈の畑 (3畝)
にんじん・イチゴ
鹿道の畑 (6畝)
モロッコインゲン・ナス・トマト
日原西の畑 (6畝)
エンドウ・枝豆
6月の前半までに、大岡の畑などまだ空いている農地に、豆類を10種類(大豆・小豆・花豆・くらかけ豆・など)モロヘイヤ・セルリー・水ナス・キュウリ・それからたかきびなどの雑穀も植えつける予定です。現在植え付けと、夏野菜の支柱たてそして草取りに大忙しの毎日です。