2005年12月10日

アメリカンインディアンの教え

e7cd4981.jpg子供たちはこうして生き方を学びます。
*批判ばかり受けて育った子は非難ばかりします。
*敵意に満ちた中で育った子は誰とでも争そいます。
*冷やかしを受けて育った子ははにかみ屋になります。
*ねたみを受けて育った子はいつも悪いことをしているような気持ちになります
*心が寛大な人の中で育った子は我慢強くなります。
*励ましを受けて育った子は自信を持ちます。
*ほめられる中で育った子はいつも感謝することを知ります。
*公明正大な中で育った子は正義感を持ちます。
*思いやりのある中で育った子は信仰心を持ちます。
*人に認めてもらえる中で育った子は自分を大切にします。
*仲間の愛の中で育った子は世界に愛を見つけます。

攻人之悪

攻人之悪、毋太厳、要思其堪受、教人以善、毋過高、当使其可従

「人の悪を攻むるは、太(はなは)だ厳なることなかれ、その受くるに堪えんことを思うを要す、人に教うるに善をもってするは、高きに過ぐることなかれ、まさにそれをして従うべからしむべし」

人の過ちを批判するときには、厳しすぎてはならない。相手がそれを受け入れられるかを考えるべきである。人を指導するときにも、目標が高すぎてはならない。従うことのできる目標を与えるべきである。

人能誠心和気

人能誠心和気、愉色婉言、使父母兄弟間、
形骸両釈、意気交流、勝於調息観心万倍矣

「人よく誠心和気、愉色婉言(ゆしょくえんげん)、父母兄弟の間(あいだ)をして、
形骸(けいがい)ふたつながら釈(と)け、意気こもごも流れしめば、
調息観心(ちょうそくかんしん)に勝(まさ)ること万倍なり」

一家中が誠実に、平和に、表情も言葉も穏やかに、心をひとつにとけ合わせて暮らしていくならば、その功徳は、むずかしい座禅の修行よりもはるかにまさっている。

処世譲一歩為高

処世譲一歩為高、待人一分是福

「世に処するには一歩を譲るを高しとなす、人を待つには一分をにするはこれ福なり」
一歩下がることが、さらに前進するための土台となる。人のためを考えることが自分に利益をもたらす基礎となる。

物思いにふける夜

3f18427e.jpg静かな夜は、とても考えるためによい。周りには何一つ物音がしない。自分だけの世界がそこにある。時間など気にすることも無く自分の世界で心が飛び回る。そこは自らの解放区。何も制限するものはない。
そんな世界の中で考えることは、たわいも無いことである。そしてまるで空想の夢物語である実現不能なことでもこの世界では実現できる。そんなパラダイスはいつも静かな夜更に訪れてくる。そして僕はそんな世界に入り込めることをとても幸福に思う。人の行動を制限しようと思えば、そのひとの周りに囲いを作れば簡単に出来る。でも人の心には囲いは出来ない。自分の世界は囲いも無くまったくのフリー。
僕は眠りに入る瞬間がとても好きだ。意識が朦朧としてきて現実と夢の世界の間を心が行ったり帰ったりする、目は見ることを止めて視界が次第に狭くなる、腕は筋肉を弛緩させてペンを持つ手を緩めていく、まさに今、僕はその世界に入ろうとしている、もう眠ってしまいそうだ、いつも最後まで頑張るのが「耳」である。朦朧とした意識の中で耳だけは外の声、音をまだはっきりと捉えている。でもそれは何処か遠い世界の出来事のように感じられる、そして僕はそんなことを感じながら深い夢の中に落ちていく。
人が死ぬときもきっとこんな感じなんだろうな・・

2005年11月07日

人間の幸福

bef701ba.jpg人の幸福については、ずいぶん主観的な面が多々ある。ある人にとって不幸なことは、別の人にとって幸福であるかも知れない。同じようにそれが社会通念上「悪」とされている行為もその人にとっては幸福な行為かもしれない、また 逆の場合もある。
いわゆる主観的なものであるがゆえに当事者にしか理解できないものが幸福であろう。貧乏な生活は一般的には不幸であり、片親しか居ない子は不幸であり、お金持ちは幸福であると思われる。でもこれは明らかに間違いである。一概に決め付けるわけには行かない。我々の周りでも一見幸福そうな人が実はその中に入るとまったくの不幸の塊であったりすることが実際問題として現実にある。またその逆もである。
要は個々人のとらまえか方如何で幸福度というものは変化する。多くを望まない人は幸福である。そして、望みに対して努力する人はさらに幸福である。やさしさと思いやりの環境の中で暮らせること、そして自分を理解してくれる人の中で生活できること、そして自分は謙虚でいつも相手の心を想い何かしてあげられることを考え、相手を思いやる。そんな人と人のつながりの中で生活できれば、こんな一生はとても幸福であると思う。
最後の最後に自分は幸福であったと思える。そんな一生が送られたら、とてもよいと思うし、それを信じて今を大切にすれば、少々の苦労も平気である。なぜなら、それは最後に報われるからである。


2005年10月03日

温故知新

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子曰ク、故キヲ温ネテ新シキヲ知レバ、モッテ師タルベシ


歴史を深く探求することを通じて、現代への認識を深めていく態度、これこそ指導者たるの資格である。



子路、君ニ事エンコトヲ問ウ

1ecad0e0.JPG子路、君ニ事エンコトヲ問ウ、子曰ク、欺クコトナカレ、而シテコレヲ犯セ


子路が、主君にどのように仕えるべきか、と問ねた。孔子が言った。正しいことは事はあくまでも正しいと言わなければならない。その為には主君と衝突することも辞すべきでない。



擺脱得俗情、便入名流

擺脱得俗情、便入名流、減除得物累、便超聖境

「俗情を擺脱(はいだつ)し得れば、すなわち名流に入る、物累を減除し得れば、すなわち聖境を超ゆ」

くだらぬ欲望を捨て去る事ができれば、人格の向上ができる。
つまらぬ雑事にとらわれなければ、すぐれた人物となることができる。

面前的田地、要放得

fa28e645.jpg面前的田地、要放得、使人無不平之歎、
身後的恵沢、要流得久、使人有不匱之思


「面前の田地は、放ち得て(ひろ)きを要し、人をして不平の歎(たん)なからしむ、
身後の恵沢は、流し得て久しきを要し、人をして不匱(ふき)の思いあらしむ」

この世に生きているうちは、できるだけ寛容の心で人に接し、不満の心を抱かせないようにしたい。世を去ったのちにも、できるだけ多くの恩恵を残して、人々に満足の心を持ってもらいたいものだ。


2005年09月19日

ちょっとした行為

0165524a.JPGちょっとした何気ない行為でも、大きく人を傷つける場合と、逆に感動を与える場合がある。自分では意識してしたのではなく、無意識のうちにやってしまった行為は、その人の育った環境と性格というものが行わせていると考えられる。
すなわち、その人の人間性そのものを形成している。
今夜、自動車がガソリン切れで止まった時の周りの人々の対応の仕方、あるガソリンスタンドでは「事も無く営業時間外だから」と一言で返答を済ませる。ある人は、自分は動けないにしても何とかしてあげようとする心、そしてある人は「これから持っていってあげよう」と言う。様々な人々の反応、そんな反応に傷つきまた感謝する。ちょっとした心で人の受け取り方は変わってくる。逆にちょっとした困難にぶつかったとき、あの人だから心配してあげよう。何とかしてあげたい。と思われるような人柄、受け手と送り手の間に心が通う。そんな人間関係のつながりが大きくなれば、この世は随分住みやすい社会になっていく。そんなことを思う。今日の出来事は両面の人間性を見たような出来事であった。
たしかに優しさだけでは人は生きてゆけないかも知れないが、重要なことだと思うし、大切なことだと思う。だからこそ、ほんのちょっとした小さな自らの行為に対しても、それが自然体になるような、気配りを持った無意識の行為がいつでも取れるように自らを改革することが大切だと思う。

我以外皆師

ba09e76d.jpg子曰ク、三人行ナエバ、必ズ我師アリ、ソノ善ナル者ヲ択ビテコレニ従イ、ソノ不善ナル者ニシテコレヲ改ム


かりに何人か集まって何かをすれば、私にとって、彼らはみな先生となる。優れた人からは学ぶべき事を教えられる、また不善行の人からは、その行為を改めるための教訓を得られる



耳中常聞逆耳之言

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耳中常聞逆耳之言、心中常有払心之事、纔是進徳修行的砥石、若言言悦耳、事事快心、便把此生埋在鴆毒中矣

「耳中常に耳に逆らうの言を聞き、心中常に心に払(もと)るの事あれば、
わずかにこれ徳に進み行ないを修むるの砥石(しせき)なり、
もし言々耳を悦(よろこ)ばし、事々心に快ければ、すなわち、
この生を把(と)りて鴆毒(ちんどく)のうちに埋在(まいざい)せん」

耳に入るのは甘いお世辞ばかり、何事も思いのままという環境ならば、
知らぬまに猛毒に侵されて一生を台無しにするだろう。



2005年09月09日

人ノ過誤ハ宜シク許スベシ

a1646259.jpg人ノ過誤ハ宜シク許スベシ。シカレドモ己ニ在リテハ則チ許スベカラズ。己ノ困辱ハ正ニ忍ブベシ。シカレドモ人ニ在リテハ則チ忍ブベカラズ。

他人の過ちは見逃して許すべきである。しかし自分の過ちは許してはならない。自分の苦しく辛いことは忍耐すべきであるが、他人が困っている時には無関心であってはならない。



人生を考える

人生100年を生き通す人は限られてくる。120年を超える人はまれである。たかが生きても80〜90年。人類が生まれてから流れた時日に比べれば、ほんとうに微々たるもの、そんな短い時の間で働き、楽しみ、悲しみ、遊び、実に凝縮された人生が詰まっている。楽しさも、悲しさもすべて一瞬。それなら悲しみに対しても、つらいことに対しても一瞬であれば耐えられる。くよくよすることはひとつもない。だらだら過ごしても一年、有意義に過ごしても一年。人の人生なんてものは遠くから見ればみな同じ永さ、だったら、有意義に送る方が自らも楽しい。自分の信念で動く、そして自らを鍛え、成長させる努力をする。そんな生き方のほうが輝いて見える。人を責めるより人を許す方が楽しい。人を裏切るより、人に裏切られる方が気が楽である。うそをつくより、うそをつかれるほうが傷つかない。そんな人生の方が自らを高めるにはよいのでは??ソウ思うことがある。ほんの一時期自分の人生なんてこんなものだ、つまらない人生ならばなるように生きてやれ、なんて思ったこともある。でも  そんな生き方は今思えば何の役にも立っていない。実際、成長も無く自分を落とすだけである。自分を落とすには何の苦労もいらない、一瞬の間目をつぶっていればすぐに落ちてしまう。そこには何の苦労も無いかもしれないが、なんの楽しみもない。自分を取り繕って生きていくだけである。それも人生かもしれない。でもそんな人生を考えると、とてもはかないものである。自分で一生を終えるとき後悔のない素晴らしい人生。そんな人生を送りたい。 ハンググライダー

三省堂の語源

三省堂の語源
曾子曰ク、ワレ日ニワガ身ヲ三省ス、人ノタメニ謀リテ忠ナラザルカ、朋友ト交ワリテ信ナラザルカ、習ワザルヲ伝エシカ
曾子が言った。わたしは日に何回でもこう反省する。いったい自分は、人に頼られながら、つい人のことだといいかげんにすませたりはしなかっただろうか。友人に対して誠実でない態度を取ることはなかったろうか。自分に確信がないことを、まことしやかに人に吹聴したりしなかったろうか。

2005年08月26日

不惑の語源

子曰ク、ワレ十有五ニシテ学ニ志ス、三十ニシテ立ツ、四十ニシテ惑ワズ、五十ニシテ天命ヲ知ル、六十ニシテ耳順ウ、七十ニシテ心ニ欲スルトコロニ従エドモ、矩ヲ踰エズ
わたしは十五歳のときに、学問によって身を立てようと決心した。三十歳になって自分の立場ができた。四十歳で自分の方向に確信を持った。五十歳で天から与えられた使命を自覚した。六十歳で誰の意見にも耳を傾けられるようになった。七十歳になって、自分を押さえる努力をしないでも調和が保てるようになった。

情熱を持って

84cfec39.JPG情熱を持って物事にあたる、どんな些細なことであっても一生懸命に取り組む。情熱が欠ければその仕事の出来上がりも、それほど価値のあるものは生まれてこない。仕事においても、スポーツ、恋愛、その他色々なことがある。そんなことに対し情熱をもって取り組むことはとても大切。情熱をもってしても、その物事は成就するとは限らないがそれでも成就することを信じてがむしゃらに一生懸命やっていく、そんな姿勢がとても好きだ。惰性で流れていく人生もあるが何でも情熱をもってやっていく人生が素晴らしい。
情熱があると言うのは、若い人たちだけではない往々にして若人、イコール情熱と結び付けがちであるが、いくつになってもその心には情熱の炎が燃えるものである。また、その炎を消すべきではない。何時も心を若く行動的にはつらつと持つことが大切である。そうすることによって身体ははつらつと行動し、行動的な性格が生まれてくる。それは見る人に好印象を与え、一緒にいて楽しく頼れる人と映るのである。惰性だけの人生は人をして活動的でなく、何処となく頼りなく映る。
結果は後からしか分からならば、今を情熱をもって取り組む事が必要であることは明白である。

2005年07月07日

人格の形成

あの人は立派な人だ、人格が良い、優れた人格だ。などと言われる人はおおむねその性格が良く寛大な心を持っている、大きな心はその安らかさから発生する。心に動揺、迷いなどがあれば大きな心は育たない。迷わない心、動揺しない心はその自らの信念によって達成できるものである。普遍的に見て正しいとされる信念、また社会常識に照らして間違いのない信念、それは正しいもの、悪いものをそれとして客観的に理解できる力から生まれる。自分だけのひとりよがりの信念と言うものは、他の人を傷つけ自ら浮いた存在になってしまう。素直な心でいればそんな正しいとされる信念によって迷いのない大きな心になれる。そんな気がする。
また同時に自ら伸びてやろうと言う向学心も人格を形成するにおいて重要なテーマである。素直だけでは人は育たない、そこには何時も何かに向かってチャレンジする心構え、自らを鍛えようとする心が必要である。今の自分に満足し、時の流れに身を任せて、流れるままに自分の人生を送る人には立派な心は育たない。理想の人格を自ら設定し、その理想に一歩でも近づく努力をする、達成は出来ないにしてもその努力は出来るであろうから、努力をする分だけ自らの人格を形成している。そんなことを思って努力をしてみる。これも一つのチャレンジであり、自らを鍛える手段となる。誰もが認めてくれる不可のない人、それはやはり心の広く大きな人に対してのみ当てはまるものだと思う。

2005年07月02日

子曰ク、後生畏ルベシ

子曰ク、後生畏ルベシ。イズクンゾ来者ノ今ニシカザルヲ知ランヤ

年が若いとは、将来に希望があることだ。今後の世代が、現在の世代を乗り越えていかないとはいえないのだ。

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