Русско-японская война

mikasapainting
今回は翻訳記事というよりは紹介みたいな感じです。
長文なので読まなくてもいいです。下の反応と総括みたいなトコだけでおkです。


第一章 「日露戦争とポーランド」

historycy.org Wojna Rosyjsko - Japońska
戦争史研究国際フォーラム 第3回「日露戦争と世界-100年後の視点から-」
エヴァ・パワシ・ルトコフスカ 、-ワルシャワ大学日本学科教授-

 日露戦争とその結果は、短期的にも長期的にも、間違いなく国際情勢に影響を与え、ポーランドと日本の関係のみならず、ポーランド自体にも直接的影響を与えた。

 短期的、つまり日露戦争自体がまだ終結していない頃、ポーランドの様々な政治勢力(ポーランド社会党、国民連盟など)が、ポーランドの独立回復を含めた自らの目的を達成するためにこの戦争を利用する事を画策し、日本政府の要人と直接接触することを求めた。同時にポーランド人は、鎖国を解いて近代化に着手してから僅か40年しか経過していないにも関わらず、当時ポーランドにとって最大の敵であった強大なロシア帝国に勇敢にも戦いを挑んでいた国家・日本に対し、強い関心を持った。このことは、岡倉覚三、新渡戸稲造といった日本語文献の翻訳、日本を訪問した西洋人(ヴィルヘルム・デッピング、ヘンリー・デゥモラード、ルドヤード・キプリング・G・ヴレルス)の著書の翻訳、及びポーランド人自身による著書や新聞記事などを含め、ポーランドで日本関連の出版物が当時としては数多く出版された事実からも明らかである。

短期的視点から見た影響 1904年-1905年

 はじまり-1904年以前のポーランドと日本-

11月蜂起、帝政ロシア、ワルシャワ侵攻

 1639年に日本が鎖国を開始し、1795年にはポーランドが三国分割によりその独立を失うなど、歴史的に不利な状況が続いた為、ポーランドと日本の関係が公式に開始されるのは1919年になってからであった。この理由から、19世紀の終わりまで、ポーランドにもたらされる日本についての情報はごく僅かであったし、逆もまたしかりであった。日本が開国して近代化への道を歩み始めてから状況はいくらか改善した。当時、日本人は世界についての知識をなるべく早く吸収しようと努め、一方でポーランド人を含めた外国人はこの太平洋の島国を訪れ、日本文化を直接知ることができるようになった。日本を最初に訪れたポーランド人研究者は動物学者のベネディクト・ディボフスキとシモン・シルスキ、海洋学者のヨハン・クバリー、そしてアイヌの言語および伝説の研究については世界の第一人者であった民族学者のブロニスワフ・ピウスツキ(本稿にも登場する、ポーランド大統領ヨゼフ・ピウスツキの兄)、そして後にポーランドで日本のイメージを広めることになる作家で民族誌学者のヴァツワフ・セロシェフスキである。当時日本を訪れた旅行者のうちで特筆すべき人物といえば、カロル・ランツコロンフスキ 伯爵とパウェル・サピェハ公爵、植物学者のヒューゴ・ザパロウィツキであり、彼らの旅行記によりポーランド人は日本に親しんだ。

 同様に、ポーランドとその歴史についての情報も日本に届き始めた。東海散士は「佳人の奇遇」(1885年)という小説の中で、ポーランドの国の分割、そして独立への動きを見ることができ、国家としてのポーランドの悲劇に触れ、当時、国際社会への参加を始めたばかりの日本に、列強とそれらの植民地政策について警告している。ポーランドが日本の著作物に次に登場したのは、落合直文の「騎馬旅行」という長い詩の一部である「ポーランド回顧」という詩の中であった。福島安正中佐がベルリンからウラジオストックを目指しての単騎旅行中(1892年2月1日-1893年6月12日)の感想を落合が詩にしたもので、日本では特に軍歌として親しまれた。福島中佐のこの旅は、日本陸軍が後にヨーロッパやアジアで展開する諜報活動の先駆けであった。福島中佐の主な任務は、近代的なヨーロッパ陸軍、特に当時の日本にとって最大の脅威であったロシア帝国の陸軍と、その戦略についての情報を収集することであった。福島中佐は公人としてポーランドと接触を果たした最初の日本人であった。長年、ロシアと敵対関係にあるポーランドの人々、特に武力によるポーランド独立を目指す人々が、ロシアに関する正確な情報を提供してくれると中佐は確信していた。福島はロシアについての情報やポーランド地域における反ツァーリズム(反帝政ロシア)運動についての報告書を日本の陸軍参謀本部に送った。参謀本部は、日露戦争直前及び同戦争中において、それらの情報を活用した。これは、日本とポーランドの政府代表者が非公式ながらも協力関係を結んだ初めての例であった。


日露戦争中におけるポーランドと日本の協力関係


 このテーマは、ポーランドや日本の学者がよく取り上げるものである。よって以下では日本とポーランドの協力関係とその結果について整理して簡単に紹介するに止め、むしろ以下ではポーランドの2つの政党であった国民連盟およびポーランド社会党(PSP)と日本政府代表者の間で行われた協力関係に焦点を絞る。

 1904年2月10日に日露戦争が勃発したが、その前に日本政府は、ポーランドを含め、帝政ロシアの統治に抵抗するレジスタンスの代表者と接触すると共に、強大な敵・ロシアを弱体化させるために彼らの独立運動を利用する事を決定した。その目的で、当時の在セント・ペテルスブルグ駐在武官・明石元二郎大佐は、ストックホルムに派遣された。日本陸軍の参謀本部は明石大佐に、ロシア国内に諜報網を確立・シベリア鉄道の破壊、及びロシア帝国領内でツァーリズム(帝政ロシア)に抵抗するレジスタンスの支援を命じた。抵抗勢力の動き次第では満州に派遣された極東ロシア軍を効率的に弱体化させることが出来るという目算に基づくものであった。中でも特に明石は、法律家で作家でもあったフィンランドの抵抗勢力のリーダー、コンラッド・ビクトール(コンニ)・シリアクス、およびフィンランド憲法党のリーダー、ヨナシュ・カストレンと接触した。明石にポーランド国民連盟とその党首ロマン・ドモフスキを紹介したのは、このヨナシュ・カストレンである。

 開戦当時、クラクフ(ポーランドの旧首都)でドモフスキと会見した明石は、ポーランド域内で暴動を扇動するよう、ドモフスキを説得しようとした。そうすれば、フィンランドなどヨーロッパにおける他の地域の反ツァーリズム運動の影響と相まって、日露戦争の舞台である極東からロシア軍の兵力を削ぐことができると明石は考えた。しかしドモフスキは、現状を考えると、そのような抵抗はポーランドにさらなる悲劇をもたらすだけだと反論した。そして、ロシアはすぐに暴動を鎮圧した上で、ポーランドに向けた戦力の一部をもって、極東で日本軍と戦っている陸軍の援軍とし、日本と戦っている戦力が増強されるであろうと主張し、日本が望むような結果にはならないだろうと意見した。さらにドモフスキは、実際に暴動を起こすよりも、暴動の発生を臭わせるくらいの方がより良い結果となるのではないかと説いた。一方で、ドモフスキは協力関係を築くこと自体には合意し、満州のロシア陸軍に在籍しているポーランド人兵士を戦わずして降伏させるのはどうかと提案した。明石はその案に賛成した。戦争さなかの肝心なときにポーランド人兵士が降伏すれば、 全ロシア陸軍の士気を大いに挫くことができ、ロシアの指揮系統に重大なダメージを与えるだろうと明石は判断したのである。そして、ドモフスキは日本への招待を受入れ、児玉源太郎参謀次長および参謀本部第二部(情報部)の部長・福島安正少将に宛てた明石からの紹介状を携え、3月末に東京へ出発した。彼は日本の高官に直接自分の考えを伝えたかった。また、ドモフスキはポーランドの社会主義者たちもまた日本人と接触していることを懸念していた。その読みは後で正しかったことが証明されるのであるが、その社会主義者たちが計画している抵抗活動はマイナスの効果しかもたらさないことも同時に警告したかった。

 ドモフスキが日本へ旅立った後、明石は他のポーランド人指導者とも接触を計っていた。まず国民連盟のイアン・ポプラウスキとシグムント・バリツキと接触を果たし、極東ロシア陸軍の生命線であるシベリア鉄道の破壊計画を持ちかけた。2人はこの計画に同意した。なぜなら、破壊が遂行されればロシア陸軍に徴兵されてしまったポーランド人兵士が極東へ派遣される事を妨害・もしくは阻止可能であると考えたからである。しかし、一度目の作戦は失敗に終わり、明石大佐は国民連盟以外から適任者を探す事となった。そしてポーランド社会党の創設者の一人であるヨドコに協力を求めた。そして2人の人物を紹介され、ドイツから呼び寄せられた田中博太郎が訓練を担当した。しかし、結局この作戦が実行される事はなく、失敗に終わったのだ。

 日露戦争の勃発は、PSP党員のポーランド独立回復への希望を呼び覚ました。党の首領であるヨゼフ・ピウスツキは、ポーランドと日本の協力関係は双方にとって有益であり、ロシア帝国を弱体化させ、最終的には帝国の崩壊を加速化させ得ると信じていた。彼は、ロシアが極東における戦争に忙殺されている機会を利用して、ロシア帝国ポーランド領で武装蜂起を自らの指揮で発生させ、ポーランドの独立を回復することを望んでいた。社会主義者たちは、明石がドモフスキと知り合う前の1904年2月初旬、在オーストリア公使の牧野伸顕伯爵と接触を試みをした。この試みが失敗に終わったため、ロンドンで再度接触が試みられた。そして3月中旬、駐イギリス公使の林董子爵との会見が実現した。彼は、日本陸軍内にポーランド人捕虜とアメリカ帰りのポーランド人で構成されたポーランド人部隊を設立し、満州の露軍ポーランド人兵士に向けて革命と反ツァーリズムを謳ったビラを撒くことを提案した。こうすれば兵士達は武器を捨て、ロシア軍の兵力を弱体化出来るだろうという計算に基づく案であった。ヨドコはまた、ロシア東部とシベリアの橋や鉄道の破壊計画についても示唆した。ポーランド人兵士の投降を促すプロパガンダを仕掛けるだけでなく、特に満州におけるロシア陸軍の唯一の補給線であるシベリア鉄道を破壊する計画は、林や、小村寿太郎外務大臣の興味を強く惹き付けた。一方、小村は、日本陸軍に外国人を編入することはできないという林の意見に賛成した。結局、ここでは何らの合意に至らなかったが、ロンドンでの話し合いと書簡の往復は続いた。ポーランド側は、この協調関係を是非実現させたいと考えていたため、日露戦争開戦前後において、日本側にロシア軍の展開状況やロシア陸軍の兵力についての情報を提供し始めた。しかし、ここでポーランド側は日本からいくらかの見返りを求めようと決めた。ピウスツキは、国際会議の議題としてポーランドの問題を日本が提起することを日本側が約束すべきだとも考えていた。しかし、日本の外務大臣が明確な返答を先送りしたため、PSPは駐英武官、宇都宮太郎大佐を通じて陸軍参謀本部と接触した。主に軍事に関する情報に興味を持った参謀本部は、ピウスツキを日本に招くことを検討し始めた。公式な書簡を介するよりも、直接、極秘の会談を設けた方がより多くの決定が下せると判断したのだ。そして5月21日から23日にかけて、ピウスツキはウィーンで宇都宮と会見し、訪日についての詳細を決めた。ピウスツキは、日本人がより信頼できる「統一勢力」として「他のポーランド人やフィンランド人たち」と接触していることを聞き、日本人がポーランド社会主義勢力と手を組むことへの有効性を疑問視しているのではないかと感じ始めた。そのときピウスツキは、「他のポーランド人たち」とは、すでに日本に到着している国民連盟の代表者とドモフスキであることを知らなかった。次の会見は6月2日にロンドンで行われた。そのとき、日本の上層部がPSPとの協力関係の条件と方法を決定するだろうとの話を林から聞かされたピウスツキは、日本側が彼の訪日を真剣に捉えていることをやっと確信したのであった。宇都宮は、日本陸軍の上層部がシベリア鉄道の爆破に特に関心を持っていることを再度強調した。こうして、小村寿太郎外相、児玉源太郎参謀次長および福島安正少将からの紹介状を手に、6月の初めにTytus Filipowicz と共にピウスツキは英国を出発し、1904年7月11日に東京に到着した。東京に到着して初めてピウスツキは、ドモフスキが5月15日から日本に滞在していることを知った。

 PSP代表者がすぐに日本にやってくることを承知していたドモフスキは、日本に到着してすぐに小村外相に面会しようと試みた。彼は小村に、ポーランドで革命を起こせば事態はもっと悪化し、日本が得るものは何もなく、ポーランドは悲劇的結末を迎えるだろうことを理解してもらいたかった。ドモフスキは小村と会うことはできなかったが、珍田捨己副官と、大臣の信頼も厚かった山座円次郎政務局長と会談する機会を得た。また彼は児玉参謀次長や福島少将にも会えた。彼らの強い勧めで、ドモフスキは2つの覚書を書いた。日本語にも翻訳されたその文書には、ロシアの政情と政党について、また、ポーランドを3分割した3大国(ロシア、ドイツ、オーストリア=ハンガリー)の海外政策におけるポーランド問題の重要性、およびポーランド人の国土回復への強い願望が綴られていた。彼はロシア軍のポーランド人兵士に向けた日本への投降と、降伏を呼びかける声明文の草案を書いて、日本政府に提案した。また、他の外国人兵士への声明文の手直しもした。そしてドモフスキは、ポーランド人捕虜とロシア人捕虜を区別するよう、日本側に願い出た上で、戦争後にロシアに帰ることを希望しないポーランド人捕虜をロシアではなくアメリカに送ることを約束させた。敵前投降の罪で軍法会議にかけられるのを避けるためであった。さらに彼は、ポーランド人捕虜が収用されている四国の松山捕虜収容所を訪れた。

 東京に到着したピウスツキは、参謀本部で村田惇少将と会見した。残念ながら、彼は宇都宮が紹介状を宛てた児玉次長や福島少将と会うことはできなかった。二人はその頃、在満日本軍を指揮するために満州にいた。ピウスツキは、ドモフスキと同様、1通の政治的な覚書と日本とPSPの間の提携合意書の草案を提示した。この覚書の中で、ピウスツキはロシアの内情とロシア支配下において強制的な同化政策に苦しむポーランドを含めた様々な国の苦境を説明し、それらの国がツァーリズムへ対抗するための行動を起こす準備があることを示した。彼は、ポーランド人について、彼らの政治上の願望、一世紀以上にもわたって大国による分割の圧力に対抗してきた中で培った組織的革命行動の経験、そして彼らの目標および特定の行動を起こすに当たっての遂行能力について詳細に説明した。そして日本とポーランドの間には文化的差異や目的の違いはあるが、ポーランド人、とりわけPSPだけが、ロシアとの戦いにおいて日本を支援する事が可能なのだと強調した。日本とPSP間の提携合意書の草案も、同じような調子で書かれていた。ポーランドと日本の利益の相違は無視できないとしても、互いに協調することは可能で、双方に良い結果を生むように思われた。PSPは、日本からの財政的支援および武器の輸送、ポーランド人部隊の創設、ポーランド人捕虜に対する特別待遇、そして対ロシア政策を取る他国の政府機関への接触を助けるなどの国際舞台における協力を期待した。その見返りとして、PSPは軍事関係の情報を提供すること、日本人がロシア人捕虜を尋問したり外国人部隊を編成したりするのを支援するための人員を派遣すること、ロシア軍に編入されている外国人兵士に投降を促す声明文を様々な言語で作成すること、ポーランド域内で動員を実施する際には陽動作戦を展開すること、ポーランドやリトアニアその他のロシア帝国領内で抵抗勢力を組織すること、ロシア軍について情報を提供するための諜報網を組織すること、そして来るべき蜂起に備えて準備を整えることを申し出た。

 紹介状があったにも関わらず、ピウスツキは小村外相に面会することはできなかった。ドモフスキが7月20日に日本を離れる直前に小村外相宛てに提出した3番目の覚書が原因であったと思われる。この覚書の存在についてはピウスツキは知らなかった。ドモフスキは、ピウスツキと東京で、7月14日には様々な政治的課題について9時間も討論するなど、3回にわたって意見を交換した。その後でドモフスキはこの覚書を提出する気持ちに駆られたのであった。この時点でドモフスキは、日本とポーランド両国が日露戦争をポーランドの為に利用することに関して、互いに正反対の立場にあることを痛感し、自分の立場からさらに一言進言せずにはいられなかった。よって、この3番目の覚書の中で、ポーランドの地における革命運動に関する懸念をつづった。彼は、革命がロシア軍に瞬時に鎮圧され、多くの血が流れることを確信していた。ポーランドでいかなる形の反乱を行っても、それは日本の利益にならず、極東での敗北を何らかの形で埋め合わせたいロシア帝国に格好の機会を与えることになると強調した。彼は、国民連盟は現在の政治方針を維持しようとしているのだと説明した。それがポーランド人のために良い結果をもたらす唯一の道であり、一方で武力によるいかなる活動も、このプロセスを妨害するだけである、という説明も加えた。そしてポーランド人は、日本がロシアに勝利することに強い関心を寄せており、日本の勝利のために喜んで支援を提供するが、それはポーランドの利益を危険にさらさない限りにおいてのことである、と表明した。

 ドモフスキの東京での活動の影響もあったのか、結局、日本政府はPSPによって提案された協力活動に合意しなかった。PSPと日本政府の間に利害の相違があること、そしてPSPとの協調関係に関して、参謀本部に代表される日本の軍部と外務省に代表される政府部門との意見が対立すること、がこの決定の主な理由とされた。とりわけ、ピウスツキは政治的支援を求めたが、一方では日本の参謀本部が欲したのはロシアの軍事情報とシベリア鉄道の破壊であり、ポーランド人の政治的願望には全く興味がなかった。日本の外務省も同様であった。距離的にも文化的にもポーランドは日本から離れすぎていた。そしてポーランドは独立国家ですらなかったのだ。日本は国際社会に参画したばかりであったし、推進中の海外政策とは直接関係しない事由のためにこれまで築いてきた立場を危険にさらすことを望まなかった。またこの問題への対応に当たっては、同盟国、特に英国の政策や意見も踏まえる必要があった。英国はポーランド問題に介入することに警告を発していた。しかしながら、1863年にロシアに対するポーランド人の独立蜂起が失敗して以来、ピウスツキが初めてポーランド問題を国際的課題に進展させようと試みたことは特筆に価する。

 ピウスツキの使命は果たされなかったものの、日本は日露戦争が終結するまで、PSP党員を中心とするごく一部のポーランド人と接触を保ち続けた。日本側は、ロシア帝国内で活動している反ツァーリズム組織に対し、武器の購入や会議の実施についての支援を行った。これにより、反ツァーリズム組織の共同戦線が形成されていった。両者の協力関係の形成に最終的な責任を担っていたのは明石元二郎であった。前述の通り、明石の目標は、ロシア支配下にある各地域のレジスタンスに共同戦線を形成させ、それらが協力して反ツァーリズムの抵抗行動を起こすことによりロシアを大幅に弱体化させることであった。最初に実現した大会は、1904年10月1日から5日間、パリで行われたが、失敗に終わった。集まったのは招待された19の政党のうち8つの政党のみであった。そこには国民連盟代表のドモフスキとバリツキ、PSP代表のヨドコ、マリノフスキらがいた。共同宣言を他所に、どの党も自らの計画に固執した。そのため、1905年4月2日から9日にジュネーブでの開催が予定されていた次の大会には、PSPのような、より急進的な党の代表者のみが招待され、国民連盟のような穏健派は除外された。その夏にサンクトペテルブルグを皮切りに反体制デモを行い、その後デモ活動を拡大していく方針が採択されたのは、この大会においてであった。かつてのポーランド王国内における革命運動は、PSPが支援していくことになった。そして1904年末と1905年の初め、ツァーリズムに反対するデモが開催された。それは1904年11月13日、PSP主導の下、ワルシャワのグジボフスキ広場での大規模な武装デモから始まった。この一連のデモと日本から供給された援助資金とを直接結びつける証拠はない。しかし日本はPSPに対し、日露戦争末期の1905年9月5日まで、武器、弾薬および火薬を購入するための資金を毎月提供していた。その見返りとして、日本側は極東に展開しているロシア軍の進路、行動および士気について、またポーランド地域におけるロシアの政策と一般市民の反応についての情報を受け取った。

 日露戦争中の日本・ポーランドの協力関係は、双方が望んだ通りの利益を生まなかったものの、第一次世界大戦後に公式に開始された両国の関係の構築に貢献したのは間違いない。さらに、この戦争自体、また日本がロシアに勝利したという事実は、ポーランドにおける日本観のみならず、ドモフスキやピウスツキの考えにも、大きな影響を与えた。

この戦争がロマン・ドモフスキとヨゼフ・ピウスツキの考え方にどう影響したか

 日露戦争と日本への旅は、ピウスツキとドモフスキの物の見方とその後の行動に影響を与えた。両者は、政治家としての意見や、日露戦争をどのようにしてポーランドの利益に結びつけるかという点において異なっていたものの、お互いを結びつける何かがあった。それは日本への賞賛の心であり、これは当時のポーランド社会全体に共有された感情であった。ドモフスキは後の著作物で、日本についての自らの考察を頻繁に語っている。彼は日本の文明と文化、および日本という国の国民や人間としての価値観を称えた。日本では道徳的価値観や、個人と社会との結びつき、そして個人と伝統との結びつきがいかに重要であったのかを彼は認識した。彼はこう書いている。


 日本の勝利は、世界で広く認知されている物質力に対する精神力の勝利であった。何百万、何千万もの(ルーブル)が、アジアにおけるロシア支配の強化に費やされた。――しかしそのすべては、日本人の魂の中で蓄えられた力によって粉々に砕け散った。日本人を一つの希望にまとめ上げたその力は、「大日本、万歳!万歳!」という一つの叫びの中に表現された。

 日本は偉大にして永遠なり――日本人のすべてがこれを望み、そのために自らを犠牲にする覚悟があった。この望みと自己犠牲の覚悟こそが日本の第一の宝であり、力の源であり、勝利の鍵であった。

 二千年にわたって国が永続的に存続したことが、全体の意思が個人を超越するこの国を一つに結束させた。日本人は個人というより社会の一部であり、個人の利益よりも共通の利益を優先して行動する。

 日本人の全体の意思はとても強く、個人の自由意志は大きく制限されるが、不安定な歴史を持つ他の国々では、全体が個人に与える影響はとても弱く、すべてが自由裁量にまかされる。我々の国はこの上なく自由意志の国であり、もし我々が捕らわれの身であることを意識しなければ、その在り方は無法で怠惰なものになっていくだろう。



 ドモフスキはまた、Historia wojny rosyjsko-japońskiej(日露戦争の歴史)(1906 年、23-24 頁)の前書きに、日本人についてこう書いている。


 厳格なる家父長的民族、立憲制に基づくも厳密なる家父長的君主制と、伝統的な主従間の忠義。すべて我々の世界からは理解しがたいほど重い義務と名誉の意識に基づいている。これが日本人社会と日本国の気質の根幹である。主としてこの気質のおがけで、日本人は、国家としての独立を維持するために必要な科学、技術、そして戦争行為においてヨーロッパが達成したすべてを吸収するという類を見ない仕事を成し遂げることができた。この気質のおかげで彼らは並外れて緻密な軍事行動を行うことができた。最後に、この気質のおかげで彼らは驚くべき英雄的行為と自己犠牲の手本を示したのだ。

 一方の人々は、国への奉仕に対して自らが得られる報酬を主に考えて戦った。そしてもう一方の人々は、己の義務を果たすことを主に考えて戦った。この戦争においては、義務の意識が他方を圧倒した。これは、自らの権利ばかり主張するようになり、社会の成員すべてが負うべき義務の意識を失ってきている我々すべてにとって良い教訓であった。



 日露戦争の影響を受けて、人と国、そしてナショナリズムに関するドモフスキの思想は変化した。それは彼の後の人生で明らかとなる。

 軍人であり指揮官であったピウスツキは、ドモフスキと異なり、日本人の気風には興味がなかった。興味があったのは日本人兵士の士気であり、日本人指揮官の手腕であり、戦争中に採用された戦略であった。ピウスツキは、日本人の戦略と戦術は、第一次世界大戦での戦略や、1920年のソ連-ポーランド戦争の先駆となった、と考えていた。

11Listopada_2007_16
(11月11日 独立回復記念日)

 彼は日本人の戦術を分析したものを研究し、射撃学校の士官コースの講義およびStrzelecの記事の執筆に当たって、日本陸軍の事例を使った。彼は日本陸軍を高く評価し、最初の在日駐在武官であるヴァツワフ・イェンヂェイェヴィッチ大佐(1928 年まで駐在)が1925 年に日本へ出発するとき、軍功勲章審査機関の総裁であったピウスツキ元帥は、日露戦争で軍功のあった51 人の日本人指揮官に、軍人に対する勲章としてはポーランドで最高位にあたる軍功勲章を授与することを決定した。彼は勲章の数とその勲位はもちろん、彼らが所属した部隊と参加した戦闘をも指定した。しかしイェンヂェイェヴィッチによると、名指しされたのは、第10 師団指揮官だった川村景明元帥、および第30 歩兵連隊(黒木為禎率いる陸軍第一軍に所属)を率いていた馬場連隊長のみであった。日露戦争の指揮官の中で当時まだ存命していたのは、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥、陸軍の第二軍司令官・奥保鞏元帥、および先述の川村元帥のみであった。東郷がポーランドから受勲したのは2度目であった。1925年8月7日に東京のポーランド公使館で行われた式典で、ポーランド公使スタニスラフ・パテク(1921-1926)から、国と社会への貢献によりポーランド復興勲章が贈られている。奥元帥と川村元帥は、共に1925 日3月12日に軍功勲章の受勲が決定し、披露式典は1年後の1926 年3月9日にポーランド公使館で行われた。奥元帥は体調不良のため式典に出席できなかったので、勲章は外務省を通じて渡された。しかしイェンヂェイェヴィッチの回想では、そのとき受勲されたのは川村元帥のみで、式典は彼の自宅で行われており、奥元帥は、東郷と同様、ポーランド復興勲章を受章したことになっている。

 残りの士官の名前は日本側が調査した。戦後20年も経過していた当時としては、ピウスツキの指示に一致する名前をリストアップするのは大変な作業で、ピウスツキ国家元首は計らずも日本側にやっかいごとを押し付ける形になった。軍功を挙げた指揮官の多くはもはや存命していなかったため、受勲に相応しい代わりの軍功者を見つけなければならなかった。結局、ポーランドの軍功勲章と同等の勲章を日本で受勲した者から選出することに決まったが、一方、ピウスツキ国家主席が特定の戦闘を戦った特定の部隊を指定し、受勲者選出の際に考慮するよう主張したため、受勲者リストの作成には2年半の月日を要した。1928年初旬、リストはやっとイェンヂェイェヴィッチに渡された。授章式は、1928年3月28日、東京の帝国ホテルで行われた。外務省外交資料館に保管されている資料によると、受勲者として49名が一覧表になっている。馬場連隊長は既に死亡していたため一覧表には載っていないが、第15 旅団より他の士官が受勲している。奥元帥は1926年に川村元帥とともに公式に受勲した経験があったため、主賓として式典に参加した。イェンヂェイェヴィッチは彼の回顧録のなかでこの式典について述べており、Niepodległość誌に寄稿した文の中で下記の通り総括している。

Jozef_Pilsudski1
(ヨゼフ・ピウスツキ元帥、ポーランド共和国建国の父にしてポーランド軍創設者)

 こうして私はピウスツキ元帥から託された仕事を遂行したのであった。日露戦争で最も素晴らしい功績を残した指揮官達は、自由と独立のために奮闘する我々に、その気風と戦いで計らずも多大なる影響を与えたことにより、復興したポーランドから感謝の証を受けた。

ポーランドにおける日本関連の出版物

戦争中、ポーランド人の日本に対する関心は急激に高まったが、それは1904年から1905年にかけて出版された日本についての著作物の量に証明されている。題材は戦争関連のものだけではなかった。ポーランド人の関心の高さは、戦争前と後での出版物の数を比較してみても明らかだ。それらは他のヨーロッパ言語で書かれたものの翻訳版や、ポーランド人の著者による長短様々な出版物におよぶ。こうした出版物からの知識は、まだ日本を訪れたことのないポーランド人作家たちにも活用された。その情報はある程度限定的かつ断片的で、曲解している部分もないとは言えないが、かなり正確であり、戦争に関する事柄だけではなく、一般的な日本の歴史や文化にもおよんでいる。

 これらの作品は概して日本を好意的に捉えているものであり、日本人に対して尊敬の念を示してさえもいる。戦争中、日本は強い国になるために必要な気風の手本を示した。その気風は国土分割に苦しむポーランドがまさに必要としていたものだった。ポーランド人は日本人の勇気に感銘を受けたのだ。近代化の道を歩み始めてわずか数十年の国が、西洋の大国と比較しても絶対的に経験が不足しているにも関わらず、強大なロシア帝国と戦って勝利したのだ。ポーランド人はまた、日本人が他の文化から適切な手本を受入れ、自らの固有の文化に融合させ、自らの力とする能力に感心した。また、日本人の自国を愛する心や、社会全体そして国のために自らを犠牲にする心、忠誠心そして勇気の他に、個人主義および利己主義の欠如についても多く書かれた。

 ボレスワフ・プルスは、実証哲学時代の有名なポーランド人作家の一人であるが、日本人の国民性について頻繁に言及し、ポーランド人がそれを手本にして意識を変化させることを望んだ。1904年6月30日と4月19日付でKurier Codzienny 誌に掲載された「日本と日本人」と題されたシリーズ記事では、日本そのものについての記述の他に、ロシアを破ることを可能にした日本人の性格についても書いた。そこで彼は日本人の勇気、名誉、個人の尊厳、自己犠牲の精神および忠実性について強調し、これらが模倣すべき気質であると述べた(1904年6月23、26、30日)。

 1905年1月22日にGoniec Poranny 誌に掲載された記事の中に、彼の典型的な考え方が表れている。


 日本人は、その勝利だけでなく、ロシア人でさえも賞賛するその美徳によって注目された。友人の意見はえこひいきの場合があるが、敵からの尊敬はその価値が本物であることを意味している。

 日本人の魂の奥深くにある特質は、個人の尊厳といった偉大なる感覚であり、その尊厳の柱となっているのは勇気である。それは、あえて強調する必要もないが、先の戦争で日本人が頻繁に証明したものである。死をものともしない点において、日本人を超える国は存在しない。そしてそれが彼らの本当の強さを形作っている。

 日本は多くの山々から成る島で形成されているので、そこに住む日本人が、高地人と航海者の美徳、すなわち強さと機敏さを併せ持っていることは容易に理解できる。日本人のその他の偉大なる美徳として、自己抑制が挙げられる。自らの怒りや悲しみ、喜びを制御できない者は、日本では野蛮人と見なされる。日本人は常に礼儀正しい微笑で会話をする。しかし、たとえ拷問されたり殺されたりしても、秘密を明かさないだろう。

 同様に素晴らしいのは彼らの社会的美徳であり、その中で最も優れているのは愛国心である。日本人の愛国心は外国人への憎しみや軽蔑に根ざしたものではなく、己に属するすべてのものに対する愛情に基づいている。軍のために何人かの者がその命を犠牲にして任務を遂行する必要が生じた場合、何人かではなく、何千人もの者が自らその任務に志願するだろう。

 これが、つい2年前にはヨーロッパ人に「モンキー」と呼ばれていたにもかかわらず、今は敵国からも尊敬を集める国の姿である。尊敬されたいと思うなら、皆、彼らを手本として努力しなければならない。



 日本について書いた他の著名な作家といえば、民族誌学者のヴァツワフ・セロシェフスキがいる。彼は1903年に、ブロニスラフ・ピウスツキの協力を得て、北海道でアイヌ文化の研究をした人物である。ポーランドへの帰途、彼は東京、京都、大阪、そして神戸を訪れた。彼は、1904年に発行部数の高いイラスト付き文化誌に寄せた「極東へ-旅の手記-」という手記、および歴史や時事問題を扱うTygodnik Ilustrowany誌や、主に旅行記事を扱うWędrowiec誌に寄せた手記の中で、日本についての情報や印象を紹介した。彼は、当時の従来どおりの日本観を踏まえつつ、恐れを知らない武士の国、純潔で美しい女性の国というイメージを描写した。彼は卓越した表現力で日本の風景を描き出し、日本人の精神を説明した。

 この時代の出版物から、当時ポーランド人が日本に親しみを持ち始めていたことが分かる。日本は遠国であり、国際社会に参加し始めたばかりで、ポーランドの宿敵である強大な隣国ロシアをあっけなく破ってしまった。ポーランド人の親日感情においては、独立回復への希望と、素早く目標を達成し、共通の敵を打ち破った日本人の気風への賞賛とが深く結びついている。

長期的視点から見た日露戦争の影響


 日本・ポーランド関係における日露戦争の影響を長期的視点(1920年代と1930年代の視点)から見ると、両国にとっての共通の敵であり、ソビエト連邦となったロシアに対する反感が引き続き両国関係の基礎になったことは明らかである。第一次世界大戦後に独立を回復したポーランドは、国際社会での地位を確立し、強化することを望んでいた。そのため、ソビエト連邦にとって未だ敵国であった日本が、ポーランドにとって、東の隣国との難しい関係のバランスをとるために都合の良い拮抗勢力であったのである。

 これは日本にとっても特に重要なことであった。日本は、最も危険な仮想敵国ロシアについての正確な情報を強く欲していた。そのことが、日本の在ワルシャワ外交官の人選を左右した。そのほとんどはロシア事情の専門家であった。日本とポーランドが1919年に国交を樹立した後、最初に赴任した日本の大使は川上俊彦(1921年-1923年)であった。彼はピウスツキとドモフスキが日露戦争中に訪日した際に通訳を務めた人物である。

 しかしながら、ポーランドと日本の関係は、両国の情報機関同士の協力を始めとする、軍事協力が主であった。日本人が優れていると評価していたポーランド人の暗号解読の専門家たち(特にロシアの暗号解読者)は、ポーランド国内や東京の様々な訓練所で日本軍の士官たちに自らの知識を伝授した。この協力関係は、日本とポーランドが公には敵対関係にあった第二次世界大戦中も非公式に続けられた。

1920年代および1930年代におけるポーランドと日本の軍事協力

 ロシアに関する情報源としてのポーランドの重要性は、ワルシャワに駐在した日本人駐在武官の顔ぶれからも明らかである。彼らのほとんどはロシアに特化した軍諜報部門の関係者であり、陸軍参謀本部の第二部、または満州その他の特務機関、関東軍、またはモスクワの駐在武官室に在籍していた。ワルシャワに赴任した最初の駐在武官は山脇正隆大尉(1921年5月-1922年6月)である。すでに1919年にはロシアからポーランドに渡っていた彼は、1920年代および1930年代における両国の軍事協力関係を強化する特別な役目を果たした。彼の後任者である岡部直三郎少佐(1922年6月-1925年5月)は、ハバロフスクで1年間訓練を受け(1917年)、その後、特別諜報局で勤務した。その特別諜報局とは、シベリア出兵時にウラジオストックに置かれた日本側の司令部に直属していた。樋口季一郎少佐(1925年5月-1928年2月)も同様に、着任前はウラジオストックで日本陸軍の諜報活動に従事し、後にハバロフスクの諜報部門を指揮した人物であった。鈴木重康大佐(1928年2月-1930年6月)は、1916年から1919年まで中国に駐在していた間、シベリアに出兵していた日本軍部隊に派遣されていた。秦彦三郎大佐(1930年6月-1932年12月)は、参謀本部第二部のロシア班員、在満州里の特務機関長、そしてモスクワの駐在武官補佐を歴任し、ソ連に特化した諜報活動に従事していた。柳田元三少佐(1932年12月-1934年3月)は、1927年から1929年までソ連とポーランドで訓練を受けた。1922年にポーランドから日本に帰国し、大佐となった山脇正隆は、参謀本部および教育総監部に配属され、その後、再びワルシャワに駐在武官として赴任した(1934 年3月-1935年12月)。沢田茂中将(1935年12月-1938年3月)は、それ以前はオムスク、ウラジオストック、ハルビンおよび満州の特務機関に従事していた。第二次世界大戦前にワルシャワに赴任した最後の日本人駐在武官(1940年3月に本国に召還された)は、上田昌雄中佐であったが、彼は1920 年から1922年までシベリアに派遣された後、1930年から1931年まで満州里の情報機関の長を務め、その後、関東軍の幕僚を勤めた人物である。彼が帰国後、日本の諜報部員養成訓練校であった陸軍中野学校の校長となったことは付け加えるべきであろう。

 在ポーランド駐在武官として公式に着任した山脇は、日本とポーランドの参謀本部間の恒常的な協力関係を築こうと努力した。彼は特に、日本の軍人がポーランド人から暗号解読の訓練を受けることに注力した。ポーランド人は、現場での長年の経験から、暗号解読の専門家と見なされていた。数年後、彼は当時の努力について次のように記している。


(ポーランド・ソビエト戦争1919-1921年)

 ポーランド・ソビエト戦争中、ポーランド側は我々にソビエトの暗号解読に関する確かな情報を頻繁に提供してくれた。彼らはかなり高度な暗号解読技術を持っていたので、赤軍の最高司令部が前線に命令を下し、それが全部隊に行き渡る前に、それを読み取ってしまう。暗号解読の主要人物はヤン・コワレフスキであった。私はこの
情報を私の後任者、岡部直三郎大尉に話した。そしてこの件について協議し、この専門家に意見を聞いた結果、私はこの件を日本で提起することに決めた。帰国後、私は第二部長である伊丹松雄少将に報告書を提出した。最初、彼はこの考えに強行に反対し、このように発言した「第一級国の陸軍が三級国の陸軍に教えを請うことができようか」。しかし最終的に、彼は合意した。



 山脇だけでなく、岡部や笠原幸雄(当時、訓練生としてワルシャワに派遣されていた)も、ポーランド軍参謀本部第二部とこの件について協議している。彼らと最も多く会議の席を持ったのは前述のロシア班員であり、日本を好意的に受け止めていたヴァツワフ・イェンヂェイェヴィッチであった。(ちなみに、イェンヂェイェヴィッチは1925年にポーランド軍の初代在日本駐在武官となった。)そしてとうとう、1923年初め、ヤン・コワレフスキ大尉は、日本の参謀本部に3ヵ月間にわたり、日本に公賓として招待されることになった。彼が担当した講座とその結果については、日本の暗号解読技術の先駆者の一人である大久保俊次郎大佐の文書に見ることができる。この文書は東京の防衛省防衛研究所図書館に保管されている。

 これらの文書によると、コワレフスキの講義は主にさまざまなソ連軍の暗号を解読する方法を取り上げたが、それに加えてヨーロッパで当時使用されていた外交暗号や諜報暗号の構造をも扱った。参謀本部が主催する全講義を担当したのは、第三部の第八課長(通信)であった岩越恒一大佐で、それを同課の中村正雄大尉が監督した。講義の出席者は第二部が指名していたが、ロシア班の百武晴吉大尉、イギリス班の井上芳佐大尉、フランス班の三国直福大尉、ドイツ班の武田馨大尉などがその中にいた。その他に、近衛師団に所属していた三毛一夫中佐がいたが、彼はそれ以前にロシア関連の諜報活動に従事しており、オムスクなどの地に赴任した経歴を持っていた。

 コワレフスキによる講義を基本として、更なる研究と作業が行われ、その結果、日本陸軍の暗号解読の能力が向上した。この講座が終了すると、次の計画が中村正雄大尉によって準備された。第二部のすべての班から資料が集められ、それらを基に『暗号解読の参考』という題の手引書が編纂され、陸軍の大多数の部隊に配布された。この手引書は主にロシア軍の暗号を扱ったが、他国の暗号に関する情報も含まれていた。コワレフスキの講座を受講した参謀本部員のソ連暗号解読技術をさらに強化するため、日本陸軍は士官たちをポーランドに派遣し、1年間の長期コースを受講させることを決定した。この決定により、百武大尉と工藤良一大尉が1926年に、酒井直次少佐と大久保俊次郎少佐が1929年に、そして桜井信太大尉と深井英一大尉が1935年にポーランドに派遣された。日本への帰国後は、彼らの全員が参謀本部または中国の日本軍に所属し、ポーランドで身につけた技術を実践した。例えば、百武中佐がハルビンの特務機関長のポストに就いたとき、彼は1927年7月から1931年中ごろにかけて暗号班を指揮した。1920年代には、前述の暗号解読技術者の他にも、日本陸軍の士官がポーランドに派遣され、ソ連に関する情報を交換しただけではなく、ポーランド軍の組織的方法についても学んだ。

 この時期における最も重大な出来事は、日本陸軍の軍参謀本部の代表者がポーランドを訪問したことであろう。これはポーランドの陸軍省と参謀本部が企画したものである。ポーランド参謀本部の資料によると、 1929年の前半に、参謀本部第二部長の松井石根中将が弟の松井七夫中将に同伴されてポーランドを公式に訪問している。そのとき随行したのは在モスクワ駐在武官補佐の富永恭次少佐と、もう一人はおそらく寺田済一大佐であった(文書ではただ「セイイチ」とのみ記載)。彼らは1929年4月27日と5月2日に第1軽騎兵連隊と第1砲兵連隊を訪問した。この訪問の主な目的は、情報交換に関する、参謀本部第二部とポーランド参謀本部のさらなる協力関係について協議することであったろうと思われる。この仮説を裏付ける証拠として、ポーランドのモスクワ駐在武官であったグルジェン大佐の手記がある。その中でグルジェンは、この訪問の結果、日本の陸軍の上層部は、ソ連赤軍についての情報収集のための拠点をワルシャワとすることを決定したと記述している。さらにグルジェン大佐は、富永少佐との会話の中で、日本の参謀本部がモスクワの駐在員の数を減らして、一方でワルシャワの駐在員を増員させようとしていることを知ったと記している。

 情報の交換が主であったこの協力関係は、1925年末より参謀本部第二部に所属していた山脇大将の指示の下で東京でも行われた。ヴァツワフ・イェンヂェイェヴィッチ大佐を日本の参謀本部に連れてきたのも彼である。ポーランド軍の東京駐在武官であり、1925年から1928年にかけて日本人に協力していたイェンヂェイェヴィッチは、この協力関係について次のように記述している。


 我々は、週1回の会議の場を設け、お互いの特定の問題について協議することを決めた。会議は、ソビエト軍の大隊の展開について双方が持っている情報の比較から始まった。違いは明確であった。我々は双方の情報源を比較しなければならなかった。日本の(海外)政策は主にロシア問題に直結しているため、私の仕事はかなり簡単であった。日本政府が特に関心を示している領域は、満州と極東ロシアであった。この方向性は日本陸軍と参謀本部から示された。


 ポーランドを離れる前、イェンヂェイェヴィッチは次のことを強く意識していた。


 ポーランドを日本(ソビエト・ロシア)から分割するものは、これらの2国を強く結びつける要因そのものに他ならない。よって、ポーランドと日本に絶えず脅威を与えているロシア状況を正確に把握することは、ポーランド軍の駐在武官の仕事を占めることになるだろう。日本と我が国との関係は、ロシアに関する件で日本と何ら秘密を持たないことが基本となる。


 アジアにおけるソ連の脅威が高まる中、日本・ポーランドそれぞれの参謀本部間の協力関係は、その後の10 年間にわたって大幅に拡大していった。これは主にワルシャワ、東京、そして満州を中心に行われた。満州のハルビンにおいては、ポーランド軍参謀本部第二部(1932 年創設)直属の各情報収集拠点が、関東軍の情報活動担当者と接触を維持した。当時日本陸軍は、ソ連の他にヨーロッパをも対象とした陸軍の諜報機関の情報収集拠点を設定する場所としてワルシャワが戦略的に絶好の地であると考えた。そのため、ワルシャワの駐在武官事務所の軍事補佐官や顧問を増員した。またポーランドに留学生も派遣した。彼らは軍事的な知識や外国語を習得するだけでなく、情報収集の面で駐在武官事務所を支援することになっていた。また、1930 年代には100 人以上の士官や下士官がポーランドを訪れ、研究をしたり短期間の訓練コースを受けたりしている。しかし、この件に関する日本側の文書が残っておらず、ポーランド側の資料には、様々な、時には矛盾する情報しか記載されていないので、ポーランドに駐在や留学あるいは派遣されたすべての人員の氏名を把握することは不可能である。確かなのは、1920年代に行われた決定により、陸軍参謀本部が深井英一大尉と桜井信太大尉を、特にソ連の暗号解読技術の向上のためにポーランドに派遣したことである。彼らは、1935年8月22日から1936年6月1日までポーランド陸軍参謀本部第二部の暗号課で訓練プログラムを受講している。

 日本の参謀本部がポーランドと協力し、その主な目的がソビエト連邦についての情報を得ることであったことは、1937年12月10日から13日にかけてワルシャワで行われた日本・ポーランドそれぞれの参謀本部代表者による会議が証明している。この会議の目的は、平時のソビエト陸軍についての情報を検討するとともに、戦時におけるソビエト軍の動員と、鉄道運送能力に関する問題を討議することであった。日本側の代表者はソ連軍の専門家であった(と文書に明記されている)沢田駐在武官と、動員関係の専門家で在ワルシャワ駐在武官事務所に一時的に配属されていた二見中佐、在モスクワ日本軍駐在武官事務所の秘書官で鉄道輸送の専門家であり、ソ連領において情報を収集していた広瀬四郎少佐、東京の参謀本部所属でソ連軍の研究をしていた武田少佐、そして在ワルシャワ駐在武官事務所所属の林大佐であった。二見中佐の名前が秋三郎であり、彼が日本陸軍参謀本部の在欧州代表者として1937年8月から翌年3月にかけてヨーロッパ中を歴訪したことを証明することは可能である。武田功は1936年中旬にソ連とドイツに滞在している。日本人出席者として最後に示した人物はおそらく、1938年4月にモスクワに派遣され、翌年には在モスクワ駐在武官補佐官となった参謀本部ソ連課所属の林三郎氏であろう。しかし日本の資料では、彼がポーランドに滞在したことについての記録はない。

 よって、1920年代から1930年代にかけて、日本陸軍の代表者にとって最も重要な任務はソ連についての情報を獲得するとともに、暗号解読技術を向上させること、そして諜報活動についての一般知識を深めることであった。駐在武官はそれについての責任を負っており、その中で特に中心的役割を果たしたのが山脇正隆と沢田茂であった。この論文の主旨からすると蛇足であるが、彼らの努力によりポーランドとの軍事協力がとても順調であったため、彼らはその地位を利用してポーランドに関する日本の外交政策をも左右しようとした。日本・ポーランドの協力関係の基礎が、対ソ連に関する両国の立場が似ていることであったことを証明する一節として、1937年から1941年にかけてポーランド駐日大使を勤めたタデウシュ・ロメルが送った電報から以下を引用することができる。


 偶然にも、陸軍省や参謀本部上層部の将校たちのほとんどが、長期短期にわたりポーランドに派遣された経験を持つ。彼らは我が国に対して友好的であり、ソ連に対する我々の利害や政策について深く理解している。このような状況のおかげで、我が国の大使館と日本陸軍上層部の間では、他国の駐日大使館と比較しても、かなり親しい人的交流が行われている。日本との友好関係の永続性と信頼性は、ロシアに対する両国の関係に基づいている。対ロシアに関しては両国の立場は対等であり、ポーランドと日本の利害がおそらく全く異なるであろう他の分野にこの関係が及ぶことはない。


第二次世界大戦中における軍事協力


 1939年9月1日にヨーロッパで戦争が勃発し、9月5日にポーランド政府がワルシャワを脱出し、その1日後にワルシャワの日本大使館と駐在武官事務所が撤退してからは、日本軍代表者とポーランドとの公式な接触の場は、東京のポーランド大使館に残ったポーランド駐在武官事務所のみに限られた。ドイツからの圧力に関わらず、三国同盟締結後も、日本軍指導部は東京のポーランド代表者との関係を崩すことがなかった。ポーランド亡命政府の外務大臣であった、アウグスト・ザレスキは1940年10月10日付の書簡の中でこう述べている。


 私は、日本の対ソ連情報機関に従事しているポーランド人士官に対する日本陸軍上層部の態度からも、日本軍がポーランド人の働きを引き続き重要視しているということ、そして日本とドイツが同盟を結んでも日本政府のポーランドに対する友好的姿勢は何ら変わりがないことを裏付けるために、この数日間にわたって彼らが非常に努力していると感じた。

478px-MolotovRibbentropStalin
(モロトフ=リッベントロップ協定調印、微笑むスターリン)

 1920年代や1930年代と同様、日本はポーランドの情報部門の代表者が提供する支援を活用し続けた。暗号解読技術者たちは引き続き満州国で関東軍に協力して、ソ連軍の暗号を解読し、ソ連に関する情報を流したものと思われる。ドイツ占領下のワルシャワから脱出したポーランド参謀本部第二部の他の士官たちも、カウナス、ベルリン、ケーニヒスベルク、リガ、およびストックホルムで日本側に協力した。日本側はヨーロッパで自ら情報を集めることは不可能であった。おまけに1939年8月23日にモロトフ=リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約・ポーランド分割・バルト三国併合の密約)が締結され、同盟国ドイツも信用できなくなっていた。情報の見返りに、日本はポーランドの情報将校を、ドイツ、バルト諸国、およびスカンジナビアにおける日本外交の拠点に匿うことを約束し、さらにポーランドの諜報関係の報告書を、日本の外交郵便を通じて、諜報活動拠点のストックホルムに送付することを許した。日本のポーランド政策が変わりはじめたのは、ドイツがソ連に侵攻し、日米関係が悪化した1941 年の後半からであった。大東亜共栄圏を創設しようとしていた日本は、ヨーロッパにおけるドイツの政策を支持せざるを得なくなった。1941年10月4日、東京のポーランド大使館は正式に閉鎖され、12 月11日に英国の同盟国としてポーランドが日本に宣戦布告した後は、日本とポーランドは互いを敵対国と見なすようになった。しかし、国交が断絶したにもかかわらず、ポーランドと日本との非公式な軍事協力は第二次世界大戦を通して続けられた。

 この件についてはすでに詳しく論じてきたので、ソ連をめぐる日本とポーランド諜報部間の協力関係が継続したことを示す最も重要な事実のみを次に紹介する。第二次世界大戦が始まったころ、両国間の非公式な協力関係の中枢となったのは、1939年に日本が新しく杉原千畝領事代理を長とする外交拠点を開いたリトアニアのカウナスであった。リトアニアには日本人在住者がいなかったため、その地に領事は必要なかったはずであ
る。よって、日本政府がリトアニアを選んだのは、ノモンハン事件の影響で日本とソ連の関係が悪化する中で、ヨーロッパ、特にソ連を観察するのにこの土地が適していると考えたからではないだろうか。杉原は、カウナスで領事館を開く理由を記した報告書を、戦時中彼に協力したあるポーランド人からの要請で、おそらく1969年に自らロシア語で作成している。

 自分で情報を収集することの困難さを認識していた杉原は、カウナスのポーランド地下組織(ZWZ)の代表者、ポーランド軍参謀本部第二部のリトアニア駐在員、Wierzba(「柳」)情報部のLudwik Hryncewicz 少尉、参謀本部第二部グロドノ事務所の情報将校であったアルフォンス・ヤクビャニェツ大尉(“Jerzy(George)Kuncewicz”または “Kuba”)およびレシェク・ダシキェヴィッチ少尉(Jan Stanisław Perz という偽名を使っていた)らを始めとするポーランド人と接触した。ソ連情報の見返りに、杉原は2人に日本のパスポートを発行し、ポーランド地下組織に対しては、ポーランド情報部員であったミハウ・リビコフスキ少佐が駐在していたベルリンやストックホルムに日本外交拠点を通じて書簡を送ることができるよう便宜を図った。そして、これは有名なエピソードであるが、何千人ものユダヤ人のために通過ビザを発行するという理由などにより杉原がカウナスを離れざるを得なくなったとき、彼は前述の2人のポーランド人をドイツに行かせた。ヤクビャニェツは表向きは在ベルリン日本陸軍駐在武官事務所の翻訳者として雇用されていたが、実際にはベルリンのポーランド情報部の指揮官を務めていたと見られる。ダシキェヴィッチは引き続き杉原と行動を共にし、最初は杉原が総領事として赴任したプラハへ、その次は杉原が1941年3月に副総領事として赴任したケーニヒスベルクに同行した。カウナスの領事館と同様、在ケーニヒスベルク領事館は情報収集の拠点として機能し、杉原はドイツ軍とソ連軍の動向についての情報を収集することになっていた。1940年10月、モロトフがベルリンを訪問した後、情報部員はドイツとソ連間の戦争勃発は避けられないと報告していたが、ドイツは同盟国である日本に、政治的・軍事的決定事項について通告しなかった。ダシキェヴィッチは、日本人外交官がドイツ側によってケーニヒスベルクから退去させられる1941年まで、杉原の情報収集を支援し続けた。

 ミハウ・リビコフスキ少佐と小野寺信大佐が駐在していたストックホルムでの協力関係が一番長く続いた。小野寺は小野打寛大佐と西村敏雄大佐の後任で、彼らの働きにより、1940年1月、ポーランド参謀本部第二部の北方地域事務所を開設することができた。ストックホルム駐在開始当初、小野寺の関心は主にドイツがイギリスとソ連のどちらを最初に攻撃するかに向いていた。リビコフスキはまた、小野寺に、ヨーロッパ前線の状況と、ソ連とドイツの動きに関する情報を提供した。見返りとして小野寺は、リビコフスキが西側へ書簡を送る際の便宜を図り、ドイツ人についての情報を流した。この協力関係は1944年まで続いた。リビコフスキが去った後は、アジアと太平洋地域における戦争が終結するまで、ポーランドのストックホルム駐在武官、Feliks Brzeskwiński少佐によって日本・ポーランドの協力が続けられた。

結論

 1905年に日本がロシアに勝利した事実は、ポーランドを含め世界を震撼させた。そのときから、ポーランド人は日本人に好感を抱き、日本人の勇気、国への献身、そしてイデオロギー的、政治的目標の達成に向けた飽くなき努力に尊敬の念を持つようになった。さらに、ポーランド人は、日本がロシアを破ったことでポーランドの状況が良くなることを期待し、ポーランド人が日本人の態度を手本とすることで、ポーランドの独立の回復が容易になることを期待した。「敵の敵は味方」の原則に従い、ポーランドと日本が第二次世界大戦が終結するまでの40年間にわたって、ロシアという敵が両国の関係を築くための要素となった。日本にとって最も重要な要素は、戦時中と同様、共通の危険な隣国ロシアについての軍事情報の取得であった。第一次世界大戦後に国際社会にやっと復帰し、世界における地位の強化を望んでいたポーランドは、その海外政策の遂行について、大国と認められていた日本からの支援を得ることを望んだ。そして日本との良い関係をもって、ソ連との難しい関係とのバランスをとろうとした。

 さらに、当時の出版物が示すとおり、概してポーランド人は日本人を高く評価していた。その理由は主に「日本の魂」であった。東京のポーランド公使館付の駐在武官補佐であったAntoni Ślosarczyk 大佐(1930年-1935年)は、日本人のサムライ魂と士気について書いた最も著名な作家の一人である。彼は武士道の原理と日本の軍隊の起源について研究し、その著書Samuraje(サムライ)(1939年)の中で、日本の魂についての興味深く示唆に富む印象を概略している。彼は次のように記述した(47- 48 頁より)。


 サムライが日本人全体に与えた影響は、今日まで生き残っており、国民の心理や習慣の中にはっきりと見ることができる。これは、日本古来の精神である大和魂と呼ばれる強力な倫理観の根幹を成すものである。とりわけ、昔ながらの武士道を受け継いでいるのは、日本兵である。(ロシアとの戦争において)日本の戦闘能力は本当に素晴らしかった。歴史的に見て、これはもちろん予想外の現象ではなく、サムライによって武勇の美徳が何千年にもわたって信奉されてきた中での当然の結果なのだ。

文献
ヘンリー・デゥモラードの「日本‐その政治的、経済的、社会的特徴」(1904年)、アンドレ・ベレソールの「日本への旅、日本社会」(1903年)、ヴィルヘルム・デッピングの「日本」(1904年)、ルドヤード・キプリングの「日本からの手紙」(1904年)、G・ヴレルスの「現代日本」(1904 年)、A・ヘリッヒの「東アジア、日本、朝鮮、中国、そして極東ロシア」(1904 年)、アリス・ベーコンの「サムライの女たち」(1905 年)、ベネット・バーレーの「東の国 、 日露戦争」(1905 年)、W.ドロスツェウィッチ の「東の戦争」(1905 年)、E. B.の「日本、土地と人」(1905 年)、アービング・ハンコックの「日本人の鍛錬法」(1906 年)および同著者の「日本女性の鍛錬法」(1906 年)、ラフカディオ・ハーンの「こころ」(1906 年)。徳富健次郎(蘆花)のNamiko(1905 年、原題は「不如帰」)、「寺子屋または村」(1905 年、原題は「寺子屋」。「菅原伝授手習鑑」をもとにした作品。)、新渡戸稲造の「Bushido」(1904 年、原題「武士道」)、岡倉覚三の「茶の本」(1905 年、原題Book of Tea、邦題「茶の本」』、「日本の目覚め」(1905年)、「ポーランドにおける日本の話」(1905 年)。 Zygmunt K?o?nik’のJaponia(日本)(1904 年)、A. Okszyc のJaponia i Japo?czycy(日本と日本人)(1904 年)、Juliusz Starkel のObrazki z Japonii(日本の印象)(1904 年)、W?adys?aw Studnicki のJaponia(日本)(1904 年)、Parvus のSprawa wschodnia. Zatarg japo?sko-rosyjski(東洋事情-日露紛争-)(1904 年)、X.X.のZ powodu wojny obecnej my?li kilka(当代戦争に関する考察)(1904 年)、Wojna. Jednodniowka z powodu wojny rosyjsko-japo?skiej(戦争-日露戦争のために出版された小冊子-)(1904 年)、Oficer. Jaki b?dzie koniecwojny japo?sko-rosyjskiej(士官-日露戦争の結末とは何か-)(1904 年)、Wojnarosyjsko-japo?ska. Ksi?ga obrazowa(日露戦争アルバム)(1904 年)、Stanis?aw PosnerのJaponia. Pa?stwo i prawo(日本-その国と法律-)(1905 年)、Aleksander Czechowski のHistoria wojny rosyjsko-japo?skiej(日露戦争の歴史)(1906 年)、Stefan ?eromskiのSen o szpadzie(剣を夢見る)(1906 年)。


(ポーランド民俗舞踊、カワユス。)


(ポーランド陸軍音楽隊 マーチングパレード)

 ポーランドは1918年11月11日に念願の独立を取り戻した。しかし、ロシア革命への干渉の為にポーランド・ソビエト戦争が勃発(当時はまだロシア帝国)、ポーランドは何とか勝利し、停戦に至った。しかし、これによってロシア国内に居たポーランド人は迫害の危機に陥ってしまい、子ども達だけでも祖国へ返してあげたいと「ポーランド救済委員会」が設立され、日本では有名なポーランド孤児救済が開始された。当時は国交がなかったとは言えども、上に記された文章を読めば、それ以前から日本とポーランドには強い繋がりがあった事が伺える。と言うよりも、ポーランドからもたらされるロシア情報の為に、日本が即断したとも考えられ、日本がお人好しだったというわけではないとも言える。

1923年、関東大震災に際してポーランドの新聞が報じた記事

 開国から僅か60年余年にして、驚くべき成長を遂げた長い歴史を持つ国が、このような災害に見舞われる運命だった事を、一体誰が予想しただろうか。日本はじっとこの余りにも理不尽な出来事に耐え、驚くべき速さで復興の道を突き進むだろう。我々ポーランド人は日本と共に祈ろう。



Jeńcy1
(連行されるポーランド人兵士捕虜)

 その後、ポーランドは再び激動の時代を迎える事となった。独ソ不可侵条約の後に、バルバロッサ作戦によってポーランドはドイツ・ソ連の二カ国に分断併合されるに至った。ソ連側の捕虜となった将兵は後にカティンの森事件に遭遇し、4400人が虐殺された。しかし、実際に行方不明になったポーランド人捕虜はこれ以上であり、実際にソ連が虐殺した兵士は膨大な数に上ると思われる。

young-polish-girls

 第二次世界大戦後になるとポーランドは再び独立を回復するが、ソ連の影響下に組み込まれ、民主化に至ったのは1989年であった。そしてロシア軍がポーランドから完全撤退を完了したのは1993年であり、ポーランド人念願の自主独立を果たしたのはつい最近であったとも言える。


そう、今日(11月11日)がポーランドの独立記念日。


現在のポーランド人の反応
korten(ポーランド)
この戦争は非白人種である黄色人種の日本人が、植民地主義を掲げる白人に対して初めて勝利したものだ。まさに日本が強大なロシアに勝利した。

Stonewall(ポーランド)

もしロシア革命が起こっていなければ、この戦争の結末は全く違うものになっていた気がするな。日本の戦費が、何処の国の資金で行われたかを注視する必要があるよね…そう、イギリス人とアメリカ人の金だ。結局、アメリカが得をした戦争なんだよ。ルーズベルトはその後にノーベル平和賞をゲットしちゃってるしさ。

Kocotus Maximus(ポーランド)
1905年のロシア第一革命が起きないなければと言うけどさ、この革命が起きた理由の一つとして、日露戦争における敗北があったわけだよね。そして思い出さなくちゃいけないのが、この革命が起きたのは日露戦争後なんだよ。奉天会戦も日本海海戦の敗北も、革命の影響があったからではなく、これに敗北したから皇帝に対する怒りが爆発して民衆を革命へと推し進めたんだ。それと戦費を対外債務で補った件に関して、どこの国も戦争を行う時は対外債務を募っていたよ。対外債務が可能だったからこそ、列強は植民地獲得競争を行えたわけさ。日本軍の素晴らしい実績と経済力から、資金を勝ち取れたのさ。

Stonewall(ポーランド)
「日本軍の素晴らしい実績」と言うけどさ、日本にとっては大きな損失を被っただろ。日の丸の旗の下で、乃木総大将は躊躇いもせずに部下に決死の突撃命令を何度も何度も、何千人もの将兵達に下した。ロシアにとって、この戦いは結局遠い極東の戦争だったんだ。そして日本にとっては直ぐ近くの戦争だったのさ。ロシア帝国の陸軍が前線に赴くにはシベリア鉄道を経由していかなければなかったし、時間も掛かった(当時はバスも高速鉄道もなかった)。

Sagasudo(ポーランド)
ロシアは運が悪かったとか日本は幸運だったとか、対外債務によって勝利したとかいう話はもう止めようよ。日本人はロシア人に勝利するために、ありとあらゆる外交攻勢・情報収集を行ったわけだ(スエズ運河を通れないようにしたりね)。そのせいでバルチック艦隊はアフリカを一周するはめに陥ったし、多くの時間を無駄にする事となった。そして日本海海戦に至っては、イギリスから取り入れた新たな戦術・戦艦を運用したんだ。戦争において犠牲が出るのは付き物だよ。兵士の犠牲もね…。日本人は勝利する為に、訓練を重ねて国に命を捧げたわけさ。この戦争は二つの異なる異文化の国が衝突して、ロシアに新たな敵を生み出し(革命派)、日本がロシアに勝利する事を可能にしたんだ。

iglak(ポーランド)
個人的には、この戦争はロシアが勝利出来たはずだった。指揮官がきちんと指揮をしていればね(日本の指揮官は軍の移動に関してバカだった)。

Zajec I Wielki(ポーランド)

日本は比較的良い装備を使用していて、一方でロシアはマシンガンと少数の機関銃ぐらいの武装だった。何より、日本は弾薬補給の要らない強力な武器を持っていたわけだ。病的なまでの愛国心と国家への忠誠心という強力な武器をね。

Gronostaj(ポーランド)

日本にとっては、この日露戦争は開国以来二度目の偉大なる勝利だったわけだ。ただ、イギリスやアメリカといった大国からの援助がなければ、日の昇る国の勝利は1ミリたりとも無かった事は明白だ。そして日本にとって、戦場は非常に近くだった。一方でロシアにとってはシベリア鉄道を経由して長い時間を掛けなければ兵士を戦場に送り込む事が出来なかった。そう、この戦争は軍隊の変革が必要という事を世界に示したんだ。その後、世界では第一次世界大戦が勃発し、陸軍はまだ近代化されたものではなかった。その後に起こった戦争や内戦、東西冷戦を考えると、1904年から1905年に掛けて行われた日露戦争は、世界の戦争史において多大なる影響を残したと言えるな。

Napoleon7(ポーランド)
つうか、実際には日本海海戦における敗北後であっても、ロシアが日本に勝利する事は可能だったよね。1905年の夏ごろには、日本の経済はもう疲弊していたし、人材の余裕すらなかった。あまりにも莫大な資金がこの戦争に費やされたんだ。日本には補充要員は送れないし、前線の兵士も負傷兵が多かった。




 ポーランドで初めて出版された日本の漫画「天の涯まで」。かのベルサイユの薔薇を描いた池田さんの作品で、「ナポレオン時代にフランスに統治されたポーランド」を題材としています。まさに初には相応しい漫画なんですが、あんまり売れなかったみたい。



 本当はイギリス・アメリカ・ロシアの反応も取り入れる予定だったんですが、あまりにも引用した論文が長く、ポーランドの独立記念日である本日11月11日に間に合いそうになかったので、先にポーランドの反応だけ・・・。他の国の反応は、機会があれば取り上げようかなって思います。ポーランドの反応に関しても、後に追記する予定です。何はともあれ、ポーランド独立記念日、万歳ー!間に合わなかったー/(^q^)\

・上のポーランドの方々のコメントは、ロシア贔屓でもなく、全体的に日本贔屓に近いです。翻訳したコメントも、どちらかと言えば日本寄りなものが多いと個人的には考えています。



コメントへの返信
>27様
コメントありがとうございます。わざわざ全文引用した理由につきましては、日本でよく言われているシベリア孤児救済に関して、日本が慈悲の心から迅速に行動したという点だけでなく、日本の利害にも一致していた、そして何より国交なくとも以前から協力体制が出来ていたという事をご理解頂ければという考えから長文のままに致しました。また、ポーランドの方の反応につきましては、これから順次追加していく予定です。というのも、出来れば11月11日の独立記念日にブログに公開したいなーという想いがあったので、途中のまま公開致しました。意外にも、日露戦争(というか日本)に対するフォーラムの反応は薄いので、これからシベリア孤児救済等に枠を広げていく上で、上の長文は理解の助けになるかなと思った次第であります。

とは言え、長文を引用した事に関しては反省しております。時間はこういう形でないように努めたいと思います。ご意見誠にありがとうございました。





コメント欄で管理人を装って閉鎖するだの、休止するだの書くのは止めてくださいね?さすがにイラっとしましたよ?ホホホ。初めてですよ。私をここまでコケにしたおバカさんは・・・。

人気ブログランキングへ押していただけると嬉しいです。

記事のリクエストは→リクエスト掲示板


このエントリーをはてなブックマークに追加 
当ブログのプライバシーポリシー