Russo Japanese War

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今回も翻訳ではなく、紹介です
長いのですっ飛ばして、一番下で日本海海戦の動画コメント見た方が良いと思う。

戦争史研究国際フォーラム 第3回「日露戦争と世界-100年後の視点から-」
キース・ニールソン、-カナダ王立国防大学歴史学部教授-

日露戦争と英国の外交政策

 第一次世界大戦勃発に至る20年間において、異論があるものの最も重要な出来事は、やはり日露戦争であったと言える。実際に交戦した日露両国にとって、この日露戦争の意義は広く知られているが、この戦争が当時の国際社会に与えた影響については、未だ認識されていない。これは非常に残念だと言わざるを得ない。なぜなら、日露戦争の影響を把握出来なかった為に、第一次世界大戦勃発に先立つ国際情勢を十分に理解出来ない結果となっているからである。

 1900年から1907年までの英国の戦略的外交政策は、日露戦争の影響を強く受けている。この戦争を念頭において同時期の英国の政策を検討すると、様々なことが明らかになるのだ。純粋に英国の視点から考えると、英国の大英帝国としての危機感と、欧州列強の一角としての立場が密接に関連していたことが明白になってくる。また、より全般的な視野から言えば、日露戦争は国際社会の裏面に根本的な変化をもたらす触媒であったことがわかる。最後に、欧州と欧州以外(特に東アジア)の事柄を切り離して考えると、第一次世界大戦に先立つ20年間の国際関係についての理解を誤ってしまうことが明らかになる。


当時の英国情勢

 20世紀初頭の欧州では、露仏同盟と独墺伊三国同盟という二つの対立する欧州列強ブロックの間で、力の均衡が概ね保たれていた。とはいえ、ドイツが強国となり、やがてこの不安定な均衡が崩壊するのではないかという懸念が深まりつつある時期だった。英国は難しい立場に立たされていた。欧州では、ドイツの経済力と海軍力の拡大に直面し、その他の植民地においては、アフリカではフランスから、インドではロシアから、さらに清ではロシアとドイツといった国々の脅威に晒されていた。ボーア戦争と義和団事件という二つの事件からも、英国が遠く離れた植民地で戦略的な対応を取るのが困難であったことは明らかになっていた。

義和団事件


 上記の紛争が二つとも欧州域外で発生したという事実は特に重要である。少なくとも1815年から存在していた欧州列強の帝国主義政策は、勢力の均衡を生み出し、一国または複数の国が連携して現行の均衡を脅やかすと、それに対抗するグループが形成された。そのため、地理的に大陸から距離があり、世界最強の海軍を有する英国は、通常傍観者の役を演じつつ、自国の利益が危険に晒された時にのみ、欧州大陸の問題に関与するという選択が可能であった。強調しすぎてはならないが、これが英国のいわゆる栄光ある孤立の基盤であった。しかし、英国は欧州以外の地域で発生した紛争では、必ずしもこのような傍観者面はできなかった。それどころか、自ら何らかの方法でその地位を維持しなければならなかったのである。実際、ボーア戦争によって勢力拡大を図る欧州列強が、南アフリカに介入する英国に付け入る可能性が生じた。そして、南アフリカに介入したおかげで事実上、英国は「単なる三等国家、しかも欧州の諸列強と対立し、利害関係を持つ三等国家」になり下がったのである。さらに、義和団事件は最終的に反乱勢力に対する欧米諸国の協調介入をもたらしたが、その結果、ロシア軍は満州に居座り、清における英国の立場を一層脅かすこととなった。

 英国の国際的地位を保持するにあたって、もうひとつ憂慮すべき事があった。それは当時英国にとって最大の植民地であったインドにロシアの脅威が差し迫ってきていた点である。これは何も新たに生まれた問題ではなかった。19世紀を通じて、インド防衛が大英帝国における要であったからだ。しかし、ロシアのシベリア横断鉄道(1891年着工)が、オレンブルグとロシア領中央アジアのアシケントを結ぶ路線の建設に至り(1905年初頭完工予定)、ロシアの脅威が一段と増してきた。このシベリア鉄道によって、英国がインド防衛に際して享受してきた海軍大国としての、兵站上の優位性は完全に失われ、勢力的均衡が崩れロシア有利へと大幅に揺れ動いたのだ。英国インド相のジョージ・ハミルトン卿が認識していた様に、ロシアの鉄道建設は英国にとって新たな難問となった。

「これは私がかなり以前から感じていた事であるが、シベリア鉄道の延伸によって英露間の軍事力の関係が一変したと認識せざるを得ない。」

 この難局において英国が最初に行った対応は、歴史研究者たちが大英帝国衰退の兆しとしているものではあるが、対話を通じて問題を解消しようとする試みであった。これに伴い、かつてのビクトリア女王時代、即ち栄光ある孤立を信じて疑わない老人たちから、エドワード王時代、より積極的な対外政策を望む若い世代へと世代交代が進み、様々な政治上の変化が発生した。だが、ドイツ・ロシアとの交渉をまとめようとする1898年~1903年に渡る英国の試みは失敗に帰した。その理由は、ドイツの要求は英国にとって到底同意出来るものではなく、ロシアにおいては自国有利に進め英国の弱みにつけ込もうとしていたからである。だが、他の場面では良い事もあった。1902年の日英同盟はロシアに対抗する上で大きな助けとなり、1904年の英仏協商は両国の植民地争奪戦を終結させた。また、これらと同様に重要な点としては、英国が防衛政策を抜本的な見直しに着手する決定を下したことだ。

 見直しに当たったのは新たに創設された帝国防衛委員会(CID)であった。CIDは1903年から10ヵ月もの長期間を費やしてインド防衛について検討を行なった。すぐに明らかになったのは、中央アジア以外ではロシアに打撃を与える、すなわち対露戦争による英国への効果は期待できないということであった。対露戦争における費用は、特にボーア戦争による国家債務の激増と、英国海軍の優位性維持を考えた場合、巨額であった。問題は英国がアジアにおける軍事大国としての問題と責任をすべて負いながら、本国の防衛あるいは欧州での戦争に備えて軍備を維持する事を可能とする徴兵制のような仕組みを欠いていたことであった。CIDの会議が回を重ねたのはまさに問題の複雑さを明示している。参謀総長が1905年5月に記しているように「首相は・・・現にアフガニスタンや辺境部族のような不確定要因まで対象とするこの問題が惹起する巨大な困難にかなり困惑している。」

 外交的解決も実現は容易でないと思われた。英国外相ランズダウン卿は「ロシアとのアフガニスタンに関する問題や、わが国との他の厄介な問題に対して、ロシア側は解決不可能」とは考えていないものの、解決への道は不透明であると見ていた。ロシアが満州からの撤兵を拒否し続けたことによって、事態は深刻さを増した。これが新たに締結された日英同盟と関連しているのは明白である。「ロシア人はどうしようもない」と、ソールズベリー卿の長男は記している。「そして我々の小さな友人であるジャップは明らかに不安で落ち着かない様子だ。いつ日本が外交ルートを通じて満州協約の厳密な履行を求めてきてもおかしくない。おそらく、いますぐということはなかろうが、遅かれ早かれそうなる。その時はどうするのだ!」

 事実、1903年6月末までに明らかになったことは、駐日英国公使マクドナルドの言葉によれば、「日本人は我慢の限界に達しつつある。無理からぬところである。ロシア人は誠実さに欠け、現状は満足からほど遠い」。しかし、マクドナルドはこれによって、日本が朝鮮を統治し、ロシアは満州を支配する日露合意(満韓交換)という満足できない結果につながる懸念があると、警告していた。日英同盟の本来の目的が東アジアにおいてロシアを牽制する以上、それは英国にとって受け入れ難かった。だが、勢力範囲を定めて日露が接近するという最悪の結末になる可能性は、1903年夏以降、確実に後退していった。

 駐露英国大使チャールズ・スコットはロシアが極東に総督府を設置する事は、平和的解決に悪影響を及ぼすだろうと記している。1903年8月末までに、英国では日露が戦った場合の結果を予測する議論が始まっていた。アーネスト・サトウ駐清英国公使が述べているように、「日本が単独でロシアと戦った場合、日本は敗北し、朝鮮半島における権益を失う結果となる。その場合、ロシアはこの地域の支配権を確立し、少なくとも満州を丸ごと飲み込むであろう」・・・これを英国は恐れていた。サトウの主張によれば、「仮にロシアが日本に勝利したならば、我々は一隻の軍艦も、一名の兵士も失わずに極東において無力な存在となるだろう」ということを意味した。ロシアで近く外相就任の呼び声が高かったアレクサンドル・イズヴォルスキーが、日英同盟はロシアに対する不当な疑惑の結果であり、日本が東アジアで侵略的な行動に出るのを可能にしかねないものと確信していたため、こうした懸念は重要性を増した。

 ランズダウンはロシアとの交渉を継続していく中で、ロシア政府は誠意を持って対応してはいないという確信を深めていった。そんな中、10月には日本政府がさらに軍艦を購入できるよう、英国政府が債務保証を行なうという案を提唱した。ランズダウンはアーサー・バルフォア首相に次のように言った。「もちろん、ロシアは明らかに敵対行為と見なすでしょう。しかし、彼らの振舞いも酷いものです。だから私はさほど気にしませんよ。」ランズダウンがこのような路線を唱えたのは、外交交渉における立場を強化するためであった。ランズダウンは続けた。このような借款の「結果的には、彼ら(ロシア)に対して、我々を嘲弄し続けるならただでは済まないと気づかせ、私が常に望んでいたように、両国間の問題について相互理解をもたらす可能性があります」。バルフォアも海軍に絡んだこの策略を気に入ったので、海相セルボーン卿に「わが国と日本が力を合わせる事で、明らかにロシアを圧倒出来るのであれば、彼らは軍事行動を躊躇するかもしれない」と示唆し、さらに、「したがって、東洋艦隊の増強は平和に役立つ(対露牽制)かもしれないうえ、戦時にも有用でありうる」との結論を述べた。

 1903年12月には、英露交渉は暗礁に乗り上げていた。それに加え、バルフォアは「極東での立場(日英同盟)が問題の種となるのは避けがたい所です」とエドワード7世に報告した。ロンドン市場において、ロシアは石炭を、日本は米を買い付けており、両国は険悪な状況にあった。トーマス・アンダーソン外務事務次官の言葉を借りるならば、「今後3ヶ月以内に問題が解説されない限り・・・、4月には長年に渡って例を見なかった様な危機(世界大戦)に直面するかもしれない」という事だ。

 こうした状況下で、英国政府は日露戦争が勃発した際の起こりうる可能性と、英国が取るべき政策を検討し始めたのだ。バルフォアは直ちにセルボーンとアーノルド=フォースター陸軍大臣に対し、海軍省と陸軍省の情報部門が、戦争になった際の日本の戦略をどのように分析しているか確かめるように指示した。セルボーンが懸念したのは、勃発する可能性がある日露間の戦争が、英国の利益に何を意味するのか、という事であった。

 戦争になった場合、どうすべきだろうか。私は常に、同盟国の日本がロシアに敗北するのを、傍観するわけにはいかぬと考えてきた。だが、仮にこの考え(対露参戦)が採用されるとすれば、我が国は日本がロシアに敗れた後に関してまで、ある種覚悟をしなければいけないという事ではないだろうか。しかも、わが国が参戦した場合、フランスの参戦もあり得る。英仏両国が戦争に巻き込まれるかもしれないとは、何たる災難だろうか。

 セルボーンは、英仏が共同でロシア政府と交渉する事が、戦争回避に繋がるかもしれないという期待から、英国政府からフランス政府に接触する事を提案したが、これはランズダウンが英仏協商に向けて検討中に支持した考えであった。

 このフランスという国名が登場する事によって、極東における問題と欧州の問題が、如何に絡み合っているかが明らかとなった。英国は1894年の露仏同盟を正確には把握しておらず、日露間で起こりうる戦争が、英仏を巻き込む形になる事を望んでもいなかった。このような、欧州も交えた複雑な状況になるかもしれないという懸念は、英国の外交姿勢のみならず、海軍の軍備にも影響を与えた。セルボーンがウォルター・カー海軍軍令部長に、日露戦争に備えて英国は何をすべきかと尋ねた件に対し、カーは「特にすべき事はありません。何が起きても対応できるように万全の体制を整えておくだけです」と答えた。しかし、カーは「フランスが介入しないという確信が持てないのであれば、我々は極東に一隻たりとも戦艦を送るべきではありません」とも述べている。

 しかし、このような懸念は英国の政策を決める上で、決定的な要素ではなかった。バルフォアは1903年の大半を、対露インド防衛に関するCIDの会議に巻き込まれて過ごした。既に述べた様に、この話し合いはロシアに対して効果的な打撃を与える可能性については、むしろ悲観的であった。また、バルフォアはランズダウンがロシアとの交渉を続けても、帝政国家との間で満足できる恒久的な合意に達する事が出来るとは確信していなかった。なぜなら、ロシアは自国の都合によって協定を破棄する傾向があった上に、英国の領土に対して野心を抱いていたからである。従って、バルフォアは日露間で如何なる紛争が勃発したとしても、英国が自らの戦略上の問題に対処するう上で、役立たせる方法を自由に検討できる事となった。12月22日、バルフォアはこうした立場をまとめた覚書を作成した。

 全体的な情勢を考察した上で、バルフォアは具体的な議論へと移した。日本にとって起こりうる最悪の事態は、制海権を失い、朝鮮半島での権益の維持が困難になる事だろうと考えていた(ロシアが日本に対して大規模な侵攻を行うのは、ありえないと考えていたため)。朝鮮での問題は、日本にとって影響はあるだろうが、英国にとっては問題ではなかった。バルフォアはさらに次のように続けた。

 あらゆる点(貿易問題を除く)から見て、ロシアが犠牲をいとわずに朝鮮半島進出という冒険を犯し、その結果として、役に立たない地域を一ヶ所手に入れる事ほど、英国にとって都合の良い事はない。朝鮮を奪う事は、得るものよりも失うものの方が大きく、半島を維持する為にわざわざ極東に大艦隊を派遣し、本国から数千マイルも離れた基地に陸上部隊を駐屯させなければならない。しかも、ロシアが他の列強と戦争をする際には、例えどんな状況であろうと、どんな場所であろうとも、常に背後に日本という国が待ち構えている状況が、恒久的に続く事となる。

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 この考えの下でバルフォアは、英国は日本の如何なる要求に対しても、矛を収めるように圧力を掛けるべきではなく、むしろ日本に対して独自に自国を救済する道を取らせるべきだと考えた。

 バルフォアはセルボーンに宛てた書簡で、この考えについて論じている。「本来は戦争を忌み嫌い、一般的にはこれを阻止すべく努めるものではあるが・・・」と前置きをしつつも、英国にとって日露間の戦争が如何に都合が良いかを述べている。「友好的でない大国(ロシア)を助け、同盟国(日本)に圧力を掛ける事が期待されるような問題に、当事者でもないのに身を乗り出すのは、我が国にとって好都合の争いと考えられる以上、他に手段はないと感じている。戦争中・戦後を通じて、この日露戦争がロシアに多くの教訓を与え、物分りの良い国に変貌させる可能性が高い」とバルフォアは結論付けた。

 ランズダウンはバルフォアが主張する事の全てを了承したわけではなかった。ランズダウンは、ロシアがバルチック艦隊を極東に派遣させる動きを察知していた為、日本が制海権を維持できるとは確信出来ていなかった。仮に日本が朝鮮半島を失い、制海権まで失うような事態となれば、ロシアの極東進出阻止という日英同盟の存在意義が危機に晒されるだろう。ランズダウンはこれらの事から、日本は将来的に英国にとって極めて重要な同盟国となる可能性があるものの、戦争によって逆に政治的には何の意味も成さない国家に転落するかもしれないと主張した。そして日露戦争には三つのリスクがあるとした。

1、英国の同盟国が敗北する可能性
2、条約上は英国の参戦義務がなくとも、英国国民が同盟国の敗北する状況を、傍観する事は許さない為に、戦争に巻き込まれる可能性
3、既に危機的状況にある英国の財政状態が一層悪化


だが、ランズダウンは、こうした懸念からバルフォアの主張を却下したわけではない。

 この状況を利用しようとする主張も出てきたのだ。オースティン・チェバレン財務大臣は、「仮に日露戦争が勃発した場合、我が国がロシアと争っている地域を速やかに手中に収める好機ではないか」とランズダウンに尋ねた。特にチェバレンは、ロシアが日本との問題を解決してしまうと、英露間の問題を交渉で解決する意欲を無くすのではないかと憂慮しており、「ドイツの外交を見習い、今回だけは自国最優先の利己的なゲームをやろうではないか」といった結論を述べた。チェバレンは、英国が日本に慎重論を唱えるべきではないというバルフォアの主張に同意し、むしろ日本は強硬的に交渉し、自国の要求を通すか、もしくは海軍の戦力比が変わらぬうちに戦争に打って出るべきだと考えていた。



 12月末、バルフォアはすべての論議を総括して英国の政策を策定しようとした。日本がロシアに屈服しそうになった時、世論が英国の介入を強制するという閣内の意見を考慮し、速やかに、「日英条約下のわが国の道徳的義務は法的義務を超えるものではない」という事を明らかにした。バルフォアは2年前、日英同盟が交渉中であったときの主張を繰り返し、日英同盟は例えあらゆる状況に置かれたとしても、英国の対露参戦を強制するものではないという考えを明らかにした。これを前提として、バルフォアは「今回の問題におけるわが国の進路を決定するにあたり、英国は現在および将来の利益以外の目的によって動かされてはならない」と主張し、

 ロシアが日本を屈服させる事は不可能であり、例え勝利したとしても朝鮮半島(あるいは朝鮮の港)を領有したとしても、財政的負担や、日本の報復に備えて常に軍備を整えなければならないという、二つの問題を抱えるという主張を繰り返した。英国の政策としては、ロシアをフランスの同盟国であり、インドへの侵略者、ペルシアに対する支配的な影響を与える者、欧州の平和を乱す可能性がある国として警戒しなければならない、とした。

 ロシアが朝鮮を領有したとしても、上記のすべての場所でより危険な存在となるわけではなかった。しかし、バルフォアは「英国、ロシア、そしてフランスすべて参戦する世界大戦に巻き込まれるリスクと、その損害はまったく予想不可能な規模に達しよう。そのような前例を見ない悲劇から、確実に利益を得る唯一の大国はドイツである」と警告した。極東情勢と英国のグローバルな戦略的外交政策の関係は明らかであった。こうした理由からバルフォアは、英国の政策は国益を冷徹な計算に基づいてのみ決定されなければならないと結論付けた。ここでバルフォアは、たとえ日本が海戦で戦争がもたらしうる最悪の敗北を喫したとしても、ロシアもまず無傷では済まないであろうと先見の明ある考え方をした。これは、しばらくの間、ロシアを無力化するかもしれないと思った。バルフォアの分析に全員が賛成したわけではなかったが、首相としての政治的地位の力で、これが英国の政策基盤となることが確実となった。

 これらの事から、2月8日に日露戦争が勃発した際には、英国の政策は既に決定済みであった。英国政府はあらゆる状況下で自国の利益を第一として行動した。しかし、それは英国が日露両国に対して公平に動くことを意味しない。例えば、1月にランズダウンはフランスによる日露両政府間の仲裁努力を阻止したが、これはロシア側が裏で画策した動きであると考えたからである。さらに、開戦となったとき、ロシアが海洋の自由航行権および交戦権に関する国際協定を侵害することを顧慮し、英国はこの可能性を真剣に検討して、それに備えた。これに加えて、インドの防衛についてもさらなる検討を行なった。なぜなら、ロシアは日本と戦っている間に英国から譲歩を引き出すための外交的な手段として、インドへの軍事行動を起こしかねないと英国は考えたからである。

 こうした中、4月8日に英仏協商が調印された。これはいくつかの影響をもたらした。まず良い影響として、多くの人々がこの協定は「わが国が対露関係に関してある種の改善を行なうための足掛かり」として利用できると信じた。一方、否定的なものとしては、英仏協商について多くのロシア人は、これはフランスがロシアを支援するよりもこの協商の維持を優先するという意味を持つと考えたことである。英国人の反応は何もせずに事態の推移を見守ろうというものであった。

 ほどなく英露間にいくつかの問題が発生した。1904年7月、ロシアの義勇艦隊に所属する艦艇が紅海で英国の船舶を拿捕した。英国は外交ルートを通じて抗議したが、ロシアは聞く耳を持たなかった。8月下旬、さらに多くの英国船舶が航行を妨害されるに及んで、状況は一段と悪化した。このときの危機は克服されたものの、ロシアの高圧的な行為に対する英国の怒りは尾を引いた。その怒りが、10月21日のバルチック艦隊による英国漁船撃沈によって爆発した(日本水雷艇と誤認し撃沈)。ドッガーバンク事件と呼ばれるこの事件によって、スペインへ向かうバルチック艦隊を英国艦隊が追尾する事となり、両国は開戦の瀬戸際まで行った。だが、月末には両国間で妥協が図られ、ロシア海軍士官4名がスペインのビーゴ港で下船させられ、事件に関する国際裁判を待つこととなった。

 ドッガーバング事件は解決したものの、英露関係は冷え切った。もはや日露戦争の戦況・・・1905年1月2日の旅順陥落や1月20日にサンクト・ペテルブルグで発生した暴動(血の日曜日)ですら、英露関係や国際情勢を変える事は出来なかった。しかし、3月末に全てが変わった。3月31日、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世がモロッコのタンジール港に上陸し、モロッコ事件が勃発した。この危機は、よく第一次世界大戦勃発への序章として、欧州における問題としてのみ考えられているが、実際には日露戦争にも直結した事件であった。

解説:モロッコ事件、独仏の領土紛争。

 モロッコ事件を理解するには、日露戦争時におけるドイツの外交政策を考える必要がある。日露戦争が勃発した時、ドイツはロシアやフランス側にも加わらず、国際関係では中立的な立場にあった。しかし、欧州におけるドイツとロシアの交渉が決裂した為、フランスとロシアを引き離そうとするドイツの策略は失敗に終わった。そして英露間で海戦が発生した場合、英国がどさくさに紛れてドイツ艦隊に先制攻撃を仕掛けてくる可能性を懸念する状況へと至った。この考えは、英仏協商の締結(フランスがドイツを包囲する企てと考えられた)によって強まった。このようにして、ドイツ政府は次第に冷静さを失い、日露戦争開戦時にあれほど見通しの明るかった国際的地位の悪化を防ぐ為、何か行動を起こさなければならないと考えるようになった。

 英国は、このモロッコ事件を、英仏協商を破談させる為の、ドイツの策略であると判断した。情勢は複雑だった。モロッコ事件の発生を同じくして、英国は日英同盟の改正交渉を行っていた。そのため、英国はフランス政府に対して、英仏協商の意義を示し、日本政府に対しては、英国は平時のみならず戦時であっても、頼りになる同盟国であると信頼させるという二つの理由から、フランスを支持する必要があった。その時、アメリカの大統領であるセオドア・ルーズヴェルトは、この時ポーツマスにおいて日露講和会議の仲介を努めており、ルーズヴェルトとしては英国が日本に対して妥協するよう働きかけてくれると期待していた。さらに事情を難しくしたのは、ロシア皇帝ニコライが講和に乗り気でないのは、ドイツが支援を約束したからだという噂が流れたからである。だが、こうした中で、英国の外交は概ね成功し、8月12日には日英同盟が更新され、8月末にはポーツマス条約によって日露戦争は終結した。

 しかし、戦争が終わっても英露関係、あるいは国際情勢全般に対して、日露戦争の影響が波及し続けた。ロシアが極東における敗北は、世界に大きな情勢変化をもたらした。まず第一に、日本はアジア地域における王者へと変貌した。これは英国にとって重大な意味を持っている。かつての脅威であったロシアは、清における大英帝国の利益を脅かす脅威ではなくなったが、日露関係が急速に改善しつつある状況に注目するならば、今度は日本が英国の脅威となる可能性が出てきたのだ。この皮肉な状況を、英国は1911年に既に認識していた。ちなみに、英国及び国際社会全般にとって、より直接的に重要だったのは、ロシアが大国としての力を大幅に低下させたことであった。

 日露戦争後、ロシアの財政は破綻し、海軍は大幅に縮小され、陸軍は各地で発生する反乱と不穏な動きに悩まされていた。これが、第一次ロシア革命による社会的・政治的混乱と相まって、ロシアは防衛力を強化と軍事力回復を進めるという、従来よりも穏健的な外交政策を取らざるを得なくなった。英国にとって最も重要だったことはは、バルフォアが望んだ通りに、ロシアが妥協する姿勢を見せるようになったことであった。1906年から真剣な交渉が開始され、1907年には英露協商が成立した。ナポレオン戦争以降、国際社会で絶えず存在していた英露間の角質が遂に終結を迎えたのだ。

 日露戦争は、一般的に考えれば、英国にとって少なくとも短期的には良い収穫であり、ランズダウン外交の正しさが立証された。ドッガーバンク事件が英露関係を緊張させたものの、それを巧みに処理したことによって表立った決裂は回避され、英露協約の締結を可能にした。日英同盟は戦争の緊張に耐えることができ、事実、更新された。極東で戦争が始まっていたにもかかわらず英仏協商が締結され、戦争の厳しい状況を生き延びた。また、ドイツによる英仏協商への策略は裏目に出た。アルジェシラス会議では、英仏による強固な関係が築かれた。また、ロシア海軍の壊滅によって、英露関係がどうであろうとも、露仏同盟に対する英国海軍の戦力的問題は改善された。そして何より、日本の勝利と日英同盟更新により、極東に派遣していた艦隊を本国周辺に集中させ、極東の防衛は日本に頼る事が可能となった。また、ロシアの混乱により、インドに対するロシアの脅威は格段に減少した。

 だが、国際関係に目を向けた場合、日露戦争の影響は必ずしも有益とは言えなかった。ロシアという大国が一時的に列強の戦列から離脱した事により、欧州における勢力の均衡は遂に崩れ、ドイツが危険かつ強硬的な外交政策を取り始めた。ドイツは三国協商で包囲されつつあるという脅威に対し、英国を現在の同盟関係から脱却させるか、あるいは欧州における紛争に介入させないためにも、リスク理論に基づく艦隊建造を急いだ。しかし、これは逆効果となってしまった。これによって、英国はドイツが欧州大陸支配を目論んでいると判断してしまったからである。これによって、1907年から11年にかけて、英独による建艦競争が繰り広げられる事とり、関係は悪化の一途を辿る事となる。

解説:リスク理論、建艦競争によって、相手を牽制するという考え。

  ロシアが弱体化された為に、欧州ではオーストリア=ハンガリー帝国がロシアを相手に戦いを挑もうとした。1908年から09年にかけて発生したボスニア危機は、基本的にロシアが引き起こしたものではあるが、発生した主な要因は日露戦争によるロシアの弱体化が鍵となっていた。ロシアは戦争を行う気はない、もしくは戦争を遂行する能力が無いという確かな情報を掴んでいたオーストリア=ハンガリー帝国は、率先してロシアに対して強硬姿勢を貫き、ドイツはこれを支援した。その結果、ロシアとオーストリア、ロシアとドイツの関係は急速に悪化し、それ以降ロシアは両国の強硬姿勢に一切譲歩しないという決意をするに至った。1912年と13年のバルカン戦争の最中、ロシアの軍備回復は進んでおらず、ボスニア危機のような屈辱的敗北は避けられたものの、ロシアが依然として軍事的に弱体化している事は明白であった。しかし、1914年には状況が変わっていた。そのため、ロシアはドイツに対して譲歩する気は更々なかったのである。そしてその結果、戦争が勃発したのだ。このように、日露戦争の影響は、長く尾を引いたと言える。

結論

 日露戦争は歴史上初めて、アジアの強国が欧州の強国を打ち負かし、地域大国としての日本を出現させたという様な、東アジア限定の次元で考えるべき問題ではない。むしろ、これこそが第一次世界大戦に至る過程で起きた最も意義のある出来事として、より幅広く考察されていかなければならない。バルカン半島を「欧州の火薬庫」と名づけ、この地域の不安定さが1914年の第一次世界大戦勃発に繋がったという議論が今でもなされているが、より正確に言うならば、バルカンの火薬庫に火を着けた導火線は、日露戦争・・・満州に端を発していたと言えるだろう。


要約

 つまり、日露戦争は一般的にアジアの小国日本は西洋の大国ロシアに勝利した意義のみが強調されがちだが、もっと視野を広げてみれば、この戦争こそがロシアの弱体化をもたらし、第一次世界大戦へと繋がったという事である。また、第一次世界大戦の敗北がドイツにナチスの台頭をもたらした事から、近代の世界情勢を決定付けた大きな要因であったとしている。

 英国としては、世界大戦を避ける為に対露参戦を行わず、日本を利用してロシアの弱体化を図ろうとしたが、それは結果的にドイツの増長をもたらし、第一次世界大戦へと繋がってしまった。また、ドイツにおいてもロシアの力を削ぐ為に日英同盟締結へと画策し、締結を喜んだが、結果的に自分の首を絞める事となった。

セルジュク・エセンベル-ボスポラス大学歴史学部教授-

日露戦争と日本・トルコの関係

  日本が1904年に日露戦争に勝利した事によって、東洋の大国となった日本と協力し、欧米列強に対抗したいと考えるムスリム活動家が日本に接近し、日本とイスラム圏の繋がりを促進した。日本とイスラム教徒の接触には、時を隔てて二回に渡って行われ、双方が違う目的によって行われた。まず第一期は19世紀末から第一次世界大戦終結までの数十年間である。欧米列強による植民地政策によって、危機感を抱いていた多くのムスリムにとって、1868年の明治維新と共に始まった日本の富国強兵への満ちず字は、イスラム世界の近代化の模範に映った。現在に至っても多くの人々がこのように考えているが、当時のムスリムの民たちも、日本人は従来の日本固有の伝統文化と西洋の近代化政策を上手に融合させたと考え、日本は欧米列強の覇権主義に屈しない国家の実例を示したと考えたのである。ムスリムの民が特に歓喜したのは、1904年-05年の日露戦争において、日本がロシアを打ち破ったことである。それは即ち、支配されていた東洋人であっても、無敵と思われた欧米列強に立ち向かう事が出来るのだと証明して見せた、アジアの目覚めであった。ムスリムの新聞では、日本の勝利を欧米列強の覇権主義に対する同じ同胞の勝利だと絶賛した。トルコにおいても、国粋主義者であり男女同権論者であるハリデ・エディプが息子に「トーゴー」の名をつけ、トルコやイラン、エジプトの詩人たちは日本と天皇陛下に寄せる詩を書いた。これは何もイスラム圏だけではなく、中国やロシアに苦しめられていたフィンランド・ポーランドといった国々の人々も、熱狂したのである。

 明治時代、帝政ロシアやイギリス、オランダを共通の敵として、日本との協力関係を築こうとした多くのムスリム活動家と、日本は接触を持った。日本とイスラムの関係における第二期は、第一次世界大戦とロシア革命後の日本の拡大政策期である。日本政府は、開国以来続いてきたムスリムとの繋がりを利用し、イスラム圏工作を実行する事となった。第二期に至っては、明治以来繋がりがあったムスリムを通じて、ロシアや中国、東南アジア、さらには中東においても、日本の為に多数のムスリムが政治的・軍事的な地下活動を行った。日露戦争の結果として生じた、日本とムスリムの関係は、初期においてロシア出身のチュルク語族(トルコ系)とオスマン帝国出身のトルコ人が中心となっていた。

 当時、オスマン帝国やアフガニスタン、イランといったイスラム国家は、欧米列強との間で不平等条約を結んでおり、そうした中で明治日本とオスマン帝国の関係が始まった。オスマン帝国はかつての栄光は消えてしまっているものの、バルカン半島や中東を領地とするイスラム圏の大国として、まだ生きながらえていた。オスマン帝国の皇帝であるアブデュルハミト2世は、東洋より現れた大国日本を、対露・英に対抗するパートナーとして、密接な関係を築こうと考えた。そして、日本の政府関係者や軍人との非公式交流を終えた後の1889年、皇帝は日本に軍艦エルトゥールルを親善使節として派遣した。1890年9月16日、同艦は帰路において不幸にも沈没し、仕官や水兵の多くが命を落としたが、日本の戦艦金剛と比叡が生存者69名をイスタンブールに送り届けると、皇帝やイスタンブール市民に感謝され大歓迎を受けた。だが、トルコの国民が日本との友好を望み、皇帝が日本との協力に格別の関心を抱いていたにもかかわらず、両国の政治的関係は進まなかった。中村健次郎が日露戦争最中に、黒海におけるロシア艦隊の情報を定期的に本国へ報告していた際に、オスマン帝国は見てみぬ振りをした。しかし、ロシアとの敵対を避ける為に、日本の諜報活動を一部制限したのである。オスマン帝国は、日本に憧れる人民の想いとは裏腹の外交を行ったのである。日露戦争勝利後において、人民は日本に共感を抱いていたが、皇帝や閣僚は日本との不平等条約を固辞し続け、日本に対して欧米列強のような特権を与えることは避けたのである。

解説:日本の使者は歓待していた為、上下関係ではなく同じ平等の仲間を目指したと思われる。


 また日本の軍部は日露戦争後、日本の勝利をイスラム圏が熱狂している点を、好都合であると考え、トルコにおいて調査を行った。また、イスラム圏において日出ずる国日本を宣伝し、時の天皇陛下がイスラム教に改宗するかもしれないという当時の噂を、広めた可能性があるとされている(Worringer, “Comparing Perceptions”, p. 99)。

 国粋主義者であったムスタファ・カミルは、「我々が日本に感嘆するのは、日本が西洋文明を利用して、東洋の国としては初めて欧米列強の帝国主義に抵抗したからだ」と賞賛した。また、近代的な憲法による帝政こそが日本を勝利に導いたという考えも生まれ、政治的な問題だけではなく、憲法観に至る所まで影響は波及したのである。

 指導者であり裁判官でもあったアブデュルレシト・イブラヒムは、国粋主義者としてカザン地域において政治と言論の中心人物となった。イブラヒムは、イスラム教徒が西洋の帝国主義に対抗する世界的ネットワークの構築を提唱し、日露戦争中に在ヨーロッパ諜報員の指導者であった明石元二郎大佐と親しい友人となった。

・・・中略・・・

 イブラヒムはイスラム圏の人々に対し、協力して日本と日本人をイスラム教に改宗させることが出来れば、日本は必ずイスラムの救済者として新たな役割を果たしてくれるだろうと提唱した。

解説:イスラム教と神道の神への捉え方に類似性を見出したらしい。
    イスラムは一神教だから違うとは思うが、何か通じる所があったようだ。

 イブラヒムは日本人をイスラムに改宗させたいと願い、それは神学的、特にスンニ派の伝承に沿ったものであり、イスラム世界のリーダーたちは、異教徒である欧州列強から日本を守ろうという主張をしたのだ。当時の他のムスリムと同様に、イブラヒムの考えも、日本人がイスラム教に改宗すれば、イスラム圏を西洋の植民地支配から解放してくれるだろうというものだった。彼は基本的に日本人を異教徒とは考えず、日本人の男女は清廉で勤勉、道徳的で高潔な、イスラム教に改宗しさえすれば完璧なムスリムになれる人々として描いている。特に強調されているのは、古い慣習を守る事ではなく、それを刷新して国を創る点であった。

 この後も、イブラヒムは大隈重信や犬養毅といった要人たちと接触を続け、1909年にムスリムの誓いと名づけた誓約を行った。これは、世界中のムスリムを味方にし、西洋に対抗しようとする日本の長期的戦略となった。

・・・中略・・・


日土関係の歴史は近代化、国家の再生、19世紀の西洋帝国主義または覇権主義に対する批判などについての共通の知的関心として始まった。しかしオスマン帝国と明治の日本にとってはロシア――少なくともオスマン帝国にとってはイギリスも――を牽制するという共通の戦略の歴史でもあった。日本が1904-5年の日露戦争で勝ったことは、ロシアおよびオスマン帝国のトルコ系民族とムスリム世界に数々の影響を及ぼした。ロシア出身のイブラヒムなど、トルコ語系の知識人が一部の日本当局者と親しい関係を築き、新しい「救済者」または近代化の格好のモデルとしての日本のメッセージを両帝国のムスリム文化人に広めた。明治時代に日本のアジア主義の政治家と知識人たちがこの熱狂を新しい協調関係と戦略の土壌と考えたのは想像に難くない。しかし知識人と政治家の関心が違っていたという複雑な事情が表面化した。特に昭和初期には日本政府、特に軍部とアジア主義観を持つ政治家の一派が北アジアの中国・ロシアとの国境で日本の利権拡大をもくろんだのである。松岡洋右、黒龍会、満州に本拠を置いた関東軍、軍の特務機関、また、東京における彼らの同志である菊地武夫中将と参謀本部が、この明治の遺産、特にムスリムの知識人や民衆の日本への共感を、対ロシア・中国戦略を実行するためのムスリム世界への接触に利用し始めた。若林など、1930年代末の軍の動向に関与した現代イスラムの専門家である日本のアジア主義者らは、明治時代の日本とムスリムのつながりの記憶を、回教政策に歴史的真実性を与えるために頭脳的に利用した。1930年代末には外務省の専門家たちも同じ主張をしている。しかしトルコの民衆の間に日露戦争の記憶に基づく強い親日観が残っており、イブラヒムなど多くのトルコ人との個人的つながりが存続していたとはいえ、日本の回教政策はトルコ共和国とソ連の当時の地政学的利益を脅かすものになっていた。また、オスマン帝国王子の作戦は地政学的な事情により政府間レベルで頓挫した。とはいえ、明治時代からのトルコ系を含むムスリムとの日本人の関係は、歴史論ばかりでなく、より密接に、1930年代の日本軍と文民政府の戦略において新しいアジア主義的イスラム対応の基盤を作った人間的つながりをももたらした。日本の回教政策は第二次世界大戦前夜には、日本政府にとってさらに重要になるのである。




iratecabbie(イギリス)
帝国海軍は、イギリス海軍をモデルにしてて、この日本海海戦に参加した日本の軍艦の多くはイギリス製なんだぜ。

SteelgunnerJin(フランス)
いや、ぶっちゃけフランス製だから

takakazushin(フィリピン)
日本はロシアとの戦争が終結した時、勇敢な敵兵と戦えたことを誇りに思っていたんだ。アジアにおいては、アジアの小国が西洋の超大国に勝利したという重大な意義について、あまり言及されていないけれどね。

tresckow(ドイツ)

良い映画やね。ドイツより。

tss77(アメリカ)

大日本帝国海軍の連合艦隊最高司令官東郷元帥には、最大限の賞賛を送りたい。日本が帝政ロシアに偉大なる勝利を収めた結果は、世界に大きな衝撃を与え、帝国の力を世界に示し、アメリカが日本に注目する事になったんだ。

89SHOCKER89(ポーランド)
1904年に沈んだロシア軍艦には、沢山のポーランド人が乗っていたんだ。彼らは志願して乗艦していたんじゃんない・・・安らかに寝眠ってくれ。

ting1895(ドイツ)
三笠はイギリス製!

MotownStax(イギリス)
今では、この海戦に参加した両国の子孫が、定期的に交流してるらしいぞ。

cumbas(フランス)
日本海海戦は、1905年の日露戦争の中で最も重要な局面だった。

近代になって初めて、西洋の大国(ロシア)が非西洋諸国(日本)にボコられたんだ。

だから、この海戦は歴史上、新たな世界の到来においてとても重要だった。

この戦いの結果が日本に日露戦争の勝利をもたらし、その後の第一次世界大戦、第二次世界大戦へと繋がっていくんだ。

ところで、この映画のフランス語版はあるの?

LastCommodore(アメリカ)

日本万歳!東郷平八郎提督万歳!

bvjogrtf(ハンガリー)

ロジェストヴェンスキーだって良い提督だよ!

h635(アメリカ)

日本はまるでアジア版大英帝国だな

f1racer(アメリカ)

何が凄いって、この海戦に参加した三笠もオーロラも両方とも、現存しているってトコロだ。

allgoo19(アメリカ)
現存してるのは、まだ空爆とか水雷攻撃が確立されてなかったからだろうね。

oberstwilck(ロシア)

まぁ、俺らは1945年に復讐を果たしたけどね。

Seankwondo87(イギリス)
既に降伏して、戦争に負けた国に対してやるとはね。宣戦布告は降伏の前にしなきゃだめだし、正確には復讐を果たしたとは言えないだろ。

DeRoquencourt(フランス)
日本は1945年に満州でロシアに大敗北を帰しているよね。しかも、たったの1時間の戦闘で壊滅しちまってる。日本は何度も敗北してる。日本がこんなに雑魚いのはなんでだ?

Seankwondo87(イギリス)
はぁ?何いってるんだ。1945年にロシアが満州で勝利した時には、日本は敗北が決定的になってたんだぞ。まぁ、勝利おめでとうwって言いたいけど、1時間の戦闘で勝利したってのは何処の事を言っているんだ?それにしてもあの時期で1時間も掛かったのかよ。日露戦争では、日本はロシアの尻を蹴っ飛ばしたんだぜ。ロシアの歴史上、そして近年の世界の歴史においても、ここまで一方的にボコられたなんてないわ。

Kasakkasotnia(フィンランド)

ロシアの歴史上、殆どの高級将校は「無能」っていう部分においては圧倒的に優れていた。あいつ等は、訓練を受けた職業軍人じゃなくて、身分の高い貴族だったんだ。例外もいるけどね。

TyrolsHeroHofer(フランス)
印象的なのは、如何にして日本がロシア自慢の艦隊を海の藻屑にしたのか…だな。バルチック艦隊はかなり緊張して、北海で思わずイギリスの漁船を沈めちまった。まだ対馬まで5分1も進んでないっていうのに、ビビってイギリスの漁師を日本の水雷部隊と勘違いしたんだ(しかも北海でだぜ!)。このせいで、英国はガチでロシアと戦争するか考えたんだ。

Koguryeo19(アメリカ)

これを見れば、日本が第二次世界大戦中に強力な海軍を保有していたとしても驚きはしないな。

BojanglesRyan(アメリカ)

アメリカにとっては関係ないね。思い出せよ。俺たちは日本の艦隊を壊滅させたんだぜ笑

randledpxy(アメリカ)

ああ。それで今となっては、アメリカのビック3は日本のトヨタやホンダに沈められちまったわけだ

BojanglesRyan(アメリカ)
日本の艦隊を沈めたあと、俺たちは日本を破壊しつくしてやった。
そして俺たちが経済を復興させてやったのさ。

randledpxy(アメリカ)
全くその通りだな。
今じゃアメリカは日本製の高性能な製品で溢れかえっちまってる。

使えねぇアメリカのメーカーは強い日本メーカーに淘汰されちまった。

アメリカ人はトヨタ車を運転士、ソニーの製品を使ってるわけだ。

高速鉄道やら産業ロボットは東芝やら日立製に占められちまってる。

環境技術も、日本に学ばなきゃならねぇ。

アメリカの経済は日本や中国に破壊されちまってるのさ。

これが現実だ。ごめんなw

LordLebu(インド)
勇敢な日本の兵士と人々に敬意を表すよ

lacris202(ドイツ)
東郷は世界で最も偉大な提督の1人だよ。彼の勝利は俺の祖国…韓国の運命を決定付けてしまったけれどね。日本海海戦は、日出ずる帝国とデカイ熊(ロシア)の大きな転換点となった。韓国には日本人みたな偉大な英雄がいるかね。

SavageJim01(アメリカ)
まぁ、イギリスは日本の軍艦を作ったし、日本はイギリスから学びヨーロッパ式の海軍を作り上げた。

だけど、第二次世界大戦までには日本独自の戦術や伝統を作り上げている。それと第二次世界大戦終結まで、日本は独自の軍艦を造り出したんだ。

例えば戦艦大和は設計も建造も100%日本のみで行われた、イギリスが一切関与していない超巨大戦艦なんだぜ。

BlackBirdZGTR(ブラジル)
日本人は海軍航空隊における先駆者でもあるよね。空母を利用した最初の攻撃は日本が行ったわけだし。高雄型や最上型といった重巡洋艦は、第二次世界大戦期で最も強力な巡洋艦だったし、それに対抗できるのはアメリカのボルチモア型ぐらい。

HelmutVillam(イギリス)
この海戦によって、日本は世界でもトップクラスの海軍力を確立したけれど、これによって第二次世界大戦に突入するまで大艦巨砲主義が長期間にわたって思想の主流を占める事となった。アメリカはすぐさま航空母艦による攻撃を評価したけれどね。日本は訓練を積んだ素晴らしい艦隊を第二次世界大戦に投入したけれど、結果は悲惨なものだった。



 第二次世界大戦を舞台とし、日本・アメリカ・イギリス・ドイツの内から一カ国を選択して海軍を操り戦うゲーム。艦隊を操作して戦うのは勿論の事、軍艦を生産したり研究開発を行ったりしなければならない。また、勢力間の関係を自由に設定出来るが、正史通りに進めた場合、日本は早急にアジアを手中に収め、オセアニアを掌握しないと、アメリカの停滞反撃を受けることとなる。潜水艦を使うとゲームバランスが崩れる。さっさとⅤだして。


 はっきり言って前半の無駄に長い文章はいらなかったと思うんですが、まとめてて消すの勿体無くなったから残しました。エゴですかこれは。イギリスは何処までいっても冷徹で3枚舌なのかな。そんなトコロが好きだけどね///ロシアは駄目ですわー。でも実際にロシア人の友達が居ないので、よくわからない。国としては怖い気がする。


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修正したと思っていた誤字やら脱字が何でまだあるんだと思っていましたが、どうも一つ前のデータでアップしてしまっていたみたいです。既に修正済みですが、他にも誤字脱字・誤訳、わかりづらい点がございましたら、お手数をお掛けいたしますが、指摘してくだされば幸いです。


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