「歴史随筆」豊臣秀吉和安土桃山時代

1
太閤 豊臣秀吉
「歴史随筆」豊臣秀吉和安土桃山時代

歴史エッセイ「安土桃山時代における豊臣秀吉」

2006-3-29 作者:zjzby 翻訳元
注意:中国語で書かれたものを翻訳した文章である為、史実と異なる点、通説と違う記載もございます。誤った記載はなるべく訂正しておりますが、そのままの場合もございます。それをご理解の上、お読み下さいませ(勉強には使えないという事です)。画像や動画はパンダが勝手に挿入しました。

2


 豊臣秀吉(1536-1598年)日本の戦国時代において最も著名な歴史上の人物である。織田信長-豊臣秀吉と続く天下統一の過程で、安土桃山時代は日本史の中でも最も輝いた時代となった。

 当時の武将や公家達とは異なり、豊臣秀吉が生まれたのは貧しい一介の百姓の家だったとされている。彼は周りから軽蔑され、時には嫌がらせをされながら過ごす事となった。しかし、彼には中国の諸葛亮と同様に、類稀(たぐいまれ)なる智恵と才能によって、素晴らしき人生を歩み、また、日本の偉大な歴史を築き上げた。

第一章、乱世を治めるべく、織田信長に仕える。



 15世紀、足利将軍家の治める足利幕府(室町幕府)治世の日本において応仁の乱が起こった。各地方の守護大名達は、自らの勢力拡大の為に合戦を繰り返し、足利幕府の権威は地に墜ち、もはや名ばかりの存在となっていた。全国各地で合戦が行われ、多くの守護大名達が滅亡し、それと同時に、数多くの優良な戦国大名達が登場するに至る。時は16世紀、この大名同士の争いはますます激化し、もはや留まる所を知らぬ様相を呈していた。こうして新たに登場した戦国大名の中では、知略の限りを尽くし勢力を拡大した毛利元就(1497-1571年)と国を乗っ取った美濃の斉藤道三(織田信長の正室、濃姫の父)が有名である。毛利元就は元々日本の中国地方を統治する大大名大内氏に仕える武士であり、社会的地位は低かった。しかし、その臨機応変な知略は抜きん出ており、野心が強かったのだ。大内義隆が家臣の陶晴賢に謀反によって自害に追い込まれると、毛利元就は時を見計らい自らよりも強大な陶晴賢に攻撃を仕掛けた。この戦いによって陶晴賢は破れ、毛利氏は勢力を大幅に広げ、中国地方の大部分を所領とするに至り、日本全国にその名が響き渡る覇者となった。

 斉藤道三こと長井規則は、一介の油商人に過ぎなかったが、非常に智謀に優れていた。後に武士を志した道三は、美濃国(現在の岐阜県)の守護大名である土岐氏に仕える事となった。1542年春、道三は突如挙兵し、主君である土岐頼芸を追放し、美濃国を領する戦国大名となった。

 元から守護大名だった武将の中にも、非常に優秀な人物は多数いた。甲斐国の東部(現在の山梨県)は以前から武田氏が治める地域であった。その大名である武田信虎の嫡男、武田信玄(1526-1573年)は、挙兵し父を追放し自らが大名となった。後に、武田信玄は合戦を通じて甲斐国を手中に収め、甲斐の虎と呼ばれるようになる。その他にも、北陸には上杉氏、奥羽地方には北条氏(後北条氏)、中部には今川、九州には島津、四国には長宗我部氏など、素晴らしい大名達が現れた。

四


 尾張国(現在の愛知県)では、16世紀の中頃に、一人の偉大な英雄が現れた。その人物とは、「尾張の大うつけ」と周りから貶されてきた織田信長(1534-1582年)である。1548年、信長は父の信秀の死去に伴い、家督を継いだ。この時、信長の勢力基盤は極めて脆弱であり、信長を気にかける者など皆無であった。しかし・・・。美濃国の大名、斉藤道三は娘(濃姫)が嫁いだ織田信長が真にうつけ者なのか自らの目で判断しようと考え、正徳寺において会見を行い、信長の力を見抜いたのだ。1556年まで道三と信長は幾度となく手紙を交わし、親交を深めていった。これに対して、道三の嫡男である義龍は不満を抱いており、自ら挙兵して父道三を討ち取り、家督を奪い、信長と敵対する事となった(遺言状において道三は信長に対し、美濃を譲り渡すと記した)



 1560年春、駿河・遠江・三河の三国を領する大大名、東海一の弓取り今川義元が大軍を率いて隣国尾張に攻め入り、数に劣る織田の城を落としながら、最期に織田家の拠点である清洲城(現在の名古屋市)を奪い、上洛する足がかりにしようと企んでいた(現在では、上洛を目的としたものではなく、単に東海を統一する為といった認識が多数となっている)。当時、織田家の力は弱く、抵抗しようとも盛り返す事すら出来ずに瞬く間に滅ぼされると思われていた。しかし、織田信長に奇跡が起きたのだ。5月17日未明、織田信長は馬に跨り、部下数百名を連れて出陣し、豪雨の中桶狭間で休息を取る今川義元の大軍に対し、奇襲突撃を敢行、武名を馳せた今川義元は討ち取られてしまったのだ。信長が単騎で出陣したという噂を耳にした家臣達は、次から次へと急ぎ信長の後を追い、一晩の内に集まった3000人の織田勢が、尾張に侵攻する25000人の今川勢を壊滅させてしまったのだ。この「桶狭間の戦い」は日本の歴史を塗り替え、織田信長という人物を歴史の表舞台に立たせる事となった。

 1562年、今川氏真(今川義元の嫡男)の家臣である松平元康(徳川家康)は、桶狭間の戦いで破れた今川勢が混乱する最中を突いて、三河(現、愛知)で独立を果たし、後に今川家を滅ぼした。信長と徳川家康は同盟(清洲同盟)を結び、信長は家康に対し武田信玄の侵入を防ぐように命じ、自らは亡き義父の復讐の為、美濃への北伐という長い戦いを始めたのだ。

第二章、墨俣一夜城

 「墨俣一夜城」は織田信長が尾張から美濃に侵攻するにあたって、戦略的に重要な出来事である。そしてこの出来事の主役となるのが、豊臣秀吉なのだ。

 豊臣秀吉こと木下藤吉郎は、旧暦1536年2月6日(現在は1537年3月17日が有力)に尾張の貧しい百姓の家で生まれた。彼は小柄で痩せており、その出身身分によって人々は彼を「サル」と呼び軽蔑した。少年時代、藤吉郎は駿河の今川義元に仕える松下氏に召抱えられた。そして1555年、19歳になった藤吉郎は知り合いの紹介を通じて織田家に仕え、故郷の尾張に帰る事となった。藤吉郎は信長に忠誠を尽くし、賢く有能であった為、信長の信認を得る事となり、なんと武士として採り立てられたのだ。

 藤吉郎は以前から信長に仕えていた家臣、とりわけ柴田勝家などの武将達に絶えず嫌がらせを受けることとなった。しかし、彼には類稀なる智恵と才能、そして人たらしであった為、多くの民衆を味方に付け、その武功は織田家の中でも際立っており、徐々に周りから一目置かれる存在となった。織田家が勢力を拡大し強大になる上で、この藤吉郎の働き無くしては成し得なかったと言える。

 1563年、長い準備期間を経て、ついに信長は斉藤道三より譲られた美濃を奪い取る決心をした。しかし、齋藤龍興(斉藤義龍の嫡男)の力は強大だった。斉藤氏に対して有利に戦うう為には、尾張と美濃の国境地点である墨俣に拠点となる砦を築く必要があった。しかし墨俣周辺は建設に必要な物資が乏しく、斉藤氏からの攻撃を受けやすい場所である為、築城には膨大な時間と手間がかかり、実現は不可能とすら考えられていた。信長が計画を進めようとすると、藤吉郎以外の家臣は断固としてそれを反対した。しかし、信長は反対多数の意見を押しのけ、自分の考えを堅持し、当時最も信頼していた家臣である柴田勝家と佐久間信盛を任命し実行に移させた。だが、執拗な斉藤側の攻撃によって、築城は皆失敗に帰す事となった。このような状況の中、木下藤吉郎は自ら志願し、築城を執り行う事となったのだ。

 藤吉郎は、自らが執り行う前に2度失敗していた事から教訓を取り入れ、築城を極めて困難として原因は、建設に掛かる時間だと考えた。そこで藤吉郎は智勇に優れた浪人の蜂須賀正勝に築城と防衛を任せた。この際、築城に必要な全ての材料は別の場所で加工を行い、川に流して墨俣まで材料を運び、一夜の内に組み立てを行ってしまったのだ。これは綿密な計画によって行われたが、斉藤側にとっては、まるで奇跡かのように一夜の内に墨俣城が姿を現したのだ。齋藤龍興は噂を聞きつけ軍勢をすぐさま派遣したが、時既に遅かった!

 「墨俣一夜城」はまさに木下藤吉郎の大胆さと、人並みはずれた統率力・知略の才能を周囲に見せ付けた第一段階だと言えよう。これによって、この「サル」と呼ばれた男は信長の信頼を得ていく事となるのである。


第三章、三顧の礼をもって、竹中重治を配下に加える

 美濃国稲葉山城には、城主齋藤龍興とその家臣の一人、竹中重治(以下、半兵衛)が居た(1540-1579年)。半兵衛の能力は抜群であり、智謀に長け、優れた才能を持っていた。しかし、傲慢で捻くれた性格の主君、齋藤龍興に対し我慢出来ずにいた。そこで半兵衛は難攻不落と謳われた稲葉山城を16人の部下と共に僅か1日で奪取し、その後すぐさま龍興に城を返還したのだ。

 織田信長は竹中半兵衛が計略によって稲葉山城を奪い取ったという話を耳にし、半兵衛に対して強く興味を抱き、木下藤吉郎に対して半兵衛の登用を命じた。藤吉郎は当初、半兵衛に会うものの冷遇されてしまう。それでも藤吉郎は諦めず、劉備が諸葛亮に3度も出向いた事を真似、3度半兵衛の下へ出向いた。半兵衛は藤吉郎の野望と才能、知力、そしてその誠実な人柄に惹かれ、遂に木下藤吉郎の配下に加わると決めたのだ。

 竹中半兵衛の協力によって、藤吉郎は斉藤龍興に仕える重臣達に対して大規模な陽動を行った。これによって、美濃三人衆である稲葉一鉄、安藤守就、氏家ト全は斉藤龍興から信長へと寝返り、一発の弾も使用せずに斉藤氏の主力である美濃三人衆は崩壊するに至った。これにより、稲葉山城は孤立無援の城となってしまったのである。

 1567年、藤吉郎は織田信長に率いられ、稲葉山城奇襲攻撃の先鋒を務め、斉藤龍興は逃亡、長きに渡った戦いは終り、遂に信長は亡き義父道三の遺言である美濃全域の統治を成し遂げたのだ。

 織田信長は稲葉山城を手に入れると、「周の文王、岐山に起って天下を定む」という中国の故事から、稲葉山城を岐阜城へと改名し、清洲城を離れ自らの居城とした。そしてここにおいて、信長は天下を武力によって統一を果たす(天下布武)と唱え、戦国時代において初めて天下統一を掲げた大名となった。

 その後、竹中半兵衛は木下藤吉郎の軍師として仕え、外交・軍事・計略・政務の各方面において力を発揮し、天下統一に向けて大きな功績を残した。

第四章、金ヶ崎の退き口

m-azai1
続きはMELCHIZEDEK様より(WEB漫画デス)

 1568年、美濃を手中に収めた織田信長は、先の将軍足利義輝公を暗殺した松永久秀を帰順させ、京都へ足利義昭公と共に上洛を果たし、足利将軍家を再興させた。また、それ以前に北近江の小谷の小大名であった浅井長政の下に、妹であったお市の方を嫁がせた。北近江には日本最大の湖である琵琶湖があり、南は京都、西は丹波、北は越前へと繋がる戦略的にも極めて重要な地域であった。その為、織田信長は浅井氏と婚姻関係を結び、浅井氏の力を借りて北部の領地を安泰させると共に、琵琶湖を利用した大規模な兵力の運用を図り、近畿全体を手中に収めようと考えたのである。

 1568年から1570年にかけて、織田信長は浅井長政の協力の下、六角義賢が治める南近江や北畠具教が統治する伊勢国、近畿を支配する三好義継らの勢力を弱めた。そして日本で初めて領地と田畑の検地を行ったのである(実際には、小田原の北条早雲が最初)

 織田信長は瞬く間に勢力を拡大し、足利義昭(征夷大将軍)や近畿の河内・和泉・摂津・山城・大和国の諸大名らは危機感を抱くようになる。1571年春、足利義昭は幕府名義の御内書を発し、朝倉、三好、武田、上杉といった大名のほか、一向宗の指導者であった本願寺顕如らに呼びかけ、反信長包囲網を形成し、織田信長は四面楚歌という危機的状況に陥った。



 このような状況下で、織田信長は浅井長政らと共に、直接挙兵して越前の朝倉義景を滅ぼし、足利義昭の設けた包囲網を打ち破ろうと決意した。1571年夏、織田信長が越前の金ヶ崎城下で朝倉義景に苦戦していたところ、浅井長政は内密に朝倉義景と同盟を結び、突如として無防備な織田軍後方に攻撃を開始した。一瞬の間にして、織田信長の軍勢は数十万の大軍に包囲されているのと同じような状況に陥ってしまった。信長は兵力を出来るだけ温存するため、撤退の命を下す決断をするに至る。この危機的状況の中、まだ身分の低かった木下藤吉郎が果敢にも殿(しんがり、撤退する軍の最後尾を守り、追撃してくる敵を迎撃し、軍本隊を逃がす。非常に危険ではあるが、殿は有能な武将が勤める事が多かった)に志願し、数千人を率いて主力部隊の撤退を助けた(実際には、殿には明智光秀なども居た為、一武将として参加したものと推測されている)

 たった数千人の少数部隊で何倍もの敵と戦うなどとは、卵で石を打つが如く無理な事である。だが、藤吉郎は計略を多数行い、主力部隊を撤退させる為の時間を稼ごうとしたのだ。

 三河の大名徳川家康も、信長の撤退を見届けると直ちに救援に向かった。藤吉郎は家康と共に浅井長政勢を敗走させ、残った兵を安全に岐阜へと帰し見事殿を勤め上げた。

 「金ヶ崎の退き口」は何故戦国時代において重要な意味を持つのか、それはもたらす結果の戦略的価値の為である。もし「金ヶ崎の退き口」が失敗をしていたとするならば、織田信長率いる軍勢は壊滅し、士気も大きく削がれていたはずだ。そうなった場合、他の敵対勢力である武田や本願寺といった諸大名らを抑えられず、武力によって天下統一を果たす事は不可能となってしまう。だが、一般的に殿ををやり遂げるには、抜きん出た忠誠心と、強靭な精神、類稀なる知力と策略がなければ、成し遂げる事は出来ない。藤吉郎のその人並みはずれた能力は、まさに織田信長の天下統一事業に大きな役割を果たしたのだ。この「金ヶ崎の退き口」により、藤吉郎は軍事的な面でもその才能を認められるに至った。

 織田信長は金ヶ崎より撤退し、暫く準備を整えた後に、北近江征伐(浅井家領)の戦を始めた。1573年、2年に渡った戦の末、浅井長政は敗れ自害し、信長は琵琶湖・近江を直轄領として整備した。同年、信長は京都に進軍し、足利義昭を追放、日本において約230年に渡って続いた足利幕府の統治は遂に終焉を向かえ、信長は京の政治を掌握しようとする。

 第五章、長浜城主任命と中国攻略

 1573年、織田信長は浅井長政を破り、石高18万石の北近江を木下藤吉郎に与えた。藤吉郎は長浜城の城主となり、この時より木下藤吉郎という名を改め「羽柴秀吉」と名乗った。信長より命じられた氏名は、琵琶湖北岸を単独で守り抜く事であった。秀吉は長浜と北近江の四群を掌握した後に、産業を大幅に発展させ、守りを強固にした一方で、越前を共に攻略中であった柴田勝家と仲違いを起こし、一方的に撤退をしてしまった(正しくは越後で上杉謙信と対峙していた勝家の救援を命じられたが、仲違いを起こし無断で帰還した)

 1573年は信長にとって最も輝かしい時期であった。1571年と1573の間に毛利元就や武田信玄といった英雄がこの世を去り、1576年には越後の龍として恐れられた上杉謙信も亡くなり、その後継者(景虎の方・・・かな?)は平凡なものであった。



 信長は三好・松永・朝倉が消えた事によって、大和・和泉・摂津・山城・越前といった国々を平定し、近畿地方の大部分を支配するに至った。1575年、武田信玄の後を継いだ武田勝頼が、最強と呼ばれる武田騎馬隊を率いて徳川家康の所領に攻撃を仕掛けた。織田信長と徳川家康は、最新式の火縄銃を装備した3000人の兵を中核とする1万4000人の部隊を率い、三河にて武田勝頼の軍勢と激突し、武田の軍勢を壊滅せしめた。この長篠の戦いの後、武田氏の威信は地に墜ち、1582年までに滅ぼされた。

 この時になると、日本の中部、近畿の広大な地域を治め、日本の天皇に任命され管領となり、太政大臣の官位を賜り朝廷の政治を掌握した(管領は征夷大将軍より与えられるものである)。また、信長は近江の地に巨大な安土城という煌びやかな城を築城し、自らの居城とする事で天下統一の象徴とした。築城に掛かった費用は莫大であり、近畿や中部から人を呼び寄せ、物資と財力、丹羽長秀といった有能な武将を使い、3年の歳月を掛けて1579年に完成した。

 織田信長は安土城の築城と同時に、一気に天下統一を進めようと決心する。その為、坂本城を明智光秀に任せ丹波・丹後の攻略を命じ、羽柴秀吉には中国地方の周防・安芸・長門・石見・美作・因幡伯・播磨などの広大な領地を有する毛利氏攻略を命じた。

 本願寺顕如との戦いでは、自らも銃を携え戦う勇猛な鈴木重秀率いる一向宗の精鋭たちに苦戦し、血みどろの戦いとなっていたが、1580年、ついに信長は石山本願寺を攻略し、僧侶達率いる軍勢を徹底的に壊滅させた。

 羽柴秀吉は毛利氏討伐の命を受け、播磨と但馬に進出し、竹中半兵衛や黒田官兵衛、蜂須賀正勝らの補佐を受けて姫路城、上月、出石、三星などの7城を獲得した。播磨国や但馬国を得た後には、居城を姫路へと写し、播磨と但馬の国主となった。そして、秀吉は軍を率いて高松城攻略に向かった。鳥取場を兵糧攻めにし、高松城を水攻め西、羽柴秀吉はその戦に関する謀略の才能を遺憾なく発揮した。


第六章、信長の意志を継ぎ、謀反を平定する

 1582年5月以前の20年間を、日本の歴史学者達は安土時代と呼んでいる。この時、織田信長によって日本の66国中28国が影響下にあった。しかしながら、本能寺の変によって織田信長は命を落とし、日本の歴史は大きく変わる事となったのだ。
 


 1582年春、織田信長は一挙に天下統一をせしめんと決意する。羽柴秀吉には中国地方を、丹羽長秀には四国を、柴田勝家には北陸を、そして織田信忠と明智光秀には羽柴秀吉の救援を命じた。そして自分自身も安土より出立し、前線へと向かうつもりであった。信長はまさか明智光秀に謀反を起こされるとは夢にも思っていなかったのだ。

 1579年、明智光秀は丹後国八上城の大名、波多野秀治に対し信長へ帰順するよう説得を命じられた。だが、波多野秀治は信長を裏切った者の末路を知っており、投降をしようものなら信長に殺されると恐れ、投降を拒絶した。そこで光秀は、自らの母を人質として差し出す故、波多野秀治に投降するよう説得をした。波多野秀治が投降した後、彼は安土城へと送られ、信長によって波多野秀治は磔にされ、これによって明智光秀の母親も殺害される事となった。これ以降、光秀は信長に対して不満を抱き、復讐する決心をした。1582年5月、光秀は丹波亀山城より兵を率いて羽柴秀吉の下へ救援に向かい、その途中にて信長が29日に家臣数名と共に本能寺に宿泊する事を知り、謀反を決意したとされている。光秀は軍勢の進路を変更し、本能寺を包囲するように命じ、本能寺内の「敵」を殺した。信長は武将としても大変優れた人物ではあったが、やはり多勢に無勢、自らの手で天下統一の夢を果たせぬと悟った信長は、燃え盛る本能寺の中で自刃したのである。その夜、織田信長の嫡男であった織田信忠は信長死去の噂を聞き、京都の妙覚寺にて自刃した。

 明智光秀は信長を殺し、近畿を即座に平定した後に安土、そして政権を奪い取ろうと企んだ。また、信長の家臣であった柴田勝家はすぐさま独立を宣言した。



 本能寺の際、羽柴秀吉は毛利輝元(毛利元就の後を継いだ孫)と戦っていた。秀吉は明智光秀の謀反にとって信長が死去したという情報をすぐさま隠し、毛利輝元と和睦を結ぶと、すぐさま軍を率いて姫路へと戻った。、また、秀吉は軍勢を集め主君の仇である明智光秀を討つ決意をし、軍をまと挙げるのであった。

 羽柴秀吉は直ぐに丹羽長秀と連絡を鳥、織田信雄(信長の次男)と織田信孝(信長の三男)の下、大軍を集め山崎において明智光秀と戦った(山崎の戦い)。その結果、明智光秀の軍勢は壊滅し、光秀は坂本城へ逃げる最中に竹槍を持った農民に襲われ討ち取られた。

 明智光秀が死んだ後、越前にて大名となった柴田勝家は、未だ農民出身の羽柴秀吉を見下しており、織田信孝と共に秀吉に対して攻撃を始める。羽柴秀吉は丹羽長秀や織田信雄を率い、賤ヶ岳の戦いによって柴田勝家は大敗を帰すこととなった。柴田勝家は敗れた後に、居城の北ノ庄城にてお市の方と共に自害した。

 その後も、織田信長亡き後の情勢は不安定であった。1583年、織田信雄は徳川家康の画策によって羽柴秀吉と戦う事となる。羽柴秀吉は厳しい情勢を切り抜け、外交を駆使し、信雄と和睦を結び、陣営内の内紛を避けた。そして出来るだけ早く軍事による天下統一を推し進める事となる。

 羽柴秀吉は明智光秀、柴田勝家に勝利した後に、石山において空前絶後の大阪城を築城し、以後そこを拠点に織田信長の意志を継ぎ、天下統一を進める事となった。

第七章、天下統一と、経済・政治の改革

 本能寺の変より2年間、羽柴秀吉は織田家陣営に属し天皇家の支持を勝ち取る事となる。その後、秀吉は天下統一に向けて遠征を開始したのだ。

 1584年、羽柴秀吉は卓越した外交を通じて、未だ強大な力を有する毛利輝元と小早川隆景(毛利元就の息子)などの毛利一族のほか、中国地方の大名である宇喜田秀家を配下に加え、広大な中国地方11国を影響下に置いた。1585年、羽柴秀吉の軍勢約10万の大軍は瀬戸内海を超え(総大将は弟の羽柴秀長でした)、長宗我部元親が治める四国を瞬く間に征圧した。1587年、秀吉は自ら兵を率い、徳川家康や小早川隆景や毛利輝元らも参加させ、20万の大軍を持って島津氏を降伏させた。これによって、本州の奥羽地区や北条氏の領地である関東を除き、自らの影響下に組み込む事となった。

 羽柴秀吉は天下統一、即ち日本の統一において大きな功績を残し、1585年には日本の天皇より関白(即ち、人臣の最高位)宣下を受け、1586年には太政大臣を賜の官位と「豊臣」姓を賜った。1587年、豊臣秀吉は京都の桃山に伏見城を築城しその威光を知らしめ、100年以上に及ぶ戦乱の時代を収束させ、偉大な時代を築いた-桃山時代。

 新たな中央政権が発足した後、豊臣秀吉の指導の下、大規模な経済・政治改革が断行され、後の江戸幕府による統治の基礎ともなった。まず一つ目の政策としては、「太閤検地」であり、全国で統一基準を設けて石高を調べた。また、地域によって別れていた商業の壁を無くし、全国の農業・商業・工業の体制を整え生産力を飛躍的に高めた。二つ目にそして統一貨幣を鋳造し、商品の流通を促した。三つ目は、兵農分離を推し進め、刀狩を実施し、武士ならざる者が武具を保持する事を禁止し、国内で再び戦乱が発生する事を未然に防ごうとした。

 1590年、豊臣秀吉は石田三成らを連れ、北条氏の居城、小田原城に進軍し、北条氏政らを自害させ、北条氏直を降伏させた。これによって東北の大名らも恭順した。また、豊臣秀吉はまだ誰も支配していなかった北海道に初めて日本の行政府をおいた。これによって、日本列島4島全土を完全に統一したのである(北海道、函館には以前から大名が居ました。また、北海道開拓が本格化するのは明治維新後になってからです)

 1591年、豊臣秀吉はついに日本統一という大事業を成し遂げ、関白を退位した後に太閤と呼ばれるようになった。関白の職は、養子である豊臣秀次が引き継いだ。

第八章、文禄・慶長の役、豊臣秀吉の死

5
近年中国で描かれた文禄・慶長の役の絵。突撃する明軍とそれに怯む日本軍。(笑

 豊臣秀吉は天下を統一したが、日本本土には資源が乏しく、災害も頻発していた。そこで秀吉は日本民族の生存圏を広げるべく、まず朝鮮半島を平定し、次に台湾、そして明を征服、その後はアジア方面を平定していく最終的には全世界を手中に収めようと考えたのだ。まず、秀吉は李氏朝鮮を大国である明の支配下から脱却させようと画策した。1591年、秀吉は朝鮮の国王に手紙を送っている。「我らは貴国を通り、山と海を越えて明へと侵攻し、400州にも及ぶ地域を服属させる」、しかし、朝鮮政府はこれを拒絶した。このため、豊臣秀吉は朝鮮への侵攻を決意した。1592年4月、小早川隆景や小西行長らが率いる17万の日本軍が釜山より進軍を開始し、たったの20日間で朝鮮の首都漢城(現ソウル)を占領、6月には平壌を超え、咸鏡道北部(ハムギョンド、北部は明との国境)に到達した。

 朝鮮政府はすぐさま明に救援を求めた。そして明は朝鮮王の求めに応じ、約5万の援軍を派遣し、日本の侵略軍に朝鮮軍と共に対抗して1593年初頭、平壌を取り戻した。後に朝鮮において民族的大英雄となる李舜臣は、水軍を率いて日本軍の補給線をたち、日本を停戦へと追いやった。これが日本では文禄の役と呼ばれる戦争である。

 日本と明の交渉は1593年あきより、約3年間続けられた。明は豊臣秀吉を日本の王と認める以外、つまり日本側が要求した朝鮮4群の割譲要求は拒絶した。豊臣秀吉は交渉を行う一方で、李舜臣を陥れようと画策した。朝鮮政府はこの計略に掛かり、李舜臣を軍の指揮官から外した。この後、豊臣秀吉は1597年1月に14万の兵と数万の水軍を率いて再び朝鮮に進軍を開始した(慶長の役)。朝鮮軍は各地で敗北を繰り返し、朝鮮軍は再び李舜臣を登用せざるを得なくなり、再度、明に対しても救援を求めた。明朝連合軍(水軍)は李舜臣と明の老将、鄧子龍が率い、日本軍に対して反撃を開始し、日本軍を朝鮮南部の沿岸まで押し返した。11月、明朝連合軍は露梁海戦(ろりょうかいせん)によって日本軍主力に大打撃を与えた。だが、明朝連合軍側は李舜臣や鄧子龍といった将兵を失うこととなった。

 朝鮮への侵略は失敗に終り、豊臣秀吉は失意のうちに、1598年8月18日に伏見城にて逝去した、享年62歳であった。秀吉の臨終した直後、朝鮮に居る全日本軍に対して撤退の命令が下される事となった。

第九章、関ヶ原の戦いと大阪夏の陣、豊臣氏の滅亡

 豊臣秀吉が亡くなった後、豊臣政権は深刻な危機に見舞われていた。豊臣秀吉には息子が一人(鶴松、淀殿・・・茶々の子)いたが、1591年に幼くして亡くなった。その為、秀吉は姉の日秀の子を豊臣秀次として養子に迎え入れた。しかし、1593年、秀吉と淀殿との間に秀頼が生まれ、秀次は自分の将来を不安視し、自暴自棄になり、暴虐な事件を引き起こした。秀吉は高野山に秀次を放逐し、後に自害を命じ、後に豊臣秀頼に関白を委ねた。

 豊臣秀吉の死後、息子の秀頼はまだ6歳であった。秀吉はその死の直前に、五大老達(徳川家康や前田利家)に秀頼の貢献を頼んだ。利家には幼い秀頼の教育を頼み、家康には国政の代理を頼み込んだ。

 1599年、前田利家は突然病死した。これによって徳川家康が幼い秀頼を補佐する決定が下された。1600年9月、家康は五大老の一人である上杉景勝(上杉謙信の子・・・注、実際には養子です)に大阪へ参るように命じるが、これを拒絶される。家康は上杉景勝の謀反を宣言し、挙兵し討伐を行った(日本では、家康が景勝に使者を派遣し、これに対して直江兼続が直江状を返書した事で知られている)。9月4日、石田三成らの五大老は家康に13の罪状を突きつけ、毛利輝元、宇喜田秀家、長宗我部盛親、早川秀秋、島津義弘らと共に、徳川家康を討伐しようとする(西軍)。この時、この対立を防げたであろう前田利家や羽柴秀長、丹羽長秀、小早川隆景らは全員この世を去ってしまっていた。そして徳川家康は、五大老の内残りの四大老と戦わざるを得なくなったのだ!豊臣政権はこの時既に崩壊していたのである。






 1601年9月15日明朝、8万5000の西軍は上杉景勝を討つ為に出陣した7万5000の徳川家康率いる東軍と、美濃国の関ヶ原において激突した・・・だが戦いは膠着していた。その時である。小早川秀秋が石田三成らの西軍を裏切り、戦局が遂に逆転したのである。これによって、午後には島津義弘が撤退(島津の退き口)し、西軍は総崩れとなり敗北した。「関ヶ原の戦い」の後、石田三成や小西行長らは斬首され、西軍に属した武将はそれぞれ処罰を受けた。

 関ヶ原の戦いの後、徳川家康は政務を行う場を大阪から江戸(現在の東京)に移した。1603年、徳川家康は江戸に幕府を開く。豊臣秀頼は成長し、秀吉の遺言では秀頼を補佐するようにとあった事や、家康自身の体力も衰えていた事もあり、家康は以上に憂慮するようになる。そして豊臣秀頼を殺し、自ら日本を掌握する事を決心したのだ。1614年冬、家康は秀頼に罪状を被せ、約30万の大軍を率いて大阪城へと出陣した。豊臣秀頼側はすぐさま察知し、全国の浪人や領地を失った武士達に声を掛け、10万の兵が豊臣氏を守る為に大阪城に終結した(大阪冬の陣)。家康は豊臣側に打撃を与えようとするが、大阪城は思った以上に勇敢に抵抗をした。この為、徳川家康は豊臣秀頼に停戦を申し出た。これに双方が合意した。しかし、徳川側では大阪を再び攻撃する意図があり、なんと大阪城の外堀を埋めてしまったのだ。

 停戦の後、家康は大阪城の外堀を埋め、大阪城の防御力を極端に低下させ、和平を破棄した。1615年夏、徳川家康は再び大阪城に攻撃を開始し、大阪城では守備に参加した多くの高名な武将達が命を落としていった。この戦いによって、豊臣側で参加した日本最強の武将として名高い真田幸村も守備の最中、命を落とすこととなった。これほどの死者を出した戦いは、戦国時代においても未だかつてない事であった。大阪夏の陣の敗北により、豊臣秀頼は自刃し、豊臣氏は滅亡した。

 1616年、徳川家康がこの世を去った。その子である徳川秀忠が征夷大将軍となり幕府を継ぎ、徳川幕府の統治はこの後200余年にも及んだ(すなわち、江戸時代)。

 足利幕府(室町時代)の時代では、政権は各地の大名に支えられて存続していた。地方の守護大名には大きな権力があった。軍・税制・農業・工業・商業、それらは全て各大名が自ら取り決め、自らの勢力を強化していた。また、商業の発展やヨーロッパの大航海時代も相まって、スペインやポルトガルの商戦が堺や平戸(現、長崎)に集まり、経済の発展と共に政治的な対立も深まっていった。各大名は自らの領土の防衛と同時に、他国への侵攻を始め、こうした貿易都市を勢力下に置こうと画策した。こうした事が国の発展を妨げ、いつしか日本の民衆は天下統一と太平の世を求めるようになったのだ。

 織田信長や豊臣秀吉はこうした歴史の流れに乗り、日本を統一し、経済や社会政策の統一的な改革を実施し、歴史を前進させた。天下統一を行う途上、信長や秀吉は特に商人の力を利用し、彼らは商人から提供される新型の火縄銃を運用して戦力を大幅に強化した。彼らは国の政治を掌握した後に、積極的な改革を行い、日本の商業の繁栄を促した。徳川家康の場合、秀吉のこうした政策を受け継ぎ、日本の平和を近世にまで保ったのである。

 安土桃山時代の英雄達の中でも、豊臣秀吉は非常に優秀な人物である。彼は優れた知恵と、先を見据える目を通して、歴史の流れを読み取ったのである。秀吉はまさに政治の天才だ!!

 確かに、秀吉の一族は滅んでしまった。そうであっても、彼が日本の社会構造や国家の基礎を確立したという事、貧しい出身から武士となり、そこから天下を取ったという点は、長い日本の歴史においても、彼以外にはいないでしょう!個人的には、豊臣秀吉は可哀相に思う。しかし、豊臣が滅びようとも、秀吉の諦めない心、絶えず自らを磨く精神、大いなる野望、これは今でも日本民族の精神の源となっているはずである。

 豊臣秀吉は朝鮮に侵略し、日本の侵略政策の元となり、この考えは日本国民の魂の深い所に根付いているかもしれい。しかし、自らの為に、ほかの民族の命を奪うといった考えは、今はもうないだろう。現在の私達には、他の民族と平和共存し、共に反映する力があるはずだ。確かに秀吉が残した禍根は今でも残っている。だが、これが今日における豊臣秀吉の評価の基準となるものではない。なぜなら、現在は日本人も、そしてアジアの民族も、みな共存しているからだ。

 こうした事から、豊臣秀吉は日本の戦国時代において政治的・軍事的・策略的な面でも優れた人物であり、後世に永遠と語り継ぐべく、このエッセイを記載した。


・貴族政治が一般的な日本だと、秀吉の例は特例だよな。

・安土桃山時代は短かったけれど、その光り輝いた時代は、他とは比べようもない位だね。

・サルが野心家だったっていうのが好きだな!

・日本の戦国時代のゲーム遊んでるから、結構知ってることが多いな。KOEIのゲームは結構良い出来だよね!

・最近、日本の戦国時代にハマってるんだよね。

・た、太閤立志伝・・・

・日本人は織田信長と豊臣秀吉が好きだよね。特に豊臣秀吉は能力優れていたし、中国に攻めて来ようとしたしね(当時は明だったけど)。

・関東の虎は北条氏だろ、何で武田なんだよ?

・サルの軍事能力と信長は比べられないよ。信長の戦い方は凄く激しいんだ。

・日本は常に多数の国家が存在しており、白村江の戦い(当時、日本は百済を傀儡国家にしていた)の際にも唐に攻撃をした。その時の日本は唐と比べて文明的に野蛮で、唐に手痛い敗北をした事で学ぶようになった。

戦国時代、日本は人口と資源の問題に直面していた。戦国時代における戦いの背景には、経済活動に伴う有限の資源や人材を奪い合うという側面もあった(当時の日本は、耕地と金銀の鉱山が基本産業だった)。織田信長はポルトガル人から贈られた世界地図を目にして、「日本は小さすぎる」と考え、国内平定後には世界に打って出ようと考えていた。

・あの時代の平均寿命は50歳ぐらい、だから信長は絶体絶命の時に「人生五十年」って舞ったんだよ!すげぇ!

・武田が滅びたなんて・・・あの光り輝く軍団が長篠の戦で崩壊するなんて・・・本当に悔しい!!

・秀吉は曹操には及ばない。

・糞猿はあまり下調べもせずに朝鮮に侵攻した。猿なんて名前は馬鹿みたいに思えるけれど、実際には猿よりも知恵は優れている。そしてこの日本軍に対して、明の軍勢では手に負えなかった。これは事実だ。猿が死んだ後、慶長の役は終焉を向かえ、戦乱の後に残ったのは荒廃した土地と疲弊した国民、そして困窮する王朝の財政だけだった。この戦いの後数百年間に渡って、朝鮮は糞を食らう様な生活を強いられることとなった。

本能寺の変によって一人の男が躍進し、アジア・・・いや、世界の未来を変えてしまったと言えるよ。

(ごめん。前のエッセイ長かったから、こっちぱぱっと見て訳してた。ちゃんと読んだら意味全然違った。)

・秀吉を下賤な生まれと言って卑下する奴もいるけど、明を建国した朱元璋だって元は乞食だぞ。こんな身分から成り上がって皇帝になったからこそ、朱元璋は偉大なんだよ。生まれとかそういうのは関係なく、何を成したかが重要だろ。最近で秀吉や朱元璋に匹敵する人物なんているか?




九州一の武将 鬼島津
おまけ
九州第一猛將鬼島津 - 島津義弘 台湾の反応
翻訳元
資料來源:百度百科

島津義弘 1535-1569

猛者揃いの薩摩島津軍団の棟梁である父、貴久の子として生まれ、兄の義久と共に九州を統一し、鬼島津として
恐れられた名将である。

中略

6
島津の退き口

 島津の弾き口は、後世にも伝わる逸話として知られている。関ヶ原において、島津義弘率いる1600人*の部隊は突如徳川本陣に向けて突撃を開始した・・・略。



 
・島津義弘は西側の武将の中だと一番好き!戦国のゲームには必ず出てくるよね!

・信長の野望天道だと能力下がってんだよね・・・。

・鬼島津大好きw彼の思想は維新直前の幕末の薩摩にも影響を残しているよね。次は立花宗茂を取り上げてよ~!

・たしかに島津義弘は強いイメージがあるけど、実際に最強なのは本多忠勝だろ。戦国最強は本多忠勝だ。彼は智勇に優れた猛将なんだぞ。

・個人的には伊達政宗とか真田幸村が好きかな~。なんていうか不運なヒーローが好きっていうかぁ・・・。ほら、最期まで徳川家康を殺そうとしてた幸村さんとか素敵じゃないですかぁ!





信長協奏曲 1 (ゲッサン少年サンデーコミックス)

信長協奏曲 1 (ゲッサン少年サンデーコミックス)

試し読み(42ページ)

 高校生のサブローは、毎日やる気もなくグーたらと生活を送っていた。そんな時、塀に登って落ちてしまい、気づけばそこは戦国時代の日本だった。ひょんな事から、病弱な為に城から逃げ出した織田信長と出会い、彼と顔が瓜二つという事から、サブローは織田信長として代わりに生きる事となる。

「信長なんだから、天下とらなきゃいけないでしょー。」

「このお方は・・・・天下を見ておられるのか!?」

 なんとなーく思ったとおりに行動しつつもサブローは信長として徐々に天下取りへと突き進んでいく。そしてその偶然は、実際の史実と同じ結果をもたらしていくのだ。3巻では、ついに信長協奏曲というタイトルの意味が明かされる。詳しくなくても十分楽しめるが、史実を知っている人にはさらに楽しめる作品となっていてオススメ!4巻早く出て!帰蝶はかわゆい!ちなみに、三郎は信長が若い時のあだ名・・・。!


 疲れた。突っ込みは任せますた。コンスタントに更新する方がアクセス増えるし、やる気出るから、長いのはホドホドにします。長いと史実と合ってるか調べるのも一苦労やんやん。それと、マクロソフトのIME? 変換が糞。のぶながを変換したらノブ名がになるってどういうことだ。

 えっとですね、判りにくいかもしれませんが、今回は紹介している文は全て中国語のもので、上の秀吉のエッセイも中国の方が書かれた文章です。その為、文禄・慶長の役によって明が疲弊し、女真、つまり満州民族に滅ぼされる要因ともなったといった事は、書かれておりません。どうも中国では、この戦いを自分達が有利に進めたと考えているようです。結果として日本は撤退するに至りましたが、中国や朝鮮の損害も莫大なものがあったという事はあまり触れられておりません。上に日本軍に突撃する明の騎馬隊の絵があるかと思いますが、そういった印象という事なのかもしれません。注意:私が注釈したものは色付になっております。こんな色です。

 あ、太閤立志伝とか信長の野望やりたいなって思った方、太閤立志伝は5、信長の野望は天下創生がオススメです。箱庭だっていいじゃない・・・。

人気ブログランキングへ おやかたさまああ そ、それがしのボタンを、お、おして、おしてくだされえええ


とある欧州の体験録 その1

 留学して半年程経った頃、ホームステイ先の兄妹(ヤンとユリア)と一緒に、友達(エリック)の誕生日パーティーに参加した。皆でビールを飲みながらワイワイしていると、エリックのお宅にグランドピアノがあるの発見。

 おーしかもヤマハさんじゃーん。と思いながら近づいてみると、ちょっと埃被ってる。調律してんのかなぁ。とか思いながら蓋を開けて音を出してたら、後ろからエリックの小さい妹がじーっとこっち見てた。あれ、居たんだーとか思っていたら、後ろからヤが来てピアノ弾けるんでしょ?弾いてあげなよー、とか言う。そしたら飲んでた皆も来て1曲弾けとか言うんで、じゃあ、短い曲ね。と言ってショパンの子犬のワルツを弾いたんだ。



 ピアノを弾くこと自体、すごく久しぶりだったから指が思うように動かなかったけれど、意外と弾けるもんだなーっと思った。皆のパチパチ拍手してくれたし。上のブレハッチ様みたいに素晴らしい演奏じゃないけどねw

 それで結構自己満足に浸りかけていたら、ユリアが俺の肩を叩いてきて、大声で下手でもピアノ弾けるだけで十分凄い!とか言ってきた。周りもちょっとザワッってなった。

 ・・・ヤンがそんな事ナイヨ・・・素敵な演奏だったよ、みたいなフォローをしてくれたけど、耳が真っ赤になった。エリックの妹は上手だったもん!と服を引っ張ってきた。幼女に目覚めかけた。そんなどうでもいい話。






記事のリクエストは→リクエスト掲示板


このエントリーをはてなブックマークに追加 
当ブログのプライバシーポリシー