元日戦争

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(まーた中国ネタ)
蒙古襲来
注意:大元大蒙古国(元朝)に関しては、モンゴル人が支配階級に君臨する国家である為、中国の反応は必要ないと考える方も大勢いらっしゃるかと思います。ただ、記憶によれば一応中国正史に組み込まれ、日本に侵攻した兵は少数のモンゴル人指揮官と高麗人、漢人らの兵士といった形だったので、中国の反応を取り上げました。簡単に申し上げれば、モンゴル語もハングルも出来ないから中国の反応になっただけです。また、神風に関しても議論があるかと思いますが、今回はあくまで中国側の視点(意見)を記述していきます。・・・前回の秀吉の記事同様、中国人の視点ですので、日本の史実・通説と異なる点が多々ございます。参考程度でご覧下さい。

翻訳元:中文wiki、及び百度百科
元日戦争(文永・弘安の役)

 元日戦争とは皇帝クビライ・カーン(フビライ・ハーン)が在位中の元朝が、1274年と1281年の二度に渡って日本に軍隊を派遣した戦争である。この侵略に対して日本では「元寇」あるいは「蒙古襲来」の他、第一次侵攻の際は日本の年号から「文永の役」、第二次は「弘安の役」と呼ばれている。

 クビライは二度に渡って日本征服を試みたが、その野望は失敗に終わった。しかし、この出来事は歴史の流れに大きな影響を与える事となった。それはモンゴル帝国の拡大政策を挫折させただけではなく、日本の国家思想を形成させる上で重要な出来事でもあった。二度に渡る侵略の過程で、元軍の舟は嵐に遭遇する事となり、兵力・人員の4分の3を喪失した。また、日本では「神風」が敵の侵略から国家を護るという思想が生まれる事となった。そしてこの思想が第二次世界大戦に結びつき、日本の歴史上では第二次世界大戦による占領と、この元日戦争が外から受けた最大の脅威だったと言われている。

 1274年(後宇多天皇、文永十一年)6月、クビライは大小900船を高麗に造らせた。8月には忻都を征日本都元帥に、洪茶丘(ホン・タグ)を右副元帥(志願軍3,000人を指揮)に、劉復亨を左副元帥に任命し、モンゴル人・漢人からなる2,5000人(モンゴル兵が中枢を担っていたが、南宋人が最も多く、最前線に配置された)、高麗の将軍、金方慶(キム・バンギョン)が指揮する高麗軍8,000人、高麗人船員6,700人という、総勢3万を超える大軍を率いて日本へ遠征を行った。

 同年10月3日、蒙古・高麗連合軍は合浦を出発し、6日には対馬を占領、対馬を守護する日本軍は全滅した。14日には壱岐島へ侵攻し、壱岐の守備隊である平景隆らは100騎余りを率いて蒙古軍と激戦を繰り広げた。網孤軍は集団戦法を採用し、鉄砲(てつはう)と呼ばれる新兵器を使用、日本軍は破れ城内に退却したが、翌日城は占領され平景隆は自害した。11月19日には元軍は筑前国の博多(現在の福岡市)に侵攻した。

中略

その後、台風に遭遇した元軍は壊滅状態に陥り、元軍側の死者は16,000人に上った。


 第二次元日戦争(弘安の役)の際には、南宋が既に元によって滅ぼされていた。元軍の軍勢はモンゴル人及び漢人からなる19,000人、高麗軍10,000人、江南軍100,000人からなる総勢3,500隻からなる大軍を率いて日本への遠征が行われた。しかし日本側の激しい抵抗と台風も相まって元軍は壊滅的被害をこうむった。この際、大部分は戦死したが数万人が捕虜となったとされており、モンゴル人や高麗人は全て処刑され、漢人(日本では唐人と呼ばれていた)は命を助けられた。死者は江南軍95,000人、東路軍7,000人となっており、生き残り元へ戻った范文虎はクビライの怒りを買い処刑された。


日本と元朝の戦い 「元朝は無敵ではなかった」
翻訳元

2010年5月10日 剣無人


 1274年、蒙古・高麗連合軍(以下、遠征軍)は日本へ進軍するため朝鮮から出港し、九州を目指した。遠征軍は2万5千人であり、モンゴル人と高麗人が大半を占め、女真人(満州民族)や漢人はごく少数に過ぎなかった。遠征軍の総大将はモンゴル人の忽敦で、副将軍は高麗人の洪茶丘と漢人の劉復亨だった。元軍はまず先に、対馬や壱岐島に攻撃を行い蹂躙し、それから3ヶ所に別れて九州に上陸し、主力は現在の長崎付近を上陸地点としていた。

 第一次「蒙古襲来」に対し、日本の鎌倉幕府は正規軍を集め迎え撃ち、九州沿岸の各守護たちも急遽、武士や民間人を集めて戦いに参戦した。凄惨なる戦いは20日間に渡って繰り広げられた。日本の武士達の戦法は元と比べ劣っており、初期の戦闘では大きな損害を被った。しかし、武士達は元軍の進撃を見事に阻止した。戦闘が始まり数日経った頃、武士達は次第にモンゴル人の戦法に適応し、反撃を開始した。特に武士が率いる騎馬隊は非常に勇猛果敢であり、仲間の弓の援護を受けながら、元軍の弓が降り注ぐ戦場を駆け抜け敵の陣に突撃を繰り返した。これによって接近戦となり、モンゴル兵の矢の優位性は崩れ落ちた。副将軍の劉復亨は激戦の最中に戦死し、元軍は弓の大半を消耗してしまった事もあり後退を余儀なくされた。この戦いによって、元軍側も死傷者が多数出ており、弓も食料も物資も尽き果て、陣地を守り抜く力も無くなっていた。その為、戦局が好転する望みもない事から、もはや船に乗り撤退をする以外に道はなかった。そして朝鮮への渡る途中、元軍の艦隊は嵐に遭遇し、一部損害を受けたものの、大部分は安全に国へ戻る事が出来た。

 この戦役は日本史において「文永の役」と呼ばれ、
モンゴル人はこの東アジアにおいて初めて、よく訓練され勇敢かつ自分達に歯向かうという、不遜な敵と出遭ったのだ。高麗人は戦闘において接近戦を担当しており、彼らは武士の猛攻を正面から受けたため、大きな損害を被った。そのため、高麗人から見た武士の戦力、特に日本刀は印象深く、伝え残された資料によると、元軍の兵士が使う刀剣は、日本刀と斬り合うと直ぐに”切れて”しまったそうだ。主に矢を使っていたモンゴル人の損失は比較的少なく、モンゴル兵から言わせれば、日本の弓の威力は強いが、射程が短い為、モンゴルの弓とは比較にならないとの事だった。

 ここで一度簡単に日本刀について紹介する。当時の日本の刀を作り上げる上での鍛錬・精錬技術は世界一流であり、日本刀に匹敵する性能を持ち合わせた刀剣は、北インドと西アジアで産出されていたダマスカス鋼製のものだけである。古代において最も良質な鋼は、性能順で並べるとダマスカス鋼、日本鋼、マレー鋼(注:詳細不明)だ。中国における最も質の良い鋼(精鋼)であっても、実際には一種類の金属からなっており、マレーは鋼よりも性能は良くない。その為、中国において最良の刀剣とは、基本的に輸入したマレー鋼から造られたものである。ダマスカス鋼は高価な合金鋼(ごうきんこう)であり、精錬技術は複雑かつ金額も高く、実際の製造技術の伝承も途絶えてしまった。基本的に、古代においてダマスカス鋼製の刀剣を持てるのは貴族階級の者だけであった。最も強いダマスカス鋼はインド製のものであり、その次がペルシア製であった。モンゴル貴族はこのダマスカス鋼から曲刀を造り、派手な装飾を施した。それに比べて、実際のところ日本の鋼はそこまで優れた物ではない。日本刀が素晴らしい性能を誇るのは、主にその独特な鍛錬と焼き入れの技術によるものである。ダマスカス鋼製の刀剣は卓越した性能を誇っている。しかし、日本刀の場合製造単価も低く、民兵ですらも刀を持つ事が出来た。

 非常時には、当時のモンゴル兵は敵兵から奪った馬の肉や血を飲んで生き延びていた。また、戦時においては機動性を重視しており、基本的に最小限の物資だけで進軍し、食料等の問題は戦地付近の民衆から略奪する事で解決していた。だが、日本との戦争では自分達の特技を発揮する事は出来ず、しかも内陸に進撃する事も叶わなかった為、民衆から略奪を行う事は出来なかったのだ。つまり、日本側の戦術は非常に優れていた言える。当然の事ながら、これを成功させたのは日本の武士達の奮闘があったからこそだ。

 第一次元日戦争(文永の役)の後、クビライは日本が元朝の力を思い知っただろうと考え、再び日本に対し従属するよう使者を派遣した。だが、日本側はこの使者をすぐさま処刑してしまったのである。クビライは怒りを抑えられず、中国を統一した暁には、再び日本へ侵攻しようと準備を整えた。軍勢は中国各地から集められ、モンゴルと高麗で戦闘訓練を施され、それと同時に高麗と中国東南部にて昼夜問わず軍艦の造船が行われた。

 こうした大規模な遠征計画は秘密裏に行う事は出来ず、日本の使者は密かに元朝の動向を探り、再び来るであろう第二の「蒙古襲来」に備えた。当時の日本の政局は安定しており、鎌倉幕府の北条時宗と日本各地の守護は以前にも増して戦力を整えており、これによって前回にも増した兵力と物資を投入し反撃を加える事が出来たのだ。幕府は九州沿岸部一帯に防塁を築き、モンゴル騎兵の侵攻を防ごうとした。モンゴルの侵攻が間近に迫った時期に、北条宗盛と北条宗政は武士の精鋭達を引き連れ九州と本州の沿岸部に出発し、北条宗政が率いる西軍は戦闘において主力となった。同時に九州の各守護たちは民衆を動員し、その他にも日本各地から武士達が駆けつけた。

 1281年、モンゴル帝国は江蘇、浙江、朝鮮各地から大軍を率いて遠征に出発した。今回の軍勢はまさに大軍であり、大小さまざまな軍船5,000隻、兵力は約20万人にも上り、その内訳はモンゴル人45,000人、高麗人50,000人、漢人(南宋)約100,000人であった。漢人の場合、その多くは滅ぼされた南宋軍の出身だった。北より出発した軍勢(東路軍)は南方からの軍勢(江南軍)を待つ間に博多湾付近の島々を攻撃し、島の住民を全て殺戮した上で街を焼き払った。6月上旬になると、南方の軍勢が到着し、合流した後に九州へと侵攻を開始した。しかし、今回の遠征軍は日本軍の粘り強い抵抗に遭遇する事となった。日本軍は防塁から攻撃を加え、元軍の進撃を阻み、機会を伺った後に組織的な攻撃を加えてきた。こうした日本の武士達の見事な働きによって、高麗軍の主力は撃退され、モンゴル軍の指揮官達も次々と討ち取られた。激戦は1ヶ月以上に渡って続けられ、遠征軍は三分の一以上の兵力を喪失したが、それでも日本側の防塁を突破する事が出来なかった。7月下旬になると元軍の食料や矢は尽き果て、前回と同じように撤退を余儀なくされた。

 8月1日、海上で突然台風と遭遇し、嵐は4日間に渡って続き、江南軍も東路軍も壊滅的被害を被った。東路艦隊にて生き残った船は、指揮官達を乗せ高麗へと命からがら逃げ帰る他なかった。この時、まだ陸地には元軍の一部が取り残されていたが、日本側の反撃を受け壊滅し、2万人近くが捕虜にされた。日本側はモンゴル人、女真人、高麗人と北方の漢人を全て処刑し、唐人(南方の漢人)のみ命を救い下層階級とした。今でも博多には蒙古塚と呼ばれる山があり、そこには当時の元軍の将兵を埋葬しているらしい。

 弘安の役の惨敗の報は、生き残った3人の江南軍兵士によって元にもたらされた。クビライはこの3人から事の真相を知り范文虎は処刑され、そのほかの将も処罰を受けた(注:クビライは既に逝去、孫のテムルが処刑した)

 日本史ではこの第二次元日戦争を「弘安の役」と呼び、この戦いでは文永の役より遥かに勝る兵力が投入され、元軍に対して有利に戦いを進めた。日本側の想像とは違い、そこまで元側の戦力は強大ではなく、各地で日本側が勝利を収めた。また、武士の装備は日本刀だけではなく、鉄の鎧も元軍に対して有効に働いた。伝聞では、元軍の弓は遠くから射ても武士の鎧を貫く事が出来なかったというのだ。日本の武士は幼少の頃より厳格な軍事訓練を受けており、彼らが元軍に戦闘技術で勝るのは決して不思議な事ではない。元側の記録によると、日本人は単独での白兵戦に優れており、これは日本側の資料とも一致している。日本側の元軍に属した漢人の評価は非常に低く、武士から言わせれば漢軍は死を恐れており、士気も低い部隊だったという。しかし、これによって漢人の一部は戦後に処刑を免れたのだ。

 また、2度目の戦いの間、およそ7年間の内に日本は矢を改良しており、弘安の役の際には日本の矢が元側と変わらぬ射程になっていたと元側の資料に記されている。武士が用いる弓は長弓であり、当時最も先進的であったイングランドの弓と似た構造をしており、長さは1.5メートルもあった。当時の日本人は身長がとても低い為、矢を射る者は、この弓よりも小さかったようだ。また、日本人は戦術面でもイングランドと似ており、主力となる騎兵が突撃を行い、歩兵と弓手は両翼から援護をする陣形を取っていた。

 日本側の参戦戦力は、現在も詳細ははっきりしていない。いくつかの中国の史書では、第1回の戦いで日本側は10万余りの軍勢を投入したとされ、第2回目では40万から50万の大軍を投入してきたと記述されている。ただし、この記述には何の根拠もなく、現実的ではない。当時の九州の総人口が数十万人程度であるとされており、九州地区の全ての戦える民を導入したとしても10万人の兵力投入する事は厳しく、それゆえに日本各地から軍勢が集まったのだ。この戦いから200数年経った後の戦国時代、日本の人口も国力も13世紀と比べ飛躍的に上昇していたにも関わらず、有力な大名の戦いでは基本的に5、6万人を超える戦力は投入されていない。日本人は大軍を運用する事は少なく、基本的に少数精鋭を良しとしていた。私個人の予想では、1回目が1万人程度であり、2回目では多くて5、6万人であり、どのみち10万人を超える事はない。

 以上が、元朝による日本侵攻の概要だ。多くの"愛国者達"は、元朝が敗北した事を深く悲しんでいる事だと思う。そして"愛国者"はどうすれば日本を征服出来ていたのか、歴史を塗り替える事が出来たのかをこのように述べる事が多い。①范文虎のような凡人を一軍の総大将にすべきではない。②遠征軍に馬を配備すべき。③毎回、大砲(投石機)を配備すべき。④軍の規模は大規模でなくて良い。

 実際には、范文虎は副将軍ではあるが、総大将の阿塔海は戦場で指揮を取っていない為、范文虎を実質的な指揮官と見なしているようだ。確かにモンゴル人は地上においては精鋭であるが、海上での戦闘経験は無く、実質的な指揮は范文虎が行っていた。彼の軍事的な才能は平凡であったが、今回の戦いの最中では大きなミスは犯していない。ただし、台風の直撃に際して、彼は仲間を陸に置き去りにして少数で逃げてしまった。故に、漢人である范文虎は真っ先に処刑され、尚且つ”愛国者”にとって彼は歴史上の罪人になってしまったのだ。

 では、次に馬について考えてみる。馬を連れていく場合、歩兵の何倍もの物資が必要となってくる。故に、馬を連れ立った場合は4万程度の軍勢が限界だと言える。だが、ここで考えなければならないのが、なぜクビライは馬を送らなかったかという事だ。2回目の戦いの際には、既に防塁が築かれており、20万人もの大軍をもってしても突破出来なかったこの防塁を、たったの4万の騎馬と歩兵で突破出来るのだろうか?私は不可能だと思う。

 そして「大砲(投石機)」に関して。"愛国者"の方々は、どうも中国の大砲は小さいと考えているようだ。だが、実際に元が使用していた大砲は、中東において捕虜としたアラブ人に作らせたものであり、非常に大型だった。こういった巨大な大砲を船に積んで運ぶのは非常に困難であり、もし元軍がこれを日本侵攻で使用するのであれば、必然的に兵士の数は減らさなければならない。また、例え運んだとしても、この兵器がどれだけ効果を発揮したかは未知数だ。個人的な考えだが、たとえ大砲が効力を発揮した所で、戦争の結末は変わらなかったと思う。

 実際に、第1次元日戦争(文永の役)では、元軍は大砲を用意し、海戦で用いたとされている。そして砂浜に後退した際にも、日本軍に対して砲撃を行ったとの事だ。中国の一部の史書には、「日本軍は大敗した」と書かれているが、私はこれを信用出来ないと感じている。というのも、2回目ではクビライが大砲を持ち込むのを却下したのだ。もし実戦で効力を発揮していたのであれば、こんな決断を下さないだろう。

 日本の防塁を突破し、九州内陸部に侵攻しようとするならば、元朝は30万ないし40万近くの大軍を投入しなければならなかっただろう。しかし、例えそれをやったとしても、日本を完全に征服する事は出来なかっただろう。多くの人は忘れているかもしれないが、小国にとって重要なのは、独立を維持する事である。つまり、強国を滅ぼす必要はなく、強国に対して自分達を倒すのは多くの損害を被る、不可能だと思わせるだけでいいのだ。その点、日本は既にそれを成し遂げていた。元軍が40万の大軍を率いて九州に侵入したとしても、日本人を屈服させる事は出来ない。日本人は陣地を作り上げ、元軍が民衆から物資を奪えないようにし、絶えず攻撃を仕掛けてくるだろう。アメリカの独立戦争の際のイギリス軍と同じで、こうした大軍は人員・武器・物資などの補給を全て海路から頼るしかない。例え巨大な元帝国であったとしても、長期に渡ってこうした戦いを続ける事は出来ず、結局は日本から撤退せざるを得なくなるだろう。

 実際に、クビライは3度目の侵攻を真剣に考えており、準備もさせていた。だが、数年経った頃、陳朝大越国(ベトナム)の反乱に対して大敗し、クビライは日本への侵攻が何の利益ももたらさないと意識するようになる。クビライは死の直前に、日本への遠征軍の解散の勅諭を出しており、過去数十年間に渡って自らが抱いてきた日本征服の夢は失敗に終わったと認めたのだ。とはいえ、歴史上の偉大な指導者と比較しても、このクビライは敬服すべき存在だと私は考えている。クビライの死後、孫のテムルは対日政策を変更し、平和のルートを通じて日本から銀を獲得する事が出来るようになった。

 陳朝における失敗からも、日本を征服する事が不可能だったと証明出来る。陳朝の軍隊の装備と戦力は、日本と比べると遥かに劣っていたが、彼らの勇敢さは日本人に似ていた。伝承では、陳朝の兵士は命を掛けて敵を殺すという決意を腕に刻んでいたと言う。元軍は簡単に陳朝の地に侵入する事が出来たが、組織的な奇襲を繰り返しうけ、指揮官も戦死する事となった。この戦いは莫大な時間と資金を費やし、元は財政難に陥り、陳朝の独立を承認する事となった。

 高麗に対する戦いも苦難に満ちたものがあり、13世紀初めに元が高麗を征服した後も、一部の者達は抵抗を続け、元軍にも大きな損害が出た。結果的に、数十年に渡って高麗を直接統治した後、元は撤退し属国として服従させる事となった。

 上に述べたように、日本やベトナム、朝鮮は中国よりも遥かに少数の民族であったにも関わらず、元軍の侵攻を撃退し、その主因は決して屈服しない精神と、己の勇気によるものだった。とはいえ、こういった少数民族の成功は、恐らく私達漢民族に屈辱的な感情を与えるといえる。ベトナムや朝鮮に対しては、後に我々が征服した事もあり、まだ感情としては問題ない。ただ、日本人の場合、彼らは我々にとって災難そのものであり、彼らが勇敢に立ち向かったという事実には我慢ならないものがあるだろう。また、神風の存在もある事から、多くの"愛国者"達は、運によって日本が勝利したのだと決め付けるだろう。だが、実際に神風は起こり、日本の助けとなったかもしれないが、例え"神風"が吹かなくとも、日本人は元軍を撃退していたはずだ。なぜなら、"神風"が吹く前に、既に50日間近く日本軍は元軍と激戦を繰り広げており、元軍は莫大な損害を被り、日本軍に抑え込まれていた。中国の史書では、台風が元朝敗北の決定的要因だと書かれている。そして日本人が如何に勇敢に戦ったかを一言も書かず、どれだけ日本人が恐怖したか、どれだけ絶望し逃げ惑い、天に祈ったかを妄想に任せてでっち上げ、誇張しているのだ。

 我々は歴史上、多くの屈辱を受けてきており、それを全て外の責任にしている。だが、実際に考えてみれば、その多くは私たち自身に原因があり、真剣に自分自身の行いを反省する必要があると思う。"愛国者"と呼ばれる人々の多くは、歴史的事実から目を背け、深く考えもせずに自分達の歴史に誇りを求め熱中している。個人的な考えだが、こうした"神風"に対する考え方こそが、私達の民族にとって本当の恥なのだと思うのだ。


最強の元軍ですら日本を征服出来なかった。

日本が最強の時、もう少しで中国は征服される所だった。

そして現在、
日本は今でも中国やモンゴルよりも強大な国家なのだ。

投稿者:剣無人


・中世に世界の海を目指したわけで、当時の日本にそんな力も勇気もなかったじゃん。スレ主は日本人の為に頑張って宣伝してるんだろ。


・↑日本は常に唐から文化や学問を学び進歩し続けていた。その時、モンゴル人は何をしていた?明治維新の時、モンゴル人は何をしていた?第二次世界大戦後に日本が世界第二位の経済大国になった時、モンゴル人は何をしていた?


・戦国時代の日本が朝鮮に渡ってきた時も、結局勝てなかったよね。だからといって、日本の武士が明や朝鮮に劣っていたわけじゃない。海を渡って戦うと、大体こうなるんだよ。


それと、日本人が積極的に学び、すぐに吸収してしまう民族だというのは本当の事だよね。


・↑朝鮮での戦いだと、日本側は戦力では圧倒的劣勢だったけれど、戦果はとてつもなかったよ。最終的に日本は撤退したけど、明はこのせいで莫大な被害を被ったよ。


・つまり南宋の軍人は悪(元)人の下で悪事を働いたわけか。


・たしかに・・・元はベトナムとか日本の遠征に全部失敗して、もう終りが近づいていたのを示していたよね。


・アジア人と比べるなよ。日本人はアメリカとか西洋と比べとけよ。


・いっとくけど、アメリカは色んな人種、全世界のエリートが集まってるんだよ。少なくとも、アジアにおいては日本人が一番でしょ。生活水準だけでなく、民衆の民度だってね。


・馬に乗ったモンゴル兵に勝つ事なんて出来ない。鎧を着た武士は弓を射れないんだろ?はは。火薬が普及する前はモンゴル兵が世界一さ。


・今のイギリスとドイツのGDPを見てみなよ。あと、フォーブスの世界500社の内、この2ヶ国は何社入ってるか、日本と比べながら見てみなよ。イギリスはアメリカの次の多く、ドイツと日本は対して変わらない。日本は経済・科学技術は世界一流で、軍事のみ普通なんだよ。


・16世紀になると日本には西洋のような自由都市が出現して、都市が国のような役割を果たしたよね。例えば堺とか。堺が自立していた時期はそう長くはないけれど、このアジアで考えれば凄く珍しい事だと思う。あと、古代日本の政治制度はどちらかと言えば中国より、ただ経済面だとヨーロッパの封建制みたいだった。だから日本が西洋の資本主義を取り入れ成功したのは中国よりも速かったんじゃないかなぁ。


・漢民族は考えが狭い。モンゴル人だってかつて中国を統治した事があるのに、何で中央は漢民族ばかりで固めているんだ?56民族、全てに国家を運営する権利があるはずだろ。


・↑ほんと浅はか。私は漢民族だけど、君は知能が低いね。君みたいな奴が人種差別を引き起こすんだよ。


・まぁぶっちゃけ、日本人は粘り強く抵抗して勝ったわけで、俺ら漢民族は日本にちっとも及ばないっていうね。


・まぁさ、元軍は10万人も引き連れて日本に侵攻して、返り討ちにあって2、3万人しか生き残れなかったんだぜ。南宋人は奴隷にされて、他は全て殺された。15万人派遣された時も、帰ってきたのは3万人ぐらいだぞ。しかも江南兵は10万人も派遣されたのに、生きて帰ってこれたのはたったの3人。





 日本だと南宋人と漢人は分けて考えられていたと思ったのですが、どうやら中国では同じ民族とされているみたいですね。それと、神風について「違うんじゃないか」って感じの事を考えている人が中国にも居た事に、ちょっと驚きました。結構間違いも多いですが、読んでいて面白かったので、今回は取り上げてみました。。てか、wikiで日本のやつと比べてたら、フビライ・ハーンが、クビライ・クアンみたいになってた・・・。僕フビライ・ハーンって習ったんだけど、今は変わったのかな・・・。

 誤字・脱字、ミスがあるかもしれません。数字の表記も統一してないです。しようと思ったんだけど、面倒で・・・。モンゴル兵にするか、蒙古兵にするか、元軍の兵にするか悩みながら翻訳してたので、表記が変わっていると思います・・・が、面倒なのでこれまた放置で。地味に手を抜いてしまうフヒ。



補足

 元寇に対する中国人の反応において、私が説明を怠った為に、誤解を生んでしまったので、簡単に私の個人的な解釈で補足?します。

  私が読んだ捉え方ではありますが、日本人を褒める事を主眼に置いたものではないと思います。というのも、基本的にあの文章は、過去の歴史を しっかりとした検証もせず、都合の良い様に捉えている自国内の”愛国者”の方々に対して、一種の皮肉を述べているものであり、それも中国を貶める為でもな く、もっとしっかりしないと!と自国の為を思っての言葉だと考えております。途中で、「
彼らが勇敢に立ち向かったという事実には我慢ならないものがあるだろう」だとか「私達漢民族に屈辱的な感情を与える」といった記述もあったかと思いますが、あれは日本人憎しという言葉ではなく、"愛国者"の方々への皮肉であると私は捉えております。

  確かに剣無人さんの記述には誤りもございましたが、彼は日本を褒めるわけでも元朝を貶めるわけでもなく、今の中国人の歴史の捉え方に、このままでいいの? といった考えから、あの文章をお書きになったと感じています。中には今の中国と元朝は違うという方もいらっしゃるでしょうが、彼らは元や明、清といった歴 代の民族が異なる国家の文化・歴史を継承した正当な後継者(国)という形で捉え、それが中国大陸(この言い方にも問題があるとおっしゃる方がいらっしゃる でしょうが)において中華人民共和国としての統治をする根拠のような感じなのです(もちろん、全ての人がそうではなく、私が接した中国の方から考えた場合 という意味です)。

 私達のように長い間日本で同じ民族(これまた語弊があるかと思います、アイヌの方、琉球の方、他にもいらっしゃいま すが)として続いてきた国の視点・考え方とは違うと感じています。・・・文章を上手く書けないので、うまく言いたい事がまとめられないのですが、まぁ、こ んな感じです(ぇ


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