日露戦争 第三弾

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(ロシア帝国陸軍、大日本帝国陸軍)
日俄戦争 俄国惨敗、日本惨勝
注意:史実と異なる点、解釈が異なる点が多々ございます。日本人にとっては公正とは思えない内容かもしれません。

翻訳元
日露戦争 ロシアの敗北、日本の辛勝
投稿者:風煙雲波

 1895年、下関条約締結後に三国干渉が行われ、日本は遼東半島を清に返還する事となった。この時、日清戦争によって日本は莫大な戦費を投入しており、この返還は朝鮮と遼河の権益を獲得出来ない事を意味していた。当然、日本は怒り心頭であったが、ロシア・ドイツ・フランスといった三国を相手に立ち回る程の国力は無く、どうする事も出来なかったのだ。その為、日本は10年に及ぶ軍拡計画を制定し、いつの日か敵を叩きのめすために準備を開始した。(臥薪嘗胆)

 1903年7月下旬から1904年2月初旬にかけて行われた日露交渉は決裂に終った。この時、世界情勢は大きく変化しており、フランスはイギリスによって押さえ込まれ、ドイツはロシア寄りの中立を示していた。一方で、アメリカとイギリスは日本側につき、支援を開始していた。

 1904年2月8日、日本海軍は旅順のロシア艦隊に奇襲を仕掛け、日本陸軍は
朝鮮半島の仁川(インチョン)から上陸を開始した。4月28日になると、日本軍は鴨緑江を多数の犠牲者を出しながらも突破し(鴨緑江会戦)、5月5日には第二軍が大連に進軍を開始した。だが、ロシア陸軍の護りは堅く、日本軍は大きな犠牲を出す事となった。そして攻略出来ぬまま時は過ぎ5月26日の夜になった。空には稲妻が轟き、大地には風が吹き荒れ、まるでこれから起こる凄惨な戦いを予感していたかのようだった。日本軍は雨の中、決死の総攻撃を開始した。この戦いは14時間にも及び、大地は日本軍兵士4000名以上の血で染まったが、大きな犠牲を払いながらも日本軍は金州・南山地区を攻略した(南山の戦い)。そして5月末には大連湾を占領を完了した。・・・8月中旬、日本軍は勝利を重ねたものの、極めて苦しい戦いを強いられ、2万4千人の莫大な犠牲を払った後、9月4日についに遼陽を占領した(遼陽会戦)。そしてこの戦い以降、日露戦争は最も苦しい第二段階、旅順攻略戦へと移行する事となる・・・。

 日本軍は旅順港を封鎖するため、大規模な水雷作戦を実施し、これによって双方に大きな損失が出た。日本海軍は、旅順港封鎖の為に3度に渡って閉鎖作戦を実施し、17隻(実際は16隻)を自沈させた。またロシア旅順艦隊の旗艦であったペトロパブロフスクが日本軍の敷設した機雷によって沈没し、800名近い将兵が海に散った。このほか日本側でも初瀬・八島といった主力戦艦が機雷によって沈没し、主力戦艦6隻中、2隻を失う事態となった。日本艦隊は旅順港の完全封鎖を実施し、旅順港に引きこもるロシア太平洋艦隊に大きな脅威を与えた。このため、ウラジオストックに向けて包囲網を突破しようと試みたのだ。

 6月13日(注:8月10日)、ついに旅順艦隊はウラジオストックに向けて回航を開始し、黄海において日本艦隊と遭遇した。たがこの戦いはロシア側の思惑通りには進まず、旅順艦隊は壊滅的打撃を受ける。もはや旅順艦隊は単独で作戦を実施する能力は存在せず、これによって日本海軍は極東における制海権を完全に掌握したのだった。何とか旅順に引き返した軍艦も、突破は不可能である事から海上の砲台として機能させる事となった。



 旅順攻略戦は5ヶ月という長期戦となり、季節は夏から冬へと移り変わった。このような壮絶な地上戦は過去例がなかった。また、湾内には依然として旅順艦隊が残っており、その為日本海軍は旅順に張り付くこととなっていた。この旅順攻略戦において最も重要な点は何かと言えば、それは二百三高地の攻防である。この二百三高地だけで両軍は3ヶ月近く争奪戦を繰り広げていた。実際に戦いに参戦した兵士はこう語っている「これは人間同士の戦いではない。降り注ぐ鉛、燃え上がる石油、そして爆薬によって人間が殺されていく、そんな戦いだ。」

 11月26日、ついに日本軍による第三回総攻撃が旅順要塞に対して行われ、戦闘の激しさは常軌を逸していた。日本陸軍司令官の乃木希典将軍は7日間に渡って昼夜問わず、突撃攻撃という野蛮で残酷な肉弾戦を行い、数万人もの代償を払い12月5日、ついに二百三高地を占領した。二百三高地を奪われた旅順艦隊にもはや逃げ場はなかった。日本軍は高地から雨のようにロシア軍陣地及び旅順港に停泊する軍艦に砲弾を浴びせ、ついに旅順艦隊は壊滅した。その後、ロシア軍陣地は占領され続け、もはや絶体絶命に陥った。そして旅順要塞の司令官であるアナトーリイ・ステッセリは1月1日に降伏を申し出る使者を派遣した。こうしてついに日本軍は難攻不落の旅順を占領したのである。
 
 旅順攻略戦は222日間にも及び、参戦した日本軍の兵力は13万人を超え、死者1万5400人、戦傷者4万人超であった。一方、ロシア軍は4万4千人が参戦し、死者1万800人、戦傷者1万9600人、その他の者は捕虜となった。旅順における戦いがついに終り、日本軍は瀋陽に残るロシア軍を包囲殲滅し、戦争の早期決着をつけようとしていた。日本軍は決戦に備え、27万人の兵力を投入、一方のロシア軍も30万人以上の兵力を投入した。この奉天会戦と呼ばれる戦いは、日露戦争における地上戦で最も最大規模となる会戦であり、日露間最後の大規模地上戦であった。そしてこの戦いによってロシア軍は敗北を喫し、ロシア側は12万近い損害(死傷者・捕虜)を被り、日本側も7万人近い損害を被った。これによって日露戦争における地上の戦いは勝敗が決まったのであるが、海上における戦いはこれから始まろうとしていた。

 5月27日未明、日本の連合艦隊旗艦「三笠」はZ旗を掲げた。これには「皇国の興廃、この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」という意味がこめられていた。同日正午、ついに日露両艦隊は対馬海峡沖において戦いの火蓋を切った。ロシア海軍は旗艦のクニャージ・スヴォーロフはすぐさま三笠の砲弾を浴び、司令官は負傷した。続いてオスリャービャ、インペラートル・アレクサンドル3世など多くの軍艦が行動不能となった。5月28日、ウラジオストックの残存艦隊は再び日本軍に包囲される事となった。ロシア側は出来る限りの抵抗をしたが、もはや望みは無かった。その為、代理となった司令官は日本に投降した。この日本海海戦ではロシア側、死傷者約5千人、捕虜6千人となりバルチック艦隊は壊滅した。日本軍では3隻の小型艦艇が損害を受け、死傷者は700人弱であった。

 この日の対馬海峡の夕日は、まるで血のようであった。権勢を誇ったロシア帝国のバルチック艦隊の旗は、まるで夕日のようにゆっくりと日本海に沈んだのである。1年3ヶ月に及んだ日露戦争は、ロシアの大敗北と、アジアの覇権を握った日本海軍という結果に終わった。

 時は移り変わり、情勢も大きく変わった。日清戦争、日露戦争は遠い過去になってしまった。しかし、この戦争の影響は未だに後世の人々に残っており、例えば尖閣諸島問題、竹島問題、台湾問題、北方領土問題などがあるのだ。

 もしロシア帝国が戦争を継続していれば、最終的に日本は圧倒的なロシアの国力の前に敗北し、ロシアの勝利に終わっていた可能性も高い。だが、国内の情勢は不安定になっており、日本ほど極東を重視していなかったのだ。

 第二次世界大戦後、日本はアメリカの攻撃によって廃墟と化した。この時点で、もはや国力・工業力は中国とも大きな差は無くなってしまっていた。にも関わらず、30年後・・・、中国は内戦と絶え間ない政治闘争を繰り広げ、日中の差は清の時代よりも広がってしまったのだ。

 旅順陥落から間もなく、もはや帝政ロシアの内情は風前の灯となっていた。各地で革命が叫ばれ、1月22日には血の日曜日が起きた。戦後になってもこの勢いは衰えず、打倒皇帝、専制政治打破が叫ばれ、それは全国に拡大して言った。そして奉天会戦による敗北によって、再びロシア国内に激震が走った。国民は公然と和平を訴え、日本との講和の声が高まった。とある者はこう言ったという「例えサハリンやウラジオストックを日本に引き渡したとしても惜しくない」。当時の英米仏独はこの社会主義革命がヨーロッパ全土に波及する事を恐れ、4カ国で日露に対して講和の圧力を掛け、ポーツマス条約が結ばれる事となった。

 欧米列強は戦後のロシア政府を支援しようとしたが、もはやニコライ2世の権威は地に墜ち、日露戦争から12年後、レーニンという男によって葬られ、超大国となってロシアは復活を遂げる事となった。

 我々中国人は、旅順における乃木希典を忘れられない。彼は1849年に長州藩の士族の家庭に生まれ、幼い頃から武士道の精神を叩き込まれた。そして戊辰戦争、西南戦争において勇敢な活躍をし、旅団長となった。1894年には日清戦争が勃発し、彼は部下を率いて旅順を占領したのだ。この戦いにおいて、乃木は残った中国人の殺害を命令し、旅順において生き残った兵士はたったの36人であった。下関条約の締結後、彼は再び軍を率いて台湾に向かい、総督となった。そして日露戦争においては大将となった。

 その後、東京に戻った乃木は天皇と謁見し、その戦功を認められ、1907年には学習院の院長となった。そして華族の者たちに「国家の為に自らの命を捧げよ」という教育を施し、後に自ら皇族である裕仁親王の教育を担当したのだ。1912年7月30日、明治天皇は病気の為崩御した。国葬の後、乃木は妻と共に自宅で切腹を行い、天皇に殉じた。これによって、日本では乃木を軍神として崇め、日本政府は彼の生前の自宅に乃木神社を建立し、武士道を広く示そうとした。明らかに、この乃木は旅順において多くの部下を死に至らしめ、台湾で暴虐の限りを尽くしたにも関わらず、功績を称えられているのだ。まさに「一人の大将の功名は、多くの兵士が戦死し戦場に骨を晒した結果である」。一体どれほどの罪なき中国の民、台湾の同胞が殺され、悲惨な目にあっただろうか。

爾霊山は今でも日本の右翼達にニレイ山(二百三高地)と呼ばれ、毎年多くの日本人右翼が訪れる。

 日本はギリギリの中で戦い、なんとか勝利した。しかしロシアの軍事力はまだ温存されており、ただ単に国内の情勢が不安定だっただけである。つまり、日本がロシアに対して賠償金を求めるなどとはありえないことなのだ。

 イギリス人はこの戦いを公平に評価しており「日本にとっては国家存亡を掛けた戦い、ロシアにとっては夕食を掛けた戦いのようなものだ」と語っている。

我々にとっては日清戦争が転換点であり、日本にとっては日露戦争が転換点だ。明治維新における政治の変化と清からの賠償金によって日本は急成長を遂げ、ロシアを打ち破り大国たる地位を築いた。そして第一次世界大戦ではその地位を確固たるものとした。だが第二次世界大戦では敗北してしまったのだ。




戦場は中国!被害を受けるのも中国の人民なんだよ!!!


言っとくけどさ、この日露戦争は世界史上でも重大な出来事だよ。日本は西洋諸国以外で初めて西洋の列強を打ち破ったんだよ。そして近代化の道を突き進み、白人達によって奴隷のように扱われた無数の有色人種たちに希望を与え、奮起させたんだ。ここには当然中国も含まれてるんだぞ。


当時のロシアなんて大した事ない。第二次世界大戦時のソ連を打ち破れば日本が強いって言えるけどね。


なんかスレ主のは自分に都合の良い歴史解釈だな。


日露戦争の時、日本に留学していた多くの中国人が負傷した日本兵を救助したんだよ。この戦争は、黄色人種が始めて白人の大帝国に打ち勝ったんだ。つまり俺たち黄色人種が白人に劣っているという考えを覆し、努力し改革を行えば白人に追いつけるって証明したんだ。


戦争なんて結局結果が全てだよ。内情なんて関係ない。


何も劣ってなんか居ない。俺たち黄色人種の輝かしい歴史を西洋人は忘れちまったのか?




この後、かつて如何に中国の歴史が素晴らしいものであったか、漢朝の時代からウンチクが始まり、モンゴルの野蛮人によって中国の刑法は残酷になった!という話とかになってきます。byぱんだ



いやさ、時代によって道徳は変わってくるだろ。19世紀は勝利こそが全て、21世紀は民主主義、そして人道だろ。1000年の事を評価するなら、当時の基準で考えろよ。


人間は自分の中の野蛮な心を追い払わないとな。


西洋に勝ったのは日本だけじゃない。明朝末期には、ポルトガルやオランダ人を明は打ち負かした。それなのに、清に滅ぼされてしまったんだ。それと、唐の時代も含め、漢民族が支配する中国の時は日本に無敗だ。文化だって伝えた。いいか、元寇はモンゴル人だからな。そして清は漢人じゃない。


↑つまりお前は漢民族>日本人>北方の民族(満州とか)と言いたいのか?


↑↑お前何が言いたいの?


言ってる事が意味不明なんですけど。


例え元が漢民族の国だったとしても、日本に勝つどころか到達すらできねぇ。清朝だとしても、一体当時の情勢の中で何が出来るっていうんだよ。


まぁ、日本は日本独自の文化に発展してるからな。コピーとか言うなんて図々しいぞ。


確かに唐の文化は日本に大きな影響を与えただろうけど・・・
ただ、それ以上に重要な点は、日本の場合その文化を自分達で消化、吸収して、独自の文化を創造したって事!


つうか辛亥革命のとき、日本人は俺たちを手助けしてくれたよね。一部の日本人の行為=日本悪なんて通用しないだろ。


内容がどうであろうが、ギリギリであろうが日本は戦争に勝ったんだよ。極東の小さな国が、西洋とアジアに君臨した大国を打ち負かしたんだ。あまりに凄すぎて、多くの人が拍手を送った。そして日本人はそれを誇りに感じた。別にそれでいいじゃん。





Koukoku
いつになったら小説の方の新刊、出るんですか?出ないんですか。


 つまらなかったので、没ネタになってましたが、ネタがないので記事にしました。どうすっぺなー。もうおらどうしたらええがわがらねぇ。もうおら方向性みうしなっでる。ネタ探すの下手っぺなんがなぁ。もうコンピュターと睨めっこしてもよ、ネタがみっがんねぇんだこれが。


子犬のワルツ ショパン



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