The Sinking of the Prince of Wales and Repulse

kg5fb3

http://www.microworks.net/pacific/personal/pow_repulse.htm
http://www.worldnavalships.com/forums/showthread.php?t=933
http://www.ww2talk.com/forum/war-sea/13448-sinking-prince-wales-repulse.html
http://groups.google.com/group/soc.history.war.world-war-ii/browse_thread/thread/5ff68d3a16e22a68/3e327d4dfb738b22
http://groups.google.com/group/soc.history.war.world-war-ii/browse_thread/thread/c08e36e1272d28cd/fbfaa5c8d4f148a5

The Sinking of the Prince of Wales and Repulse

 HMSプリンス・オブ・ウェールズは大英帝国海軍の戦艦である。就役は1941年1月19日であり、当時は世界最強と謳われた大英帝国海軍を代表する戦艦であった。1941年5月、就役から約5ヶ月が経過した時期に初の実戦に投入され、ドイツ第三帝国海軍の戦艦ビスマルクらとデンマーク海峡において戦闘を行った。しかし、僚艦であった巡洋戦艦フッドが一瞬の内に被弾、轟沈しプリンス・オブ・ウェールズも被弾したため、撤退を余儀なくされた(尚、ビスマルクはその数日後に撃沈されている)。その後、1941年10月25日、大英帝国首相チャーチルによって不穏な動きを見せる大日本帝国の脅威に備える為、英領シンガポールを拠点とする英国東洋艦隊に旗艦として派遣される事となった。

bed2d7199e725ad68282b14aa64b2be7

 太平洋戦争開戦6日前の1941年12月2日、プリンス・オブ・ウェールズはシンガポールに到着し、巡洋戦艦レパルスと合流する事になる。東洋艦隊に対し大英帝国がこれほどの最新鋭艦を派遣する未だかつてなく、アメリカとも同時に対峙しなければならない日本にとっては大きな脅威となるはずであった。この時、新鋭空母インドミタブルも東洋艦隊に編入される予定であったが、バミューダ島で座礁した事により合流が間に合わなかった。これがプリンス・オブ・ウェールズの運命を決める事になるとは、この時はまだ誰も気づいてはいなかったと言える。

太平洋戦争勃発

 1941年12月7日(日本時間12月8日未明)、大日本帝国海軍が機動艦隊を率いてアメリカ合衆国の一大軍港が築かれていたハワイ、真珠湾に対して攻撃を実施した(真珠湾攻撃)。それとほぼ同時に、大日本帝国はマレー作戦を発動し英領マレー半島に奇襲上陸を開始した。大英帝国にとってこのマレー半島、そしてシンガポールは極東を統治する上で必須の拠点となり、ここが陥落した場合、植民地であったインドにまで脅威が及びかねない状況であった。

hms_repulse_1920s

 1941年12月8日、大英帝国東洋艦隊はマレーへと上陸する帝国陸軍陸上部隊の輸送船団を壊滅させるべく、プリンス・オブ・ウェールズを旗艦とするZ部隊(Force Z )を編成しシンガポールより出撃した。この時、英国極東司令部は日本に対し海上戦力が不足していると認識していたものの、前述したシンガポール・マレー半島の重要性から出撃せざるを得なかった。極東艦隊側は真珠湾において、アメリカ合衆国が日本の機動艦隊から飛来した航空機によって大打撃を受けたという報は受けていたものの、当時航空機によって作戦行動中に沈められた戦艦は例がなかった事もあり、そこまで日本の航空戦力を危惧していなかったのだ。

 1941年12月9日、Z部隊は日本軍の偵察機によって捕捉されたことで、深夜にシンガポールへ引き返す事を決定した。これによって日本の水上部隊はZ部隊を見失い、Z部隊の攻撃を陸式航空部隊に託す事となった。

 1941年12月10日、プリンス・オブ・ウェールズに運命の日が訪れた。日本の陸攻部隊は次々とプリンス・オブ・ウェールズとレパルスに雷撃・爆撃を敢行した。第二波攻撃では船体も酷く損傷を受け各所に浸水が及び、もはや沈没は免れない状況になり、プリンス・オブ・ウェールズより退艦命令(退艦の準備をせよ、神と共にあらんことを。)が発せられ、将兵が僚艦に収容される事となった。だが、東洋艦隊司令官であるトーマス・フィリップスと艦長のジョン・リーチは部下の退艦要請を拒み、14時50分、大英帝国海軍の栄光を具現化したプリンス・オブ・ウェールズと共に海底へ沈んだ。

 この一連の海上における戦いはマレー沖海戦と呼ばれ、作戦行動中の戦艦が航空機によって沈められるという事が初めて証明された戦いであった。この瞬間、大鑑巨砲主義の思想は旧世代の遺物と化し、大日本帝国にとって栄光ある勝利をもたらしたと同時に、崩壊への一歩を踏み出したと言える。そして、これは大英帝国にとっても例外ではなく、数百年に渡る植民地支配の終焉を予感させるものとなったのだった。

hmsprinceofwalescrew
大英帝国東洋艦隊旗艦 HMSプリンス・オブ・ウェールズと将兵

 数日後、日本の軍用機が戦闘があった上空に飛来し、国の為に戦い、祖国から遠く離れた極東で海に散っていった英国海軍の勇敢な将兵達に対し花束を投下した。

 現在、プリンス・オブ・ウェールズは3.56, 104.478333地点の海底68メートルに800名以上の将兵と共に今も眠っている。

Singapore Surrender
降伏した連合軍と日本軍(英国・英領オーストラリア、インド)

 こうして大英帝国は極東における制海権を喪失し、シンガポールは孤立無援の状態となった。陸上での戦いでは、帝国陸軍がマレー上陸から55日間で突破不能とされた森林地帯を含め1,100キロを進撃し、2月8日になると難攻不落と謳われた大英帝国が誇るシンガポール島へと上陸、2月15日に英国を主体とする連合軍は日本軍に投降、シンガポールは陥落した。

 このマレー作戦において、英国側は英領オーストラリア、インド、現地兵を含め10万人近くが日本の捕虜となった。戦後の極東軍事裁判では、この作戦を指揮した日本の山下奉文中将が戦犯として死刑判決を受け、絞首刑に処せられた。


The Sinking of the Prince of Wales and Repulse
A series of personal accounts compiled from crew members.
compiled by Alan Matthews

プリンス・オブ・ウェールズ及びレパルスの沈没


乗艦した将兵たちの証言
アラン・マシューズ

 1941年10月25日正午、プリンス・オブ・ウェールズはグリーノック海軍基地から極東に向けて出発する事となった・・・。

 艦上から遠ざかる祖国を眺めていた英国海兵のモーリス・エドワーズはこう語った。

「艦隊がシンガポールへ向かうという事を、我々は知らされていなかった。恐らく、仕官しか行き先を知らされておらず、私のような階級が低い者たちは誰も知らなかったと思う。」

 この時、殆どの兵士たちは自らの行き先を知らされておらず、チャーチルも周りにはあまり語っていなかった様だ。プリンス・オブ・ウェールズ出航から数日後、チャーチルはアメリカのルーズヴェルトに打電を行った。

「我々は巨大な戦艦をインド洋防衛の為に派遣した。この戦艦は日本に対して大きな抑止力となるはずだ。」

警告

 11月10日、プリンス・オブ・ウェールズが南アフリカに寄港した際に、南アフリカの首相からとある警告を受ける事となった。

「彼はこう語った。"日本軍の力は、既に我々が考えているような人種の優劣を乗り越えてしまっている。そして着々と英国との戦いに備えてきているのだ。そして我々も既に認識している事ではあるが、日本軍は近代的な空軍を保有するに至っている。そうならない様には祈っているが、もしかするとこの任務から無事に祖国の地を踏める事はないかもしれないだろう。" 我々はまさかこの予言めいた言葉が的中するとは、この時はまだ想像もしていなかった。数週間後、500人以上の将兵が、恐怖と共に壮絶な最期を迎える事となった。」

シンガポールへの到着と日本軍の影

 1941年12月2日、プリンス・オブ・ウェールズはシンガポール海軍基地に到着した。それと同時に日本の帝国海軍鹿屋航空隊所属の壹岐春記中尉は、プリンス・オブ・ウェールズのシンガポール到着を本国に報告したのだった。

「1941年11月28日、日本軍はプリンス・オブ・ウェールズとレパルスがコロンボに入港した事を確認し、そこからシンガポールに向かうという情報を察知した。連合艦隊司令長官の山本五十六は魚雷を搭載した陸軍機36機の派遣を決定し、11月30日、鹿屋航空隊に対し非公式ながらプリンス・オブ・ウェールズ及びレパルスの撃沈の命令を下したのだった。その為、我々は昼夜問わず、英国戦艦撃沈に向けた訓練を実施した。そして12月3日、我が軍の偵察機がシンガポールに停泊するプリンス・オブ・ウェールズを発見したのだ。」

 英国の司令官達は、この壱岐の動向と鹿屋航空隊に関する情報は何ら持ち合わせていなかった。なぜなら、知っていたとすればプリンス・オブ・ウェールズとレパルスをシンガポールに呼び込むという過ちを犯す事はないはずだからだ。

 仏領インドシナ北部には120機、南部には180機の日本の航空戦力が配置され、そこには90機以上の重爆撃機が含まれていた。南部からは機械化された部隊が配置され、海上には多数の艦艇を含む大艦隊が集結しつつあった。そして12月2日になると、9隻の潜水艦がカムラン湾付近で目撃されていたのだ。

 これを知っていたはずの司令官は、何を考えていたのだろうか・・・。

戦争の勃発

 12月8日未明、シンガポール島において空襲警報が鳴り響いた。それから数分後、17機の日本の爆撃機が飛来し、爆撃を行い去って行った。この空襲は直ぐに終わったが、マレー半島では日本軍による上陸が開始されており、シンガポール攻防戦は既に始まっていたのだ。それから数時間後、日本軍が真珠湾への攻撃を行ったという情報が入ってきた。その後、司令部は作戦会議を行い、今後の東洋艦隊の方針を決定したのだった。

最期の出航、帰還なき旅路

 英国海兵のモーリス・エドワーズはシンガポールより出撃した際に、こう感じたという。

「出航し海峡を出た時、何故だかは判らないが、再びこの基地に無事に戻る事は決して無いだろうと言う不吉な予感に包まれていた。」

 しかし、レパルスの乗員であったバート・ウィンはモーリスとは違う感覚であったと言う。

「シンガポールを出航した際に、既に私達は日本海軍との戦いに向けて準備を整えていました。艦内では日本の軍艦をどれだけ沈められるかで盛り上がっていましたし、我々は2年以上も訓練を積んできたのです。絶対に勝てるという自信を皆が持っており、皆が結束していた様に思います。」

 辺りが暗くなり、夜になると辺りは静寂に包まれた。Z部隊にとって唯一問題となっていたのは、シンガポールから航空戦力による援護が12月10日になるまで見込めないという事であり、その間プリンス・オブ・ウェールズはインドシナから飛来する日本軍機の脅威に晒される事となってしまっていた。だが、戦後にマレー沖海戦に参加した元山海軍航空隊の園川隊長を聴取した結果、日本側としてはシンガポールに配置された英国の航空機が旧式であった為、例えZ部隊に航空戦力の護衛があったとしても、意味はなかっただろうとされている。

中略

 日本軍航空部隊による攻撃の第一波によって、艦隊は深刻な被害を被っていた。奇跡的に生き残ったジョン・ダイクスはこう語った。

「私の周りは炎で覆われ、辺りからは警報が鳴り響いていた。私には水上機の準備を命じられていたが、その準備中に爆弾が投下され、瞬時に周りは地獄と化した。その光景は吐き気を感じる程のものだった。目の前で多くの若い兵士たちが生きたまま焼かれ、重症を負い、そして殺されていたのだ。今でも生き残ったのは不思議だが・・・その時は生き残った事を幸運とは思えなかった。」

 ここまで大損害を被った理由は、時限式の250kg爆弾が原因だと言える。これは戦艦の戦闘能力にはさほど打撃を与える事はなかったが、これによってプリンス・オブ・ウェールズの速度は落ちる事となってしまった。そして第一波が終わり15分もしない内に、地平線の彼方から低空で向かってくる日本軍機の編隊が姿を現した。ブリッジに居た海軍少佐ハーランドは提督に対し「日本軍は恐らく魚雷攻撃を行うつもりだと思われます。」と忠告したが、フィリップスは「日本が航空機による雷撃を行うはずがない」と一蹴した。しかし、提督の考えは間違っていたのだ。飛来したのは魚雷を搭載した爆撃機であり、爆撃機に魚雷を搭載してくるとは今まで英国軍人は想像もした事がなかったのだ。

 三菱G4M1(一式陸上攻撃機)は最高速度250kmで魚雷を搭載して攻撃を仕掛けてきた。そして姿を確認して間もなく、Z部隊は身の毛もよだつ様な猛攻撃に晒される事となったのだ。艦上は地獄絵図と化し、あちこちで兵士の悲鳴と千切れた腕などが宙を舞っていた。

 間もなくして、プリンス・オブ・ウェールズは浸水によって11度傾斜し、速力も15ノットに低下した。もはや舵や電気系統は機能しない状態に陥っていたのだ。後部でも爆発が発生し、シャフトは折れ曲がりスクリューが回転しながら戦艦を猛烈に傷つけ始めていた。止めた時には全てが手遅れとなり、その間にも魚雷が命中し、プリンス・オブ・ウェールズは事実上、戦闘能力を喪失するに至った。もはやこの戦艦に出来る事と言えば、猛攻を仕掛けてくる日本軍にちょっとした抵抗をする位でしかなかった。

レパルスの証言の為、中略

 海兵のアランはプリンス・オブ・ウェールズを忘れた事は一度も無いと語った。

「私は砲塔の入り口に少し前まで立っていたのですが、それから暫くして私が立っていた付近で大きな爆発が3回起きました。この時、自分はとても幸運だったのだと感じました。なぜなら、砲塔が爆風を遮断して私の身を守ってくれたのですから。もし、あの時砲塔が私を守ってくれなければ、今こうして自分がここで語る事は出来なかったはずです。

 とは言え、この爆発で私は頭を切ってしまい、大量の血液が流れ出ていました。それに気づいた上官のクラウザー殿が私を別の艦に移して下さったのですが、それが私が目にしたクラウザー殿の最期の姿でした。・・・恐らく、彼は私を助け、そのあと戦艦と共に沈んでしまったのだと思います。」


 主力艦であるプリンス・オブ・ウェールズとレパルスの沈没を確認すると、日本軍機は救助する駆逐艦に攻撃を加えずにそのまま戦闘区域から離脱していった。それから間もなく、シンガポールより飛び立った英国の航空部隊が到着したものの、全てが遅すぎた。もしかすると、もう少し彼らが到着するのが早ければ、ここまで悲惨な結果にはならなかったのではないかと思うだろう。

 だが、日本の園川が言うように、例え航空戦力を伴っていたとしても、どうにもならなかったのかもしれない。もし空中における援護があったならば、偵察機からの報告に基づき日本は零戦を随伴して攻撃を仕掛けてくるはずだからだ。この零戦は長大な航続距離を持っているのだ。そうなった場合、誰がZ部隊を守りきれるのだろうか?もはやこれは運命だったのだろうか。

その後

 レパルスは513名の将兵と共に沈み、それから50分ほどしてプリンス・オブ・ウェールズが沈んだ。しかしプリンス・オブ・ウェールズは沈むまでに辛い損傷を負いながらも耐えてくれたお陰で、多くの将兵が退艦する事が出来たのだ。最終的にプリンスと共に沈んだ将兵は327名であった。

 ここで述べなければならないのは、攻撃を行った日本軍機に関してである。彼らは生存者の救出活動を妨げる事はなかった。それどころか、レパルスとプリンス・オブ・ウェールズ沈没に関する書籍の多くに、日本軍のパイロット達が救出に向かおうとする英国の駆逐艦に仲間を救出セヨとの信号を送りエスコートしたと書かれているのだ。

 これに対して、プリンス・オブ・ウェールズに乗艦し生き残ったビル・ジョーンズに証言を貰う事が出来た。彼は戦後に日本に何度か向かい、そこで当時戦闘に参加していた日本人パイロットと出会ったのだ。そこで聞いた話では、日本軍パイロット達には2隻の主力艦以外の艦艇への攻撃を禁じる命令が下されたとの事だった。

 ここで日本海軍の壱岐中尉の証言も加えなければならないだろう。彼が言うには、レパルスかプリンス・オブ・ウェールズどちらか一隻を撃沈する様にとの命令が下されていたとの事だった。また、戦闘の翌日、12月11日に彼は戦闘海域上空を訪れ、花束を2つ投下したのだった。何故そのような事をしたのか私が尋ねると、1つ目は砲火によって撃墜された鹿屋航空隊の仲間の為だったと聞かされた。この時、私は若干のショックを受けたが、もう1つは勇敢に戦い亡くなった英国将兵へのものだと聞かされた。彼は戦艦を守ろうと戦った英国将兵の勇気を最大限に褒め称え、日本の航空隊の隊員達もまた、敵として戦い散っていった英国将兵を讃えていたと語った。

この文章は、生還した7人の英国海軍将兵の回想を基に書かれたものである。

A series of personal accounts compiled from crew members. compiled by Alan Matthews


HMS Prince of Wales Battleship 1941-1941

1:The Sailor
2日前の真珠湾攻撃に世界の海軍は驚愕していたというのに、マレー沖海戦で史上初めて作戦行動中の主力艦が航空機によって撃沈されたせいで、世界に更なる衝撃を与えられたよな・・・。

2:herakles
たったの2隻しか極東に派遣出来なかった理由は判ってるし、チャーチルがどのような犠牲を払ってでもイングランドを守ろうと決断したのも理解出来る。だけど、極東を軽視し、結果的に極東で敗北する状況を生み出した事は許せない。何でそんな事になったんだと。

俺からすれば、オーストラリアが日本の侵攻から助かったのはアメリカが助けてくれたからだと思ってる。

このせいで英国に対するオーストラリア・ニュージーランドの考えは大きく変化したよ。

3:The Sailor

シンガポール陥落によってオーストラリアがイギリスに失望したのは間違いないね。

4:herakles
彼女(プリンス・オブ・ウェールズの事)は本当に素晴らしい戦艦だったのに・・・あんな悲惨な結末を迎えるなんだ・・・。

オーストラリアの人々はマレー沖海戦で2隻が沈没したニュースを聞いて涙したらしいね・・・。

5:Harley
俺達はインドミタブル(空母)もZ部隊に加えるはずだったけど・・・バミューダ島で座礁して送り届けられなかった・・・。

当時、俺達には日本を抑える為にそこまでの戦力を送れなかった事情を、イギリス連邦の人々が理解してくれる事を祈ってるよ。あと、アメリカが1920年代に日英同盟を解消してくれたのを心から感謝する。

6:astraltrader

>5
その後、日本はワシントン海軍軍縮条約で対米英に対する軍艦の比率を下げられ、顔に泥を塗られたわけだ。そして彼はこう思ったわけさ。「英国は裏切った」とね。

【注: 基本的に、撃沈された話題というよりは、2隻の沈没とシンガポール陥落による英国の威信が地に墜ちたという事、英領オーストラリア・ニュージーランドの英国に対する考えの変化に関する話題が主でした。 】

7:Warlord
ぶっちゃけ、Z部隊がジャップに41年の時点で勝てる可能性ってあったん?

海軍の思想(大鑑巨砲主義)、戦術、戦略において間違いを犯し、その上チャーチルが馬鹿だったんだろうか、それとも大日本帝国は当時強すぎたのだろうか、英国王立海軍だけじゃなく、他の同盟国であっても敵わなかったんだろうか?

8:kfz
色々な問題や要素が積み重なってあの敗北が起きたんだよ。

日本のパイロット達は俺達の戦艦を沈める為に何度も訓練を積んでいたんだ。彼らは爆撃機に魚雷を積み、それを効果的に用いたんだよ。

イギリス人は航空戦力を過小評価して戦艦こそが最強と考えていた。その結果、碌に訓練もせず、あの結果を招いたんだ。最近はチャーチルを非難する考えが主流になってきているかもしれないけど、陸軍機が飛来して攻撃を仕掛けてくるなんて誰が想像出来るんだって話だ。

9:freebird
海軍としてはきちんとした対日計画があったけれど、チャーチルがプリンス・オブ・ウェールズを送れば日本を黙らせられると考えたんだよ。空母も送ったけど、座礁してたどり着けなかったしな。

チャーチルはプリンス・オブ・ウェールズがあれば日本のどの軍艦であっても撃沈出来ると考えていた。でも、その馬鹿な考えは間違っていたんだ。結局、抑止力として派遣したに過ぎないんだ。だからこそ、日本が対米・英に対して宣戦布告をした時点で抑止力としての機能を失ったわけだから直ぐに撤退させるべきだったんだよ。

10:Wylie Wilde
ドイツにフッドが沈められたとき、チャーチルは血眼になってビスマルクを追撃して沈めた。だけど、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが沈められたときは、チャーチルは何も反撃が出来なかったよな。何で?

11:Scott M. Kozel
英国海軍は多数の戦艦・巡洋艦・駆逐艦が近くに待機してて、ビスマルクに向けて容易に追撃が可能だったんだよ。だからこそ、フッドを喪失した後、すぐ様追撃が可能だった。

一方で、東洋艦隊は本国から10000参る以上も遥か彼方のシンガポールを拠点としいて、プリンス・オブ・ウェールズもレパルスも喪失した後は日本の戦艦を沈めるには戦力が圧倒的に足りなかったわけさ。それに海軍としてはヨーロッパ戦線に集中せざるを得ず、遠く離れた極東にまで戦力を割く事が出来なかったのさ。

12:Michael Emrys
何言ってるんだ?イギリスはドイツに対しては海軍戦力で圧倒的優位に立っていたし、十分ビスマルクに対して対抗可能だった。一方で極東だと量・質ともに日本が圧倒的優位に立っていたんだよ。それに爆撃機が多少あったとしても、航続距離なんて無いに等しい。護衛機無しで飛ばしたとしても、ゼロ戦の餌食になって効果なんてなかっただろうさ。

13:Peter Larsen

マレー沖海戦は開戦から3日後だろ。対処しようがないし、反撃しようにも準備が足りてなかっただろ。どうしようもなかったんだよ。

14:John Lansford
そもそも、この2隻の主力艦を沈めたのは有名な戦艦どころか軍艦ですらない。航空機なんだよ。それから間もなく、シンガポールは陥落して、イギリスは極東における航空基地を喪失したんだ。どうやって軍艦で航空機を落とせって言うんだ。

15:CJ Adams
簡単さ。軍艦も無い、航空機も無い、つまり反撃のチャンスなんて無いって事だ。

16:Jimmy Mccallum
突然の開戦で混乱してたから、直ぐに反撃なんて出来なかったんだよ。アメリカだって真珠湾攻撃から反撃までに時間が掛かっただろ。




 妥協した

人気ブログランキングへ 応援してくりゃれ

記事のリクエストは→リクエスト掲示板


このエントリーをはてなブックマークに追加 
当ブログのプライバシーポリシー