[外國歷史] 日本戰國時代第一大名是誰?

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台湾人「日本の戦国時代で一番スゴイ大名は誰?」 台湾の反応


1:艾斯 :2007-4-25 22:45
個人的には織田信長だと思う。
信長の支配した領土は戦国時代で一番多かったし。

戦闘様式以外にも信長は日本に多くの変化をもたらして日本人の国際意識を変化させ日本統一に貢献したよね。

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織田信長

織田信長が日本の戦国時代における群雄として姿を現したのは桶狭間(現在の愛知県豊明市栄町)の戦いからだった。永禄3年(1560年)、兵力3000~4000人ほどの織田軍は桶狭間から2kmほど離れた田楽狭間にておいて今川義元率いる約25,000人の大軍に奇襲攻撃を仕掛け、数に勝る今川軍を大敗させた。

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明智光秀

織田信長は智恵と勇気を持ち合わせており、もし明智光秀に本能寺で叛かれていなければ日本は世界大戦において中国へ侵攻せずとも世界最強の国になっていたはず。


2:karl0926:2007-4-26 00:23
確かに織田信長は天下統一の基礎を築き上げた人物として見れば最大の功労者だと思うけど、信長の性格は気難しく目的の為であれば手段を選ばない所がある。だから各地の諸大名は信長の武力に一時的に屈服したとしても、そう遠くない内に謀反を起こしていたと思う。一方で、信長の後継者となった豊臣秀吉は信長と異なる戦略を用いた。信長は身分・性格問わず信長が認めた才能であれば重用したけれど、その手段、残虐非道な行いは悪い効果も及ぼした。豊臣秀吉は軍を動かし戦を行うのは最後の手段と考え、先に交渉による解決を試み妥協をする事で利を得ようとし、戦を極力避けなければならないと考えていた。

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豊臣秀吉

徳川家康との覇権争いでは様々な外交手段を用い、最終的に自らの実母を江戸に人質として差し出し家康を従えるに至った。恐らく秀吉の行った行為は親不孝なものではあっただろうけれど、これによって日本国民は戦乱を避ける事ができ、結果から見れば最善の方法だったと思う。

豊臣秀吉が朝鮮に攻め入った際、そして明帝国と争った頃には既に年老いていた事もあるので、もしかしたら秀吉の考えは変化していたのかもしれない。だからこの問題に対しては色々な方法で研究をして解明していくべきだと思う。


3:異靈煩惱
:2007-4-26 02:35
当然、豊臣秀吉(サル)でしょ。彼は裸一貫から天下を手に入れたわけだし。
でも残念なことに後継者の秀頼が生まれたのはあまりに遅かった。そして豊臣の天下は続かなかった・・・。


4:紅髮傑克:2007-4-26 12:19
個人的には戦国時代の人物はこういった感じで語るべきだと思う。

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徳川家康

戦国において最も影響力を持った3人の人物。織田信長、羽柴秀吉、そして徳川家康。

織田信長は尾張を統一を果たした後に天下布武の道を歩み、隣国三河の徳川家康は幼い頃に信長と過ごした事もあり、信長にとって最も信頼出来る盟友だった。そして秀吉(サル)は一介の浪人であり、信長と出会うまでは時間が掛かった。

ただし、一気に日本全国に名を知らしめた。

簡単に説明すれば、秀吉は信長の一家臣で、家康は信長の盟友(大名)、そして織田家が巨大になってから明智光秀は信長の家臣になった。

本能寺の変で信長は殺されたけれど、秀吉は信長の後を継いで天下を治めた。だけど良い事ばかりが起きるわけではないのが世の常、その13年後に秀吉は病死をしてしまった。

そして家康は大坂城に篭城する豊臣氏を滅亡させ、天下を統一した。そして徳川幕府を開き、江戸時代が始まったわけだ。

この3人は各々の天下を創り上げたけれど、天下はそう長くは続かなかった。徳川家康が開いた江戸幕府のみ、制度を整えた事で260年もの間存続したんだ!


とは言え、他にも戦国時代には名将が居た。例えば

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武田信玄

戦国一の名将、武田晴信(信玄)、通称「甲斐の虎」。

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上杉謙信

そして晴信の宿敵、上杉謙信、「越後の龍」。この二人は互いに宿敵として争いあった。

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本多忠勝

そして戦国最強の武将、本多平八郎(忠勝)。50以上もの戦に参じ、一度も負傷した事が無い男だ。

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今川義元

東海一の弓取り、今川義元。信長に討ち取られた・・・そしてその名声は信長に引き継がれた。

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左:伊達政宗 右:真田幸村

戦国一の猛将、真田幸村。ぶっちゃけ彼は大した活躍はしていないけれど、日本人にとても親しまれている名将で、中国で言う趙子竜(趙雲)みたいなもの。

越前一の猛将、真柄直隆(朝倉家)は唯一本多平八郎と引き分けたけれど、惜しいことに向板三兄弟に討ち取られた。もし生きていればもっと名が知られていたはずだ。名は知られていないが、個人的に真柄直隆は言及する価値がある人物だと思う。

そして東北を統一した伊達政宗。東北一の群雄。


5:艾斯
:2007-4-26 12:34
羽柴秀吉と豊臣秀吉は同一人物で、武家に婿入りした際に藤吉郎から秀吉に改名した。この時、秀吉は25歳だった。そして38歳の時、織田家の家老だった丹波と柴田両家から一文字ずつ取って、羽柴と名乗った。大坂城が完成した1585年、秀吉50歳の時、彼は藤原氏に改姓し、朝廷における最高官位、正一位関白を賜った。この関白の地位は古来より藤原氏が独占しており、藤原氏の系譜である近衛、鷹司、九条、二条、一条の「五摂家」が代々受け継いできた。しかし、秀吉は藤原氏はもはや古いものであると考え、天皇から豊臣という姓を賜り、ここに日本の統治者としての豊臣秀吉が誕生した。

さて、話は変わるけれど、なぜ明智光秀が織田信長を殺すに至ったのか。それは第六天魔王と名乗った男に原因があった。

1:織田信長は逆らう者には残虐の限りを尽くし、改革を推し進めた。一方で明智光秀は心優しい為に殺戮を好んでいなかった。

2:信長は当時日本人が形なりにも敬意を払っていた将軍家を滅ぼした事もあり、将来的に天皇家を滅ぼすのではないかと思われていた。そして皇室から頼まれ光秀が殺害した可能性もある。

3:毛利討伐に当たっていた秀吉の配下に光秀を送ろうとしたりと、明智光秀は信長への恨みを募らせていたのではないか。

4:織田氏が平氏の系譜であり、明智家は源氏(義経)の系譜である事から、二人は本来、不倶戴天の敵だったのではないか。

祖先が敵同士であれば、末裔にも少なからず影響が出るだろうし、事実二人は戦国時代において最終的に敵対関係となった。


6:艾斯 :2007-4-26 13:07
豊臣秀吉は晩年になってから徳川家康の野心に気付いていたけれど、もはや余命いくばくも無い秀吉にとって、抑えるつける力もなく、しかも徳川家康は表面上恭順の態度をとっており、攻め入る口実を与えなかった。そこで豊臣政権の存続の為、政治面においては五奉行を設けた。浅野長政、前田玄以、石田三成、長束正家、増田長盛らが政務を担当し、五大老として徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、そして小早川隆景(隆景の死後は上杉景勝が入った)らが方針を協議した。こうして有力大名達が豊臣政権を運営する事で、豊臣氏の政権を維持し、徳川家康の野心を締め付けようとした。

豊臣秀吉死後・・・
政権内では文官と武官が分裂し、特に文官の石田三成と武官の徳川家康の対立は日増しに激しくなっていった。そして上杉景勝を家康率いる軍が攻め滅ぼそうとすると、石田三成が挙兵し家康を討つという噂が広まった。

そこで家康は次男の秀康を上杉攻めに向かわせ、三男秀忠を中山道に進軍させた(しかし、秀忠は上田城において真田昌幸に押し留められ、関ヶ原の合戦に遅れた)。

その後、東西両軍は関ヶ原で対峙した!!この関ヶ原はかの太閤豊臣秀吉が名を知らしめた墨谷城から5キロほど離れた場所にあった。そして今度は豊臣家の分裂によって起きた合戦の舞台となったのだ・・・。

東西両軍を見れば、戦力的には明らかに西軍(石田三成)が勝っていた。しかし西軍の毛利、吉川家はなかなか動かず、遂には小早川家が裏切り西軍の士気は一気に落ちた。そして勢いに乗った東軍は西軍を追撃し、最終的に西軍は惨敗を喫した。

戦いの後、石田三成は斬首され、西軍側では多くの武将が散った。関ヶ原の戦いの後、徳川家康の勢力はますます強大になり、最終的に大坂夏の陣において豊臣氏を滅亡させ、日本の統治権を獲得したのだった。


7:紅髮傑克
:2007-4-26 13:44
>>5
明智光秀が残虐な信長を裏切るのは当然だろ。まず、織田信長は裏切った浅井長政・久政を殺し、越前の朝倉義景を殺した。そして信長の変態鬼畜野郎は3人の頭蓋骨に酒を盛って飲んだんだ(日本人はお椀に酒を入れて飲んでいたらしい)。

しかもその場に居た家臣達にも振舞ったらしい(何て鬼畜的で変態的なんだ)。

信長は笑いながら言った。「お前達も俺を裏切ったらこうなる。」

その時、その場に居合わせた明智光秀は涙を流しながらこの酒を飲んだらしい。なぜなら、かつて光秀は朝倉義景の家臣だったからだ。亡くなった故人の亡骸をこのように扱った信長・・・。光秀の心情はどれだけ苦しかっただろうか。そして決定的な契機となったのは、光秀の母が殺された事だった。光秀の母を人質として出したというのに、降伏させた波多野秀治・秀尚兄弟を信長が殺害、それに激怒した波多野家家臣によって光秀の母親は殺されてしまった。

これは間違いなく光秀の裏切りの伏線となった。その後、京都へ向かうため数十人の従者を連れた信長が本能寺に泊まった際、突如外が騒がしくなり始めた。

そして光秀は叫んだ。「敵は本能寺にあり!」(ああ、何て素晴らしいんだ・・・)

こうして織田信長は破れ、自ら寺に火を放って身を焼いた。ここにおいて、森蘭丸らも共に命を落とした。しかし、光秀の天下も10日あまりしか続かず、秀吉によって討たれた。

日本の武士は敵に討ち取られる事を善しとせず、自ら潔く命を絶つ事こそ美徳としていた・・・。そして切腹した武士の体を傷つける事はご法度とされていた。


8:blockcolb:2007-4-28 20:52
基本的に、誰が戦国一の大名かは人によってそれぞれだよ。しかも戦国時代というのは中国の三国時代のようにとても長く、初期・中期・末期どの時期でも有名な武将がいたわけじゃん。

織田信長は確かに有名だけれど、他にも武田、上杉、毛利だって凄い大名だった。でも結局は歴史の中でこの人物達にも生・老・病・死が巡ってきたわけさ。まぁ、一つはっきり言えるとすれば、それは織田家には多くの才能が集まっていて、織田家の後は豊臣と徳川の戦いに舞台が変わったという事かな。


9:a2996b:2007-5-1 08:52
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、上杉謙信、毛利元就、伊達政宗・・・などなど、どの人物もかなりの器を持った武将だったよ・・・。ただ運が違った。織田信長はもう少しで天下統一という所で明智光秀に殺され、その後は豊臣秀吉、そして徳川家康は晩年になってようやく天下を手に入れた。

武田信玄は徳川領に攻め入る途中で病死し、上杉謙信も織田家を潰す前に死んでしまった。毛利元就は中国地方統一をした時には余命短く、もはや天下統一を目指せる歳ではなかった。伊達政宗の場合は・・・あまりにも生まれたのが遅すぎた。彼が表舞台に現れた頃には、日本は豊臣家の天下に成りつつあったからね・・・。どの人物も能力はさほど変わらないと思う。ただ運が・・・その先の運命を変えた・・・。

もし信長が殺されていなければ、もし武田信玄が生きていれば、上杉謙信が生きていれば、結果は大きく異なっていたと思う。


10:板本龍馬:2007-5-2 07:28
俺は羽柴秀吉が一番だと思う。信長は戦と人材発掘において優れていて、羽柴秀吉は情報収集と分析に優れていた。


11:黑啤酒
:2007-5-3 01:28
乱世だと色んな人材が現れる。ただ、やはり運も重要だよね。個人的には武田信玄と伊達政宗だけど、大名じゃないけど島左近も凄いと思う。


12:板本龍馬
:2007-5-3 06:20
運で言うなら、竹中半兵衛もなかなか・・・不運だったね。


13:fangfang:2007-6-7 00:17
戦国一と言えば真田幸村だよ。父親の昌幸と共に徳川と対立して、少数で大軍を何度も撃退して名を挙げた。関ヶ原の際も西軍側について、父と共に徳川秀忠の大群を押し留めた。敗戦後も、ひたすら忠義を尽くし大坂冬の陣では「真田丸」として知略・武勇を発揮して攻め入る大軍を敗走させた。そして家康の調略で信濃一国を与えると言われても、これを断った。そして夏の陣では家康の目前まで迫り、この時家康は一時逃げ出したわけだ。真の男とは、人を畏怖させる存在であるはずだ。だから真田幸村こそ戦国一だ。


14:jes872148:2007-6-26 23:46
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は言うまでも無く天下を統一した人物達だもんな。秀吉は戦争で謀略を駆使したし、家康は優秀な配下を集め、恥を忍んで機会を伺った。

上杉謙信と武田信玄も天下統一を行う実力があったけれど、何という運命だろうか、この二人は領土を接していたため、人生の半分以上をお互いの戦いに費やしてしまった。

毛利元就は戦国一の智将だけれど、残念なことに大内家と尼子家に挟まれており、一代では中国(日本の地名)統一が限界だった。もし周りに強大な敵がいなければ、彼が信長の立場になっていたかもしれない!(戦争という面で言えば、まさに毛利元就は天才の二文字に恥じない人物だった)。

伊達政宗は・・・運が無かったとしか言いようがない。もし彼が20年早く生まれていれば、もっと変わっていただろうに・・・。


15:98765432
:2007-6-27 18:00
やっぱ豊臣秀吉だな。


16:板本龍馬
:2007-6-27 09:43
伊達政宗は・・・竹中半兵衛と同じで運河無かった。もし運があれば天下を統一出来たのに。


17:龍仔
:2007-7-3 16:39
>>16
君が言う様に伊達政宗は運が無かった。
だけど、
竹中半兵衛はあくまで軍師であって、大名と比べるべきじゃない。


18:toyota33
:2007-7-4 01:14
戦国時代の日本で誰が一番の大名かって?
結果だけを見るなら、当然徳川家康になるだろうね。彼は真の意味で天下を統一したわけだから。だけど、ここで宿命的な意味で戦国一の大名がいる。それは甲斐の武田家、武田信玄公だ。武田家は日本の甲斐地方を拠点とする戦国大名で、本来であれば上洛する事が出来た大名だった。しかし、北には越後の龍、上杉謙信が居た。そして南には今川義元。徳川家康、そして織田信長という土豪が途中に居たわけだ。

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結局、武田信玄は甲斐から出る事が出来ずに生涯を終えた。自らの父である信虎を追放して家督を継いだものの、上杉、今川、諸大名が居た為天下が取れなかったのだ。特に越後の龍と争った川中島の戦いでは大小合わせて10数回もの衝突を繰り返した。主要な戦役だけでも5回は超えている。

この戦いにおける双方の死傷者は極めて多かった。これによって勢いはそがれてしまい、今川義元はその隙を突いて上洛し、桶狭間において織田信長に討ち取られた。

もし、許されるなら当時の歴史を書き換えて武田信玄公に天下を取らせたい。そうすればどんな日本になっただろう?俺は武田家の天下に歴史を書き換えたい!!


19:a8725422
:2007-8-27 19:56
やっぱ織田信長だろうねぇ・・・。彼が後に続く豊臣秀吉や徳川家康の統治機構の基礎を築き上げたわけだし。

あと、信長は何か秦の始皇帝と被るものがある。

信長は当時の伝統的な支配階級に大きな衝撃をもたらしたわけだし、特に寺院への攻撃、公家への締め付け、そして家臣団の制度化とかを見ると、今のサラリーマンとサムライに類似する所があると思う。


20:jojoamani
:2007-9-7 16:38
信長は残虐だといわれているけれど、長い戦国時代を見ればそこまで際立ったものではない。しかも、信長は外国人を積極的に受け入れていて、宣教師を保護したり、火縄銃を大規模運用したりと、戦国時代に大きな変化をもたらした。その他、美濃・尾張では関所を開放して楽市楽座を進め、この方法で岐阜は一大商業都市となった。そして全国各地から人が集まる事で、信長は全国の情報を獲得する事が出来たわけさ。

信長を暴君と言うのはちょっとどうかと思うんだよね。「怪傑(不思議な力を持つ人物)」こそ信長には相応しい形容詞だと思う。


21:jabbar
:2008-11-27 23:20
俺としては一番は毛利元就だと思うなぁ。その後に武田信玄、上杉謙信、北条氏康とかの大名が続くと思う。


22:samf
:2008-11-29 04:50
日本の戦国時代なんてただの土豪が争っただけで、大きな戦はそんなになかったよ。
そしてこうした人物達と秦の始皇帝は同列じゃない。巨大な象と逃げ回る鼠ぐらいの違いがある。


23:蜀將趙雲
:2008-12-23 20:56
一番は織田信長だな。ただ、信長の没後は豊臣秀吉と徳川家康になると思う。


24:Reiben
:2008-12-25 13:28
武田信玄は死ぬのが早すぎたよ。


25:健~~~~~:2009-1-3 06:20
皆の文章を読んで日本の歴史について更に知識が身についた。





こーいう話は基本的に各々好きな大名とかが居るから結論は出ないもんだね。そしてどの国にも沸く信玄厨

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