太强了,看看他在泗川の戦的骇人战绩

shimaduyoshihiro


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強すぎる・・・、泗川の戦いにおける驚きの戦果



1:义弘sama(義弘sama):2007-9-16 22:50

泗川の戦い

戦果

明・朝鮮連合軍は多くの戦死者を出し、島津軍の報告によると3,8717人、明側の報告によれば8万余りが討ち取られた。この戦いによって島津義弘は「鬼石蔓子」(おにしまづ)と恐れられ、その武威は朝鮮だけでなく、明にまで響き渡った。

勝敗の原因

泗川の戦いでの明軍の数は今もなお不明だが、敗戦側である明の記録によると戦死者は約8万とあり、最低でも8万以上の兵士が投入されたと思われる。これでも戦死者を過小報告している可能性もある。当時、敗戦の将は責任を取り打ち首という場合もあったため、功績は過大に、失敗は過小に報告するのが普通であった。

戦術面では、篭城側の島津軍はもちろん、包囲側の明軍も最低でも数万以上と推測される大軍を長期間養う食糧は無かったと見られ、双方短期決戦しかなかったと推測される。明・朝鮮軍は当初、島津はわずか7000程度のため攻略を比較的楽観視していたと思われる。

戦争:慶長の役
年月日:1598年10月1日
場所:朝鮮国慶尚道泗川城
結果:明・朝鮮連合軍の壊滅的敗北

交戦戦力
日本島津軍・・・明・朝鮮連合軍

指揮官
島津義弘・・・董一元

戦力
7000人・・・37,000人~200,000人前後

損害
200人以下・・・38,717人~80,000人前後

島津義弘によって死んだ武将

朝鮮水軍大将・李舜臣と明水軍副将・鄧子竜、徳川四天王井伊直政、家康の四男松平忠吉、徳川四天王本多忠勝の愛馬、龍造寺隆信、龍造寺四天王、これらの人物達は島津義弘の手により直接的ないし間接的に殺された。

島津義弘が経験した戦役の殆どは少数の兵力で優位に立つ敵と戦うものであり、時には圧倒的戦力差の中戦った場合もあり、これらほぼ全ての戦において島津義弘は勝利を収め、または撤退を成功させており、このような怪物は彼以外に存在しない。

次に薩摩島津家について。皆が島津家と聞いて一番印象に残っているのは島津義弘の四兄弟だろう。この四兄弟は各々が素晴らしい能力を持っており、4人は家中において常に団結し、島津家が九州において大勢力となった過程において外すことが出来ない大きな要素だ。この四兄弟は能力、そして歴史上の評価もとても高い。

そしてこの四兄弟の仲でも最も人気が高いのが、当主であった島津義弘である。

通称「鬼石蔓子」、「鬼島津」と呼ばれた島津義弘は、島津家において最強の武将であった(戦略においては家久が最強だったと思う)。義弘は堅強で冷静沈着、性格も魅力的で家中において特に秀(ひい)でていた。こうした要素こそがあったからこそ、島津義弘は後世において九州一、そして全国においても名将とされる所以となったのだ。

KOEIの信長の野望シリーズにおいても、義弘の武力は上位5位に君臨し、兵科の数値も最も高く、義弘の強さはゲームにも反映されている(ちなみに、加藤清正、立花宗茂ら戦国時代後期の名将も能力的に見直された)。

沖田畷の戦いや戸次川合戦など、多くの合戦は四男の島津家久が指揮してきたが、なぜ義弘は家久よりも有名なのだろうか?

答えは簡単だ。義弘は生涯3回の大戦に勝利し、九州一の名将と称えられたからである。



皆が知るように、義弘が戦場で名を挙げたのは、日向の伊東家と戦った木崎原の戦いであり、500人にも満たない少数兵力で3000人とも言われる伊東家の大軍を打ち破った。日本の戦史においてこうした勝利は数少ない(故に、木崎原の戦いは"九州の桶狭間"と称えられている)。伊東家と島津家は長年に渡って日向の油津港を巡る争奪戦を繰り返した(日本史上、一つの都市を巡って戦った期間としては最長であり、140年に渡って争奪戦を繰り返した)。まず、第一期は伊東家の名君伊東佑国(1450-1485)が手勢18,000人を引き連れ島津家の飫肥城を急襲、しかし新納忠続の守り堅く、援軍の島津忠昌の到着による一戦で戦死した。

それから1485年~1567年に渡って飫肥城を巡る戦いが続いた。そして1568年、伊東佑国の孫にあたる佑経が31日間の戦闘の末、飫肥城を奪還。伊東家は日向全域を治め、45万石、48城にも及ぶ領土を有し、伊東家の全盛期を築いた。

しかし、伊東家の繁栄は5年も持たなかったのだ。元亀3年(1572年)に木崎原の戦いにて島津義弘率いる手勢と戦い、伊東家は崩壊したのだった。それと同時に、義弘の名声は大いに高まり、南九州においては知らぬ者がいない猛将となったのだった。

第二の大戦は、朝鮮侵略において行われた泗川の戦いであり、後に鬼子と中国人に畏怖される事となった。


データ上

日本軍(薩摩軍)8,000人、明軍40,000人以上(一部では20万以上とも言われている)

明軍はかなりの損害を出した。

第三の大戦は、関ヶ原の戦いであり、義弘にとってこの戦は生涯で最も危機的状況であったと言える。家臣である名将たちの多く戦死(長寿院盛淳、島津豊久。肝付兼護、川上忠堅など)し、義弘自身も命を落とす寸前であった。しかし、この島津の退き口こそが義弘の名声を完成させたと言える。

周知のように、慶長の役の最後、薩摩隼人達は撤退の殿を任せられ、これが悲劇へと繋がった。露梁海戦によって島津軍を含めた1万人以上の損害を出し、島津家はその力を関ヶ原までに回復出来なかったのだ。

関ヶ原の戦いにおいて、義弘は1000人ほどの軍で駆けつけており、本人自身も生きて生還は出来ないと考えていたようだ。


島津の退き口



小早川秀秋の寝返りによって西軍は壊滅し、勝敗を度外視した戦いを続けていた島津義弘は東軍(徳川家康側)によって包囲された。ここにおいて島津勢による島津の退き口が開始された。島津義弘は300人ほどに手勢が減っていた中、敢えて敵本陣に向け突撃を開始。そして本陣の横を通り抜けて撤退を始めた。当然の如く徳川家康は追撃を命じたが、退路には捨て奸となった島津の足止め部隊がおり、追撃部隊の指揮官を狙撃した後に足止め部隊は追撃部隊に突撃攻撃を行った。捨て奸となった部隊は自らが死ぬまで敵軍を足止めし、全滅した後にまた新たな捨て奸が配置され、島津義弘本隊を逃げ切らせようとしたのだった。家康側も執拗に追撃を重ねたものの、松平忠吉、井伊直政、本多忠勝らが狙撃され負傷し、最終的に義弘は逃げ延びる事が出来た。しかし、義弘の身代わりとなった甥の島津豊久、長寿院盛淳など多くの名将たちが犠牲となり、生きて薩摩の地を踏めた兵は80名ほどに減っていたと記されている。

ちなみに、光栄のゲームでは長寿院盛淳の数値は普通のものである。しかし、長寿院盛淳は島津家において軍事的にも高い地位におり、越前守山田有信や新納武蔵忠元らよりも地位が高かった。盛淳の最期は壮絶だった。義弘が秀吉より贈られた甲冑を羽織り、10騎で徳川の追撃軍に突撃を3度も行い戦死したのだった。盛淳は自らの血、最後の一滴まで島津家の為に捧げたのである。

いずれにせよ、こうした1000人ほどの軍で関ヶ原で戦い、そして退却に成功した事で島津義弘の名声は高まり、人気は最高峰にまで高まった。上田城において徳川秀忠の大軍を3000人で足止めした真田昌幸親子ですら島津義弘には及ばないのだ。

晩年の義弘は仏教を学び、俗世の事に関わらなくなった。その勇猛果敢な戦い、退却戦によって、義弘は現在生きている人々の心の中で、今もなお「名君」として記憶されているのである。


2:岛津E久
:2007-9-21 19:24
泗川の戦いの結果はちょっと大げさだと思う。明軍側の報告だと損害は8,000人で80,000人じゃない・・・。幾らなんでも、敵(島津)の報告より多く戦死したなんて明側が報告するわけないと思う。


3:名無し@中国
:2007-10-5 10:10
80,000人!?朝鮮に送られた援軍は全員死んだって事になるじゃん。


4:名無し@中国:2007-11-18 23:02
80,000人なんて大したこと無いぜ。明は満州人との戦いで、10,000人の満州軍に50-70万の大軍が全滅させられた事あるからな!(正史に載ってる)。はっはっは!これと比べたら鬼石蔓子なんて大したことないぜ!!!はは・・・。


5:岛津E久:2007-11-24 18:44
>>4
どこの歴史書に記載されてんだよ・・・


6:丧狗代言人:2007-12-3 21:28
>>4
1万人で70万を全滅させた?いくらなんでも大げさすぎないか・・・。


7:名無し@中国:124.243.207
明朝で最も派手に敗北したのは蔚山の戦いで13,000人が戦死したぐらい、その次が泗川で8,000人だろ。8万人?明朝の最盛期ですら一度に投入出来たのは11万人ぐらいだぞ。


8:鬼石曼子:2008-1-8 15:55
お前ら統計的数字ばっかみてんのな。
朝鮮の現地軍忘れてないか。(歴史上だと義勇軍って呼ばれてるけど)


9:『岛津义弘』:2008-2-15 22:18
一説によると、島津軍17,000 対 明・朝連合軍4万(20万)だな


10:『岛津义弘』
:2008-2-15 22:20
ごめん、間違えた。島津側は17,000じゃなくて7,000だった。


11:鬼石曼子:2008-4-13 20:32
島津家の資料によると、
当時の明軍は7万、朝鮮の義勇軍は13万近くだったらしい。
次に戦い終わった後の首級の数

鹿児島方は10,108人
帖佐方は9,520人
富偎方は8,383人
伊集院、6,560人
北郷、4,146人

計38,717人

また、首を取られずに戦場に放置された死体はここに含まれていない。


12:执扇淇奥
:2008-4-14 23:36
ただ倭人が嘘ついてるだけだ。


あ、出来れば日本の戦国時代のゲームに戚継光を入れてくれ。


13:batuucd
:2008-4-15 15:10
泗川の戦いにおいて、董一元率いる軍勢は26,000人、しかも主力として攻撃に加わっていない。だから4万だとか12万なんて説はデタラメだ(朝鮮に送られた明軍全体で8万ぐらいだ。何で12万とかなるんだよ)。島津義弘率いる軍団以外に、泗川全体には日本軍の部隊が2万人近くいた。双方にそんな戦力差はなかった。泗県の戦い(泗川古城)だと川上忠実らが敗れているし。そしつらが撤退して、泗川新城に入場し、明軍は城を包囲した。明軍は大砲を使って城内の島津義弘に雨の如く砲弾を浴びせ、島津義弘は守勢に周って撤退の気を伺っていた。しかし、明軍の火薬庫がたまたま火事になって混乱が生じた為、袋の中の鼠だった島津義弘は勝利の機会を得た。この戦いは明軍のミスが原因であって、島津義弘の力で勝利したわけじゃない。それに、もし明軍の大将が李如松といった名将だったら、島津義弘は確実に負けていた!


14:鬼石曼子:2008-4-17 15:49
>>13
>島津義弘率いる軍団以外に、泗川全体には日本軍の部隊が2万人近くいた。

・・・どこの部隊だよ?

>明軍は大砲を使って城内の島津義弘に雨の如く砲弾を浴びせ

・・・薩摩人も国崩使ってたけど、逃げようとしてたとでも?

>もし明軍の大将が李如松といった名将だったら、島津義弘は確実に負けていた!

さっき、自分で火薬庫が爆発したとか言ってなかったか?李如松が来れば火薬庫は爆発しないのか?李如松は火薬庫を監視するってか?ぶっちゃけ、日本軍の計略だろ?


15:执扇淇奥
: 2008-4-17 18:34
>>14
だから、ちゃんとした将軍であれば、そもそも火事なんか起こさせないっての。


16:定是那贼巢穴
:2008-4-18 09:47
>>15
wwwww
だから、李如松は火薬庫を監視する責任者だったの?って聞いてるじゃん。


17:★霸道天下★
:2008-5-21 16:27
なるほど。明軍は火薬庫が火事になった位で逃走しようとして、追撃されたゴミだったのか。


18:宁龙子:2008-6-6 08:37
明朝は全国から4万の精鋭を集めた。この軍の構成は次の通り。

宣府の精鋭騎兵1万人、大同の精鋭騎兵8千、保定の精鋭歩兵5千、浙江の歩兵3千、四川の劉綎率いる5千、他、これらが朝鮮に援軍として送られた。宣府と大同は総勢2万の軽騎兵で、主に突撃用に用いられた。彼らは軽い甲冑を着込み、長槍、刀を装備し、火縄銃も持っていた。保定・浙江の歩兵は大砲を装備していた。特に浙江の兵は倭寇と戦っていた戚継光の戦術が伝授されており、日本との戦い方を熟知していた。劉綎は長年、南西の夷と戦っており、山岳戦においては豊富な経験を持っていた。そしてこの4万の軍勢を宋応昌と李如松が率い、堂々と鴨緑江を越えて朝鮮に渡った。

>>14
薩摩が国崩を使ったって?
証拠あるの?
数量はどれくらい?いつ、どこで使ったの?
当時の日本人は大砲なんて持ってなかった。高すぎるし、一般的な大名は買えない。天下を統一した豊臣秀吉であっても、形式的な統一であって、基本的に一大名だけで戦力を形成するなんて出来なかった。

もう一度明朝の戦力配置を見てみよう

戚継光の編纂した資料によると、

軍:戦闘兵2,048人

軍艦・雑役、工匠等1,061人

総勢3,109人、



中略

世界で当時最も火器専門の兵士がいたのはどこの国か?答えは中国の明朝で、25,000人もいた。


19:xiao_shi_zi: 2008-7-4 15:23
日本軍は撤退する時に百姓を殺しまくって戦果としたしね・・・どっちも戦果を誇張している。明軍の「鬼石蔓子を討ち取った」っていうのもパチだったし。


19:名無し@中国
:2008-10-8 19:58
正史だと朝鮮に渡った明軍が10万人なのに、一度の戦いで80,000人も死んだの?


20:水云清十郎
:2009-1-19 17:44
島津義弘が強かったのは確実だろ・・・
もし李如松が率いてたとしても、苦戦していたはずだよ。


21:名無し@中国
:2009-1-30 21:41
当時の日本なんて中国と比べたら雑魚だよ・・・。
島津義弘が何で勝った?そりゃ運だ。


22:岛津E久
:2009-2-7 10:26
>>21
運だけで何度も戦を生き抜くなんて無理だろ。


24:名無し@中国

>>22
島津義弘は運で泗川の戦いで勝ち、その為露梁海戦で大敗北をした。運が常に微笑むとは限らないのさ。


23:凌休夕雪
:2009-10-24 12:09
朝鮮に入った明軍は8万なのに、島津義弘一人で全滅させたのか・・・?





KOEIが無かったら中国は島津好きなんて居なかったかもな。共産党の規制が無ければKOEIも正規版を出せるんだろうけど・・・無理だろうな。

色々覗いた感じ、島津大好きな子が一部いるけど、嫌っている子も多かった。台湾の反応は機会あったらする。前の台湾の反応で島津の反応が無かったって悲しんでた人いたしな。

返事

67. 名無しのぱんだ 2011年06月05日 23:15 ID:KuarlWig0
ドメサカまとめブログにも翻訳あったけど、そっちのは楽しい訳になってたよ
意訳をもっと効かせるといいのかも?


一応バイエルンサポのフォーラムも読んでたけど、あそこ英語だったんだ。ドイツの反応に絞ってたから避けたんだよね。

愛国日本青年さんへ

橋本内閣どうたらこうたら、という書き込みを何度も、そして最近の記事全てに書き込みし、大変迷惑というかウザイです。全て下書き状態で保存しておりますので、この警告を無視した場合、auセキュリティセンターとかいう所に通報します。その場合は、auからお手紙が届くのをお待ち下さい。いい年こいて恥ずかしくないの?




信長協奏曲 4 (ゲッサン少年サンデーコミックス)

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