十三夜の月は十分に夜道を照らし、私と一緒に家路を急いでいた。
 足早に白皇学院の広大な敷地を抜け、振り返えると時計塔に月がかかっている。
 自然と笑みがこぼれた。
 ハヤテ君は、しきりに私を家まで送ると言ってくれたけど、私にはちょっとだけ一人の時間が必要だった。それに……、その、もしもよ? あくまでも、もしもなんだけど、ハヤテ君と、そんな風な雰囲気になったりしたら……、今日の私は流されてしまうかもしれないから。
「……ふぅ」
 もう、駄目ね。そんな事を考えるだけで顔が熱くなるのが分かる。
 私はナギからの誕生日プレゼントの腕時計(ブルガリだそうだけど、有名なの?)に目をやり、直に午前1時になろうとしているのを確認した。一応、お義母さんには連絡を入れたけど、多分まだ起きて待っている筈。そんな女性だから。
 私は左手に持った正宗を持ち直し(でないと、ハヤテ君は納得しなかった)、右手にはハヤテ君のクッキーを抱え、更に速度を上げた。

 16歳になった私を、月だけが追いかけてくる。


◆◆◆


「お帰りなさい。ヒナちゃん」
 思った通り、お義母さんは起きて待っていた。
「ごめんなさい。遅くなっちゃって……」
 そう言ってリビングに上がると、お義母さんが珍しく居間のテレビを観ていた。こんな時間に、お義母さんの好みの番組なんてあったかしら? 不審に思い、何気なく画面に目をやった。
「!」
 そこには派手な衣装に身を包んだ、ピンク色の髪の少女が歌い踊っていた。思っていたよりずっとノリノリで、観客もかなり盛り上がっている。早い話が『ひな祭り祭り』での私が映っていた訳で……。
「な、な、何よこれ?!」
「これ? よく撮れてるでしょ。花菱さんがプレゼントしてくれたのよ」
 嬉しそうにお義母さんが答える。
 私は素早くリモコンを奪い去り、再生停止。DVDを没収した。
「酷い。ヒナちゃん……」
「酷くありません!」
 うるうると涙目になるお義母さんを後目に、私は美希達、動画研究会のメンバーをどうしてくれようかと考える。
「全く、あの娘達は……」溜め息混じりに絞り出した声にお義母さんの声がかぶさる。
「でも、良いお誕生日会だったわね」
「そ、それはそうだったけど……」
 美希の手筈で、思いもよらない位に大掛かりな誕生日会になってしまったけど、確かに良かったかも。皆も楽しそうだったし。しかし、
「絶対、これだけの筈ないわよね……」
 私はDVDに目をやり、果たして、どれほどのデータが美希達の手に渡ったかと考え、憂鬱になった。
「そうじゃなくて、あ・や・さ・き・君」
「あ……」
 お義母さんが、人差し指でリズムをとりながら指摘した。
 途端に私は真っ赤になる。それ位わかる。だって、耳が信じられないくらい熱いもの。
「べ、別にそんな……、普通よ普通。特別なことなんて何もなかったんだから」
 私はお義母さんに、ハヤテ君お手製のクッキーを見せて、いたって普通だった事をアピールする。けど、お義母さんは意味深な微笑みを浮かべて、サラリと言った。
「だって、今夜のヒナちゃん、凄く可愛いんだもの」
 ――っ!
 何か、何だかわからないけど負けた気がする。しかも勝ち目も全くない気がするのは何故だろう?
「これでもお義母さんなんだから、ヒナちゃんのコトなら何でもお見通しよ」
 ソファーの上で、ボディブロウを食らったボクサーの様に動きを止めている私を眺めながら、お義母さんは楽しそうに笑った。
 そう、この女性は十年前、私とお姉ちゃんを受け入れてくれた人。優しい、優し過ぎる女性。勿論、私も大好きで……。
 その時、ハヤテ君のアノ言葉が私の頭を掠めた。

『でも…今いる場所(ここ)は… それほど悪くはないでしょ?』

 お義母さんは、ハヤテ君のお手製クッキーの出来に感心して、一つ二つと摘み「これは、お茶を入れないと勿体無いわね」と台所に向かった。その背中に向かい、私は衝動的に語りかけた。
「あ、あのね……」
「何? お紅茶の方がいいかしら?」
 小首を傾げながら振り向いたお義母さんは、私の剣幕に少し驚いて、目をパチクリさせる。けど、私はそんなことにはかまわず、今まで心に秘めてはいても、実の両親への想いから口に出来なかった気持ちを唇に乗せた。
「お、お義母さん……。い、今まで、その、私達を育ててくれて……あ、有り難う……」
 お義母さんの瞳が更に大きく見開かれる。私は私で、こんな言葉位じゃ伝え切れない程の想いがあるのに続かない。
「ええと、あのね……」
 もどかしさにじれて、私はお義母さんの傍まで寄る。すると、いきなり抱きしめられた。
「きゃっ!」
「ヒナちゃん……」
 私を強く強く抱きしめた後、ゆっくりとお義母さんは身体を離し、私を正面から見つめた。怖いくらい真剣な瞳。けど、右手は優しく私の髪を撫でている。それは遠い昔、独りになる事を不安がる私をあやした優しい手。私もお義母さんを見つめ、言葉を待った。
 すると、
「幾らなんでも、結婚はまだ早いと思うの」
「へ?」
 予期せぬ言葉に私はあっけにとられた。
「確かに綾崎君はいい子だと思うけど、二人共まだ16歳だし、せめて婚約して……」
「え、あの、その、お義母さん?」
「それにしても、雪ちゃんよりヒナちゃんの方が先にお嫁に行くなんて……。雪ちゃん、そんなにモテないのかしら?」
 モテないと思う。
 例外的に薫先生を思い浮かべたけど、薫先生の為にも結婚は止めた方がいいと思った。実の妹としては、流石に、この評価はどうかと思うけど。
 じゃなくて、
「お、お嫁になんて行かないわよっ!」
「じゃあ、綾崎君がお婿さんに?」
 違う!
 ……何よ、その残念そうな顔は?
「あ、あのね、お義母さん……」
 私は、いい加減、勘違いしているお義母さんに説明しようとした。が、お義母さんは、もう一度私を抱きしめ、こう囁いた。
「有り難う、ヒナちゃん。私をお義母さんにしてくれて……」
「あ……」
 少し涙ぐんでいたかもしれない。お義母さんも。私も。


◆◆◆


 ベットのスプリングが軽く軋む。パジャマに着替えた私は、まだ少し湿っている髪をかき揚げて、窓ガラスに映る自分の姿を見やった。
 少しは女の子らしくなったのだろうか? 美希なんかに言わせれば「あれで実質、中身は男の子みたいなもんだし」なんて言われる私が。
「ふぅ」
 コロンとベットに転がり、軽く目を閉じる。すると、胸の中に時計塔での事がじんわりと染みてくる感じがした。
 そう、私はハヤテ君が好き。この想いは確かなもの。けど、その想いを真っ直ぐハヤテ君に伝える事は無いと思う。少なくとも今は……。
 だって、彼女と約束したんだから。
 瞼の裏に、小動物の様な、それでいてどこか逞しい西沢さんの面影が浮かぶ。
 女の子。本当に女の子よね。純粋で一途で、それでいて臆病で……。
(どうしたらいいのかな)
 胸が苦しい。
 ハヤテ君への想いに気付かなかった時とはまた別の何かが、胸を締め付ける。
「ああ、もう!」
 私は腹筋だけで起き上がり、窓から外を眺めた。あの時と同じ月が浮かんでいる。ハヤテ君が連れ出してくれた、テラスから見たあの月と……。
「あ……」
 確か、あの時の月もこんな感じだった。
 不意に十年前、住む家もなく、お姉ちゃんと夜の街をさ迷った時の事が脳裏によぎった。寒くて、お腹がすいて、悲しくてどうしょうもなかったあの時。
「ほーら、ヒナ。あの月、お饅頭みたいだよ」
「……ちょっと欠けてる」
「ごっめーん。お姉ちゃんが少し食べちゃった」
 まだ高校生だったお姉ちゃんは、本当にくだらない事を言いながら私の前を歩いていた。唯一、差し押さえを免れた愛用のギターを背負って。
 私は、自分が何故こんな目にあうのか分からなくて、私達を置いて逃げたお父さん達が信じられなくて、この世界全てを恨みかけていた。けど、
「ねぇ、ヒナ」
「……」
 そんな私の心を見抜いたのか、それとも、今にして思えば単なる気まぐれだったのか、お姉ちゃんは私を振り返り、ニカリと笑い、こう言った。
「大丈夫。私がヒナを守るから」
「!」
「だからさ、そんな顔しなさんな。誰かを嫌いになるヒナは、お姉ちゃん嫌いだな」
 当時もお姉ちゃんは滅茶苦茶だったけど、その言葉は私の琴線に触れた。私はお姉ちゃんのコートにしがみつき、ひたすら頷き、お姉ちゃんは、そんな私の頭を撫で続けた。
(嫌いになんかならない)
 人の心は儚く弱い。些細なことで壊れ、二度と戻らないこともある。
 それは大事な大事な私の心(なか)に生まれた結晶。
 この気持ちを抱えて進んでもいいの?
 夜空に浮かぶお月様は何も答えてはくれなかったけど、不思議と私の気持ちは落ち着いた。


◆◆◆


 目覚めは爽快だった。私は身嗜みを整え、家を出る。
 足元は、お気に入りの赤のコンバース。
 朝の空気はヒンヤリと私を包み込み、そして私はいつもの様に白皇学院へ向かう。いつもより暖かな気持ちを胸に抱いて……。


◆◆◆


 今朝は若干登校する生徒の数が少ない。しかも、祭りの後特有の気だるい空気が漂っている。
 まぁ、仕方ないかな。飾りや機材の撤収で、一、二限は潰れてしまうのが通例の様だし。
「おはようございます。会長」
「あ、おはよう」
「昨夜のライブ、スッゴく素敵でした(はぁと)」
 正門を過ぎた辺りから複数の生徒に声を掛けられる。主に話題はライブの件だったけど……。
 適当にあしらいならがら人波を縫い、私は目当ての彼の姿を探す。
 ……いた。
 鼓動が高鳴り、顔に血が上るのが分かる。
(ハヤテくん……)
 深呼吸一つ。
 やっぱり運がいい。少し長めの襟足と見慣れた執事服の後ろ姿。隣りには小柄なツインテールの少女。何か言い争っている様だけど、多分、ナギが登校を渋っているんだろうな。
 もう、まったく仕方ないご主人様ね。
 私は、若干引きこもりの気がある年下の友人を眺め、苦笑する。
「フフッ……」
 ちょっと肩の力が抜けたみたい。ナギに感謝しなくっちゃね。
 何故なら、これが今日の最重要事項。笑っちゃ駄目よ? 女の子にはとっては大切なことなんだから。
 今朝起きてからずっと考えていた。もしハヤテ君に会えたら何て言おうか?
 それは……。
 私は何度も練習した台詞を思い浮かべ、ハヤテくんに向かって走り出した。