2008年05月10日

『ハヤテのごとく!』がギャルゲー的な10の理由

 日頃からギャルゲーの様だと言われ続けてきた『ハヤテのごとく!』ですが、それを真面目に検証しようとは余り考えたことはありませんでした。何故なら、言わずもがなだろうと思ってしまっていたから。

 だが、ちょっと待って欲しい(アカピ?)。

 ちゃんと検証せずに断定して良いものだろうか?
 もしかしたら、他に類似性のあるフォーマットが存在するかもしれないではないか?

 ま、冗談は兎も角、ギャルゲーの定義すら曖昧な状態では何一つ語り様がないので、この場合、AVG(同級生など)やSLG(ときめきメモリアルなど)を基準に考えてみたいと思います。ビジュアルノベルゲーや、RPGでも有ることは有りますが、それを言い出したらきりがないので。


(01)(不特定)多数のヒロイン

 まず、通常の作品に比較して、ヒロインの人数が違う。
 作者自らが「この漫画のメインヒロイン」と呼ぶナギ、マリア(揚げ足をとれば、漫画のヒロインであり、ハヤテのヒロインかどうかは不明である)や、サブヒロイン格のヒナギクに西沢歩。他にも、所謂、フラグが立ちそうなキャラクターは数名存在する(伊澄、泉、咲夜、アーたん、虎鉄(笑))。
 問題は、これら多数のヒロインが、ほぼ一人のキャラクターに好意を寄せる展開が予想出来ることで、唯一、橘ワタルのみが、対抗出来得るキャラクターとして登場しているが(立ち位置ではなく、状況として)、こちらも主人公よろしく、複数の好意のベクトルを得ると言うハーレム野郎であり、かなり綺麗に住み分けられている(一部重複がありますが)。
 普通の漫画では考えられない程のヒロイン数は、要素の一つに数えてもいいと思います。


(02)物語終了の設定が時間(日付)である。

 おそらく、最大の類似点が、終了日時の指定であると思われます。
 幾つかの予想はたてられているものの、現状では明確な終了日時の特定は出来てません。


(03)予定(伏線含む)されたイベント設定

 ゲームにおけるクリスマスや誕生日、その他の大イベントが、かなり意図的に明言(白皇のイベント)されている。


(04)一人称的な展開の多用。

 簡単に言うと、物語の展開が、ハヤテが移動して誰かと(最初のみ)会う。または、ハヤテの存在する場所に誰かが訪れる。の繰り返しで登場人物が増加していく現象を指します。
 勿論、例外も存在し、初期ではクラウスがハヤテに会う前にマリアとの会話していますし(後、薫先生が、ハヤテと会う前にナギと会話している)、最近では、愛歌、文などがハヤテと会う前に描写されています。
 その手の描写を加味しても、やはり、プレイヤーキャラの移動、他のキャラクターと会う。会話。イベント発生の流れと酷似している印象を受けます。


(05)時間遡及の原則禁止

 一人称的であることと≒であるのですが、個人の視点に近い程、描写に時間の制限を受けやすい。(完全な一人称の場合、描写の制限もかなり受けるが、漫画に、完全な一人称は描き難い)
 逆に言うと、時間の制限が強く働く作品は一人称的の場合が多く、結果として(04)を補強することになります。


(06)裏の時間が描写されない。

 (05)(06)は、(04)の補完関係にある。


(07)呼称の変化による好感度の明示。

 通常の漫画でも描写される手法ですが、かなりあざとく使用されています。


(08)各キャラの出没場所の特定化。

 普通の漫画より厳密に規定されてと思います。

(09)攻略の順序がある程度固定されている(可能性が高い)

 ラストはガチだと思うし、歩のフラグが立たなかった場合、ヒナギクのフラグは立たないか、別ルートで立ったかもしれないと少し妄想。


 さて、ここまで書いたところで、既にお気づきの方もいらっしゃるでしょうが、今回、意図的にギャルゲーの定義を提示していません。
 大体、如何にゲーム的と言えども、漫画である以上、違う所も多々ある訳で、幾らでも反論は可能です。
 だって、漫画なんだから。
 ならば、この漫画の『ここ』がゲーム的だと言う所を強調すべき(笑)ではないかと考えた訳です。
 10の理由とか書いておきながら、なんて奴だ(苦笑)。
 あくまでも個人的な意見ですが(苦笑)。

 さて、(ギャル)ゲーム的とは何か?と問われれば、(04)である。
 視点がプレイヤー視点的であることが、最大の類似性だと僕は考えています。
 けど、漫画なんだから、描写そのものは三人称であり、勿論、常にハヤテ(主人公)に寄り添っているわけではありません。
 しかし、それでも、『三人称的』に世界が語られない所が一人称的であると言えます。
 多少、分かりづらいと思いますので例を上げてみましょう。

 一般的なギャルゲーをプレイした場合、初期情報はプレイヤー自身のパーソナルデータに毛が生えた程度であるのが大方だと思います。
 某同級生○などは、オープニングの二時間程を世界の設定の説明に使っていました。
 その手の例外を除けば、プレイヤーが、ゲーム中で会うキャラクターは会って初めて情報が得られる訳です。
 多数のキャラに会い、情報を得て世界は構築されるのですが、逆に言えば、遭遇しないキャラの情報は伝聞の域を出ません。
 キャラA、Bが喧嘩をしたとしても、その場面に居合わせないと状況はプレイヤーには分かりません。キャラAと知り合いの場合は、誰かと喧嘩したことが情報として得られる可能性がありますが、Bを知らない場合、『誰か』すら伝聞で終わる可能性があります。
 仮に(プレイヤーが知らない)Cと言うキャラが世界の秘密を知り、どこがで語る機会があったとしてもプレイヤーには知る術はありません。その場面に居合わせるか、プレイヤーが会うことが可能なキャラが知り、尚且つ、プレイヤーに語る状況が必要になります。
 これが三人称の場合、神様(小説ならば著者)が語る場合があるのです。プレイヤーは知り、ゲームのキャラクターは知らないと言う状況が生まれます(勿論、他のキャラに視点が添っていた場合もだが)。所謂、小説で地の文章で、読者にタネを明かした状況で、作品のキャラは(その情報を)知らないと言う形が生まれます。

 ハヤテのごとく!の場合、多くは、他のキャラの視点で、ハヤテの知らない情報が語られます。
 ただ、それは、世界を語るのとは若干ニュアンスが違うのではないか?と、僕は考えています。
 ヒナギクのハヤテへの秘めた想いや、歩との関係は、ハヤテは知りません。
 そう言う意味では三人称的(漫画なんだから当然だ)なのですが、この漫画の場合、ヒナギクの視点で物語が進みながら、ハヤテの知らない人物が出てこないと言う異常な状態が起こるのです。
 勿論、多少の例外は存在しますが、ハヤテ以外のキャラの人間関係の描写が、ほとんど広がらないと言うのは異常です。
 (05)の時間遡及の話とも被ってしまいますが、例えば、いいんちょさん強化シリーズだった最近のエピソードにしても、先に泉のメイド服姿や、泉父が登場していても構成的に問題ありません。
 ところが、ハヤテの場合、大概、時間通りに描写されるのです(下田シリーズの冒頭は時間遡及している。お陰で読み易い)。ダラダラと(笑)。
 結果、ハヤテと視点を同じくして、読者は瀬川邸を訪れ、いいんちょさんのメイド服を見て、泉父に会うという、ハヤテの体験を追従することになります(確か、泉父は、ハヤテと会う前に描写されてた記憶がありますが、多少の誤差は勘弁。つか、最近は、愛歌さんや、文の登場で法則が崩れがちなもので……)。
 要するに、ハヤテ(及び、ナギとマリア?)以外のキャラがメインで物語が回る時に、強烈な補正がかかると言うか、桂ヒナギクの一人称(正確には、三人称ヒナギクの視点)でありながら、本来なら描写される、半径五メートルの日常が欠落する印象があります(俺様主人公の場合、意外とあったりします。後、主に短編とか。主人公に対するリアクションキャラで構成された作品とでも言いましょうか)。
 つまり、ヒナギクにとって、生徒会役員以外の友人の描写や、剣道部の仲間(部長なり副部長なり。あ、東宮くんがいたけど、ハヤテ絡みだからパスね)の描写がゼロであるのは、群像劇に分類されるであろう物語としては不自然過ぎるわけです。モブであれ、なんであれ。(同様に、西沢さんの潮見高校の描写もないし、咲夜の学校の描写もない)
 勿論、物語的には、なんら問題もないのだけど(いや、実は微妙にある。けど、割愛)、この手の欠落描写が重なることで、まるで、ゲームの攻略キャラの様な、ある種の(桂ヒナギクの物語としては)寸断感を覚えてしまう。
 ゲームでは、その手のモブは、とことん冷遇されてますから(苦笑)。
 この物語的に若干歪な描写に、(05)の時間遡及の不可と、(06)の裏の時間のエピソードの描写の不可が加わると、前触れもなく、突然、あるキャラが現れると言う描写が多発する(ホワイトデイのマリアさんやランニングしていたヒナギク。つか、何故か負け犬公園にいた西沢さんとかとかetc)ことになり、これがまた、ギャルゲー的と言うか、行き当たりばったり感と言うか、そんな物が醸し出されてしまう訳です。

 作為かどうかは別ですが。



 最後に、

(10)ハヤテのごとく!のエンディングは、ヒロインと結ばれることではない(だろう。多分)

 故に、ギャルゲー的ではないと主張する人がいたら、僕は否と答えます(笑)。



 今のギャルゲーは、もう少し、世界(物語)を語る気がするから。


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コメント一欄

1. Posted by 果糖   2008年05月11日 09:34
マンガという媒体は伝達できる情報量がかなり限られるので、主人公以外のキャラクターから派生する要素をいちいち描いていると、作品全体が散漫になってしまうという単純な物理的制約の問題もあるのでは。
2. Posted by グレパン   2008年05月11日 12:56
>果糖さん

 確かに、ある程度までは納得できるのですが、その手のモブが、ほぼ存在しない為に『何故だか、そこに存在する』と言う描写が多くて、書き割りの中で演じられている様な印象が強くて……。
 モブは状況説明であったり、枕であったり、合いの手であったりしますから、省略され過ぎると、少し苦しいかな?と感じてしまいます。
 ギャグ漫画だし、お約束じゃん。と言われれば返す言葉もありません。でも、ヒナギクやワタルの一年時のクラスも知らないのですよ、我々(苦笑)。

 コメント有り難うございました。

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