2019年10月11日

本を読まない人に向ける、まぁ面白い洋書五選

 タイトル通りです。本を読まない人間がこんなサイトを訪れないであろうことは考慮しません。
 というわけで、あまりに分厚い本を除いて、個人的に絶賛している本たちを紹介します。
 特に、海外小説の有名どころは重厚な本が多いので、さっくり読めてかつ爪跡の残る本をと。
 多分に趣味を含んでいますが、基本的に有名な本ばかり読んでいるので、名前くらいは聞いたことあるかもしれません。そういう取っ掛かりも、本を読むきっかけになれば幸いですね。
 嗜好的に青春小説と不条理文学が多いので、参考程度にでもしてください。
 多少のネタバレを含むやもしれませんが、核心には触れないはずです。
 アマゾンにリンクを貼っておくので、気になった方は飛んで詳しいあらすじを御覧ください。

①アルジャーノンに花束を
 https://www.amazon.co.jp/dp/B00WWQPBB8/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
 ドラマにもなった非常に有名な小説なので、一度くらいタイトルは聞いたことがあると思います。
 ただ、この話はぜひ、ぜひ小説で読んで欲しい作品なのです。翻訳の妙が如何なく発揮された素晴らしい洋書です。
 というのもこの話、知的障害を持った青年が知能を得ていく過程で、様々な物を得て、そして失っていくのですが――その最たる表現が、文章なのです。
 物語は彼の日記を追う形で進みます。当初は三歳児くらいの知能なので、言葉に間違いも多く、語彙も簡単なものばかりです。それが知能の向上に比例して文体が変わっていくのですが、その表現が、実に見事で洗練されています。
 原文は英語ですので、幼児が間違えやすいスペルミスなどを使用し、それが徐々に小難しい単語を使うようになりスペルミスもなくなっていく、という表現を取っています。それが日本語の翻訳になるとどうなるか。
 そう、全部ひらがなになるんです。次第に小学生のような文体に変わっていき、子どもを見守る親のような気分で――ある種、見下しながら――読んでいくことになります。
 ところが話が進むにつれ、その立場は逆転します。彼の文体が、逆にこちらを見下してくるのです!
 文体が物語にリンクする小説は数あれど、これだけ文章自体に意味を持たせた物語はないでしょう。
 この緩やかなスイッチは、映画やドラマでは味わえない感覚です。
 小説の面白さを知らない、でもちょっと味わいたい、そんな人には絶品の良書です。どうぞ。

②フェルマーの最終定理/サイモン・シン
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%AE%9A%E7%90%86-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3-%E3%82%B7%E3%83%B3/dp/4102159711
 早速小説ですらなく小難しそうな本が出てきましたが、ジャンル的には歴史ドキュメンタリーです。
 別にフェルマーの最終定理についての論証を細々と説明してくるような学術書ではなく、難解な問題に立ち向かい散っていった――けれども彼らが切り開いた道を後から来た人が進んでいく――『フェルマーの最終定理』を人生の軸にした、それを取り巻く人々の物語です。
 この本の素晴らしい点は、バカでも読める点です。事実、僕でさえ読めました。
 というのも、こんな仰々しいタイトルに見合わず、文章は極めて明解、前提知識も必要としません。
 客観的な視点から書かれた挑戦者たちの試行錯誤は、決してドラマではありません。彼らはただ好奇心から、あるいは自身のプライドからフェルマーに挑もうとしたに過ぎず、長い歴史を見れば点でしかありません。
 けれどもこの本は、そんな点同士を繋ぎ合わせ、一本の線にする試みです。
 数学という字面から想像されるスマートな印象からは想像もつかない、努力と情熱に満ちたこの一冊は、定理が解かれるその瞬間に、フィクション以上のカタルシスを与えてくれます。
 友人に変わった本を聞かれてかっこよく答えたい方におすすめしておきます。僕のきっかけはそれでした。

③ライ麦畑でつかまえて/J・D・サリンジャー
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A9%E3%82%A4%E9%BA%A6%E7%95%91%E3%81%A7%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%81%BE%E3%81%88%E3%81%A6-%E7%99%BD%E6%B0%B4U%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-J-D-%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC/dp/4560070512
 ジョン・レノンを殺した、当時25歳のマーク・チャップマンが読んでいたことで有名な一冊です。
 説明するには難しいというか、とりあえず読んでくれと言いたくなる本なんですが、中学生くらいのうちにパラリと読んで、主人公のホールデン・コールフィールドに共感してしまうと、その後の人生に悪影響が出てしまう恐れのある危険な本です。僕はそうでした。
 なんと言ってもホールデンの語りです。彼の捻くれ飄々とした――あるいはとても真摯な――捉え方は、とても無力で、なんの力もありません。
 ないことを彼自身理解しているからこそ彼は――やっぱり上手く言えませんね。読んでください。
 翻訳版が二つあって、野崎孝訳と村上春樹訳がありますが、個人的なおすすめは野崎訳です。少し古臭い言い回しもありますが、ラストのシーンが光って見えます。読めるなら原文で読むのがいいでしょう。僕は途中で挫折しました。

④タタール人の砂漠/ブッツァーティ
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%A0%82%E6%BC%A0-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3/dp/4003271912
 あまり知らない方も多いかもしれませんが、とても気に入っている一冊なので紹介をば。
 ざっくりとしたあらすじは、砂漠の辺境に飛ばされた将校が、いつ来るかも分からない、そもそも本当にいるのかさえ不明な敵を待ち続け、日が過ぎ、月が流れ、年が経ち、それでも敵は現れず――そんな感じの、とても退屈な物語です。
 面白い洋書を紹介するはずなのに、どうして退屈な小説なんて紹介してるんだと聞かれれば、それは単に、その退屈こそ僕らが日々味わっている退屈なんだと、そっと教えてくれる一冊だからです。
 正直に言って、今回紹介する本の中では少し重ためで、慣れた人向けの本かもしれません。
 けれど、この本を読むべき人間とはまさしく、退屈しのぎに本を読むような人なのです。
 ある種の青春小説と呼ぶべきかもしれません。不条理文学が好きなので、本を紹介するなら外せないと載せました。社会に出る前に、どうぞ。

⑤異邦人/アルベール・カミュ
https://www.amazon.co.jp/%E7%95%B0%E9%82%A6%E4%BA%BA-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%A5/dp/4102114017
 きょう、ママンが死んだ。でよく知られる名作です。僕の一番好きな小説です。
 実際、パンツ読んでる暇があったら異邦人読んでください。
 語ると口早なオタクみたいになって語りきれないので、とりあえず手にとってみてください。
 とても短い話で、文章も独特ですが読みやすいので、すぐ読み終わると思います。


 と、まぁこんな感じです。
 面白い本がブックオフに行けば百円でいくらでも読めるご時世、よいものですね。

panzer_orange at 17:06|PermalinkComments(0)その他 | 作品批評

2019年08月05日

ドラクエⅤ(あとポケモン銀)について幼少期の思い出を自分語りするだけ

 明日か明後日か、なんにせよ近いうちに、ドラクエの映画を観に行くはずなので、その前に僕の個人的なドラクエへの想いをここに残しておこうと思います。意味合いとしては振りですが、もしかするとそうでもない可能性もあるので、一縷の望みと退路を断つ意味で、自分語りです。

「Ⅴに思い出深い人間ほど観るべきではない。思い出深くなくとも観るべきでない」とまで言われ酷評されている映画なので、ぶっちゃけ僕以上に観るべきでない人間はいないだろうなぁと勝手に思っているんですが、やはり作品は作品、観ずに語るわけにはいきません。
 なので観ようと思いました。なんだかんだでドラゴンクエスト好きとしては公開前からずっと楽しみにしていたわけで、どれだけ評判が微妙でも、その程度で懐古厨のファンとしては見過ごせません。

 で、ドラクエⅤです。ゲームの説明は不要でしょう。言うまでもなく神ゲーです。
 ですが、僕にとってドラクエⅤはそれだけのゲームではありません。
 22歳の若造が言うには少しへんてこかもしれませんが、僕の最も古い記憶の一つこそ、ドラクエⅤなのです。このゲーム体験が僕の人格形成にかなりの影響を与えましたし、その後の人生を左右したといって過言ではないのです。
 RPGというジャンル自体は、もう一つの人生体験であり、とりわけドラクエⅤは幼年期から青年になり子供を持つまでの、より濃密な人生の追体験です。大人や中高生がするのであれば、単なるゲームの世界、あるいは自分が歩んできた道のりやそうでなかった人生の体験なのかもしれません。が、当時の僕――カタカナがギリギリ読める4歳児にとってドラクエⅤは、まさしく人生の先取りだったのです。

 僕の最も古い記憶の一つもまた、ゲームです。
「ポケモン銀」でした。幼稚園に入った直後にアニメの影響で親に買ってもらった(であろう。覚えていません)当時、僕はまだカタカナを全部読めなかったことをよく覚えています。
 ポケモン銀は初めてのゲーム体験です。結果的に小学校にあがるまでにプレイ時間がカンストしました。
 なにより鮮明に記憶に染み付いているのは、主人公の自宅でした。
 自宅から出るには玄関を出る必要があります。ですが、4歳の僕には30分以上それが出来なかったのです。
 別に家から出るのが怖かったというわけではなく、ごく単純に、出る方法が分からなかったからです。当時のグラフィックでは玄関が赤いマットとして描かれていて、その一歩下に抜ける必要があるのですが、僕にはそのゲーム的な記号が何を指し示すのか、皆目検討も付かなかったのです。
 結局、家の中を飽きずにぐるぐると歩き回り、偶然下を押したことで、広い世界を迎えることができました。
 何十分もかけ辿り着いたワカバタウンの風景は、それまでの狭苦しい自宅とはまるで違っていて、どこまで歩いても壁にぶつからず、地面は舗装され白く、海は青く揺れ、何件もの家が立ち並ぶ、とても感動的な街並みでした。
 僕にとっての最も古い成功体験は、このときでした。この感動的な原風景が、僕に元気をくれます。

 そして初めてのポケモンにはヒノアラシを選び、ゲームを終えようとしたところで二度躓きました。
『レポート』とはなんだろう?
 意味がわかりませんでしたが、そのままゲームを切ると初めからやり直さないといけないことを知っていた僕は、『レポート』こそ保存機能だと直感的に理解していました。
 ですが、僕はレポートが出来ませんでした。
 ボタンを押すと、こんな感じの文章が表示されるのです。

『レポートをうわがきします。もとあったレポートはきえますが、よろしいですか?』

 全然よくありませんでした。きえるという言葉に悩み続けた僕は結局、母親に泣きついて大丈夫かと訊ね、何かを失わなくては何も得ることは出来ないという教訓を得ました。物事は諸行無常、ずっと残り続ける、変わらない物など、この世界にありはしないということも。

 僕にとってポケモンとは、カタカナを教えてくれて、世界は広く、また少し残酷な一面もあることを身を以て体験させてくれた、思い出深く、時々ありがとうと言いたくなる、そんなゲームです。

 そしてドラゴンクエストⅤです。なぜ、22歳1996年生まれの僕が、ドラクエⅤにこれほど心惹かれ感慨を感じているのかという疑問です。僕が生まれる一年前にはⅥが。4歳になったときには、PSでドラクエⅦが発売しているのに。なぜ、僕はドラクエⅤをやっていたのか。
 全ては叔父の影響でした。叔父はゲーム好き(後から知ったのですが、叔父はドラクエ好きだったようです。後に僕がⅨを買おうとしたとき、クリアしてからでいいから貸してくれと、ドラクエ代を渡してくれました。本当にありがとうございます。あと、Ⅹのときそのままネコババしてごめんなさい)で、僕がゲーム好きということを知って、なんとスーパーファミコンとドラクエ一式を僕にくれたのです。
 スーパーファミコンで発売されていたドラクエは、「Ⅰ・Ⅱ」「Ⅲ」「Ⅴ」「Ⅵ」でした。それが全部を僕にプレゼントしてくれたのです。(他にも鳥山明繋がりか、クロノ・トリガーもありました)
 叔父としては最近発売されたPSのドラクエⅦをやるので別にいいということなのでしょうが、それでも、当時の僕にとってこのドラクエ群は、かなりのブレイクスルーとなりました。

 早速家に帰ってドラクエを起動するのですが、困ったことがありました。
 どれからプレイすればいいのか、わからないのです。
 RPGの基礎はポケモンで学んでいるので、ひとまず順番に「Ⅰ・Ⅱ」から起動しますが、いきなり躓きます。なぜかタイトル起動時に、ⅠかⅡのどちらかを選べと選択肢を突き付けてくるのです。
 SFC版ドラクエⅠ・ⅡはFC版の二作を同時収録したお得なリメイクなのですが、そんなことなど露知らずの当時の僕は、その選択肢に戸惑いを隠せませんでした。
 一応Ⅰを選んで少しプレイするのですが、ちょっと遠出をするとドラキーに殺されて城に戻される。
 難しい――Ⅱも同様でした。初期のドラクエは、4歳児には難しすぎたのです。

 すると順番的にⅢはどうでしょう。完璧なゲームバランス、どの職業を仲間にしてもクリア可能な絶妙な難易度に加えて、ルイーダの酒場には最初から戦士・魔法使い・僧侶というバランスの良いパーティが揃っています。これならどうでしょう。
 ですが無理でした。実はⅢはかなり後になってようやくクリア出来た、少し苦手な部類のゲームで、年をとった後のプレイでもロマリアを超えたあたりで急激に難易度が跳ね上がり、シャンパーニの塔で挫折しました。
 とはいえ当時の僕は、そもそもそのレベルにすら到達できませんでした。
 仲間とキャラメイクという概念を、これっぽっちも理解できなかったのです。
 結局、一人で冒険に旅立ち、スライム8匹になぶり殺され、ゲームのスイッチを切りました。

 そしてようやく、ドラゴンクエストⅤ天空の花嫁に手を伸ばします。
 漢字はあまり読めませんでしたが、プレイをすると、動かせる主人公が子供なことに気付きます。
 そう、子供でした。当時の僕と同じくらいの、看板に書いてある漢字が読めない子供です。
 この主人公は、僕だ。もう一人の僕なんだ――ストーリー性の薄いポケモンでは全く気にしなかったことに、ようやく気付きます。この紫色の服を着た主人公は、僕なんだと。
 初めの町サンタローズでは、父親のパパスを追って洞窟探検に挑むのですが、ここで負けると、洞窟手前で大人に助けられる描写が入るのです。
「無理をするなよボウズ」
 共感が僕を冒険に駆り立てます。どこか大人の保護下に置かれている安心感と、そのままではいけないという感覚が混じり合って、ボタンを押す指に力が入ります。

 そこから物語は劇的に動いていきます。同じ子供であるビアンカとの二人きりの廃城探索、妖精の世界での不思議な体験、そして攫われた王子を探す父を追って城の北東へ。
 全て大人の保護下にはない冒険。それでも、その先にはいつだって父パパスがいました。
 その父が殺され、十年が経ち大人になったとき、僕はようやく思います。

 ――あぁ、僕はこれからこういう世界に出ていくんだな、と。

 ドラクエⅤの思い出で最も記憶に残っているシーンといえば、皆さんはなんでしょうか。
 塔でのブオーン戦でしょうか、因縁のゲマとの対峙でしょうか、結婚イベントでしょうか。
 僕は違いました。一番心に残っているのは、滝の洞窟です。

 滝の洞窟は、結婚イベント後半の、ビアンカと再開し水のリングを探すダンジョンです。ボスもおらず、本来はビアンカと二人で幼少期の思い出を語り合うイベント的な洞窟で、特に難しいところもなく、直後の結婚イベントの前フリのような印象だと思います。
 ですが、僕にとってはそうではありません。滝の洞窟は、史上最悪に難関なダンジョンでした。

 水のリングがどこにもないのです。どこを探しても、求めている物が見つからないのです。
 このダンジョン、実は順路通りに進むとフェイク要素として重要そうな場所に別のアイテムが落ちていて、他のルートを探すことになり滝の裏側を見つけることになるですが、当時の僕にはその隠し場所が全く見つけられなかったのです。
 結果的に、僕はこのダンジョンで何時間も探索し、レベルも30近くなったところで一旦ギブアップ。攻略本を買って再度挑戦しようと思っていました。
 ところが、再度ゲームを起動したとき、嫌な音楽が流れました。おなじみの音楽です。
 そう、冒険の書1がおきのどくにも消えてしまったのです。

 これが僕の最も古い記憶であり、根深いトラウマです。

 とんでもない喪失感を味わいながらも、それでももう一度初めからやり直す……駄目だったとしても、またやればいい。諦めない限り、先は続く。そんな涙の出るような教訓です。
 二度目のプレイはスムーズでした。ポンポンと、慣れた手付きでこなしていき、滝の洞窟まで進み、今度は呆気なく滝の裏に隠された道を見つけます。
 呆気なく、いえ、感動していました。昔の自分を超えたことに、しばし感動を覚えたのです。
 その直後の未だ見ぬ風景は、ちょうどあの結婚イベントでした。
 ビアンカか、フローラか――ですがそのときの僕はそのことよりも、昔の自分が見ることのできなかった風景を見ることが出来た、これからその先を見ることが出来る――そんな感動に、少しだけ、いやかなりセンチメンタルになりました。当然ビアンカを選びました。当然だよなぁ!?

 はっきり言って、僕にとってのドラクエⅤのエンディングは結婚式でした。ラストダンジョンは滝の洞窟で、それ以降の冒険はエピローグのようなものでした。もちろんジャミに石化させられたときや、息子が勇者だと知ったときの高揚、ブオーンの大きさと強さへの驚き、終わらない冒険と広い世界に飽きることなくズンズンと楽しんでいましたが、ゲームを通じた体験という意味で、滝の洞窟とその先の結婚式というのは、あまりにもドラマティックで、それでいてとても個人的な、僕だけの体験です。

 ゲームには一人ひとり別の物語があると言いますが、僕もその一人です。
 ゲーム外でのハプニングも含めた、一人だけの特別な体験――それを含めたドラクエⅤの思い出です。それがあるからこそ、僕にとってドラクエⅤは、特別なゲームなんです。

 願わくば、この細やかな思い出を壊されないことを願って。当時の自分に花束でも。

panzer_orange at 08:21|PermalinkComments(0)日記帳 | その他

2019年07月30日

滝本竜彦論「アイロニーの役割について」

 去年なんやかんやで滝本先生についてのレポートを書いたので載せておきます。 
 なにかの参考にしてください。前回のゼミ発表の物と併せて読むといい感じです。
 今見ると正直言葉の意味でゴリ推してる感が否めませんが、評価Aだったんで、多分大丈夫です。

 滝本先生の作品群における特徴の一つは、アイロニー(皮肉)というか、パロディに近い印象ですね。小説のフィクション性と現実との間に線があることを意識的に捉え、その中間に位置する作者という立ち位置を現実と虚構に織り交ぜ、互いにパロディ化することで、私小説的な語りと娯楽性という水と油をマヨネーズにかき混ぜ合わせているわけです。
 興味深い点は、最後の一線を取り払うことは出来ないことに自覚的な点ですよ。自覚的なんです。
 この観点から見ると「超人計画」はかなりその線が曖昧で、エッセイというジャンル自体をメタ的に、巧みに利用したのが面白いんです。技巧的に最も難しいことをやってたのは「超人計画」だと想いますよね、ねぇ、皆さん。
 先生の最新作『ライト・ノベル』がその一線に踏み入ったのは、かなり衝撃的でしたね、皆さん。
 すると先生の作品で異質なのは、実は「ECCO」なのかもしれないですね。続報に期待です。
 
 この記事は何の許可もなく勝手に引用していいので、滝本作品を考察する方がいれば、ぜひとも発展させていきたいところです。セカイ系の文脈のみで語り尽くせるほど、滝本竜彦は浅くないですよ。



滝本竜彦「NHKにようこそ!」におけるアイロニーの役割

 

                     石山雄規

 

 

 滝本竜彦の小説『NHKにようこそ!』(角川書店、二〇〇二・一)は、滝本自身の引きこもりという経験を反映させた、ある種自伝的な要素を含む物語であるが、作品の持つ主題と作家の意図に関して強く意識的に構造された作品である。同作品は多様なメディアミックスがなされ、漫画化及びアニメ化という形で、しばしば作品構造や脚本そのものを変えながらも、作品の持つ本質的な問いかけと娯楽性は受け継がれている。

 本稿では、特に原作である小説版において、漫画版との比較を通し、滝本の目指した娯楽性への志向と、それを可能にする作品構造から、主題を新たに読み解いていく。

 本作の持つ独特な特徴に、風刺性――アイロニー――が作品の根底を流れている点にある。それを示す根拠は、枚挙にいとまがない。引きこもりである滝本が引きこもりを主人公とした物語を描くという、ある種の入れ子構造が(物語事前に内包する形で)組み込まれている。これの特異なのは、作品内部に構造を配するメタフィクションの類ではなく、むしろ外枠であるべきの滝本自身が作品の一部として構造に入り込んでいる点にある。この点を鑑みるに、この志向性はむしろ積極的に私小説の延長線上に作品を置こうとするものである。(作品研究において作家の人物像は無視し、作品単体によって完成されたテーマを掘り下げていくことは作品研究の基礎であるが、本作は特殊な構造を持ち、それ自体が意味を持つため、例外的に取り上げる)

ところが、滝本本人が語るように、滝本は作品を私小説に分類付けようとは考えなかった。

 

僕はそのころの流行語だった『ひきこもり』や、その他諸々の時事ネタを取り入れた娯楽小説を書くことにしました。人を惹きつけ楽しませ力づけるのが娯楽なのだと僕は思っています。(中略)あとは私小説的な自分語りに陥ることなく、起承転結のクッキリした娯楽作品スタイルを貫徹すれば、この作品はパーフェクトになる! 僕はそう信じ小説を書きあげました。しかしその試みは少し失敗したように思えました。
       (角川書店、二〇〇七・七)[i]

 

 本作が目指したのは『娯楽小説』であり、先に述べた入れ子構造と私小説への志向性という考察は、ある種誤解であると言える可能性がある。滝本は引きこもりという自身に繋がる要素を取り入れつつも、作品と作者との間には一本の線を引いており(少なくともそうであろうと考えている)、その線を超えない(私小説的な自分語りに陥る)ことこそ、作品が単独として完成する上で必要な姿勢であると理解し、そして失敗に終わっている。逆説的ではあるが、滝本は引きこもりという題材を選んだ以上、本作が娯楽小説以上に、私小説になり得ることを充分に理解していた。だからこそ「私小説的な自分語りに陥ることなく」と述べるよう、自身と作品を切り離そうと試みたが、それは叶わず、二つの関係性は曖昧に入り混じり、吸収されている。

 漫画版の連載が始まった際も、滝本はその失敗を払拭しようと試みるも、再び失敗に陥る。

 

まもなく漫画版の連載が始まりましたので、今度こそ、娯楽漫画のスタイルを貫き通すのだ!(中略)しかし、しかし……きっと墜落したのでしょう。
       (角川書店、二〇〇七・七)

 

 漫画版連載の際、滝本は「私小説的な自分語り」――すなわち作者本人と作品とが分かれ、単独として成立する娯楽作品を再び志向する。そのため、小説版と漫画版では登場人物たちの根幹の設定から異なるところもあり、小説版を踏襲しつつもそれを敢えて戯画的――アイロニー――に処理することで、「私小説的な自分語り」から娯楽への転換をなしえている。

 そして注目すべき点は、このアイロニーは、小説版と漫画版との違いに限らず、作品全体を通じて根幹を流れている非常に重要な要素であり、それこそが滝本が本作を娯楽小説として成立しうると考えた要因である。本作の持つ作者との関係性における入れ子構造は、決して完全に否定するよう志向されたのではなく、むしろその要素を積極的に取り入れているのである。

「人を惹きつけ楽しませ力づけるのが娯楽なのだと僕は思っています。」と語る通り、本作には様々なエピソードが配置されている。自殺オフ会やネットゲーム、マルチ商法などの時事ネタを中心にメイド喫茶、声優、ゲーム制作など、サブカルチャー的要素がふんだんに盛り込まれている。この点において、引きこもりもまた時流に乗った消費されるべき娯楽要素の一つである。

 しかしここで、滝本本人による、作品テーマの解説を読んでみることにする。

 

で、そのどうやら自我というのは、思考と抑圧と投影というシステムでできているらしく、自分以外の誰かが、自分を苦しめているみたいな……というのが抑圧と投影という考え方なんですけど、その自我を作る原因の抑圧と投影のシステムを『ネガテイブハッピー・チェーンソーエッヂ』と『NHKにようこそ!』では、チェーンソー男とか、NHK(日本ひきこもり協会)みたいな、外部にいる悪者が僕を苦しめているみたいな、で、その自我を作ってるシステムみたいなものをね、理解する眼差しがもともと僕のテーマですので、
  (角川書店、二〇一〇・二一二頁~二一三頁)[ii]

 

 ここで注目すべきは、先の引用にもあった、「あとは私小説的な自分語りに陥ることなく、起承転結のクッキリした娯楽作品スタイルを貫徹すれば、この作品はパーフェクトになる!」という目的とは別に、作品に対して娯楽とは別種の主題を取り入れている点である。

 この主題――「外部にいる悪者が僕を苦しめているみたいな、で、その自我を作ってるシステムみたいなものをね、理解する眼差しがもともと僕のテーマですので」――を最も端的に示すのは「悪と立ち向かう戦士(=自我を形成するシステムとしての内外部からくる葛藤と理解)」という作中に存在する言葉にある。この「悪と立ち向かう戦士」の概念は、そのまま小説版において物語終盤、然として主張するに至るが、ここに一つの疑問が湧き上がる。「悪と立ち向かう戦士」を通すことで表層化する主題と、自身と作品とを切り離し、私小説的ではなくむしろ娯楽小説として作品を完成させるという狙いの、決定的な矛盾である。

前者の主題を描くのであれば、それは個人的な問題と密接に関係する。それは極めて私小説的な要素を含む。反対に、引きこもりという要素を単なる一要素にすることで、私小説の延長線上から脱却するという狙いは、前者とは明らかに相反している。

 故に本作が破綻していると結論付けることも可能であるが、まだ謎は残っている。

 作者である滝本は、これら相反する二つの要素を、かなり自覚的に取り入れている点である。つまり、滝本はこの矛盾して見える二つの要素を、両者共に取り入れながらも、私小説的な自分語りをしない(滝本本人と作品とを切り分け本作単独でテーマを成立させる)ことが可能であると考えているのである。

 ではこの一見不可能にも見える二つの要素に由来する矛盾を、一挙に解決し得る決定的な要素であり本作の根底を占めるものについて詳述していく。

 それは漫画版においても、先の引用にもある通り、小説版を書いたときと同じ目標とテーマを掲げたことからも垣間見える。そういう意味で先の引用にある漫画版の「墜落」とは、決して小説版における試みの失敗とは質の面で同質とは言い切れないと推察される。

 小説版ではNHKの消滅=自己の死とその否定という構図によって私小説と娯楽小説の矛盾が決定的となり、それとは別に漫画版では意志によって人が変わるというニーチェの超人思想に相当する概念を持ち出す。

 

超人ロードは円環を描いているらしく、私は何度も同じ道をグルグル瞑想しているようだった。(中略)

「……でもそれも、幻なんだろう? また別の夢が始まるだけなんだろう。あぁいつの日にか、この手にキミを再び抱きよせる日も来るだろうしかし君はまたサラリと溶けて消え去るだろう。――これはそういうゲームなんだろう? 死ぬまで続く、もしかしたら死んでも終わらない、君の幻に急き立てられて走るマラソン、それが超人ロードなんだろう?」
      (角川書店、二〇〇六、二一六頁)[iii]

 

 これに見られる嫌疑こそ、『NHKにようこそ!』に流れる最大の特徴の一端である。嫌疑し、嘲笑し、皮肉的に風刺する、アイロニーの姿勢こそ、双方矛盾し幾度も失敗を繰り返しながらも、メディアミックス化の際にその姿勢を崩すことなく矛盾の統合に挑む原動力である。

 そしてこのアイロニーこそ、本作を私小説でありながらも、同時に娯楽小説として成立させる結合役として機能する中心的価値であり、本作特有の特徴である。つまり、娯楽性を求めながらも、意図的に作者が作品に作用するという入れ子構造によって私小説の側面を獲得したことにより、それ自体を風刺的に描くことを可能にし、本来であれば単独の娯楽小説として不用な作家という存在自体に娯楽性が追加されるのである。

 無論、アイロニーは作品構造のみに限らず、作品内容全体にも及ぶ。ヒロインである中原岬は「現実には決して存在し得ない都合のいい美少女」が存在しているという嘲笑と、その前提はやはり現実のものであるという皮肉によって構成されている。また、作中に登場するフロイトやユングの精神分析は主題に密接に絡むにも関わらず、作中で決して肯定的に捉えられることはない。いわんや主題である「悪と立ち向かう戦士(=自我を形成するシステムとしての内外部からくる葛藤と理解)」に関してはその否定という形で嘲笑され物語を終える。

 アイロニーそのものが作品の主題を担うわけではなく、また娯楽性の根幹にアイロニーが置かれているわけでもない。だが、この二つを結びつける強力な要素としてのアイロニーは、本作を理解する上での、一つの役割を果たすであろう。

 

 

引用文献



[i] 滝本竜彦『NHKにようこそ!(8)』二〇〇七年七月 角川書店

[ii]『カドカワキャラクターズ ノベルアクト1』 二〇一〇年 角川書店二一二頁~二一三頁

[iii] 滝本竜彦『超人計画』(二〇〇六年 角川書店)



panzer_orange at 00:12|PermalinkComments(0)作品批評