2006年05月25日

久しぶりの更新なのにこんな話題ですいません。

『livedoor Blog 開発日誌』より
「livedoor キーワードとの連携機能がつきました!」
「記事ごとのタグ入力機能がつきました!」

 えーと、こういうときは「それなんて『はてなダイアリー』?」って言えばいいんでしょうか?  

Posted by papa23mm at 16:40Comments(0)TrackBack(0)日記 

2006年05月02日

日記を書くということ

 こちらでは、本当に久々に記事を書く。ここ半月ほど更新をサボっていて、しかも半月前に更新した記事はほぼ無内容で、「23mmはライブドアを見限って、はてなに乗り換えたんだな」と思われてもしょうがないな。
 でも、僕としてはそんなつもりはなくて、単にこちらで取り上げるほどのテーマを思いつかなかった、というだけのことなんだけれども。
 とはいえ、はてなダイアリーの方はさくさく毎日更新を続けている。あっちには書いて、こっちには書かないというのは、なんでだろう? それをちょっと考えてみたい。

 まず、はてなダイアリーの記事の何日か分を読んでみてもらえれば分かると思うのだが、記事のクオリティーが著しく低い。まさに、「駄文垂れ流し状態」になっている。
 でも、僕は「それで良い」と思っている。そういう文章を書くことが目的だからだ。日記というのはそういうものだろう、ともちょっと思っている。
 あちらでは、「必ず毎日更新する」ということを唯一の縛りにしている。当然、暇な日もあれば忙しい日もあるわけで、内容にもばらつきが出てくる。もちろん、他の人のブログを読むと、毎日更新している人で一定のクオリティーを保っている人もたくさんいる。だから、僕の力不足から、クオリティーが下がっているのも事実。
 でも、僕は必ずしも、クオリティーの高い記事を書くことを目的にしていない、ということもある。

 つまり、僕にとっては記事の質を上げることよりも、「毎日、日記を書く」ということのほうが大事なのだ。
 じっくり考えて書いた記事には、当然ながら、僕自身が色濃く反映されている。それはそれで、意味のあることだ。そもそも、僕自身の考えていることを、ある程度まとまった形で世間の人に提示してみたいということが、ブログを始めようと思ったきっかけの一つだし。
 でも、そこに書かれた文章は、じっくり考えたものであればあるほど、僕にとっては驚きの少ないものになってしまう側面もある。自分の頭の中にあるものを文字にするわけだから、当たり前のことではあるが。もちろん、実際に文字化することによって、印象が随分変わるということはあって、それは面白いことではあるのだけれど、予想の範囲内だなぁと、どうしても思えてしまうというか。
 それに対して、日記という形式では、僕の場合、あまり深く考えずに、思いついたことをポンポン書いていくことが出来る。しかも、「毎日書かなくてはならない」ということにしているので、ネタがないときでも無理やり書いてしまっている。
 そういうことを続けていくと、何か別のものが見えてくるのではないか、という気がしているのだ。ひょっとしたら、自分自身でも、思いもよらない何かが。

 「自分のことは自分が一番よく分かっている」ということは、たいていの場合は正しいのだが、ときには正しくない場合もある。
 ブログなら、コメントやトラックバックでのツッコミが入る場合もあって、そんなときに、ハッと何かに気付くことがある。勘違いが訂正されたとか、そういうことももちろんあるのだけれど、それは、もっと深いところにあるものが掘り起こされてしまったような感覚だ。
 そして、日記というものも、何かを掘り起こしてしまうことがあるんだ、と思う。だから、逆に深く考えてしまってはダメで、なるべく無意識的に書いた方がいい。
 とはいえ、完全に無意識にはなれっこないし、それだけの理由ならば、WEB上で発表しなくたっていい。誰かに見られている、という意識はやっぱりあって、それも大事なんだろうな。
 小中学生のときに、毎日学校に学習記録ノートみたいなものを出さなくちゃいけないということがあって、当時は「メンドーだな」としか思っていなかったのだが、今考えると、あれは今僕がはてなダイアリーでやっていることに近いような気がする。
 読者が、担任の先生から不特定多数の閲覧者に変わってはいるが。

 まぁ、見られることを意識した日記、そしてなるべく無意識に書くことを目的とした日記、そういう矛盾したものをやろうとしていて、なんとか出来ないかなぁと、あれこれ書いているわけだ、僕は。
 で、それを読まされる人のことには、何にも触れていないけれど、僕の書いたことに何がしかの価値があるかどうかは、僕自身にはやっぱりわからないわけで。いや、あるとは思っているけれど、「お前の文章には何の価値もねーよ」と言われたとしても、しょーがないよなぁ、とも考えている。そういう人には、すいませんでした、と素直に謝って、「今後はこんなブログや日記のことなど忘れて、もっと価値のあるものを読んでくださいね」と(皮肉でもなんでもなく)思う。

 それで、現時点で日記を書くことによって、何か見えたものがあるかと問われれば、「それをここで書くほど、僕は恥知らずではありません」とか言って、逃げてしまおう。(なんじゃそりゃ)

  

Posted by papa23mm at 11:39Comments(0)TrackBack(0)日々雑感 

2006年04月14日

最近こちらで更新してませんでした

えーと、ブログ文章術へのリアクションは、こちらでするつもりだったのですが、はてなダイアリーでやってしまったので、興味のある人は4月11日の日記を読んでみてください。
米光さんからもコメントをもらいました。  

Posted by papa23mm at 12:51Comments(0)TrackBack(0)日記 

2006年04月06日

『森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』がBSジャパンで放送予定に

はてなダイアリーの方にも書いたのですが、こっちでも宣伝しておきます。

2005年度メディア・リテラシー特別番組
森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」
BSジャパン2006年4月13日(木)21:00〜21:54放送


これで一応、全国で見れます。地上波での放送予定はまだ決まっていないようですが、今後に期待。
問題は、うちではBSジャパンが見れないこと・・・・・

実家に録画を頼みます(苦笑)。



  

Posted by papa23mm at 16:18Comments(0)TrackBack(0)日記 

2006年04月04日

久々の「ブログ文章術」関連

 久しぶりに、米光一成さんの「ブログ文章術」に絡んでみようかしら、と。 
「一文を短くって言うけどさ1」という記事で、課題が出たので、それをやってみようというわけだ。

お皿ひとつひとつに、それぞれ、ハムや卵や、パセリや、キャベツ、ほうれんそう、お台所に残って在るもの一切合切、いろとりどりに、美しく配合させて、手際よく並べて出すのであって、手数は要らず、経済だし、ちっとも、おいしくはないけれども、でも食卓は、ずいぶん賑やかに華麗になって、何だか、たいへん贅沢な御馳走のように見えるのだ。

という文を短くしてみよう、というのがその課題。簡単そうに見えて、なかなか難しい。
 文意は変えない。そして、出来れば複文を使わないで、単文だけにしたい。(今回の記事の内容にそって考えると、そういうことになる。)そのためには、文の構造をきちんと見極めなくてはならない。

 まずは、述部を取り出してみよう。
「配合させて」「並べて出す」「要らず」「経済だ」「ない」「なって」「見えるのだ」がそれにあたるようだ。
 次に、述部一つ一つについて考えてみる。
「ハムや卵や、パセリや、キャベツ、ほうれんそう、お台所に残って在るもの一切合切」「いろとりどりに」「美しく」は「配合させて」を修飾する。(これらのことばは、ひとまとまりで「並べて出す」を修飾することばにもなっている。)
「お皿ひとつひとつに」「それぞれ」「手際よく」は「並べて出す」を修飾することばだ。
「手数は」は「要らず」の主部になる。
「経済だ」はそれだけで成立している。
「ちっとも」「おいしくは」は「ない」を修飾している。
「食卓は」「ずいぶん賑やかに華麗に」は「なって」の、それぞれ主部と修飾部になる。
「何だか」「たいへん贅沢な御馳走のように」は「見えるのだ」にかかっている。
 そして、「のであって」とか「けれども」「でも」などは前後の文をつなげる働きをすることばだ。

 文を短くするだけなら、述部で区切ればいい。(ほんの少し、ことばを足した。)

回答:ハムや卵や、パセリや、キャベツ、ほうれんそう、お台所に残って在るもの一切合切、いろとりどりに、美しく配合させる。それを、お皿ひとつひとつに、それぞれ、手際よく並べて出す。手数は要らない。経済だ。ちっとも、おいしくはない。でも食卓は、ずいぶん賑やかに華麗になる。そして、何だか、たいへん贅沢な御馳走のように見えるのだ。

というのが僕の答え。まぁ、分かりやすい文章ではある。


 以下は、きわめて個人的な感想。
 うーん、文を短くするのって、たしかに分かりやすくはなるけれど、元の文の持っている味がかなり無くなってしまって、なんだかつまらない。分かりにくくてもいいとまでは言わないけれど。
 たぶん、そんなことは米光さんは百も承知で、次回あたりはその辺のことについて書かれるんじゃないだろうか。(「一文を短くって言うけどさ」というタイトルからして、そういう雰囲気をバリバリ感じる。)
 少なくとも僕は、自分の回答よりも、元の例文の方が味があって好きだなぁ。  

Posted by papa23mm at 16:55Comments(0)TrackBack(1)文章 

2006年03月28日

テレビニュース雑感

東海テレビ(フジテレビ系列)の昨日の深夜のニュース番組を途中まで見る。
その中で、オウム真理教(現アーレフ)の元代表・麻原彰晃(本名・松本智津夫)の控訴審棄却の決定が伝えられた。
どうも、このまま死刑が確定する可能性が高いらしい。


裁判所の判断や、弁護団の言い分については、ちょっと、脇に置いておく。

僕が気になったのは、関係者のコメントだ。

地下鉄サリン事件の被害者のご家族の方(お名前は忘れた)は「(松本被告の)死刑が確定すれば、少しほっとできるのではないか」と語り、教団元信者の拉致殺人事件の被害者のご家族の方は「裁判所の判断を評価する」と言う。

松本サリン事件の被害者の河野さんは「(松本被告が)判決の何が不満なのか、明かされないまま裁判が打ち切られるのは納得がいかない」と語った。

その後、アーレフの荒木広報部長の「これまでいろいろ手続きをやってきて、ここでなぜ急ぐのか」というコメントがあり、最後に滝本太郎弁護士が「裁判所の判断は正しい。(麻原の)弁護団の主張を認めても、裁判の引き延ばしにしかならない」という言葉で終わった。
(これは、僕の記憶に基づいて書いているので、正確な発言内容とは言えない。僕はこのように受け取ったのだと考えてほしい。)


これらのテレビで放送された部分だけをつなぎ合わせると、被害者やその家族の人は(河野さんを除いて)裁判所の判断を支持し、それに対して荒木氏が不満を述べて、最後に滝本弁護士が裁判所を支持するという内容の総括をした、と受け取れる。
普通に考えて、被害者と法律の専門家が支持し、加害者の身内(と思われている人物)が不満を訴えていれば、世間は被害者側に肩入れするだろう。

でも、この問題はそう簡単なことではない。
NHKの今朝のニュースでは、また別の被害者の言葉が伝えられていた。
裁判所の判断を「全面的に支持」という人、「真実が明かされないままなのは残念だが、裁判所の判断は正しいと思う」という人、そして、また河野さんの「少なくとも私は不満」というコメント。

つまり、一口に被害者やその家族(遺族)と言っても、思いは人それぞれで、微妙に反応が異なっているのだ。
テレビのニュースの伝え方は、その微妙な違いを省略しがちに思える。
それは、見る側もよほど注意していないと、つい見落としてしまうことでもある。
見る側が、無頓着に放送された“事実”を受け取るだけでは、犯人(とされる人物)に対する“憎悪”がエスカレートするだけだ。そして、被害者に対する感情移入は、ひょっとしたら、当の被害者本人の思いとは随分かけ離れたところへ行ってしまうかもしれない。


要するに、何が言いたいかというと、「テレビなどのメディアが伝えるニュースには、必ず、省略された部分があるのだから、その部分への想像力を持って、なおかつ、自分自身の感情の動きについても、別の視点から考えた方がいい」ということだ。  

Posted by papa23mm at 16:31Comments(4)TrackBack(0)日々雑感 

最近

こちらの更新が滞っているのは、実生活が忙しくて、まとまった内容のエントリを挙げる暇がないからです。ほら、年度末とか、年度初めとかは、いろいろあるわけですよ。
別に、はてなダイアリーに乗り換えようとしているわけではありません。  

Posted by papa23mm at 15:39Comments(0)TrackBack(0)日記 

2006年03月22日

今後は

こちらでは、固め(というか長め)の文章中心に、はてなの方では、柔らかめ(というかいい加減)なメモ感覚のものを中心に書いていくつもり。
でもまぁ、例によって先のことは分かりません(爆)。  

Posted by papa23mm at 12:37Comments(2)TrackBack(0)日記 

2006年03月20日

ふいに

思い立って、はてなダイアリーで日記をつけることにした。

http://d.hatena.ne.jp/nijuusannmiri/(“23mmはてな日記”)

更新が滞っていたら、飽きたのか、クソ忙しいのかのどちらかです。  

Posted by papa23mm at 18:17Comments(0)TrackBack(0)日記 

2006年03月17日

『放送禁止歌』を見る

『「放送禁止歌」〜歌っているのは誰?規制しているのは誰?〜』は森達也演出のドキュメンタリー作品。1999年11月にフジテレビの深夜枠で放送されたもの。
でも、DVD化などはされていないので、なかなか見る機会がない。森達也氏の公式サイトなどで、上映会の情報がアップされるのを気長に待つしかないのが現状。

ところで、東海地方の某文化センターで、森達也氏が講師を務めるドキュメンタリー(とメディアリテラシー)に関する講座が、最近まで開かれていた(現在は終了)。僕もそれを受講していて、そこでこの作品を見ることができたのだ。というか、この作品が見れるかもしれないと思って、受講することしたのだった。

僕がこの作品を知ったそもそものきっかけは、同名の書籍を読んだこと。
放送禁止歌
友達に「面白い本があるよ」と薦められて読んだのだが、これがかなり面白かったのだ。
テレビやラジオで放送できないとされる“放送禁止歌”とは、一体何なのか、ということについて書かれているのだが、まぁ、具体的な内容は実際に読んでみてほしい。Amzonのレビューも、ざっと見た感じだと、かなり参考になると思う。
一つだけ種明かし(というかネタバレ?)をしておくと、“放送禁止歌”をテレビやラジオで放送しても、法的にはなんのペナルティーも課せられないのである。
では、なぜ「放送出来ない」または「放送しない」のか。
そこがマスメディアに携わる人間に(そしてそれを享受する僕たち受け手側に)、突きつけられる問題なのだ。

で、その本が書かれる前に同名のテレビ番組があったことを知って、「見てみたい!」と思ったのだけれど、同時に「放送から何年も経ってるし、さすがにもう無理だよなぁ」と半ば諦めていたのだ。

ところが、昨年の夏ごろに、上記の講座が開かれるのを知り、「これはチャンスかも」と受講することにしたのだ。
講座自体は月1回のペースで全6回、つまり約半年間の期間であったのだが、森氏の作品以外のドキュメンタリー作品も見れて、かなり刺激的な時間を過ごせた。

さて、念願の『放送禁止歌』を見た感想なのだが、想像通り、というか想像以上に面白かった。
冒頭で、今は亡き高田渡氏が登場してきたときに、僕の中に湧きあがった感情は、ちょっと言葉に出来ないような気がする。
そして、“放送禁止歌”とされた数々の曲が番組の中で次々と紹介されるのだが、やはり、活字でそれらの歌詞を読むのと、実際にその曲に触れるのとは、全く違う体験だった。いや、当たり前なんだが。
ひょっとしたら、完成度では映像版よりも書籍版の方が上かもしれない。けれど、映像版は、実際の楽曲を使うことで書籍版には無い力強さを手に入れている。僕にはそう思えた。
そして、テレビで、あるいはドキュメンタリーで音楽に触れるという体験は、CDなどを通して聴くという体験とは、また異なるものなんだなぁ、とも思う。



ところで、森達也氏が久しぶりに、テレビドキュメンタリーの演出を手がけたらしい。上記の講座の中で教えてもらったのだが、かなり“すごい”ことになっているらしい。(どう“すごい”のかは「見てのお楽しみ」らしい。)
実は、その番組のプロデューサーが上記の講座にも、毎回来られていた。最後の講座の後に、受講者のほとんど(8割以上?)と森氏をまじえた親睦会(というか飲み会)があったのだが、その時にプロデューサー氏と少し話した際、うっかりブログをやっていることをしゃべってしまった。そして、プロデューサー氏から「ブログで宣伝してよ」と言われて、つい「いいですよ」と答えてしまったので(こんなごく少数の人しか見ないような泡沫ブログで、どれだけの宣伝効果があるか分からないが)、ちょっと宣伝しておきます。

『森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』
  2006年3月26日(日) 10:30〜11:25(テレビ東京)


時間はもちろん午前ね。プロデューサー氏の製作日記がちょっと面白いです。
テレビ東京系列では、テレビ愛知でも同じ時間帯で放送が決まっているのは聞いたが、他の地方がどうなっているのかは分からないので、他の地方の方は注意してくださいな。

そう言えば、森氏の公式サイトの管理人氏のブログが最近出来たらしい。こちらには、上記の番組のスタッフに関する情報も載っている。せっかくなので(?)、そちらにトラックバックしておきます。  

Posted by papa23mm at 15:09Comments(4)TrackBack(1)読書 | ドキュメンタリー