青い空に白い雲

このブログ、新しい記事ばかりでなく、カテゴリ別に適当に拾って読んで下されば幸いです。日記じゃないので....

DNA鑑定で面倒臭いことになったモーツァルト家

この記事を書いてアップロードしようとしている時に知ったのですが、今日はモーツァルトの命日ではないですか !

ゾクリとしました。。。まぁ書き始めは12月4日でしたが(笑)


モーツァルトが共同墓地に埋葬され、後に墓地の整備等で骨も散逸してしまっていることは
有名。従ってDNA鑑定も不可能なのだが、実は「モーツァルトの頭蓋骨」と言われている顎のない頭骨が国際モーツァルテウム財団に保管されています。(モーツァルトの埋葬は1791年12月6日もしくは7日)


モーツァルトの頭骨

墓地の管理人がその頭骨を確保して、彼の関係者たちが代々保管、1902年に同財団に寄贈されたという代物で、真偽のほどは当然に不明。(但し1991年にウイーン自然史博物館の専門家は、頭骨の軟組織を復元し、肖像画と照合し、本物の可能性ありと結論を出している)

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1790年頃ミュンヘンでJohann Georg Edlingerにより描かれたモーツァルト

ただ、骨相学よりもはるかに科学的なDNA鑑定技術が90年代を通して精度を高めると、2004年、関係者の了解を得て、父レオポルト・モーツァルトの墓(聖セバスティアン墓地)を開いて、そこに埋葬されている親族の骨から、この"モーツアルトの頭蓋骨"をDNA鑑定することになったのです。女系のミトコンドリアDNAの鑑定ということで、この墓より、2人の女性の骨を採取しました。

ミトコンドリアDNAは、代々女性から脈々と引き継がれて、男性からは伝わらない。だから、本人⇒母親⇒祖母⇒曾祖母と女系を追って行けば、血族の鑑定が出来るのです。

ミトコンドリアDNA

しかしモーツァルトの母
はパリで亡くなり、聖ユスタシュ教会墓地に埋葬、1785年の墓地の撤去で散逸。また姉は夫の死後ザルツブルクに帰郷したが、モーツァルトの妻コンスタンツェが再婚相手の墓を父レオポルトの墓に併設したのに抗議し、自分は聖ペーター僧院教会の墓地に埋葬を希望し、すでに他者との骨の識別が不能になっている。

こうして近親者の女性二人は遺骨不明で無理なのですが、女系の親族であれば鑑定に問題はない。そこで2人の女系親族の骨が採取されました。


モーツアルト家

モーツァルト家系図。青線はミトコンドリアDNAの流れ。拝借しておいて申し訳ないのですが、祖母の名の表記は正確にはEva Rosina Barbara Euphrosinaで、生年は1688年かと。


この2人の親族女性とは、モーツァルトの母方祖母のエーファ・ロジーナ・バルバラ・ユーフロジー
ナ・アルトマン Eva Rosina Barbara Euphrosina Altmann (1688-1755)と、姉ナンネルの若くして亡くなった娘ヨハネッテ・フォン・ベルヒトルト・ツー・ゾンネンブルクJeannette von Berchtold zu Sonnenburg (1789-1805)でした。


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ヨハネッテの墓と発掘された彼女の遺骨

姉の
ナンネルは1801年に夫ゾンネンブルク男爵が死去するとすぐにザ
ンクト・ギルゲンから故郷ザルツブルクに転居しています。弟モーツァルトの未亡人コンスタンツェが再婚相手のニッセンの墓を併設したのは1826年。これに抗議して姉ナンネルは自分の埋葬場所を変えたわけだから、この娘ヨハネッテが亡くなったのが1805年なので、母親より先に早世したヨハネッテの骨だけがここに入っていたのでしょう。


こうして、モーツァルトの母方祖母ユーフロジーナと姪ヨハネッテと思われる2人の女性の大腿骨から抽出されたDNAとモーツァルトと伝えられる頭骨に残っていた2本の歯の遺伝物質のDNA鑑定がオーストリアとアメリカの法医学者によって行われたわけです。

モーツァルトのDNA鑑定

 
しかし、結果が、どうにも困ったものになってしまいました。

 

例の真贋不明の頭蓋骨は、この祖母や姪から採取されたミトコンドリアDNAとの血縁関係が確認できなかった。つまり、財団に渡った経緯の中に、もしかしたら間違いがあったのかも知れないということに。だが、頭骨の複雑な来歴から、それはそれとしてある程度は予想できたことではあります。

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墓のあるザルツブルグの聖セバスティアン墓地 


しかし、問題は、この祖母ユーフロジーナ・アルトマン、つまりモーツァルトの母アンナ・マリア・
ペルトルの母親と、姪ヨハネッテ・フォン・ベルヒトルト・ツー・ゾンネンブルク、つまりモーツァルトの姉ナンネルの娘、つまりモーツァルトの姪とのDNA型もが、親戚関係を示さなかったのです。若い骨は明らかに16歳で亡くなったヨハネッテのものとして符合するのですが・・・


埋葬の記録に何かの誤りがあるのか、記録にない第三者の骨が混入しているのか、それと
も、2人の女性の人生に何か出生にまつわる秘密があるのか、もはや探る術はない....

この二人

モーツァルトの真偽不明の謎の頭蓋骨が本人のものではないということは判明したから、DNA鑑定の目的は果たせました。しかし、彼の祖母ユーフロジーナと姪ヨハネッテに、何かがあったことになりますね。下世話な話ですが、不義密通の子だった....なんて話はたまにありますが、母親からのDNAですから、相手にかかわらず引き継がれます。となると、どちらかが養子で他家より引き取った子で、その記録が欠落しているか? くらいな推測しか成り立ちませんね。

ひとつの謎が解けて、余計な謎が生まれた、という鑑定結果でした。










※ この記事は私のHP「西洋史おもしろ話集」の「現代科学が解く"歴史の謎"数々」の余談1からの編集転載です。





中南海というタバコ

昔、まだ紙巻きタバコを吸っていた頃、中国産の「中南海」というタバコを吸っていました。中国科学アカデミー認証の"健康タバコ"という怪しいやつ。(小泉今日子さんや花田優一さんも吸っていたようです)

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値段は普通のタバコと変わらず、漢方タバコに分類される割には、味も変わらない。メンソールが出ないかなぁと思った途端に、メンソールを販売開始したという相性の良さ(笑)

ただ、問屋がJTでないので、個別にタバコ店に中南海の販売業者が納品するから、やたらには置いていません。そこで支店を異動する度に、最寄りのタバコ屋に仕入れを依頼し、週一でワンカートン買うようにしました。

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中南海の問屋からすれば、月に4カートンは特定の顧客が買ってくれるわけだから、「そのお客さんに差し上げて下さい」といつも粗品を置いていくそうで、順次それが私の手元にタバコ屋経由で入って来る。

そこで、こんなライターが何台も溜まってしまいました。

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後部のバンパーを押すと、フロント・グリルの穴から火が出る仕組み。

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ハッキリ言って、使いづらい。だからタバコを吸うのに使用したことがありません。

ヘッドライト座席

点火するとヘッドランプと座席付近が赤や青にチカチカと激しく点滅する....あまり意味が分からないライター。

裏面

裏面には見事に不揃いな中南海シールが貼られています。

今はもう電子タバコなので、まったくの不用品。このレアだけど不用なクラシックカー・ライター、日本人で所持している人、しかも4台も並べている人は何人いるでしょうか。

小泉今日子公式YouTube

キョンキョンも持っているのかなぁ? ただ持っていても使ってはいない、ということだけは確かでしょう。

無題

使いづらさが半端ないレベル....

粗品ライター

この、カートンで買わなくてもついてくる普通のターボライターの方がよほど実用的でしたから。









本日のちょっといい話 387 「信じる」ことを学ぶためのみに

永遠という名の一瞬

目に見えるすべてのものがそうであるように、すべてはうつろう運命にある。


ただ、その中で決して変わらないものがある....。

きみがそれをはっきりと思い出すときが来たのだ。

ぼくはあえて「思い出す」という言葉を使った。

そう、本当はすでにきみはすべてを知っている。

ヒトの魂は、すでに宇宙の神秘のすべてを知っているのだ。

誰ひとりの例外もなく、ヒトの魂はすでに「完全」なのだ。

葉祥明
挿絵:葉 祥明

ただ、その記憶はきみの潜在意識の中に封印されていて、まだ思い出すことはできないかも知れない。

それは今までがまだ思い出すべきときではなかったというだけではないのだ。

でもその潜在意識の中の記憶が、時折、きみ自身にメッセージを送っているのがわかる。

ヒトは皆、過去だけでなく未来の記憶さえ持っている。

それがすべて潜在意識の中に閉じ込められているのは、ヒトがある素晴らしい能力を学ぶためなのだ。

それは「信じる」という能力....。

ヒトは「信じる」ことだけを学ぶためにこの星に滞在しているといってもいい。

そして「信じる」ことの素晴らしさを体感できるということは、この星に生きているヒトのために与えられた特権のようなものだ。







最終話は俳優としてもラストシーンだった 早崎文司

3年B組金八先生シリーズばかり最近は見ていて、それつながりの話です。

3坂本金八

そもそも78年に高校を卒業している私は、79年スタートのTBS制作ドラマ「3年B組金八先生」はそれほど夢中になって見ていた世代ではなく、断片的につまみ食い程度の視聴でした。

それでも、第1シリーズの「15歳の母」や第2シリーズの「腐ったミカンの方程式」など世間で話題になったエピソードはリアタイで見た記憶はあります。


ファイナル

しかし2008年3月に最終の第8シリーズが終わり、4時間スペシャル版として東日本大震災の年の2011年に放送された"ファイナル"で金八先生が定年を迎えて終わるまでの32年間も続いていたわけで、今さらにびっくりしています。

私が大学1年から51歳で金融機関退職するまで、ずっと金八先生は放送されていたわけですからね。映画「男はつらいよ」ですら26年間です。色々な世代の人々がそれぞれの金八シリーズに夢中になったわけです。学園ドラマのウルトラシリーズですね、まさに。

教頭

そんな3年B組金八先生で、第1シリーズから第4シリーズまで、舞台となった足立区立桜中学校の教頭先生をしていた"野村教頭"という人がいるのです。(第3シリーズは他校が舞台)

大抵の学園ドラマでは、"教頭"はヒールですが、この野村教頭も公立学校の典型的な公務員気質の保守的なキャラでした。

いつも学校の対面や、教育委員会やPTAからの評価・評判を気にしている管理職で、問題ばかり起こす3年B組にイライラしています。

第2シリーズ

早崎文司さんというベテラン俳優さんが演じておられました。

この野村教頭(第4シリーズで校長に昇進)を見ていると、生徒の同世代の視聴者たちは「こういう先公いるよな !」と舌打ちされますが、大人になって見ると、気持ちがよく分かるようになります。むしろ、小心翼々とした公務員気質をうまく演出していて、その演技力の高さに魅入られます。

第1シリーズ

しかも、保守的な管理者でありながらも攻撃性はなく、むしろコミカルな存在となって不快な緊張感を放出しないから、ストレスを感じさせない。絶妙な役づくりを見せたベテラン男優さんという高評価は間違いない。

ただ、野村教頭、せっかく第4シリーズで校長に昇進したのに、体調不良ということで、かなり権威主義的な女教頭に実権を与えて、たまに出勤するという立場になるんです。しかも、かつてのようなビクビクした人物ではなく、穏やかで寛容な校長先生として。

教頭のヒステリックな叱責の標的になる金八先生に対しても、「まぁ、いいじゃありませんか。ここはひとつ坂本(金八)先生を信じましょう」てな感じ。

《金八先生》s4/第22話1

金八先生の提案で、高校受験が一段落したあとの授業なんてオマケみたいなものだから、もっと生徒の役に立つ授業をそれぞれの科目の先生が専門知識を活かしてやろうじゃないか、ということになったときも、是非、校長の自分にもやらせてほしいと申し出ます。

そして、病気がちでしっかりみんなを指導できなかったことを詫びてから、こんな話をします。

私が教師になった理由は、戦時中で疎開したときの先生がひどいヤツだったからです、だから生徒の立場になれる教師になろうと思ったんです、と始まり、意外な内容に教室はどよめきます。

校長の授業

しかし自分は会社経営をしているような感覚となり、みなさんを締め付けるような教師になってしまった、そして校長職をまっとうしたいという思いのみにしがみついて、きみたちに校長としての責務をきちんと果たして指導することが出来なかったことを、申し訳なく思っています、心から謝ります、ごめんなさい、とまさかの謝罪。

ごめんなさい

教室のうしろで聞いている金八先生も思わず顔を上げます。

そして教師らを厳しく指導し憎まれ役に徹してくれた教頭に、あなたが支えてくれたおかげでここまで来れた、ありがとう、と礼を述べて、後方に立っている金八先生にも声をかける。

「ありがとう、坂本(金八)先生。よく桜中学に帰ってきてくれました」(金八先生はしばらく文部省[現:文科省]に出向しており、数年ぶりに現場復帰した)

怒る教頭
第2シリーズより

かつてことごとく敵対して、「まったく、あなたのクラスというのは、いつも問題ばかりだ ! どういう指導をしているんですか」と小言が尽きなかった金八先生に、校長は深々と頭を垂れます。

「きみたちにとってこの桜中学は母校です」と生徒たちに優しい笑顔を向けます。「そして私にとっても母校で、きみたちの卒業と同時に私も、この愛すべき桜中学で退職できることは私の喜びです。ありがとう。」

私の喜びです

そして生徒たちに深々と頭を下げます。

いつも鬼の形相の教頭もすでに目がうるうるしており、生徒たちは静まり返り、野村校長は最後にメガネを外して目尻を抑え感極まります。

このシーンに「贈る言葉」のオーケストラ・バージョンが流れてくるから、全米が涙状態だったでしょう。感動の「最後の授業」でした。

卒業式

そして、いよいよ卒業式となると、体調がすぐれないのに出勤してきた校長は保健室のベッドでダウン。養護教員は無理はさせられない、と警告。教頭は代行を申し出る。さすがの野村校長も、長々と壇上で生徒らに卒業証書を手渡すことは無理と判断し、各先生に役割分担をお願いします。

《金八先生》s4/第23話最終話7

一応は、送辞の言葉を考えていたら睡眠がとれなくて、出勤時には足元もおぼつかない状態になってしまったから、念のために休ませるという設定なんですが、ここまで具合の悪い人は滅多にいませんよね。

保健室

少し具合が良くなってきたから、と起きようとする校長をとめる養護教員。

あとは例によって、3年B組は全員の卒業証書授与を映し、一人一人の思い出の場面を流すなどの感動の卒業式シーン。そして謝恩会。金八先生が個々に言葉を掛けて、みんなが泣き出すというお約束のラストで、第4シリーズの最終話は終わります。......

第4シリーズの最終話である第23話は、1996年3月28日の放送でした。

そして、野村校長を演じた早崎文司は、その当日、67歳の生涯を閉じました。

実は、第4シリーズの第1話(1995年10月12日放送)で、金八先生が桜中学に呼び戻されて野村校長から復職を頼まれるシーンでも、すでに保健室のベッドでした。「こう立て続けに3年B組の担任が辞めてしまうと、教育委員会が私をどう査定するか心配で心配で」と嘆き、「校長の職務を全うしようと、毎日薬を飲みながら頑張っているのに」とか言います。

冒頭

つまり、シリーズ冒頭から「体調不良」の設定。

しかしこれは、"設定"ではなく、演者である早崎文司氏自身がすでに本当に病気を患っており、そう設定しないとならない状況だったからなのです。

病身を押しての迫真の演技をしていたことになります。そしてドラマ上とはいえ17年間も教頭・校長を演じてきた桜中学校という舞台から、まさに立ち去るその現実を演じていたわけです。

桜中

最後の授業で3年B組の生徒たちに
「きみたちにとってこの桜中学は母校です。そして私にとっても母校で、きみたちの卒業と同時に私も、この愛すべき桜中学で退職できることは私の喜びです。ありがとう。」と言ったそのとき、早崎氏は役者としての最後の挨拶、そして人としての最後の挨拶を口にしていたのでしょう。

早崎文司 徳川家康
1983年大河ドラマ「徳川家康」で松平乗正を演じる早崎文司氏

最後に「ありがとう」と言える役者人生。そして、そのまさにラストシーンを私たちは見ていたのです。

去る

「どうもありがとうございました。お世話ばっかりかけて...」と廊下を去る校長に一礼する金八先生。

保健室の校長

保健室のベッドの中で、窓から流れてくる「仰げば尊し」に耳を傾ける野村校長。

    朝夕 れにし 学びの窓
    蛍の灯火ともしび 積む白雪しらゆき
    忘るる ぞなき ゆく年月
    今こそ 別れめ いざさらば






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本日のちょっといい話 386 50年かかった三年B組の授業

3年B組金八先生2 第10回 白紙答案の波紋

1987年に放映された「3年B組金八先生 スペシャル此(TBS制作)で、8ヶ月だけ3年B組に津軽からの転校生として在席していた寡黙な女生徒・川島君子が、妊娠・流産というとんでもない体験の末に、郷里の津軽に帰ってしまった時に、二学期の終業日ともあって自分の通知表の結果しか気にせず、君子の席が空席になっていることも気に掛けない生徒らに、金八先生が話す言葉がありました。

君子の空席

「今日、みんなと同じように成績表がもらえる友達が、一人いないんですよ。そのことにどうして諸君らは気付かないんですか?」塾があるからもう帰りたいと言い出す生徒らに金八先生は言います。

終業式

「この広い東京に先生も含めて君子としみじみ話が交わせた、そんな人間が一人もいなかった。諸君、寂しいとは思わんかね? いやいや、君子がじゃない、私たちがですよ。私たちは病気ですよ」

「なんの病気ですか?」と生徒。

「東京病だよ」と先生が告げると、教室には笑う生徒も。

東京病

「君子の話をしておきます、君子は古里の津軽へ帰りました。おばあちゃんの病気とかあってそれが心配で帰りました。それともう一つ、君子は東京病にならないためにも古里へ帰ったんです。そんな君子からきみたちにメッセージがあります。東京に疲れたら津軽に遊びにきて下さいと」

そして続けます。「受験を前にしてきみたちにはそんな余裕はないかも知れないけれど、でもね、たった8ヶ月間だったクラスメートがそんな言葉を残して去って行ったということを忘れないで下さい」

静まるクラス

教室内も少し静まります。

「たった8ヶ月間でしたけど、君子はこのクラスのことを一生忘れないと思いますよ。それに比べて諸君ら、どうですか? 学級新聞、学級日記、クラス当番、みんなと話したいと思う君子の気持ちをいいことにみーんな押し付けて、それで、二学期の成績をのばした者は誰もいない」

女生徒の中には涙ぐむ者も出てくる。

涙

「一生懸命やるヤツは馬鹿を見る。大人の社会でもよく言われることです。しかしそれこそが最たる東京病ですよ。さわらぬ神に祟りなし、これも東京病だ。自分さえ良ければ、周りが一切目に入らない、他人のことなんてどうでもいい、こういう無関心、これも東京病です」

他人のことなんか

「そんな人間がですよ、一生懸命に勉強して成績上げて、世間に出てどうなりますか? 干からびた人間になるだけですよ。人間が干からびたら東京はどうなりますか? 東京も干からびて行きます」

「諸君らも知ってのとおり、この東京というものは今、世界中の注目を浴びる大都市です。他人には一切関係ない、無関心な人間が増えたら、この街はどうなるのか。きみたちの将来はどうなるか。干からびて行くんですよ。せっかくの冬休みです。そういうことも少し考えて見て下さい」

席を立つやつら

そして話を終えると、「ハイハイじゃーねー」とすぐに席を立ちあがる生徒たち。.....

かつてシーズン1で、妊娠・出産までを扱った衝撃的な「15歳の母」は1979年11月の放送でした。その時は、当事者らはクラスメート、教員たちのサポートのお陰で修羅場を克服して、人生を紡いでいくことができました。

しかし8年後のこのスペシャル困派舛れているのは、身の保全に懸命な校長や事なかれ主義の教師ら、そして他者に無関心な生徒たちの姿です。

校長
保身に懸命な校長にさすがの教頭も怒りの目線

そこで、私の個人体験からすると、70年代がまだ人に人情のあった時代だった、という対比に「違う」と言いたいのです。78年に高校を卒業した私ですが、もうすでに充分に、「東京病」でした。


第6シーズン(2001年10月〜)で、金八先生の長男が白血病になります。その大きな衝撃に父親としての先生の苦悩が描かれています。

そこで私は思いました。私の一番の親友の息子も白血病だったことを。今にして思うとそのことをいつ聞いたのかも記憶がありません。日々、ストレスまみれになって仕事一色の日々を送っていた30代後半から40代にかけてのことだと思います。

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私はこの親友の苦悩に、どう対処したのか? それすら記憶にない。話を聞いたその場では、それなりの対応をしたとは思いますが、恐らく、自分の日々の様々(役席会議・月次目標・部下育成・監査対応)に気が向いていて、親身になって親友が見舞われた人生の苦しみに寄り添ってはいなかったことだけは確かです。

金八先生が語った「東京病」の重病患者でした、すでに。

言い添えておきますと、その子は今は立派に成人して活躍しております。

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大学3年の終わりに小学校のクラス会を開きました。1981年の3月です。しかし、以来、17年間、クラス会は開催されなかった。小学校時代の懐かしい面々と会う楽しみなんてものは、疲れ果てた心身を休める土日の休養日に勝るものではなかった。常時クラス会幹事だった私は、何もしないでゆっくり過ごす休日を優先したのです。

こういうことに関しても、目先の日々の現実のみをストレスフルになりながら追いかけているだけの自分、他者への関心など欠片もない自分の姿が垣間見れます。

社会というものは戦いの場、バトルフィールドと信じていました。自分がそれなりの勝利を得るためには、目先の現実をひとつひとつ乗り越えて行き、そして敗者にならないために戦い続けねばならないと思っていました。

ですからいつも"自分のこと"で手一杯。すべてが自分のためでした。これって、「自己中」そのもの、サイコレベルの、エゴ全開のクソ野郎の生き方ですよね。.....

なんであれ

社会人となった1982年から、それは延々と続き、この2022年に至る40年という歳月、私は金八先生があの教室で生徒らに警告した「東京病」のまま、この東京を干からびさせた一員だったわけです。

中三の頃、もし私があの金八さんの授業を受けていたら、教師らしいキレイ事を言ってらぁ、「ハイハイ、分かりましたぁ。じゃー」でカバン持って帰ったでしょう。

「外国のある人がこんなことを言っています」と金八先生は席を立つ生徒らを制して続けました。「日本というのは資源のない国です。ですから人間がダメになったら、キミたちがダメになったら、この国は亡びるんです」

そこでアクビをするは、意見を求めても「別に」という生徒ら。

無題

当時の私は、つまりこの授業の日付である中三の12月24日、私はギターを購入する計画で頭が一杯でした。そして、同じ中三終業式の日、1974年の12月23日は、赤点候補の代数が6だった歓喜と、理科気皚兇眇匹Δ犬得崚世鯡箸譴燭箸いΠ妥箸里澆瞭記内容でした。

つまりは、仲間のひとりが付属でありながら系列高へ進学できなかったことなんてどうでも良く、むしろその厳しい中で進学できた我が身への祝福で一杯の冷徹さ。

競争社会、バトルフィールドはすでに始まっていたのです。

中三の頃
私も三年B組だった

そんな人生行路をスタートさせて、いつも自分が社会の中での「評価」としてそこそこであることだけを目指して生きて半世紀。

私は、たとえば1995年とか、2003年とかランダムに選んで見ても、いつも「ストレスと不安」だけの日々しか思い浮かばないような人生を展開していた。「社会的評価」はそこそこでしょう。しかし、「つまらねぇ」人生という感慨が結果として残っています。

なぜ「つまらねぇ」のか?

それは、私が我が身のことばかり考えて、突き進んで生きていたからです。そんな人生にはドラマなんてありっこない。つまらないわけです。

この授業のあった1987年には、私はすでに干からびた"東京病"の社会人でした。この授業で「ハイハイじゃーねー」と席を立って帰った生徒たちも、今はすでに50歳。干からびた人生を疑いもせずに生きているのでしょうか。

通知表

そういう人生を生きて行くということがどれだけ辛いか。ある意味で勝ちのない修羅場であります。そのことを誰が教えてくれるのか。いや、むしろそんなバトルフィールドに「頑張れ、頑張れ」と送り出す、あの戦争時代の出征兵士らが耳にした声しか聞こえてこないはずです。

戦場に行って、それぞれが歳月をかけて徐々に「これが人生かよ。おいおい違うだろ?」という実感を得て、ようやく気づくのかも知れません。

塾がある

「ハイハイじゃーねー」と席を立った生徒の一人として、今にして思うのです。

50分の授業で学べたことを50年かけて学んだということは中学53年生。落第にもほどがある。代数が6だとか理科機Ν兇赤点免れたとか喜んでいる場合ではなかったわけです。






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本日のちょっといい話 385 無限なる力につながる

スピリチュアルライフ

「心安らかでない時、神はあなたのなかに神を表現できない」という意味の格言を
パタンジャリは残している。

この言葉について考え、神(無限なる力)とは愛であることを私は深く認識した。そして、その時、自分の心が平静であることに気づいた。

無限の力の恩恵を受けるためには、愛に満ちた穏やかな心でないといけない。

これはあなたにも納得できることではないだろうか。自分の心が平静でなく、愛の気持ちも抱いていない時、人生が好転することはあり得ないし、好運が寄ってくるわけもない。

だが、どうすれば、こうした穏やかな気持ちになれるのであろうか。

私たちが穏やかな心を失って、自分に無限の力があるのを忘れるのは、生い立ちのせいであることが多い。「どうせそんなことは無理に決まっている」といった言葉をいつも聞かされて育った人は、どうしても自分を小さな枠にはめてしまっている。


「自分の思ったとおりに物事が運ばないと不安を抱く」というクセを持っている人は多い。

しかし、思い出してほしい。

「問題とは心のなか」で生まれるということを。

先に述べた「幻」というやつだ。間違いを正せば幻は消える。生い立ちや"思考のクセ"のせいで、私たちは自分の力には限界があると思い違いをしているに過ぎないのだ。


ウエイン・W・ダイヤ―著「ダイヤ―博士のスピリチュアル・ライフ」より
 




その16 スピンオフpart14 さぼてんとマシュマロ ムサコー篇3

このところで、原付しか乗ってないくせにバイクVlogにハマっていて、特に心霊スポット巡り系ばかり見ていました。

そんな事情で、もうとっくに念願のムサコーロケドラマ「さぼてんとマシュマロ」の全話DVDを見終わって久しいのに、ブログ放置しておりました。("ムサコー"は現:東京都市大付属中高、当時:武蔵工大付属中高の略称)

さぼてんとマシュマロDVD

2万前後もする全話セット(単体発売やレンタルDVDなし)なので、手が出せなかったのですが、再びブックオフオンライン様に救われて数千円という破格な低価で購入。価格競争という資本主義社会の恩恵に浴させて戴きました_(._.)_

もちろんユニオン映画制作で日本テレビ系で1971年10月-72年3月に放送された、こんなセブンティーン連載漫画を原作とした実写ドラマなんて、当時小6男子だった私が見ていたわけもなく、映像に懐かしさもへったくれもありませんでした。

最終話
最終話のラストシーン近くの仁(沖雅也:演)と真理子(吉沢京子:演)

しかし、見ていれば主演の吉沢京子さんと沖雅也さんのこのドラマ、そりゃそれなりに面白く全話あっと言う間に見てしまいました。

ただ、四人兄弟の長女である主人公が、お母さんに五人目の子が宿ったことから、万年係長のお父さんの収入では大変だと判断して、普通高校を夜間の定時制に変えて、昼間は雑誌社で働き、そこで出会ったカメラマンとのラブコメというわけで、ムサコーロケの学校シーンは最初の4話(全26話)だけ。

ムサコー冒頭シーン
第1話のムサコー・ロケシーンの冒頭部

このドラマの放映終了は72年3月25日ですが、私の東横小の卒業式は18日で、4月にムサコー入学だったわけで、私の青春6年間の舞台だったムサコーそのものがガッツリと映像に残っていて、感激の極みでした。

1997.12航空写真現在の航空写真
2006年以前の上空写真(左)と現在の上空写真(右)。(青枠がムサコー・赤枠は東横小)

ともかく本ページでは大昔のドラマのストーリー展開を語るのではなく、母校のロケ画像に特化した内容となります。もっともそのロケ地の校舎も2006年には消えてしまっていますが....

第1話で、いきなり体育のシーンで校舎が大きく登場します。

さぼてんとマシュマロ1話0

この二棟が中学・高校の校舎です。左が中学、右が高校。窓の上部が中学がピンク、高校が薄緑で塗装されていました。今は、この校舎敷地はグラウンドになり、白い体育着姿の生徒たちが写っているグラウンド部分に校舎が建てられています。(ちなみにこの体育着はドラマ用のもので、ムサコーの体育着ではありません)

1975中学卒アル 校舎

これが、1975年中学卒アルからの校舎写真。悲しいかな、私たちの年代は卒アル写真のほぼ全部が白黒なので、ドラマでのカラー画像が貴重なんです(笑)

さぼてんとマシュマロ1話2さぼてんとマシュマロ1話4

左画の背後に擁壁が写っていますが、東横小もそうでしたが学校敷地内にはかなりの段差がありました。グラウンドは校舎や校外の道よりも低いところに広がっていました。今にして思うと珍しい。右は短距離走シーン。

高校体育祭

こちらが78年高校卒アルからの本物の短距離走シーン(体育祭)。迫力が違いますね(笑)。 男子校だしみんな競技は必死ですね。(私は体育祭は得点表示板の後ろでサボってました。体育祭の頃に発病する仮病という持病があるので)

ムサコー体育着
こちらが本当の体育着

これは個人所有の中学時代の体育授業写真。当時は学年ごとに学ランに着ける校章の色が違っていて、青・白・赤の三種。体育着の襟の色もそれと同じでした。我々は青。個人的には赤が好みでしたが、スライドしていくので六年間ずっと青でした。白の学年の体育着の襟の色が白だと真っ白な体育着になってしまいますが記憶にありません。グレーだったかなぁ。

さぼてんとマシュマロ1話6さぼてんとマシュマロ1話5

真理子と友達が校舎入口の水道場で足を洗っているシーン。右の画像みたいにアップで見ると、みるみる水道場の光景がよみがえってきます。


1975.

この1975年中学卒アルで、中学校舎入口の水道場で掃除もしないでアルバム委員のカメラに群がっている私たちの右にチラリと映っているのがそうです。この水道場で、「ハレンチ学園」のロケがあった、という未確認情報は「怪獣に破壊された母校・東横学園小学校」の追記6にあります。

さぼてんとマシュマロ1話8さぼてんとマシュマロ1話13

このシーンは友達(左)と真理子の下校風景。左には背後に体育館。右には中学校舎。実際にはこの高台にある高校二校は男子校だったし、この道を歩く女子生徒は砧中の女生徒くらいなもんでした。

友達に、その砧中の女子と交際していたのがいて、彼が航空会社の副機長になった頃にその彼女と結婚した、なんてロマンスも生まれた通学路です。


1997Google

1997年1月撮影のGoogle画像(まだムサコーも東横小も当時のまま)で、赤丸の辺りを歩いているわけです。手前の青線が前回の「飛び出せ!青春」のロケ地です。

ハレンチ学園

同時期にロケされていた「ハレンチ学園」(1971年、東京12ch・日活・ピロ企画)で、児島美ゆきさんが歩いている上のシーンは、大体同じ場所でしょう。ハレンチ学園のロケ地は科学技術学園だから、左よりのアングルですが、右に向けば「さぼてんとマシュマロ」の上のシーンになります。

さぼてんとマシュマロ2話 2-Bの教室ださぼてんとマシュマロ2話6

これは教室シーン。両画像の後ろに映っている廊下のロッカーが超懐かしいです。ここに教科書を全部、本棚よろしく並べておくと、忘れ物はしなくなっても、ロッカー検査で大目玉食らいました。分厚い学生カバンはダサいとされた時代ですから、教科書なんて持ち帰りたくないので、こちらも必死でした。

さぼてんとマシュマロ2話13さぼてんとマシュマロ3話9

ところでこの教室「2-B」とあります。真理子のバッジにもちゃんと2-Bとありました。しかし学園生活のシーンは断片的で、特に2年B組にこだわった背景はないようなので、そのままムサコーの2-Bの教室を使用したと思われます。

設定では彼女は高2なのですが、右のシーンでみんなが手を振っている教室は中学校舎です。となるとこの2-Bの教室も中2-Bの教室となり、私が2年後に入る教室となります。

しかし、一学年4クラスで学年ごとのフロアなのに、B組教室が端っこというのもヘンな話なので定かではありません。

さぼてんとマシュマロ3話5中学科学部

この左のシーンで、窓に黄色いカーテンが見えると思います。右は中学時代の科学部の教室で撮られた写真(三人しかいないこの部員、こいつら120%幽霊部員。私も名だけ入っていたような気がしますが、幽霊すぎて見えてない)。窓のカーテンがボンヤリした薄黄色だったことを、やはりカラー映像だと思い出すものです。右の卒アルのような白黒写真じゃダメ。思い出はよみがえらない。

さぼてんとマシュマロ3話7中三B 教室掃除

左画はうっかり学校にきてしまった真理子に驚く友達のシーン。右画は75年中学卒アルから放課後の中三B組の掃除風景。この教室の廊下側の木製の壁。懐かしい!! やはり、カラー画像じゃないと、その懐かしさは味わえない。

さぼてんとマシュマロ2話 森川正太2さぼてんとマシュマロ2話16
さぼてんとマシュマロ2話17さぼてんとマシュマロ2話19

この4枚は普通の教室ではなく、1階にあった階段教室のシーン。貴重です。大学のような大きさではありませんが、当時としては珍しいひな壇形式の大教室。そういえばあったなぁ、程度の記憶しかありませんが、半世紀前の思い出がパッと広がります。

歴史研究部ナマズ部
卒アルより、歴史研究部とナマズ部。歴史研究部はたった二人だが、この二人は150%幽霊部員

中学卒アル(1975)にも、階段教室が写っているのはこのクラブの写真のみ。

JRC高校ナマズ部

1978年高校卒アルでも上の2枚だけです。左がJRC、右がナマズ部。ところで、JRCとかナマズ部ってなんだったのだ?

この教室でなんの授業をやったか記憶はゼロ。ただ、この教室で、工業大附高なのに将来は技術者にはなりたくないと放言した生徒が、先生に理由を問われて「技術者なんて雇えばいいだけの存在で、私は経営者になりたいから」と返し緊迫した雰囲気になった記憶がありました。

ならば工業高校にいるなよ、って。まぁ、私も高2の選択で文科系に移ったから人のこと言えないけど。

さぼてんとマシュマロ2話0さぼてんとマシュマロ2話3

これは真理子の登校シーン。左は東横小の前を通っている。右はムサコーの裏門に入る真理子。ここは一般人が通行しない高台なので、やたらと撮影では裏門が使われます。正門はバス通りに面していて、撮影しにくいといえばしにくい。ただこんな貧相な鉄門が校門のように映されるのは残念かも。

さぼてんとマシュマロ3話11967 泣いてたまるか 先生週刊誌にのる12

真理子が寝ぼけて雑誌社に勤め始めたのに学生カバン持って学校に来てしまうシーンも裏門です(右後ろに東横小見えますねー)。また4年前撮影の1967年「泣いてたまるか」48話でも同じように裏門からの登校です。ロケには最適な環境ですからね。

さぼてんとマシュマロ2話42004.1.12ムサコー裏門と妻とパぺ

左は真理子が裏門に入る直前の誰も映っていない瞬間のシーン。こういうの貴重ですよね。右は2004年1月に解体ギリギリ直前の裏門を撮影したもの(古い会報「柏」44号によると2005年10月より着工とある)。校舎や壁の外装がクリーム色になっていますね。

さぼてんとマシュマロ2話20

このシーンが一番好きです。真理子が普通科(昼間部)を退校して夜間部に移るときに、感慨無量になりながら校庭を見ているシーン。左奥の緑の屋根はクラブ・ハウス。運動部がいつも喫煙でとっつかまっていました(笑)


中二時代 雪のムサコー校庭

ちょっとアングルが逆ですが中学卒アルの画像です。日記によるとこの写真は、1974年1月の撮影だと思われます。中二時代ですね。校庭での全校集会用に設置されている見晴台。

成城学園のチアガールに「ブス、帰れー」とクズ野郎な罵声を浴びせて泣かせてしまい、臨時の全校集会で校長に激怒された時に使われた見晴台です。

さぼてんとマシュマロ2話22さぼてんとマシュマロ2話24

そしてこれは、感慨無量でムサコー校舎を見ている真理子の姿と励ます友達の情景。何であれ背後に東横小が映り込んでいる画像。撮影時、私はまだ小6なので、あっちの校舎にいたわけです。

さぼてんとマシュマロ3話2さぼてんとマシュマロ3話11

で、左は寝坊した真理子があわてて就職先の雑誌社ではなく学校に登校するシーン(左)と、「あんた、来るのはこっちじゃないでしょ!!」と級友に言われて急いで雑誌社に向かうシーン(右)。真理子は校庭の南東にあった通用門から入り、また通用門へと向かっていることになります。

ブー23ドリ2

左は「快獣ブースカ」23話(1967年、円谷・東宝)、右は「透明ドリちゃん」2話(1978年、テレビ朝日・東映)で東横小正門の向こうに出てくるムサコー通用門。

普通は開いてない門だし、実際にグラウンドから登校する生徒はいませんでした。

通用門

この1967年の東横小20年誌の画像のように、東横小正門の向かいに、ムサコーの通用門があり、そこから真理子は出入りしたことになります。

ただ直前映像では、通用門を通り過ぎているのですが、まぁ、そんな細かいことは抜きにしましょう。

さぼてんとマシュマロ4話2さぼてんとマシュマロ4話4

すでに定時制の夜間部に移籍した真理子が、雑誌社でのあれこれで元気なく登校するシーンと、昼間部の友達が待っていて声を掛けるシーン。

また裏門からの登校です。ただ、夜間部の学校シーンでもムサコーがロケされていることを知り、最終話までムサコー・シーンは登場すると期待しました。しかしこの第4話を最後にムサコー・シーンは終了。友達とのシーンは、喫茶店や甘味処ばかりに。第13話までが71年放送なので、ムサコー・シーンはすべて71年撮影と思われます。

さぼてんとマシュマロ4話5さぼてんとマシュマロ4話8

中学校舎を背に、国旗掲揚台の横で真理子を慰める友達と、泣き出す真理子を抱き締める友達のシーン。(登校したのに、こんな語り合っていて良いのでしょうか)

右の画像を見て分かるように、グラウンドに降りるまでの段々は、競技観戦用のベンチとしても使えるようになっていましたが、ほぼ横に移動するための通路として上を歩いていたように思います。

75年中学卒アルより

75年中学卒アルでも、野球部は正しい使い方をしておりますが、サッカー部はダメですね。人の座る場所に立つなんて、いけません。そもそも学ランで運動部集合写真を撮るなんて....。というか、左端の一名のみユニフォームなのは、ハメられたっぽい(笑)

さて、この夜間部のシーンをもってしてムサコーロケは終了となります。この親友とのシーンは全編を通してありますが、もう学校ロケはないのです。渋谷や喜多見、つつじヶ丘とか縁のあるロケ地はあっても、書きたくなるほどの感動はありませんでした。

中高卒業アルバム

今回はこの2冊の卒業アルバムからの写真を中心に掲載しました。高校はクラス集合写真だけはカラーになっています。

中学に至っては"フル白黒"です。

これでは大正生まれの父の1940年・卒アルと全く変わりません。

父の卒アル父の卒アル2
父の卒アル・「2600」とは皇紀2600年のことで昭和15年(1940年)です。

やれやれです。やはり映画・ドラマでのカラー映像にふれると思い出のバックアップがより高速・鮮明になりますね。「さぼてんとマシュマロ」のロケ画像で、どれだけの思い出がよみがえったことか。教室の黄色いカーテン、校庭のローラー、平屋のクラブハウス、校舎のカラー塗装部、ゴールポスト、教室の壁の色、階段教室、ロッカー、水道場....

卒アルの白黒写真のおかげでモノトーン化しつつあった思い出の数々が、再び着色されて生気を取り戻したかのようです。当時の空気感まで伝わってくるほどに。

製作会社
さぼてんとマシュマロ 最終回エンディング


※ 記事中のキャプチャ画像の著作権は文中に明示された各制作会社に帰属します。


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本日のちょっといい話 384 心がほっとする話


無題

これは、ある夜のタクシー乗り場での出来事。

歌人の穂村弘さんが40歳すぎだった頃の体験談です。

台風の夜。

駅前のタクシー乗り場には、長蛇の列ができていました。

その列に並んでいた穂村さん。

とても疲れていて、早く家に帰ってお風呂に入ることばかりを考えていたそうです。

彼の前には杖をついたお年寄り。

2時間待って、ようやく前のお年寄りの順番になり、そこにタクシーがやってきました。

と、突然、そのお年寄りが後ろを振り向いて言ったのです。

「どうぞ、お先にお乗り下さい」

お年寄りが声を掛けたのは、穂村さんではなく、穂村さんの次に並んでいた若い女性。

見れば、その女性は赤ちゃんを抱いているではありませんか。

いくら疲れていたとはいえ、2時間も並んでいたのに、すぐ後ろにどんな人がいるのかまったく気が付かなかったとは......と少し恥ずかしくなる穂村さん。

お年寄りに声を掛けられた女性は驚きながらも、お年寄りと穂村さんの両方にお礼を言って、タクシーに乗り込み去っていきました。

お礼を言われて、余計に恥ずかしくなる穂村さん。

しかしこのあと、お年寄りはさらにカッコいい行動に出るのです。

なんとこのお年寄り、ごく自然に、穂村さんの後ろに回ろうとするではありませんか。

たしかに、お年寄りは自分の判断で、穂村さんを飛ばして、タクシーの順番を女性にゆずりました。

つまり、「次にくるタクシー」に乗る権利をもっているのは穂村さんだと考えたのでしょう。

だから、「当然のこととして」穂村さんの後ろに並び直そうとしたのです。

狼狽しつつ、「いえいえ、ど、どうぞ、次、乗って下さい」とお年寄りを止める穂村さん。

結局、お年寄りは、軽く会釈をし、次にきたタクシーに乗っていったのでした。

そのタクシーを見送りながら、穂村さんはこう考えていたそうです。

「あのお年寄りは、自分より弱いものを思いやり、しかも、私に対しては当然のように『筋』を通そうとした。それに引き替え、私のほうは、帰宅後のお風呂のことで頭が一杯だった」と。



西沢泰生著「夜、眠る前に読むと心が『ほっ』とする50の物語」より







その15 スピンオフpart13 飛び出せ!青春 ムサコー篇2

やっと、「飛び出せ!青春」の41話の入っているBlu-rayを買って、武蔵工大付属校(現:東京都市大付属校・以下当時の略称である「ムサコー」で失礼します)と世田谷区立砧中学との間の、狭い狭い細道でロケしたシーンを確認しました。

飛び出せ 飛び出せ青春

この「飛び出せ!青春」は1972年2月から73年2月まで日本テレビ系で放送された70年代青春学園ドラマの金字塔。村野武範さん主演の河野先生は今でも話題だし、主題歌となった青い三角定規の「太陽がくれた季節」も大ヒット。

※余談ですが、1974年11月13日(水)、中三だった私たち3人で学校帰りに「一龍」というラーメン屋で食べてると、村野武範さんが入って来たことがありました。東宝スタジオのすぐ近くの店でした。居合わせたおばさんがサインもらって喜んでいましたが、中三男子の私たちはクールに見ていただけ。今にして思うと、サインもらっとけば良かったと死ぬほど後悔。

Vol.5

そもそも今でも人気なので、DVDが高い。一話のほんのワンシーンを確認するだけなのに、費用対効果が合わない。やっとかなり格安のBlu-rayをブックオフ・オンラインで見つけて購入しましたが、Vol.5は最終回も含むので格別に高いのでしょう。懐かしいけど全43話そろえる気力はありません。

飛び出せ青春
飛び出せ!青春」から片桐くん(剛達人さん:演)と真樹(青木英美さん:演)

私は中3(74年)の8月頃の午後4時からの再放送を見ていました。放送開始の頃はまだ小6ですから、青春物はまだですしね。学校から帰ると学ランのまま見ていましたね。ほんのちょっとだけ、学校というものが好きになれるドラマでした。しかし男子校だったから、男女共学の太陽学園(ドラマの舞台の高校)が羨ましくて羨ましくて(笑)

41話は、クラスのある女子が、注目を浴びたくて、夜道を帰る男子生徒の前に「キャー、助けて〜」と叫んで倒れて、暴漢に襲われたと一芝居うつシーンがあるのです。その"暗い夜道"のシーンが、我が母校(ムサコー)と砧中学校との間の細い道でロケされたのです。

飛び出せ 円形図書館・管理棟オフィシャル
左がオープニングでゴールキーパーをしている河野先生のシーン。右は現在の日大明誠高の円形校舎(管理棟・図書館)。現在の一号校舎や二号校舎は築年からして、この円形校舎も含めて撮影当時のもの。ただすでに校内に新校舎建設が進んでいて、2024年から使用されるとあるので、その後はどうなることか?

これは実は、「飛び出せ!青春」ファンの中でも誰も知らない話。ある飛び出せオタクサイトに投稿したら驚いていました。学校ロケは山梨県上野原市の日大明誠高校だし、あとは学校周辺やスタジオセット。ポツリポツリと世田谷ロケもありますが、近くても千歳船橋くらいなもので、このシーンのロケは全く意外な場所、ということです。

なぜ私が知っているかというと、このロケを寒い冬日の中、長々と野次馬していた友人がおり、そいつが肺炎になって学校を休み、みんなで笑ったからでした(笑)

飛び出せ タイトル

放映日は73年2月4日ですから、私たちはまだ中1。その年の11月3日以降ならば日記に記録もあるはずですが、残念ながら撮影日がいつだったかは分かりません。ただその物好きな友人から聞いた話だと、41話「星の王女様になりたい!」の中のワンシーンということでした。

彼が肺炎になったお陰で私も記憶が残ったわけです。そうでなければ、日記開始以前の記憶なんてすぐに消えてます。

そんな彼のためにも(笑)、この短いワンシーンを徹底的に分析してあげましょう。多分、冬日の夕暮れ、陽が陰ってきた頃合いの撮影だと思います。そんな寒い中、ムサコー側のどこかの敷地から彼は熱い目線を飛ばしていたのでしょう。その後に肺炎になって長々と病欠する羽目になるとも思わないで....

飛び出せ 街灯

まず、この二人。左は山本(保積ペペさん:演)、右は柴田(頭師佳孝さん:演)。寒い寒いと言いながら夜道を歩いています。実は20年ほど昔、練馬の小学校の父兄会で、ご主人が飛び出せ青春に出演していたという奥さんがいて、「いつも保積ペペと一緒だった生徒」と言っていたのです。いつもペアの山本・柴田ですから、頭師さんだったのでしょうか?(家内の記憶では名が「堤」だったとのこと。「われら青春」の細井太郎役の堤昭夫さんだったのでしょうか?? ペペさん演ずる山本は留年して"われら"にも出演していますし)
(⇒2017年堤氏はご逝去されているようです・合掌)


しかし右後ろの街灯。あんな裸電球に傘だけの街灯、ありましたよねぇ。

飛び出せ シーン1

映画「エクソシスト」のチューブラー・ベルズが聞こえてきそうなシーンですね。(思えば「エクソシスト」も同じ73年の公開映画でしたね)
山本・柴田コンビを引きで映しています。左が砧中学校の壁。右がムサコーの敷地の境にあるガードレールと金網フェンス。未舗装路ですね。私の脳内記憶にあるこの細道も、砂利すらないただの未舗装の小道です。

飛び出せ ムサコー内か

現れた二人を金網フェンスごしに見ている女生徒・大島妙子(小椋寛子さん:演)。
この金網フェンスはムサコー側のです。フェンス内はムサコーの体育館裏のスペース(遠い記憶では鉄棒と砂場があったような。⇒追記参照。2004年撮った写真では自転車置場になっていた)。しかしこのカットのためだけに、ムサコー敷地内での撮影許可とるだろうか? と疑問。後述で解明します。

飛び出せシーン2

キャー、助けて〜と叫びながら、山本・柴田の前に飛び出して倒れ込む大島。ん? パンツ見えてる? このシーンをその友人は目を皿のようにして見ていたに違いない。しかし眼福、眼福〜と喜んでいても肺炎になっては意味はない。

ガードレールの先端がカーブしているので、これはムサコーの裏門への道のクロスポイントと見えます。つまり、彼女はムサコー裏門方面から走り出して、この道に現れたということです。

飛び出せシーン3

びっくりした山本・柴田は、あわてて大島を抱き上げます。そして、学生寮まで彼女を連れて行き、この事件は大騒ぎとなり、話は急展開していくのです。

ところで、左手前に黒い鉄門が写り込んでいますね。この件も後で触れます。砧中の正門というわけではないのです。

ここまでが、一連のシーン。そして砧中・ムサコー通路のシーンは終了。二度と登場しないロケ地となります。

そして、これがこのシーンのロケ地となった道です。

2004.1.12

2004年1月12日に訪問した時に撮っておいた写真。しかし2004年なので、もう舗装もされているし、左の砧中学の塀が金網フェンスに変わっています。ガードレールの錆の具合から、右側は当時のままのようです。

但し、今現在は凄まじく様変わりしてしまっており、2006年の新校舎建設、グラウンド移設工事で、右手ムサコー側の体育館は消えてグラウンドになっています。

現在この道最拡大 (1)

この高台のスペースは学校だけの敷地で、当然にGoogle撮影車も入りませんから、上空撮影で最大に寄った画像しかありませんが、上の通りです。右手が変わり過ぎてて、もはや面影はゼロです。

現在のこの道

現在のGoogle画像で、各学校との位置関係です。少し見づらいですが、当時の学校名だと、右下赤丸が東横小、その上の赤丸がムサコー。左の赤丸は今も昔も砧中です。

74-78 地理院

こちらは1974年-78年の上空写真(地理院)に示した各学校(当時の校名)とロケ地(この細道)。これを見て分かる通り、右上に見えるのは東宝撮影所です。従って、このロケ地、制作会社である東宝からはすぐ近くなんです。

つまり、スポットロケ地ではあっても、縁も所縁もないような場所じゃない。むしろ手軽な近場ロケ。学校関係者しか通らない場所の、しかも細い抜け道みたいな細道なので、確かに一般人では見つけにくいでしょう。

78卒アルから
卒アル(1978年)の上空写真にロケ地を表示

ただ東宝は東横小のロケもしているし周辺には詳しいはず。誰かが「あの道でロケしよう」と言い出したものと推測できます。教室のスタジオセットが東宝撮影所内であれば、歩いて行ける場所。寅さんロケを松竹大船撮影所近くでひょいと撮っているような、ロケ地ハンター泣かせの裏ワザでしょう。


学校近くの山梨県上野原市をいくら探しても見つからない謎のロケ地です。

学園高台と156m先

このように、バス通り(成城六間通り)から、矢印の方向へ坂道を上っていくと、左手に東横学園小(現:東京都市大付属小)、科学技術学園高、砧中学、右手にムサコー(現:東京都市大付属中高)という具合に高台は学校村さながら。しかも今回のロケ地である156m先の細い道は車の通行が不能なので、いわば袋小路。

学校関係者以外は、ほんの限られた地域住民のみが抜け道に使うくらいでしょう。しかし私はこの高台で小中高と12年間過ごしましたが、一般人が歩いている姿は見たことないです。

ロケ地として特定できるわけがない。




ここで話を締めてしまうと、肺炎になった野次馬、いや、友人に申し訳ないので細かい検証をします。

飛び出せ ムサコー内か

後に小椋ひろ子として歌手となり、ポストあべ静江と言われ、さらに美原圭子として演歌歌手になった小椋寛子さん演ずる大島妙子が、金網ごしに見ているこのシーン。

当時の金網フェンスはムサコー側なので、どうやってムサコー敷地内にいるように見える彼女を撮影したか? という点。

これは以下になります。

飛び出す直前の撮影位置

というわけです。2004年撮影の写真で、ガードレールの下は金網がありません。ですから、ガードレール下からカメラを上図のように金網フェンスの向こうにいる彼女に向けたのです。

カメラアングル検証

でも、2004年ではそうでも、当時は....という見解もあるので、上の画像です。これは、1967年放送の、つまりこのロケの6年前に放送された「泣いてたまるか」48話で、丁度、この場所をムサコー側からのアングルで撮った映像です。

ご覧の通り、フェンスはガードレールの上に張られ、その下は空いています。カメラは1973年当時もこのスペースを利用できたはずです。

2004.1

これは、ロケ地細道(矢印)を2004年に撮った写真で、前掲した写真から少し引いたものです。右の黒い鉄門は、ムサコーの裏門です。ムサコー体育館の裏の敷地は通りよりも高くなっています。この写真だとよく見えませんが、緑色の金網フェンスはこちら側にも張られています。

細道を向こうから歩いてくる山本・柴田をこの白い壁のところに潜んで待っていて、飛び出して行った、という格好になります。

では、もうひとつ。

飛び出せシーン3

この飛び出してきた大島妙子を抱き上げる二人のシーンで、右手前に写っている黒い鉄門。

これはなんとなく記憶にあるんですよ。砧中のコンクリート塀の途中に黒い鉄扉があったような。

というのも、当時、第2グラウンドというのがこの細道の奥に向かい右手にあったのです(今は単なるグラウンド)。この第2グラウンドは多目的コートのようなもので、普通の体育の時間は第1グラウンド(今は校舎の底地)でしたが、特別な競技の体育などでは第2グラウンドへ移動していました。

第二グラウンド
卒アル(1978年)の航空写真から、第2グラウンドとロケ地

下校時に成城に寄り道するような場合、この細道も使えるのですが、いつもは反対側の正門から出て、成城の高級住宅街の並木道をブラブラ歩きましたので、第2グラウンドに移動する時しかこの細道は歩きませんでした。だから、ぼんやりとした記憶しかないのです。

但し、物証的には、1967年7月2日放送の「泣いてたまるか」(国際放映・TBS制作)48話でのムサコーロケ画像が役立ちます。

泣いてたまるか

まずこの黒い鉄門が、砧中の正門ではないということは、上の「泣いてたまるか」のワンシーンで分かるように、自動車の向こうにある門柱のある出入口が砧中の正門なんです。

生徒が立っている辺りから大島妙子は塀の方向へ飛び出していくわけです。右に入る細道がロケ現場。

泣いてたまるか 壁の隙間

「泣いてたまるか」の他のシーンで、メガネの生徒の後方に、砧中のグラウンドで野球をしている生徒が見えていますが、コンクリート塀がそこの辺りで、開かれているから見えるわけで、その部分に開閉できる扉があることが確認できますよね。

もう一度、最初の画像。注釈付きで。

泣いてたまるか 鉄門みたいなもの

メガネ生徒を映しているカメラ・アングルの背後(黄矢印)に、ちょっとだけコンクリート塀に仕切りのようなフレームが見えます。(白矢印)

もう少し角度が違えば見えるのですが、限られた映像記録の中では仕方ありません。ともかくコンクリート壁にはグラウンド内にいる生徒が見える間隙が開いていて、そこに門扉のフレームを感じられる枠が見え、そして、私の記憶の中にも、黒い門扉の映像が残っている....ということです。

飛び出せシーン3

だから、この左手前の黒い鉄扉は、あった、というわけです。そもそも写っているのですからね。正門とは別になんでこんな近い箇所に、こんな扉が設置されていたのかは知りません。砧中ももう正門付近はこんなに変わってしまっています。

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70年代の昔のことなんて誰が知るでしょうか。このロケの4年後に生まれ90年に入学された滝川クリステルさんの母校として今は有名です。(在学時のお写真もネットに流布していますが、流出画像かも知れませんので掲載は避けますね) 砧中卒業の無名人で、今はハーレーを乗り回している小学校時代の友人がいるので、聞いてみましょうか。

「どうしてそんなこと?」と訝ること確実ですが(笑)

※ その砧中出身の友人に聞いたら、やはり正門近くにこの鉄扉の門があったとの回答ありました。

そうなんですね。確かに仕事も〇ロナで大変なことになっているのに、どうして70年代の砧中の正門近くに鉄門扉があったのか? なんてことを考察している自分は少し.....

とか内省する間もなく

飛び出せ 教室

この「飛び出せ!青春」の教室シーン、何度見てもいいですねー。窓外のざっくりした木枝のデコが毎度スタジオっぽくて好きでした。

飛び出せ 授業シーン

授業風景も好きでしたね。学校という環境が楽しく感じられるインパクトが不思議なモチベアップをもたらす。ま、男子校でしたから、右半分にいる女子たちはみんな学ラン男子でしたが(笑)

飛び出せラーメン

この河野先生のインスタントラーメンの豪快な鍋からの直食い。「こういう食い方OKなんだ」と初めて知り、文明開化しました。ただ汁を飲むときに唇ヤケドしましたが(笑)

今でも、映像的にも内容的にも色んな感動を味わえる作品でした。タイトルクレジット見るだけでタイムスリップできるのが嬉しい。実家のお茶の間、学ランの自分、「おかえり」と言うおばあちゃんの声。そんなものまで味わえる「飛び出せ!青春」でした。

飛び出せ 東宝


でもしかし、次はいよいよムサコーロケバリバリの「さぼてんとマシュマロ」(1971-72)ですかね。石立シリーズのユニオン映画制作ですよ、これ。

追記

さぼてんとマシュマロ2話 鉄棒見える

というそばから、「さぼてんとマシュマロ」(日本テレビ・ユニオン映画)が入手可能となり、その中に上のようにチラッとこの場所が背後に映り込むシーンあり。
やはり鉄棒があったことが確認とれました ! 撮影時期は1971年なので、2年前です。やはり記憶というものはある程度は信用できる。まだ今のところ💧









※ 記事中のキャプチャ画像の著作権は文中に明示された各制作会社に帰属します。


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本日のちょっといい話 383 逆境を越え人生を拓く覚悟


著書


あなたは、いつ、成長されたでしょうか。


あの順風が続いたときだったでしょうか。
あの幸運が続いたときだったでしょうか。
あの成功が続いたときだったでしょうか。

実は、そうではない。

あなたが成長されたのは、逆境のときだったのではないでしょうか。

あの夜も眠れぬ日々。
あの胃が痛むような時間。
あの天を仰いだ一瞬。

そうした日々を、時間を、一瞬を与えられながら、それでも前に向かって歩み続け、懸命に歩み続け、ふと振り返ると、我々は成長している。

一人の人間として、成長している。

それが、人生の真実ではないでしょうか。

だから、あなたには、その逆境において、次の覚悟を定めて頂きたいのです。

大いなる何かが、
この逆境を与えることによって、
自分を育てようとしている。

いや、できることなら、さらに一歩踏み込み、より深い次の覚悟を定めて頂きたい。

大いなる何かが、
この逆境を与えることによって、
自分を育てようとしている。
そして、自分を育てることによって、
多くの人々の幸せのために、
素晴らしい何かを成し遂げさせようとしている。

では、なぜ、その覚悟を定めるのか。

それは、この覚悟を定めると、
心の奥深くから力と叡智が湧き起こってくるだけでなく、
人生において、想像を超えたことが起こるからです。
不思議と呼ぶべきことが起こるからです。



田坂広志著「すべては導かれている」より



チリ料理⇒テキサス⇒戦争について考える

やることないので、朝から昔の有名ドラマ「刑事コロンボ」で、コロンボがいつも軽食屋に入り食べていたチリという料理について調べていました。とりあえずメニューを見ているコロンボ刑事に店主は「どうせチリでしょ? それしか読めないのかい」などと声をかける....

chili
「刑事コロンボ」チリ・シーン

このコロンボの「チリ」は、豆や挽肉をチリパウダー入れて煮込んだメキシコ料理。しかしメキシコ料理だと言うとアメリカ人は「アメリカ料理だ」と否定するらしい。


そもそもこのチリを州料理として認定しているテキサス州は、長らくメキシコ領で、1845年になってやっとアメリカに。だから、すでにテキサスに定着していたメキシコ料理のチリは、アメリカ料理でもあるわけで、テキサス風のチリがあっと言う間に全米に広まり、クラムチャウダーレベルの一般的アメリカ料理になったので、まぁ、アメリカ料理だと言えるわけです。

そこで、「刑事コロンボ」が日本で放映されて大人気となった70年代初めでは、まだまだ「チリ」は日本人には馴染みのない料理でしたが、今ではカゴメですら買えます。

カゴメ チリ

この完熟トマト煮だとかビーンズスープでは、伝統好きなテキサスの元祖チリではなく、唐辛子以外の野菜は使わず、豆など入れるは「邪道」というテキサスでは「そんなのチリじゃねー」とか言われそう。

しかし私が食べたいのはコロンボがロサンゼルスのダイナーで「チリくれる?」と注文したときに出されるチリなので、これでいいのです。で、Amazonで頼んで今朝パンを漬けて食べました。もう何度か食べましたが(缶詰タイプ)、ま、コロンボ刑事ほどには好きになれない程度のおいしさ、です(笑)

そこで、どうしたわけかそのチリの本場テキサス州をGoogleEarthでさまよい歩いて、人口1000人程度の無名の田舎町の散策を始めました。

ウィンターズ
テキサス州のド田舎のセブン。青い車はMazda車

広々した平地に退屈な自動車道が延々と続き、ようやく辿り着く町も、人も車も少なく、通り沿いの店もFOR RENTになっている。そんなド田舎の町でも前後左右を走っている自動車はトヨタやホンダやニッサン。しかもセブンイレブンまである。今はともかく、日本って凄いんだなぁ、と改めて感じます。

フォードの前のトヨタタコマ
フォードの前にも、トヨタ車(笑) 手前のピックアップトラックはトヨタ・タコマ

しかし、こういうアメリカ南部の田舎って独特の雰囲気がありますね。なんであれ、こんな町に住んでいたら若い人は退屈で仕方なく、せめて州都オースティンかヒューストンくらいには行きたくなってしまいますよね。

ロック・ハドソン、ジェームズ・ディーンの1956年映画「ジャイアンツ」やロバート・デュヴァル、マイケル・ケインの2003年映画「ウォルター少年と夏の休日」とか、そんなテキサス舞台の映画を見たくなったこと以外、なんらの収穫もなくGoogleツアーを終えようとしていました。

テキサスの田舎なんて死ぬまで縁もない地球上の地域のひとつでしょう(笑)

ロバートリー

そんな縁のないアメリカ南部の町々を時間潰しに俯瞰していると、「ロバート・リー」という人口1000人を辛うじて超えている町がありました。ん? と思い最後にこの町に入ります。ロバート・リーと言えば、南北戦争の時の、南軍総司令官の名前。それがそのまんま町名になっている.....。

Robert-Edward-Lee
Robert Edward Lee 1807-70

しかしその町名はリー将軍の出身地とかでもなく、ただ南北戦争当時に近くに将軍が野営した、そんな程度の由来。でも、こんな小さな町にも「出身の有名人」とかいるのだろうか? とWiKiを読み進むと、フットボール選手や州知事や教授の中に、ドーリットル爆撃隊の六番機の機長ディーン・エドワード・ホールマーク少尉という名がありました。(後に中尉)

ドーリットル中佐の決死の東京初空襲は昭和17年(1942年)4月18日、まだ日本軍が優勢だった頃に、国威高揚のために決行された決死の東京爆撃作戦のことです。その6番機の機長がこの小さな田舎町の生まれだったというわけです。

しかも「ドーリットル空襲で焼けた祖父の印刷工場」でも話した、私にとっては因縁の爆撃作戦。

爆撃後、中国大陸に向けて逃げた爆撃機16機は、燃料も尽きるので不時着もしくはパラシュート降下し、ウラジオストックに不時着した1機以外は全損。日本軍が展開している地域に不時着・パラシュート降下した2機(6番機と16番機)の乗員中8名が捕虜となり、内3名が民間人への無差別掃射・爆撃の罪で処刑。ホールマーク少尉もその中の1人でした。

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Dean Edward Hallmark 1914-42

系図を調べると、彼には妹が一人おります。父親は1955年に、母親は69年に亡くなり、妹も96年にすでに亡くなっております(二度の結婚記録ありますが子の記載はなし)。彼自身はまだ結婚はしていなかったようです。享年28歳。

ホールマーク少尉も、混乱する状況下で爆弾を落として中国大陸に逃げ帰るという任務で、標的であった軍事工場・施設に命中させることは至難。仕方ない。しかし日本側も民間人、中学生が犠牲になっている事実もあるわけです。

無題

彼のことを書いたブログに「私の父方の曾祖母はセナ・V・ホールマークでした。ディーン(ホールマーク少尉)が日本の野蛮人に残酷に殺害されたとき、私はまだ2歳でした」なんて投稿が寄せられているのも事実。

ホールマークの墓
Dean Edward Hallmarkのアーリントン墓地での墓碑

こんなお互いに寛容になれない残酷性を現実化してしまうのが「戦争」ということですね。

ドーリットルが機長をしていた1番機の副操縦士リチャード・E・コール中尉が2019年103歳で亡くなり、もう関係者はいない。それでも、お互いを許せない気持ちがあるのです。母の学友の女子がドーリットル空襲の後に学校に来なくなり、後に犠牲になったと知り悲しんだと生前に聞きました。その後のB29による連日の爆撃、果ては原爆の投下による一般人大量殺戮は、アメリカ人を「野蛮人」ではないと言えるような歴史的事実なのか?

こんな状況を何十年も両国民に根付かしてしまうのが「戦争」です。

そんなことに思いを馳せて、Googleのテキサスツアーは終了しました。チリ料理から始まったのになんという結末か。





見える社長との日常会話

2006年頃に私が金融機関に在職していた頃、下北沢のとある飲食店に訪問したときのことです。

無題

そこは飲食店として高級店で、現在も営業しているので、画像はボケボケにしてあります。

オーナーがその日、事務所に入ってくると「いやだよなぁ」と私に言うのです。

「どうかしましたか?」と私。

オーナーは腰掛けるなり、「入口の近くに公衆電話あるよね。あそこの前にいつも立ってんだよ。今もいたよ」といつものように売上金をバッグから取り出しながらオーナー。

「立ってるって、もしかして?」と私はその言い方から察してそれが幽霊だと思い、返しました。

「え? もしかして見えるの?」とオーナー。

「全然」と私は手を左右に振ります。「口ぶりからしてそうかと」

「あれさぁ、いつも立ってんだよね。」オーナーは、どうでもいい日常会話をしているかのように言います。

「社長って、見えるタイプの人ですか?」

「見えちゃうんだよ、俺」とオーナーはニコニコして言います。

そして、あとの会話はもう忘れましたが、いつも通りの集金作業をして私は帰りました。

公衆電話
ちなみにその公衆電話はもうありませんでした。

そして帰りぎわに、その公衆電話の前に電話をしているフリをして立ちました。つまり、恐らくは地縛霊のように立っているはずの幽霊と重なるくらいの位置で。

生来、そういうことを信じつつも感じることのない私には、寒気も悪寒も気配も感じることなく、用もないのに公衆電話の受話器を手にしている自分がアホらしくなり立ち去りました。

久々に、その飲食店をストリートビューで見て、16年経った今も競争の激しい下北沢で健在なのを知り嬉しく感じました。
「見えちゃうんだよ、俺」と言って笑った社長、見えるからこそ勝ち組なのでは? とか思いました。





太陽にほえろ! 第87話でロケ地になった友人宅

日本テレビ・東宝制作の「太陽にほえろ!」は、石原裕次郎演ずる"ボス"率いる七曲署捜査一課の刑事らのドラマで誰でも知っています。なんと1972年7月から86年11月までの14年4ヶ月、全718話を放映した怪物・刑事ドラマなんです。



私が中学生になって3ヶ月経った頃から放送開始され、社会人5年のベテラン・サラリーマンになった頃まで、金曜夜8時といえば、「太陽にほえろ!」です。79年からTBSの裏番組として競合した「3年B組金八先生」が"金八"となったのも、すっかり定着した"金曜夜8時の「太陽にほえろ!」"の裏で放送していることを世に知らしめるためのネーミングだったそうです。

こんなオバケ番組が昔はあったんですね。

無題

ある日、私の小学校時代からの友人の杉田くんの父親が、息子たちに「うちが『太陽にほえろ!』に出るぞ」と爆弾発言をしました。彼が中学生の頃。当然に家中で盛り上がりました。超有名番組、しかも男の子たちからすれば憧れの刑事ドラマですからね。

彼の家は世田谷区某所で歯科医院を営んでおりました。劇中で刑事が捜査で歯科医院を訪ね歩くシーンがあり、その中に「杉田歯科」の看板が映り、杉田歯科に入ろうとする刑事のシーンがロケされた、というわけです。

放送リスト一部

しかし、杉田くんは、それがいつ頃の話だったか、記憶はおぼろげで、上記したように、全718話もあるし、私たちが中学を卒業する75年3月まででも141話もある。

ロケ地マニアのサイト運営者にも問い合わせましたが、すぐには分からないとのこと。はっきり申しまして、当時、私は「太陽にほえろ!」はそれほど夢中になって視聴していたわけでもなかったので、私自身の記憶も皆無だし、有無もなく即・迷宮入りとなりました。

杉田くんは、私のブログでもメインに登場する東横学園小の同級生で、あの東横小1/400スケールのペーパークラフトを作製した人物でもあります。しかし中学校は別で、その「太陽にほえろ!」ロケの件もリアルタイムでは聞いていませんでした。聞いたのはつい最近になってから、「太陽にほえろ!」301話で東横小がロケされた記事を書いている時です。

杉田東横模型
杉田くんが作製した東横小ペーパークラフト(1/400)

まぁ、こんな膨大な作品群の中から、そんなワンシーンを見つけ出すのは砂浜に落としたコンタクトレンズを探すが如しとあきらめておりました。しかし、なんのことはない、「『太陽にほえろ』『杉田歯科』」のキーワード検索でひょいと、その放送回について詳説しているサイトが見つかったのです。2024年に日本に1000億円投資しデータセンターを設立するGoogleをあなどってはいけません。

そのサイトによると、1974年3月15日放送の「太陽にほえろ!」第87話でした。私たちが中二を終える頃です。

そこで、この87話が見れるdailymotionで閲覧。

87話のタイトル
タイトルの背景は当時の新宿西口ロータリーですね。
島刑事
この島刑事(小野寺昭:演)が「殿下」と呼ばれていたことは、「太陽にほえろ!」を見ていなくても知っているほど、当時この番組は有名。後ろは松田優作で、彼が"ジーパン"と呼ばれていたことも知ってる。(第87話より)

ありました、ありました。

ある殺人事件の被害者が歯の治療痕があることから身元を割り出すべく、地元の歯科医を訪ね歩く島刑事(愛称:殿下。小野寺昭:演)のシーンで、いくつもの歯科医院の看板の連続カットが入り、その中に「杉田歯科」をついに発見。

太陽にほえろ! 第87話 島刑事その恋人の死
太陽にほえろ! 第87話 島刑事その恋人の死2
橋を渡る殿下

島刑事が歩道を歩きながらチラッと「杉田歯科」の看板に目を向けて、そこを訪ねるべく入って行くというワンシーンです。当時は普通に本物の歯科医院の看板を映し出して撮影に使用するのですね。

その中でも、最もいかにもそこへ入って行くという感じのシーンが「杉田歯科」でした。彼の父親が息子たちに自慢するのは無理もありません。

この川はM川で、この辺りは高級住宅地なのに開渠になっていて、通りに出るための小橋を家々で渡してあるそうです。蓋暗渠にして歩道にしない特別な理由があるのでしょうか。それはともかく、残念なお知らせがあります。

島刑事が渡っている小橋は、杉田歯科への橋ではないという事実です。映像を見た杉田くんの証言で分かりました。

カメラの位置

一本隣りのカメラ位置である橋が杉田歯科へ渡る橋ということです。
手摺が画面手前に写り込んでいますが、その橋が杉田歯科への橋で、島刑事が渡ろうとしている橋は別の橋。
手前に大きく看板が映り、それを見て島刑事が小橋を渡ったから演出的に問題ないとしたんでしょうね。その橋はなんでもない民家の橋です....

このシーンだけ

歯科医院の中での映像はこのワンカットだけ。この映像は杉田歯科ではないそうです。患者名簿を突合させているシーンとして台詞もありません。

島刑事が足を棒にして歯科医院巡りをやったお陰で被害者の身元が判明し、話は次の展開へと向かい、もう歯科医院の出番は終了です。

この壁

この黄丸の外壁ブロック。これこそ杉田歯科の壁です。

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これは現在のストリートビューで、杉田歯科医院のあった場所に建てられた家の川に面した部分の壁。

杉田家小学校当時
1971年頃の杉田家門扉近くの外壁。マスキング部分に銃を構えた杉田兄弟が写っている(笑)

これは当時のままのようです。杉田くんの家はすでに40年以上前に都外へ引っ越しており、自宅も医院も移っていますから、別の民家が建てられていますが、当時の川沿いの外壁(当時はそのまま玄関口まで囲んでいた壁)は今も残っています。

渡っている小橋

この島刑事が渡っている小橋。気のせいか緑色に見えます。

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これが現在の同じ小橋。緑色です。...48年間、同じかよ ! と怖くなります。

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タイムラインで2016年以前のこの小橋を見ると、上のようにグレーなので同じではないようです。しかし構造は同じような....。島刑事が渡った48年前の橋とはどうなんでしょうか。

1971年頃の小橋
1971年頃の小学時代、杉田兄弟登校風景の右後ろに見える小橋

このM川の小橋は、杉田くんの家に遊びに行ったときの記憶に残っています。子供の頃に彼はよくこの小橋から1.5m下の川に落ちたそうで、川底はぬかっていてなかなか足が抜けなかったと、当時の恐怖体験を語っています。

先月の10日に母の三回忌で菩提寺に墓参してきたのですが、その時にこの地点からほんの70m程度のところを歩いているんですね。地図で位置関係を見ないと何も分からないもので、驚きました。

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1976年10月31日登場のビクターVHS1号機HR-3300 但し256,000円。

ちなみにこの87話放送後、杉田歯科の電話番号付きの看板の大写しのお陰で、医院には無言電話や「あ、本当にあるんだぁ」とかの電話が鳴り響き、お父さんは「もう撮影なんて協力せんぞ」と怒っておられたそうです(笑) 76年にビデオデッキが発売される以前なのに、よくこんな一瞬のカットに映った電話番号をメモるヤツがいるものだと感心します。(もうこの電話番号は43年前に無効になっています)








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本日のちょっといい話 382 喜びや楽しみに素直に従え

運命の法則

喜びや楽しみの源泉であり、しかも好運を呼ぶ「フロー」。その存在を知ったなら、誰しもその恩恵に浴したいと思うだろう。

ところがそうは簡単にいかない。

ちょっとした「マイクロフロー」を別にすれば、ほとんどの人の日常生活は本格的なフローには縁遠い。だからこそ人は「フロー」を経験するために、わざわざ遠くまでロッククライミングなどに出かけたりするのだろう。

「フロー」に入るためには、いくつかのコツがあるが、その中で最も基本的なのが、内発的報酬にすなおに従う、ということだ。つまり、心の底からこみ上げてくる喜びや楽しみに、敏感に耳を傾けなくてはいけない。

これは意外に難しい。

じつは私たちは幼少のころから、それとはまったく逆の教育を刷り込まれてしまっているのだ。たえず他人と優劣が比較され、競争の勝者のみが価値を認められる環境の中で長年過ごしてきている。

金銭、地位、名誉、あるいはマイホームなどを目指して、必死に努力することが正しい人生だと信じている。そして、そのために費やしている時間を有効な時間と考え、それ以外は時間を浪費している、と考えている。

つまり、ほとんどの人は「外発的報酬」中心の人生を送っているのだ。表現を変えれば「エゴの追求」を中心とした人生、ともいえる。

(中略)

今の社会では、競争は善だし、その源である「外発的報酬」「エゴの追求」は大いに肯定されている。むしろ、自由な競争を阻害する要因を排除することが、社会運営の基本になっている。

(中略)

経済学では、人々が合理的に「外発的報酬」を追い求める、という前提のもとに、すべての理論が構築されている。

(中略)

そのため、ほとんどの人が生来持ち合わせている、人間としてはきわめて自然な、心の底からの喜びや楽しみの要求、つまり「内発的報酬」を感じにくくなってしまっている。

「人間は外発的報酬による妨害がなくなったとき、はじめて内発的報酬により容易に反応できる」(チクセントミハイ)

本に書いたのは成功したプロジェクトの話だけだが、その陰にはその数百倍の失敗したプロジェクトがある。どうしてもチームの中に「これを成功させて出世したい」とか、「あいつに勝ちたい」とか、いわゆる外発的報酬を追い求める人がいると「燃える集団」のスイッチが入らないのだ。

(中略)

なにしろ、今の社会を推進している原動力である地位、名誉、金銭の追求を、すべてヨコシマな動機としてバッサリ切り捨てているのだ。あまりにも一般常識とはかけ離れた記述だと思う。それだけに、チクセントミハイが、同じ趣旨の主張をしているのを知って嬉しかった。

「自己目的的なパーソナリティを創り出す方法を知っている社会は、外発的動機づけにのみ頼っている社会に比べて、より幸福であり効率的だ」(チクセントミハイ)

ここで、「自己目的的なパーソナリティ」と称しているのは、内発的報酬に基づいて素直に行動できる人のことを指している。





著者の天外伺朗はCDの開発者として有名な土井利忠氏のペンネーム。

ドラマ「雑居時代」 冬子の東京女学館ロケの人情

ロケ地は栗山家が成城3丁目にあったので、成城地区が多く、第8話で母校・東横小のすぐ近くの世田谷区立明正小学校が末妹の阿万里の通う学校として登場していることは「コメットさん」でも書きました。

山口いづみ
ドラマ「雑居時代」の四女・栗山冬子役の山口いづみさん

しかし都心部のロケも多く、女子大生である四女・冬子のシーンなどもそうです。亜細亜(ここは武蔵野市ですが)や渋谷区の青学や千代田区の上智などの近くでロケをしています。

6話 女学館前
東京女学館前の歩道のロケシーン

その中に渋谷区広尾のロケが1ヶ所あるんです。冬子が大学の友人と下校するシーンで使われたのが広尾の東京女学館前の歩道。第6話(1973年11月7日放送)です。友達のデコと二人で「モデルになる」チャンスについて語り合っているのです。

2021東京女学館 (1)
現在の東京女学館。1994-98年の新築工事で73年当時は偲べない。守衛さんはロケ画像の後ろに映っている当時の守衛さんよりずっと姿勢がいい(笑)

東京女学館シーンはこの6話だけですが、実は冬子役の山口いづみさんは、実際にこのお嬢様学校で有名な東京女学館の生徒でした。しかし芸能活動など許さない高校で彼女は中退を余儀なくしています。(ピアノ発表会に出るにも許可を得るほど厳しい校則とのこと。やはり東京女学館高の1年後輩だった浅田美代子も73年2月のデビュー前に中退しています)

6話 女学館前3

山口いづみさんのデビューはライオン奥様劇場の「続・大奥の女たち」で72年初め、つまり高2の頃に中退していると思いますので、在学期からまだ1年数ヶ月しか経っていません。この第6話放送年である73年の3月に彼女の級友たちは女学館を卒業したばかりです。

6話 女学館前4
右後ろに見える青い球体の灰皿、懐かしすぎます。

中学から女学館だった彼女にとって思い出深い母校の前で、当時、大人気だった石立ドラマのレギュラー女優としてロケをして、しかも友達と「モデルデビュー」についての計画を語るシーンを撮ったわけです。気分最高でしょう。


6話 女学館前2
「売り出すチャンスだったのに〜」と会話は弾む。第6話のタイトルは"青春は冒険の季節"

まさにタイトル通り「青春は冒険の季節」を体感している彼女は、故郷に錦を飾るような思いで撮影に臨んだことだと思います。それにしても東京女学館前のロケを決行するユニオン映画の制作の人たちもイキですねー。

過密スケジュールの中にも愛がある。
70年代ってそんな良き時代なんですね。



余談

2013東京女学館
2013年Google画像には東京女学館の生徒が写り込んでいます。

この東京女学館、冬でもクリーム・ホワイトのセーラー服で大人気。"渋谷の白鳥"とか呼ばれています。私の時代も「女学館の制服可愛いよな」とは言われており、今も変わらないデザイン。世田谷の我が校との接点は、せいぜい渋谷に寄り道した時に見掛ける程度でしたが、「お嬢様女子校でカワイイのが多い」とはすでに言われておりました。

両校の制服
左が東京女学館。右が目黒星美学園(当時の制服・冬は上に黒いブレザー着る)。今はどちらも地味な感じですが、街中で見掛けた当時のイメージは両校とも抜群のインパクトでした。

制服ランキングでは当時から不動の上位。世田谷の日大桜ヶ丘もかなりの人気でしたが、私の学校の近くにあって交流の盛んだった目黒星美学園("目黒"なのに所在は世田谷)の制服も評判で、1977年制服ランキングでは東京女学館が1位、目黒星美学園が2位でしたが、翌78年は逆転し目黒星美学園が1位、東京女学館が2位に。当時の日記で私も喜んでいます。女子校同士の、白い女学館VS黒い星美の対決は当時は評判でした。

山口いづみとの対談でテリー伊藤が「東京女学館の制服って、東京で一番可愛かった」とか言っていますが、2番になったこともあるんですよー。


今はその星美も全く違う制服となり、見る影もありませんが、女学館の向こうを張って善戦したものです。(制服だけの話ですが)




制作


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大昔、暴れん坊の悪ガキ。少し昔、おごりたかぶる勝ち組ビジネスマン。そして今、「見ろよ、青い空〜白い雲〜」の歌の境地。
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papeは、我が家の雑種犬の名前です。
FP2級技能士だったり、メンタルケア心理士だったり、フランス歴史オタクだったりですが、スピリチュアル系記事多いです。
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