青い空に白い雲

このブログ、新しい記事ばかりでなく、カテゴリ別に適当に拾って読んで下されば幸いです。日記じゃないので....

東横学園大倉山高等学校 心の中の山桜はずっと満開

五島育英会の運営する東京都市大グループには、東急自動車学校はともかくとして、東京都市大〇〇の名のもとに、大学一つと高校三つ、中学二つ、小学校一つと幼稚園一つがあります。

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しかし、武蔵工大が東京都市大になり"東京都市大グループ"が成立することで系列校を一斉に校名変更し統一する2009年までに、二つの学校が統廃合されているのです。

一つが東横女子短期大学。これは武蔵工大に統合され、工業大学だったものを文科系もある総合大学へと変容させました。そしてもう一つが、横浜にあった東横学園大倉山高等学校です。ここは世田谷区等々力にあった姉妹校・東横学園高等学校に統合されました。

東横学園女子短大は都市大世田谷キャンパスとして残りましたが、東横学園大倉山高校は移転統合し、すでに大倉山には存在しません。

都市大グループ

大倉山は、もともとは単体の学校法人が運営する女子高等学校で、五島育英会と合併することで東横の名称になった学校です。東横学園として世田谷と横浜に分かれて二つの女子高が併設されたわけです。大倉山・等々力とそれぞれ呼び分けていた二校が、2008年、等々力に合体し、大倉山の校舎は閉鎖、敷地は売却されました。そして翌年には校名も東京都市大等々力高等学校に変更され、東横名は我が母校の小学校も含めて消滅。

2008年と言えば、我が東横学園小の解体工事が着工になった年。五島育英会傘下の各校は、すでに都市大グループ編成に向けて大きく動き始めていました。

東横小の同期の女子たちの多くが東横学園に進学しましたが、それはいわゆる等々力校の方です。

大倉山校mixi
かつてmixiには291人もメンバーがカウントされていて大盛況のようでした。

この統廃合の面倒臭い話はさておいて、ともかく横浜にあった系列校の東横学園大倉山校はすでに2006年から新入生の受け入れを中止し、2008年3月に最後の在校生が卒業すると同時に等々力校に合流(と言っても生徒はいない)、2009年に成立する都市大学等々力高等学校の前身となったわけです。

なんで私の進学した武蔵工大付属中高は「付属」で、こちらの東横系の中高が「付属」が付かないのかは知りません。

梅宮アンナさんと恩師・学友
梅宮アンナさんと東横学園大倉山高の恩師・級友(梅宮アンナofficial blogより)

ともかくこの大倉山校は一学年ニクラスの小規模編成を50年堅持し(ベビーブーム期はさすがに四クラス編成にした時期もあり)、校長ですら生徒の名前を全部知っているようなアットホームな校風を貫きました。また姉妹校と同じ制服でしたが、等々力校が1991年コシノヒロコ・デザインの制服に変更した後も当初の制服を変えず、卒業生の梅宮アンナさんは、「制服が可愛い !」と、この大倉山を受験し入ったくらいでした。

大倉山制服1大倉山制服2
梅宮アンナさんもカワイイと絶賛の大倉山の制服。アンナさんは他の系列校から、わざわざ受験してまで東横大倉山に入り、閉校後も恩師・級友と会い在校時代を懐かしんでいます。

確かに、この大倉山校が長年使用した制服、私たちの小学校同期の女子らが当時着ていた制服と同じです。等々力校の卒業生らも大倉山の制服を見ては青春を懐かしんだそうです。また2008年最後の卒業式が終わった後も、生徒たちが制服を着て学校に集合したり、最後まで皆に愛された制服だったんですね。

image (2)

横浜市港北区の大倉山の高台にある校舎には、生徒が大切にしていたヤマザクラがあり、彼女らのシンボルになっていて、この校舎敷地の開発業者ですら「
東横学園大倉山高校の校舎を取り壊す前、生徒が『みんなの心の中で、山桜がずーっと満開』と書き残していたことに応えて、高校時代に生徒たちに愛されていたという山桜を植樹し、思い出と景観の継承に努めた。高校の卒業生、関係者がこの地を再び訪れたとき、この山桜を見て青春時代を懐かしんでもらえれば嬉しい」と新築マンションのエントランス近くに植樹し保存したそうです。

image解体工事
シンボルの山桜と2011年8月の解体工事

この大倉山校の統合が決定したのは2005年。そして翌年、新入生募集を中止しました。その時の校長先生(重永睦夫氏)が、小規模校ながら生徒たちにこれまで愛された大倉山校の閉鎖に際して、断腸の思いで統廃合の校務を最後の校長として引き受けながらも、卒業生たちの悲しみを少しでも和らげようと始めたのが「
校長日記」というブログ。

校長日記


これが実に素晴らしいのです。

通常の校務に統合・移転・撤去という激務が加わりつつも、第一に卒業生たちの思いを優先したこの校長先生の優しさには、系列校とは言えあまり縁のなかった学校の校長先生ですが、本当に涙が出てしまうほど心を打たれます。(重永氏はその後、五島育英会総合計画室に異動の後、我が母校・東京都市大付属小の校長を2021年3月末までの11年お勤めされたようです)

校長日記Blogには、2008年まではその都度の学校行事や生徒らの日常を画像付きで紹介。最後の卒業式では、校長が泣いてはダメだと我慢しながらも、
答辞を読み終えた生徒会長が「重永先生が校長で、佐野先生が教頭で本当に良かった。この学校の卒業生であることを誇りに思う」と言葉を加えた途端に泣き出してしまう姿も登場します。

大倉山模型2大倉山模型
外部の人が作ってくれた大倉山校の模型。校舎取り壊しとなると、東横小のように模型作りたくなるのです。(追記あり)

そして大倉山が閉鎖となって先生・職員も他の系列校に散り散りに異動した後は、過去の大倉山校で撮りだめた校内写真をアップし、懐かしい行事の話、系列校で再会した先生たちや職員たちの近況、卒業生たちからの手紙やコメント等を、母校を懐かしむ卒業生たちの視点に立って掲載し続けています。

2008年4月11日付の産経新聞に「"停車場ストーリー"東急東横線・大倉山駅 永遠の"心の始発駅" 学舎消えるとも」と題した記事で、校長日記を続ける先生や卒業した生徒がインタビューされたこともありました。記事は「大倉山は"心の始発駅"として、巣立っていった生徒たちの中にあり続ける」と結ばれています。

五島育英会

大きな学校法人の企業戦略の中で様々なムーブメントが巻き起こり、東横小の校舎解体、校名変更のみならず、系列の学校を舞台に様々な物語が展開していたのですね。

東横小の黒板好き東横の落書き
東横小学校解体前の校内に残された落書き「東横LOVE」「ありがとう東横」「好き東横」

しかし大倉山にはこのような生徒の気持ちをくんだ校長先生がいて羨ましい限りです。統合後すでに14年の歳月が流れ最後の卒業生すら30歳を超えたのに、このBlogの中で今でも脈々と「東横学園大倉山高等学校」の歴史が語り継がれ、その過去が生き生きと再生されているのですからね。

長大にして永遠の卒業アルバム。

卒業生の皆さんにとって、青春期の思い出は永遠に「過去」ではあり得ないし、産経新聞の記事ではありませんが「心の始発駅」そのもの。すべてがそこから始まり、今も続いているストーリーなのです。

こんなTwitterがありました。

Twitter

これは、恐らく東横学園等々力校の最後の卒業生によるものでしょう。彼女たちは学校もそのままで、統廃合を免れ存続した側です。それでも、共学化し校名も東京都市大等々力高となることに反発したのでしょうか。

それぞれに母校には思い入れがあり、形態や名称が変わることへの抵抗感があるのですね。ムサコー生たちはトシコ―生になる時、どんな思いだったのか? 当時の私だったら、「卒業したら武蔵工大付高出身って言うのか、東京都市大付高出身って言うのか、どっちだよ、面倒臭ぇなー」程度のリアクションだったでしょう。

それでも、名前が消滅したこと、校舎がなくなったこと、それは今にしてとても寂しい思いが胸中にあるのは事実です。長髪チャラ男のダラけた高校生だったこの私にすら、です。

夕映えの校舎
校長日記より拝借した、"夕映えの校舎" 

せめてこの「校長日記」のような存在が、それぞれの青春時代の思い出の舞台を照らすスポットライトを灯し続けてくれたら、そんな哀感も癒されるのではないかなぁ、と思います。大倉山の生徒さんたちが羨ましい。部外者から見ても、校長日記の各ページで垣間見るその過去の営みは、アーカイブではなくメモリーとして美しいし、彼女らが母校を愛してやまない気持ちに共鳴してしまいます。

2004.1.12ムサコー裏門
在りし日の武蔵工大付属校の体育館と校舎(2004年撮影) こちらもちょっと "夕映えの校舎"

私も東横小のことばかり書かないで、少しは我が青春の武蔵工大付属校のことも書かないとなぁ。




追記

杉田東横模型杉田東横模型2

これは、やはり2008年解体された旧・東横学園小学校の復元模型です。16期(6年東組)の同期・杉田が去年、緊急事態宣言中のヒマ潰しに作製。歯科医なので器用なものです。国旗掲揚台のポールが三本だったとか、ステンドグラスは我々の2期後輩の18期生の卒業作品で我々の在学中にはなかったとか、スクールバスのボディの緑色の部分は青色だったのではないかとか、色々と他の同期生からの情報や遠い記憶が錯綜しましたが.....。

ちなみに杉田は前掲した、りすの森さん製作の大倉山校の復元模型を見て「すげーなぁ、負けたなぁ」と言ってました(笑)

⇒ 関連記事:「怪獣に破壊された東横学園小学校は、リアルではこうして消滅した








東横学園小学校の消えた時計塔

今回は、一連の東横小の記事を書いている中で、あの東横小シンボルの時計塔がいつの間にか消えてしまっていることに気づいて、その件について記事中であまり長々と触れることが出来なかったため、ここにまとめておきます。

1972時計台卒アル
1972年卒アルより

あの時計塔は、当時、正門を入ってすぐ右手前方にそびえ立っておりました。守衛さんのいる受付事務所の建物(職員室のある平屋の建物と一体で、北側の端)の屋根から突き出るような構造物でした。

見ての通り、かなりの高さで目立っておりますので、東横小のビッグ・ベン、シンボルタワーでもありましたが、在校生であった私たちは、この時計塔の大時計で時間を見ることはほぼ皆無。肝心な時計の役目の方はやや疑問な"時計塔"でした。

1968科学技術学園校歌レコードジャケ
平屋の職員棟と時計塔。1968年。隣りの科学技術学園卒業生のための校歌レコードのジャケット写真。東横小の屋上からのアングルと推定されますが、肝心な科学技術学園の校舎よりも時計塔が目立っている(笑)

プールサイドの西側にあった私たちの時代の平屋の職員棟が、私たちの卒業後の1977年に解体され、「特別教室・管理棟」として新築された際に、当然にこの平屋の建物と一体化している時計塔も撤去されたものと思っていました。

facebookカバー写真と同じ学校パンフ 年代不詳ドリちゃん19話

ところが、完成した「特別教室・管理棟」を写した東横小のパンフレット写真の横に、あるいは翌1978年に放映されたテレビ朝日「透明ドリちゃん」にも時計塔が映り込んでいるのが分かり、時計塔がその後も存在し続けていることが判明したのです。

ムサコー 1978卒アル
1978年卒アルの武蔵工大付属中高(右) 左下のムサコー校歌とかぶっている部分が東横小だが、平屋の職員棟が写っているので、この上空写真は1977年以前の撮影であることが分かる。

1978年3月に小学校正門の向かい側にある系列校である武蔵工大付属高校(現:東京都市大付属高)を卒業した私は、この「特別教室・管理棟」の建設工事中もお向かいにいたわけで、時計塔がそのまま建っていたことも見知っているはずなのに、記憶ゼロ。

東横小facebookカバー写真
この学校パンフレットは、特別教室が大写しされた写真に校歌を載せるなど、新築部分をことさらに前面に出しているから、恐らく特別教室を建てた1977年からほど遠くない年度に発行されたものと推測される。

3月7日、高校の卒業式の帰りに、東横小卒業生4人で小学校に寄って、担任だった先生二人と会って長々と学校で話し込んでいます。また同月21日には小学校のクラス会で小学校に集合してから成城に移動していますから、1978年3月に
2度も東横小に行っているわけです。

1978.1.14放映ドリ2話
1978年1月12日放映の「透明ドリちゃん」2話。この2ヶ月後に私たちは高校卒業式の帰りに東横小に寄っていることになる。在校当時とかなり正門が変わっているのに驚いたハズだが...

恐らく新しく建てられた「特別教室・管理棟」の話も出ていたことでしょうが、日記に記載はなく、受験も終わり、4月から大学生という解放感のまま、遊びの話ばかり。その時、一緒だった友人も母校を見て、なんの記憶もないと言ってます(笑) 

当時の私
当時の長髪チャラ男の私。

自分たちの知らない真新しい建物が建っている小学校の状況について何らの感慨もないのでしょうね。卒業後も中高6年間、あまりに近くに東横小はあり、何度かクラス会の時に遊びに寄ったし、身近な存在過ぎたのかも知れません。


1976少年探偵団21話 好きなアングルの時計塔社長千一夜1967.1.1  4
日本テレビ「少年探偵団BD7」21話(1976)と東宝映画「社長千一夜」(1967)

ともかく、リアルタイムで現地訪問しているのに、なんの記載もなしです。同年5月26日も東横小の前で人と待ち合わせているが、そのあと二子玉川に向かったとあるのみ。無関心もよいところです(笑) 翌79年6月2日にも、大学サボった私と浪人中の友人とまた東横小に行き、先生と語り合い、そのまま先生と成城に向かい、ご馳走になったりしているが、小学校関係の話はチラリとも記していない。


2004.1.12東横小南から正門を2004.1 時計塔はいずこ。

そして、ずっーと歳月は流れて、2004年1月に家族で東横小に寄った時、懐かしいので周辺の写真を撮りまくっていましたが、最近になって改めて写真を見たら、時計塔が消えてなくなっていることに初めて気づきました。

2004.1.12東横小

この正門からの写真にも、時計塔は写っていません。

そうなんです。まだ旧校舎時代の2004年1月なのに時計塔はすでに消えていたのです。

そこで、Googleのタイムラインで上空写真をさかのぼって見ましょう。

2007.1.1

これは2007年1月1日の撮影画像。時計塔がないのは当たり前ですが、上から見ると、「特別教室・管理棟」の建物は、古い平屋の職員棟を全て解体して建てたのではなく、北側の守衛室の部分を残して建てられたのが分かります。つまり、時計塔がにょっきりと立っていた箇所は残存していて、矢印の先の白い長方形の部分を見ると分かるように、時計塔が根元から切除された痕跡が確認できます。

2003.12.30

これは写りが悪いですが、2003年12月30日撮影の画像。残念ながら私が2004年に訪問した時に撮影したのは1月12日で、その2週間前の画像だから、時計塔はなくて当然。同じような白い"痕跡"だけが確認できます。

1997.1.1

そしてこれは1997年1月1日撮影の画像で、タイムライン最古です。それなのに、若干、写りが良くない。しかし、時計塔のあるべき箇所に、長い影のようなものが視認できますね。樹木の影は東からの陽光で伸びていますが、これが時計塔の影だとしたら逆です。

そこで、このボケボケ画像を拡大して見ましょう。

1997.1.1画像拡大

と、影だと感じていた部分が実は時計塔そのもので、その後ろに時計塔の影らしきものも確認できるではありませんか。ボケ画像なので、コンクリート色で屋根と同化していて、陽の当たらぬ時計塔の裏面がやや暗くなり、影のように見えていただけなんですね。

樹木の影と同様に、その後ろにちゃんと影が伸びているのが分かるから、間違いないでしょう。

1972正門
1972年卒アルより

世紀の発見ではありませんが、少なくとも1997年1月1日にはまだ時計塔は存在していた ! ということです。

1997年1月〜2003年12月の間の丸7年のどこかで、時計塔の解体が行われた、ということです。でもどうして、2008年7月の旧校舎解体と続く新校舎建築の大工事を待たずして、時計塔だけ単体でわざわざ解体工事をしたのでしょうか? あんな高い構造物、しかもシンボルじみた存在を、厄介な作業をともなう解体工事などして取り除く必要があったのか?

「続・社長千一夜」1967年6月3日放映ビビューン 時計塔背後に
1967年東宝映画「続・社長千一夜」・1976年NET「超神ビビューン」8話

もはや、これは、誰にも分からない謎です。当時の学校法人関係者にしか分からない。あまりに高い構造物だし、恐らく1963年に用賀からこの地に移転して校舎を建てた時から存在していた時計塔だと思いますので、その安全性に問題でも生じたのでしょうか。

壁の時計

この2004年に写っていた校舎2階の中央部の大時計は、きっと時計塔解体にともなって設置されたものだと思います。そもそも時計塔の時計を仰ぎ見て時間を確認したことなんてないので、この時計の方が実用的ではあります(笑) 

遅いわねーとマジョ
「少年探偵団BD7」17話(1976)ではマジョが時計塔を見ながら「遅いわねー、ゴムカン」と仲間を心配しているが、当時の生徒で時計塔で時間確認なんてする者はいなかった。そもそも高すぎてよく見えない。

ともかく私たちの時代には間違いなく、校舎の壁面の大時計はなかった。

社長千一夜1967.1.1  2facebookに投稿された画像
左は東宝映画「社長千一夜」(1967)だが、1月1日公開なので撮影は私たちが入学した66年と思われ、「泣いてたまるか」も含めた他のロケ作品より一番古い。右は東横小パンフ画像。1977年以降。どちらにも校舎の大時計はない。

この大時計の設置が、恐らく時計塔の解体の時期と一致するものと思えます。

2010年2月18日、たまたま営業車で東横小近くを通りかかった私は、気楽に小学校の駐車場に車を入れて学校に立ち寄りました。新校舎竣工式が2009年4月6日なので、東横小が東京都市大付属小と校名変更し全面的に変貌を遂げた直後。


都市大付属小

その時に感じた違和感は、「想い出空間」という記事にも書きましたが、もはや懐かしい「母校」という雰囲気ではなく、成城地区という高級住宅地にある一小学校。見知らぬピカピカの新築校舎と相俟って、なんとなく想い出がすべて時の向こうの彼方へと押しやられてしまったことを体感しました。

1976少年探偵団17話 冒頭シーン 時計塔の時計アップ
日本テレビ「少年探偵団BD7」17話(1976) 時計塔の時計

時計塔のことなんて、今は誰も気にしている人はいないでしょう。私自身が気にしないで、同じ高台にある高校を卒業して行き、何年も経ってから何年も前に撮った写真を見て時計塔がないことに気づいたくらいですから。

そうこうする内に、時代が移り、校舎も校名も消えて、すべては時の向こう。先生方も亡くなり、ランドセル背負ってた生徒らも今は白髪かハゲのシニア世代。やれやれです。

次回は、そんな東横小ばかりではなく、系列の東横学園高校の話でもしましょうか。東横学園大倉山校は卒業生の愛校精神が豊かで素晴らしいです。






※ 記事中のキャプチャ画像の著作権は上に明示された各制作会社に帰属します。













本日のちょっといい話 357 中今とパワー・オブ・ナウ

長年、救急医療の現場で働いてきた医学博士で東大名誉教授の矢作直樹氏も、"今を生きる"ことの重要性を熱く熱く説いております。

すでに緊急医療の現場で、医学(科学)では計り知れない人の命・魂の存在についてスピリチュアルな見解を持ち、そしてその数多ある著書の中で、繰り返しそのことを発信しておられる医学博士です。

神様からのお便り

「神様からのお便り」という矢作氏の著書の中にも、以下のような"今を生きる"ことの大切さ、そしてそのテクニックについてのアドバイスがあります。


人は皆、大いなる存在に生かされているのです。だから死なんて心配せず、意識もせず、今に集中して生きることが大切であり、何よりも今という瞬間を楽しむことが最も重要なのです。

硬い話になりますが、「今という瞬間を楽しむこと」を、「中今」といいます。これは神道から継承されている考え方です。意識を「過去」や「未来」に合わせるのではなく、「今」という時間を大切にして、「今この瞬間を無心に生きる、楽しむ」という感覚のことです。

やはり何かひとつ好きなこと、没我状況になれるものを持っておく、というのが実際的な方法です。単純に童心、無心になれる方法であれば、何でもよいのです。

誰もが「今から、中今になろう」と思ってなれるわけではありませんし、中今の状態になれないことが悪いわけでもありません。特に熱中できることがなければ、たとえば料理や軽い運動で体を動かすだけでもいいんです。それを意識的に行うことです。大事なことは、のんべんだらりと、ながら作業をするのではなく、感謝しながら楽しむことです。

もし「中今」に意識を合わせることが難しいなら、ご自身の行動を実況中継する練習をしてみて下さい。

たとえば「今、私は手を伸ばすことができました。ありがとう。そしてコップを持つことができました。ありがとう。それから肘を曲げて、コップを口に近づけて、水を一口飲むことができました。ありがとう」という具合です。

自分の行動や所作を丁寧に行うと、想像以上に集中力が必要です。そして、余計なことを考えそうになるのを防ぐことができます。それは単に忙しくして不安を忘れる、というのではなく、今を丁寧に生きることにつながりますから。

エックハルトトールの講演

なるほどです。パワー・オブ・ナウのエックハルト・トールもアメリカでの講演の席で、水差しのコップを手に取って、「人は水を飲もうとコップを手にすると同時に、コップをテーブルに戻すことを思考している」と、いかに今この時の瞬間に対しての集中がなく、常に先のことばかり思考して生きているかを語っていましたね。

という私もこれをキーボードで打ちながら、そろそろ出掛けなくてはならないから、キリの良いところまで打とう、とか思考している....。

Eckhart Tolle
Eckhart Tolle

(帰宅しました)ただ、たとえば次の予定があり、逆算してそれに間に合わせるために行動管理する、という点では思考は有意義なのです。そうしないと世の中は大変なことになりますからね。しかし、エックハルト・トールはその何気ない動作ですら、先走った思考、つまり未来へ未来へと思考して、目の前の現実に何ら集中していないことに、全人共通の「生き方、その人生の真実」を揶揄しているわけです。


よく未来志向とか言いますが、残念ながら我々の頭脳は生理学的に、あまり発展的な未来像を描かないシステムなのです。つまり、未来を思う=不安・心配になる、です。

negative

そしてずっとそのネガティブな想念に包まれながら生きていき、与えられた幸福を味わうことすらしない。感謝もしない。これじゃ、始末に負えないわけです。


矢作氏も同著の中で朱書きしています。

不安や恐れ、心配-----そういった負の感情やストレスを抱え込まないことです。思考は現実化します。特にネガティブなことは実現してしまいがちです。

自分で思考してネガティブ波動を全開にして、それが実現してしまうと「予感がした」とか言ってる人、ちょっと滑稽ですよね。引き寄せているだけなのに。

ともかく、そのような生き方、日々の過ごし方、時々刻々の姿勢、それがどれだけ人生を暗転されているかということ、だからその習慣を改めようと言っているだけです。

Eckhart-Tolle-English-Books-The-Power-of-Now

しかし、そんな簡単なことがどうして一冊の本になるのかと言えば、長年のその習慣を改めることが困難であるからです。やって見れば分かります。

私も今さっき、一回帰宅してすぐにまた出掛けるので、ひょいとマスクを外して鍵置きの近くに置いたきり、それを探し回っていました。無意識の動作。その時、私は例によって、すぐに出掛ける面倒臭い用件のことだけ思考してイライラしていたのです。

忘れられたマスク

こんなことを書いてても、そのそばから、やらかしているわけで、唖然とします。


それほど思考というものは、私たちの習慣になっていて、意識して取り払おうとしても、悪霊のようにひっついてくる。矢作氏のおっしゃる「中今」は、それほどまでに困難なのです。

動作中ですらこれなのですからね。世の中、事故が多いわけです。....

矢作氏の推奨する「実況中継法」も、なかなか面白いですね。私は、シナリオライターが主人公の様子を文章化しているような形でやってみたいと思います。

scenario

彼は緑色のスウェットを着て、パソコンに向かっている。暖房が弱風の心地良い風を静かに吐き出し、西日の差す窓にはレースのカーテンがかかっている。彼は手慣れた手付きでキャメルのメンソール・コールドの箱から一本スティックを取り出すと、パソコン画面に目をやったままデバイスの中に差し込んだ。.....

とか。どうでしょう? 自分を物語の中の主人公として情景描写する方法。

まぁ、ともかくこの「中今」(パワー・オブ・ナウ)は、人生にとっても、個体としての健康にとっても、精神衛生にとっても、また今後の運気にとっても、大変に重要なポイントとして、日本のみならず世界で推奨されていることなので、やり方は色々としても、決して忘れないように、日常習慣の中に取り入れましょう。

そして忘れても(絶対に忘れる)、すぐに思い出して、また習慣化の努力を繰り返すと、思考は確実に弱まっていくらしいです。(また思考を使うべき時の思考力は逆に向上するそうです)

scenario

と彼はアップロードしながら、次はまた青春期の日記ネタで70年代の昔話でもしようかなぁ、と早くも考えている。小説家になりそびれたが、ものを書くのだけは好きだな、と自虐しながら苦笑するのであった.....










サラリーマン時代もAs Time Goes By(時は巡るがごとく)

前職の後輩から、まだ在職中の後輩らの写メが送られて来ました。

彼よりも少し先輩にあたる三人の、いずれも今年定年を迎える連中の写真です。A行がB行に吸収され消滅した時に、私共々A行からB行に"外様組"として移った者たちです。

私はその後にこのBlogの2011年4月の記事にもある通り....(と見てみましたが、全然、その件について書いてない)、「
無理くりアメリカ・ドラマで語る私の金融マン人生」にもある通り11年勤めて辞めましたが、彼ら三人は残りました。(写メを送ってきた後輩は、合併時に転職)

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被征服民として肩身の狭い思いをし、しかもサラリーマンとしての栄達の道も断たれながらも、家族のために定年まで頑張り抜いた彼らに敬意を表します。

しかし、写真を見ていますと、やはり経年劣化は避けられず、まるで顔加工アプリで老人化させたみたいに、額がハゲあがったり、または頭が白髪まじりの、お約束の容貌変化で、歳月の流れと彼らの味わっただろう苦労が感じられます。

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その中のN君という人物。

こいつは、入社したばかりの頃は、傍若無人の下剋上タイプで、3年上だった我々にはちょっとした有名人でした。生意気な新人がいるそうだと。

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しかしいつの間にか、飲み会で意気投合して親しくなり、B行に吸収された後も、彼がうつ病で傷病休暇をとっている間など、家も近いし食事しながらカウンセリングしたくらいの仲に。当初のイメージとは大違いで意外と繊細な男でした。

そういう私も入社したての新人時代は、生意気で人付き合いは悪く、業後の飲み会なんて御免蒙るタイプで有名でした。ある意味で、今どきの新人サラリーマンの先駆者みたいな。

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みんなもともとは原石のまま、学生時代のノリで理想の自画像を堅持していましたが、段々と川の流れにもまれて角が丸くなるように、丸っこい川石になって。

三人の写真など見ていると、そこいらにいる白髪混じりの、あるいはハゲたおっさんたちで、どいつも柔和な微笑をたたえた中年サラリーマン。ロイヤリティ・フリーの無料写真素材「中年サラリーマン」みたいですが、もともとはそれぞれ個性溢れるキャラで、飲み屋街でバカ騒ぎして、女の子にちょっかい出して、「課長みたいな仕事人生なんてクソだよな」とかビールジョッキ片手に悪口言って、若手社会人を謳歌していた連中なんです。

現役時代

面白いですよね、そんな連中が定年だなんて。

まぁ、今年の新入社員も2059年頃にはそんな感慨にふけっているわけですから、順繰り順繰りということで。ただ私が新入社員だった頃に定年を迎えた人が、"新入社員"だったのは開戦の頃か終戦の頃。時代がガラリと違います。二巡すると「時代」すら変わっているのですね。

後輩女子

若い当時に、私たちがあっちこっちに飲みに連れて行った新人の女子職員たちも、もう50代のおばさんで「今どきの若い子ってさぁー」とか言ってるんですからね(笑)

本支店長席にて本店長席にて2本店長席にて3

いつもうるさい本店長が帰った後に、店長室の本店長席でやりたい放題の私たち。こんなふざけたサラリーマンたちも、もう定年退職なんです。時代は中島みゆきの歌のように流れて行きます。これからも流れて行くことは間違いありません。

そんな時代もあったねと
いつか話せる日が来るわ
あんな時代もあったねと
きっと笑って話せるわ
だから今日はくよくよしないで
今日の風に吹かれましょう
まわるまわるよ 時代はまわる
喜び悲しみ繰り返し


では!!
2006.6社員旅行2














東横学園小学校タイムトリップ・マップ

1978年以降の東横小卒業生たちは、今の新校舎(2009年竣工)の西側部分に行けば、1977年にプールサイド西側に建てられた「特別教室・管理棟」の残存部分(2階部分まで)によって「あ〜、懐かしいなぁ」という気分になれる。

2020.10 GoogleEarth
現在の東京都市大付属小・中・高(上空映像)

しかし、それ以前の卒業生たちにとって、特に72年卒業生(16期)なんて古人ともなると、現在の東京都市大学付属小学校の敷地内に当時の面影なんてゼロになります。すべての痕跡が消え去り、まるで別世界。校舎や体育館やプールの場所が変わり、しかも校名もガラリと変わり、まるで母校が閉校になって消滅したかのような気分しか味わえません。

1997.12 GoogleEarth
旧校舎時代の東横学園小・武蔵工大付属中高(上空画像)

向かいの系列校である武蔵工大付属中高へ進んだ者も同様で、東京都市大学付属中高となったその敷地内の何もかもが変わってしまい、青春期のその舞台を偲べるものは皆無なのです。

そんな時、もしかしたら、これだけは我々時代の残存物なのではないか? と感じたものを発見しました。

校庭の鉄棒です。

新校舎

これは2009年完成した新校舎の校庭画像に写る鉄棒。この新校舎は、昔の体育館(講堂)やプール、職員棟のあった場所に建てられているので、鉄棒は校庭南側に設置されていることになります。

で、古い校舎の時代、2004年1月に東横小に行った時の、鉄棒の画像は下。

2004.1.12東横小講堂と職員棟2004.1.12東横小校舎東部

鉄棒を意識して撮ったわけではないので「写り込んでいる写真」です。左は校庭東側の柵の外からのアングルで、左手奥に青い支柱の鉄棒が並んでいます。右は校庭南側の柵の外からのもので、下の方に鉄棒が見えます。

この支柱の青塗装は、岩石園の柵や職員通路の屋根の支柱、校舎三階のベランダ通路の手摺などが、ある時期に真っ青な塗装を施された時期に塗られたものでしょう。同じ色です。

塗装される前の我々時代の鉄棒は、普通の「鉄の色」でした(笑)

「少年探偵団BD7」21話より東横小の鉄棒(1976年・日本テレビ)1967.2.8ブースカ14 砂場 鉄棒帰マン サータン

左から「少年探偵団21話」(1976)、「快獣ブースカ14話」(1967)、「帰ってきたウルトラマン19話」(1971)です。帰マンの画像は、校庭南側に並んでいる鉄棒の列の遠望になります。

鉄棒拡大 新校舎鉄棒拡大2004

左が新校舎の、右が2004年の拡大図。同じ鉄棒だと思うんですが。

工事中

これは2008年1月の解体工事中の現場写真で、南側からの撮影の校庭の様子。ご覧の通り基礎生コンの打設工事や工事車両の駐車スペースとして鉄棒は撤去されていますが、その後の校庭遊具の設置工事の際に再利用されたような気がするのです....。東急財閥の学校法人がそんなケチなことするのか? なんて思いますが、支柱のあの真っ青な塗装は、わざわざ新品の鉄棒だったら、学校のシンボルカラーでもあるまいし、しないでしょ。

とまぁ、あまり確証のない話で、我々時代の鉄棒がまだ使われてる !! とか騒いでも大して喜ぶ人も多くないでしょうから、やめます。そもそも鉄棒器具の標準耐用年数が30年(世田谷区)とありますから、全く同じわけではなさそうだし。

そこで、学校敷地内での思い出づくりは、いさぎよく断念するとして、学校の外に目を向けて見ると、案外と、タイムトリップ可能な場所が残されているのです。

私自身が渋谷⇔成城学園のバス通学だったので、成城学園駅方面のものはなしです。

2016.7.9成城

これは2016年7月に、我々がよく成城学園方面に寄り道するときに通った道を撮影したものですが、あまり変化が感じられず懐かしい思いがしたものです。しかし成城への寄り道は中高生になってからで、小学生時代の活動範囲はもっと狭かったと思いますから、カットです。

従って世田谷通りへと向かう方面でのトリップ・スポットになります。

世田谷通り 大蔵団地前の下り

これは、登校時に通った大蔵団地を両脇にはさんだ世田谷通り。次の停車が東宝前のバス停で、その次が、東横学園小学校前でした。ここに差し掛かると、両脇が桜並木でして、時季になると満開の桜がピンク色のアーチのように続きます。

情緒ゼロの男子小学生だった私ですら、「綺麗だなぁ」と感じました。
上は両脇の団地をつなぐ弥生橋で、桜の時季は撮影スポットになっています。今では"世田谷百景"のひとつに。

大蔵団地は1959年に建てられた30棟の団地。高台にあり、世田谷通り両脇にはその擁壁が続き、それがまた当時のまま。ローアングルで撮影すれば、当時のまんまの画像が撮れるスポットです。(団地の外装が変わっているので、団地の雰囲気は当時とちょっと違う)

団地擁壁と高台に上がる階段

こんな光景は、70年代と言われても区別はつかない。(但し、ガードレールのイチョウのマークは、東京都がイチョウをシンボルにした1989年以降だから、ガードレールは違う)
しかしもう「大蔵住宅」建て替え事業の二期工事が始まっているので、これらのタイムトリップも今の内という状況です。

東宝前

これは、何回か引き合いに出しましたが、上記で次のバス停とした「東宝前」の停留所です。アングルは逆で渋谷方面を向いていますが、なぜかと言うと、中高時代、友達とこのバス停まで来てバスに乗っていたからです。

二子玉川行と渋谷行のバス停は「武蔵工大付属前」のバス停だと別々だったのです。いつもの仲間の帰る方面が半々だったから、同じバス停のここまで歩いたわけです。そんなことはともかく、この東宝前バス停の所にあるビューティー・ユーさんの茶色の建物、昔とおんなじなんです。そのまんまです。

ビューティーユー

ここに、学ラン姿の10代の私たちが数人ダラダラとバスを待っていても、そのまま当時の光景が再現できます。いつまでもそうあって欲しいと思うのですが、どんな人が経営してるのでしょうか。美容師になりたてで開業し今は60代、でしょうか。素晴らしい !!

そしていよいよ、砧小学校交差点を右折して東横小へと成城六間通りに入ります。
砧小学校は交差点の左側を入ったところですが、この校舎も1969年から71年にかけて建てられたもので、当時のままです。この建物の前の木造校舎時代に、あの原節子主演の東宝映画「青い山脈」(1949)のロケに使われた学校でもあります。

砧小

しかし砧小も一昨年より新築事業が開始されており、解体が近々です。もはや何もかもがそんな時期で、消えゆく定めなのでしょうね。

これは1977.9築 高2
東横小の方から臨んだもの

もうひとつ、その砧小学校交差点に面した左手に、私などは記憶にある建物があり、タイムトリップ対象かと思ったのですが、この建物は、成城オリンピックマンションという建物で、1977年9月の築でした。つまり私が高三時代。
ちょっと選にもれます。


ということで、東横小の正門から坂を下ったところにあるバス通り、成城六間通り。

成城六間通りのトリップエリア

ここは最初の信号のところに東横小の正門への坂道が通じている通りです。なんと、この道へ入ると、右側はコジマだサミットだと悲しいほどに激変してしまっていますが、左側の赤枠の4棟の建物が、当時のまんま。小学校への坂道に至るまでの大半がタイムトリップエリアというわけです。

最初の三店舗2009.7の画像

最初の建物は、二階部がアパートのようになっていて一階は店舗が三つ入っています。左の画像が現在のものですが、右の画像は2009年のもの。店舗はすでに真ん中の「あいま治療院」以外は変わっていますが、なぜ2009年の撮影画像をもってきたかと言うと、左の店舗が、当時ここにあった喫茶店と同じ外装だからです。

拡大すると分かりますが、すでに「テナント募集中」の札が下がっており、喫茶店は閉業していますが、見た目が当時のまま。現在はそろばん教室のようで白ペンキで外装されていますが、建物の構造自体は変わっていません。

ここの喫茶店で高校時代、学校帰りにタバコを吸ってたヤツらもいましたが、あまりに地元すぎて危険でしたから、我々は砧公園まで行くという努力を惜しみませんでした(笑)

岩崎瓦工業

二軒目、三軒目は岩崎瓦工業(株)さんの自宅と店舗でしょうか。この二棟も変わりありません。店舗の方の外装は当時から黄緑か自信はありませんが。創業100年超の瓦屋さんで、2016年公開の東宝映画「信長協奏曲」で、お城の瓦を担当したそうです。

四軒目

一番端の四軒目。この建物の右はもう東横小の東側に沿って奥に入る道です。
ここ、今はラーメン屋のようです。2019年3月の撮影画像に祝・開店の花がありますので、その頃からのようですが、その前もラーメン屋、更に前は鮨屋だったようです。

私の時代は確か「洗足ベーカリー」というパン屋さんだったのが、ここだと思います。かなり幼な妻っぽい奥さんと御主人の若夫婦がやっていて、出来立てのアンパンが異常に美味しくて記憶が鮮明です。今でもあのような、美味のアンパンを食べたことはありません。

小学校時代は、右の学校東側の擁壁から抜け出て、ここにアンパン買いに来ました。中高時代は、学校帰りに寄って歩き食いしながら東宝前のバス停まで行きました。しかし記憶が少し曖昧で、弁当屋をどこかで始めていたような....。しかし、高校時代にここでパンを買いに寄ったことは日記(高1の7月)にも書いてありますから確かです。

成城六間通り左側

つまり、この一画は、当時のまま。いわばタイムトリップロードでしょう(笑) 反対岸のスーパーや量販店の"時代の波"が及ばず、ある意味で取り残された"70年代"スポットです。

2008.1セサミハウス

あとこのGoogle画像。タイムラインで一番古い2008年まで遡ると、旧校舎時代となるので校舎の裏側が見えますが、"タイムトリップロード"との間の道の奥に、赤い屋根の小洒落た建物が見えます。

ここれはセサミハウスというビア・レストランです。大学時代も含めて何度か入りました。いくつかのドラマのロケ地にもなっています。

しかし、タイムラインの次の2009年になると.....

2009.7セサミハウス

東横小も新しい校舎になると同時に、このセサミハウスも工事現場のシートが。

2013.7セサミハウス マンションに

そして2013年のタイムラインでは、なんとマンションに。調べると2010年2月完成の「セサミハウス成城」という4F建てマンションになっていました。なんで同じ名称なのかは不明です。なんであれ、こうして次々と思い出の場所が消えているのですね。(追記2参照)

2021.4撮影Google 残存光景部

この画像のように、黄色で示したタイムトリップロード以外は、もはや黄色丸の小学校東側の擁壁部分しか当時を偲べる残存物はありません。まるで古城です。

2004.1.12東横小裏に停めたシト2004.1.12ムサコーの変わらぬ壁

古城の石垣のごときこの擁壁すら、2004年訪問時には上の画像のように坂道の両側をがっしりと挟んでおりましたが、今はもう「部分」だけです。(左は、東横小の擁壁、右は、武蔵工大付属側の擁壁です。2004年1月撮影)


ムサコー側の一画

現在は、坂道の途中に上の画像の黄色部分のように、武蔵工大付属側の一部だけが残っているのみ。反対側の東横小の擁壁など消滅しています。

今の東横側の擁壁
消滅した東横小側の擁壁

こうして、この東横小正門に至る坂道に一歩入ると、東横小に関する過去の遺物は皆無となり、かつての母校を訪問した時に味わえた心地良いノスタルジーをもはや感じることは出来ないのです。当時の思い出映像がパッと3D展開するような卒業生ならではのトリップ感がまるでなし。


しかし、外界にはまだかろうじて、いにしえの私たちの残像を記憶しているであろう建物がわずかながら残っているもので、少しだけホッと安らげます。当時は素通りした建物にも、「お久しぶり ! まだ頑張ってたんだ」と挨拶したくなるような。

Google画像じゃナンですから、オミクロンが落ち着いたら、行きますか(笑)

タイムトリップマップ
おわり








追記1


1978卒アル ムサコーのバス停名
1978年高校卒アルより

東横学園小学校前(現:東京都市大付属小学校前)のバス停から武蔵工大附属高校前(現:東京都市大付属中高前。当時のバス停名はなぜか付属中学の名がない)のバス停までは、くねくね曲がっているバス通り(成城六間通り)沿いに、
大した距離ではありませんが一駅歩きます。

マップ

そこは、高台にある付属校のグラウンド(今は校舎)の東側面から北側面の擁壁の下を歩く感じになります。(マップの赤線)

ムサコーの通り沿いの擁壁

この擁壁が、当時のままでした。上を見上げると、昔はグラウンドの端っこや平屋のクラブハウスの裏側が見えたものですが、今は校舎が城壁の上の山城よろしくそびえているので、あまり目線を上げずに歩くと、古いガードレールも含めて、当時のままの気配です。

第8.9ステージ第5ステージのゴジラの壁画
      第8、9ステージは1955年建設     第5ステージのゴジラの壁画

但し、通りの反対側にある東宝スタジオ(東宝撮影所)は、あの巨大なドーム型の第8,9ステージは健在ですが、他はあまりにも様変わりしているので、第5ステージのビル壁面に描かれた巨大ゴジラの壁画(2014完成)なども含めて目は向けないことです(笑)

1978高校卒アルより現在のGoogle上空映像

最後に、左が1978年高校の卒アルからの上空写真。武蔵工大付属校の南・東側の成城六間通りと当時の成城の住宅街の様子。右は同じエリアの現在のGoogle画像です。


追記2

2008東横小3階からのセサミハウス

これは、2008年夏の小学校旧校舎解体作業中に、3階ベランダ通路から作業風景を写した写真ですが、校庭東側の外にあったセサミハウスが写り込んでいます。

2009.7Google

2009年7月のGoogle画像では、上のようにすでにセサミハウスは解体され、更地になっているので、小学校解体作業中に写り込んだセサミハウスの画像は、自らも解体される直前の姿というわけです。










本日のちょっといい話 356 波動による出来事のカラクリ

最近読んだ本で、私が今まで考えていた、あるいは信じていた感覚としっくりと符合してくれた一冊がありました。

セラピストでヨガコーチの姫田浩昭さんが著した「波動で紐解く出来事のカラクリ」という本です。

波動で紐解く出来事のカラクリ

姫田氏は東洋医学の「気」のエネルギーを長年研究してきた人で、気という波動エネルギーが世の中の出来事、つまり現象世界にまで影響する「カラクリ」を説いた内容です。

私は昔から、思考による思念波が外界の出来事に直接的に影響し、色々な偶発事や連続的な特定の出来事を巻き起こしていると感じていました。だから「あなたは自らが選んだ世界を生きている」とか言われるわけです。

調子が乗っているときは、なんでもうまく運び、ネガティブな感情に沈んでいるときは、次々と不快事が起こる不思議。これは誰でも経験してきたことだと思いますから、難しい話ではなく、誰もが経験則で体感していることです。
Nervous person
感情は日常の色々な出来事に左右されるわけで、通常は「一喜一憂」というよりは「一喜十憂」くらい。人の脳は「守り」優先のセキュリティ回路なので、喜ぶことより心配・不安の反応が優先されますから仕方ないのです。だから、よほど能天気な人でない限りは、ネガティブになっているのが初期設定として当然。

すると、自然とあまり良いことは起こりませんし、心配・不安を増長させるような出来事・情報との遭遇も増えるから、悪循環、負のスパイラルに見舞われます。これらの流れは、ある意味で人の宿命みたいなものというわけです。

好調⇒⇒⇒⇒不調

何か良いことがあって、ノリノリの気分になるとその逆の現象がしばらく続きますが、それも同じカラクリ。しかし脳の初期設定は生理学なものなので変わりませんから、しばらくするとまた、心配・不安のスパイラル状態に戻ります。

しかし、これじゃ、人生の大半がつまらないことに。嫌ですよね。

姫田氏はヨガ、気功法を通しての対処法なども教授していますが、ここではまずその「カラクリ」を理解し、そのアドバイスを一部ですが開示していきます。

まず姫田氏の同書の中で私が思わずサイドラインを引いた箇所を抜粋して行きますが、ほんのサワリです。そしていくつかあるアドバイスの中から、五感を磨くという部分のみ紹介しておきます。(私が一番気に入っているからです)

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私たちが存在する空間は、波動エネルギーによって構成されていて、それは人体の気をはじめ、人の思考や感情も波動エネルギーとして表れています。

また、自然界の動植物などの生物や無機物、液体、気体もすべて、波動エネルギーで構成されており、空間の素粒子レベルでの振動によって生じた波動が、周りに影響を受けたり、与えたりすることによって、現象として表現されます。つまり、波動が先で現象が後から起きているのです。

人が経験している出来事には、意識が本質的に関わっているということです。

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波動には性質があり、周波数が近い関係だと同調や共振しやすく、周波数がかけ離れていると無干渉ですれ違います。また同じ性質の波動が出会えば増幅したり、性質がまったく正反対の波動が出会えば打ち消し合ったりする現象が起きます。

人間の世界は自然という全体性の中の一部として、現象を経験していますが、すべては繋がっていて、どこにも分離はなく、この全地球上の空間が波動というエネルギーで構成されています。

恋愛やパートナーとの関係の悩みも、本質的な原因は、自分の理想に叶うことが条件になってしまっていることです。「自分のため」が前提になっているからであり、自己愛のエネルギーは、独立した存在からの一方的なエネルギーであるために循環が起きません。ですから現象として不調和なことが起きてしまうのです。

images (1)

人の場合、今の周波数状態が「今」の現象を起こしているわけですから、それが変化すれば現象や経験が変化していきます。

人の精神活動の変化が、波動の変化として表現されています。

たとえば悩み事などの問題が解決した瞬間には、一瞬で波動は変化します。そのように波動というものは瞬時に変わるものなのです。それに伴い、現象も変わります。

人は脳の活動で生きており、思考も感情も波動のエネルギーとして発信されています。人の思いは波動により発信されているということです。自分の考えは自分だけのものと思われていますが、思考は良い悪いに関係なく、周りに影響を与えています。

images (2)

私たち一人ひとりに個人の周波数状態があり、波動の性質で人間関係や仕事など、様々な出来事を経験しています。

損か得か、善か悪か、是か非か、有利か不利かなどの意識を働かせ続け、常に心身を緊張させてしまいます。そしてそこにストレスエネルギーが発生し、心身の波動を下げて体を不調にしてしまうのです。

心配や不安の波動周波数は、自然界には存在しない不調和なエネルギーで、その周波数が発生すれば運気を下げてしまいます。

images (3)

自分の外の世界で見えるものは、自分の内側の波動の投影です。起きていることは、すべてナチュラルに起きているだけなのですが、そこに意味を持たせる思考の表れ方は、自己の波動の状態で変わってくるのです。

私たちは一人ひとりが分離した存在としてしか感じていないので、自由ではありません。ですので、自分自身の意思で生きていかなくてはならないと思っているのです。そのために、選択を迫られ、努力や忍耐をしていつも心身を緊張させながら生きています。ですから、起こる物事に対し重要性が生まれて、深刻性が生じます。そういった波動は心身の周波数を不調和にして、かえって物事をスムーズに運ばせなくしてしまいます。

images (4)

ですから気楽に、簡単に、を心がければ良いのです。「気楽」とは「波動を楽に」ということであり、その周波数はエネルギー的に軽く高い波動周波数です。また、エネルギー的に抵抗が少なく物事がスムーズに運びやすくします。逆に「深刻」の周波数は重い緊張感の波動周波数ですので、抵抗が生まれて物事がスムーズにいきにくくなります。

「楽」に生きるための方法は、自己意識を休めて使わないことです。つまり思考しない、ということです。

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「今」とは、思考で捉えない、目の前に現れているそのままのリアリティーを指しています。個人は「今」という瞬間を、記憶情報に基づいて、過去と繋がりのあるものとして意味づけした、個人のストーリーを生きています。そこには時間(経過)が存在し、「原因と結果によって理由づけられた」未来の予測や、創造された思考の中で生きているので、純粋な「今」という空間を、波動的にシンプルに生きられていないのが現実となっています。不足感、また焦りや不安、緊張感などの思考や感情、感覚は、すべて個人のストーリーの中で起きていて、そのストーリーは幻想なのです。

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成長するにつれ、脳の形成とともに、純粋な「今」が見失われていき、自分というストーリーの投影の中で生きていることが、現実となってしまいます。そのことに気づいて、思考や感情から解放されて、純粋な「今」に生きられるようになったことを「目覚め」といいます。

ちょっとした訓練だけでできるようになります。

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五つの提案

「今、目に映っているものを、よく見て確認する意識を養う」
  ※思考の中にいるときは、ほとんど目の前のものを見ていません。
「今、聞こえている音を、よく確かめる意識を養う」
  ※思考の中にいるときは、今聞こえているものを聞いていないからです。
「今、鼻で匂うものや香りを、よく感じる意識を養う」
  ※思考の中にいるときは、香りに鈍感になっています。
「口に含んだ食べ物の味を、よく感じる意識を養う」
  ※思考の中にいるときは、味覚を楽しむことができません。
「常に体調や体の感覚を、よく感じる意識を養う」
  ※思考の中にいると、体調の変化や、病気の症状(サイン)に気づけません。

以上です。傍線を引いた箇所はまだまだ沢山あり、健康と波動のかかわりの部分など腑に落ちる内容ばかりですし、また波動を上げる方法としての思考パターンや行動パターンの変え方なども色々と記述されています。すべて著者の姫田氏の実体験からくるものだから、即効性のあるものばかりです。

Eckhart Tolle
それにしても、抜粋の最後の部分なんて、エックハルト・トールのパワー・オブ・ナウそのものですね。分析的に解いていくと、究極のポイントは同じ地点に達するんですね。それだけに説得力があるというものです。

しかし、これら紹介された自己ストーリーの思考からの脱却で波動を上げて楽に生きていく方法は、「なるほど」と感じても、せいぜい実践できるのは1時間以内。いや、30分かそこらです。試して見れば分かりますよ(笑)

気づけは、また思考の虜となって、ボーとあれこれ考えている自分がいるのです。

これは長年の習慣ということもありますが、思考自体が、まるで生き物のように、「思考しない自分」の状態にアラートを鳴らして、思考活動の継続を求めてくるのです。「ボサッとしてると親や先生に叱られたのを思い出せ」みたいな。

しかしそれはいわばサタンの声みたいな戯言です。思考によって、どれだけ物事を厄介にしてしまったか、どれだけ無駄な気苦労に苛まれたかを思い出して、スルーしましょう。

ebbinghaus
気づけば思考してる自分がいる....ならまだ良いですが、明日になればそれにも気づかない元の木阿弥。こうなって、ただの知識としてこの話は終わってしまう。しかもエビングハウスの忘却曲線の法則でその知識すら、20分後に42%が、一週間後には77%が消えるのです。

Caution

ですから、どこかにキーワードを貼っておいて、思考の発するアラートと同じように、自分に対するアラートで想起させる方法が良いでしょう。「おっと、また思考に溺れて、波動を下げているぞ。物事が低波動に共振しちまうぜ」くらいの脊髄反射しないと。

caution caution

思考の停止は、ともかく目の前のリアリティーに対する五感のトレーニングが一番簡単です。これはエックハルト・トールも提唱していますから。問題は、目を閉じて睡眠に入る時間帯ですね。あまり五感を働かせていては眠れません(笑)

そんなときは、「本日のちょっといい話 351」を参照して下さい。














また映画のシンクロニシティ話

よく映画系のシンクロニシティが私には起こる、と繰り返し言っていますが、本日もそれがありました。と言っても、なんとも感動の薄いシンクロニシティ話で、ちょっと不思議、と思う程度のシンクロ内容であることも、いつもの通りです(笑)

Vic Morrow
Vic Morrow
このところで見続けているのはご存知、アメリカの連続TVドラマのロングシリーズ「コンバット !」です。それは年末年始と記事にも書いてますが、言うまでもなく主人公のサンダース軍曹は、俳優のヴィック・モローが演じています。

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Sidney Poitier
そして本日の朝のニュースで大きく報道されたのが黒人俳優シドニー・ポワチエの訃報。私も大大大好きな俳優さんで、名作は数々。詳しくは今日のニュースやWiKiで見て下さい。そのシドニー・ポワチエが世に注目されるきっかけになった映画作品は「暴力教室」(1955年MGM)です。

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1955年映画「暴力教室」(原題:Blackboard Jungle)

この映画「暴力教室」で、彼は不良ばかりの荒れ果てたニューヨークの高校の黒人生徒ミラー役。主人公の新任教師(グレン・フォード:演)の体を張った指導に徐々に感化されて、ついにはその味方となっていく役柄です。これに対して、あらゆる暴力や卑劣な手段で最後まで反抗し、仕舞いには不良仲間からも見放されていく、どうしようもない問題児アーティー・ウエスト役が、コンバットのサンダース軍曹役のヴィック・モロー。彼のデビュー作品でした。

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映画「暴力教室」のウエスト(ヴィック・モロー)とミラー(シドニー・ポワチエ)

つまり、不良生徒のリーダー格でも、主人公の教師に心を開いていくミラー役のシドニー・ポワチエと、最後まで歯向かい放校されるウエスト役のヴィック・モローという、好対照の二人だったんです。映画好きならシドニー・ポワチエで連想しないわけには行きません。

そして、そんなシドニー・ポワチエの訃報記事を読んでいる最中に、友人からLINEが入り、どうでも良い話から、先祖の話になり、彼が会津の先祖から佐幕派だったというので、我が家の母方の祖母が秋田藩主の佐竹家に仕えていた笠間家出身だから倒幕派だ、とかやりとりしていました。

Roots
1977年TVドラマ「ルーツ」(原題:Roots)

そして何も「先祖」は男系ばかりでなく、母方だっていいんだという話に転じて、そもそも先祖を指す「ルーツ」という言葉は、70年代に人気を博したテレビドラマ「ルーツ」から始まったもので、あれは原作者アレックス・ヘイリーの祖母の家系の言い伝えから先祖を探索し、ドラマ化したものだから、「我が家のルーツ」なんていう場合、男系先祖じゃなくていい、なんて、誰もダメとは言ってもいないのに熱弁していました。

で、「ルーツ」の原作者アレックス・ヘイリーが自分の先祖についての言い伝えを聞いたのが、母親だったか、祖母だったが確認しようとサイトで調べていた時、そこで初めて思い出したんです。......

エームズ3
「ルーツ」エームズ監督官

「ルーツ」は原作者の黒人奴隷となった先祖クンタ・キンテから始まる物語でしたが、反抗的な奴隷であったクンタ・キンテが売却されたレイノルズ農場に、エームズという非道な白人監督官がいて、彼を厳しく監視し、むごたらしい体罰で従順な奴隷に「調教」しようとします。

この奴隷制度下のアメリカの農場に雇われていた白人監督官の典型のようなヤツであるエームズを演じていたのが、まさしくヴィック・モローで、私たちは彼がテレビ画面に登場した時に「ええっ ! サンダース軍曹じゃん !」と思わず叫んだものでした。

コンバット26ルーツ エームズ
「コンバット !」のサンダース軍曹と「ルーツ」のエームズ奴隷監督

勇猛果敢で厳しい分隊長でありながらも、部下の生命を第一に考える人間味のあるサンダース軍曹が、我々にとっては頼もしいイメージのその厳しい表情のまま、実に残酷な人非人として同じ"厳しい表情"を見せているんです。しかも日本語吹替が、サンダース軍曹と同じ声(田中信夫氏)ときた。泣きたい気分でした(笑)

このアメリカTVドラマ「ルーツ」(1977年ワーナー・ブラザース・テレビジョン)を、当時家族みんなでテレビを囲んで夢中になって見ていたことを思い出しました。日本でも爆発的な視聴率を記録したものです。以来、日本に先祖のことを「ルーツ」(「根っこ」の意味)と呼ぶ習慣が根付いたわけです。

SYNCHRONICITY

シドニー・ポワチエの訃報から「暴力教室」のアーティー・ウエスト、「ルーツ」からエームズ奴隷監督と、ここんとこで「コンバット !」ばかり見ていて毎日、サンダース軍曹役のヴィック・モローにお目にかかっている中で、ヴィック・モローと縁深い作品が私の日常に同時に現れたことは、ちょっとしたシンクロニシティ認定でしょう(笑)

尚、過去のシンクロニシティ記事は、本稿のタイトルの上、日付の横の「シンクロニシティ」CLでズラリと出てきます。






※ 記事中のキャプチャ画像の著作権は文中に明示された各制作会社に帰属します。











夏恋し。雪だるまと入道雲

年末年始とCOMBAT ! ばかり見ていました。まだ152話中80話です。英語圏の関連サイトを自動翻訳すると「ゴンバット ! 」は「戦闘 !」になります(笑)

combat!

世間も年始早々にコロナの第6シリーズがスタートし、帰国ラッシュとクリスマス、年末年始の人流も相まって1エピソードは、オミクロンの思う壺になってしまいました。またトンネルに突入した感で、双六で言えば「振り出しに戻れ」状態。こちらもまた「COMBAT ! 」開始です。

2020年の5月前後にずっとコロナのことを書きましたが、もう、そういうことをするのもウンザリ気味。辟易です。さすがの私も都内一桁の感染者数の頃は、そろそろ友人と会おうとか、外食しようかとも考えましたが、結局は実行せずに時機を逸しました。まぁ、また今までの生活を続けるだけです。早く5類になってくれー、と祈るばかり。

1月6日の雪

外は雪なんて降ってるし、しばらく陰鬱な寒い時季が続く。昔はこういう季節が好きでした。温かい家の中が落ち着くし、また厚いコートの襟を立てて歩くのが映画のワンシーンみたいで、外景色がムーディーな雰囲気だったからです。今は大嫌い。早く終われと思うばかり。長いサラリーマン時代、ずっと営業系で外回りばかりしていたからでしょうか。いつしか冬にムードなんてカケラもないことを文字通り体感し、うんざりしましたから。今は夏が恋しいばかりなり....

当面は暗めの見通ししかありませんが、無我の境地で、目の前の現実に取り組み続けること、それこそが肝心です。思索・思考のシミュレーションゲームは、頭の中で展開すれば負のエネルギー場が形成されるばかりで有害なだけ。ただただ出たとこ勝負の繰り返しを"真剣"に続けるだけが、人生なのかも。

雪の中の犬散歩

とりあえず、目先の現実は、大雪警報が発令した只中に、これから犬のお散歩に出なくてはならないという現実。これはちょっとした労苦でしょ。

小さな雪だるま

犬も労苦だったらしく、用を足したらすぐに家に戻りたがりました(笑)

去年の今頃、外壁を真っ青に再塗装した我が家の、通りに面した壁の室外機の上に、こんな小さな雪だるまが二つありました。

入道雲かよ!入道雲

なんか、真夏の入道雲みたい。

あ〜、夏よ、夏。













本日のちょっといい話 355 2021年星占いとおみくじと厄払いについての経験談

人は、不確かな機運の流れについつい法則性を見出したくなり、このような新年に「2022年〇〇座の運勢」なんてものを見たり、おみくじ引いたり、厄年かどうかチェックしたりして「流れ」を予測したくなります。

horoscope

試しに、たとえば2020年や2021年の年頭に参照した当時の「占い」結果を見てみると分かりますが、コロナのAI予測ほどに外れています。無理くり「なんとなく当たっていたぁ」と感じたい人は、それでも良いですが、その当たりの確度は、果たして「予測」に値するほどのものだったか、検証することをお薦めします。

あまり不安を煽るパターンの占いは最近は減ったようですが、それでも不調月・好調月の色分けはされています。一日の午前と午後ですら、不調・好調が分かれるのですから、月単位で評価されても、「当たってたと言えば当たってたし、外れたと言えば外れた」程度の感じでしょう。

だから、たとえば、星占いに凝る人は、一日が終わり寝る寸前にその日の占いを見ると良いでしょう。リアルタイムで当否が分かりますから。

ちなみに私は19歳の時に「プレイボーイ」という雑誌の星占いで40歳まで万事不調の人生、それ以降に絶好調と宣告され、「40歳なんて先の先じゃないか !」と絶望。以来、そのことを気にしつつ生きるハメに。結果として、40歳までが順風満帆のサラリーマン生活で、40歳で会社が破綻、他社に吸収され鳴かず飛ばすのサラリーマン人生に転換という、真逆の結果に。あまりの外れっぷりに呆れましたが、罪深い話ですよね、全く。


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ランバル大公妃とポリニャック伯爵夫人

面白い話があります。大革命でギロチンの露と消えたフランス王妃マリー・アントワネットには、二人の寵愛した女官ランバル大公妃とポリニャック伯爵夫人がいました。この二人の女性、共に1749年9月8日生まれ。つまり占星術的には同じ運命のはず。しかし、前者ランバル大公妃は革命後も王妃の元を離れず従い、ついには民衆に惨殺。後者ポリニャック伯爵夫人は、革命が始まるや王妃を見捨て国外に亡命、ウィーンで病死。これはどう説明するのでしょうか....(西洋史おもしろ話集に詳説)

おみくじ

また初詣で、おみくじを引く人も多いと思います。

あるテレビ番組の調査によると、各神社のおみくじ割合は、大吉〜末吉が95%(笑) 吉が最多で44.4%。そして
大凶を引く確率は1.2%。そもそも大凶のおみくじを入れてある神社は100社中4社とのこと。

私は高校生の時に、毎年、みんなで明治神宮に初詣に行っており、この1.2%の大凶を引き当てたことがあります。気分悪いので、翌日に浅草寺に行き、リトライ。今度は大吉だったのでホッとしたことがあります。しかしその年もいつもと変わらぬダラダラした一年でした(笑)

今年の厄年

また厄年とかも気になるもので、中にはしっかりとお祓いをしている人もおられると思います。私もすべての厄年を経てきました。忙しさにかまけて、全厄年、お祓いなんて受けていません。(そのつもりもなかったとも言えますが)

そもそも厄年は、体調変化の指針なんです。大抵の人はその頃に、体調の低下を感じ、無理へっちゃら⇒そこそこ頑張る⇒自重し気を付ける という自信過剰に対するトーンダウンを推奨している指針の年齢を意味しています。

ですから、その節目の年に、あまりストレス感じるような行為は避けるべし、環境変化は体調の節目の年齢の時はやめといた方がいいよ、という意味で転職・引っ越し・新築・結婚・出産など「やめといた方が良いかも」とアドバイスしている。そういうことをすると「凶」と出ますよ、という意味じゃない。ストレス限界で転職考えている人は、むしろ迷わず転職すれば良いのです。結婚という段階を踏むことでハッピーになれる人はすれば良い。我慢してストレス溜まるんだったら、むしろそうすべきなんです。

マイライフのロードマップ

しかし、私の人生に照らすと、この厄年の時に、平気で色々なことをしています。「転換期」にしてしまったり、なってしまったり。

24歳の厄年に転職しているし、41歳の大厄年に企業合併されてるし、60歳の厄年の前年、つまり前厄に事業を買い取って起業してる。怖い怖い。

しかもお祓いなしで。

体調低下の節目に思いっ切り、環境の大転換が生じているのですから笑える人生です。転換したあとに、それはそれで辛いこともありましたが、それで救われたこともちゃんとあります。不幸のどん底なんて目には合ってないし、大病にも見舞われてないし、今の幸せはすべてこの道程を経ないではあり得なかったことばかり。

Aging1-1

だから、結果を見て来た者としては、あまり関係ないのではないのか? と思います。しかしまぁ、体力が一段階ダウンする「節目」としての指針は、生理学的にも確かなことだから、若さゆえの自信過剰を段階的に平準化する、という節目にすることは肝要かと思います。

私も、23歳厄年頃から睡眠不足が辛いと思うようになり、学生時代の3時間睡眠なんて無理になりましたし、41歳厄年の頃から深酒が翌日に響くようになり、二日酔いという現象が始まりましたし、60歳厄年頃から、酒はやめて、"紙巻"タバコとは縁切り、アイコス、今はプルームテックXです(笑)

今回は発する波動により人生の展開は自在に変わっていく、という話をしたかったのですが、前置きを書いている内に話が脱線、そのまま別の話となってしまいました。年頭に当たり、今回の話が参考になることを祈念します。


(追記で、手相で悩んでいる人にはこんな事例があります。私が大学一年の時、私の母がスーパーで買い物した品物を袋ごと忘れてきて、一時間後に気づいたというので、どうかしたのか?と心配したら、複数の手相家に、50歳で胃か腸の大病あり、その先の生命線が見えないと言われたそう。それで気もそぞろになっていたのです。
しかし、母は以来、88歳で亡くなるまで入院歴もなく健康に過ごしました。)











新年の御挨拶

結局、COMBAT ! の記事で締めとなってしまいました。

新年、明けまして、おめでとうございます !

迎春

今年も、スピ系と映画・ドラマ系はデフォルトで突き進みたく思います。
あとは風の吹くまま、気の向くまま、書きながら考えるさ(笑)

寅さん賀状














名作ロングシリーズ 海外ドラマ「コンバット !」の第1話は面白い

米テレビ・ドラマ「コンバット !」は、私たちが小学生の頃、夢中になって見ていた海外ドラマの代表作です。米ABC放送で1962年から67年まで放送された全152本で、全世界で数千万の視聴者を夢中にさせた人気番組。現在でも再放送が繰り返されています。

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最終シーズン以外はオール白黒

アメリカ兵とドイツ兵のドンパチだけ目的の子供時代でしたが、今にして改めて視聴すると、「コンバット !」がとんでもなくグレードの高い作品群であることが分かり驚かされます。

サンダース軍曹の部隊に手榴弾で吹き飛ばされるドイツ兵のシーンでも、彼らが野良猫に餌をやってる場面や、「俺の家にも可愛い猫がいてさぁ」とか会話している場面が挿入されます。

ラットパトロールギャリソンゴリラ

「ラットパトロール」とか「特攻ギャリソン・ゴリラ」とか、勇敢な米兵の大活躍を描いていた当時の戦争ドラマとは全く違うんですね。主人公のサンダース軍曹もヘンリー少尉も、勇敢に戦っている兵士ですが、そもそも戦争なんて状況が発生しなければ、殺したくもない相手と銃撃戦や白兵戦をやらないで済んだ人々なんだ、そしてそれはドイツ兵も同じことなんだ、という主張がかなり濃厚に全作の通奏低音になって響き続けているのです。

リック・ジェイソンヴィック・モロー
ヘンリー少尉役はリック・ジェイソン サンダース軍曹役はヴィック・モロー

いまだに「名作」と言われる所以がそこにあるわけです。

しかし、今回はそんなコンバットの魅力を語るのではなく、「コンバット !」の二人の主人公サンダース軍曹とヘンリー少尉の意外な一面について書きたいと思うのです。

コンバット 第18話 サンダース軍曹

今でも、会社で係長などを説教するとき「いいか、あなたは係長、つまりサンダース軍曹みたいなもんだ。戦場で闘いながら部下を統率しないとならない」とか例え話をします。(今はしないか? 昔はよくしてました)  そうなんです、サンダース軍曹は叩き上げの軍人で、トミーガンを撃ちまくりながら勇猛果敢に戦い、尚且つ、部下の分隊員らを厳しく統率し分隊の任務を遂行する下士官です。

コンバット18話 ヘンリー少尉

またその上官のヘンリー少尉は、連隊本部との間に入り、無理難題の作戦を命じていく小隊長ですが、常に冷静沈着、理性的に困難に対応し、部下からの信頼も厚く、やくざな兵士も少尉の前では従順になるほどの人格者。ちょっと乱暴なサンダース軍曹も、この少尉の命令には是非もなく従います。

戦傷のヘンリー少尉とサンダース軍曹

つまり戦場での有能な将校と下士官の理想のような二人なんです。それは「コンバット !」を一作でも見たことのある人なら、すぐに納得できることでしょう。

ところが、この5シーズン152エピソードもある"COMBAT !"(原題も同じ)の第1話を見ると、これからのフランスでの戦場で展開する様々な物語で、ヘンリーとサンダースが見せるキャラとはなかなか結び付かない意外な一面が演出されているのが分かります。

まず、まだフランスのノルマンディー海岸への上陸作戦が開始される直前のイギリス国内駐留のアメリカ軍宿営が舞台です。それだけでも、残りの全話がフランスの田舎のバトルフィールドが舞台となっていくこのドラマにとっては貴重な映像です。

コンバット第1話 ヘンリーはまだ軍曹、と恋人

トップ画面にいきなり、ヘンリー少尉(まだ少尉任官前の「一等軍曹」の階級章をつけています)が、美しい女性と並んで教会にいるシーンです。戦場での野戦服姿しか見覚えのない彼らが、平時の勤務服を着用していること自体、軽く驚きます。しかも、横にご婦人がいるなんて、あまりに意外なシチュエーション。

ノルマンディー侵攻前のイギリス国内ですから、考えれば当然のことです。

しかしラブロマンス要素なんてゼロの「コンバット !」の主人公たちですから、第1話は何もかも違和感だらけです(笑)

コンバット第1話 ヘンリー軍曹と恋人とのキスシーン

しかも非常呼集がかかり、教会からバスで宿営地に向かう中で、ヘンリーはその女性(ヘーゼル)と熱々のキスをしています。フランスに上陸したら、フランス香水の大きなビンを送るよ〜、なんて約束しています。そして別れ際に「非常呼集が解除になったら、今夜はどこにいる?」とニヤニヤ。「いつものアパートにいるわ」とヘーゼルが言うと「きっと行くよ」とまたニヤニヤ。もはや第2話以降、152話までヘンリーのこんなニヤケ顔は二度とありませんから、貴重な光景です(笑)

一方、作戦開始になるか否かでピリピリムードの兵営。沈鬱な表情の者もいればゲームやギャンブルをして気を紛らわす者など様々。

宿営のサンダース2

そんな中に初登場するのがサンダース軍曹。こちらも軍曹の階級章ですが、ヘンリーと違い三等軍曹です。陽気に鼻歌まじりに兵営に入って来ます。すでにアフリカ、イタリアでの実戦経験があるようで、落ち着いています。

下士官ということもあり、態度は大きく、ちょっとべらんめぇ口調。戦場で勇猛果敢にトンプソン(トミーガン)を連射しながらドイツ兵をなぎ倒す彼のイメージと違い、かなり軽い遊び人な調子。

宿営のサンダース

新米の衛生兵に「実戦で負傷した時は、地雷ですか、弾丸ですか?」と訊かれると「いいや、缶詰を開けてる時に指を切ったのさ」とタバコをぷかぷかやりながら話をそらす。「ともかく靴ブラシ貸してくれ」と、なぜかウキウキしている。

その衛生兵がもし今夜作戦決行になったらと不安そうにしていると、「女の子のことでも考えて忘れろ」と軟弱な不安解消法でアドバイス。「試しましたが、すぐに戦場の光景が浮かんできて....」と衛生兵が言うと「だったら、さらに女の子のことを考え続ければ、女の子が浮かんでくるさ」と、とことん軟弱路線。

それも無理はなく、サンダース軍曹はこんな上陸作戦が決行されるか否かの時に、女性とのデート前なんですね。のんきなものです。

宿営地での二人

場面が変わり、営舎の外を歩いているサンダース軍曹に、どうやら旧知の間柄らしいヘンリーが声を掛けます。一等軍曹と三等軍曹の階級差はありますが、同じ軍曹ということでサンダースはヘンリーにタメ口です。(上陸早々にヘンリーが少尉に任官し上官となると、あとはずっとサンダースは敬語になりますから、このラフな会話も、これっきり)

宿営地での二人2

「どこに行くのだ?」とヘンリーはサンダースの軽い足取りに何かを察したように訊きます。
「外の空気でも吸おうと思ってさ」とサンダース。
「中尉に会ったら、全員、中隊区域以外は外出禁止だとのことだ」とヘンリー。
「じゃ、他の軍曹に会ったら言っとこ」とサンダースは聞き流す。
「ごまかすな、町に行くんだろ」とヘンリーが絡む。
「とんでもない、外出禁止中ですぜ」
「先週の土曜も外出禁止だった。ところがおまえは町へ出て、ヘーゼルに会ってた」

つまり、ヘンリーは外出禁止令を守らせようとしているのではなく、恋仲のヘーゼルにちょっかいを出しているサンダースの行動を詰めているわけなんです(笑)

第一話 ヘンリー

「ヘーゼル? どのヘーゼル?」とサンダースはかなり下手なトボケ方。
「とぼけるな、サンダース ! また非常呼集が解除になったら、俺の先手を打ってヘーゼルに会いに行こうってんだろ?」とヘンリーはいよいよ本音。「よく聞け、サンダース。あの娘は俺が先に見つけたんだぞ ! 俺には優先権ってものがあるんだ」

第1話 サンダース

これから(最終話までの)5年間、ヘンリー少尉は生きるか死ぬかの最前線で、いくどもこのような真剣な表情で部下らを諭します。そして、常に彼の怒りは正しく、部下らを見事に統率して行きます。.....しかし、第1話でのこの顔は、ヘーゼルに対する優先権の主張という場面....。

戦場での無敵のこのコンビが、このようなお粗末な内容で真剣な表情をしている光景は、ある意味で貴重。あまりに笑える。コンバット ! を全話見てから、第1話を見ることこそ必要で、第1話のあり得ない"珍場面"が輝きます。

第1話 ヘンリーとサンダース暴力教室
右は「暴力教室」(1955)のワンシーン


結局、サンダースはヘンリーに営舎内から出ることを阻止され、ふてくされて去ります。このシーン、サンダース役のヴィック・モローがそのデビュー作「暴力教室」(1955)で演じた不良少年アーティ・ウエストを彷彿とさせます。毅然とした態度の熱血教師(グレン・フォード:演)を前に、ふてくされるシーンです(笑)

ノルマンディーの二人

しかしその夜、ドイツ軍に対する連合軍最大の反攻作戦である"D-day"、つまりノルマンディー上陸作戦が本当に開始され、ヘンリーもサンダースも、ヘーゼルどころではなくなる地獄の戦線へと送り出されるのでした。

コンバット83話ヘンリー少尉コンバット62話

以降、最前線での熾烈な日々が展開。もはや女のコで争うような平和な日々は失われ、二人は常に極度の緊張の中で、それぞれの性質を活かして任務に邁進。戦場を舞台とした数々のヒューマンドラマの堂々たる主人公となっていくのです。

しかし、たまーに、ところどころ、二枚目ヘンリーと、女好きサンダースとしての片鱗を匂わせるシーンも垣間見られます。もともとの二人、つまり第1話を知っている人からすると「やっぱりなぁ」と笑ってしまいますが。

コンバット16話 サンダース軍曹は実は女好きコンバット第6話 
解放した村のフランス娘とキスするサンダースと従軍看護婦と酒を飲むヘンリー

けれども、よくよく考えて見れば、このドラマ、基本テーマは戦場の英雄ではなく、普通の人々の物語であり、乱暴者も臆病者も、不真面目な者も堅実な者も巻き込んでいく敵味方すべての人間ドラマ。最初にサンダースやヘンリーの本当の姿を晒すことこそが、実は大切なプロットに違いないのですね。

さすが名作。よく構成されています。

「コンバット !」は旧日本兵、つまりドイツとは同盟国軍の兵士だった父も大好きで、TV画面に向かって「早く手榴弾投げてやっつけちゃえよ !」とかサンダースの分隊を応援していたその背中を見て、私は「ああ、戦争はもう昔の話なんだなぁ」と痛感したものでした(笑)


追記 1

リック・ジェイソン演ずる"ヘンリー少尉"。名前なのか苗字なのか、みたいな疑問がありますが、名前である「ヘンリー」はHenryで、少尉の名はHanleyです。今なら「ハンレー少尉」とかにしたと思います。

Hanley DVD

当時は、発音に近い親しめる日本語にしていたようです。サンダースの部下でレギュラー出演している、フランス系移民でフランス語の堪能なケーリという分隊員も、実は劇中では"ケージ"Cajeと呼ばれているのに、「刑事」みたいだから「ケーリ」にしたそうです(笑) いい加減なものです。

大映 鉄砲伝来記

ところで、このリック・ジェイソンという俳優さん、「コンバット!」放映終了した翌年、最初に出演したのが、なんと日本映画。大映の1968年「鉄砲伝来記」。若尾文子さんとご覧のように....。これも日本におけるゴンバット人気からでしょうね。

追記 2

「コンバット !」を毎週見ていて、度々戦場になるフランスの田舎の村、よく出来てるなぁと毎度感心していました。もちろんフランスロケではなく、アメリカ国内での野外セット。
1949年製作のMGM映画「ボヴァリー夫人」のロケセットを使用済みということでABCがそのまま借用したらしいです。DVDやYoutubeで連続的に見てみると、同じ建物が何度も出てくることに初めて気づきます。そんなことの出来る時代の到来は想定外だったんでしょうね。当時の週一のテレビ放映ではなかなか見抜けない(笑)

1949「ボヴァリー夫人」3コンバット44話

1949「ボヴァリー夫人」2コンバット第5話3

映画「ボヴァリー夫人」と比べて見ましょう。上下ともに左が映画「ボヴァリー夫人」、右が「コンバット !」。上段は、教会の建物が同じです。下段は、右手の建物三つが同じです。「ボヴァリー夫人」は1850年頃の設定ですが、どのみち古い建物が軒を並べているだろうフランスの田舎町ですから戦時中の設定でも違和感なしです。そもそも製作当時の"現代物"が映り込んだとしても、製作開始が1948年、戦後3年しか経っていないし、戦時中の設定のコンバットには問題なしだし。

映画の方は屋内シーンが多く、立派な野外セットを活用していない。おかげで大赤字。コンバット ! のロケで長年にわたり「戦場となったフランスの村」の設定でフル活用されたおかげで、砲撃で吹っ飛ばされたり、銃撃で穴だらけになったとは言え、映画の製作スタッフも浮かばれたことでしょうね(笑)

Bee Gees - Stayin' Aliveコンバット第4話

また、ボーカルグループのビージーズの有名なヒット曲「ステイン・アライヴ」(1978)のMVに、コンバット ! の別の野外セットが使われているらしいです。上の左画が、Bee GeesのStayin'AliveのOfficial Videoに出てくる教会の鐘楼。右画が、コンバット ! 第4話で、聖職者くずれの戦車兵が教会の十字架を吹き飛ばすシーン。

Bee Gees - Stayin' Alive2コンバット33話

左が同
Official Videoでビージーズの三兄弟が玄関テラスの上で歌っているシーン。右はコンバット ! 第33話にも登場する同じテラス。(階段を下りているのは、特別出演のジェームズ・コバーン)

まぁ、画像より動画をご覧下さい。



追記 3

「コンバット !」シリーズが終わる頃の1967年放映開始された同じABC放送の「ラットパトロール」(原題:The Rat Patrol)は、舞台をアフリカ戦線に移したジープ2台でドイツ軍に奇襲攻撃をかける特殊部隊の物語でした。ほぼ同じ時期に日本でも放映され、第2シーズンは「砂漠鬼部隊」という邦題でした。

The Rat Patrol S2-E1
「ラットパトロール」で人気を博したディートリッヒ大尉役のエリック・ブレーデン

その中に、ラットパトロールの好敵手として登場するのがドイツ軍隊長のディートリッヒ大尉で、しょっちゅう負けてますが、紳士的な立居振舞と敵に対する軍人としての敬意を示す人柄から、大変な人気キャラになっていたものです。

コンバット 第23話
「コンバット !」の2回目出演はこの22話で、一言二言だけ台詞のあるただの"ドイツ兵"

そのディートリッヒ大尉の役を演じていたのがドイツ出身のエリック・ブレーデン(1941〜存命)という俳優。この人はディートリッヒ役で一躍有名になりましたが、実は「コンバット !」の6エピソード(1〜2シーズンの5エピソードとも)にドイツ兵として出演しているんです。まだ、無名時代なので伍長や軍曹のちょい役。確認が出来ないほどのエキストラ・レベルの出演もある。

コンバット25話 酔っ払い将校役コンバット29話
25話では、占領下フランスの町のドイツ軍娯楽場のただの酔っ払い役(左)。しかし29話では、フランス人に変装して町に潜む狙撃兵となり、重要な役を演じた(右)。

尚、クレジットはアメリカっぽい名に改名する前の"Hans Gudegast"。1970年に出演する映画の監督から、アメリカ名にしろと言われて改名、以降はエリック・ブレーデンとなりましたが、それでも「ブレーデン」は、彼の父親が市長をしていたドイツ北部のBredenbek(2020年現在人口1518人)の名を使い、彼の中の"ドイツ"を堅持しました。98年彼はBredenbekの名誉市民となっています。

コンバットの53話のエリックブレーデン
コンバット ! 53話ではSSの軍曹役。これも米兵を捕虜にしたドイツ将校の部下という脇役

コンバット ! 出演エピソードの監督がラットパトロールの監督だったことも幸いしたのか、新番組の重要なディートリッヒ役に抜擢されたのでしょう。ついに下積みの「大部屋俳優」からの大抜擢です。その年に彼は大学時代の恋人と結婚。息子は映画監督・脚本家となっています。










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本日のちょっといい話 354 クリスマス・キャロルより

今回はクリスマスなので、1938年米映画「クリスマス・キャロル」(MGM)です。

A CHRISTMAS CAROL

チャールズ・ディケンズの同名の小説(1843年)が原作。

原作者ディケンズのこの小説はクリスマス文学作品の金字塔で、彼の名声を世界的なものにし、すでに数多く映画化されています。この1938年の作品の3年前にも本国イギリスで映画化されており、最近では2009年にディズニーが3DCGでアニメ映画として公開、テレビドラマとしてBBCが2019年12月に放映しています。

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冒頭で「100年以上前のロンドン、クリスマス・イブ」とキャプションが出ますが、今にして見れば200年近く前、ですね。

ロンドンで金融業を営むスクルージは、偏屈な老人で自己中心、守銭奴、拝金主義、無慈悲で冷酷、無信仰な現実主義者で有名でした。

1938映画クリスマス・キャロル

無駄な出費の多いクリスマスが大嫌いで、「メリークリスマス !」なんて祝っている人々を心から軽蔑しているスクルージは、クリスマスを祝いに事務所へやってきた陽気な甥フレッドが、婚約したが金がないのでまだ結婚は出来ないと言えば、「金が欲しいのか?」と喧嘩腰、慈善団体がクリスマスの寄付をお願いしに来れば、貧乏人どもが救貧院で死ねば人口が減って助かると追い返すし、大所帯の良き父親である部下クラチットも、ちょっとした不手際をなじってイブの当日に解雇してしまう、という具合。

そんなスクルージは、イブの夜に、かつて共同経営者だった男の幽霊の訪問を受けます。

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「おまえに忠告しに来た」というかつての同僚は、悪徳な金融業者として生きた自分は霊界で苦しんでいる。おまえもそうなる。だから、夜中にやってくる3人の聖霊の言うことをしっかり聞くんだ、と忠告します。

消化不良から幻覚を見てるに決まってるし、おまえの言うことが本当でも聴く耳など持たんし、聖霊が本当にくるとしても3回じゃ面倒だから1回に3人まとめてくれ、とか文句を言うスクルージ。

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共同経営者の幽霊が窓から帰ってしまうと、いまいましげにベッドに入ったスクルージですが、夜中の1時にまず「過去の聖霊」の訪問を受けます。驚いている間もなく、彼は聖霊によって、学生時代の学舎に連れて行かれ、そこで少年時代の自分の姿を目にし、疑う余地もない自分の「過去」を見せつけられ目を見張ります。

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そこには、厳格な父親によってクリスマスも家に帰るより寄宿舎で勉強していろと厳命され、家族の元へ帰る友人らを見送り、一人悲しんでいる自分の姿がありました。

そんな彼のもとへ故郷から妹がやってきます。兄さんが可哀相だと父親にお願いしたら、今年は帰って来て良いと言われたから迎えにきたと、キラキラした眼差しで妹が抱きつきます。

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精霊に促されて、その時の嬉しさや妹の優しい愛情をスクルージは思い返しました。

「その妹さんが亡くなる前に生んだ子は誰? 甥のフレッドでしょ? あなたが妹さんから受けた愛情に報いるのは、フレッドを幸福にすることではないの?」と精霊に言われます。

次に彼が精霊に連れて行かれた過去の光景は、初めて勤めた商店でした。そこには雇い主のフェッジウィッグ氏がいました。

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フェッジウィッグ氏は、従業員だった若きスクルージとその同僚を呼ぶと、クリスマス・イブくらい残業しないで帰りなさいと言い、そのかわり明日は少しだけ私に付き合ってくれ、クリスマス・ディナーにと。喜ぶ二人に「ディナーで腹一杯食べて翌日は仕事にならんから次の日も休みってことで !」と更に青年たちを喜ばす。そして、最後に別れの握手をしたら、二人の手の中には金貨が。

その過去の楽しいクリスマスの光景を見ていたスクルージは、部下を喜ばすことなどしたこともない自分の経営者としての姿を思い返して落ち込みます。

「あなたが今日、クビにした従業員のクラチットをもっと大切にすることが、フェッジウィッグさんへの恩返しになるのではないの?」と精霊に諭されます。

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第一の聖霊の時間は終了し、第二の聖霊が現れます。

それは「現在」を見せて回る聖霊でした。

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クリスマス・イブに教会堂で賛美歌を歌っている甥のフレッドとその婚約者の幸せそうな姿が見えます。そして、足の悪い息子を連れてやはり教会堂で賛美歌を、浮かぬ表情で歌っている従業員のクラチットの姿もありました。彼は、最後の給料でクリスマスの料理を買い込み、子供たちと奥さんの笑顔に包まれながら、解雇されたことは内緒にしています。しかし賛美歌を歌いながら、ついつい家族の行く末に思いを馳せてしまいます。特に足の悪い息子のことを。

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現在を見せる精霊は、フレッドとその婚約者について「愛など今だけだ。金がなくて結婚できなくて幸いってことだな?」と言います。スクルージは逆に「あの二人は愛し合っている。見れば分かる。金がなくても、愛は深まるものだ」と精霊に言い返します。聖霊は、スクルージがようやく清らかな心を取り戻したことを確認します。

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スクルージは、従業員のクラチットが教会からの帰りに肩車をしていた足の不自由な息子について、「あの子は来年のクリスマスにはもうこの世にはいない」と精霊に告げられます。

「そんな、そんな。なんとかならないのか?」とスクルージは精霊に懇願します。

「今が変われば未来は変わる。しかし足の治療費が必要だからなぁ。あんたは彼をクビにしたじゃないか」と精霊は冷たく言い放ちました。「しかも貧しい者は救貧院で死ねば人口が減って助かるとか言ってたよな」

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最後は、未来に連れて行く聖霊でした。

それは、すでに自分が亡くなった直後の世界でした。

かつての同業者らが、少しも悲しむような表情・口調もなく、ただ彼の葬儀の手配について相談している姿が見えました。

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そして、クビにしたクラチットの家で、聖霊の予言通り亡くなった足の悪い息子の死の悲しみに打ち沈む家族たちの姿がありました。そこにはクラチットが、この悲しみを分かち合えたのは、親身に心配していてくれたフレッドと婚約者だけで、二人にどれだけ救われたかと家族に話している姿がありました。


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自分の死には無関心な人々、そしてクラチットの息子の死には、みんなが悲しみに暮れているという未来の現実。それをスクルージは見せつけられたのでした。

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3人の聖霊が過去・現在・未来へと彼を連れ歩き、自分の清純な少年時代の過去、そしていつしか大切なものを見失って生きてしまい、多くの人たちを傷つけていた現在、その向こうに用意された当然の空しい未来。スクルージは自分がこんな悲しい存在に成り果てていた事実に愕然としました。

精霊たちが夢のような余韻を残して立ち去り、いつもの朝を迎えたスクルージは、自分が今からなんでもやり直せる状態であることを知り、とてつもない歓喜に震えます。

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そして、窓から通りすがりの少年に呼び掛け、駄賃をやるから七面鳥を急いで買ってきてくれと頼みます。

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さっそく彼は、家を出たところで出くわした、昨日事務所で追い払った慈善団体の男性らに、今まで断った寄付をまとめて支払うと約束し、甥のフレッドのところへ行くと、彼を共同経営者にするから心配なく結婚しろと告げ、山のようなプレゼントを買い込むと、解雇したクラチットの家に押しかけて、子供らにプレゼント、奥さんに七面鳥、そしてクラチットには、解雇の取り消しと、昇給するから子供の足の治療を始めろと告げます。

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右に見える足の不自由な少年を演じているテリー・キルバーンは95歳でご存命

みんなの喜ぶ顔に囲まれて、ついに彼は「メリー・クリスマス !」と口にして乾杯をするのでした。彼は生きることの意味、愛というその目的以外に、この世には何らの真実もない、それを身をもって経験するという神様からのクリスマス・ギフトを受け取ったのでした。THE END。


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ベルサイユのばら ちょっと面白い本当の話

池田理代子氏の「ベルサイユのばら」を知らない人はいないと思います。しかし少女コミック本に連載が開始されたのは1972年とかなり古い。


宝塚 ベルばらアニメ ベルばら映画 レディオスカル

宝塚歌劇、アニメ、実写映画の原作となり、主人公オスカルの名は世界的トレンドとなり、コミック誌レベルの日本の"少女マンガ"を、一躍世界に舞台デビューさせたとんでもない存在が「ベルばら」です。

アニメ ベルばら 冒頭部
女の子と聞いて愕然とするジャルジェ将軍(アニメ・ベルばら)

原作である漫画もアニメも実写映画も、すべて冒頭シーンは、オスカルの誕生の場面から始まります。

「フランス王家の信任厚く、代々王家の軍隊を統率してきた由緒ある」ジャルジェ家の奥方の出産を待つ当主のジャルジェ将軍の落ち着きない姿のシーンです。

今回の話は、このシーンにポイントを置いての、おもしろ話になります。

その前に少しだけオスカルの生まれたジャルジェ家について。


漫画 ベルばら

池田氏の参考資料を見ましたが、歴史資料としてはどれも邦訳本で、書店で入手できるものばかりでした。(それだけの資料であれだけの物語が書けるのですから、彼女はやはり天才でしょうね)

カストロ マリー・アントワネット みすず書房
みすず書房 アンドレ・カストロ 「マリ・アントワネット」

この「ジャルジェ」という名前も、実在していて、カストロの「マリー・アントワネット」等に登場しますが、ほんの少しだけです。そこで、池田氏はオスカルをこの将軍の娘として設定したのでしょう。実際のJarjayes氏は、確かに高位の軍人ですが、代々王家の軍隊を統率していたような家柄ではなく、グルノーブルの役人の息子ですから、いわゆる由緒ある「剣の貴族」の家系でもありません。


オスカル誕生は1755年の設定ですから、この父親は1769年に昇格した将官付補佐官の階位ですらない。つまり"将軍"なんてことはないのです。(革命中に王家の救出に貢献し、革命後の王政復古の時代の1815年に中将には昇進しているが、それはオスカルの死後です。また92年に野戦総監Marechal de campになっていますが、長くなるのでカット)

ですから、娘であるオスカルが「近衛隊長」なんていう宮廷でも高位貴族が拝命されるような軍位に就けるわけはない家柄が真実の「ジャルジェ家」です。

フランスWiKiのオスカルの欄
オスカルのWiKiページ(france)

しかしもはやフランスWiKiに"La Rose de Versailles"も主人公オスカルの"Oscar Francois de Jarjayes"の項目もあるくらいですから、細かいことは抜きです。但し、さすがにフランスWiKiでは、父親のレニエ・ド・ジャルジェを「架空登場人物」の中に入れています。そして、「実在のフランソワ・オーギュスタン・レニエ・ド・ジャルジェにヒントを得たらしい」と注釈を加えてあります。


ベルばらのページ
"La Rose de Versailles"のフランスWiKi。「ガルド・フランセーズ(フランス衛兵隊・オスカルの指揮する近衛隊)のオスカルの制服は、後の時代のものだ」と。

池田氏もまさか本国フランスでこのような大ヒットになるとは想定していなかったのでしょうね。オスカルの近衛隊長としての服がナポレオン時代のものであり、史実と異なるとかも書いてありますが、これは池田氏も分かっていながら服飾デザイン的にちょっとだけ時代を先取りしたと断っているのだから、画像まで掲載して指摘するのは、歴史にうるさいフランス人の嫌味でしかない。

映画冒頭シーン
東宝映画「ベルサイユのばら」(1979) 出産を待つシーン

で、ベルばらの冒頭シーンに戻りますが、「ご主人様、お生まれになりました ! もう、それはそれはお美しい天使のようなお姫様です」と侍女に告げられると将軍は、ズッコケます。「もうこれで女ばかり6人だ」と。そして「王家をお守りする軍を指揮する将軍の家に、女などいらぬわ !!」と叫びます。

漫画 ベルばら

「よし、おまえの名はオスカルだ」と将軍。「え? それは男の子の名です」と侍女。「こいつに私のあとを継がせる。父のこの私がフランス一の軍人に育てあげてやろう !」と将軍は決めます。.....ということで、男装の麗人オスカルの誕生となります。(この当時「オスカル」なんて北欧系の名はフランス貴族はつけませんけど)

ここで、池田氏も知らなかったであろう、すごい話があるのです。

ここからが本番です。

このジャルジェ家の女系の秘密です。これまでの部分は、少しフランス史をかじっていれば誰でも指摘できるレベルの話ですが、ここからはかなり詳しく系図を知らないと分からない話なのです。私自身も、調べていてビックリしたくらいなんです。当然に翻訳本だけ参考にしている池田氏は知る由もない内容。

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本物のジャルジェ"将軍" Francois Augustin Reynier de Jarjayes 1745-1822

まず、系図で父親のモデルとなった"ジャルジェ将軍"を見てみましょう。Geneanetサイトです。正式名とかは長ったらしいので割愛します。二度結婚していて、最初の妻との間に最初に生まれたのは男子で、1771年。しかし同年に夭折しています。二人目に1774年生まれの娘マリー・アンヌがいます。その後、初婚相手と死別し再婚します。再婚相手からは1796年、オーギュスティーヌという娘が生まれていますが、ここで終わりです。つまり、父親は家を継ぐ男子を史実でも得られていません。

アニメ ベルばら2
アニメ・ベルばら。六人姉妹なのに一人不足?

さすがに「ベルばら」中のように6人全部娘というほどのことはなかったですが、長男は夭折(当時の夭折率はかなり高い)で、娘が、二人の妻から各1人という状態。で、この二人の娘は成人して、それぞれ嫁いでいますが、上のマリー・アンヌは嫁ぎ先で、アンヌ・セラフィーヌとエミリーというこれまた二女のみもうけました。下のオーギュスティーヌも成人し嫁ぎましたが、マティルドという娘のみもうける。....という具合に徹底的な女系。

これではジャルジェイ家の男系は断絶してしまうわけで、"将軍"が慌てるのも無理はありません。こういう場合、"将軍"の兄弟たちの子供に家督は移るわけです。

しかし「男子」ならば、です。

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"将軍"は、四女六男の兄弟姉妹がおりましたが、上の二人の兄の内一人は夭折。もう一人の兄は成人しましたが、聖職者となったので未婚。そのせいで男子継承者をと彼も焦っていたのかも知れませんが、無念な結果。下の弟たちはどうかと言うと、すぐ下の弟二人は夭折。11歳下の弟は成人しましたが、これまた聖職者で未婚。13歳下の末弟も成人して、工兵中尉という軍職にありましたが、1790年にブリアンソンの要塞で34歳で死亡。結婚はしていましたが、成人したのは一女のみ。その一女も嫁ぎ先で一女のみ残す、という徹底ぶり。

ネットワークテレビ

こうして兄弟たちも全滅です。系図によっては"将軍"には長兄がいたともありますが、この長兄の系図も、成人したのは一女のみで、この一女の家系も孫の代まで女・女....。

こうなると、よく名門貴族の場合に男児を産めない嫁のことで家同士が争ったりしていますが、この場合は明らかにジャルジェ家の血が「女系」なんでしょうね。文句も言えない。

オスカル

で、ついでに見てみると、"将軍"の残した二人の娘、つまり嫁ぎ先でも娘だけ出産したジャルジェ家のマドモワゼルたちの系図を追っていくと、上のマリー・アンヌの生んだ長女アンヌ・セラフィーヌは嫁ぎ先で見事に娘ばかり3人を出産。さすがジャルジェ家 ! という感じですが、次女のエミリーに至って、ようやく男児出産となりました。男児は短命のジャルジェ家の血を払拭して、この男児は87歳まで生き、亡くなったのは1920年。しかし遅すぎた。ひい爺さんの"将軍"は、悲しいかな、この男児が生まれる11年前にすでにあの世。
(
下のオーギュスティーヌの生んだマティルドは二度結婚していますが、子はいなかったようです)

Philipp Joseph Hinner
Philipp Joseph Hinner 1754-84

ところで、"将軍"が再婚した相手は、元マリー・アントワネット王妃の侍女であり、やはり王妃付の音楽教師だった人物との結婚歴がありました。つまり再婚同士。この女性、その音楽家(ドイツ人のヒンナーというそこそこ有名な音楽家)との間にも、娘ばかり4人でした(笑)

images         谷間の百合
Louise Antoinette Laure Hinner 1777-1836      バルザック「谷間の百合」

それは良いとして、その前夫との間の四姉妹の中のルイーズが、有名なバルザック作「谷間の百合」に登場したモルソフ伯爵夫人のモデルとなった女性で、作家バルザックを夢中にさせた22歳年上のベルニー夫人その人です。つまり、オスカルが実在していれば、血の繋がらない従妹という系図上の関係です。(バルザック・ファンにとっては、かなり有名な女性らしい)

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このように、原作者・池田理代子氏は知らず知らずに、歴史的な事実に基づいたジャルジェ家の深刻な女系問題をオスカル誕生の背景に活用していたことになるのです。ジャルジェ家の歴史に詳しい人ならば、まるで男装の麗人オスカルの出現は、この家の必然だった ! と納得したことでしょう。

もちろん、役人の息子から軍人となり、政略結婚でブールセ中将の姪と結婚、出世の糸口をつかんだ「オスカルの父」には、家督を継ぐ息子が必要だったわけで、死別後に再婚同士の結婚までして男子継承者を得ようと努めたのは当然です。

アニメ 悩めるジャルジェ

そもそも、"将軍"の生年が1745年だし、結婚したのは1770年なので、オスカルの誕生年の1755年とはかなりズレていますが、それはともかく、この史実のジャルジェ家の当主が跡取り問題で悩んでいたことは事実だろうし、女の子を男の子として育てて軍人としてしまうことは実際的ではありませんが、そうしたくもなる心境であったことは事実なんです。

lady Oscar

ですから、あの長大な物語が始まる冒頭のシーンは、期せずして歴史的にジャルジェ家の事情に合致をしてるのですね。こういうことは、売れる人にはよくある偶然で、池田氏の"ベルばら"がその後に、想像をはるかに超えた存在となる予兆のような気がしてなりません。

フランス人で"ベルばら"ファンだった人が、オスカルの生家であるジャルジェ家について調べていたら、「なるほど、だからジャルジェ家の娘にしたんだろうな」と思ったことでしょう。

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「フランス史を扱った作品なんて難しくて売れっこない」と出版社に突き放された池田理代子氏の"ベルばら"が、こうして前代未聞のメガヒットとなって、お陰でジャルジェ将軍の苦悩も万人の知るところとなったわけです。また"ベルばら"で未来永劫にその家名を残したわけですから、史実の将軍が革命中に、命を危険に晒しつつ王家を救おうと尽力し、その報いとして得た中将の軍位、伯爵の爵位より遥かに価値の高い名声だと思います。歴史に埋もれることなく、オスカルの名と共にジャルジェの家名は語り継がれるのですからね。

王妃とオスカル

フランスでは、オスカルの実在を歴史資料の中で探しているようなファンもいるようです。見つかるわけないですが(笑) まぁ、日本でもオスカルの葬儀をしたらしいし、ファン心理とはそういうものなのでしょう。少なくとも、男装の麗人としてのオスカルの運命が決定した経緯は、ある意味で史実ということです。

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フォントネー・オー・ローズのバラと町の紋章(バラと泉) 将軍は遺言で、この町の貧民に財産の一部を寄贈していますから、愛着を感じた"終焉の地"だったのでしょう。

最後に、これもまた池田氏の知らぬ偶然だと思うのですが、このオスカルの父ジャルジェ将軍(亡くなる時は正真正銘の将軍)が1822年に亡くなった地は、パリの南西部近郊のフォントネー・オー・ローズ。この町は、バラの栽培地として古くから栄えた土地で、水源があり豊かな土壌ゆえ「バラの泉」
Fontenay-aux-Rosesと呼ばれました。

丁度150年後に遠い日本で連載開始された"
La Rose de Versailles"により、家名が世界的に有名になるとは知らず、将軍はこのバラの地で亡くなったわけです。

これも池田氏が引き寄せた「ベルサイユのばら」の奇蹟のひとつでしょう。



以下は蛇足です。


映画パンフ 1979映画パンフ 1979 裏
    1979年映画「ベルサイユのばら」パンフレット 表と裏(1979.3.19日比谷映画劇場)

実写映画はオールキャスト外国人の東宝映画なんですが、困ったことに、オスカルはともかく、フランス史オタクの私は、30年ぶりにヴェルサイユ宮殿ロケがOKとなったこの映画をどうしても見たくて、1979年公開時にちょっと恥ずかしい思いで日比谷に観に行きました。

バスティーユ襲撃
実際のバスティーユ襲撃

バスティーユ牢の襲撃シーン、つまりラストシーンですね、CGなんてない時代にどう映像化するのか興味津々でした。バスティーユは巨大な監獄で、革命後に解体されましたから存在しません。しかし、革命記念日である7月14日(巴里祭と呼ぶのは日本だけ)はバスティーユの襲撃日で、イギリスでは「バスティーユ・デイ」と呼ぶほど。この日にアンドレもオスカルも死んでしまうのですし、欠かせないラストシーン。(映画では原作と違って、アンドレは狙撃で絶命するが、オスカルは彼を探している状態でエンドになる)

バスティーユシーン2バスティーユシーンバスティーユシーン3







10億円かけた作品だけあり、遠景は合成、近景は部分的な再現セットでうまく撮影してある感じで、感激しました。安っぽい演出だったら日本の恥だと心配していたので、このシーンだけでも私は総合評価☆5つでした。

「シェルブールの雨傘」(1963)の監督ジャック・ドゥミ、音楽ミシェル・ルグランがそのままペアを組んで製作しただけでも期待の作品でしたが、興行的には不発。
原作のファンタジー性を歴史に煩い本国フランスの制約下の作品として脚色したから? 私は大絶賛してましたが....コミックやアニメや宝塚歌劇を、オール・フランスロケの実写映画に期待する方がファンタジーです、まったく。

資生堂 春のキャンペーンカネボウ キャンペーン


左は映画パンフの裏表紙に掲載された資生堂広告。
右は同時期のカネボウの春のキャンペーン広告。




どうでも良い話ですが、この映画はタイアップが資生堂で、オスカル役のカトリオーナ・マッコールをキャンペーンガールに起用し春のキャンペーンをうちました。競合するカネボウは、「ロミオとジュリエット」(1968)のオリヴィア・ハッセ―で対抗。それは良いのですが、キャッチの「きみは薔薇より美しい」の「薔薇」は「ベルサイユのばら」の「ばら」を揶揄しているのか !? と問題になったそうです(笑) カネボウは否定したそうですが....

ではこの辺で。

この、ジャルジェ家の女系については、私のHP「西洋史おもしろ話集」の「マリー・アントワネット救出大作戦」の余談3に詳しく書いてます。

ヴェルサイユとオスカル 1979東宝
アニメ


おわり









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本日のちょっといい話 353 映画「我等の町」よりエミリーの臨死体験

スピリチュアル系の本は、私はかなり慎重に選んで読みます。「必ず幸運を....」とか「宇宙人からの....」とかは読みません。(ちょっとは読みましたが)

そもそも懐疑的なので、商業主義的な流行に乗って書かれたような書物は読むだけ無駄と即断しています。ある著者など、デビュー本に賛辞を送ったら、直筆の礼状まで頂いたのに、その後にその人がとんでもなく有名になり、著書も膨大になってきた段階で、内容を見切りました。売れてくると、どうしても世間の評価に依存し始め、メッセージ性がなくなるからです。

スピリチュアル本は、その点で神経を使わないと続かないと思います。"スピリチュアル・ブーム"とかマスコミが騒ぐ途端におかしくなるし、一歩間違えれば、おかしな人扱いになり、そういう人たちがスピリチュアルへの偏見を増長しますからね。

しかし、映画の世界では、スピリチュアル・メッセージはごくごく自然に映像表現の中に現れています。それを「胡散臭い」とか「なんの宗教か?」とか受け取る人もいない。これはある意味で不思議です。ファンタジーとして描いても、ファンタジー以上のメッセージ性がきっちりと感じられ、伝わるものが伝わってくる。

水野晴郎
水野晴郎氏

水野晴郎さんではありませんが「映画って、本当にいいもんですねー」です。(もう知る人も少なくなりましたが、昔、金曜ロードショーという番組で、映画評論家の水野晴郎氏が必ず最後に口にしていたセリフ)


そんなわけで、今回の話です。

またもや、"古いアメリカ映画"からです。このところそんなのばかり見ているので、読んでいるスピリチュアル本がなかなか読了しないこともあり、映画からの「ちょっといい話」です。

オープニングクレジット 我等の町

作品は1940年米映画「我等の町」(原題"Our Town")。

これは1940年製作ですが、ニューハンプシャーのグローヴァーズ・コーナーズという人口2600人程度の田舎町(架空の町です)の1901年の様子からスタートします。当時の人たちからすれば40年前の田舎の姿で、今で言えば80年代の群馬か栃木の小都市といったところでしょうか。

そこに暮らす無名の人々の日常を、3年後、9年後と描いて行きますので、面白い映画です。まだ第二次大戦前なので、「戦争」と言っても第一次大戦のことで、アメリカの参戦は1917年だから、この映画の中には登場せず、「従軍しフランスで死んだ」などエスコート役の解説の中に、登場人物の将来として出てくるだけです。

ウェッブ家の朝の光景ギブス家の朝の光景
              ウェッブ家の朝の光景とギブス家の朝の光景

そんな住民の中に、高校生くらいの娘エミリーのいるウェッブ家と、娘のボーイフレンドで同級生のジョージのいるギブス家が登場します。子供たちが母親に起こされてそれぞれ登校していく朝の風景など、日本ならば明治34年なので想像も出来ませんが、すでに現代のホームドラマの朝食風景と遜色ない感じで驚きます。

計り売りのミルク

ミルクを容器から計り売りしているのは、さすがに当時のアメリカ人も懐かしい光景だったとは思われます。また自動車も黎明期で、まだ田舎は荷馬車。「犬が安心して通りを渡れる時代も終わりになりそうだ」などと心配する住民の発言も聞かれますが、フォードの大量生産型モデルTが世に現れるのは1908年なので、自動車普及のまだ過渡期です。

エミリーとジョージ二人の結婚2

恋仲のエミリーとジョージは、それなりに恋愛感情を抱きつつ関係を続けて、ついには結婚に至ります。実はジョージ役は、1950年「サンセット大通り」でスターとなっていくウィリアム・ホールデンが演じていて、彼の戦前の出演作でもあります。

William HoldenMartha Scott

またエミリー役も、戦後数々の名作に出演し2003年90歳で逝去した女優マーサ・スコットが演じていて、彼女のデビュー作がこの映画。(この映画でアカデミー主演女優賞ノミネート)


進行役のフランク・クレイヴン
エスコート役の人物・モーガン氏(フランク・クレイヴン:演)

二人の結婚によって、淡々と
グローヴァーズ・コーナーズに生活していた過去の人々の姿を語っていくこの物語は終わりそうですが、「9年の歳月が過ぎました」とエスコート役の人物が時間を進めます。

瀕死のエミリー

すると、2人目の子を出産するにあたって命の危険にさらされているエミリーの青白い顔が映し出されます。直前に、この町の墓地でエスコート役は、前回まで生きていた人々の何人かが、すでに墓石の下にいることを語っています。その中にはジョージの母親も、エミリーの母親も弟のウォーリーもいます。だから、そのエミリーの姿には不安が過ぎります。

牛乳屋の荷車自動車で牛乳販売
       荷馬車(左)から自動車(右)にかわった牛乳配達人の
ニューサム

1901年に始まり、3年後に飛び、更に9年後ですから1913年になっています。すでに牛乳配達は自動車で、しかもビン牛乳です。

義父であるギブス医師が深刻な面持ちで首を振ると、エミリーの魂は肉体を離れます。なんだ、平和な田舎の少年少女の牧歌的なラブストーリーが、こんな悲劇で幕降りるのかよ、と視聴者はガッカリです。

墓地死者に囲まれるエミリー

エミリーの魂は墓地に行き、自分の葬儀の光景を見てから、すでにあの世にいる懐かしい人たちにも再会しています。葬儀の参列者の帰った暗い墓場で、エミリーは過去の人々に挨拶し、彼らは無表情ながら彼女を迎え入れます。

しばらくするとエミリーは、自分が生前の記憶を思い浮かべるだけで、それを追体験できることに気づきます。

義母の魂から、幸せな時期ではなく、なんでもない普通の日々に戻って追体験してみるといいとアドバイスされます。

そして彼女は、生家であるウェッブ家のある日の朝の光景に移動します。牛乳屋のニューサムがいつものようにタンクを持ってやってくる。通りでは新聞配達のクロウウェルが朝刊を投げ込んでいる。家を囲んでいる大好きだった白い柵も見える。ニューサムは帰りしなに「エミリーに、おめでとうと伝えて」と言います。その日は彼女の16歳の誕生日でした。

ある朝の光景に立つエミリーの魂

母親は、いつまでも起きて来ない子供たちを階下から叱ります。二階から自分の声が
聞こえてきます。「ママ、青いヘアーリボンはどこなの?」

新聞編集者の父親も帰って来ます。「娘の誕生日だからね」と母親に告げます。「コーヒーは?」と母親。

エミリーの魂は誰にも見えませんが、そんないつものウェッブ家の朝の光景をわくわくしながら味わっています。

喜ぶエミリーの魂

「なんて素晴らしいの ! こんないつもの光景なのに、なんて素晴らしいの !」彼女の魂は、その時はなんとも感じなかった過去の日常に、震えるような感動を覚えています。

「誕生日の主役はまだ降りて来ないのか?」と大好きだった父親が二階へ上がって行きます。

母親と二人になったエミリーの魂は耐えられなくなり、母親とのコミュニケーションを試みます。
「わたしはここよ。もう大人よ。みんなのことが大好きよ」

ママに呼び掛けるエミリーの魂

しかし母親にはまったく聞こえていない。母親は真後ろに立つエミリーの魂を素通りして、また階段の下に行きます。「七時よ。もう起こしませんよ !」

すると階段を、着飾った16歳の自分が軽やかに降りてきます。母親がテーブルにみんなからのプレゼントが置いてあるわよ、と告げます。

かつての自分を見て愛おしく眼差しを向けるエミリーの魂。

そこに恋人のジョージがやって来ます。プレゼントを彼女に渡しに来たのです。

ジョージにも見えないエミリー

思わず「ジョージ、あなたとわたしは結婚するのよ。叔父さんが農場をあなたにくれてね」と彼女は声をかけますが、ジョージはエミリーと簡単な会話を済ますと帰ってしまいました。

感情の高まりを抑えきれなくなったエミリーの魂は、また母親の後ろから強い口調で声を掛けました。
「わたしは12年後に死んでしまうの。弟もクロフォード・ノッチのキャンプ旅行で虫垂炎になって死んでしまったわ。あの時、ママがどんなに悲しんだことか ! ママ、みんな一緒なのはほんの少しの間。今の幸せを噛み締めてちょうだい。この瞬間が、幸せの時間よ。もっと、お互いを見て !」

語り掛け続けるエミリー

テーブルのエミリーはプレゼントを開けるのに夢中だし、母親も背を向けて朝食の支度。背中越しにプレゼントの包み紙の色で誰からのものか教えている。

二階からは父親の声。「娘はどこだ?」

母親は調理しながら、16歳の自分は朝食を食べながら二階へ目線を投げている。

込み上げる悲しみ

「もうやめて !!」エミリーの魂は叫んでしまいます。「時はすぐに過ぎる。お互いに会っていられる時間なんてすぐに過ぎる。私はそれに気づかなかった。すべての出来事がそうであることに。そして、みんなもそれに気づかなかった。もう自分のお墓に帰らないといけないの? 待って、もう一度、見させて」

彼女は振り返り、いつものありふれた朝食の光景に目を向けました。

さようなら さようなら

「さようなら、さようなら、この世界。さようなら、
グローヴァーズ・コーナーズ。ママ、パパ、さようなら。時間を刻む時計よ、さようなら。私のクルミの木、ママのひまわりも、さようなら。食べ物にコーヒー、アイロンをかけた新しいドレス、そして、温かいお風呂や眠ったり、目覚めたり....」エミリーの魂は日常の光景のあらゆるものとの訣別の悲しみから、生きていることそのものへの愛おしさに向かっていく。

「ああ、気がつけば、この世はすべての人にとってあまりにも素晴らしい !! 生きているときに、どうして誰もそれに気づかなかったの? この一瞬、一瞬の素晴らしさに !!」

生きたいと苦悶するエミリー

愛する人たちとの大切な時間は確かに短いが、それゆえにその時々刻々は素晴らしい一瞬の連続。それをただ日々の流れとして生きてしまい、味わいもせずに過ごしてしまった人生への後悔が彼女の魂を激しく突き刺します。

「ああ、わたしは生きたい !!! わたしは生きたい !!! わたしは生きたい !!!」エミリーの魂は絶叫していました。

そのときです。ベッドに横たわるエミリーが、ゆっくりと目を開けます。

目覚めるエミリー

「そうだ、おまえ、そうだ、エミリー」義父のギブス医師の声です。

そして難産だった赤ちゃんが取り出され、お尻を叩かれて泣かされています。赤ちゃんの泣き声がして、出産が無事に終わったことが分かります。

部屋の外で待っていた夫のジョンが扉を開けます。

ジョンの顔に微笑みかけるエミリー。

扉の隙間から見ているジョンエミリーの微笑

そうです。難産で確かに彼女は死線を彷徨いました。そして臨死(ニア・デス)体験をしていたのです。魂となって初めて気づく大切なことをエミリーは知りました。そして、もう一度、生きたいと、この世での素晴らしい日々を取り戻したいと渇望し、絶叫することで、瀕死の中で生命力を回復したのでした。

喜びのエミリーの一家

エスコート役の人物が、
グローヴァーズ・コーナーズの小高い丘の上に立って、暗い町を見下ろしています。「もう午後11時。町は寝静まっています。ホーキンズが電車の通過を見守っています」と彼は話します。ホーキンズとは、物語の冒頭、つまり12年前の6月の早朝、ボストン行の電車の発車を告げていた駅員です。「灯りの点いているあの家は、ギブス家の窓です。赤ちゃんが生まれ、みんなで話をしています」と窓の向こうで幸せそうに笑っているエミリーやギブス家の人々を映し出します。

進行役モーガン氏おやすみ

ずっと物語を進行させてきたこの人物が最後に語ります。「中西部のとある詩人が言いました。『人生を愛し、歩みなさい。人生を歩み、愛しなさい』と。グローヴァーズ・コーナーズも、もう午後11時。明日がまた訪れます。すでにみんな眠っています。あなたもお休み下さい」そして木の柵を外して丘を下りながら、帽子のつばを少し上げて"Good night"と。

そしてENDマーク。

グローヴァーズ・コーナーズ
1901年グローヴァーズ・コーナーズの冬の朝

「明日がまた訪れます」の部分は"Tomorrow will be another day"と言っています。「風と共に去りぬ」のスカーレットの最後の言葉に似ていますが、もっと軽く使っているようです。しかし、紹介された詩人の言葉「
人生を愛し、歩みなさい。人生を歩み、愛しなさい」"You gotta love life to have life,and you gotta have life to
love life"という言葉を、エミリーの生きる意味へのスピリチュアル・メッセージとして「明日」を迎えるのならば、文字通りに「明日は違う日になるでしょう」ですね。

中西部の詩人とは、この映画の原作者ソーントン・ワイルダー
(Thornton Niven
Wilder 1897〜1975)
です。彼は中西部のウィスコンシン州出身です。原作者の言葉ですからね、物語の主旨そのものでしょう。


ENDマーク





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映画シーンに時々、とんでもなく恍惚する不思議

このところ古いアメリカ映画ばかりを見ています。

ブルックリン横丁

「ブルックリン横丁」(1945年 20世紀フォックス)なんて涙・涙でした。原題の"
A Tree Grows in Brooklyn"は、確かに劇中でこの「ブルックリンの成長する木」の意味も分かるのですが、「ブルックリン横丁」はナイスな邦題だと感心します。

それに比べて、ちょっとなぁ、と感じる邦題は「百万人の音楽」(1944年 MGM)です。原題は"
Music for Millions"、まんまです(笑) 

戦時中に国民のために制作された音楽映画(ミュージカルではありません)なので、こんな原題なのですが、もっと映画のストーリーから日本人向けの邦題をつけるべきでしたね。「プライベート・ライアン」(原題"
Saving Private Ryan")レベルの芸の無さです。ディズニー映画の"Frozen"だって「アナと雪の女王」という邦題で、原題よりずっとディズニーっぽさを表現しているのに。(ディズニー映画「凍結」じゃ、とてもとても....)

百万人の音楽

この「百万人の英語」じゃなく「百万人の音楽」、当然のこと白黒映画です。(同年制作の映画でもカラー作品はありますが、まだ白黒全盛期)

1944年公開ともあって、戦時色が強く、この作品の場合、主人公の夫が太平洋戦線に従軍中で、しかも音信が絶えて心配しているという状況設定。当然、敵は日本軍です。夫が行方不明であると妹に告げると、幼い妹は「だって、日本刀をもってくるってあたしに約束したもん!」と返すシーン等あります。

44年といえば、日本は本土空襲も本格化し始めて、とんでもない戦況下でしたが、アメリカ国内はそれに比べれば平和な日常です。それでも主人公の属するニューヨーク交響楽団は、徴兵で男性団員不足となり女性団員が多数おり、また国内のあちらこちらの軍事施設に慰問演奏に飛び回っています。

核になる部分で、主人公の夫の太平洋戦線での行方不明の問題がありますから、やはりそれなりに戦争は市民に暗い影を投げていたのですね。

1944年製作/アメリカ「百万人の音楽」
1944年MGM「百万人の音楽」より主演のジューン・アリソン

随所のシーンでクラシック・オーケストラの名演奏が見られ「音楽映画」としての醍醐味が楽しめ、そして友人を思い遣る仲間たちの姿や陽気なアメリカ人たちの日常など、暗い世相に「我々アメリカ人はこうして乗り越えるんだ」的な意味での国威高揚映画の役割も果たしています。

こういう作品は無条件に泣けるから楽しいし、またお約束のハッピーエンドもノンストレスで気持ち良い。

また私は、"古い映画"の中で、生き生きと映し出される当時の日常の光景もまた惹かれるポイントなんです。

1945聖メリーの鐘10
1945年「聖メリーの鐘」より

それは当時としてはごく当たり前の情景なんですが、2021年の今、もう80年近くの歳月が経ってしまっていると、すべてのもの、つまり椅子でも机でも街灯でも衣服でも髪型でも車でも、建物でも橋でも掛け時計でも、ポピュラー音楽や町の騒音やパーティーの騒めきすら、とても愛おしく感じてしまうのです。

1939かれらに音楽を
1939年「かれらに音楽を」より

この心の琴線は、たとえばYoutube等で「当時のニューヨーク」なんて動画を見ていても感じない、映画の何気ないワンシーンでのみ触れることができるのです。

1945ブルックリン横丁
1945年「ブルックリン横丁」より

そんなちょっと変わった特質があるのです。だからB級映画でも、充分にそれは満たされます。でもなぜ、「アメリカ」なのかは不明。こればかりはフランスじゃダメ。
20世紀に入ると私の志向は、アメリカに向かいます。10年代から40年代か、50年代初めくらい。


この辺の時代を前世で生きてたのか? ってくらいです。

18世紀のフランス同様に、あらゆるものが懐かしく愛おしく感じます。

だから、この白黒映画の古めかしい銀幕の中に映じていた俳優たちが、その後、長寿で今のこの世にも健在だったりすると、すごく嬉しいのです。

1944年製作/アメリカ「百万人の音楽」5原題:Music for Millions

たとえば、この映画「百万人の音楽」の中のこのお二人。一人は子役のマーガレット・オブライエンですが、この少女だってさすがに生きてるか怪しいものです。1944年、つまり昭和19年の公開映画ですからね。ところが幸いにして、まだ84歳で健在。(「百万人の音楽」出演の同年の前作「若草の頃」でアカデミー子役賞受賞)

しかしさすがに、横にいる美しい女優さんはもう亡くなられているだろう、などと調べると、マーシャ・ハントという女優さんで104歳で健在 ! (2008年まで映画出演し、2013年には作詞作曲した曲を発表、現在彼女のドキュメンタリー映画が製作中)

1944年製作/アメリカ「百万人の音楽」6原題:Music for Millions
1944年MGM「百万人の音楽」より、マーシャ・ヴァージニア・ハント

こういうことが分かるとすごく嬉しいのです。あの時代の様々を味わいながら生きて来た人が、今でも普通に同じ空気を吸い、パソコンやスマホを見て、コロナや地球温暖化などという問題の中で生きていること自体が、とても嬉しいのです。

これがどういう心理からくるものなのかは分かりません。

1945聖メリーの鐘11
1945年「聖メリーの鐘」より

歴史であるはずの30年代や40年代が「過去」ではなく、そういう人たちの中では「思い出」という個人の記憶としてまだ生き生きと再生されているんだな、と考えるだけでもわくわくします。まだあの時代は終わったわけではない、と思えるからです。

でも、どうしてそんなことが私をわくわくさせるのか、ということは謎のままです。18世紀フランスなどは小学生の頃からですし、特定国の特定時期だけにノスタルジーを感じるというのは、なぜなのか。

1944年製作/アメリカ「百万人の音楽」2原題:Music for Millions

ある場面によって、急にその想念は湧き起こります。今回は、この「百万人の音楽」の、この画面でした。戦場からの夫の便りが途絶えて、さすがに不安が高まってきた主人公のバーバラ(演:ジューン・アリソン)が、慰問演奏旅行中のある夜、二人の想い出の曲だったドビュッシーの「月の光」を楽団長が弾いているのを聴いて、気丈に堪えていた不安と悲しみについに耐えられなくなってしまうシーンです。

そのシチュエーションは実はあまり関係なく、私はこの部屋の片隅のスタンドの仄灯りの中、木製の肘掛椅子に腰をおろす女性の光景そのものに感応していました。

1944年製作/アメリカ「百万人の音楽」原題:Music for Millions

同映画の上のような何気ないシーンも、ビビッとしてしまいます。

この女優のジューン・アリソンは確かに当時「隣りのお嬢さん」的なアメリカのアイドルで全米を魅了した女性ですが、それが理由ではありません。

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1948年MGM制作 米映画「三銃士」のジューン・アリソン 右はダルタニャン役のジーン・ケリー

私の大々好きな歴史映画ジャンルのしかも「三銃士」にダルタニャンの恋人コンスタンス役で出演していますが、その時は、17世紀フランスが舞台なのに、そのアメリカ娘っぽさに違和感を覚えた私でした。ですから、そういうことではないのです。

不思議ですね。日本映画ではそれはない。自分の生きて来た青春期の70年代には反応しますが、戦前・戦中の日本とか、江戸時代の日本とか、まったく無反応(笑)

この、独特な感動のツボで、これからも映画を見て「あれは最高の作品だ」なんて感動しても、理解されないケースも多いでしょうね。ある意味で孤独な鑑賞法。

1951ふるさと物語

こんな映像に感動しますか?
これはMGM制作の1951年「ふるさと物語」のワンシーンです。病院でやきもきしながら待っているシーンで、特に語るべき設定もないのですが、私は窓からの西日でブラインドの影が壁に映っているこの光景に、たまらなく魅了されました。


あんまりこういう感性の人っていませんよね。

1951ふるさと物語.モンローJPG
1951年MGM「ふるさと物語」にちょい役で出演しているマリリン・モンロー

マリリン・モンローが地方新聞社の事務員というちょい役で出演している、日本未公開映画としてのみ人気の作品。地味な映画です。確かにモンローの美貌は、輝かんばかりですが、私には、ブロンドのモンローより、ブラインドの影です(笑) 

やはり、特異体質ならぬ特異感性、確定ですね。





1944年製作/アメリカ「百万人の音楽」8原題:Music for Millions


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papeは、我が家の雑種犬の名前です。(フランス語で「法王」ですが...許し給え、アーメン)
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