青い空に白い雲

このブログ、新しい記事ばかりでなく、カテゴリ別に適当に拾って読んで下されば幸いです。日記じゃないので....

原爆の日 3年前のサーロー節子さんの平和賞スピーチ

以下は、2017年、国連本部で採択された「核兵器禁止条約」の実現に貢献した国際NGOである「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)がノーベル平和賞を受賞した時に、サーロー節子さんがその被爆体験を通して演説した内容の抜粋です。


きょう、この会場で皆さまには、広島と長崎で死を遂げた全ての人々の存在を感じてほしいと思います。

 

雲霞のような二十数万の魂を身の回りに感じていただきたいのです。一人一人に名前があったのです。誰かから愛されていたのです。彼らの死は、無駄ではなかったと確認しましょう。

 

私はまだ13歳でした。私は今もあの朝を鮮明に覚えています。815分、窓からの青みを帯びた白い閃光に目がくらみました。体が宙に浮かぶ感覚を覚えています。静かな闇の中で意識を取り戻すと、倒壊した建物の中で身動きできないことに気付きました。級友たちの弱々しい叫び声が聞こえてきました。「お母さん、助けて。神さま、助けて」

 

そして突然、私の左肩に手が触れるのを感じました。「諦めるな。頑張れ。助けてやる。あの隙間から光が差すのが見えるか。あそこまでできるだけ速くはっていくんだ」。誰かがこう言うのが聞こえました。はい出ると、倒壊した建物には火が付いていました。あの建物にいた級友のほとんどは生きたまま焼かれ、死にました。そこら中が途方もなく完全に破壊されているのを目にしました。

 

私の愛する都市は1発の爆弾によって消滅したのです。住民のほとんどは非戦闘員でした。彼らは燃やされ、焼き尽くされ、炭になりました。その中には私の家族と351人の級友が含まれています。

 

その後の数週間、数カ月間、数年間にわたって、放射線の後遺症により予測もつかないような不可解な形で何千もの人々が亡くなりました。今日に至ってもなお、放射線は人々の命を奪っています。

 

しかし、広島と長崎を残虐行為、戦争犯罪と見なすことをなお拒絶する人たちもいたのです。「正義の戦争」を終わらせた「良い爆弾」だったとするプロパガンダを受け入れたわけです。こうした作り話が破滅的な核軍拡競争をもたらしました。今日に至るまで核軍拡競争は続いています。

 

今も九つの国が都市を灰にし、地球上の生命を破壊し、私たちの美しい世界を未来の世代が住めないようにすると脅しています。核兵器の開発は、国家が偉大さの高みに上ることを意味しません。むしろ、この上なく暗い邪悪の深みに転落することを意味するのです。こうした兵器は必要悪ではありません。絶対悪なのです。

責任ある指導者であれば、必ずやこの条約に署名するに違いありません。署名を拒否すれば歴史の厳しい審判を受けることになるでしょう。彼らのふるまいは大量虐殺につながるのだという現実を抽象的な理論が覆い隠すことはもはやありません。「抑止力」とは、軍縮を抑止するものなのだということはもはや明らかです。私たちはもはや恐怖のキノコ雲の下で暮らすことはありません。

 

核武装した国々の当局者と、いわゆる「核の傘」の下にいる共犯者たちに言います。私たちの証言を聞きなさい。私たちの警告を心に刻みなさい。そして、自らの行為の重みを知りなさい。あなたたちはそれぞれ、人類を危険にさらす暴力の体系を構成する不可欠な要素となっているのです。私たちは悪の陳腐さを警戒しましょう。

 

私は13 歳の時、くすぶるがれきの中に閉じ込められても、頑張り続けました。光に向かって進み続けました。そして生き残りました。いま私たちにとって、核禁止条約が光です。この会場にいる皆さんに、世界中で聞いている皆さんに、広島の倒壊した建物の中で耳にした呼び掛けの言葉を繰り返します。

 

「諦めるな。頑張れ。光が見えるか。それに向かってはっていくんだ」







短く日本のエリートについて思う8月9日

8月9日になると思い出すのは、長崎の原子爆弾の投下情報が日本側に察知されていながら、その通報が大本営にて、同日のソ連侵攻という大騒ぎの中、もみ消されてしまい、なんらの迎撃・反攻すら出来ぬまま、護衛機もなく砲塔も外した無防備なB29によって原爆が投下されてしまったという話です。

この出来事については昔、2011年8月7日に「原爆投下の真実・日本エリート考」という記事で書きました。

なんか、コロナ禍の現代の政治家・官僚に相通ずるものがあるような気がしますよね。長崎市の近く大村市にあった航空隊のエース・パイロット本田稔氏が、戦後にこの事実を知った時、無念の表情でつぶやいた言葉を思い出します。「これが日本という国なんですね」











短く人類について思う8月6日


カレンダー
                            このカレンダーはダメでしょう

8月6日は75年前に広島市に原爆が投下された日です。8月9日は長崎市に。
核兵器が実戦に使用され、その被害を受けたのは地球上で日本だけです。


その結果として75年の歳月が流れた後でも2020年3月現在136,682人の被爆者がおり、平均年齢が83歳ということから、小学2年生くらいからずっと被爆後遺症と闘っていることになります。

75年後もこのような状況をもたらした二つの核爆弾は、今や地球を50回滅亡させることが可能な量、特定国によって保有されているのが現状です。

まったく、人類の産業活動による温暖化で2100年頃には8月の平均気温が40℃超えするというし、日々新型コロナ・ウイルスの脅威で騒いでいますが、地球の生態系にとってはウイルスは人類でしょうね。


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                 世田谷区松原の真昼の太陽・本日の都内最高気温34.2℃



15歳〜27歳までの歴代日記帳の8月1日のページの内容

8月になってしまい、コロナは紫外線に弱いから夏には終息、とか希望的観測を口にしていた頃が懐かしい。考えてみれば体内で生息するウイルスに紫外線はあまり関係ないですよね。......

体外に出たウイルスは紫外線に弱いから、接触感染では幾分勝算はありと思えますが、連日の記録更新を見ていると、望み薄ですか。都知事は6月初旬にやるべき対策を2ヶ月遅れで始めているし、安倍さんは職務放棄状態。感染対策と経済対策のバランスとか綺麗ごと言いつつ、政治最優先にしている日本の政治家は、恐らく地球上でも最低ランク決定ですね。

....そう、もうCOVID-19系の話は怒りと情けなさでストレス過多になるから、Blog上ではやめにすると宣言したのをまた忘れていました。

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閑話休題(コロナが閑話かい !)、始めに戻りまして、8月になってしまい本日は8月1日、私が中二からつけていた日記帳の8月1日のページを暇つぶしにめくっていきます。中二と言っても11月からですから、「最古」の記録は中三の8月1日です。最終はサラリーマン5年の8月1日ですから、1974年から86年迄の記録となります。昭和49年〜61年、どっぷり昭和です。

こんな平凡人のどうでもよい記録をひもといたところで、何も役に立つものはありません。まったくありません。それだけは初めに断言しておきます。以下、いきなり、ですます調から、である調に意味もなく変換します。


1974年(昭和49年)8月1日 木曜日

この日は、冒頭でオカルト・ブームでコックリさんとか大予言とかが流行っているとある。コックリさんは定期的に流行るらしい。大予言は「ノストラダムス」だろう。
そして、代ゼミ初日とある。渋谷のハチ公の尻尾で待ち合わせたとある。当時は渋谷の待ち合わせは大抵がハチ公。尻尾とは、誰もかれもがハチ公に殺到して待ち合わせるので、せめて、ハチ公像の後ろ側、と具体化しているのである。

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                     現在の渋谷ハチ公(小さい犬は本物)

そのくせ結局、待ち合わせた友人と会えずに、初日から遅刻して代ゼミ校舎に向かい、案外と遅刻仲間が多く助かったとある。都立受験クラスだったので、共学の生徒が多く、女子高がいないことを残念がっている。

帰りに渋谷の大盛堂で1900円の本を買い、小遣いがなくなったとボヤいているが、帰宅すると遊びに来ていた伯母さんから2000円もらって、ツーペイになり喜んでいる。(当時はまだ細かい事をマメに記していた)

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             中学から社会人にかけて着けていた腕時計シチズン・コスモトロン。
X8-COSMTRONは電磁テンプ式といってシチズンの先駆的技術の腕時計として1972年発売。しかしセイコーのクオーツ式により数年で市場から消えたそうです。私は普通にそのまま10年以上、使用していました。


夜からカミナリが激しく、カミナリ嫌いの祖母がすべての電源を抜いて部屋を真っ暗にして怖がっているとある。B29の空襲を何度も経験し、夫である祖父が地域の防空団長をしていたから消火活動に奔走していた祖母が、どうしてカミナリごときが怖いのか当時から不思議だった。

最後の行に、初日から代ゼミにあと9日も行くことの愚痴を記し、この夏期講習で彼女が出来る可能性は99.99999%ないだろうと書いてある。

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                 アン・ルイス「グッド・バイ・マイ・ラブ」(1974年)

ところが、やっと最終日の8月11日になると、「終わってしまった〜」と嘆いているのである。それは、教室で何度も目が合った女の子がいて、気に入ってしまったものの声は掛けられず仕舞いで、最終日が終わってしまったからだ。この当時、アン・ルイスの「グッド・バイ・マイ・ラブ」が流行っていて、しみじみとその歌を口ずさんでいる....おめでたい、妄想である。12日には沢田研二の「追憶」を歌いながら、その女の子の「追憶」に悶え苦しんでいる始末。「狭い日本だ、きっといつかまた会える」と書いてあるが、それっきりだったことは言うまでもない。

1975年(昭和50年)8月1日 金曜日

高一である。1年前、代ゼミの都立受験コースなんて受けているわりには、普通に附属中から付属高にエスカレーター進学している。
クーラーのビンビンにかかった部屋で、サンダー3本とアイスコーヒーと焼きそばパンとホワイトチョコを食べつつ一日テレビ見ていたら下痢をして苦しんだとある。当たり前としか言いようがない。

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      現在も本棚の上にある"ノイシュバンシュタイン城"(つや消しで本物っぽく見せる特殊塗装してある)

運動部には入っていなかったので、夏の合宿とかもなく、4日からの補習授業くらいしか予定がないから、夏休みは退屈だと言っている。3日に2800円で「ノイシュバンシュタイン城」のプラモデルを買って作り始めているが、余程ヒマだったんだろう。ちなみにこの城のプラモはまだ部屋に飾ってある。

1976年(昭和51年)8月1日 日曜日

高二である。モントリオール・オリンピックの最終日である。前日のページに、女子バレーで金メダルとサラリと言及し、フランスが何かの競技で金メダルだったがラ・マルセイエーズを聴きたかったなぁと愛国心のないことを書いている。この1日当日はあっさり数行書いてあるのみ。

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従姉の〇〇さんの兄貴が婚約者と挨拶にきた、とある。従姉の兄さんだから従兄と書けばいいのに、従姉の〇〇さんの名を出しているのは、この従姉がすごく綺麗な人なので、あまり関心のない親戚の中でも覚えている数少ない人だったからだと思う。

この従姉は、その後、ある外資系石油会社の日本支社副社長の御曹司と結婚して優雅な世界へ入っていった。

1977年(昭和52年)8月2日 火曜日

高三であるが、この頃、受験勉強が忙しく日記はとんでいる、と書きたいが、本当はただの怠慢である。
この頃から、色事が多い。なんとか男子校ゆえの長い不毛から脱して彼女というものが出来たからである。受験勉強なんて、気にしているだけで行動面はそんなことばかりである。

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            中学からずっと整髪料はエロイカのヘアトニック。今でもこの香りで当時を思い出す。

丁度、大学3年でお別れした彼女との交際が始まって間もない頃だ。その彼女C子は、実は高二の終わり頃に、高校近くの女子高のY子という子からの紹介で付き合いが始まった。当初はそのY子が本命だったわけだが、なんとも変わった子で苦労させられた。しかし近くの女子高の生徒と朝一緒に登校したり、帰りに待ち合せたりする行為は、男子校生としては、共学出身者には想像もつかないほどの夢心地なものなのだ。それを初めて味わわせてくれたのがY子だった。

そのY子との春の夜の夢も数ヶ月で儚く揺らぎ始める。同級生にあなたのこと好きな子がいるから紹介するね、本当はその子の橋渡しするだけだったの....とか言い出す。毎日電話がくるが、ただの電話狂のようで、よくペラペラと話し、イメージ黒柳徹子である。すっかりY子との付き合いに疲れた頃に紹介されたC子の、その「普通」の女の子ぶりに私は好感を覚えた。

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                       太田裕美「雨だれ」(1974年)
 
長くなったが、この日は、そのC子とのデート内容のことを長々しく書き記している。一緒に入った喫茶店で太田裕美の曲が流れていて、デビュー曲の「雨だれ」を聴いていた頃の「純情」な自分を懐かしんでいる。この日の冒頭に「もうY子の名は書かないだろう」とか宣言をしているが、それからもY子からの電話は続いていて、たまに日記に登場している。

1978年(昭和53年)8月1日 火曜日

大学生となり初めての夏である。当然にバイトをしている。近くの大型書店で、いつもバイトはここである。二階の専門書フロア担当なのでヒマで喜んでいる。一階は雑誌や文庫なので忙しいし、三階は教育図書だが社長室に隣接しており神経使うので二階がベストなのだ。

成蹊大と一橋大の生徒がバイト仲間で、適当に楽しくやっていることが書かれている。

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一年前に交際開始したC子とは仲睦まじく、外出禁止を食らっていたC子が英語の和訳に使う図書を買いに行く名目で母親のOKもらい、私のバイト先の書店に来たことを喜んでおり、「愛は確かだ」とか安心している。またバイト先の女性らとの会話内容も全部教えてくれと言われ、それもまた「愛は確かだ」と悦に入っている始末。男子校・女子校出身者同士の付き合いの悪い点だろう。なんでもない異性関係が許容できないのだ。

その日は、そんなホンワカした良いムードで日記を終えているが、翌日に大事件。

例のY子から電話があり、修学旅行の寝台車の中でY子が他の友達がC子に立教大生だの慶応大生だのの相手がいると噂しているのを聞いてしまい、私が浮気されているという密告である。私はかなりショックを受けている様子。

Y子はその告発に続いて、一年半前にC子を押し付けたのは自分があなたを嫌いになったからじゃないとか、そんな疑惑事件とは無関係な話もしていたので、寄りを戻そうという魂胆は察せられた。

しばらくY子にご執心だった私がどうでるか? 具体的な内容を調べるから、会って話そうと言うY子からの誘いにOKした私はどうするのか?

まぁ、こんなどうでもいい話の結末をもったいぶっても仕方ない。

d263837759.2                   テレフォン・ピックアップ

私はこの密告をすべてC子に話し、C子はY子に怒り心頭。なにがなんでも身の潔白を証明すると、テレホンピックアップ(電話の音声を録音できる当時の機器)で、噂の発信者とされているKさんとOさんへの電話内容を録音、また直接、私へ彼女らから電話してもらい、すべてはY子のでっちあげだと複数人の証言を私の耳に入れた。

「キミを信じてるよ」なんてオシャレな言葉も口にできない低俗な私は、このような確たる証拠によらなければ交際相手すら信じられない愚か者。

なんであれ、この一件は収まり、私はY子との待ち合わせをスッポかし、電話も居留守で対応。C子への思いをより高めていく。ともかく、当時の日記を読んでいると情けない自分に再会しているようで、心がクサクサしてくる。

ページの余白に「オマエはクズだ」とか書き込んであるのは、未来の自分からのメッセージなのだが、思えば今でもそれほどの人格者ではないことくらい知っているし、もともとがもともとだから、成長しても高が知れているのだろう。

1979年(昭和54年)8月1日 水曜日

大ニの夏。例によって去年と同じ書店でバイト中。しかしこの年は激務の一階担当に回され、一日200人もレジを打つとボヤいている。しかも深夜まで遊んでいるので、睡眠時間が3時間だとか嘆いているが、それは自業自得である。

C子との関係は続いている。この日も少しモメている。

つまらないことだ。私の高校の友人Aが、C子の友達と付き合っており、そのAの車に今度乗せてとC子が友達に言ったということだ。さすがに、かなりつまらない。当時まだ車を買っていなかった私のヤッカミ心理がはたらいたのだろう。

だが、さすがにこのことでC子を詰問するのは恥ずかしいと感じたのか、さりげなく皮肉ったようだ。そうしたらC子は「くだらないことを一々...」とか言う。一年前のC子と比べると、関係性は同等になっている気配だ。器のちっちゃな私を見抜きつつあるようで頼もしい。

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                    TBSドラマ「水中花」の松坂慶子と近藤正臣(1979年7/12〜10/4放映)

翌日、TBSテレビドラマ「水中花」を見ていて、主演の松坂慶子の恋人役・近藤正臣のクールな姿に「男のカッコ良さとはこれだ」と感銘し、自分を恥じている。しかし、あのドラマで、政界大スキャンダルの記事を捨てて、銃で脅されながらも「損得で動く人間とそうではない人間の違いはここにあり」と恋人の解放を求めるような近藤正臣と、「Aの車にそんなに乗りたいのか?」と皮肉る自分を照らし合わせること自体がすごすぎる。

1980年(昭和55年)8月23日 土曜日

大三の夏である。就活スタートで日記どころじゃない、と言いたいが、高三の時と同様、ただ怠慢で日記帳を買わないまま3ヶ月過ぎてしまったと書いてある。

またバイトはしているが、今度は書店ではなく、指定された地域の出張所に行って、指定された年齢層の台帳を閲覧し書き写してくるという、気軽なマーケティング会社のバイトをしている。予定のない時だけ希望で入るバイトだから、制約もない。大学もサボり通しで、バイトも制約なしのものを選ぶあたりが私らしい。

3ヶ月のブランクについてまとめて書いているが、「何もないからブランクなわけで」と大したことは書かれていない。ただ以降はまた毎日つけている。

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C子は短大生となり、我が世の春とばかりに遊びまわっている。神経質で口煩い私のイライラを故意に刺激していると愚痴っているから、一年前の「同等」から、ついに彼女は「優位」に立ったようだ。今の私からすれば、なんともそれは爽快な逆転劇のように感じる。

まぁ、この大三が終わる頃には、彼女との別れもあり、いわば世紀末状態だったようだ。私も昔のように細かいことをグズグズ言うのが疲れていて、C子を半ば放任している。また、かつて制約ばかりしていた自分を恥じてもおり、ちょっとだけ大人になっている。そうしたら、逆に、まるで反抗期の子供のように無駄に自由奔放にされ、返ってストレスが溜まっている始末。

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                 大学時代に乗っていた中古のスターレット KP47型

しかし毎日、毎日、誰かと遊んでおり、こちらも人のことは言えない。大学は期末試験の季節しか行っていないから、そこでの友達は代返の依頼先であり、テスト勉強の協力先であり、あまり深くは付き合っていない。だからツルんで遊ぶ相手は、中高時代の地元の友人ばかりである。当時の大学生は、ともかくみんな車好きだったから行動範囲も広いし時間も自由だった。しかし、だからと言って、何があったわけでもなく、ただその日その日を地味に遊んでいただけである。

1981年(昭和56年)8月1日 土曜日

大四の夏なので、さすがの私も就活のことで悩んでいる。毎日、そんなことばかりである。私はこういうことに、日頃は何もしないでヘラヘラしているくせに、時期が到来すると、たちまち不安になり、バタバタと活動する癖がある。そんな渦中だ。

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                   沢田研二「渚のラブレター」(1981年)

バイト先で知り合った女子高生との短く呆気ない付き合いもすでに終了し、友達感覚で気楽に会ったりしている別れたC子との関係も、6月くらいに沢田研二の「渚のラブレター」のBGMを車内で鳴り響かせながら「今なら取り消せる、ベイビー。おまえの言ったサヨナラ」のフレーズを何度も聴かせてドライブしたものの、ドラマのように話は展開せず、以降はたまに友達として会うだけになっている。

ともかく頭は就活だけであり、それはかなり現実的な思考で生活していた。もうロマンスなんて今は要らない、みたいな。

1982年(昭和57年)8月3日 火曜日

サラリーマン1年目なので、夏休みも何もない。「サラリーマン人生のスタートの頃を思い返して」でも語ったように、オシャレなオフィスと現場の行ったり来たりで疲れ切っている。だから、日記もとびとびである。

この日の前は7月29日、次は8月5日でその次なんて14日にとんでいる。

この日は、仕事の愚痴ではなく、C子からの電話の内容がメイン。冒頭から「仕事のことはどーでもいいや」で始まっている。

それは同じ会社に勤務していたC子の彼氏が7月末日付で退職したという話。原因は、同僚から頼まれてATMでおろしたお金を着服したということを会社側からも追及されての退職との事。その時は、私は彼氏の上司が着服したことを非難していることに、証拠もないのに憶測で人を泥棒扱いするなんてひどい上司だと書いている。

しかし、その後、C子の財布からも少額の金額を抜いていることが発覚して、今度はC子に同情、しおらしく謝罪して関係を戻そうとするその彼氏を危険視し始めている。

この月の20日、現場に直行直帰する日々が増えてきた危機感から、かねてから気にしていた会社のフロント嬢(会社の入っていたビルの総合受付)に思い切って声を掛けて、警戒心全開の彼女を説き伏せてお茶に誘って、交際に結び付けている。また再び、長らくその子とのストーリーが始まるのである。
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この成功について外線(公衆電話)でC子の会社に電話して「成功したぜ!」「マジ? やったじゃん!」なんてやりとりをしている。私はなんかこの場面が今でも大好きである。学ランと女子高の制服姿の頃に交際を始めた二人が、今はOLと背広姿のサラリーマンでこんな会話をしているのである。なんだか素敵に感じる。


1983年(昭和58年)8月6日 土曜日

すでにサラリーマン2年目で、しかもこの年の4月に転職までしている。新しい職場環境としては、去年と同じ「新人」である。緊張やストレスは同レベルだが、現場仕事はなくなった。
またやはりとびとびの日記で、前後は7月31日と8月8日である。何か書きたくなったら書く、というパターンが社会人になってからは定着したようだ。

この日は、一年前のフロント嬢S子との4年にわたる交際(C子とも同じような期間だったので、限界値なのか)の1年目なのに、早くも愚痴っている。翌日から友達らと海に行くという前日なのに電話したら不在で、そのままかかっても来ないと。72e81f249871916e96e6fb2771a91603

しかしそういうことにネチネチ文句いうことは、C子との交際期間中に猛省したので、「むしろ小うるさい相手ではないという気楽さと安心感を与えたい」という理念のもと、我慢しているようだ。本質は変わっていない。つまりムカついている。しかし「このての怒りが一番危険だ」と書いてるように、少しは学習しているようだ。

1984年(昭和59年)8月18日 日曜日

サラリーマン3年目だが、この頃になると、飛ばし日記も少し大胆になってくる。前が7月25日である。営業へ部署替えとなり、毎日がものすごく大変になっていた。勘定は合わない、ノルマは追いつかない、上司はやかましいで、ストレスフル。

お酒を飲む機会が激増し、宅飲みも習慣化している。だから日記どころではないのだろう。
この営業になってからの1年半くらいは、今でも地獄の日々として記憶している。確かに大変だった。そこで、この日の記録には、S子のことはチラリとも出てこない。中学校の頃から、書くことと言えば異性のことばかりで、「それ以外ないのかよ !」と突っ込みたくなるような毎日だったが、この頃はもう、付き合っているのに、まったく言及されていない。大人になったのかも知れない。

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                            その当時より少し後

というか、あまりに日々の業務が激烈で、またトラブルも多発、かなり精神的には参っていたから、浮ついた話を書く気分ではなかったのかも知れない。ともかく、目の前の厄介事を解決するためだけに日々生きていた感だ。

しかし、今にして思うと、この頃の無間地獄のような体験が、その後の私の営業部門での栄達に、ものすごいパワーを与えたことは事実である。どんなにダメな部下も見放すことがなかったのは、私自身がこうしてダメな営業マンだったからで、ダメな者をダメと感じなかった。部下がどんな突拍子もないヘマをやらかしても、大抵は自分レベル以下ではないから許容できた。自ずと部下は育ち、私についてくる。そしてチームとしてパワーは絶大になった。だが、それらの話はもっと何年も先のことである。

1985年(昭和60年)8月1日 金曜日

サラリーマン4年。たまたまこの前後は日々つけている。すでに入社したときからいる店舗(当時は「本店」だった)の在店歴も長く、あれほど辛酸をなめさせられた担当地区にも慣れ、中堅社員として仕事をこなしている。

S子ともこの年の2月に別れている。4年目に入って半年だったが、日々の仕事もあるし、学生時代のように失意の中に埋没もせず、適当にサラリーマン・ライフを送っていた。

社内で休日とかにドライブ程度をするような女子社員はいた。しかし、どれも本腰入れて付き合おうという情熱が出てこない。この日も、明日は後輩のMが女をアパートに呼んで宜しくやるって日曜なのに、自分は休日出勤で、地域の祭りの露店手伝い、子供相手におもちゃ売らねばならないとボヤいている。

その翌日という日には、C子がまだ登場してくる。露店手伝いは昼から夜なので、それまでC子の車で食事に行き、会場まで送ってもらっているのだ。5月には別れて3ヶ月のS子と偶然会い、6月には飲みに行ったりしている。また大四の時に少し付き合った高2女子とも、お互いもう社会人として、この頃、ドライブとかしている。皆さん、私をフッた女性らである。

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               バブルガム・ブラザーズ「心残りのアヴェニュー」(1985年)

ところが、この年の9月には、社内の女性H子と付き合い始めると、これが本気になってくるのだ。仕事も順調だし、歳も歳だし、当時リリースされたバブルガム・ブラザーズの「心残りのアヴェニュー」ではないが、「俺にしては、本気で、最後の恋路〜」みたいな感覚で臨んだ。(この歌のストーリーとは違うが)

1986年(昭和61年)8月16日 日曜日

サラリーマン5年目。さすがに日記もこの日の前は7月10日、次のページなど11月
14日であり、我が日記帳の最終ページである。すでに上記のH子とは8月12日に入籍しており、気ままな独身ではなくなっている。勤務地はまだ変わっておらず、恐らくあと1年程度で異動になるはずだ。その支店で私は係長となり、娘も生まれた。もう、知らぬ間に、そんな歳になっていたわけである。

もはや、総決算であり、当然に、過去の想い出の人々ともケジメをつけている。こうして、私の日記は次ページの1986年11月14日、つまり結婚式の前日でENDとなる。その時に実家の勉強机のいつもの引出の中に日記帳をしまい施錠すると、そのまま34年間、放置されることになる。

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以上が、歴代日記帳の8月1日の記録でした。毒にも薬にもならない記録の数々で、書いてる本人のみが味わい深くて、しばしキーボードの指をとめて遠くを見つめているような、そんなひとりよがりな内容ばかりです。私としては作成中、すっかり楽しめました。














麗しのメラニー オリヴィア・デ・ハヴィランドご逝去・104歳

1939年米映画「風と共に去りぬ」は誰でも知っている作品です。しかし81年も前の古い映画です。

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私はヴィヴィアン・リー演ずる気が強く野心的な主人公スカーレット・オハラよりも断然、心優しく天使のようなオリヴィア・デ・ハヴィランド演ずるメラニー・ウィルクスが好きでした。(画像は
Melanie Hamilton役、となっていますが、Melanie Hamiltonが
George Ashley Wilkesと結婚してメラニー・ウィルクスに
)

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       「風と共に去りぬ」時代と晩年のオリヴィア・デ・ハヴィランド

ハリウッドの女優さんって、結構ご長寿の方が多く、古い白黒映画など見ていて出演女優さんをWiKiで検索するとご存命だったり、つい最近90代で亡くなったりしていて驚かされるケースが多いんですね。しかし、このオリヴィア・デ・ハヴィランドは、あれほど美しいのに、薄命どころか100歳越えしても元気で、「あの『風と共に去りぬ』のメラニー役の女優さん、まだ生きているんですよ、素晴らしい」と私はいつも言っていました。
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           日本にいた頃の一家(まだオリヴィアが生まれたばかりの頃か?)

オリヴィア・デ・ハヴィランドは1916年の東京生まれなんです。父親が東京帝国大学の英語の教授だったのです。(この父親は家族を捨てて日本人の女中 Yuki 
Matsu-Kuraと駆け落ち結婚しています。「囲碁のABC」なんて著書もあります。
1872-1968なのでこのお父さんも96歳のご長寿でした) 

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日本の気候が子供たちに合わないと母親は娘たち(妹がいて、やはりアカデミー主演女優となるジョーン・フォンテイン。姉妹は不仲だったが、この妹も長寿で2013年96歳没)を連れて日本を去りました。

「デ・ハヴィランド」で検索するとなぜか飛行機画像がたくさん出てきます。それは、父方の従兄ジェフリー・デ・ハヴィランドが、あの大戦中活躍した英空軍のデ・ハヴィランド・モスキート爆撃機の設計者で航空機メーカーのデ・ハヴィランド・エアクラフトの創設者だからです。

1933年17歳
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私は「風と共に去りぬ」もさることながら、エロール・フリンと共演した数々の歴史映画系が大好きで、大柄なフリンに身を委ねて熱くキスするシーンなんて、とろけてしまいそうな気分になっていました。
当然、この稀代のプレイボーイのエロール・フリンとの仲は噂されていましたが、
彼女は後年、やはりフリンからのモーションはあったが、ビシッと突っぱねたと話しています。


オリヴィア・デ・ハヴィランドについてはWiKiで調べて下さい。アカデミー主演女優で有名ばかりか、東京は港区生まれも意外だし、「風と共に去りぬ」はあまりに名作。7月26日に104歳で亡くなったというニュースもたくさん配信されています。

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昔、「縁起物の銀幕スターフォト」という記事で、オリヴィアとやはり白黒映画時代からの大スターであるカーク・ダグラスのツーショット写真を掲載したことがあります。カーク・ダグラス(マイケル・ダグラスの父親)も往年の大スターでご長寿、1916年生まれです。オリヴィアとは同年だから、そんな記事を書いたのですが、情報不足で情けない話で、今年の2月5日に亡くなっておりました。
オリヴィアが7月1日生まれなので享年104歳ですが、彼は12月生まれなので享年は103歳。

なんとも、悲しい、寂しい、やるせない。ノーマン・ロイド(1914年生まれ)もご存命ですが、やはり誰でも知ってる有名作品に出て、「顔くらい知ってる」レベルの大スターのお二人が相次いで他界されてしまったということは、長寿を全うされたとは言え、やはりどうしても本当に悲しい、寂しい、やるせない。

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                                                  Adieu,Adieu,Olivia !
 


















グーグル・ストリート・ビュー・カー追跡 !

グーグル・ストリート・ビューGoogle Street Viewは、もう誰でも利用したことはありますよね。都心を走っていれば、この撮影のために走り回っているグーグル・ストリート・ビュー・カーにも、何度か遭遇することがあります。

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                  カメラ構えて待機している私(思い切りボディの社名プレートが無修正でしたよ !)

これは何年か前に、私が営業車で練馬区内を走行中、道に迷い住所を確認しようと徐行していたら、後方からあの派手派手のストリート・ビュー・カーが接近してきたので、左に寄り停車し、カメラ構えて待機している写真です。

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           追い越して行くストリート・ビュー・カー

ビュー・カーは私の車を抜いたので、後方から追跡し、そっちが撮るならこっちも撮ってやるぞと撮影したときのものです。

ストリートカー
追跡して後ろにつける

そして、電信柱の住所表記を記憶して、しばらく定期的にそのポイントのグーグル・マップのストリート・ビューの画像更新を待っていたら、その時の画像が登場したというわけです。

運転しながらの撮影
             道に迷っているくせに追跡する私の車

道に迷っている最中に、まったく余計なことをしているだけのことですが。ストリート・ビュー・カーを追跡したおかげで、もっと道が分からなくなりました。






セクハラ問題・テレワーク英国事情

英国のSlater and Gordon法律事務所が2000人を対象に調査したところ、コロナ禍によるテレワークの中で、多くの女性社員が化粧・髪型・服装などについて上司から性差別的要求を受けているという実情が分かったと発表されました。(7月23日ニュース。もちろん、日本では報道されるほどのものではないですが)

調査によると3月にテレワークが開始されて以来、対象者の35%以上が、少なくとも1回は性差別的要求を受けた、と回答。テレワークの浸透により、少なくとも女性へのハラスメント行為にはプラスの効果があるだろうと期待していたものの、そうは簡単に物事は収まらなかったと、関係者は落胆しているそうです。

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              英語でもtelework、仏語だと
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27%の女性社員は、「セクシーで挑発的な衣装」を上司から要求されたということで、多くの被害者は人事部へのハラスメント報告をしておらず、4分の1は自分のキャリアを心配して、この要求に従った。上司らは、リモートワークには不可欠になったオンライン会議で顧客を喜ばせ、契約をとるために必要な手段として正当化している、という。

「女性が家庭の中で育児や家事に複数の仕事をこなさねばならない状況下で、このような話題を取り上げるのは残念なことである。こんな時代遅れの行為は、ビジネスの中に存在させてはいけない世界だ」と担当弁護士のDanielle
Parsons氏は嘆いているとの事。


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日本は、このような問題どころかテレワークの推進だけでも手を焼いています。テレワークが定着して、次なる問題に取り組んでいる英国事情には憧憬と敬意しか感じませんね。

日本で報道されないわけだ・・・・










バカンス帝国フランスの新型コロナ事情

フランスではバカンス・シーズン到来となり、バカンス先でのPCR検査陰性証明の提出が求められることから、パリに設置された検査場は大混雑しているという。
有給休暇年間5週間を誇るバカンス大好きフランスならではのバカンスVSコロナのこのニュース、フランス公衆衛生局も大あらわの様子で、なんとかしろ !と国民の批判が巻き起こっているらしい。GoToキャンペーン批判とは真逆。バカンスこそ
人生なのです。

"Les vacances, un passage oblige pour mieux travailler"(「バカンスはより良い仕事をするための義務的な過程である」)とのこと。休まねばならん、のです。
この検査場の大混雑の理由が、もうひとつあるらしい。それは検査技師らもバカンスで人員不足ということ。・・・・フランス人なら文句は言えまい。

「バカンス」の語源はフランス語のvacances。さすがご本家だけのことはある。最近では、バケーションvacationと言っていたイギリス人たちも、長期のんびり型のフランス的休暇こそ本物だと思ったのか、バカンスと表現することが多いらしい。

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Marcel Pagnolの"La Gloire de mon pere"(邦題:「マルセルの夏」)では、1904年の夏、一家でバカンスのため滞在したプロヴァンスの思い出を熱く語っている。長期バカンスはもはやフランスの伝統。






サボりまくりの大学時代

サボるとはフランス語のサボタージュ(sabotage)が語源で、本来は木靴(sabot)で機械を蹴って壊す、つまり労働者による生産設備の破壊・妨害行為を意味し、日本でも労働争議の怠業を意味する言葉として大正時代から使われていたそうです。

それが今では、目的もなくただ「怠ける」ことの意となり、それが我が青春期の1970年代から「ふける」という言葉が派生し流行りましたが、「サボる」の使用頻度は下がることなく、今でも一般的に使われます。

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                     1978年度のパンフレットより

そんなことはどうでも良いのですが、私は前記事のような男子校での6年間を過ごした後、安直に推薦入学で、ある私大の文学部に入学しました。理系大学の附属校だったのに、2クラスしかない文科系クラスを選択したのは、私がフランス史大好き人間だったからです。当然、史学科に入りました。


しかしその大学、教養課程の2年間は埼玉の奥地の学舎で、バス便も含め片道3時間若かかりました。切符など「みどりの窓口」で買うんです。湘南新宿ラインなんてまだない時代です。駅から大学校舎までのバスは当時110円でしたが、車掌のいるボロバスです。気が遠くなりました。

入学式から40分も遅刻しましたが、ガイダンスやら履修届やら終わり、そこそこ友達も出来ると、さっそく、私は代返(だいへん・代わりに出欠の返事をする意)可能な授業を見極めて、片っ端から友達に頼み、日替わりの出席カードなども全色用意して友達に渡しておき、週に一日二日しか登場しないサボりまくりの学生になりました。

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                      1978年度のパンフレットより

友達の多くは地方出身でみんな下宿生活でしたから、自宅にいてもつまらないので学校に行き、授業を受けて他の友達らと合流、それから遊びに行きますから、案外と出席率が高いのです。私はそれに救われたわけです。

しかし、このサボりのパターンのきっかけは、距離的な問題ばかりではありませんでした。(その証拠に、3年生以降、片道30分という東京キャンパスになってからも、私はサボってましたから・笑)

まだ説明会とかを聞きに大学に通っていた頃、こともあろうにボディビル部の勧誘に巻き込まれてしまったのです。「運動部に捕まらないように」と注意されてはいたのに、私は学ラン着た強面のおにいさんたちが陣取るテーブルに「114教室ってここですか?」と聞くというドジを踏みました。「説明会なんて聞いても仕方ない。まー座れよ」とたちまち囲まれ、4日後の入部説明会に来るよう仮入部させられてしまいました。

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この入部説明会に来ない場合は入部と見なされる、というのです。

仕方なくその日、私は入部説明会に出ました。すでにボディビルとは縁も所縁もなさそうな哀れな犠牲者たちが一列に並んでいます。私はスポーツには致命的である心臓疾患があるという理由をでっちあげて入部を辞退しようと決めていました。まさか命の危険があるのに強制入部はないだろうと。

東京校舎から偉そうな幹部部員がグラウンドに来ていて、私を捕縛したゴリラみたいな連中よりは理性的な顔をしているので少し安心しました。

「よーし、では最初に聞く。入部する意志のない者、挙手を !」と幹部部員が大声で訊く。

私は控え目にではあるがしっかりと真っ直ぐに手を挙げます。

ところが、なんと居並ぶ全員が挙手している。こいつら一人も純粋にボディビル部に入り、ムキムキマンになって女にもてようなどというガッツはないのか? つまり全員が「捕縛」組というわけか? 私はさっそく不安になりました。

「よし、分かった。では端から理由を言え」とやや不機嫌な声色で幹部。

私はいよいよ入部不可能の絶対理由を告げてこの話に決着をつけようと構えました。

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すると右端から当てられたので、私に至るまでかなりの人数がいる。どうせ、フォークソング同好会に入りたいので...とか勉学に集中したいので...とか軟弱な理由ばかりだろう。俺は違う。健康上の理由なのだ。少なくともこの場では。ともかく完璧な演技をして、この運動バカどもにも命の危険を理解できるようする自信はありました。

ところがです。いきなり「腎臓が悪く医師に運動を止められていて〜」とか「呼吸器が弱くて〜」とか、みんな順々に言うのであります。これでは心臓疾患という決め手の有効性が失われてしまうではないか、と私は動揺しました。

しかし、私の動揺をよそに、ついに私まで順番は回って来ませんでした。
数人まで理由を聞いたところで幹部は「もういい、やめ !」と中断してしまったのです。


「全員、ともかく1週間の部活見学。以上 !」

で、すべて終了。幹部は去り、下っ端のゴリラどもが次回の集合日時を我々に告げたのです。

情報収集すると、文科系のクラブに入部した者もあとから運動部系クラブによって取り消されるとか、運動部に強い影響力のある特定の教授の口添えがないと退部は不可能とか、とんでもない世界。高校の友人らにも聴取したら、他大学でもこの強制入部は横行しており、友人の一人は頭を丸刈りにして5万円の罰金を支払いやっと野球部から逃れという。

今はこんな無茶苦茶な違法行為はないと思いますが、当時はこんなことが許されていたんですね。大学によるでしょうけれど。

ともかく、私はそれ以降、キャンパスを歩くときは、眼鏡を掛けて変装し、必要最小限しか学校には行かなくしました。もちろん、ボディビル部の見学なんぞ顔は出しませんでした。完全無視で、バックレました。

そんなこんなで、なんとかその後のボディビル部の執拗な追撃もなく、逃げ切りましたが、お陰で、すっかりサボりのテクニックとサボり癖が身についてしまい、もともとの怠惰な性格と遠距離の面倒臭さもあり、私はたまにしか姿を見せない謎の人物になりました。

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しかし、もしボディビル部に入部して、腹筋がバキバキに割れた半裸大好き男になっていたら....と時たま思います。どのパラレルワールドにもそんな私は存在しないと断言できますが。




ある日の午後、祖母が心配そうに私の部屋に来て、こう言いました。「おまえ、大学を辞めたのかい?」と。


祖父も父も司法試験めざして猛勉強していた家系なので、大学サボって家にいるような大学生を見るのは祖母の長い人生で初だったんでしょうね。

推薦入学とは言え、書類選考とか面接とかあるわけで、1月くらいに合否が出ますから、それなりにヒヤヒヤして、やっと決定した時は天にも昇る心地で喜んだものでした。その時はこの大学の大学生になることを全身全霊で希求していたものです。それが半年もすると、こんな情けない大学生になり果てているわけです。神様がいたら確実に見放されていることでしょう。
何が何でも


私は、その当時、学生の内に新人賞を獲得し作家デビューしようと意気ベルばら込んでいました。しかもフランスの歴史小説という特異な分野の作品で文学賞を狙うわけですから、イチかバチかでした。しかし「ベルばら」だって、編集者から「外国の歴史ものなんて若い世代には売れっこない」と一蹴されたものの、世界的なヒット作品となっています。その「ベルばら」も「Lady Oscar」として
私が大学2年の1979年に日仏合作で実写映画化されたし、私も、燃えていました。


しかも大4の4月には私の大学の同じ文学部の女子が「文学界」で最年少新人賞をとるという事件まであり、大いに焦ったものです。


ですから、史学科とは言え、現代ドイツ史概論だとか考古学特講とかの授業を受けるよりも、自宅で資料を読み漁り、作品を書きまくっていた方が有意義なのです。特に専門課程で希望し、その著書も何冊も読んでいた近代史の教授のゼミに入れず、ドイツ現代史の教授のゼミに入れられたのもショックでした。ヒトラーなんてまったくどうでもいい。

木崎先生

(但し、後日談があり、社会人となり数年後、たまたま私は希望した西洋近代史の文学博士・木崎教授のご自宅が担当地区にあり、お邪魔して見たら、書斎に歓待され、何時間も熱く歴史談義をしたのです。以来、転勤になるまで何度もお邪魔させて頂き、都度、長々とお話を交わす機会に恵まれました。この木崎良平教授はロシア史の大家で、ものすごくダンディーでフレンドリーで楽しい会話は夢のような時間でした。私の歴史小説に関心を示して下さり、「院生にはキミのような史観がない。社会で立派に生きながら歴史の楽しみを追究しているキミのような人材こそ本物だよ」とまで持ち上げて頂き、今でも忘れ得ない感激を味わわせて下さいました。今WiKiで調べたら、95歳でご存命のようで、嬉しい限りです!)

尚更に、私はこの「大義」の為にも大学に行かないで、堂々と家で部屋に籠っておりました。

あと遊びの方は、やはり友らもみんな大学生でヒマでしたから、バイトやドライブや旅行とかは人並みにはやっていましたが、ともかく私の大義は「新人賞」作品の執筆でしたから、それほど積極的に活動はしません。あまり過度に遊んでいると、なんとも自分を戒めるような不快感が出てきてトーンダウン、青春のエンジョイは私には「執筆」だけだと改めて感じたものでした。
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彼女も、高校時代からの相手がいて、それなりに遊んではいましたが、相手が女子短大へ進み、当時の「ディスコ」だの合コンだのに羽を伸ばすお年頃になると、とても相手に出来なくなり、大3の頃に別れてしまいました。5年近くも付き合っていたのに、疲れ切ってしまったのです。

その後、大3から大4にかけて、教科書配布のバイトで渋谷の女子高に行ったら、そこの生徒である女子高生から交際を申し込まれ付き合いましたが、ともかく大4からすれば高2女子なんて腫れ物にでも触るような気分で接するしかありません。
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それなりに誠心誠意に相手をしましたが、ある日、手紙がきてお別れとなりました。私は突然だったので呆気にとられましたが、仕方ありません。深追いするにも、相手は高校2年生ですしね。

しかし、この件でちょっと面白い話がありました。

当時、みんながよく聴いていた深夜放送のラジオ「パックインミュージック」で絶大な人気だった「ナチチャコ・パック」(野沢那智と白石冬美、木曜深夜)でこんな手紙が読まれたんです。「私は女子高の2年です。学校に教科書配布のアルバイトに来ていた大学生が好きになり交際を始めました。しかし電話はいつも私からだけで、彼からかかってきたことはありません。私は遊ばれているのでしょうか?」と白石冬美が声優らしい可愛い声でその手紙を紹介しました。野沢那智は「あーそれは遊ばれてるよ、遊ばれてる。相手は大4だろ? 遊ばれてるな」と冷たく言い放ちます。「そんなことないわよ、きっと大学4年生だし、就職とか色々と忙しいのよ」と白石冬美が慰めるように否定し、その相談コーナーは終了。

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             TBSラジオ・ナチチャコ・パックの野沢那智さんと白石冬美さん

この手紙には、交際を申し込んだ方法、どんな出来事があったか、また彼氏が近々車を購入予定なのでドライブにも行きたい、とか私のシチュエーションの全てと合致していました。


ナチチャコ・パックは中学高校時代は欠かさず聴くヘビーリスナーでしたが、当時はもう深夜放送は聴いておらず、友人からこの話を聞きました。「これって絶対にオマエのことだと思ってさぁ。ベッドの上でのたうちまわって笑ったよ」だと。
すでに手紙で別れてから2ヶ月後の話だったので、後の祭りでした。(その後、社会人になった彼女と何度かデートしましたが、この件について確認したかは記憶にありません)

大学の卒業間際に、同じクラスの子と付き合いましたが、文学部に在籍していて、この相手だけです、大学で交際した相手は。私は、大学へは期末試験が接近するとノートを借りまくるためににわかに登校するだけで、あとは滅多に見掛けないヤツでしたから。

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私がキャンパスに現れると「おっ、〇〇がきたぞ。あいつが来ると焦るよなぁ」と言われたものです。つまり期末試験が近いという風物詩的存在になっていました。この世の春を謳歌する大学生らに死期を告げる死神のようなものです。

期末試験は1年間の空白を一気に埋めるため必死でした。コピー代だけで1万円はかかる各科目の1年分のノート大量コピー、授業中に紹介のあった教授の自著の購入や試験の出題傾向の情報収集、これらの作業を短期間で行うわけですから当然過ぎるほど当然です。

その時だけは友達の下宿に日々滞在宿泊し、ニ晩徹夜なんてザラでした。試験のカリキュラムがあまりにハードだと、奥の手として、必須科目の日を病欠にして追試に回しました。追試日程は半月以上先なので、あとから集中的に勉強する余裕が出来るからです。地方から来ている者は、早く里帰りしたいのでこの手は使えないから、私だけの特権でかなり有利に単位取得困難な科目を攻略できました。この裏技は、1年間サボっていた者にのみひらめく必勝法です。

そして期末が無事に終了すると、私はまた一年間の冬眠生活に入るのです。

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                    1983年頃の私の部屋の机の上

社会に出ると「あなた大学は行ったの?」と聞かれることがあります。私は「大学は行かなかったけど、卒業はしました」と答えたものです。


そんなサボりまくりの大学時代を過ごして、私はともかく執筆を最優先事項として新人賞に作品の投稿を続けました。ついでに言えば、サラリーマン全盛期の
40歳になるまで、それは続きました。160316m


そして、私のすべての作品が新人賞はもちろん入選すらせず、全作壊滅して今に至っていることは言うまでもありません。


時々思います。あの大学時代は一体なんだったのかなぁと。まぁ、何かに夢中になったからと成功に至るとは限らず、その結果ではなくその経過だけが熱い思い出として刻まれる、とも言います。しかし、どうしたわけか私にはそんな充実感はないんです。だから、なんだったんだろう、と今でも思うんですね。


まさか、勝手に公開して評価すら気にもしていないHP「西洋史おもしろ話集」がその集大成だったなんてことなら、ちょっと寂しい気分です。

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男子校と聖女伝説

私は中高と男子校でした。つまり青春時代はずっと男ばっかりの学園生活を送っていました。
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1971年一世を風靡した男性化粧品「マンダム」のCMソング「男の世界」そのものです。丁度、あのCMが流行った翌年に中学入学でもありました。






ですから、教室に異性がいるという状況は、小学六年以来、味わったことはなく、多感な青春期はこの殺伐とした男だけの環境が普通でした。従って、大学に入り教室に女性がいると妙に落ち着きをなくしたものです。理工系大学の附属中高でしたので、そのまま系列の工業大学へ進学した者は、可哀そうに、23歳になるまでマンダムの世界ということになりました。


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                どこを見ても男ばっかりの汗臭そうな教室(中学時代)

第二次性徴期というものを、野郎だけで学園生活を送るわけですから、もっぱら友人との話題は異性のことばかりとなり、どうにも不自然な思考回路が形成されます。個人により様々でしょうが、私の場合は、憧れのあまり女性をものすごく神聖化してしまい、すべての異性が高根の花というか、身近な手の届くところになんて花はないわけで、いわば高根の「花園」みたいなイメージでした。

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中間試験と期末試験ともなれば勉強はしたし、部活で青春を謳歌する者や趣味の世界の素晴らしさに浸る者もいます。高校進学はエスカレートなので、いわゆる高校受験という波はなく、6年間はともかく定例的な勉強(中間・期末)と部活と趣味の日々。そして、異性の話題のあれこれ。そんな四色カラーの学生時代が(男子校の)普通だと思います。

野郎ばかりであるし、友情というものは、イコール遊び仲間との絆みたいなもので、特に語るような「物語」はありませんでした。これといった感情のぶつかり合いもなく、勝手知ったる仲間とダラダラとツルんで遊んで、そのくせ今でも連絡は取り合ってはいるので、それなりに「絆」みたいなものはあるのでしょう。
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そこに異性との関係性が入り込んでくると、まぁ、色々な青春ドラマが展開して、後々想い出も増えるんでしょうけれど、「男子校」はそれがない。他校とケンカして鎬を削るという学校でもなかったので、なんとも薄らボンヤリとした毎日を送っていました。

男の友情ドラマがないとなれば、あるのはやはり高根の「花園」である女子のことになります。勉強・部活・趣味系、それ以外は全部、頭の中は女子のことで、円グラフにすれば下図の如くでしょう。
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近くにお坊ちゃま・お嬢様学校で有名な某学園があり、そこは男子はネクタイ・ブレザー、女子は私服で、プロイセンの兵隊みたいな真っ黒な学ランの男ばかりの我々とは別世界、通学の電車やバスの中で男子と女子が普通に会話して笑っているのを見ると、あまりの隔絶感、乖離感にため息が出ました。ヤツらこそ、青春ドラマの主人公みたいな。こちとらは毎日、「兵舎」でお下品な日々、世界が違い過ぎる。

学校全景


そこの学校のチアガールたちが、ある日、我らの学校の体育祭に友情出演で来校したことがあったのですが、逆に、あまりのこれ見よがしな刺激的な姿に我らは逆反応を示し、「ブス、帰れ〜」とかブーイングするという野蛮人ぶりを発揮。

翌日、臨時の全校集会が開かれて校長が激高して怒っていました。「なんたる無礼 ! おまえたちがやったことは恥ずかし過ぎる」 おっしゃる通りです。ガキとは言え、とんでもない。しかし飢えた野獣どもに、日頃から羨まし度120%の共学校の女子、しかも短いスカートのチアガールなんてものを送り込む「大人どもの単純思考」に反発しただけなのです。


そんな私たち男子校生は、共学である公立の女子よりも、どうしても近隣の女子校の生徒にターゲットを定めていました。向こうも女子ばかりの学園生活なのだから、需要と供給のバランスがとれていると。

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                  学園祭は社交界の大舞踏会なみの華々しい式典


「カセットテープと浅田美代子」の記事で実名を出してしまっていますし、もはや大昔、70年代の話で時効と思いますので言ってしまいますと、その女子校とは、電車通学の連中は聖ドミニコ学園とカリタス、バス通学の連中は目黒星美でした。どれもミッション系です。シスターたちも大変だったと思います。蛮族に囲まれた女子修道院みたいな状態で生徒たちを風紀指導するのですから。


バス

通学途上で顔だけ見知っている子が、学園祭にでも来てくれればOKです。すかさず、声を掛けてお近づきになります。お互い顔だけは車内で知っていますから、「あ、朝いつもお会いしますね〜」と。私はバス通学なので、目黒星美の黒い制服だけに気を使っており、ドミニコのベージュの制服やカリタスの青い制服には関心はありません。(今はどこもこの色ではありませんが)

受付は必至
             学園祭の受付で来校者チェックし顔見知りを探す

しかし、顔見知りであればOKというわけではないのは当然で、「気になる相手」でなければ声を掛けてもスルーされることは言うに及ばず、学園祭を境に気まずくなり、翌朝から電車なら車両を、バスなら時間帯を変える羽目になることも多い。

まぁ、私などは高根の「花園」にむやみやたらと声掛けできるほどの度胸もなく、既存の特別ルートから他者には不可能なコネクションを利用していました。それは、なんという幸運か、私には家族ぐるみの付き合いをしているH家の同い歳のA子がおり、それが目黒星美だったんです。(「日記帳」の記事で既出)

この子は、かつて私の小学時代の学園祭に家族で来ていて、私が何かの景品をあげたことから私のことが大好きになっていました。当然、私は第二次性徴期前ですから、そんなことどうでもよく、母からA子ちゃんが好きなんだって、と言われても「知らねーよ」でした。renai1_kids



それからA子は父親と何度も私の家に来たのです。それは、家族ぐるみの付き合いというよりも、私にA子を会わせるための訪問で、娘にせがまれて父親が一緒に我が家に来たという熱の入れよう。私は当然逃げ回り、頑として会いませんでした。事態が分からないのです。女の子なんて関心ゼロのガキですから、そんな申し出など気味が悪いだけでした。

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なんとこの熱烈なる訪問は、中学1年の時まで続いたようです。都度、逃げ回り、ついに一度たりともA子のラブコールに応えることはありませんでした。

こんな恵まれた過去がA子との間にはあり、この特殊な関係性を活用しない手はありませんでした。しかも相手は我らがロックオンをかけている目黒星美の生徒です。

ところが、です。こちらがようやく、そのような艶事に関心度が高まるお年頃となり、たった1年前のご無礼を謝罪して、A子の情熱を受け入れようと門戸を開いたというのに、皮肉なことに、今度は相手が入ってこない。二次性徴期は女性は小学校高学年から始まり、男子よりも早いそうですが、彼女は1年で5年分退化してしまったのか、今度は自分の母親に「私、そういうのあまり関心ないの」ともらしている始末。

男子校

最後にA子が我が校の学園祭に来たときは高2でした。待ち構えていた私が「よ〜、いらっしゃい!」とフレンドリーに挨拶すると、なんと友達連れ。「なんか展示しているの?」とA子。「俺たちの学祭なんて見たってつまんないよ。成城のサテンにでも行こうよ」と私が言うと、「おばさんやお兄さんは?」とA子は私の誘いを軽く流してから言う。さすが家族ぐるみの関係だ。しかし高校の学祭に家族がくるわけがない。「いるわけないじゃん。おふくろや兄貴なんて」と私が呆れて応えると、「なんだせっかく会えると思って来たのに。じゃ、これ渡しといて、母からだから」と紙袋を手渡すA子は、すでに歩き始め「適当に見てから帰るね」と捨て台詞。

A子はあたかもかつての屈辱の報復をするが如く、素っ気なく私を袖にして立ち去ったのでありました。
こんなことなら、あの頃、ちゃんと相手をしてやり、小さな恋のメロディーを演出しとけば良かったと後悔しましたが、今更です。

ちなみにA子が渡した紙袋には、沢山の梨が入っており、それは溜まり場になっていた私のクラスの展示場に持っていき、みんなで食べ尽くしました。友人が「お、この梨、うめーじゃん」とガリガリとリンゴのようにかじりながら言うので「全然うまかねぇよ」と私は応えました。「え? おまえ食ってねぇじゃん」と友人。「いらねーよ」と私。

そんなテイタラクで、小さな恋のメロディーの続編は、A子の復讐劇で完結しました。

校庭
                       懐かしのグラウンド

私は、ともかく空振りして腐っていたので、昼過ぎには学校から脱出し帰りました。みんな本日、私のカノジョが学祭にくると知っていたので、まさか15分で終わったとも言えないから、姿をくらましたわけです。

しかし、私にはまだ奥の手がありました。男子校の学園祭は、皆がそれぞれ「俺はオマエらとは違う」ということを証明する場でもあるのです。つまり、皆が高根の花と仰ぎ見て神聖化している異性という存在が、自分には高根でも聖女でもなく、普通に身近な存在としているんだよ、と公示するお披露目の場なんです。学校での自分の「株」が上がるも下がるも、学祭で女性を連れて歩いているか否かにかかっている。従って私はA子の次なる駒をちゃんと翌日に用意してありました。

これもまた、女子高の一年下の子で、E子といいました。しかし星美でもドミニコでもカリタスでもない、学校所在地からするとあまりあり得ない昭和女子大附高の生徒です。

バス停









降車する昭和女子大前のバス停と毎朝渡った歩道橋(当時のままのような気がする古さ)

しかし、はっきり言うと、情けのない話ですが、このE子は又従妹。親戚です。私の家は三軒茶屋でしたが、最寄のバス停は昭和女子大前で、同校附高は地元。E子は山梨から上京して昭和女子大附高に入り寮生活をしており、親戚である私の家にはちょこちょこ顔を出していました。


そのうちに、私は「おにいちゃん」と呼ばれるようになり、友達の集まりに呼んだり、映画に連れてったりする仲に。可愛い子だったので、友達には「GF」(ガールフレンドのことを当時そう言っていた)と紹介していました。又従妹じゃ格好悪いですから。

そのE子が、学園祭最終日である翌日に来ることになっていたのです。さりげなく腕など組んで歩くほど関係性は良いし、見た目も悪くない。だから、男子校の社交界にデビューさせるには問題ない。私としてはあくまで「おにいちゃん」であり、そのディスタンスは守っていたから、実態的には発展性はないものの、まぁ、A子の復讐劇で恥をかいた私の名誉挽回には充分でした。
「オマエらとは違う」は示せる。


当時のバス
                当時の東急バス(私が乗っていたのは、渋24の渋谷行き)

そんなことで気を持ち直しながら私は家路に向かい、「昭和女子大前」で下車すると、歩いて1分くらいの我が家の玄関に入る。こんな早い時間に帰宅するなんて、なんという事の成り行きだ....昨日の今頃は、もっとまったく別の華々しい展開を夢想していたのにな....なんて思いが去来したが、「明日がある!」と一言つぶやき、私は「ただいま〜」と留守番の祖母に明るく言いました。

すると、祖母が「あ、さっき、E子ちゃんから電話あったよ。まだ帰ってないと言ったら、伝言で、明日の学園祭、用ができて行けなくなったと伝えてくれって」


まぁ、1899年生まれで、関東大震災も東京大空襲も体験した祖母ですから、そんな親戚の娘が孫の学園祭に来れなくなったなんて出来事は、どうでも良い事象でしょうけれど、私としては床が抜けて奈落に落ちるような衝撃波でした。


俗物高校生のつまらない大事件ですので、その時の私の思いを長々と書くのはあまり興味深いことではないでしょうから、ともかく学園祭の最終日だった翌日は、私は小学時代の友達とそのGFと一日喫茶店で過ごしていたことだけ追記しておきましょう。

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 こんな後夜祭なんて出てられない
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こうして、どうにも実質的に実りある異性との交遊関係が築けず、相変わらず女子たちを神聖化したまま、私は青春期を過ごしました。実名を出した女子高のシスターたちも安心のことと思いますが、私にとっては、彼女らは「聖女」のままでしたので、カトリックの学校教育の風紀に抵触するような事実は幸か不幸かありませんでした。聖女ですからね、当然です。

ずっと後に、A子の2年後輩と交際したことがありましたが、私がA子との話をしたら、「えー、A子先輩は私の憧れの人で、綺麗な人がいるなぁっていつも見とれてた」と言われ、複雑な気分でした。また、後日というより、かなり後日のつい最近、後年というべき今、A子は三人の子連れで実家に出戻っており、父親の医院の医療事務をしているらしく、母が例の「家族ぐるみ」なのでそこが主治医、薬をもらいに行く時にA子と会うそうなんです。
「A子ちゃんも大変だったけど、相変わらずキレイよ、色白で」とかまた刺激的な話をするのです。

しかし、61歳のA子がキレイも何も、私にはもはやどうでも良いことです。

とは言え、さすがに今は異性を神聖化するほど男子校生DNAは残ってはいませんが、なんとなく今でも私の中には、時間がストップしているタイムリープ現象があり、日記など読んでいると当時の喜怒哀楽が憑依してくるほどです。その意味では、異性に対して、まだどこかに聖女のイメージがあり、現実世界では女尊男卑の傾向があるのも、そんなタイムホールのせいなのでしょう。

70年代青春の舞台で私とご縁のあった聖女たちが、聖女でなくても良いのでみんな今、幸せでいてくれたらと、心の底から思います。


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サラリーマン人生のスタートの頃を思い返して

コロナ禍で多くの国民が確認できたことに、メディアの多くが不安と怒りを煽ることだけに公共電波を使用しているという事実があるでしょう。

不安や怒りを煽れば視聴率や閲覧数が増えるという手法は、時代遅れだし、信頼喪失という致命的結果になることすら学習不能。やはりとっくに世界から「山場CM」が消えたのに、いまだに、あのCMまたぎの手法を続けている日本のTV各局だけのことはある。ガラパゴスぶりがあまりに痛いです。視聴者の90%近くが不快で、そのCM商品のイメージを悪くしているという統計が出されても、まるで意に介さずその手法を続けている日本地上波の凋落ぶりは、もはや哀しみのレベルです。

テラハのヤラセやSNS炎上煽り疑惑なんて、某テレビ局は全力で逃げの一手ですが、人の命が犠牲になっているこの事件、そう簡単には収束しないはずです。徹底的に糾弾すべきです。そもそも、ヤラセとか煽りなんて、とっくに視聴者から目をつけられている手法で、それをいつまでも無思考にやり続けていること自体が、これもまた問題の根源が同じ。情けない。学習不能というよりも学習拒否のレベル。


   ..........................................................★★★★..........................................

・・・・と、まぁ、ついつい腹が立ってしまい、冒頭はそんなことを書いてしまいがちですが、今日はそんな私が一人で怒ってもどうしようもないことではなく、まったく違うニュース記事から着想した自分の社会人1年生の頃の話をしようと思います。

その記事とは、シニア1万人に聞いた50代で後悔しているベスト3、というダイヤモンド・オンラインの記事です。1位は、定年後の人生設計を、忙殺のあまりおろそかにし、定年後にゆっくり考えればOKとしてしまったこと。2位は、55歳の役職定年で収入の低下や非生産部門への異動でモチベーションが低下したまま過ごしたこと。3位は、会社の肩書のもと自己のアイデンティティを確立してしまったので、定年後に何も残らない生き方をしてしまったこと。以上だそうです。

わざわざ書き出したのに、私の場合はそのすべてが当てはまらず、その個々について語るものは何もありません。ただ、年齢的に、「あ、俺もこのサラリーマン人生が終了したんだなぁ」という意識になったと同時に、遠い昔、社会人としての第一歩を踏み出した頃の思い出にしたってしまったわけです......(私の50代は長年勤務した会社を飛び出したのが52歳、一社員からリスタートし、そこで成り上がって部門長になり、続いてその事業を買い取って経営者となって60代に突入しましたので、我がストーリーは終わりどころかまだまだ始まったばかり、という「戦闘継続中」状態。終戦し年金暮らし、なんて先の先の感です)

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私の場合は、学校の先生になるしか選択肢のなさそうな文学部史学科というのを卒業し、それでいて建材関係の商事会社に入社し、「サラリーマン」をスタートさせました。出版社に入りたくて暗躍したのですが、3月になって最終選考で没。あわてて「入れるところ」に滑り込んだだけの就職です。





従って会社規模も関連の子会社含めても30人足らずの小さな会社でした。


どちらかと言うと、中堅の建材会社からの転職者が多く、大きな会社で色々と悩んだあげくに転職するには御あつらえ向きなアットホームな会社でした。新卒の私にはそれがなんとも逆に好きになれませんでした。当時の私は、愚かしい見栄っ張りで、名刺に社章が印刷されていないこと(そもそも社章がない)、小規模会社なので係長というポストがないこと(平社員の上が課長だった)、支店や営業所がひとつもないこと(東京本社という1事業所のみ)、そんなことがコンプレックスになっていました。

これだけでも、大いにくだらない人間であることが垣間見れます。就職浪人から救ってくれた会社だというのに。しかし、当時の中小企業ではありがちなことでしたが、入社1週間もすると、定時17:20なのに22:30退社なんて日もあり、2週間もすると「学生時代」は遠く霞の向こうに消えていく気分になっていました。

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その会社の事務所は、いわゆる都内でも有数の高級なオフィス街のビルに入っていて、周囲の環境だけは「ビジネスマン」的な雰囲気で救われました。

ところが、私は営業だったのに、仕事内容のほとんどが建材ゆえにあっちこっちの建設現場であり、そのオフィスなんて週に2日、3日も行かない。都内や近郊の現場に直行直帰なんてザラでした。「現場を知らなければ営業はできない」と上司は言うので、それも確かなことだし、しばらくは仕方ないと我慢でした。


1982頃 千代田区 車窓より1982年頃の千代田区内

たまに営業の先輩と同行すると、大手商社やゼネコン本社などに出入りし、超ホワイトな感じで、また適当にサボることも出来て、私の先輩など、途中で奥さんと合流して買い物とかしていました。ところが現場となると、朝の7時に入るので4時半とかに起床しないとならないし、現場は建設会社の人はもちろん、設備会社、建材メーカー、警備会社、土木会社など他社の人々に取り巻かれての仕事であり精神的にも肉体的にも疲労困憊、気の休まるスキもありません。

営業としては半人前以下の私でも、現場仕事はとりあえず「一人前」として勤まるわけで、半年もすると、現場ばかり派遣されていました。

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高層ビルの巨大現場からマンション、店舗まで大小色々な現場で勤務

社会人としてまだまだ未熟者なのに、現場では会社を代表して機能していないとならないわけで気疲れも半端でない。また現場はちょくちょく変わるので、都度、新しい環境に適応しないとならないし、まだ大手の会社なら研修中の時期から、こちらは「社会」の洗礼にさらされました。

ある日、私は特定の現場の「常駐」になりました。常駐とは、毎日ずっとその現場勤務で、直行直帰です。朝も早いが早朝手当なんてつくわけないし、現場が遅くなっても当然に残業手当なんてなし。ブラック企業なんて言葉が社会に登場する以前の話ですからね。

ikebukurotokyo_16194154298_o会社への不信感....



現場常駐となり課長に改めて「営業は何も教わっていませんが、いつから営業に着任の予定なんですか?」と聞いてみました。すると課長は「現場イコール営業だよ。うちは現場へ社員を派遣することで業界でも評判上げてんだからね。キミはもう充分に営業をしてるんだ」とか詭弁を弄しました。まずは現場を知らねば...はウソだったか。


この時、私は課長に不信感を抱き、退職しようという覚悟も決めました。もう一人、同期の同僚がおり、彼も現場にウンザリして、家が近いので毎晩のように飲んでは、「はめられたよ、この会社 ! 俺たちを営業で雇って、現場要員にしやがってさ」と息巻いていました。
そして合言葉のように「もう辞めようぜ」と言い合ってました。

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私はそれなりに現場の色々な人たちと親しんでおり、可愛がってもらってましたから、思っていたよりも過酷な経験はしなかったし、外の世界から見たら信じられないと思いますが、いかつい土工さんや入れ墨の入ったポンプ屋さん、口煩いガードマンさんみたいな人たちが、どれだけ心優しく気配りしてくれたか、それは現場体験がなかったら知り得なかった人の情愛でした。ただ、寒い雨降る日など、カッパきて白いヘルメット被って、ヘルメットの鍔から雨しずくが落ちるのを見ながら「あ〜、勘弁してくれよ」とつぶやいたものです。

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しかし、私は、当時はまだまだ青いので、不信感をもってしまった以上はもう頑張れなくなりました。たったひとつ頑張れるのは、事務所の入っているおしゃれな名前のオフィスビルの総合フロントにいた可愛い受付嬢と話す一瞬の楽しみだけでした。私は現場でなく事務所の日の限られたチャンスに、受付嬢をお茶に誘い、付き合いを軌道に乗せると、この会社に辞表を提出しました。(ちなみにその受付嬢とは4年交際しフラれました)

たまの営業で、唯一単独で業務がこなせる請求書届や集金業務のため、営業車を走らせながら当時流行っていた岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」が流れてきた時など、涙が出る思いがしましたね。♪ この街は戦場だから〜、男はみんな傷を負った戦士〜 ♪ のところで特に感極まったものですが、辞表出したので、「傷を負った戦士」ではなく「傷を負って戦死」になったわけです。

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                                        この街は戦場だから男はみんな傷を負った戦士....

こんなチャランポランで脆弱な社会人スタートをきったわけで、在職1年で転職と相成りました。それから私はまんまと金融機関に再就職が決まりました。名刺には社章が入り、上司は係長だし、支店も名刺の裏面にズラリと印刷されています。しばらくは内勤だったので、クラシックの流れる店で優雅に事務仕事です。あ〜、俺は成功したぞ、と実感しました。

前職の時、交通罰則金を納めるために立ち寄った南青山の銀行で、静かなBGMの流れる中で、キレイな女子行員と一緒に「いらっしゃいませー」なんて言ってる職場が社会にはあるんだよなぁ、と嘆息したことを思い出しました。
その職場環境が、今、実現したわけです。

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ところが、少しして外回りに配属になると、また社会の厳しさの洗礼をビシビシと受ける羽目になりました。勘定は合わないし、ノルマはこなせないし、客は怒るし、上司先輩も厳しい。そんなある雨の日、確か京王線の東松原辺りの踏切で、スーパーカブに跨って信号待ちをしていました。私は疲労困憊し、出るのはため息ばかりの精神状態。

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白いヘルメットの鍔からポタポタと雨しずくが垂れているのをボンヤリと見遣りながら、私はふとつぶやきました。
「あ〜、勘弁してくれよ」と。

それは、そう、まさしくデジャヴ。

かつて雨の日の現場で同じセリフを口にした自分がそこにはいたんです。........



共に辞めよう辞めようと騒いでいた前職の同僚は、結局は居残りました。そして今、その会社を検索すると驚くなかれ、彼は「取締役」となっています。またその会社は今は100名の社員規模で、支店・営業所を関東近県にも広げて、堂々たる成長を遂げています。「戦友」が去ってしまった当初は、彼も寂しかったろうと思います。しばらくは飲んだりしていましたが、段々と疎遠になって行きました。彼なりに紆余曲折は経験したものと思いますが、なんであれ、彼は居残って正解でした。
一所懸命、そんな彼の人生を感じます。

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彼も私も道は分かれましたが、結局はなんとかやっている。
ふわふわとこれといった目標もなく、見栄坊のくせに軟弱で、強がりと愚痴を繰り返して、突き進んだり逃げ回ったり、計算高かったり感情的だったり、ともかく偉ぶれるような人生ではなくとも、なんとかこの都会で生きてきて、どうにかなっているわけです。
今まではOK、文句はなし。まだやること多いし、回想するにも、まだストーリーが終わってくれないのです。









カセットテープと浅田美代子

最近は6ヶ月に一度更新する程度だったこのBlogも、やたらと書きまくっています。

テーマを決めてスピリチュアル系の記事を定期的に更新していたり、このところはCOVID-19の関連でしたが、まぁ、ダラダラと思いつくまま書きなぐっていくのが、自分的には本当は好きなんです。

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                         当時の友人宅

ひょんなことから、古いカセットテープが見付かりました。高校時代に友人と組んでいたバンド(ニュアンス的にはそんな大層なものではない)の渋すぎる録音テープです。友人のピアノと私のギターで友人の作曲した作品を演奏するのですが、私の書いた詩の朗読のバックグラウンドにしたり、デュオドラマといって、起承転結のあるシナリオを朗読と歌と演奏で表現したりして、楽しんでいました。(共に工業大学の付属校にいましたが、そんな趣味が災いして友人は音大へ、私は私大文学部へと進み親の期待を見事に裏切りました)

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1976年5月30日と77年8月7日の録音日付の入ったその30分テープを久々に再生し、大いに懐かしんでおりました。私の場合は、前々記事「日記」のところにあるように、日付が分かればその日の記録がリアルに読めるので、その頃の私がどんな日々をどんな思いで過ごしていたかが分かり、友人宅に向かう時に、ギター抱えてのバス停からの道が面倒臭いとか、その帰り道に彼女と会ってウンヌンとか、そんなことまで思い出せるんです。

その友人は今、熊本で仕事していますが、思わず「高校時代の合奏テープ発見。久々聞いて超懐かしかった!」とメールしたら、すぐに「よく再生できたね。今度聞かせてくれ〜」と返信がきました。....よく考えたら、熊本といえば本日、豪雨で大被害、激甚災害指定されるほどの状況だったんですよね....まぁ、そんな状況下でありながらすぐに返信がきたくらいだから、無事であったことだけは確かでしょう。

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私の部屋のシスコンは、なんとMDもカセットも再生できる今どき珍しい機種で(なんとウォークマン接続端子までついてる)、「よく再生できたね」と言われて初めて、もはやカセットテープなどレコードやレーザーディスク同様の代物であることにようやく気付きました。

思えば、私たちの演奏の録音テープは他にもあるはずで、もはや開かずの収納ケースと化しているカセットラックを久々にガタガタとまさぐって探したのです。結局は不見当でしたが、かわりに昔、車の中で聞いていたカセットが出てきて、それも懐かしく聴いていたら、ふいに、当時の歌謡曲がたまらなく聴きたくなり、YouTube等でネットサーフィン(これもまた死語か)していました。

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私の時代は、あの浅田美代子さんがバリバリのアイドルだった頃で、「恋は真珠色」「想い出のカフェテラス」なんて好きでしたね。1973年、74年発売の曲ですが、どちらもベスト10入り出来なかった曲で、コアっぽいですがなぜか好きです。
「想い出のカフェテラス」なんて40位なのでカスのカテゴリ。なんでもありの
YouTubeすら、素人がカラオケボックスでカバーしているものしか出てこない有様です。

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彼女の楽曲は、大変に申し訳ありませんが、森昌子や石川さゆり等がカバーしているものを聴くと、ずっとその曲の良さが分かります。デビュー早々にオリコン1位となった「赤い風船」なども、森昌子の歌声で聴くと、「お、こんないい曲だったのか」となる(笑)

74年の「虹の架け橋」の生動画なんて、完全に音程が合ってない。今なら恐ろしい状況です。それでも、私たちは彼女の頑強な支持層でした。東京12チャンネルで放映されていた「ひ〜ふ〜みよちゃん」のスタジオで「ひー、ふー、みよちゃーん!!」とだみ声で応援していたヤツらには負けますが。

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まるで軍隊の集合写真みたいな当時の男子校のむさっ苦しい画像(卒アルより)

そういえば彼女は東京女学館高等学校を中退していますが、ここの当時の白い制服は男子高生から大人気で、黒いブレザーに黒いスカートの目黒星美学園と好対照で、女子高制服人気ランク1位と2位を奪い合っていました。私のいた男子校は目黒星美のすぐ近くだったので、目黒星美派閥です。女学館派閥があるのか知りませんが。
今は、どちらも全く違う制服に変わってしまいましたので、大変に哀しいです。はっきり言うとあんまり哀しいというほどでもなく、どーでもいいレベルですが。

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昭和62年東京女子高制服図鑑で発見した昔の星美学園の制服。系列校の赤羽星美のもの。上の写真の野獣どもが
狙うわけですね。


浅田美代子さんも今は天然系でいい味だして芸能界に確固たる立場築いてますね。年齢を感じさせないし、元アイドルなんて気配も感じさせないから、過去が意外で面白いでしょうね。WiKi見たら、私より3つも年上ですね。可愛い妹みたいに感じていた当時の私はバカか。














都知事選とコロナ禍とホットドッグ早食い大会とホットドッグについて

どうせ、あんな候補者しか出ていない以上、都知事選は小池さんが再選でしょう。
感染拡大を1ヶ月も放置して、今更に西村経済再生担当相と「夜の街」対策強化で合意 ! なんて寝ぼけたパフォーマンスで胡麻化してるのは気に入りませんが、もう結果は決まってるようなものだし、仕方ありません。財源枯渇の中、休業補償しないでクラスター対策を如何に進めるか見守るだけです。


そんな中、アメリカ独立記念日だった昨日、ニューヨークで恒例の「ホットドッグ早食い大会」が開催され、ラスベガス在住の日本女性が優勝(7連覇)を果たし、10分間で48.5個という新記録まで出したというニュースが入りました。

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               Hot Dog Eating Contest

この世界的なコロナ禍の暗い世相に、私はお気楽なこのニュースになんとも和やかな気分になりました。ホットドッグの早食い大会ですよ。笑えます。

もちろん、連日5万人超の感染者が出ているアメリカで、州知事が飲食店への規制緩和を再度見直して市内の6日からの営業再開を延期したニューヨークですから、大会は無観客で屋内で開催、ディスタンスとアクリル板で競技者同士を遮断してのテレビ中継でした。

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ホットドッグhot dogって、アメリカではソーセージだけでの呼び方にも使うそうで、あのフランクフルト・ソーセージを形状から犬の「ダックスフント」に見立てた時期があり、ホットドッグも当初は「ホットダックスフント」なんて呼ばれていたそうです。19世紀中頃から、ソーセージを「ドッグ」と呼ぶようになっていたらしいから、このドイツ移民の持ち込んだ食べ物もアメリカ独自の進化を遂げた伝統的国民食なんですね。

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               この画像では「ホット・フランクフルト」になっている

チコちゃんに叱られる、でもやったそうですが、この「ダックスフント」が、どうして「ドッグ」として簡略化したかと言うと、上記の19世紀中頃にはすでにそう呼ばれていた説とは別に、20世紀初頭に野球場で売られていた「ダックスフント・ソーセージ」をある漫画家が作品に取り入れようとしたが「ダックスフント」のスペルが分からずにただ「ドッグ」と新聞漫画に書き、それが始まりだったという説もあるそうな。


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漫画家Tad Dorgan 「ダックスフント」のスペルが分からず「ドッグ」とした当人。

どうしてパンに挟んだのかというと、サンドイッチ的な発想ではなく、昔々はソーセージを熱々に茹でたものをそのまま売り子が提供していたが、熱いから手袋を一々貸していたらしいのです。しかしその手袋を持って帰ってしまう人が多くて困り果て、パンに挟んで手渡すようにしたら、それが定着したという言い伝えがあるようです。

・・・・そんなお気楽なウンチク、今はどうだっていいよという声も聞こえてきそうなので、そろそろやめますね。

ちなみに、「ホットドッグ」を商品名として「ホットドック」としている場合もあり、清音と濁音の区別を発音上あまり気にしない日本では、「ホットドック」と表記したからと「誤記」だとは言えないそうです。

ますますどうでもいい話ですね。そもそも「ホットドッグ」を文章化することは普通あまりないですから。アメリカ人みたいに年間60個も食べないですし。

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日 記 帳

もうCOVID-19については、呆れてものも言いたくなくなったので、しばらく書くのやめます。政治家が自分ファーストであることに文句言っても始まらないし、そのような政治家たちに議員バッジを着けさせてしまったのは、他ならぬ私たち有権者なわけですし、テレビは見ない、特定のA新聞は買わないで済みますが、政治家については、私たちが猛省すべきでしょう。それにつきます。

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ところで、私は中学2年の11月3日から社会人となって明日は自分の結婚式という日まで、日記をつけていました。実家の処分で、それら日記帳20数冊を引き取り、ひまにまかせて読んでいました。

そんな文学青年っぽい内容ではなく、思ったことを内省的に分析するといっても、乱暴な筆致でムカついたり、嘆いたり、心配したりをただ徒然なるまま綴っただけのもので、個人的に当時の出来事を懐かしめるだけの日記群であります。

世情などというものは全く反映しておらず、1973年(昭和48年)から1986年(昭和61年)くらいの記録ですが、その頃の事件・事故・芸能・スポーツ、いわんや政治など、全くと言っていいほど登場しない。

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            実家の物置の中から見つかった、当時大流行していたマジソン・バッグ

ただ、青春期のほんのりした想い出が、ソフトメローな雰囲気をともなって脳裏に浮かぶのが普通の人でしょうけれど、私の場合は、その日の日記にリアルな出来事として明記されており、記憶がつくる情景とはまた別の写実的な「記録」として残っているのです。

そうして見ると、かなりいい加減な思い違いをしていたり、時系列が逆だったりします。もしも、「回想録」なんてものとして自分の人生の記録をつけていたら、随分と真実とは違った「人生」が描かれてしまうところです。

千歳船橋

たとえば、中二の11月18日に私は初恋の相手と初めてデートをすることになりました。記憶としてその日のことを思い出すと、確か千歳船橋の駅前で午前11時に待ち合わせていて、私はドキドキしながらも時間通りに約束の場所に立っていましたが、相手は現れないのですね。そして業を煮やした私は、まだガキですから、単純に憤慨して、一緒に行くはずだった何かの催し物の会場に行くと、受付の人に「〇〇ですが、△△さんが来たら、私はもう帰ったと伝言して下さい!」と頼んで、さっさと帰ってしまった....という出来事になります。

ところが日記の記述を読むと、待ち合わせ時間は11時45分(この程度の誤差は仕方ない)で、相手が一向に現れないので、正午過ぎると私は人に道を尋ねながら会場に行き、上記のセリフの伝言を受付にお願いしたわけです。彼女はスタッフか何かになっていて、受付の人は彼女を知っているのです。

中学時代
                    中学時代(当時はまだ白黒・カラー混在の卒アルでした)

それくらいならば、思い出と「記録」の差異はそれほどでもない。中二のガキのくせに、またその日を夢見るように楽しみにしていたくせに、「憤慨」などして帰ってしまうあたりの子供っぽい男のプライドも、間違いなく符合しています。


ところが、日記には、こうある。「△△さんはクリスチャンで、日曜日は午前中、教会で日曜礼拝のはずだ。だから、11時45分の待ち合わせというのも考えてみれば変だぞ」と考えました。そもそも、電話でこの催し物に一緒に行こうと彼女から誘われたとき、私はすっかり舞い上がっていて、記憶が曖昧になっていたのです。「もしかしたら11時ではなく1時と言ったのではないか?」と思い始めたようです。

そこで、どうだ、会場へ行って伝言を頼んだまでは記憶通りですが、私はそれからなんと2時間もの時間をブラブラして過ごして、午後1時45分に再び、待ち合わせ場所に立っていたのです !!

で、それでも相手が現れないわけで、「もうこれまでだ !」と私はようやく結論を出して、家に帰ったとあります。

1982頃 私室内

待ち合わせ時間に現れないからと、とっとと帰った短気な男のはずが、実は、2時間もしおらしく待ち続けていた....というのが初デートの真実。格好悪いことこの上ない。

帰宅してレコード聴いて気分を変えると、私は勉強をしていたらしい。その内に夕方の5時30分頃に彼女から電話が入り、彼女はちゃんと11時40分から正午過ぎまで改札出たところの交番の横に立って私を待っていたことが分かり、どうしてだか、お互いが視認できなかったというオチだったようです。しかし、気分変えてから「勉強」をしていたとあることに、私は驚きを覚えました。どういう感覚だ? こんな状況下で「勉強」とは。

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この事件から10年後くらいの千歳船橋駅。下右は現在。


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(今になって、このすれ違いの謎が解けました。小田急線の千歳船橋駅が今のように高架になったのは、2000年代に入ってからで、この出来事のあった1973年当時はまだ、北口と南口は線路のこっちと向こうの位置関係でした。今は高架下で空間的には繋がっていますが、当時は線路で分断されたあっちとこっち。三軒茶屋方面から来た私は当然、南口改札で待ちます。相手が「交番」の横にいたということは、北口にいたことになります。それが、お互いに視認出来なかった原因と推定されます。ガキ特有の待ち合わせ場所の打ち合わせ不足ですね。携帯のない時代の待ち合わせは、しっかり場所を具体化して詰めないといかんのです)

まぁ、結局、その相手とはその後、交際という実態もなく、思うばかりのバーチャルな関係のままポシャりました。「彼女」なんて表現するのもおこがましい。しかし、その日の私は、まるで大失恋したかのように落ち込んでいたようです。そのくせ勉強などしているが.....

こうして考えるに、結婚後は私は日記など全くつけていない。つまり「記録」は一切ない。30年以上の期間が、もう記憶に頼るしかない状態になっています。このBlogは2005年9月からですが、日記という体裁の記録ではないし、もはや手遅れです。そもそも世界中に公開されているインターネット上に、日記じみた超プライベートな内容は書けるわけもない。

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ある程度、自分に都合よく加工された捏造人生が、これから先は記憶の中で保存され、仕舞にはそれが真実みたいに語られて行くのでしょう。

そちらの方が格好良いか。
中二の俺は、男子校ではあったが女におもねることもなく、待ち合わせの時間に遅れた初デートの相手すら許さなかった、マジで硬派だったよ、とか。「お、バンカラ !」とか人に言われて悦に入る。......2時間も待ってた男のクセに。







COVID-19の時代を生きる一人として その12  感染と経済バランスはOKだが、政治はダメ

このところで、都内感染者数も高止まりというよりも漸増傾向。本日(6/27)は57人。

まったく、当たり前のことであるが、自粛全面解除をトントン拍子に実施したわけで当然の結果。それは国民の誰もが了解していた結果だろうが、「そんなに結論を急ぐと、また緊急事態宣言発出になるぞ〜」との懸念だけがありました。

しかし、集団検査という「前向きな感染対策をどんどんやっているから増えた」と一々、早々と発表して都民の不安対応をしていた都知事も、このところはおっぽらかしている。自身の都知事選に向けて、それどころではないのだろう。

このタイミングで、緊急事態宣言を再発出してしまえば、あるいはあの謎の東京アラートとやらを再発動すれば、自粛解除を急いだことへの責任を問われることになる。知事選を前にそれはマズイから、不自然に沈黙するか、「第二波ではないと専門家さんが言ってるし」で逃げ切り姿勢全開。

だが、それがどんなに浅はかな対応か、小池知事は理解していない。

国民は、臨機応変に感染対策をとっていく真摯で本気な為政者を期待している。スムーズに対応し、涼しい顔で難問を克服するカッコ良さなんて求めていない。コロナなんて地球全てを混乱させている災禍であり、専門家も政治家も国民も共に試行錯誤しながら臨んでいるのが万国共通の現実。問われるのは「本気度」だけです。

今、新しいWithコロナとしての感覚で妥協したのは、経済対策も必要だという深刻な局面を認めたからのこと。感染対策・経済対策、この二点のみが許される施策。

ここに「政治」をもってきたから、外国から死者数の割合からコロナ対策に「成功」していると評価された日本なのに、安倍政権の支持率は激減したのです。この地球規模の災禍におよんで、それはダメでしょと。習近平の国賓としての来日日程、2020年東京オリパラ日程、それを「国民の生命・健康」を守ることより優先とした政治判断。それは、アウト。

だから、感染拡大初期の頃から比べれば、日本は諸外国との比較の問題で「優等」扱いされているという今でも、支持率の回復はまったく見られない。マスメディアがいつもの姑息な政権批判を大々的に便乗させた報道を続けた効果なんてゼロ、いつも通りメディア批判がブーメランで殺到しただけで、この支持率低下は、「やはり政治家なんだな」と国民を失望させ、「烙印」を押されたからです。

友情や愛情よりも損得打算に走った相手を許せますか? それと同じです。

だから、今は、もし知事選での信頼回復するなら、カタカナ英語でカッコつけるよりも、真摯に感染対策に打ち込んで、あらゆる方法を愚直に模索し、それを公表して実施していく姿勢を見せることです。夜の街関連で特定地域が問題になっているとハッキリ(市中感染が拡大しているわけじゃない、と言う以上はそうなんです)している以上、具体的にクラスター潰しに動かないと。

PCR集団検査ばかり強調しているが、それで感染が封じ込められるわけではない。とっとと個別店を閉鎖させ、休業補償してやるべきです。法的な根拠は特例措置で国民は納得です。それをやらない理由のすべては不成立であり、何を持ち出しても、生命の問題の優位に立つものはない。4月1日の記事にすでに「接待を伴う飲食業で感染拡大しています」と報道され、4月17日に200人超えしたのなんて誰でも知っている。

またフロリダでは自粛解禁に喜んで16人がパブでパーティーやって16人全員が感染したという情報もあり、お陰で「解禁」を早々に実施した米国は今は「過去最多の感染者数」を出し始め、営業停止・入店制限が再施行された州もあり、「後退」を余儀なくしています。

新宿区長はホストクラブとキャバクラが相乗効果的(前者の客層の多くが後者)にホットスポットとなっているために、例によって「利用の自粛」なんてことを訴えていますが、店に対する制限が先でしょう。個別休業を求め補償をつけても、税金投下は限定的です。

そんな折に、なんですか、国民の唯一の救いの神だった「専門家会議」を専門家たちへの説明もせずに強行的に廃止するなんて政府の姿勢。政治家が政治判断する、ということは国民の生命・健康を劣位にすることイコール、と恐れている私たちにとって、この感染対策の唯一の安心のバロメータは、世界的に権威と仰がれている尾身先生はじめとする専門家会議でした。これを廃止するとは、もはや政治判断の邪魔はさせない、という意思表示。

政治家交えた分科会という次なる形態に「政治家への抑止力」なんて期待薄です。

感染対策・経済対策のバランスまでは良かったが、誰も政治家の政治判断なんて許したくないのです。こんな折に200万のボーナスに手を出し、世論の批判をかわすために実態的に3%程度の削減なのに「歳費20%カットに合意!」 なんて与野党議員が握手して胸を張る人たちが政治家である日本、誰だってそんな人たちを信頼するわけありません。

そんな風潮の中、それでも政治優先を堂々と見せつけ平気の平左の政治家は、もはや終わっているとしか言えない。それでも選挙では特定の利権団体の組織票で乗り切れると高をくくっているのでしょう。資本主義社会の民主政治の限界ですかね、この構図は。

ともかく、仕事として政治を愚直に行う、そんな真摯な姿勢しか今は認められない、政治家にとっても真価を問われる新しい局面です。ウイルスは、恐らく世界が「政治」とか「利益」とか言ってる内は絶対に収束すらしない。終息は夢のまた夢。

それらを排他し切ったときに、何かの形で終息に向かう。「ウイルスには深遠なる意味があり、それに気づいた時、不思議と終息を迎える」と感染症専門家が言っていますが、今回の件で浮き彫りになった社会の問題点、それはきっと将来の地球全体を変えていくことだけは確かでしょうね、さすがに。

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pape2005

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大昔、暴れん坊の悪ガキ。少し昔、おごりたかぶる勝ち組ビジネスマン。そして今、「見ろよ、青い空〜白い雲〜」の歌の境地。
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papeは、我が家の雑種犬の名前です。(フランス語で「法王」ですが...許し給え、アーメン)
FP2級技能士だったり、メンタルケア心理士だったり、フランス歴史オタクだったりですが、スピリチュアル系記事多いです。
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