青い空に白い雲

このブログ、新しい記事ばかりでなく、カテゴリ別に適当に拾って読んで下されば幸いです。日記じゃないので....

本日のちょっといい話 298 金融界を制した「宇宙が味方する生き方」

「見よ。天に一つの開いた門があった。また、ラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。『ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。』」  (聖書 ヨハネ黙示録四章一節)


私は青年の頃、人生について考え悩みました。どんなに幸せな人生を送ったとしてもいつか死がくる。世の中には、多くの矛盾があり、苦しみが理不尽に襲ってくる。生きていく意味がわからない。生きる目的などあろうかと。こうした考えにとりつかれ、どうしようもない虚無感と孤独感に襲われたことがあります。

しかしやがてそれほど根拠がないのに、この虚しさ、さびしさの原因は心に愛がないからだと思い、なぜか人間は死後も生き続け、亡くなった人にも会える、どんな人間もそれぞれに存在目的が、使命があると考えるようになりました。そして、最近では、さまざまな人生体験や偉大な先人と進歩した科学から学ぶことになり、やがてそれが確信へと変わり、新しき天が開かれ啓示めいたものを感じるようになったのです。


これは、ある銀行家の著書の冒頭です。私たちが「あの人は現実主義者だ」とか「物質欲の塊だね」とか人を非難するとき、大抵の場合、それは世の銭・金の問題に対して貪欲だったり、計算づくだったりする価値観の人を指しているものです。

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金融界とは、最も、即実的で現実的でシビアで、この世の欲得のすべてが向かって行く「銭・金」を司る世界を指し、これらの価値観で世を渡ろうとしている人々にとっては、その生殺与奪の権限を握った神のような世界であります。

著者は、まさしくその金融界において、複数の銀行統合劇で主役を務め、卓越した経営手腕によって勝ち進んだ人物。・・・
著書の内容は以下に進んで行きます。

私は現在、関西アーバン銀行の頭取をしています。

破綻寸前の銀行から全国の地方銀行でもトップクラスの銀行へと変わることができたのは、ひとえに宇宙から新しい理論をベースにした新しいスタイルの経営によってであるという自覚を持っています。それが「宇宙が味方する経営」です。

冒頭の聖書の言葉は、最後の審判を警告したヨハネの黙示録です。この聖句にある「門」とは、新しい価値観・真理を指し、「天に開いた門」とは21世紀の新しい時代の価値観を指し、従来の価値観から転換しないと新しい時代には生き残れない、ということを示唆した一節のように思われます。


人類は長い歴史の間、古い価値観に囚われてきました。すなわち目に見える世界がすべてで、目に見えない世界は劣後する世界ということです。天動説が絶対であった中、コペルニクスが唱えた地動説は世の定説と対立しました。これは、目に見える世界だけで判断すると、間違ってしまうこともあるということの、ひとつの大きな教訓です。


いま、私たちが生きている生き方というのは、ひょっとしたら天動説のような発想を基にしているのではないかと思います。たしかに私たちの目には、地球は止まっていて太陽のほうが動いているように見えます。しかし、地動説によって、実際に目に見える世界が誤りで、目に見えない世界のほうが正しいことが証明されたのです。



それと同じように、目に見えない世界を前提にした地動説の発想で生きることこそが、本書で提案したい生き方なのです。それは、天の理があれば宇宙が味方するということであり、宇宙の法則とは、結論からいえば、共に生きる、共に繁栄するという原理を根本に据えた生き方です。

目に見える世界がすべてという刹那的な生き方では、どうしても自己中心的な生き方になってしまいます。しかし、宇宙の法則に基づき、共に繁栄する生き方に入れ替わることができたら、まさに天と地が逆転するような価値観の大転換が起こるのです。


現代に生きる私たちは、いま、まさに新しい生き方、すなわちパラダイムシフト(価値観の転換)を迫られているのではないでしょうか。価値観の転換ができれば、私たちは、もっともっと幸せな人生を送れるはずです。

そして、この混迷する時代の中を、自信を持って生きていけるはずです。
                         (伊藤忠彦著「宇宙を味方にする生き方」)


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かくゆう私も、金融界に身を置いていました。

ただのサラリーマンとしてなんのポリシーもなく勤務していたので、著者の伊藤忠彦氏のような思想体系・価値観はカケラも持ち合わせていませんでしたが、金持ちと呼ばれる人たちに不思議と貪欲さがなく、むしろ人としての魅力に満ちており、金持ちになろうとギラギラしていた人たちの多くが、無残な転落劇の中にその結末を晒していたという現実は見て来ました。

賢く学び、知恵をしぼり、目ざとくチャンスをつかむ・・・そんなことばかりに夢中になっていても、あまり結果は望めないのが世の常であるようです。どうして、なんでしょうか?

その答えが、金融界を独自の価値観で制し、その結果を現実世界に示したスウェーデンボルグの信奉者・伊藤氏の著書の中にはあります。







本日のちょっといい話 297 1920年代アメリカの歌に思う

海外TVドラマが大好きな私は、よく1920〜30年代のアメリカを背景にした作品を好んで見ます。「ボードウォーク・エンパイア」という禁酒法時代のアメリカはアトランティック・シティを舞台にしたHBOの作品(2010〜14年放映)、これも私がハマったTVドラマのひとつです。シーズン1〜5までありました。

まぁ、作品内容はウィキで調べてもらうことにして、そのドラマの中で恐らくは1920年代のアメリカの流行歌らしきものが歌われるのです。シーズン1の12話のエンディングにもなっています。その歌の歌詞が下記のものです。

私の祖父母は共に1899年生まれなので、丁度1920年代は人生の旬。ただ、何故か、私はその時代の海の向こうアメリカの色々にノスタルジーを覚えるのです。この不可思議な感覚は、前世の記憶ではないのか? とも感じるのです。(そのことはまた改めて語るとして)そんな私の耳に、下記の歌の歌詞は、なんとも聞き流せない深い感慨を生じさせました。・・・


ボードウォークエンパイア1-12






座って思案したことは?


考えてみたことはある?


なぜここにいるの、人生って何だろう


それは賢い男たちを酒浸りにした問題


この上なく厄介な問題だ


科学者たちが色んな説を示すも


僕らにはまだ分からない


いくら考えても、いくら学んでも


僕らが知っているのは


誕生し、しばし生きて、死ぬということだけ


人生ってのは本当におかしなもの


想像や嫉妬や偽善でできている


一日に三回、食事をするだけ


金がなければただの邪魔者


誰もかれも道を歩みながら争う


相手が間違っていると言いながら


不安なまま生き急ぎ、カーテンコールはない


人生ってのは本当におかしなもの


すべてがラクに叶い、ツイてる時は


その人生も陽光の中に輝く


やがて風が吹いてきて、計画に狂いが生じると


人生は辛い、耐えられないと嘆く


今日は笑顔でいても、明日は分からない


僕には喜びでも、君には悲しみかも


僕らはなぜか死ぬために生まれて来た


知ろうとするだけ分からなくなる


人生ってのは、本当におかしなもの


まだ誰一人、その謎を解いていない


青春は一瞬、やがて老いて白髪に


つぼみをつけ花開いたバラが、萎れて散っていくように


夢の中を巡るうち、健康を失って富を得る


すべて推測、確かなものは何もない


幕が下りるまで、運命との闘いは続く


人生ってのは、本当におかしなもの



本日のちょっといい話 296 今、すでにあるもの

久々に、このBlogの本筋ともいうべき「本日のちょっといい話」シリーズです。

思えば、この1〜2年、また俗世にどっぷりの阿修羅の日々を過ごして参りました。そうするとやはり、メッセージは改めて強まり、やにわに強制性をもって私に問い掛けてきますね。

阿修羅の如く



何度も何度も、この俗世で私は阿修羅としての実力を発揮して(笑)、それなりの成果を出してきました。

そしていつも、そこには何か違う目的地に立っている自分がおり、本当の進むべき道から遠く逸れた先にいることが分かります。

また、振り返れば、歩いてきた道筋は殺伐としており、目的を追うあまりに踏み荒らした花畑が広がっているだけなんですね。・・・

なんでいつもこうなってしまうんだろう? とか後になってから考え込むわけです。

今は少し休みたいですね。そして、また歩き始める。それまではまた日々学びます。
そんな時に、プレム・ラワットの下記の言葉が心に響きました。




私たちは、自分の持っていないもので人生を測ります。


なぜそうするのでしょう?


本当の自分が持っているものの大切さに、気づいていないからです。


本当に自分がもっているものを見つければ、持っていないもので人生を測らなくなるでしょう。


これは宗教でもスピリチュアルな話でも理論でもなく知ることです。


信じることではありません。


「死んだら、どうなるのか」という話でもありません。


一方で、こんなふうに考えている人たちもいます。


「この世で善い行いを続けていれば、死んだ後に天国に行って、そこで素晴らしい暮らしができる」


まあ、そう考えても構いませんが、なぜ地球がこれほど美しいのでしょう?


なぜ、こんなにも美しいのか?


信じられないほど美しく壮大です。


1回、2回、見たとしても100回、20万回見たとしても息をのむほどの美しい夕日。


空に浮かぶ雲海の波。コバルトブルーの海・・・。


あなたはここにどのくらいいるのでしょう?


地球にいられるこの時間を最大に活かそうとしていますか?


それとも、ただ日常でやらなければいけないことにとらわれているうちに、人生を終えてしまいますか?


夕日





三軒茶屋の時空ホール


三軒茶屋駅(新玉川線)

世田谷区の三軒茶屋、というと高級感のある「世田谷」という響きがやや親しみやすいトーンになる。確かに同じ世田谷でも成城とかになると高級感があるが、三茶はむしろ昭和レトロな風情が残る一帯ですね。


私の実家はそんな世田谷の太子堂という地区にあります。これはもう地名としては三軒茶屋の隣接地区ですが、私の実家のある2丁目は三軒茶屋銀座商店街の所在地でもあり、どっぷりとこの「三茶」地区の中になります。


今ではおしゃれな商店街になりつつあり、私の娘などは嬉々として三茶散策をしていますが、私の体感した三茶はやはり昭和40年代のゴチャゴチャした下町風の商店街でして、今でも感覚の中にそんなやフィルターをもってこの三茶という街を見てしまいます。


昔の周辺



すでに昭和40年代、つまり1960年代から70年代にかけての三茶は写真集も出ているほどにレトロなものになってしまいました。しかし私の感覚の中ではリアルで3Dな世界として展開しているんです。

兄弟



共にそんな三茶で少年期を過ごした兄を昨年の10月に亡くし、当時の懐かしい思い出を語り合える相手を失ってしまいましたが、三茶を懐かしむ多くの人たち同様に、今でも三茶を歩いていると心が穏やかになり、知らぬ間に遠い昔の白黒写真の中にタイムスリップしてしまいます。山田太一の「異人たちとの夏」みたいな。

やはり昔の三茶にノスタルジーを感じていた兄が見せてくれた当時の写真集の中に、下の谷商店街(茶沢通りから三宿へ繋がる道筋)の一画にあった材木屋の画像(母に訊いたら、福島材木店という店らしい)があったんです。下の谷は実家からすぐの商店街なのでよく足を運んでいたところなのですが、私はこの材木屋が今でもあると思っていました。「おいおい、あるわけないだろ! もうとっくになくなってるよ」と兄に笑われました。・・・そんな具合に、記憶は混沌として、現在と過去が私の中ではまだ錯綜しているんです。

私は結婚によって実家から出て、区内の喜多見に引っ越し、一時は太子堂5丁目に戻りましたが、その後は多摩ニュータウンへ。そして練馬を経て今の西東京市に住んでおります。三茶を離れて30年が経過しているわけです。しかし、昭和女子大の側へ国道246を渡る歩道橋は、私が小中高と使っていた歩道橋と同じだと思います。(何度か塗装工事はしていますが) 茶沢通りの西友(かつては緑屋百貨店)に向う裏道にあるアパートは当時のままだし、その向かいにある木造家屋も、また坂道の途中の家の石の段々も同じです・・・。
昔からの歩道橋昔からのアパート昔からの古家
飛び降りて遊んだ石段昔から大きな家昔からの古家

そんな具合に、ふと時の流れが止まっている空間が私のフィルターに映し出され、それは少年期の夏祭りやいたずらや戦争ごっこなどの思い出へと、不可分な時空として私をトリップさせてしまうんです。



そこいらの街中を歩いている時の私は、まさしく都会人らしくタカタカと足早に先を急ぎます。でも、この三茶だけは、どうしてもそうは行かない。あちこちに私を過去へと誘い込むようなワームホールが用意されている。そのホールによって、たちまちに私は過去のワンシーンの空気をリアルに感じ、しばらくタイムトラベラーとして、フラフラと昭和40年代へと浮遊してしまうのですね。

茶沢通りの縁日の露店の喧騒や裸電球の光、巻玉鉄砲の火薬の匂い、赤チンを膝小僧に塗ったくって走っている少年たち、そんな当時の何かの思い出シーンが、ほんの一瞬ですが再生されます。それはどれもこれも、今の自分の殺伐とした心を確実に癒してくれるのがまた不思議ではあります。

歩道橋で通りを見下ろす兄弟
この写真はCedarの今昔写真日記さんの「昭和41年、三軒茶屋の玉電」という記事からの拝借なんですが、歩道橋の上の左方に、眼下の国道246を見下ろしている兄弟の背中が見えますね。
私の実家は左手の太子堂2丁目なのですが、当時、私たち兄弟は国道の向こう側にあった武笠眼科(現存)に通っていました。Cedarさんの同記事の別写真にも「武笠眼科」の看板が写り込んでいます・・・。この歩道橋はもうありませんが、行き帰りに兄と歩道橋の上で往来の玉電や自動車を眺めていた記憶があります。
昭和41年ですと兄が9歳、私が7歳。この写真に写っている二人は、もしかしたら私と兄なのかも知れない・・・
(より鮮明な画像はリンク先でご確認下さい。素敵なBlogです)










1938年アメリカからの手紙 少女ジョアン・ニッカーソンを追う

以前、世田谷の実家の近くに松坂さんという家がありました。

祖母がそこの家と親しくしていて、少年期に私も何度か使いに行った記憶があります。品の良い大奥様がいらしていつもニコニコと迎えて下さった思い出があります。
(後述に書きましたが、松坂家の居住時期からして、これは記憶の錯誤)母親に聞いたら、息子さんが二人いて、私の父親とほぼ同級の年代でお二人共に東大に進学した秀才だったとか。ともかく、「息子」といっても父と同年代ということは大正生まれということでしょう。お父様は白木屋デパート(1958年合弁を経て、1999年東急百貨店日本橋店閉店と共に消滅)に勤務していたらしい。

そこの家がもうかなり昔のことですが、千葉へ引っ越すことになり、その折に、多分、年代からその白木屋に勤務していたご主人のものであろうポストカード・コレクションを、我が家に持ってきて、「もう要らないので貰って欲しい」と言われたらしいのです。


1930年代の古いポストカードのコレクションで、あちこちの観光名所で買い求めたらしい絵葉書セット等は時代物として価値はある。ところが、我が家の方もそんな他人様の収集した絵葉書の束(小箱にぎっしりと保管されている)などには興味もなく、そのまま放置となり、以来何十年も人目に触れることもなく、古いアルバム等と一緒にしまい込まれていました。

歳月が流れて、すでに所帯をもっていた私が実家を訪ねた折にその小箱を目にして、少し興味を示して家に持ち帰ったのだが、それ以来また20年近く私の家でも放置されたという、そんな存在でした。

たまたま今回、写真共有サイトに日本の古いポストカードをスキャンして海外向けにアップすべくその、「放置小箱」を開梱したわけです・・・

内容物は、色々な記念発行ものの絵葉書セットや観光地のもの、珍しいところで戦地の軍事郵便もの等もありましたが、中に使用済のポストカードもあり、松坂氏がどんな関係でやりとりしていたのか不明ですが、戦前の海外からのポストカードも沢山含まれておりました。中国、ベルリン、ワシントン、ニューヨークと。

そんな中に、ポストカードではなく、普通の便箋に書かれた封書が1通だけあるのです。罫線もない無地の紙にびっしりと筆記体の英語が綴られています。手紙の消印は1938年。


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海外のポストカードとは言え、差出人はみんな海外在住の日本人なのですから、どれも文面は日本語ですが、これはなんで英語なのだろうか? と中身を見てみたら、「My name is Joan Nickerson and I live at 614 WestMaple Street,Hinsdale,Illinois.I am fourteen yearsold and I am a Freshman in the Hinsdale High School.」とあるのです
ね。つまり私の名前はジョアン・ニッカーソンで、イリノイ州ヒンズデールのウエスト・メープル・ストリート614番地に住んでいます。14歳で、ヒンズデール高等学校の新入生ですと自己紹介している。つまり、差出人はジョアン・ニッカーソンというアメリカ少女だったのです。彼女のいる高等学校は、1965年にヒンズデール・セントラル高等学校と改名され現在に至っている学校です。

手紙冒頭に
Dear Yasuaki Matsuzakaとあるので、松坂家の「やすあき」氏に送られたもののようですが、文中に「あなたは高等学校? 小学校? 何年なのですか?」とあるので、同年輩の相手に書いていることをこのアメリカ少女も理解しているようです。従って、消印の1938年という年代から14年引いた1924年が彼女の生年としたら、やすあき氏も同年輩と想定し、大正13年生まれの人となります。母が言っていた、大正12年生まれの父と同年輩の息子さんがいたということから、その息子さんたちのどちらかに宛てたものだと思われます。

この高等学校? 小学校?というアメリカ少女の混乱は、1941年の国民学校令制定前の1938年のことですから、尋常小学校6年間を終えたあとに、高等小学校2年間を経て14歳となる日本独自の学校令によるものと思われます。
35993837030_3ccdd831d0_z手紙に同封されていた写真

まぁ、手紙の内容は他愛ないもので、今が気温0℃の寒い時季だがクリスマスが近く、みんながクリスマス・プレゼントの買い物を急いでいるとか、自分の身長が160センチで目が青く、髪は明るい金髪(フェアリーライト)だとか、高校でやった三幕物の演劇
"Galahad Jones"が楽しかったとか、そんな話です。

ただ、なんでアメリカ少女から松坂君へ手紙が来たのか? です。1938年のことです。昭和13年、つまり戦前です。青少年ペンフレンドクラブが設立(1949)されたりする以前のことです。

そこで、彼女の手紙の中に登場する「マサチューセッツ州ボストンのスベン・V・クヌードセン博士からあなたの名前を受け取りました。私は少年少女たちの多くが世界の沢山の国々に手紙を書いているのが私も好きです私はあなたの国に非常に関心があるので、私は日本の誰かに書きたかったのです
」という文面の中のクヌードセン博士(Dr.Sven V.Knudsen)という人物を調べると分かります。
yjimageクヌードセン博士の著書

この博士は残念ながらウィキには載っていませんが、1932年に「海外の我が友。青少年の国際交流」という著書をボストンで発行しているデンマークの学者のようです。博士は活躍の場をアメリカに移し、世界情勢が緊迫している中、青少年らを他国の同世代の仲間たちと文通を介して交流させるなど、世界平和を目的とした活動・教育をしていた人物です。著書の紹介欄にも、アメリカやヨーロッパの青少年を、ブエノスアイレスやドレスデンや東京の青少年らと交流させて、国際的な誤解の根源を解消させる・・・とあります。

(母に訊いたら、やすあき氏は松坂氏の御子息で、兄弟で東大に進学した秀才だったとの事でした。手紙の宛先が「武蔵高等学校」になっていますが、ここは1922年開校の私立7年制旧制高等学校の先駆けで、東京帝大の進学率で一高を超えたこともある進学校。秀才のやすあき氏がそこの生徒だったことは容易に想像できますね。また
東西文化融合のわが民族使命を遂行し得べき人物を造ること”を教育理念にしていた学校なので、上記のクヌードセン博士の活動に連携していた可能性が高いです)

残念なことに、この手紙の内容から手紙は1938年のクリスマス近く、つまり年の瀬に書かれたものらしいですが、その翌年にはドイツによるポーランド侵攻が行われ第二次大戦の火蓋が切られ、40年にドイツと同盟関係を結んだ日本はかなりアメリカと険悪になり、41年には真珠湾奇襲となり日米開戦です。クヌードセン博士の世界平和の夢は露と消え、このアメリカ少女と松坂青年の文通はその後、どうなっていったのか、知る由もありません。確かなのは、二人がどんな内容の手紙を取り交わしたにせよ、日米開戦となれば、もはや途絶するしかなかったという現実があるだけです。

Polenfeldzug
ポーランド侵攻yjimagePI2N66V0真珠湾奇襲



しかもこのクヌードセン博士の活動に直接参加した青少年らこそ、開戦した各国で兵士として戦場へと駆り出された世代になったんですね。

鬼畜米英なんて言ってた当時の日本ですから、この手紙は封印され物置の奥深くにしまわれていたことでしょう。見つかったら大変なことになりそうですから。

そもそも1924年生まれの、この青い目と金髪のアメリカ少女、世代的には出征した米国兵くらいの人と結婚しているかも知れませんし、しばらくはお互いに、複雑な思いでこの文通の事実を思い出していたことでしょう。



614 West Maple Street614 West Maple Street データ
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ところで、不思議なことなのですが、彼女が住所として書いているイリノイ州ヒンズデール、ウエスト・メイプル・ストリート614番地を何気なく調べてみたら、この7月にどうやら同番地の家屋が売りに出されたらしく、不動産屋のサイトに写真や動画が掲載されていたんです。

 日本円で2億くらいの豪華な物件で、大豪邸です。内装などはしているとは思いますが、家屋は古い造りで、恐らく1938年当時と変わりありません。売り主はニッカーソン家かどうかは不明です。不動産物件の案内のお蔭で、各室の内部や庭園、上空撮影まであり、必要以上にこのアメリカ少女の家の詳細が見らます。(動画URL https://vimeo.com/187704819 )

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 このような豪邸に住んでいたともなれば、父親はそこそこの有名人だと推測され、ネット検索でひっかかるかと調べましたが、駄目でした。ニッカーソンという苗字は、アメリカではそれほど珍しくはないようで沢山ヒットするのですが、二歳上の兄として手紙に登場するエドワード君も含めてネット上では手懸りゼロです。

 彼女が住んでいた家が奇しくも先月、売りに出されてネット上で公開された偶然で、その生活環境が詳らかになったという出来事だけが救いだったわけですが、ところが、ここでまた嬉しい偶然がシンクロしてくれます。

昨日、写真共有サイトにアップしていたジョアン・ニッカーソンの手紙のスキャン画像に、私のフォロワーのアイルランド人の男性からコメントが入っていて、あるサイトのURLが載っていました。

それを開いて見たら、なんとそれは1940年のアメリカ国勢調査の資料で、ヒンズデールのウエスト・メイプル・ストリート614番地在住のジョアン・ニッカーソンの記録ではないですか!!

思わず目を見張りました。

確かに、彼女はこの地番に居住しており、1940年の4月1日が調査日なので、すで17歳という年齢ではありますが、ちゃんと公的記録でその存在が確認できたんです。


彼女の記録にはこうあります。
This snapshot of Joan Nickerson’s life was captured by the 1940 U.S. Census.
When Joan Nickerson was born about 1923, her father, E, was 38, and her mother, Irma, was 34. On April 1, 1940, she was 17 years old and lived in Hinsdale, Illinois, with her father, mother, and brother.

(
ジョアン・ニッカーソンの人生の記録は、1940年の米国国勢調査で確認されました。
ジョアン・ニッカーソンが1923年頃に生まれたとき、彼女の父親Eは38歳で、母親Irmaは34歳だった。1940年4月1日、彼女は17歳で、父親、母親、そして兄と一緒にイリノイ州ヒンズデールに住んでいた。
)

Joan Nickerson





そして、父親の名をCLすると父親の記録にとびます。訳すとこうあります。
(E J Nickerson の人生のこの記録は、1940年の米国国勢調査によって確認されました。
E J Nickersonは1885年頃に生まれました。1940年4月1日、彼は55歳で、イリノイ州ヒンズデールに妻のイルマ、息子、娘が住んでいました。)

同じく母親イルマは、1889年生まれで1940年4月1日には51歳とあります。

また手紙にも登場する兄エドワードは、Edw J Nickerson Junior(エドワード・J・ニッカーソン・ジュニア)で、1940年では19歳。ジュニアとあるから、父親の「E J」もエドワード・Jなんでしょう。Jは不明です。手紙でもJと略してあります。この兄あたりは戦争に行った世代ですね。

この有り難い資料の提供のお蔭で、なんともすっきりとしました。

アメリカでは1790年以来、10年ごとに国勢調査が行われており、72年間のプライバシー制限が解けると公開されているのだそうです。つまりこの1940年の調査が公開されている最新のデータというわけです。
登録して契約期間による13ドル〜35ドルの手数料を払うと、これらのデータと様々な記録をリンクさせてルーツ探しができるAnecstry.comというのがあり、上記のアイルランドの人がなんで登録・利用しているのか分かりませんが、それを使ってジョアン・ニッカーソンを調べて記録を提供してくれたんですね。感謝です!

手紙の主ジョアン・ニッカーソンさんも90歳過ぎてご存命ならば、今もこの地球のどこかで生きておられることでしょう。14歳の時に日本に送った手紙が写真共有サイトに公開されているとは知ることもないでしょうね。松坂家の人々も、ただの近所の知り合いで、親戚でもなんでもない関係上、もはや何らの交流もありません。

つまり、今の私にとっては、なんの御縁すらない他人がこれらの手紙の関係者たちなわけで、ここまで調べてまとめるにしては、少し物好きに過ぎますね。

ということでして、以上です。

(後述)2017.12.3
この手紙の受取人だったやすあき氏は、正式には松坂泰明氏です。自宅は、私も少し記憶違いしていましたが、我が実家のある路地から通りに出た左手角でした。私の幼少期の友達の居所と記憶しておりましたが、その友達の柿沼家が住み着く以前に松坂家が居住していたようです。私の過去記事に貴重映像があります。⇒http://blog.livedoor.jp/pape2005/archives/51434844.html
ともかく、本記事中にも書きましたが、受取人・泰明氏には同様に東大進学した兄弟がいたわけですが、それは弟の和夫氏でした。この方は後年、一橋大名誉教授になった数学者で、ウィキにもあります。⇒https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%9D%82%E5%92%8C%E5%A4%AB
この和夫氏が2003年2月に、この元の住居が、築80年のレトロの家としてそのまま若い世田谷の建築家たちがシェアしながら使っているとの東京新聞の記事(2003年1月28日)を知り、その建築家らの事務所に「過去にそこに住んでいた者」として手紙を寄越したらしいのです。その手紙の中に我が実家の事も書かれており、ご存命ならば幹彦氏が当主になっているはずだと。(存命で当主は確かに父・幹彦でした。但し、同年5月に父は逝去)そんなことからか、この手紙のコピーを建築事務所の人が我が実家にくれたんですね。それを母が私のところへ同封して送ってきていたのです。その封書をたまたま昨日、クロゼットの奥から見つけたので、この後述となった次第。
和夫氏の手紙によると、松坂家がそこに住んでいたのは昭和13、14年頃から22、23年頃、つまり1938、39年〜1947、48年頃らしい。つまりニッカーソンの手紙はここに転入後すぐのやりとりとなります。和夫氏が2003年2月にこの手紙を書いた頃の御住所は練馬区南大泉でしたが、不思議なことに私は当時、同区東大泉でした。2012年1月に和夫氏は逝去されておられるので、当時ならばすぐにお会いできた地理的メリットがありましたね。・・・




縁起物の銀幕スターフォト

Kirk Douglas and Olivia de Havilland, Cannes 1953

この写真をご覧下さい。
1953年カンヌで撮られたカーク・ダグラスオリビア・デ・ハビランドのツーショットです。
映画ファンの方ならば言わずと知れた大スターのお二人です。
特にこのお二人、仲良さ気な感じですが浮いた噂があったというわけではありません。共に1916年生まれの同い歳のハリウッドスター同士、第6回カンヌ映画祭の場で親しげにしていても自然なことでしょう。

ただ、なんでこの写真が縁起物なのかと言えば、2017年現在、つまりこの写真が撮られてから64年後、このお二人が生まれてから101年後の現在、銀幕の大スターのお二人が共にご健在であるからなんです。

すごいことだと思います。オリビアは7/1に101歳の誕生日をパリで迎えました。あの名作「風と共に去りぬ」では一番最初に死んでしまうメラニーの役を演じましたが、今では出演者で唯一の生存者になっております。12月生まれのカーク・ダグラスは去年の12月にビバリーヒルズ・ホテルで100歳の誕生会を開いています。「バート・ランカスターはどこだ? ローレンス・オリビエは? もうみんな死んでしまったよ。私は孤独だ」と雑誌インタビューに弱音を吐いているかと思ったら「ではまた200歳の時にインタビューに来てくれ」と笑いをとっていた・・・

ともかく、なんとも嬉しいお二人のツーショット。共に100歳を超える人生がこの先に待っているとは、この時には想像することも出来なかったでしょうね。


at the Cannes Film Festival photographed by Edward Quinn, 1953




シンクロニシティ

昨年の6月より更新なく、放置状態なので、久々に記事を書きます。


私のBlogの中でも度々、「シンクロニシティ」を体験した時に記事を書いていますが、今回もシンクロ体験を書きますね。やはり、不可思議ですし、何かの作用があるとは思います。私の場合は、映画やテレビ番組を通じてのシンクロが多く、「意味のある偶然の一致」としても、あまり意味が分かりません(笑)


過去記事は
http://blog.livedoor.jp/pape2005/tag/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3で読めます。記事の中でも、シンクロ関連記事のURLをリンクさせていますので、色々とあったことが分かります。

さて、今回もシンクロニシティは、やはり映画関連です。

yjimageDN95LAGXモーツァルトの恋 Wen die Gotter lieben

2月26日(日)、何かの拍子にデンマークの画家ハンマースホイについて調べていて、画像検索し
ていると、「モーツァルトの恋」という古い映画(1942年オーストリア)の画像が目に留まりました。そこに、とても美しい女優さんが写っていたので、その女優の名前を検索しようと、ハンマースホイなんて忘れて、画面を開き直しました。


Irene von Meyendorffイレーネ・フォン・メイエンドルフ  Irene von Meyendorff

その女優さんは、イレーネ・フォン・メイエンドルフというドイツの映画女優で、もとはエストニアのドイツ系貴族でしたが、ロシア革命でドイツに亡命してきた一族のようで、イレーネ自身が男爵夫人という肩書があります。本物の気品と貴族的な美貌というわけです。
Olivia de Havilland今年101歳になるOlivia de Havilland

まぁ、そんな話は置いといて、このイレーネ・フォン・メイエンドルフが、オリビア・デ・ハビランドのように今年101歳を迎えるような長寿でご存命なんて可能性もあるから、調べて見たら、奇しくもデ・ハビランドと同年の1916年の生まれでしたが、85歳で2001年に逝去されておりました。そこから、案外と長寿な女優さんが映画界には多いことが面白くなり、また検索の矛先が、「長寿女優」になりました。

それでも、日曜日が終わってしまい、転々とネットをうろつき回って開いたページをすべて閉じて、その日を終えました。

そして、翌日朝、いつも出勤前のトイレに本を持ち込むのですが、その日はずっと本棚の隅で忘れられていた「20世紀版スター・カレンダー 365日素敵な話」という、島野功緒著の講談社+α文庫を選びました。昨日から調べていた映画ネタのこともあり、ふとそうしたんでしょう。この本は、練馬区に住んでいた頃、近所に著者の島野さんの家があり、あることのお礼にとご主人が書いた本ということで奥様から頂いたものでした。


Lillian Gishリリアン・ギッシュ Lillian Gish


著者は当然に日本映画のスターにも精通しているわけで、365日の内容は、日本の映画界・演劇界の話が多く、〇〇の初公演の日とか、有名映画シリーズの一作目の封切りの日だとかの内容も含めてのものです。あまりトイレに長々とも居座れないので、当日の2月27日のページを開きました。すると、アメリカ映画女優の草分けリリアン・ギッシュが、1993年に99歳の長寿を全うし亡くなった日、とあるんですね。前のページ(2/26)が日本の時代劇の巨匠・衣笠貞之助の命日、次のページ(2/28)は、日本の映画監督・大庭秀雄の生誕日が紹介されている中で、ハリウッド女優のリリアン・ギッシュが99歳で亡くなった日が私の開いたページであることには驚きでした。

昨日からの長寿・洋画女優というネット検索項目に、本というペーパーの物質世界の偶然までがリンクしてしまったわけです。

まだあります。その翌日、帰宅後に私はふと、「夏の日の恋」というパーシー・フェイスの美しい曲のことを思い出したんですね。幼少期に家にあったシングル盤のレコード・ジャケットには、うっとりするような金髪で青い目の女性が笑っていて、今でも鮮烈なイメージが蘇ります。そこで、あのジャケットの女性は誰なのか? という調査に取り組んだのです。(ヒマなヤツです)

Theme from A Summer Place避暑地の出来事 A Summer Place

結局は、1959年アメリカ映画の「避暑地の出来事」のテーマ曲を、パーシー・フェイスがカバーした「夏の日の恋(Theme from A Summer Place)」が、この曲で、シングル盤とかのジャケット写真は検索では出て来なかったのですが、出演女優のサンドラ・ディーが私の記憶にあるブロンド女性に似ていることから、そのジャケット写真のモデルは、サンドラ・ディーではないかとの結論になりました。
ただ、この映画に出てくるヒロインは二人おり、親子2世代で恋愛関係が同時進行しているんですね。息子と娘。息子の母親と娘の父親という具合。娘役はサンドラ・ディーです。そして、母親役は、ドロシー・マクガイアという女優です。

Dorothy McGuireドロシー・マクガイア Dorothy McGuire

どこかで、調べたなと私は思いました。画像検索したドロシー・マクガイアの写真も見覚えがある。
で、私が洋画女優を調べる時に使用する生年月日順の一覧表があるんですが、それでドロシーを調べて見ました。すると、一番始めに、「モーツァルトの恋」の出演女優として見惚れて、あれこれ調べるキッカケとなったイレーネ・フォン・メイエンドルフの真下にドロシー・マクガイアが載っているんです。イレーネが1916/06/06〜2001/09/28であるのに対して、ドロシーは1916/06/14〜2001/09/13だから、当然です。しかも没年月日もほぼ同じなわけで、この二人はほぼ同じ歳月を生きた映画女優同士というわけです。個人的に関わりがあったかは知りませんが。
日曜にあれこれ調べている中で、イレーネ・フォン・メイエンドルフの真下に名前が連なっているドロシー・マクガイアについても検索していたんでしょうね。
どうして、「夏の日の恋」が急に思い出されて、幼少期に魅了されたシングルレコードのジャケット表紙のモデルを調べようとしたのかは不明です。そして、それがテーマ曲になった映画「避暑地の出来事」から、ドロシー・マクガイアに進み、またイレーネ・フォン・メイエンドルフに戻って来たのかが、シンクロっぽくて奇妙でした。

今回のところはそんな話でした。
ジャンジャーン♪


友の死



またまた相変わらずの多忙と怠慢で四半期ぶりの更新となりました。

ただこのところでショックな出
来事があったのでBlogを開きました。

Sという友人が5月23日に病没したので
す。
友人といっても色々ですが、このSは、本当に親しくしていたヤツなんです。小中高と同じでしたが、交友が始まったのは中学時代、思春期の頃でした。帰りのバスが同じ方向ということもあり、小学時代はあまり縁がなかったのですが、急速に親しくなりました。あの頃は思春期の始まりで、男子校だった私たちも、近くの女子高で同じバスに乗り合わす子のことで盛り上がっておりました。

私には兄の関係で家族ぐるみの付き合いをしていたH家という医者の一家がおり、近くに開業していたので、今でも母の主治医をしていような家です。そこの娘A子が私と同じ歳で、その女子高にたまたま在学していました。その娘は、なぜか小学校の頃、私のことが好きだったらしく、
何度も父親と私の家に私に会いに来たんで
す。まだ異性なんてものに興味のない私は、逃げ回っていました。

ところがこちらが「思春期」を迎えて、今度は異性のことばかり考えているような状況になったわけです。私の「追っかけ」だったそのA子がたまたま、私たちM男子校にとってターゲットだったS女子高の生徒だったということもあり、今度は遅まきながら猛然とこちらからアタックをかけた次第です。


               詰襟マジソンバッグブラバス



そこで友人のSの登場となります。彼がバスの中で見掛けて惚れ込んでいたそのS女子高のNという子が、なんとA子と同じクラスだったんですね。渡りに舟とばかりに、Sの思いをNに伝えると言う橋渡し役をするというプロジェクトをダシにして、私はA子にちょっかいを出しまくりました。結果はうまく運んで、SはNと付き合いを始めたんです。ところが、本命のこちらの裏プロジェクトはグダグダで、小学時代のあの猛アプローチの意気込みはどこへやら、A子はてんで私に関心を抱くこともなく、一度のデートもすることなくポシャリました。

そんなどこにでもあるような出来事ですが、当時のソフトメローな思い出のあれこれと共に、今でも胸がキュンキュンするような思いが高ぶります。


ムサコー東急バス


それからも、恋多き男で、高校大学と色々な女性への思いの相談に乗っておりました。最終的には彼はフラれて手ひどく落ち込むことが多かったものの、今にして思うと、アタックして思いを成就させた確率はかなり高かったと思います。フラれるには、先ずは付き合わねばならないわけで、彼はモジモジと悩んでは私に相談し、長電話したり、夜中に会ったりして語り合ったりしたものですが、結果、見事に相手をゲットして、そして一定期間をしっかりと交際していました。

彼は私に意見を求めるんですが、こちらは逆に、経験不足であり、知ったかぶりをして色々と話していたような記憶があります。

勉強はそんなわけであまり出来る口ではありませんでした。

一度、大学の授業で、哲学の単位を落としそうになり、それを落とすと留年決定という状況下で相談を受けました。私は違う大学だったのですが、彼の大学は理工系で、哲学(多分一般教養課程で柄にもなくそんな科目を履修したんでしょうね)の教授だけが、再試のチャンスを与えてくれたんでしょう。それに受かれば進級できるということだったと思います。論文提出で論題が確か「自殺について」みたいなものだったと記憶しています。「留年なんて自殺したい気分だが、自殺についての考察なんて書けないぜ」というわけで、私に代筆を依頼してくる始末でした。

カゼールジッポ



そこで、私はそういうものが当時から得意だったので、ナポレオンの青年期の希死念慮についてあれこれと書いてやりました。どんなものを書いたかはあまり記憶にありません。ただ、その論文が通って、哲学の単位がとれて、無事に進級できたSでした。大変に感謝されましたが、当然ですよね。あいつは何もやってないんですから(笑)

まぁ、それからも色々とありました。社会人になって、結婚したり、家をローンで買ったり、車を買ったり、子供が生まれたりと、すべてのライフステージを共に歩んできました。

歳をとるに従って、会う機会は激減しましたが、Sは人懐っこい性格で、フイと連絡して来ました。「どうしてるかと思ってよー」と。

ただ、ガッチリタイプのSなのですが、大学時代に発病した肝臓病によって、度々、入退院を繰り返しておりました。「また入院かよ。今度の退院はいつ頃なんだよ?」とこちらも慣れっこになっていました。1ヶ月ほど前にもひょいとSから入院のお知らせ電話があり、そんな軽口をたたいていました。

奥さんに言わせると、亡くなった5月23日の前日の日曜には、大変に元気で、退院の日程調整に入っていたそうです。ところが、23日当日の夕方にかけてあれよあれよと急変して亡くなってしまったとのこと。

また、病院から遺体が出されて斎場となる代々幡に安置されるまで一日だけ、葬儀屋さんがSの遺体を自社ホールに預かることになりました。私の実家もSの実家も世田谷なのですが、その一晩安置された場所が、中野区の縁もゆかりもない場所でした。そこでご家族は、Sが一人ぼっちで寂しかろうと一晩悶々としていたそうです。ところが、なんと、その場所、私が施設長をしてその晩も泊まっていた施設から5分とかからないところだったんです。それを知って、奥さんは泣いて喜んでいました。そんな場所だから、自然とそこに行ったんじゃないかと。

私はその葬儀屋さんのホールで彼と対面しました。

少し白髪は混じってはいましたが、学生時代からの直毛はそのまま冷たくなった額に垂れておりました。やや頬が闘病生活のやつれかこけていて、彼のふっくらした面影を損ねてはいましたが、確かにSが棺の中に安置されていました。

もう魂は私たちの知るSという肉体を捨てて、私たちが1959年に生まれた時にやってきた元の世界へと飛翔してしまっているのですね。この世での御縁で共に数十年を過ごしたわけですが、迷い多く今でもフワフワとして頼りなく生きている私などとは違って、またあの元の完全にして無垢な存在に彼は戻っていったんです。自分の人生を彼はどう評価したんでしょうか。少なくとも、まだこんなことをしている私を眼下にして、「まぁ、頑張れよ。俺はちょっと早いが一足先に失礼する。やっと終わったよ、アハハ」と、まるで舞台の幕裏で出演を終えた役者がタバコに火をつけながら言ってるような、そんな気配を感じています。





最近は・・・

また、非スピリチュアルな記事で申し訳ないです。このところ全くリアル世界にドップリと漬かり込んで生きているもので・・・

いつもいつも幸運を呼び寄せて天下をとったような気分になっていると、ある日途端にこの隆盛も衰えて、階段を転げるように転落するのではないかと不安に苛まれます。

それはほとんど自動思考的に反応で、ほとほと自分でも厭になります。「もうそんなネガティブシンキングはやめよう。早々に同じような展開はしないよ。今度はうまく進むよ」と状況分析をして自分を慰めるのです。

しかし、なんとも、いつも同じ展開をしてしまう。想定していたリスクではなく、想定外の出来事によって、結果は同じ「階段を転げる」結末になってしまうんです。そもそも、停滞期に悪戦苦痛していた時も、想定外のラッキーが次々と訪れて、幸運児さながらに大成功するんです。それで、人様から高評価を得て来ました。

但し、次はその真逆の現象によって、プラスマイナスゼロになってしまうのが私の傾向です。運命に弄ばれてしまうだけ。というか、神が私に「こんなビジネスゲームに夢中になっているのは空しいことで、いい加減に目覚めろ」とメッセージをくれているのかも知れない。

今もそうです。800近くのフランチャイズ店で80位程度の店舗を私は最高で3位。このところでもベスト5に入る成績にまで押し上げました。今月の成績だとトップ賞かも知れません。しかし、その業績を支えていたあるラインが、急に崩れました。来月から解約という流れです。またこちらの不始末の事故で、後遺症の気になるケースもあり、気分は沈んでいます。また勉強しないで臨んだある国家資格、結果は気にもしなかったのですが、点数が送付されてきたら、1点差で落ちていて、要らぬ悔しさも味わわされています・・・

人間は複数の問題を抱えると、悲運を嘆き、しばらくは押し流されてしまうものです。

今の私は、複数の問題ですっかりと萎えいでしまっています。

どうして、こう定期的に問題が生じるんだろうか? 安定と言う期間がないんだろうか? 他の人は、あまりナーバスにならないで、普通に乗り越えているんだろうか? 

引き寄せの法則がはたらいているのかも知れないが、気分が高揚している時にストンと落とされることが多いから、なんとも想念の問題ではないような気もする。

もう一度、笑おう。それしかない。蒼白な顔で眉間に皺寄せていても、事態は好転しない。人生はいつか終わる。苦悩していた時間と笑っていた時間のバランスを考えると、私なんて「不幸」な人生になってしまう。振り返れば大過なく生きてこられた事実がある。流れに任せて最善を尽くし、そして人生を遊んでみよう。

決めた、決めた。そうしよう。裏付け知識は豊富にあるんだし、実践するだけのことだ。

近況です

あまりにも更新なしの放置が続いているので、とりあえず近況を書きます。

相変わらず介護業界でバタバタしているわけですが、このところで、介護事業部門のトップが解職となりました。まぁ、社長との軋轢がそのような結果に繋がったわけですが、こともあろうに、私が、介護部門統括として昇格してしまったわけです。

こうなると、自分の事業所のみならず他店の稼働率にも責任を負うわけで、気も休まりません。

生活パターンはあまり変わりはありませんが、夜勤明けや休日、夜間などで統括としての仕事をやらないとならなくなり、前任者が、完全にフリーだったのに比べて、こちらはシフトには入っているし、夜勤も送迎も調理もと通常のスタッフと変わらない仕事をしつつ、自店の施設長任務をこなし、且つ又、統括としての業務も背負うわけですから、大変な状況ではあります・・・

スタートの1月度の数字がいきなり低迷してしまい、社長の呈示するクリーンな労働環境からくる残業代の膨張で営業利益はガタガタです(;´Д`)

これじゃ、いきなり怒られるハメになるので、対策を練り直していますが、どうにも陳腐なものしか出てきません。
ヤバイです・・・

そんなこんなで、まだまだこの忙しさは続きそうです。次はいつ更新できることやら、です。゜゜(´□`。)°゜。

・・・・顔文字ってのもなんか新鮮ですな。。。

本日のちょっといい話 295 人にやさしく出来ない計算式


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どうして人にやさしく出来ないのでしょうか?
確かに、まどろっこしかったり、弁解がましかったり、能力不足だったり、怠慢な人って周囲にはいます。
それらの人たちにやさしく接することは、それらの欠点を認めてしまい、それらの欠点にOKを出してしまうことだと思えてしまいます。

ただ、それは駆け引き・計算じみたこちらの憶測ですよね。

単に、すべての人にやさしく接し、あたたかく受け入れてあげれば、それで良いんですよね。

なぜ、こんなシンプルなことが出来ないのでしょうか? 怖くて不安で、あるいは腹立たしくて出来ないのは、なぜなんでしょうか?

周囲の人にもっとスムーズに動いて欲しいし、素直な性格になって欲しいし、能力アップして欲しいし、勤勉になって欲しい、つまりそれは関係者たちをコントロールして、自分にとって物事を有利に展開させたいという思いからのもので、愛でもなんでもない。組織では「人材育成」という美辞麗句がありますが、それがあてはまっていないことくらいは自身がよく分かっているわけですしね。

およそ「愛」のない思惑に、成功するものはありません。

自分に「有利」にという思いからの行為が、真逆の結果になるわけで、あまり賢い選択とは思えませんね。

それでもコントロールしたがるのは、頭脳がエゴに基づく計算をしているからでしょう。エゴにとっては、世の中はコントロールすべきことばかりですからね。またすべては基本的に敵対者で、競争相手でしかない。愛なんて入る寸分の隙もない暗黒の世界です。

分かっていながらも暗黒世界を選んでいるケースも多いんでしょうね。それは、あまりに愚かしいですが、人間は頭脳というサタンと一緒に長年生きて来た存在だから、なかなか縁切りも出来ない。やれやれ、です。

気になるニュース2つ

まったく更新が出来ぬまま一夏が終わろうとしており、相変わらずの過重労働の日々を適当に送っております。
気になったニュースといっても、私的な感覚がピンピンと反応したニュースであり、大事件でもなんでもない、三面記事そのものの2つです。

ひとつは、最近のニュースではないのですが、たまたま昨日知った海外ニュースで、すでに3年前の2012年配信のものですが、サハラ砂漠に第二次世界大戦中に不時着した英空軍機P40が発見されたというものです。

保存状態が良いとのことで、70年の歳月を感じさせない状態ということで、搭乗員の身元は判明していて、墜落の経緯もある程度は分かっているのですが、搭乗員はそのまま砂漠の中を歩いて移動したらしく、恐らくはまだ広大なサハラ砂漠の中にその遺骸が取り残されているらしいです。

記事は下記内容です。

2012年5月13日エジプトのサハラ砂漠Egyptian Saharaで、70年前に不時着した 英国戦闘機RAF fighterカーチス P-40(愛称はキティーホーク:米国陸軍製:Curtiss P-40 Kittyhawk)が非常にまれな良い保存状態で見つかった。座席、コックピットの状態も良く、機内には銃弾も残っていた。今回は偶然、石油関係の労働者に発見された。
操縦士は24歳の英空軍一等軍曹 Dennis Coppingと判明していて
、胴体に対空砲による銃痕があることから、1942年6月(日本は同年3月真珠湾攻撃)エジプトの英軍基地へ向かう途中攻撃を受け、飛行不能で不時着し、その後本人は死亡したと推定された。一部の部品は盗難にあったりしているが、早いうちに英国の空軍博物館に移送し修復される予定。胴体の横に、パラシュートの布や取り外した通信機、バッテリーがあることから、しばらく布でテントを張り生きていた痕跡がある。この付近は華氏120度(摂氏48.9度)にまで気温が上昇する地域で、一番近い街まで200マイル(320キロ)あり、リビアやスーダンに近く危険な地域。

写真は海外サイトより。
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   サハラ砂漠で発見されたP40戦闘機         コーピング軍曹

さりげないニュースですが、なんかあの70年前の戦争の時代から、その間の歳月を飛び越えて直接、アクセスがかかっているような感じの出来事です。


また、もう一つは、下記のニュースで、今度のは130年の歳月を経てのものです。



【2015年1月17日 AFP】米国の人里離れた国立公園で先ごろ、130年以上前に製造されたライフル銃が木に立てかけられた状態で発見された。西部開拓時代に作られたこの銃がなぜこの場所に放置されていたのか、専門家たちは首をひねっている。

「西部を征服した銃」と呼ばれ、現地の歴史で重要な地位を占めるライフル、ウィンチェスターM1873(Winchester Model 1873)が見つかったのは、ネバダ(Nevada)州のグレートベイスン国立公園(Great Basin National Park)。たまたま考古学調査チームと共にこの周辺で働いていた同公園の職員、エバ・ジェンセン(Eva Jensen)さんが、杜松(ねず)の木(ジュニパー)に立てかけられていたこのライフルを発見した。

 岩肌が露出する公園内に長年にわたって放置され、外気にさらされてきたライフルは木製のストックにひびが入って「灰色に変色」し、シリンダーはさびて茶色くなり「杜松の木の色に溶け込んでいた」という。

 シリアルナンバーから1882年に製造・出荷されたとみられるが、このライフルについてそれ以上のことは分かっていない。同国立公園は声明で、「専門家らが現在、ライフルがここに置かれた経緯を明らかにするため、過去の新聞や家系図などを詳しく調査している」と説明している。

 ウィンチェスターM1873は1873年から製造が中止された1916年までの間におよそ72万610丁が製造された。発見時には装弾されていなかったが、実際に使用されていた時には.44-40弾が使われていたとみられている。(c)AFP

やはり画像は他の海外サイトのもの。

ウインチェスターウインチェスター2

   こんな状態で発見        このウインチェスター


でも、どうしてこんなところに立て掛けられたままだったのか・・・を憶測するために調査に入っていると言いますが、分かりっこないですよね。誰かの手記にでも「うっかり森の中でライフルを置き忘れて見つからなくて残念」みたいな記述でも発見されれば別ですが・・・

ただ、誰かが故意かうっかりか、はたまた余程に慌てていたのか、急な事件に巻き込まれでもしたのか、ともかくここに上記の写真の通り、ライフルを立て掛けて、そのまま何処かへ行ってしまった事実はあるわけで、そのままずっと130年間も放置されて、今に至ったわけですから、色々な想像力も働いて、なんとも面白い話ですね。


近況など・・・

あまりにも更新なしだと寂しいので、ここで近況などを。

特に変化があったってわけではありません。相変わらず、俗物として仕事ワールドに埋没して毎日を過ごしています。前回から、春が来て、梅雨に入り、季節は変わりましたが、私はそのままです。

気づきの日々ではあります。私の内部での感情の推移を見ていると、ともかくうんざりするほどにエゴです。エゴの声がともかく強い。せめて声だけにして、行動はギリギリで抑制していますが、それだけで手一杯です。

人に対する優しさ・・・これは、心の中で自然発生する人としての美質ですが、それを行動化するには、様々なエゴの抵抗をかわさなければなりません。エゴは、身の保身のことしか計算しませんし、それ以外の目的には見向きもしない存在ですから、与えるだけの行為なんて想定外なんです。だから、肉体の司令塔として、与えるだけの真の愛を行動化しようとすることに対して、戸惑いにも似た反応をします。「信じられない!」って感じで、全力で抵抗してくるわけです。

そんなエゴとの相克に一進一退しているだけの日々、それがスピリチュアル的には現状のところの私ですね。

知識だけで、実践がまだまだ・・・。修行中。まさしくまだまだ修行中です。

本日のちょっといい話 294 思考基盤の転換(ダイヤー博士の言葉より)

まったく久々の更新となりました。年末年始と色々な出来事があり、とても更新する余力がありませんでした・・・
担当する施設が変わり、てんてこ舞いしており、それは今でも継続中です。帰宅することが激減し、施設の中に生息しているような状況になっています。執務室がMy Roomになり、隣接の和室が寝室になり、スタッフや利用者が家族のような・・・住み込み状態なわけで、なんかプライベートというものがどこかへ消えつつあります(涙)

そんなことは、ともかく、では、ちょっといい話 294 に入ります・・・

ウェイン・W・ダイヤー博士著の「『言い訳』をやめるといいことがたくさん起こる!」からの抜粋です。

人生から制限をとり払っていくと、知的な方法から、スピリチュアルな方法へと人生の比重が移って行く。それはなぜだろうか?

自滅的な習慣と、それに伴う言い訳は、エゴの領分、つまり私たちの中の神から切り離された部分だからだ。

ほとんどの人は、自分のアイデンティティはこの世のものだけだと思い込んでいるので、自分が何者かについて「エゴの偽りの解釈」にコントロールされ、操られてしまっている。

老子は私たちに「物質界における浅薄な野心とのつながりを断ち切らないかぎり、長年の習慣に隷属し続けることになる」と警告している。

長年の習慣を排除するとき、「宇宙に協力してもらえるか」と六つめの質問を自分に問いかけたとき、あなたは次第に「自分は物質界だけに生きている」という信念を少しずつ手放していく。

すると、たとえ最初は赤ん坊のようなおぼつかない歩みであっても、やがて驚くべき「新しい存在」に生まれ変わる扉が開かれるのだ。

あなたが元来もっていた「純粋な力」を取り戻すときがきた。それは今、あなたの内面にある明晰さと光のことだ。それは、これまでもずっと、そこにあったものである。

これが「さとり」と呼ばれる、自分の内面にある光にアクセスする瞬間だ。あなたはそこで神の導きを見つけるだろう。今こそ世俗的な野心を捨て、神に導かれた方向を見るときだ。

「万物の源」は純粋なエネルギーであり、物質としての形はもっていない。

本書で繰り返し述べてきたように、あなたはこの源から生まれ、いつかはそこへ帰っていく。その無限のパワーにアクセスするために、肉体的に死ぬ必要はない。源により近いものになればいいのである。

あなたが源(または神、タオ、宇宙の心、精霊)に近づいていないとき、あなたはエゴに支配されている。それは「言い訳が必要だ」と考えているときだ。

そして老子は、「神と切り離されている間は、神の導きにアクセスするための秘法は明かされないだろう」といっている。

エゴを排除しなければ、「存在の源」の意志を知ることはできない。

創造が行われるとき、エゴがひたすら「貪ろうとする」のに対し、源のエネルギーはただ「与える」だけだ。

だから宇宙のエネルギーと同調するとは、焦点を「これによって自分はどんな得をするだろうか」から、「自分はどんな役に立てるだろうか」に移すことなのだ。

本日のちょっといい話 293 パターンを変えて見る

脳の働きの中で、「意識」が占める割合はわずか5%であり、残り95%は潜在意識であるそうです。

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またこの「意識」というものは、一秒間にわずか数十個の刺激しか処理できないのに対して、潜在意識は一秒間にに数百万個を処理しているというのです。

つまり、私たちは、この無意識の世界の「潜在意識」による自動操縦をされているようなものなんですね。

そして何をどう『意識』したところでこの「潜在意識」というものはコントロールできないが、信念や考え方ひとつで影響下に置くことが可能であります。つまり「意識的に選択」するということを、無理だと諦めれば、過去の習慣的な選択をし続けることになり、人生は無意識の支配下に置かれてしまう。ただ、選択することを意識することで、新しいパターンが生まれ、今まで「自分を支配していたいつものパターン」から脱却することになる。

いつもの繰り返しに対して、「自分はこうだから仕方ない」と思い込めば、そのままの人生が展開してしまう。ただ、繰り返しをすることを意識的にやめて、「選択」することで、パターンは崩れていくのですね。自動操縦を手動に切り替える勇気だけが必要というわけです。

ただ、難しいには難しいのです。

感情は不安をかきたて、頭の思考は基本がネガティブだから、早々には能天気にはなれないのです。だから、なんとなく、希望と期待と前向きな精神なんてものをキープすることは困難なんですよね。

で、いつものパターンに戻ってしまう。

ただ、そのいつものパターンが自分にとって好ましくないのであれば、ともかく、行動パターンだけでも変えてしまうことです。そして、思考がグルグルと展開し始めたら、なんであれ、深みにはまらないように思考の暴走を止めてしまいましょう。考えたって、あまり楽しくない思考なんですから、止めるのも簡単です。先の先を読もうなんてことも、今まであまり役立ったこともないのですから、もうシミュレーション・ゲームはやめることです。

そして、軽佻浮薄と言われても良いので、何かに浮かれていれば、また運は巡ってくる。

そんなパターンを、新しく経験して行けば、きっと、今までの人生とは少し違ってくるはず。

気を散らす、考え込まない、そんな「意識」が基本になってくると思いますね。
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livedoor プロフィール

pape2005

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大昔、暴れん坊の悪ガキ。少し昔、おごりたかぶる勝ち組ビジネスマン。そして今、「見ろよ、青い空〜白い雲〜」の歌の境地。
皆さんの日々に、活用できる情報の発信媒体が、このBlogの主旨です。日記じゃないので、過去記事もめくって下さい!
papeは、我が家の雑種犬の名前です。(フランス語で「法王」ですが...許し給え、アーメン)
FP2級技能士だったり、メンタルケア心理士だったり、フランス歴史オタクだったりですが、スピリチュアル系記事多いです。
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最新コメントの管理は徹底していますので、過去記事にも、遠慮なく一言どうぞ〜!


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