三軒茶屋駅(新玉川線)

世田谷区の三軒茶屋、というと高級感のある「世田谷」という響きがやや親しみやすいトーンになる。確かに同じ世田谷でも成城とかになると高級感があるが、三茶はむしろ昭和レトロな風情が残る一帯ですね。


私の実家はそんな世田谷の太子堂という地区にあります。これはもう地名としては三軒茶屋の隣接地区ですが、私の実家のある2丁目は三軒茶屋銀座商店街の所在地でもあり、どっぷりとこの「三茶」地区の中になります。


今ではおしゃれな商店街になりつつあり、私の娘などは嬉々として三茶散策をしていますが、私の体感した三茶はやはり昭和40年代のゴチャゴチャした下町風の商店街でして、今でも感覚の中にそんなやフィルターをもってこの三茶という街を見てしまいます。


昔の周辺



すでに昭和40年代、つまり1960年代から70年代にかけての三茶は写真集も出ているほどにレトロなものになってしまいました。しかし私の感覚の中ではリアルで3Dな世界として展開しているんです。

兄弟



共にそんな三茶で少年期を過ごした兄を昨年の10月に亡くし、当時の懐かしい思い出を語り合える相手を失ってしまいましたが、三茶を懐かしむ多くの人たち同様に、今でも三茶を歩いていると心が穏やかになり、知らぬ間に遠い昔の白黒写真の中にタイムスリップしてしまいます。山田太一の「異人たちとの夏」みたいな。

やはり昔の三茶にノスタルジーを感じていた兄が見せてくれた当時の写真集の中に、下の谷商店街(茶沢通りから三宿へ繋がる道筋)の一画にあった材木屋の画像(母に訊いたら、福島材木店という店らしい)があったんです。下の谷は実家からすぐの商店街なのでよく足を運んでいたところなのですが、私はこの材木屋が今でもあると思っていました。「おいおい、あるわけないだろ! もうとっくになくなってるよ」と兄に笑われました。・・・そんな具合に、記憶は混沌として、現在と過去が私の中ではまだ錯綜しているんです。

私は結婚によって実家から出て、区内の喜多見に引っ越し、一時は太子堂5丁目に戻りましたが、その後は多摩ニュータウンへ。そして練馬を経て今の西東京市に住んでおります。三茶を離れて30年が経過しているわけです。しかし、昭和女子大の側へ国道246を渡る歩道橋は、私が小中高と使っていた歩道橋と同じだと思います。(何度か塗装工事はしていますが) 茶沢通りの西友(かつては緑屋百貨店)に向う裏道にあるアパートは当時のままだし、その向かいにある木造家屋も、また坂道の途中の家の石の段々も同じです・・・。
昔からの歩道橋昔からのアパート昔からの古家
飛び降りて遊んだ石段昔から大きな家昔からの古家

そんな具合に、ふと時の流れが止まっている空間が私のフィルターに映し出され、それは少年期の夏祭りやいたずらや戦争ごっこなどの思い出へと、不可分な時空として私をトリップさせてしまうんです。



そこいらの街中を歩いている時の私は、まさしく都会人らしくタカタカと足早に先を急ぎます。でも、この三茶だけは、どうしてもそうは行かない。あちこちに私を過去へと誘い込むようなワームホールが用意されている。そのホールによって、たちまちに私は過去のワンシーンの空気をリアルに感じ、しばらくタイムトラベラーとして、フラフラと昭和40年代へと浮遊してしまうのですね。

茶沢通りの縁日の露店の喧騒や裸電球の光、巻玉鉄砲の火薬の匂い、赤チンを膝小僧に塗ったくって走っている少年たち、そんな当時の何かの思い出シーンが、ほんの一瞬ですが再生されます。それはどれもこれも、今の自分の殺伐とした心を確実に癒してくれるのがまた不思議ではあります。

歩道橋で通りを見下ろす兄弟
この写真はCedarの今昔写真日記さんの「昭和41年、三軒茶屋の玉電」という記事からの拝借なんですが、歩道橋の上の左方に、眼下の国道246を見下ろしている兄弟の背中が見えますね。
私の実家は左手の太子堂2丁目なのですが、当時、私たち兄弟は国道の向こう側にあった武笠眼科(現存)に通っていました。Cedarさんの同記事の別写真にも「武笠眼科」の看板が写り込んでいます・・・。この歩道橋はもうありませんが、行き帰りに兄と歩道橋の上で往来の玉電や自動車を眺めていた記憶があります。
昭和41年ですと兄が9歳、私が7歳。この写真に写っている二人は、もしかしたら私と兄なのかも知れない・・・
(より鮮明な画像はリンク先でご確認下さい。素敵なBlogです)