序章

母の死去からもう一ヶ月が経ちます。母の残した手記などを見ていると、父が亡くなってからの17年間は、子供らの心配ばかりの記述です。兄の子供らは今は立派に成長し、地方公務員、国家公務員として働き盛りを迎えておりますが、幼少期は病気がちでした。それに続いて兄貴自身が難病に罹ってしまい、長く闘病していましたので、ずっとそんな心配事が絶えなかったわけです。

手記
母の手記

ですから、手記に出てくるのは、兄一家のことが多くて、私を心配したことは、金融機関を退職した2011年頃だけです。兄の誕生日には必ず「〇〇の誕生日。ともかく病気が治って欲しい」と書かれています。しかし私の誕生日は「今日はお父さんの〇〇回忌の法要。△△一家も元気そうだ」とあります。父の命日は私の誕生日と一日違いで、その件で終わり。△△一家は法要で会った私ら一家です。

思えば、過去記事でも書きましたが、あの東日本大震災の日に実家に泊り、4月末で退職すると宣告した時から始まった次男坊のトンデモ計画への不安が、母への負担になっただけなのだから、まぁ、あまり手のかからなかったヤツとして良しとしましょう。

ただ手記には「帰宅難民となった△△が泊まってくれて良かった」とありますが、帰宅難民とか関係なく母を心配して泊りに寄ったのが事実。夜のニュースで東京の交通網が麻痺して、帰宅できなくなった人々が大変なことになっている、と報道されて初めて「俺は帰ろうにも帰れなかったんだなぁ」と知ったんですよ。

無職への道 解放感から根無し草感へ

そんなことはともかく、28年に及ぶ金融マン生活から解放された私は、母の心配を余所に、快適な無職ライフに突入しました。しかし、タモリが「笑っていいとも!」を終了した時、念願の「朝からビール」を始めたものの、二週間したら、なんの感動もなくなったと述懐していますが、その通りでした。

会社組織からポツンと離れて、一介のただの人になると、なんとも心もとないような、根無し草みたいな感覚になり、解放感とはほど遠い、漠然とした不安感を中心とした軽度うつ状態に苛まれてしまいました。失業手当の申請でハロワなんて行けば、自分の市場価値がどれだけ低いかが嫌というほどに分かりますし、帰路に違反で切符きられた時も警官に「ご職業は?」と聞かれ、一瞬冷や汗が出ましたし。(すでにNPO法人を設立していましたから、無収入ですが「団体役員」と答えてかわしました。まぁ、正真正銘の無職なんですが一応)

ハロワ
              行ったのは清瀬ハローワークじゃありませんが。


外出の折に、軽トラで走っている作業着姿の工務店社員を見たときに、「あ〜、あの人たちは今日も仕事をしてんだな」とか羨ましくなるし、交通整理で誘導棒を振っているガードマンを見て「仕事があり、帰りに一杯飲んで愚痴れるんだなぁ」とか思ってしまう自分に気付き驚いたものです。

マズローの「所属欲求」が失われたが、また前職に戻る気は全くなしという、なんとも言えない半端な精神状態です。〇〇会社の社員、とか「サラリーマン」とか、そういうアイデンティティが喪失された不安定感なんでしょうかね。

ハロワでは金融機関時代に取得したファイナンシャル・プランナー資格は勿論、個人的に取得した心理士資格やメンタルケアマネジメント資格なんて、ものの役にも立たない現実を知らされました。また営業の業績を上げただの、人材管理をしていただの言っても、歩合給の外務員の仕事しか出てこないし、20万円の給料以上の職種はすべて、電気工事士だの指導員資格だのと、有資格者の募集しかない。

ハロワPC
                    ハロワの求人票検索機

つまり、52歳のオヤジは、医師や弁護士、社労士、経理士などの余程の国家資格がないと、そこいらの学生バイトなみの価値しかないのです。学生は若いから、それ以下か。

そこでハロワの担当も「正社員は諦めるというのも就業の早道ですよ」とありがたくもないアドバイスをしてくる。余計に萎えます。

もちろん、起業の計画はありました。従業者支援事業(EPA)をメンタルケアで行い、企業の労災リスクを軽減する、というNPO法人の有償事業。自殺者急増で、うつ病が五大疾病に認定され、ブラック企業叩きが盛んになってきた情勢にマッチした事業で、様々な準備もしていましたが、DM200通に対して1つの問い合わせもなく、失業手当支給が終了する頃には見事に頓挫。

ハロワ・就活への道 ミドルコーナーで藁をつかむ

ハロワの求人データ以外のデータがあるという、東京しごとセンターを紹介されて、そこのぎりぎりミドルコーナー(54歳迄)に藁をもつかむ気分で行ったら、キャリアカウンセラーとの面談で、出身大学と学部を話すと「あそこの大学は福祉系の資格がしっかりしているから」と言われ、成績証明をとるように勧められました。

というのも、デイサービス等の介護施設の求人は多く、ある科目が3科目単位とれていれば「生活相談員」任用資格取得者になれ、普通免許もあれば送迎もできるし、かなり採用の可能性が高まる、というのです。うちの大学が福祉系に強いとは初耳でした。文学部史学科西洋史専攻には知る由もありませんが。

東京しごとセンター
                     東京しごとセンター

老人介護なんてヘルパー資格すらない自分には縁のない業界だと思っていたし、送迎業務や相談業務ならばできるかも、と介護業界を希望することにしました。(あとで思い知ることになりますが、送迎だけの係なんてないし、相談業務なんて個別業務としてはない。大規模施設なら別だが)

そこで30年ぶりに大学の学事課に行きました。初めて行くようなキャンパスです。在学中もほとんどサボっていたのは「サボりまくりの大学時代」で既述ですが、
既視感すらないほど新鮮でした(笑)


そこで「社会福祉主事任用資格単位修得証明書」とかいう証明書を発行してもらいました。社会福祉主事なんて難しそうな資格名ですが、これは、業界で「三科目主事」と言われているもので、文科系の大学ならば大抵は誰でも履修している一般教養課程の科目を3つとってればOKの証明です。

資格証明
                            社会福祉主事任用資格単位修得証明書(何枚も発行したが1枚で足りた)

ですから本人が知らぬ間に資格取得者になっている場合が多く、私が面接をするようになってから「大卒ならば成績証明とってきて下さい」と応募者に依頼し、成績証明書でチェックすれば、文科系ならばほぼ「生活相談員」の資格である「社会福祉主事ナンチャラ」がとれています。介護施設には、一日に一人は「生活相談員」がシフトインしていなければならないので、貴重なんですね。

キャリアカウンセラーは「介護業界は朝が早かったり帰りが遅かったりだから、家から近い施設を探すと良いですよ」とアドバイスしてくれて、求人票検索。「こんな近いところでいいのかよー。甘すぎるんじゃないの?」と疑問に思うような、自宅から各駅でも20分くらいのある施設を選んでくれました。

当時はまだ介護=ブラック、介護=過酷というマスコミ報道がされていませんでしたから、私は言われるままに一番近い施設に応募することにしました。今までどんな支店も一時間半はかかって通い、サビ残や居酒屋で帰りも遅く、朝も朝礼前のミーティングとかで8時過ぎには会社着して30年近くを生きてきた私としては、乗車時間20分で着けるような近場を選択することには若干の抵抗すら感じました。

介護への道はブラックから

それでも、その施設は50歳過ぎで、市場価値はゼロに等しい私を採用にしてくれました。送迎と相談員資格が効いたのでしょう。ただ、二次面接の介護事業本部長は少し私を警戒したようで、あまり年齢のいった男性は扱い難く、年下上司に反抗して社内を下剋上の混乱状態にするかも知れないというリスクを感じたようで、あまり面接は良い雰囲気ではありませんでした。あとからこの本部長にその時に感じたことを聞いたので間違いありません。「しかし、あなたをあの時、不採用にしてなくて正解だった」と感謝されましたが、それは後々、そうではないことになるので、本部長は直観を大切にすべきだったことになります。


ともかく、私はこうして金融機関時代に比べれば当然にかなりの安月給ではありましたが正社員として雇用されて、「定職」に就きました。

介護

まぁ、介護の現場の色々は省きましょう。もうこのBlogは始めていますから、2012年頃にあれこれと書かれていますし。

何事も金融機関に比べるとテンポが速くて、半年もいればベテランで、ケアリーダーとか役職名がつき、あれよあれよとケアチーフになります。そして2013年9月、入社1年半で施設長となりました。これは別に出世が早いとかではなく、手柄といえば、辞めずに残っていた、ということだけでしょう。まるで前線の兵士みたいなもので、どんどん戦死し、仕舞には上官も戦死し、自分が部隊長に繰り上げられた、みたいな。


やはり、先輩たちは若いし転職するケースが多いのです。確かに、残業してても残業代は当たり前のようにつかないし、休日出勤なんて当たり前だし、会議があれば夜だけ出勤し23時退社なんてザラ。ロング勤務というのが週2回はあり、それは日勤夜勤で、朝9時から普通にシフトインし、夕方に仮眠3時間後に夜勤に入り朝までとか。私のように覚悟を決めて再就職していれば、前職もブラックだけのことはあり耐えられますが、普通の若者なら無理でしょう。

というのも、本部長という人が介護業界でもブラック過ぎて行政からおとり潰しになったとある大手に勤務していた人で、ブラックとか労働法とかメンタルケアとか、そんな概念がゼロの人だったんですね。夜勤明けだって帰れないし、会議は21時から始まり、深夜3時とかまでやるし、スタッフを殴るなんてこともあるパワハラじゃ済まない御仁だったからです。

black-office_character_8496

私の施設はその本部長が直轄支配しているA事業所ではなく、B事業所だったので、それほどブラックではありませんでした。給与面は本部長管理ですから、当然に残業手当も休日出勤手当も出ませんが、会議を深夜までやるなんてことはありませんでしたし、明るい施設長だったのでスタッフの雰囲気は良かったです。だから対岸の火事として見ている余裕はありました。

しかし施設長は本部長と軋轢が色々とあったのでしょう。資金力のある人だったので独立して辞めると目論んでいました。漆黒のブラック企業で、明るく楽しい職場を施設長としてキープするのも限界がある。そこで着々とこの漆黒企業からの脱出計画を進めていました。私も誘われたら喜んでついて行こうと思っていました。

波乱その |出する施設長と取り残される私

そんな時、新設店舗としてC事業所が開設されました。実はこの企業は、母体はあるIT系の会社で、社長は全然介護は知らない人で、介護事業部はすべて本部長に一任されていました。しかし新設店舗の開設ともなれば莫大な資金が必要だし、当然に社長も資金繰りに口を出す。本部長は円滑な稼働を請け合ったのでしょう。C事業所の初代施設長に私のいる稼働率の好調なB事業所の施設長を任命しました。脱出計画進行中だと言うのに。

そこでB事業所の後任人事が問題となる。当然に副施設長が昇格するのが筋ですが、そこで何故か、ナンバースリーの私が任命されたんです。その理由は私がズバ抜けて優秀だった! と言いたいところですが、全く違くて、近々に実行する予定の彼の脱出計画にナンバーツーの副施設長も含まれていたから、自分の後任に私を推薦したわけです。要は、彼の脱出計画に、私は含まれていなかっただけの話です。

半年もして、私がB事業所の新任施設長として四苦八苦していた頃、C事業所の施設長に転任していた彼は退職し、私の部下になっていた副施設長も翌日に私に辞表を提出しました。それですべて露見。この漆黒企業に取り残されたのは私のみ、という状況になったわけで笑えます。

途方に暮れる


社長が業績推移に注目しているC事業所の施設長は、かつてB事業所で私の部下だったM君が昇進しましたが、独立前提で着任した前任施設長が新設店舗の業績をアップさせるなんて労力を注ぐわけもなく、業績は低迷中で、社長はカンカンでした。

本部長も大風呂敷を広げて新店の業績推移を保証したのが大コケし面目丸潰れ。しかし自ら陣頭指揮をとってC事業所の業績をあげろと社長に叱責されたにも関わらず、一向にC店に乗り込む気配もなく、会議で新任施設長を怒鳴り飛ばすばかり。社長も本業のIT事業に集中してばかりもおられなくなり、本部長の殿様ぶりに立腹。今までの全幅の信頼感にも影が射し始めました。

私が不慣れな業界とは言え、営業のコツは同じというわけでB事業所の業績(C事業所の開店に併せて、近隣の利用者をゴソッと移管した為に稼働は低下していた)を立て直した頃、毎日毎日、会議や電話で本部長に怒鳴られていたC事業所施設長のM君は、すでに精神的にMax、壊れ始めていました。(本部長は、ヘルプと称してC事業所に自分のA事業所のスタッフを派遣し、M施設長の仕事ぶりを内偵させ、会議の席上で告発し追い詰める、なんてヒマなことをやってました)
戦う
しかし、業績至上主義の会社で日々バトルフィールドを闘っていた私から言わせれば、この程度のバッシングで精神をやられるというのも脆弱です。前職の全店業績会議はもっと熾烈だったし、そもそも私の部下として営業ミーティングに出ていても、私にボールペン投げつけられて1ヶ月でメンタル崩壊必至でしょう。

波乱その◆C事業所施設長のご乱心

もともとはM君は爽やかで機転の働く好青年でした。しかし執拗に本部長から糾弾され脳の回路が熱暴走したのか、その頃は豹変し鬼施設長となり、ミス多発のある女性スタッフを家に帰さず、シゴキまくっておりました。溜まった鬱憤の不健康な発散なのか、もともとサディストなのか、考えられない暗黒世界をC事業所で展開していました。

怒る人
私がそれを知ったのは、M君がある会議の帰り道、かねがねスタッフが辞めるのはオマエ自身に上司としての魅力がないからだ ! と本部長から叱られていた矢先、また女性スタッフが無断欠勤していると私にボヤいたのがきっかけでした。

そのスタッフが退職ともなれば、M君はまた窮地に立たされます。そこで、その足で、その女性スタッフのマンションに行き、説得しようということになり、車で向かいました。


私は、オートロックの彼女のマンションでM君を連れて訪問したところでロック解除はしてくれまいと思い、M君を車に残して一人で行くことにしました。スタッフは大抵は施設長に反発して無断欠勤・退職となるものだからです。

そして「本部長の命令で直接事情を聞きに来たから開けてくれ」とインターフォンで話すと、ロックは解除されました。

そこで「無断欠勤なんかして、どうしたの?」と彼女に訊いて、初めて事件の全容が詳らかになった次第です。

私は驚き、もはやパワハラどころの話じゃないし、その場で本部長に連絡し、この女性スタッフを明日からA事業所に転勤させるという異例の人事異動を発令してもらいました。彼女はそれならば仕事は継続したいと涙を流しながら感謝してくれました。

泣く人

私は車に戻るとM君に、明日から彼女はA事業所勤務にしたからとだけ告げました。もはや彼の行なっていた異常行為は「同僚を庇う」のノリではカバー不可能な次元でしたので仕方ありません。

私はその日、夜勤だったのでいつまでもM君とは一緒にいられないので、明日になって自分の所業の全てが本部長に知らされることを覚悟した彼は、私には何も告白しないまま自分の事業所に帰りました。

そして、翌朝、夜勤明けの私にC事業所のスタッフから電話が入り、「M施設長が出勤しません。事務所の私物が整理されているし、おかしいんです」と。

つまり、M君は失踪したわけです。常軌を逸した行為をしていたわけで、失踪もやむなしですが、どうしてこんな破滅的な所業に走ったのか....。その心理は不明のままです。

仕方なく、私は夜勤明けでシフトに入っていないし、C事業所に向かい、現場スタッフらの混乱の収拾に努めました。そして、個別面談し、例の女性スタッフの事件の真相を聞き出しました。詳細は省きますが、暴力的な行為はなかったのが救いでした。但し、自分のスパルタ行為が、会社の承認のもとでやっているのだから問題はなし、と他のスタッフにMが話しており、B事業所の私なども知っているとみんなが思い込んでいたのには、驚き呆れました。

波乱の収拾「私がやります」「俺はウソをつかない」の巻

本部長から電話があり、「どうする? C事業所の施設長不在というわけにも行かないし…」と言うので、「私がやりましょうか、仕方ないから。B事業所は私の部下に施設長やらせて、2店舗面倒見ますよ」と私は上司の期待する最高のセリフを口にしました。「男だねー!」と囃されそうなきっぷのいい発言です。

任せろもう背広は着てないし外人でもないしイメージ全然違いますが

頭にあったのは、開設1年なのに依然と低稼働で利用者の少ないC事業所なんて、昼も夜も楽に決まってるし、そもそも新築でキレイな店だし....というとってもアホな未来予想図でしたが。

しかもB事業所で私が育成した副施設長には、M君が施設長に就任したときに、その補佐役としてC事業所に異動という話があったのを、俺が必ず施設長にしてやるからと思い止まらせた経緯がありました。全然根拠のない空手形でしたが、想定外の今回の出来事で約束を叶えてやれる成り行きとなり、「私はウソは言わない」を証明する預言者か大統領候補にでもなった気分でした。

どちらにしても、大した理由もなく安請け合いしたわけです。

施設長というのは、東京都に登録しないとならないのです。ですから急いで辞令をもらい、中途半端な日付ですが、登録申請しました。それより厄介なのは、取引先への説明です。いきなり挨拶もなく施設長が消えて交代ですから、簡単には済みません。広島の地元に帰省し、現地で病気が発症し、命には別条ないが復帰は無理でそのまま広島の実家に戻った、という意味不明の説明で逃げ切りです。

また引き継ぎなしでの着任ですから、取引先のケアマネへの挨拶は単身で回りましたが、あとは出たとこ勝負で、しばらくはヒヤヒヤものの毎日。それらが収まったら、今度は、本社の社長も注目しているC事業所の立て直し戦略です。戦略と言っても、ひたすら関係各所に営業回りするしか方法はなく、非番の日は休みもなく営業回りの日々です。「綺麗な施設」とか「利用者少なく楽な現場」とか「私はウソは言わないの証明」とか、そんな甘々なメリットはたちまち吹き飛びました。

それでも、さすがは金融機関で過酷なノルマ戦を長年乗り切ってきたメンタリティーは捨てたものではなく、業績は案外と早々と上がり、上りついでに全国稼働率のトップまで上り詰めるという快挙。7881

これで、適当なゆきあたりばったり人間の私も、格好がついてしまいます。失踪した施設長の後始末を自ら買って出て、会社の懸案事項だった事業所の業績を全国トップに跳ね上げた、となれば案外イケテルと思います。

B事業所 反乱により落城

但し、私が抜けたB事業所が今度は火を噴いてしまいます。元々が高稼働店(やはり全国800店のトップ)だったところですから、それを維持すれば新任の施設長でも問題なしと思っていたのが甘かった。とんでもない稼働率に落ちてしまっていたのです。

今度ばかりは、本部長が乗り込んでB事業所の立て直しにかかりました。社長から前回、自ら動かないほど、あんたは偉いのか? とキレられた経緯があったので、今回は観念したのでしょう。

喜んだのはA事業所のスタッフらでした。長年、本部長直轄の店舗で、毎日、反省会が深夜まで及び、女性スタッフですら施設に泊まるハメになっていた事業所ですから、大革命で解放された民衆のごとき喜びようでした。

明暗が反転し、氷河期に突入したB事業所ですが、本部長は机と椅子と本人だけが乗り込んで、事務所で一日の営業報告を聞いて怒鳴るだけ。営業地図や営業ツールの作成は深夜に及び、事務所の美化しか自らの手を染めない殿様ぶりは変わらず。創業当時はB事業所で活動していたメリットを営業で活かせと社長に言われていたにもかかわらず、所内に籠ったまま相変わらずの司令塔。最前線に出ない参謀本部みたいな存在と化していました。

馬上の武士ここからなぜかイラストは時代劇に



得意分野は一日のサービスのタイムスケジュールの厳守と提供するサービスの質を講釈することなので、営業して稼働を上げる局面なのに、毎日現場スタッフのダメだしと反省会。そして一日をどんなサービスで展開させて、どんな楽しみを提供するかを考案し、アイテムの作成をし、インカムを使って実地に指導する日々。これではただスタッフに余計な負荷をかけるだけで、稼働回復には繋がらない。


好きなジャンルに特化して、求められている仕事はやらない。それだけなら可愛いが、その特化したジャンルを物凄い過重労働をともなう究極のこだわりをもって指導するので、現場スタッフの心身は疲労困憊する。精神も肉体もボロボロになる。それを見て「キミらはまだまだ甘い」と言い捨てる。

ついには、かつて私の元でお気楽な日々をエンジョイしていたスタッフたちが大反乱を起こして、全員が辞表を提出という事態に至ります。そして、戦艦バウンティ号の反乱のように、B事業所は閉鎖となってしまいました。

なんで、こういう人たちは、自明の理とも言える結果なのに、それに突き進んでいく意味不明の信念があるのでしょう? 失踪したM施設長もこの本部長もそうですが、究極の状況下で不屈の闘志を燃やす勇敢な英雄のような信念で、まったく話にならない状況を一生懸命に現出して、破局への道を猛進していくんです。理解不能としか言えません。

社長との密約 謀反への道

施設もスタッフも消え去り、再び2店舗に戻った我が社ですが、私は稼働が安定したC事業所でマイペースな日々を送っておりました。変わったことと言えば、本部長が戻ったA事業所に再び氷河期が到来したことくらいです。

幹部スタッフにとってはちょっと気になる変化もありました。それはこの頃から本社社長が介護事業部を訪れることが多くなったことです。

今まで、正月にスタッフへのお年玉を届けに各事業所に顔を出す程度の社長でしたが、この時期からちょこちょこA事業所の本部長のもとへ訪れるようになったらしいのです。A店の施設長から聞くところによれば、社長が大声を出しているようなこともあると言います。


それはそうでしょう。自ら陣頭指揮とって稼働回復に出向した事業所がそのまま業績低迷し、その上に全スタッフが辞表出して辞めてしまい閉鎖となった責任問題は客観的に大きい。社長もさすがに不安になったのでしょう。

殿様2

そして、B事業所事件も収まったある夜、社長から私にC事業所に行くから待っていてくれ、と連絡が入りました。

当然、私は何事かと訝りました。社長なんて、
まともに口をきいたこともないし、私に用がある
はずもないからです。


free5-59
社長は事務所に入ってくると、「本部長に言わせればあなたが右腕とのことなんで、今まで介護事業部のことは本部長からしか聞かなかったけれども、これからはあなたの意見も聞いて、僕自身がしっかり判断していこうと思うんですよ。
だから内密にして欲しい」と開口一番に言い始めます。


右腕も左腕も退職してしまった今、いよいよ俺は事業部のナンバーツーに繰り上げ当選か。だったら「副本部長」とか「本部長代理」とか肩書くれよ、とかサラリーマン気質の私は一瞬そんな思いが脳裏をかすめます。

「とおっしゃいますと、どのような話をお聞きになられたいのですか?」と私も単刀直入に尋ねます。

「うん、それなんだけど、前からずっと気になっていたことがあるんだよね。この事業部はいつも職員募集の広告宣伝費の申請があって、そのあとにちゃんと採用もしているが、すぐにまた募集かけている。それって、せっかく入社した職員が何らかの事情ですぐに辞めてしまい、また欠員が発生しているってことだよね?」

社長の意図は見通せました。ブラックゆえにすぐ辞めてしまう体質の内部告発を期待しているのだろう。B事業所での大量辞職もあるし、今までも、私が一次面接を通して採用した職員の尽くが、A事業所に配属されると、1〜2ヶ月以内に退職し消滅している。たまにA事業所の施設長に電話して「新人の〇〇さん、元気でやってる?」なんて聞くと、ほぼ確実に「もう退職しましたよ」と返事がかえってくる始末。まさしく異常事態です。

ただ、私はこの時、サムライの本能を呼び覚ましました。自分を右腕と指名した上司を、こんな介護業界も知らない素人の社長に売ることはできないと。

サムライ


そこで、介護業界の人材確保が全国的にいかに困難な課題として問題視されているかを社長に説き、職員の定着は至難で、それゆえに閉鎖になってしまう事業者もいるのだと長広舌をふるって本部長を弁護しました。まるで極悪人を弁護する国選弁護人みたいな気分でしたがサムライだから仕方ない。

「それを聞いて安心したよ。なんかおかしなことが起こっているような気がしてね。本部長は役員待遇だから解任も考えていたんだ。もちろん本社で引き取るけどね。C事業所はあなたが立て直してくれたが、あの時も本部長はデンと座ったきりだったし、B事業所の時も、営業には回っていなかったようだし、ちょっと不信感を抱いてたんですよ。これからは、あなたの意見も参考にしていきたいので宜しくね」と言って社長は去って行きました。

ブラックで労働災害なんて起こしたら、社長の責任になるし、心配するのも無理はないです。しかも今回の一連の事件は、業績の問題でもあるし、不信感を抱くのも当然だ。しかし、聞く相手を間違っている。俺はサムライなんだ、とその時は思ったものでした。

しかし、このような現実の内情を隠蔽して、果たしてそれが正義か? という疑問も残る後味の悪い会見ではありました。

サムライ、刀を抜く

翌日の朝、A事業所の副施設長がたまたまC事業所に用があって来訪しました。もともと目の細いヤツなので、冗談で「眠そうな顔してんじゃないよ」と声を掛けたら、「眠いですよ、さすがに」と開き直るんです。目が細いからではないようです。「昨日だって会議終了したのは午前3時ですからね。今朝は私は送迎係なんですが、寝てませんよ」と言うんです。

私は「大変だね、そっちは。まぁ事故だけは気をつけろよ」と軽く言って会話は終了させましたが、途端に考え込んでしまいました。

考える侍

昨夜のサムライ感は吹き飛び、自分がとんでもないチャンスを逃すことで、全社員をこの地獄から救済する機会を逸したのではないか? と。社長と直接、内密な話をするチャンスなんて滅多にありません。その最大の機会を、自分はサムライ気分でフイにしてしまった、とんでもないバカだと。

自分が主君に忠実なサムライであることを、全社員の地獄と引き換えに選んだ卑怯者だと今になって理解したわけです。一晩でサムライどころか卑怯者に転落です。何が正義かを心に問えば良かった、と後悔しきりでした。A事業所の惨状は、もはや対岸の火事にしてはならない。

社長から意見を求められた以上、もう一事業所の施設長で思考するのではなく、介護事業部全体を俯瞰しなければならないのだ、とワンテンポ遅い決意を固めましたが、後の祭りです。

それから事業部での会議でも、本部長が「ちょっと色々あったが、なんとか私は首の皮一枚で本部長に留まれたし、これから気持ちも新たに頑張ろうと思う」とか言い出したり、社長とモメたことを仄めかすようなことが多くなりました。首の皮一枚は俺の発言でつながったんだぞ、あんたはこれ以上頑張ったら余計にダメなんだよ、とよっぽど言ってやりたかったです。

ところが、私が後悔してウジウジしている期間は案外と短く、神は奇跡を起こしてくれました。

なんとも不思議な展開なんですが、また社長から連絡があったのです。「ちょっとそちらに寄ります」と。
用件なんてどうでもいい。会って直接話せるのなら、なんだって構わないと私は覚悟を決めて社長を待っていました。


社長の用件は、なんでもないことでした。「これからはあなたの意見も聞いていきたい」ということを話すだけの用でした。確かそれは前回にも聞いた申し出で、私は了解したはずでした。それをわざわざ話しに来訪するなんて、不思議な出来事でした。言ったことを忘れたのか? そもそも言わなくたって、また話を聞きに来所すれば良いし、気になるなら電話一本で事足りるではないか。ともかく不思議なリトライの絶好のチャンスが到来。私は今度は迷わなかった。謀反

「前回、申し訳ありません。上司を庇おうと私はウソをつきました」と私が言うと、社長は身を乗り出し、先を促しました。「実は、事業部では私が入社した頃からずっとですが、社長にとっては看過できないであろう状況が続いているんです」..........

ともかく洗いざらい全部を告白しました。
サムライは明智光秀になったのです。


「そうか、やはりそうか。思ってた通りだったか。それを聞いて合点がいきましたよ。分かりました。来月一杯には処置します。それで、その後はあなたが介護事業部をまとめてくれますね?」

という話に展開し、明智光秀は天下をとったわけでした。しかも織田信長を滅ぼすのは社長だし、信長の弔い合戦を挑んでくる羽柴秀吉も柴田勝家もいない、気楽な立場の光秀でした。

クーデターの成功 ブラックの終焉

まぁ、泰平の世をつくろうと思ってのことなので、本部長の追い落としは必要だったし、その後釜に座ろうなんて野心は副産物みたいなものでした。

社長は約束通りに本部長を解任し、本社の人材教育部署とかへの異動も提案しましたが本人が望まず、退職という結果になりました。メールのやりとりの履歴が本部長のPCに残っておりましたが、かなり酷いののしり合いを展開していたのが確認できます。心は痛みますが、身から出た錆です。あれだけブラックな運営は許容の範囲を超えており、詳細は伏せますが、A事業所の色々な事故を見ても客観的に極めて危険な綱渡り的な運営であったことは確かです。

日の出の

こうして、我が介護事業部にも創業以来初めてと言えるような春が訪れました。サビ残なし、利益の配分あり、休出もなし、有給消化あり、当然に長時間会議なんて廃止。そして退職者も皆無となり勤続3年以上の職員が一定数いる事業所に請求が許される加算までとれるようになりました。ブラックな夜が明けて日の出の刻を迎えたのです。


私は、クリーンな運営ともなれば当然に今までより人件費は急増するわけですから、相変わらず稼働率との闘いを展開しておりました。各施設長と同行しての営業回りの日々です。

最後の決戦は文科系的理由から勃発
bushi_yoroikabuto

そんな何年かの末に、2018年12月26日の記事「近況・・・独立戦争」にある通りの経緯の末に、事業を本社から買い取って、独立して社長になりました。思えば金融機関退職し再就職してから6年と8ヶ月しか経っていません。6年くらいならば、ひとつの支店にいる間にでも流れて行く年月です。本当に目まぐるしいほどのテンポの速さです。

その記事にも書きましたが、独立を決心したのも、社長が週1回本社で開催していた強制参加のヘビーな2時間ストレッチが嫌で嫌でたまらなくての瞬発力みたいなものでした。

いきなり屈伸50回、腹筋50回、腕立て伏せ50回とかから始まり、曲に合わせて飛んだり跳ねたりする私の大嫌いなエクササイズや「エイ!ヤー!」とパンチや蹴りをするボクササイズも余興として含まれ、ともかく「筋を切れ」と過酷な運動を2時間します。ブートキャンプかよ!  という感じです。
落ち武者
そんなある日、生来の運動嫌いの文科系ヘタレですから当然汗だくでヘタっている時、トレーナーが「ハイハイ、いつまで休んでんの !」と囃す声が響き、社長を神と崇拝する本社社員が「はい、次いきましょー」と元気に立ち上がってる様を見たとき、心の底から湧き上がるような声「独立してこんな世界からは離脱してやる !」が聞こえたわけです。


それから、事業買取、独立開業のすったもんだが本格スタートしたのです。

なんともドラマっぽいストーリー展開も、こうしてプロットとして因果関係をちゃんと語ると、私の場合は、拍子抜けしたようなノンシャランな有り様になります。しかし事実だからそれは仕方ありません。基本姿勢は常にノンシャランなんです。気高き思想なんて、あっても少し。人に話す時に、ちょっと味をつけて色を添えるために口にするだけです。

私の回想録なんて誰も読みそうにありませんから書くことはないでしょうが、もしも書くとしたら、本音カット、全面大義名分で書き尽くしますね。「すべてが事実ではないが、すべてが嘘でもない」と豪語した歴史小説家A.デュマの名言のとおりに。それならば、案外とイケるストーリーに仕上がります。でも背筋が寒くなります。
お断りです(笑)


江戸城2