地下鉄(メトロ)にのって …★★★★☆☆☆
私的女的世界観的評価 …★★★★☆☆☆
2006年
監督:篠原哲雄
脚本:石黒尚美
出演:堤真一/岡本綾/大沢たかお/常磐貴子 他
浅田次郎/1994年/徳間書店
第16回吉川英治文学新人賞
「地下鉄(メトロ)にのって」です。
通常のココらしい観点でも色々感じた映画でした。
が、いかんせん、食わず嫌いの浅田次郎。
小生の中では、
宮本輝、天童荒太、浅田次郎
(そしてついでに、「一杯のかけそば」)
という図式がありまして。
ええ、どれもオトクイの「第一印象論」です。
その上で。
今回は、がっつりと、物語を味わってみます。
(ナンテ珍シイ!!…
SW・EP3以来ダワ!!)
…はい。
小生は女性ですので、
徹底的に、女性の視点から、この映画を味わってみよう
という企画第2弾です。はい。
岡本綾、という女優を、
小生、寡聞にして、
スキャンダル以外では認識しておりませんでした。
(つまり、スキャンダルにしても、
「誰のこと?」
程度にしか把握してなかったってことです。)
今調べてみると、
見事なくらい、観ていない女優でした。
で、どういう事をやる人なのか、
全く知らないのですが。
す、すごいですねええええええ、この人!!!
んもー、びっくりです。
なんでこの人に今まで当たらなかったんだろう。
意味判んない。自分。
という訳で。
先述した通り、
「ココ、午野棲らしい」
映画評は、今回はさっくりすぱっと抜きます。
で、以下に書くことは、
「岡本綾だから」
「この人が演技上手だから」
「この人が美しいから」
云々、
なのか、
はたまた
「ホンが良かったから」
なのか
「撮り方が良かったから」
なのか
etc.
は、不問に付します。
がっ。
それでも、
「この人は良かった」と、
これは、言い添えておかねばなりますまい。
(パドメ=ナタリー・ポートマンとはエラい違い)
****
この映画。
結構酷いんですよ。
作り云々が「拙い」の「酷い」ではなくて、
「人として酷い」。
この「酷さ」がつまり、
宮本輝、天童荒太、浅田次郎
と並べる端的な理由でもあるのですが。
もう一度、はい、リフレイン。
「美しけりゃ、何やっても良いのか?」
小生は女ですので、
をいをいちょっと待て、
と思う訳です。
それ、アリなのか?
愛をそこまで都合よく美化するか?
と、そう感じる訳です。
やってらんねー。
が。
きちんと物語として、
「女」を脳内でなぞり直すと、
すんごい怖い話でもあるんですよね、コレ。
そういう観点を語ってくれてる感想を見つけられなかったので、
よし、やってみよう、
と、そういう次第です。
****
この映画。
もう一人、素晴らしい人がいて、
それはもちろん、堤真一です。
ここ数年?かなり買ってる役者さんなんですが、
これ(と、再放送中の「恋におちたら」)でつくづく思ったのは、
「なんと色っぽい男なんだろう!!!」
ということでした。
小生、オンナとして、堤真一にヤられた。
と言っても、過言ではありません。
ステキ過ぎvvv
(付け加えると、相当におカオが良く無い限り、
こういう事はありません。)
岡本綾も良いんですが、
この、堤真一の「男としての色気」が、
女の物語を恐ろしい程肉付けしている。
****
ネタばれ、いきます。
嫌な方はどうぞ閉じて下さい。
岡本綾(みち子)は堤真一(真次)の愛人な訳ですが、
実は真次の腹違いの妹であり、
それを知っていて、
知っていながら黙っていて、
肉体関係もばっちりもって、
んでそれがバレるとなった時に、
自分を孕んでいる母親を突き落とす事で
「私は生まれなかったコト」
にして、
んで、消えていく。
すげーなぁ
と、思う訳です。
とんでもねーなぁー
と。
「悪女」ってつまりコレじゃね?
と。
「悪女」ってコトバが不適切なら、
「オンナ」の体現って正にコレじゃね?
と。
とにかく、コワイ。
その一言に尽きる。
(男性がどう感じるかは知りません)
んでそのコワさは、
しかし、
「女って、こういうモンかも…」
と思わされてしまうコワさであり、
表層的なものではありません。
****
よく目にしたのは、
「なんで愛人まで一緒にタイムスリップするのか、
わからん。或は説明すべき。」
みたいな感想でしたけど。
まぁ、そんなのはどうでも良いんですよ。
それは作劇上の問題であって
(この「作劇上の問題」しか問うてないのが、いつものココなんですが)
物語上では十二分に必然性がある。
みち子の、人生賭けた命題は、
「自分は父に愛されていたのか?」
であり、
これは、真次のこだわりと全く同じなのです。
だから、真次がトぶなら、みち子もトぶのです。
****
しかし、
では、
みち子が兄と知りながら真次と関係を持ち続けていたのは、
単に「父に繋がる」何かだったからなのか?
或は、
(小池真理子「恋」のような)「父への復讐」のためだったのか?
等々、
と、「不純な動機説」を採択しようとすると、
それは違うのです。
…多分。
彼女は単に、
真次を男として愛していた。
…真次を、男としても、愛していた。
…真次を、男として、愛してもいた。
論証の必要性を全く感じませんが、
つまらないコメント反論の防衛として、論証しとく。
みち子が初めてタイムトリップした際、
真次から貰った指輪を「奪われなかった」と言って安堵するシーン。
これが多分、決定打です。
****
小池真理子「恋」への批判(誰だったか忘れた。作家さんだ。)に、
「何故、あなた(小池)ほど聡明な女性が、
”近親相姦”なんかをオチに持ち出したのか」
というものがあるそうで。
その点は小池自身「言われても仕方が無い」と苦笑しているそうで。
小生、そんな達観は、出来ないです、はい。
少なくとも、この映画においては。
小池への批判がどの次元での「近親相姦の許容」なのかまでは、
小生には判りませんが。
あの堤真一の生々しい色気、肉体感覚…つまり、「身体性」。
そこに訴えられてしまうと、
「血の繋がった兄と……??????」
と、オンナとしてのカラダが拒否する。
(ちなみに、小生には兄はいません。)
で、それがある上での、みち子の「秘密」。
これだけでも、んもー、コエェ女だなぁ!と言いたい。
アタシだったら、一回でも御免被りたい。
****
もちろん、
血が繋がっている事を知ったみち子に
葛藤がなかったとは言えない。
その葛藤は描かれないながら、
「真次は、縁を切ったため、母方の姓を名乗っている」
という設定が、映画化にあたって追加されているところに、
「近親相姦を知りながら愛人やってる女の毒々しさ」
をつとめて排除しようという配慮が垣間見えます。
なのできっと、葛藤したんでしょう。
というか、観客にそう想像して欲しいんでしょう。
なので、そう受け取りましょう。
んで、葛藤した結果、
全てを真次に提示した上で、
愛する男に自分のような葛藤を与えまいと、
自分はいなかったことにする訳です。
そう解釈せねば、
母(だと母本人は知らない訳ですが)に、
「母の幸せと、愛する男性の幸せ、
どっちを選べばいい?」
という台詞が、破綻する。
で、破綻するような作りには、なっていないのが、この映画です。
(これが、「本当に愛していた」説の、
第二の論証でもあります。)
****
しかし、コワイなと感じる。
みち子というのは、ほとんど全て、
「真次目線」
でしか語られていないように見える女性で、
全てが明らかになってみると全然そうじゃなかった事が判るのですが。
しかし、
「真次目線」
でしかなければ、
どこへでも「逃げよう」があるモノを、
みち子の出演シーンは全て
「みち子一人称」
だったと気づいてしまうと、
なんつーか、
情念
つか、
深過ぎる懐
つか、
愛
つか、
最早「愛」なのか何なのか判らない
つか、
とにかく、
ひとの深淵を覗いてしまった
というコワさが募って募って仕方が無い。
****
そんだけ好きな男がいて、
完璧不倫で、
どれくらい完璧な不倫かというと、目の前で
「俺はオヤジと同じじゃない。
俺は家族を捨ててない」
などとはっきり言えてしまう男が相手な訳で。
しかも、直後、
はっきり言えてしまう自分に撃沈ダダ凹みする男な訳で。
まー普通の不倫モノ(とかそういう話題が出るもの)というのは、
この辺りで女の葛藤が明示され、
端的に「判り易い」訳です。
勿論、
その好きな男が、
あんだけ、なんつーか、な男だと、
普通の不倫モノであっても十二分に面白い話にはなる。
それは確実。
でも、みち子という人は、そういう風には設定されていない訳で、
要は、そんな見地は軽々と飛び越えてる訳です。
いいオンナ〜。
まぁ、自分の母親も自分と同じだったから、という
「耐性」
のような話はあるにせよ。
んでしかし、
そんな彼女も流石に
「なんとまぁ、この男が兄だったとは」
くらいの衝撃や葛藤はあったんでしょう。
んで、そこのとこも、
私達が知らない間に乗り越えてしまい、
腹括って自ら真実を見せ、
んで、自殺(といえるのかどうか)する訳。
この、強さつかなんつか、
よく判らんしたたかさつか、
そういうモノは、
「この母譲り」
だよなぁ〜…
とも、感服。
****
さて、ここで、しかし。
確かにみち子は「男の幸せをとる」宣言をした訳ですが。
小生が彼女の深淵を覗いてしまったとコワく感じる所以は、
こんなところにもあったりします。
端的に言って、何だ、
この、
「決めつけ」っぷり?
或はこの、
「自己完結」っぷり?
ここに、小生の価値観では、
愛と、
愛と対立するものとしての「エゴ」の、
混沌っぷり
を感じる。
どちらもがどっと溢れて混濁して、
溢れ返った挙句、決壊した、
というような。
多分、ここが一番怖い。
この、逃げ場のなさ。
そこまで行き切ってしまう、思い詰め方。
それが、あのポーカーフェイスの下で起こってるから、
怖い。
****
別に、
そもそものところで、
真実を開陳する必要性がない。
そりゃー、
開陳しなくたって、真次が勝手に見つける可能性だって、
なくはない。
が、何も自分で全部披露する必要はない。
或は。
真実を共有したところで、
そこから話し合い、決める道もある訳で。
そういった、
当たり前の現実の手段
を、一切取ろうとしないところに、
「思い詰めっぷり」
を見る訳です。
で、これは、小生の中では、
「エゴ」
に属するものです。
「愛」
ではない。
が、
事態の重みに、あのようにしか対処し得ない
というところに、
「女って、でも、こういうモンかも…」
とも、思わされてしまう。
****
さて。
原作は読んでないのです。
で、原作では、真次の姓の設定が、違うらしいのです。
これは、みち子主人公視点で物語を見るとき、
ある程度重要なポイントになる可能性がある。
それはもしかすると、
「エンディングは違う」
という結果をもたらしてくれるのかもしれない。
なんで、とりあえず今は、
映画の話
しかしてない、というところ、
念を押しておきます。
ここまできて、
「罪と罰」
という伏線が効いてくる訳ですが。
この物語。
どこかでどなたかが、
「父と子の物語な前半なのに、
後半は母と子の物語になって、
そこもあんまり評価できない」
というような事を書いてらっしゃいまして。
何の事を言ってるのか、全く意味が分からないんですが。
この物語を、小生は、
血の繋がり
の話なのだと見ます。
過去を遡る事で見えてくるのは、
父の人生
と、
父と息子(自分)の相似
と、
兄の出生の秘密…母が別の男との間に作った子供だった…
と、
兄が死んだ間接的な理由…進学問題で父と揉めたのは、父の子ではなかったからだった…
と、
父に愛人がいたこと
と、
その愛人との間にも、子供を作っていたこと
と、
その「愛人との子」…腹違いの妹…が、今の自分の愛人だったこと
です。
見せ方を違えれば、某推理小説群になりそうだ。
さて。
これらを暗示するのが、
「罪と罰」
なのか?
ラスコーリニコフ云々は多分関係なくて、
その「音」を使いたかったのだと思われますが。
「罪」と「罰」。
さぁ〜、ここで問題。
何が「罪」で、
どれが「罰」なんでしょうか?
****
次々と明かされてくるのは、
倫理の道にない
という「罪」ばかりなのですが。
物語中。
父が戦時下で兵士として行った殺戮については、
多分、不問。
母の不義、父の不義は、
全く「倫理の道にない」だけ。
父が兄の死を間接的に引き起こしたのは、
「見ようによる」。
二人の母、そして父は、
それぞれ、
子を失うことによって、
或は子の父親と「決して会わない」ことによって、
…そして、「不義の子」は、夭逝することによって、
「罰」を引き受けていた。
そして。
血に含まれる「原罪」。
それを負うているのは、多分、
みち子と真次だけ。
「罪と罰」
というキィワードを、素直に受け取れば、
「罪」を負い「罰」を受けたのは、
「父の人生を追っていた」
他でもない、傍観者・真次自身であり、
彼の愛するみち子であった。
真次は、愛した女が妹であった事を知り、
そして愛した女を失う…この世にいなかった人とされることによって。
みち子は、愛した男が兄であった事を知り、
自らを、この世に生まれ出なかった人間することによって。
それぞれ、「罪」への「罰」を受けることとなった。
そして、それらの「罪」と「罰」は、しかし全て、
それぞれの人生
へと回収され、
それを含みながら、皆、自分の時間を、死ぬまで生き続けていく。
これは、そういう話です。
****
が。
「罪と罰」
などと言ってしまうから、
みち子の行動が
「贖罪」
として、
ある種のカタルシスをもたらしてしまうのです。
ちょっと待ってくれ、と言いたい。
だから、やっぱり、「酷い話」なのです。
少なくとも、小生にとっては。
ポイントは二つ。
「贖罪の、何がイカンのか?」
と、
「贖罪足りうるのか?」
です。
****
みち子の行動は、果たして、贖罪足りうるのか?
だらだら、コワイコワイと言ってきた通り、
彼女の行動は、「愛」からのみ出たものでは決して無い、と、
小生は思う訳です。
非常に独善的であり、
それは、「自殺なんかする奴は、身勝手だ」などとは全く違う次元です。
「独善的」なのです。
己の善しか見ていない、
「愛する男」に選択肢を与えない、
そのクローズの仕方は、「愛」ではない。
どうせ与えない選択肢なら、
一切合切を秘匿しておく方がずっと、「愛」に近い。
こういう姿勢というのは
「女性性の強さ」
ではなく
「女のしたたかさ」
であり、
描かれたような
「美しい自死」
というのは、
「愛に殉じた女」
という、
究極のヒロイズムの発露だと見えます。
これは、「贖罪」ではない。
では、或は。
全く違う観点から、
たとえば
「死んでお詫びいたします」
というような「贖罪」として、機能するのか?
しません。
これだと、誰に向けて贖罪したのか、意味不明。
百歩譲って「原罪」というからには「神」に向けてだ、
として、
みち子の「自己完結」っぷりに拍車をかけるだけです。
物語として唐突すぎる。
という訳で。
「贖罪になってない」
という立ち位置が、小生のスタンスです。
****
ところが、
「贖罪になってない」
と決めてしまうと、
本当に、目も当てられない話になってしまうのが、
この物語です。
全てが終わった後。
真次は会社に駆け込みます…みち子の存在を確認するために。
もちろん、みち子は、いません。
そして、父が死に、確実に母子/兄弟の関係は変わり、
息子との関係も変わり。
そして真次は、上着のポケットにみち子が忍ばせておいた指輪を見つけ、
それをもって、
また、日常を送っていく。
みち子の行動が贖罪になっていなければ、
これはもう、ちょっと、あんまりだ、
としか言い様がありません。
お前はあの女を愛しちゃいなかったのかいっ!
あんだけ態度とっといて、実はその程度やったんかいっ!
お前は根っからの不倫男かっ!!
と。
翻って、
おい、作者!
あんだけの映画作っといて、愛人はカキワリかいっ!
と。
(多分、ここが一番ヤなところ。)
ですので、
物語中、やっぱりみち子の行動は、
贖罪であり、
カタルシスなんだと、
そう位置づけておきたい。
(多分それで正解。)
****
では。
贖罪になってるとして、
「”贖罪”の何がイカンのか」。
もちろん、アレですよ。
さっき書いた後日譚の、
「贖罪の上に成り立つ日常」
という「世界観」が、気に入らんのですよ。
これは野島作品などにも通じる「オトコの都合よさ」なんですが。
浅〜くみて、
全てを1人で引き受け、身を以て闇に葬り帰す女
という立ち位置。
女をナメてんのか、と。
そういう「聖母(マドンナ)幻想」はもう沢山だと。
「ボクたち、成熟してませ〜ん」
ってこんなに堂々と言い放って、矜持はないのかと。
深〜くみて、
女は自分としてきちんと生き、しかし彼女はあれしか取り得ない人間だった
という立ち位置。
だったら、後日譚をあんなに清々しくやっちゃいけない。
男は日常の至るところに、女の影を思わねばならない。
それが、男に出来る「贖罪」だから。
****
しかし…。
タイムスリップモノにツキモノの、
「タイムパラドックス」
問題について。
真次は兄の死を阻止し得ない訳で。
父が会社を興すきっかけになったのは、真次と出会ったからな訳で。
「タイムパラドックス」が起こっているのは、
みち子が生まれなかった、
という、ただ一点なんですよね。
物語初めに、
「過去は変えちゃいけないし、変わらないんだ」
と諭されるシーンに
「ほほー」
とか思ってたんですが。
そう来るか、みたいな。
そう諭すのが、
「罪と罰」を読んでる人物
(つまりこのキィワードを提示する人物)
だったりもする訳で。
小生の中で、
「贖罪」問題
が、いよいよ大問題化するのは、正にこの点なのです。
みち子の存在に関してだけは、
可変
だったのか?
或はやはり、
もっと強固に「これは、原罪の話である」というメタファなのか?
それとも、
他者の運命には関与できないが、
自分の運命は変えられる、
という
「世界観」めいたもの
の提示…或はエクスキューズ…なのか?
恐らくは、
この「諭し」があったから、
真次は一縷の望みをかけて会社に駆け込むのでしょうが…
(これは、
過去の中でみち子が死んだかと思ってみち子宅に駆け込むのと、
ちょうど、相似であり。
また、現在のみち子が過去で死んだとしても、
現在には関係がないという「ルール」の提示の役割でもあるかと。)
ここまで深読みしてくると、
ま、まさか、「不思議な話」として、発散してしまうのか?
なんて冷や汗をかいてみたりもしたり。
んもー百歩譲って発散してしまう説をとったとしても、
小生の感性と立ち位置は変わらない訳ですが。
****
この映画が、ラストもラスト、後日譚で、
音を立てて崩壊するのは、ひとえに
「罪と罰」
というキィワードのせいです。
ここに、小生が
「あぁ…浅田次郎ね。読みたくないわ」
と食わず嫌いを表明するポイントが
象徴されている。
「誰かに罪を購ってもらおう」
という意識、
「やっぱりその最大のものは、死だよね」
という発想、
「そこまでしてくれるって、やっぱり”愛”だよね」
「究極の愛って偉大だし、美しいよね」
という価値観、
いずれにせよ、その辺りに、この上ない独善を感じる。
だから、「贖罪がイカン」。
****
さて。
そんな訳で。
物語全体としては
「案の定」
な話だった訳ですが。
オンナとしての小生は、
オンナの生き様を見せつけられて、
心底怖い思いをした、
という点においては、
ナカナカ良い映画だったと感じた訳です。
これはひとえに、
堤真一の身体性と、
岡本綾の存在感、
この二つによるものです。
(脚本と演出も丁寧で緻密、なんでしょうが。)
堤真一が、全編通して愛人に示す「愛し方」というのは、
本当に特筆モノで、
改めて「さすがだ」としか言い様がない。
そして、こうして見ていると、
演技力に身体性はやはり欠かせないのだ
ということを、つくづくと思い知らされます。
また、今回新鮮に再認識したんですが、
この人、結構色んな「カオ」をするんですよね。
それは美空ひばりや中島みゆき、或は山寺宏一が
「色んな声を出す」
と言われるのと、よく似ている。
はっきり言って、「男前」ではない。
或は特徴的な顔立ちでもない。
ごくごく、普通。
多分これが、多種多様なキャラクタを演じる助けになってるんだろうなぁ、と。
そして、岡本綾。
この人の演技力は、他を見ていないのでよく判りません。
(ちょっと中嶋朋子みたいな感じの人ですね。)
確かに、脚本や演出の力というものも、否定は出来ないのでしょう。
が、少なくとも。
「その」堤真一と相対する時の
空気感、存在感
そういったモノについて、
あのようなどんでん返しをやれるだけのモノは、あるんだと判断します。
母と階段を転がり落ちる、その瞬間までは、
「悪くない」演技、
くらいに思っていました。
「これってもしかして、母を突き落としたりするのかしら」
なんて根拠なく邪推したりもしつつ、
幾つかの台詞の後突然決行されてすごく驚かされ。
それをやって、いなくなって、映画が終わって、
後から映画全体を振り返っているときに、
彼女のシーンシーンが絵としてありありと思い浮かぶ。
「そういえば」
「そういえば」
と繋ぎ合わせていくときに、
彼女の演技の「意味」が判る、という。
繰り返し言いますけど、
映像全く判らない小生には、それが、
ホンと演出の力のせいでないとは言い切れません。
だから、空気感、存在感。
これだけは、役者自身にしか、出せない。
物語に著しい嫌悪感があるとはいえ、
緻密な脚本だと思います。
あの膨大な仕掛けに引っ掛けようとすると、
いきおい、「自然な」「抑えた」演技が必要になる。
「自然な」演技というのは、難しいのです。
岡本綾、堤真一(、そして吉行和子)に感服するのは、そこですね。
そして、
その脚本(と演出)の中に、
どれほど「みち子の物語」が含まれていたのか。
それは、小生には見分けられません。
が、少なくとも、それを立ち上げる一翼を担った役者として、
岡本綾を、評価しています。
****
さて。
大沢たかお(父親役)について。
大沢たかお大絶賛で、
「彼を見るために、この映画を見るべきだ」
「堤真一には、こんなに下手だったっけ?と失望」
というような感想も見かけましたが、
全く逆の評価を、小生はしています。
良くも悪くも、らしい演技。
確かに、長男(といっても、自分の本当の子ではないですが)を亡くした夜、
あそこは良かった。
ですが、全体的に言って、「芝居し過ぎ」。
常磐貴子(みち子の母/大沢たかおの愛人)について。
終戦直後の出番は、いただけない。
時代を下って、娘を妊娠しているときの出番は、悪くない。
この人、結局、すごく良い人なんだよ、きっと。
んで、品を「失えない」。
「スレっからし」
というのが、全く出来ないひと。
で。しかし。
堤&岡本ペアと、大沢&常磐ペア
ある種、この二組の「異種格闘技戦」的ではあります。
大沢に関しては、
「もうそれでいっちゃって下さい」
という気もするのですが。
常磐に関しては、
堤&岡本両氏の「空気感」と「身体性」を見せつけられた後では、
「妊婦の身体性」はカケラもない事が強調されてしまい、
ナカナカ辛いものがあったと言え、
ポイントマイナスは否めない。
しかしまあ、幸い「時代が違う」ので。
ぜ〜んぜん違う演技をする人達のミスマッチ加減が、
物語の中でうまく「時代の振り分け」に昇華されていたりもして。
狙いなのか、ケガノコウミョウなのか。
****
映像について。
なんだかよくわかんないけど…
でも、過去に戻ってるときに、いつでも、どこでも、
堤真一と岡本綾の着てるものが、
(過去の時代の)周囲の人と質が違うな、
ということが、当たり前に体感出来る点に、拍手。
が、真次の持ってた(セールス用の)下着が絹だ、
というのは、
映像では判らなくて、かなり減点。
後はまぁ、全編、彩度が少し低い、しっとりした絵で、キレイ。
タイムトリップを示す映像が、
妙にCGぽくて浮いてた。
****
繰り返しますが、ホンは緻密。
良かった。
後は、しかし…。
まぁ、タイムスリップモノとしては多分必ず検証される、
「辻褄合わせ」ですか。
見てる時の違和感としては、
「父(大沢たかお)は、何故、堤真一と”再会してる”と気づかないんだろう?」
というとこでしょうか。
あぁ、みち子の母(常磐貴子)にしても同じか。
後日譚で示される、
「父が会社を作ったきっかけは、
堤真一と出会った事だった」
なる下り、これのせいで、一気に疑問が捨て置けなくなる。
(そして、「みち子のみ可変問題」があぶり出されてしまう。)
まぁ、この「辻褄合わせ」を熱心にやろうとしてしまうと、
強固なルールが裏にある、というのが大前提になってしまい、
多分、それを問いそこで楽しむ映画ではないのです。
そこを問うてしまうと、散見された
「タイムスリップの度に、地下鉄に乗っているべき」
という、至極当然な指摘をせねばならなくなり。
(それで行くと、マトリックスなんてどーなるんだという気がするのですが。)
「なんで愛人まで過去にいけるんだ」
という問いを、先刻不問にした小生としては、
この辺りの問題は、捨象されたのだろう、
という理解をしています。
が、まぁ、捨象して良かったのかどうかは、
小生としても「?」です。
せずにいけるなら、しない方が良かった。
そして、観客側にとっては、
「捨象しない訳にはいかなかった」
必然性は、感じられない。
****
これも散見された感想ですが、
冒頭と最後の「恩師」の役割が、
正直よく判らない。
コレはホントに判らない。
それも含めて。
多分、小生は一度、浅田次郎の原作を、読まねばならない。
そう、思います。
彼が女をどれほど描いているのか。
多分そこで、「食わず嫌い返上」が判断出来る気がします。
Posted by para_shoot at 06:59│
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