January 08, 2010

存在


ここに男がひとりいる。
 男に名前はない、わけはないのだが、少なくともここではどうでもいい。

 男は山高帽を被っている。
 彼は紫煙に包まれている。その手にはウィスキーグラスがある。
 そこはバーかもしれない。あるいは彼の自宅かもしれない。
 が、それもどうでもいい。

 彼が何を視ているのかはわからない、何も視ていないかもしれない。だとすればその目は飾り物だと言えるのかもしれないが、それも些末な問題だ。
 ただ彼はモクモクと葉巻をふかし、たんたんと酒を飲む。ウィスキーはシングルモルト、美しい氷が時たま高い音を響かせる。
 紋章のついた銀の指輪を嵌めている。が、彼にはさして重たげではない。彼のものではないのかもしれない。ただその手は浅黒くよく肥えており、爪は平で短く切られている。
 そしてピアスをしてはいない。

 彼は歌うたいかもしれない。そうではないかもしれない。
 彼は時間泥棒かもしれない。そうではないかもしれない。

 もしも彼が歌うたいだったならば、その声は嗄れたブルースを奏でるのだろう。
 もしも彼が時間泥棒だったならば、その先は言うまでもない。

 しかし彼はそのどちらでもないかもしれない。
 もしもそのどちらでもなかったならば、彼は自動車修理工かもしれない。
 あるいは彼は、殺人犯かもしれない。
 もしも彼が自動車修理工、あるいは殺人犯だったならば、その手は似合わず器用に動くことだろう。

 いずれにしても、彼の舌は赤く、唇は桃色で、手は浅黒くよく肥えており、爪は平で短く切られている。ピアスホールは空けられておらず、喉は煙と酒で焼けている。

 実は彼は、月光密売人かもしれない。
 もしも彼が月光密売人だったならば、彼がここで酒を飲んでいるということに、ようやく意味が生まれるだろう。

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