存在
ここに男がひとりいる。
男に名前はない、わけはないのだが、少なくともここではどうでもいい。
男は山高帽を被っている。
彼は紫煙に包まれている。その手にはウィスキーグラスがある。
そこはバーかもしれない。あるいは彼の自宅かもしれない。
が、それもどうでもいい。
彼が何を視ているのかはわからない、何も視ていないかもしれない。だとすればその目は飾り物だと言えるのかもしれないが、それも些末な問題だ。
ただ彼はモクモクと葉巻をふかし、たんたんと酒を飲む。ウィスキーはシングルモルト、美しい氷が時たま高い音を響かせる。
紋章のついた銀の指輪を嵌めている。が、彼にはさして重たげではない。彼のものではないのかもしれない。ただその手は浅黒くよく肥えており、爪は平で短く切られている。
そしてピアスをしてはいない。
彼は歌うたいかもしれない。そうではないかもしれない。
彼は時間泥棒かもしれない。そうではないかもしれない。
もしも彼が歌うたいだったならば、その声は嗄れたブルースを奏でるのだろう。
もしも彼が時間泥棒だったならば、その先は言うまでもない。
しかし彼はそのどちらでもないかもしれない。
もしもそのどちらでもなかったならば、彼は自動車修理工かもしれない。
あるいは彼は、殺人犯かもしれない。
もしも彼が自動車修理工、あるいは殺人犯だったならば、その手は似合わず器用に動くことだろう。
いずれにしても、彼の舌は赤く、唇は桃色で、手は浅黒くよく肥えており、爪は平で短く切られている。ピアスホールは空けられておらず、喉は煙と酒で焼けている。
実は彼は、月光密売人かもしれない。
もしも彼が月光密売人だったならば、彼がここで酒を飲んでいるということに、ようやく意味が生まれるだろう。
Posted by para_shoot at 12:47│
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