Nakai Column
2012年02月15日
MMAはケガの恐れが大いにあることから、試合と全く同様の練習をするのが実は難しいスポーツである。全力でパウンドを打ち合うような寝技練習は、身体へのダメージの蓄積を考えるとまったく不合理的だ。ゆえに、細かくシチュエーションを区切って練習する事、そしてそれを統合したトータルなイメージ作りをすることが、「メイン」の練習になるといえるだろう。
前者のように場面や目的を限定した練習が、いわゆる「ドリル練習」である。パラ東では「MMA柔術ドリル」や単に「柔術ドリル」と呼ばれるフォーマットを、今回はご紹介したいと思う。(以前はブラジリアン柔術との対比から、“アメリカン柔術”ドリルと呼んでいたが、このコラム化を機に未来を考え、打ち止めにしたい。)
これは実利的な柔術の稽古法で、何らかのグラウンド・ポジションからスタートする。上の者はトップポジションであり続けたり、タップを奪うまで。一方、下の者はガードに戻すだけでは良しとせず(ここが重要。危険であることに変わりないからだ)、スタンドかつ離合いまで戻すか、上のポジションになるか、極め返すことを目指すというもの。シンプルだが、MMA指向の方のみならず柔術愛好家にも、本来的には有効な稽古法であるはずだ。
我々はこのドリルが、これからの時代の「寝技乱取り」になるべきだと考えている。私は「寝技」という言葉を便宜的使用以外、敢えて封印している(2012年1月15日の拙コラム「グラップリングとは呼ばない。」参照)。だが、このまま使い続けるとするならば、「寝て掛ける技」というイメージの他に、このドリルが気づかせてくれるような「寝かせ続ける技」、「寝かせられない技」、「寝ない技」という意味も含まれなければならないと考えるからだ。
また、前回のコラムでご紹介した立ち技、いわゆる「10秒レスリング」と組み合わせれば、膨大な量を要すると思われがちな組み技のフリースパーリングの時間を短縮できる可能性さえある、と指摘しておきたい。実際、多くの選手がスパーリングに時間を割きすぎて、技術練やフィジカルトレーニングや他の練習時間を取れていないように見受けられるとの印象を持つのは、私だけではないだろう。
話をドリル内容に戻すと、更に留意するべきは、ブラジリアン柔術で言うところの「〇〇ポジション」だけにとらわれてしまうと、「足りない」ということだ。そう、レスリング的要素はどうしたって重要さを増してくる。
例えば「がぶり」であったり、「小手巻き」された・した状態からであったり、腋を差す・差さないでも全然違ってくるだろう。そう考えれば、グラウンドであるという前提条件も不要となるかもしれない。とにもかくにも、課題を常に念頭に置くべきなのだ。
よって日々の稽古は、その練習法に随時工夫を加え、様々な部分練習を編み出し、そして確実にこなしていくことが肝要だと思われる。
「MMAの本質は?」と問われれば、「やりたいことを実践することとリスクを極小に抑えることが、局面の大小に関わらず、絶えず変化を伴って訪れるスポーツである」と、私は今のところ答えるだろう。新時代に向かって、練習で掘り起こせるものはたくさんある。苦しみ、同時に楽しんで頂きたい。
前者のように場面や目的を限定した練習が、いわゆる「ドリル練習」である。パラ東では「MMA柔術ドリル」や単に「柔術ドリル」と呼ばれるフォーマットを、今回はご紹介したいと思う。(以前はブラジリアン柔術との対比から、“アメリカン柔術”ドリルと呼んでいたが、このコラム化を機に未来を考え、打ち止めにしたい。)
これは実利的な柔術の稽古法で、何らかのグラウンド・ポジションからスタートする。上の者はトップポジションであり続けたり、タップを奪うまで。一方、下の者はガードに戻すだけでは良しとせず(ここが重要。危険であることに変わりないからだ)、スタンドかつ離合いまで戻すか、上のポジションになるか、極め返すことを目指すというもの。シンプルだが、MMA指向の方のみならず柔術愛好家にも、本来的には有効な稽古法であるはずだ。
我々はこのドリルが、これからの時代の「寝技乱取り」になるべきだと考えている。私は「寝技」という言葉を便宜的使用以外、敢えて封印している(2012年1月15日の拙コラム「グラップリングとは呼ばない。」参照)。だが、このまま使い続けるとするならば、「寝て掛ける技」というイメージの他に、このドリルが気づかせてくれるような「寝かせ続ける技」、「寝かせられない技」、「寝ない技」という意味も含まれなければならないと考えるからだ。
また、前回のコラムでご紹介した立ち技、いわゆる「10秒レスリング」と組み合わせれば、膨大な量を要すると思われがちな組み技のフリースパーリングの時間を短縮できる可能性さえある、と指摘しておきたい。実際、多くの選手がスパーリングに時間を割きすぎて、技術練やフィジカルトレーニングや他の練習時間を取れていないように見受けられるとの印象を持つのは、私だけではないだろう。
話をドリル内容に戻すと、更に留意するべきは、ブラジリアン柔術で言うところの「〇〇ポジション」だけにとらわれてしまうと、「足りない」ということだ。そう、レスリング的要素はどうしたって重要さを増してくる。
例えば「がぶり」であったり、「小手巻き」された・した状態からであったり、腋を差す・差さないでも全然違ってくるだろう。そう考えれば、グラウンドであるという前提条件も不要となるかもしれない。とにもかくにも、課題を常に念頭に置くべきなのだ。
よって日々の稽古は、その練習法に随時工夫を加え、様々な部分練習を編み出し、そして確実にこなしていくことが肝要だと思われる。
「MMAの本質は?」と問われれば、「やりたいことを実践することとリスクを極小に抑えることが、局面の大小に関わらず、絶えず変化を伴って訪れるスポーツである」と、私は今のところ答えるだろう。新時代に向かって、練習で掘り起こせるものはたくさんある。苦しみ、同時に楽しんで頂きたい。
(17:26)
2012年01月25日
これから、日々の指導内容の記事の中でたびたび紹介している練習法を、このコラムでも改めて取り上げていきたいと思う。今回は立ち技の練習のコツを挙げたい。
私どもの道場における「立ち技」ドリルには、打撃の有るもの(総合)と無いものとが存在し、どちらも10秒以内に限りグラウンドの攻防も認めている。
さらに打撃無しの「立ち技」ドリルは、大きく2種類に分かれる。いわゆる「10秒レスリング」である。直接足に「タックル」することをOKとするものと、しないものである。実践してみれば分かると思うが、両者は全く違う様相のドリルである。
前者を「フリースタイル」と呼称し、後者を「足掛けグレコ」(妙な言い回しだが)や「首相撲」などと呼んでいる。今ならさしずめ、「ノーギ柔道」とも呼んでもいいかもしれない。
呼び名を変えるのも、各選手の意識のレヴェルに応じ変わってくるのが現実的であろう。グラウンドを欲しないレスリングも当然、ありうるわけだ。
もちろんいずれも、サブミッションは「可」だがやはりこれもグラウンドは10秒でブレイクとなる。
これは我々が、長い時間を掛けて生み出したパラ東流「レスリング」である。MMA志向の方には、自信を持ってお勧め出来る練習メニューなので、是非活用して頂きたい。
では、「なぜ10秒なのか」に言及しておきたい。実験してみれば分かるのだが5秒では短すぎて、投げられたら「負けだ」と諦めるクセがつく懸念があり、逆に10秒以上ではその後の局面に変化が起きにくい。
立ち技とグラウンドの接合部での判断力を磨きやすいので、現在は10秒を採用しているのである。但し、カウントする人間は必要になる。パラ東では私や、手の空いた者で対応している。
瞬時に状況を判断し、上のポジションをキープしたり、より良いポジションに移行したり、タップを奪ってしまっても当然、良い。投げられたり、下になったり或いはなりそうになっても、サブミッションに移行したり、リバーサルしたり、立ち上がったり自然にできるようになってくる。
柔道やサンボの選手が、チャンスと見るや瞬時に決めるような切れ味のある動きが出来るのは、「ブレイクが早い」ためである。このことを想起して頂きたい。
ただし種々の競技に生かすには、秒数の増減はあっても良いかもしれない。創意工夫を凝らして頂ければ、と思う。
「立ち技の乱取りには少しの寝技を、寝技の乱取りには少しの立ち技を」と述べたのは、柔道の柏崎克彦先生(国際武道大学)であった。まさに慧眼と言うほかない。
現代MMAは、簡単に倒れない「立ち力」が前提にある。しかし、投げられたり、下になることを全否定しても始まらない。そうなる可能性は、どんな選手にもあるのだから。
MMAや柔術を標榜する者が、そのままの稽古体系でスタンドを向上させることができないのだとしたら、危機的状況にあるのだということを自覚する必要がある。
我々が我々自身による、MMA目線のレスリング(もしくは相撲)を生み出せなければ意味がない。
以上のことが当たり前になれば、レベルは飛躍的に上がることは間違いない。
制限のない「フリースパーリング」が好きなのは、基本的に構わない。一番楽しい技術練習だからだ。
ただ、それだけではかなり高い意識を持てなければ、練習のための練習になってしまう危険性があることを肝に銘じておきたい。
究極的には、上記の「立ち技」に、ある条件を予め設定してからの各種ドリルを組み合わせられれば、より質の高い練習が実現できるであろうことは私が保証する。
私どもの道場における「立ち技」ドリルには、打撃の有るもの(総合)と無いものとが存在し、どちらも10秒以内に限りグラウンドの攻防も認めている。
さらに打撃無しの「立ち技」ドリルは、大きく2種類に分かれる。いわゆる「10秒レスリング」である。直接足に「タックル」することをOKとするものと、しないものである。実践してみれば分かると思うが、両者は全く違う様相のドリルである。
前者を「フリースタイル」と呼称し、後者を「足掛けグレコ」(妙な言い回しだが)や「首相撲」などと呼んでいる。今ならさしずめ、「ノーギ柔道」とも呼んでもいいかもしれない。
呼び名を変えるのも、各選手の意識のレヴェルに応じ変わってくるのが現実的であろう。グラウンドを欲しないレスリングも当然、ありうるわけだ。
もちろんいずれも、サブミッションは「可」だがやはりこれもグラウンドは10秒でブレイクとなる。
これは我々が、長い時間を掛けて生み出したパラ東流「レスリング」である。MMA志向の方には、自信を持ってお勧め出来る練習メニューなので、是非活用して頂きたい。
では、「なぜ10秒なのか」に言及しておきたい。実験してみれば分かるのだが5秒では短すぎて、投げられたら「負けだ」と諦めるクセがつく懸念があり、逆に10秒以上ではその後の局面に変化が起きにくい。
立ち技とグラウンドの接合部での判断力を磨きやすいので、現在は10秒を採用しているのである。但し、カウントする人間は必要になる。パラ東では私や、手の空いた者で対応している。
瞬時に状況を判断し、上のポジションをキープしたり、より良いポジションに移行したり、タップを奪ってしまっても当然、良い。投げられたり、下になったり或いはなりそうになっても、サブミッションに移行したり、リバーサルしたり、立ち上がったり自然にできるようになってくる。
柔道やサンボの選手が、チャンスと見るや瞬時に決めるような切れ味のある動きが出来るのは、「ブレイクが早い」ためである。このことを想起して頂きたい。
ただし種々の競技に生かすには、秒数の増減はあっても良いかもしれない。創意工夫を凝らして頂ければ、と思う。
「立ち技の乱取りには少しの寝技を、寝技の乱取りには少しの立ち技を」と述べたのは、柔道の柏崎克彦先生(国際武道大学)であった。まさに慧眼と言うほかない。
現代MMAは、簡単に倒れない「立ち力」が前提にある。しかし、投げられたり、下になることを全否定しても始まらない。そうなる可能性は、どんな選手にもあるのだから。
MMAや柔術を標榜する者が、そのままの稽古体系でスタンドを向上させることができないのだとしたら、危機的状況にあるのだということを自覚する必要がある。
我々が我々自身による、MMA目線のレスリング(もしくは相撲)を生み出せなければ意味がない。
以上のことが当たり前になれば、レベルは飛躍的に上がることは間違いない。
制限のない「フリースパーリング」が好きなのは、基本的に構わない。一番楽しい技術練習だからだ。
ただ、それだけではかなり高い意識を持てなければ、練習のための練習になってしまう危険性があることを肝に銘じておきたい。
究極的には、上記の「立ち技」に、ある条件を予め設定してからの各種ドリルを組み合わせられれば、より質の高い練習が実現できるであろうことは私が保証する。
(20:23)
2012年01月15日
ここ数年、グラップリングという呼び方を意図的に封印し続けている。サブミッション・レスリング、又は単にレスリングと呼ぶようにしているのである。
本来、ピンフォールのあるものだけレスリングと呼びたいところだが、とりあえず日本語として、の話ではある。英語的語感とは必ずしも一致しないかもしれないことは、あらかじめお断りしておく。
打ち合うことが必ずしも打撃の義務でないのと同様、MMAにおいては、絞めや関節を決めることが組み技の唯一の目的では、ない。例えば首相撲やダーティ・ボクシングのように、グラウンドやサブミッションを欲しない組み技も存在するし、単に上にバランス良く乗り続ける組み技だって存在する。
皆さんにも考えてみて頂きたい。例えば、MMAの練習をしに来て、そこで会った人に「グラップリングのスパーリングお願いします」と言う時、どうやって一本決めようか、が念頭にあるのではないだろうか。なんとはなしに「寝技をしよう」というような。それが予定調和に過ぎるのだ。
少し話は逸れるが、「寝技」という言い方も誤解を招きやすいため、今は殊更用いていない。立ち技・寝技の区別がないのが柔術やMMAだからだ。「寝技」という言葉が寝て掛ける技、という限定されたイメージを持たれやすいのも理由だ。寝かされながらもそこから立ち上がったり、立って組んでいたのにいきなり股に潜っていったり。もはやそれは立ち技なのか寝技なのか、どちらなんだという話だ。正直言って、どっちでも良い。ただ、「技術」が存在するだけなのだ。
話を元に戻す。いわゆる「グラップリング」を専門に練習していてレスリング、すなわち相手を組み伏せて制圧する力を真に付ける事は出来るのか、ということ。それが疑問というか課題として残るから、しばしグラップリングという呼び名を封印したのだ。
やはり、トレーニングはドリル即ち部分的練習と、トータルに統合する練習が行き来するものであるべきだろう。実際の配分や調合には、当然様々な方法が考えられるが、敢えて言えば絶対の「正解」はない。この稿では好きなことしかしなくなるという点で、「試合形式は一番役に立たない練習」という言葉が他競技にあることだけ、お伝えしておきたい。
以上のことは意識に入っている方には当たり前のことであり、驚くにはあたらないだろう。下からのサブミッションや柔術を生み出した日本人だからこそ、これからを見据えて述べているに過ぎない。入り口、切り口は千差万別ながらも取り組める。総合「的」に格闘技を楽しむ町道場であるからこそ、これからの柔術やサブミッションのあり方を模索していきたいと考えている。
本来、ピンフォールのあるものだけレスリングと呼びたいところだが、とりあえず日本語として、の話ではある。英語的語感とは必ずしも一致しないかもしれないことは、あらかじめお断りしておく。
打ち合うことが必ずしも打撃の義務でないのと同様、MMAにおいては、絞めや関節を決めることが組み技の唯一の目的では、ない。例えば首相撲やダーティ・ボクシングのように、グラウンドやサブミッションを欲しない組み技も存在するし、単に上にバランス良く乗り続ける組み技だって存在する。
皆さんにも考えてみて頂きたい。例えば、MMAの練習をしに来て、そこで会った人に「グラップリングのスパーリングお願いします」と言う時、どうやって一本決めようか、が念頭にあるのではないだろうか。なんとはなしに「寝技をしよう」というような。それが予定調和に過ぎるのだ。
少し話は逸れるが、「寝技」という言い方も誤解を招きやすいため、今は殊更用いていない。立ち技・寝技の区別がないのが柔術やMMAだからだ。「寝技」という言葉が寝て掛ける技、という限定されたイメージを持たれやすいのも理由だ。寝かされながらもそこから立ち上がったり、立って組んでいたのにいきなり股に潜っていったり。もはやそれは立ち技なのか寝技なのか、どちらなんだという話だ。正直言って、どっちでも良い。ただ、「技術」が存在するだけなのだ。
話を元に戻す。いわゆる「グラップリング」を専門に練習していてレスリング、すなわち相手を組み伏せて制圧する力を真に付ける事は出来るのか、ということ。それが疑問というか課題として残るから、しばしグラップリングという呼び名を封印したのだ。
やはり、トレーニングはドリル即ち部分的練習と、トータルに統合する練習が行き来するものであるべきだろう。実際の配分や調合には、当然様々な方法が考えられるが、敢えて言えば絶対の「正解」はない。この稿では好きなことしかしなくなるという点で、「試合形式は一番役に立たない練習」という言葉が他競技にあることだけ、お伝えしておきたい。
以上のことは意識に入っている方には当たり前のことであり、驚くにはあたらないだろう。下からのサブミッションや柔術を生み出した日本人だからこそ、これからを見据えて述べているに過ぎない。入り口、切り口は千差万別ながらも取り組める。総合「的」に格闘技を楽しむ町道場であるからこそ、これからの柔術やサブミッションのあり方を模索していきたいと考えている。
(10:13)
2011年12月20日
何でもありの“新”柔術を欲する声を、たまに聞く。
その心は、現行のブラジリアン柔術(以下BJJ)のルールが格闘技として禁止技が多く、物足りないというものだろう。やはり、柔術への人々の期待は大きいものがある。
柔術は本来、徒手の技法すべてを含むもの。扱う範囲が広いからこそ一人一人の理想のルールや戦法が異なり、論争は絶えることがない。まさに「民」の格闘術である。
ヒールフックやカニバサミ、首への決め技など、競技BJJが禁止としている技法には確かに、格闘技を格闘技たらしめる危険な魅力が満ちている。これらをすべて認めた道衣ルールは、確かに面白いかもしれないとは思う。
ただ、現実として今のBJJルールだからこそ、最大公約数的に世界中に広まったことも見逃せないと思う。先立つものは場か、人か。ニワトリと卵の関係のようだ。
はじめからMMAを想定してポイント化し、道衣をベースとすることで理解しやすくし、レスリングなど既成の格闘技愛好者にはサブミットする魅力を伝え、オリジナルを編み出すプロレス好きの心も満たす。
BJJはとりもなおさず、夢のプレMMAであり、理想的な柔道であり、サブミッション・レスリングではあったのだと思う。しかし時代は巡った。
現在隆盛のMMAは、トラディショナルな柔術とはかけ離れてしまっているように見える。その無念さが何らかの、組織的でなく、ルール的な改革を望む声につながってくるのだろう。
その意味において、MMAこそ新柔術そのものであるが、ドリルとしてのトラディショナルな柔術の価値はなんら変わることはない。
グレイシー柔術の成立過程の時代は、MMAはちゃんと成り立ってはいなかった。それが今との違いだ。進化させるべきは、あくまで各々の柔術観である。僕はそう思う。
その心は、現行のブラジリアン柔術(以下BJJ)のルールが格闘技として禁止技が多く、物足りないというものだろう。やはり、柔術への人々の期待は大きいものがある。
柔術は本来、徒手の技法すべてを含むもの。扱う範囲が広いからこそ一人一人の理想のルールや戦法が異なり、論争は絶えることがない。まさに「民」の格闘術である。
ヒールフックやカニバサミ、首への決め技など、競技BJJが禁止としている技法には確かに、格闘技を格闘技たらしめる危険な魅力が満ちている。これらをすべて認めた道衣ルールは、確かに面白いかもしれないとは思う。
ただ、現実として今のBJJルールだからこそ、最大公約数的に世界中に広まったことも見逃せないと思う。先立つものは場か、人か。ニワトリと卵の関係のようだ。
はじめからMMAを想定してポイント化し、道衣をベースとすることで理解しやすくし、レスリングなど既成の格闘技愛好者にはサブミットする魅力を伝え、オリジナルを編み出すプロレス好きの心も満たす。
BJJはとりもなおさず、夢のプレMMAであり、理想的な柔道であり、サブミッション・レスリングではあったのだと思う。しかし時代は巡った。
現在隆盛のMMAは、トラディショナルな柔術とはかけ離れてしまっているように見える。その無念さが何らかの、組織的でなく、ルール的な改革を望む声につながってくるのだろう。
その意味において、MMAこそ新柔術そのものであるが、ドリルとしてのトラディショナルな柔術の価値はなんら変わることはない。
グレイシー柔術の成立過程の時代は、MMAはちゃんと成り立ってはいなかった。それが今との違いだ。進化させるべきは、あくまで各々の柔術観である。僕はそう思う。
(22:54)
2011年12月12日
試合に勝つ練習にするために、ちょっとした工夫を加えてみたい。実戦と練習のミゾを埋める法は、実はいくつも考え出せる。
パラエストラ東京・中井クラスで実践しているのは、「スパーリング等の開始前に礼(挨拶)を済ませておく」ことだ。タイマーやゴングが鳴ったら、逆に再びの挨拶はもう要らない。
意外に思われる向きはおられるだろうか? こんな簡単な工夫で、身体のモードチェンジを迅速に行う訓練を常に行うことが出来るのだ。
そうでなければ、どうしてもなんとなく量をこなす練習、練習のための練習になりやすいのだ。大事なのは「質で」ある。
私が長年、考えさせられてきたのは、「握手しようと手を差し伸べたら引き込まれた、もしくはタックルを食らった」とか「グラブを合わせようとしたら、殴られた」などのケースの被害者(?)は圧倒的に日本人選手であることだ。なぜこのことを誰も指摘しないのだろう。
長時間をこなす「乱取り」が日本文化であることは、重々承知している。一種の技術練だ。ベーシック(=準備期)に採用することに異存があるわけではないが、実戦(=試合)は1〜2時間続けて闘うわけではない。
ここが、「練習横綱」が生まれやすい一因となりうるのである。長時間の「乱取り」では、1本1本の集中力が若干、欠けがちになるからだ。それでは限定された時間で闘う「試合」の感覚との間に、質的な差ができてしまう。
これに関連するが、今夏のキッズのBJJ全日本大会の時にレフェリーが握手をさせていないのに気がついた。桑原幸一・JBJJF審判部長に尋ねると、ブラジルの本部の方針で「握手は義務ではない」のだそうだ。
世界への普及を視野に置くIBJJFは、挨拶の方法が国や文化によって違うことを考慮に入れ、開始時の「コンバッチ」だけをルールで定めているのだ、と。
これは、ストンと合点がいった。同じことだ。「始め」の合図の前に挨拶をしておく。時間が始まってから挨拶をすること自体、実戦らしくない。重ね重ね、指摘しておく。
少なくとも、試合6〜8週前からは、実戦を完璧に想定したモードに入っていかなければならない。挨拶はスパーリング前に済ます。小さな工夫ではあるが、「チリも積もれば山となる」の言葉もある。「想定外の事態」も、世界では言い訳にしかならない。
万が一の油断に繋がらないようにするには、日常の細かな発想から世界モードに切り替えていくことが必要なのだ。まさに「千里の道も一歩から」である。世界を目指す日本人選手の健闘を、心から祈る。
パラエストラ東京・中井クラスで実践しているのは、「スパーリング等の開始前に礼(挨拶)を済ませておく」ことだ。タイマーやゴングが鳴ったら、逆に再びの挨拶はもう要らない。
意外に思われる向きはおられるだろうか? こんな簡単な工夫で、身体のモードチェンジを迅速に行う訓練を常に行うことが出来るのだ。
そうでなければ、どうしてもなんとなく量をこなす練習、練習のための練習になりやすいのだ。大事なのは「質で」ある。
私が長年、考えさせられてきたのは、「握手しようと手を差し伸べたら引き込まれた、もしくはタックルを食らった」とか「グラブを合わせようとしたら、殴られた」などのケースの被害者(?)は圧倒的に日本人選手であることだ。なぜこのことを誰も指摘しないのだろう。
長時間をこなす「乱取り」が日本文化であることは、重々承知している。一種の技術練だ。ベーシック(=準備期)に採用することに異存があるわけではないが、実戦(=試合)は1〜2時間続けて闘うわけではない。
ここが、「練習横綱」が生まれやすい一因となりうるのである。長時間の「乱取り」では、1本1本の集中力が若干、欠けがちになるからだ。それでは限定された時間で闘う「試合」の感覚との間に、質的な差ができてしまう。
これに関連するが、今夏のキッズのBJJ全日本大会の時にレフェリーが握手をさせていないのに気がついた。桑原幸一・JBJJF審判部長に尋ねると、ブラジルの本部の方針で「握手は義務ではない」のだそうだ。
世界への普及を視野に置くIBJJFは、挨拶の方法が国や文化によって違うことを考慮に入れ、開始時の「コンバッチ」だけをルールで定めているのだ、と。
これは、ストンと合点がいった。同じことだ。「始め」の合図の前に挨拶をしておく。時間が始まってから挨拶をすること自体、実戦らしくない。重ね重ね、指摘しておく。
少なくとも、試合6〜8週前からは、実戦を完璧に想定したモードに入っていかなければならない。挨拶はスパーリング前に済ます。小さな工夫ではあるが、「チリも積もれば山となる」の言葉もある。「想定外の事態」も、世界では言い訳にしかならない。
万が一の油断に繋がらないようにするには、日常の細かな発想から世界モードに切り替えていくことが必要なのだ。まさに「千里の道も一歩から」である。世界を目指す日本人選手の健闘を、心から祈る。
(21:53)
2011年10月10日
先日とある大会で、タップをしたり声をあげたのですぐ技を解いたところ、レフェリーが気づいてわざとなのか、気づかなかったからなのか試合が続行され敗れたという「事件」があった。我々はこのような事例をどう考えれば良いのか、考察してみたいたい。
まず私の考えを単刀直入に言えば、レフェリーが止めるまで試合は終わっていない。よって、レフェリーの判断を待たずに自分の了見で技を解いしまうと、試合に勝てないという事態も起こり得る。
折ってケガをさせたくないという気持ち自体は、何ら責められるものではない。寧ろ奨励されてもおかしくない位だ。しかし試合の結末は、あくまで主審を含めた第三者が断を下すものである。それが競技スポーツの「掟」だ。
私が「その本来持つ魅力を失わずに、より多くの人々に格闘技を普及させるための条件を最も揃えている」という理由で、ベーシック種目に据えているブラジリアン柔術は「決まると思ったらゆっくり関節技を掛けること」「決められたら早めに降参すること」という練習コンセプトを、ほとんど人類史上初と言っていいほど明確に謳って世界中に広がった。これは私の道場でも浸透している概念だ。
柔術が普及すると共に、今では上記のスローガンを格闘技を楽しんで行う際の最低限のエチケットとみなす向きさえ確立された、と言っていい。
「あそこのジムは壊し系」のような言い方や、「ケガをするから〇〇(技)は止めて欲しい」という練習交渉(?)も珍しいことではなくなった。格闘技を壊し合いそのものと捉える向きには不思議な言い回しだと感じるだろうが、これは別に悪いことではない。
ただ試合で前述のようなケースが後を絶たない現状を鑑みると、関節技で結果的に破壊してしまうこと自体があたかも悪いことと思われる風潮に与することは、やはりある種の選手を結果的に弱く(勝てなく)してしまうことは否めない。
パンチやキックによるKOは「見応えがある」と称えられやすいのに、関節が折れる図は何故だか目を背けたくなる。実際に受けるダメージの危険度、特に脳などへの重大な事故に直結する危険度は、KOのほうが高いにも関わらずである。その感情は私にさえある、と正直に告白しよう。でもそれと勝負の世界とは別の話だ。
仮に私が少年選手のセコンドに付いたら、「相手の腕をへし折って来い」とはまず言わないだろう。それはそうだ。しかしプロ選手、殊に関節技が得意な選手には「体が強く、痛みを感じない選手かもしれないぞ。ぶっ壊す位でなければこっちがやられるんだ。手加減は絶対するな」というニュアンスのことは言うだろう。
矛盾している、と人は言うかも知れない。でも、プロは勝たねば次がないかも知れぬ。試合結果は最優先事項なのだ。
それでは、アマチュアである大多数の方々の場合はどうなるか。アマチュアだからそこまで切羽詰まった話じゃない、と私なんかは言うんじゃないかと人は思うであろう。
しかし、私の答えは「プロのケースと全く同じ」だ。意外だろうか? しかし考えてみて欲しい。勝利を希求する気持ちにプロもアマもない。勝つか、負けるかが単に決まるだけのことだ。だから、私の道場には、「プロ練」が存在しないのだ(拙コラム「パラエストラ流 道場論」参照)。
ただ「勝つことに懸ける姿勢が、アマとプロを結果的に分けている要因だ」とだけは確実に言えるだろう。プロより「強い」アマなどゴマンといるから、逆に強さはあまり問題ではないと私は考える。
では以上のことを踏まえて、練習のガイドラインを提示してみたい。道場での練習では「レフェリー」がいないケースがあるため、「ゆっくり関節、早めにタップ」を貫く。
これが出来ない者は、稽古相手を確保しづらくなるだろう。でも、彼らにも当然だが道はある。稽古相手をあらかじめお願いして用意する「アポイント制」だ。実戦に近い「極め合い」がやりたい方は意外といるものだ。これがプロ練に近いと言えば、近い。
話が飛ぶようだが、ある練習をしたいが付き合ってくれる相手がいない、と嘆くケースがあるが、これも同様、「アポイント制」を使うと良い。
詰まるところ言い方は変な感じだが、道場での練習は「パーティー」に近い。人数が多い方が基本的に盛り上がるし、人が一人いるかいないかで全く違う集合体になる。苦手な人間しかいない、なんてことも多々あるだろう。
私は思う。予測不能なことに対処できるように努めるのが真の「練習」なのだ、と。弱点克服など様々なトライを施し、日々の稽古を楽しんで欲しい。
まず私の考えを単刀直入に言えば、レフェリーが止めるまで試合は終わっていない。よって、レフェリーの判断を待たずに自分の了見で技を解いしまうと、試合に勝てないという事態も起こり得る。
折ってケガをさせたくないという気持ち自体は、何ら責められるものではない。寧ろ奨励されてもおかしくない位だ。しかし試合の結末は、あくまで主審を含めた第三者が断を下すものである。それが競技スポーツの「掟」だ。
私が「その本来持つ魅力を失わずに、より多くの人々に格闘技を普及させるための条件を最も揃えている」という理由で、ベーシック種目に据えているブラジリアン柔術は「決まると思ったらゆっくり関節技を掛けること」「決められたら早めに降参すること」という練習コンセプトを、ほとんど人類史上初と言っていいほど明確に謳って世界中に広がった。これは私の道場でも浸透している概念だ。
柔術が普及すると共に、今では上記のスローガンを格闘技を楽しんで行う際の最低限のエチケットとみなす向きさえ確立された、と言っていい。
「あそこのジムは壊し系」のような言い方や、「ケガをするから〇〇(技)は止めて欲しい」という練習交渉(?)も珍しいことではなくなった。格闘技を壊し合いそのものと捉える向きには不思議な言い回しだと感じるだろうが、これは別に悪いことではない。
ただ試合で前述のようなケースが後を絶たない現状を鑑みると、関節技で結果的に破壊してしまうこと自体があたかも悪いことと思われる風潮に与することは、やはりある種の選手を結果的に弱く(勝てなく)してしまうことは否めない。
パンチやキックによるKOは「見応えがある」と称えられやすいのに、関節が折れる図は何故だか目を背けたくなる。実際に受けるダメージの危険度、特に脳などへの重大な事故に直結する危険度は、KOのほうが高いにも関わらずである。その感情は私にさえある、と正直に告白しよう。でもそれと勝負の世界とは別の話だ。
仮に私が少年選手のセコンドに付いたら、「相手の腕をへし折って来い」とはまず言わないだろう。それはそうだ。しかしプロ選手、殊に関節技が得意な選手には「体が強く、痛みを感じない選手かもしれないぞ。ぶっ壊す位でなければこっちがやられるんだ。手加減は絶対するな」というニュアンスのことは言うだろう。
矛盾している、と人は言うかも知れない。でも、プロは勝たねば次がないかも知れぬ。試合結果は最優先事項なのだ。
それでは、アマチュアである大多数の方々の場合はどうなるか。アマチュアだからそこまで切羽詰まった話じゃない、と私なんかは言うんじゃないかと人は思うであろう。
しかし、私の答えは「プロのケースと全く同じ」だ。意外だろうか? しかし考えてみて欲しい。勝利を希求する気持ちにプロもアマもない。勝つか、負けるかが単に決まるだけのことだ。だから、私の道場には、「プロ練」が存在しないのだ(拙コラム「パラエストラ流 道場論」参照)。
ただ「勝つことに懸ける姿勢が、アマとプロを結果的に分けている要因だ」とだけは確実に言えるだろう。プロより「強い」アマなどゴマンといるから、逆に強さはあまり問題ではないと私は考える。
では以上のことを踏まえて、練習のガイドラインを提示してみたい。道場での練習では「レフェリー」がいないケースがあるため、「ゆっくり関節、早めにタップ」を貫く。
これが出来ない者は、稽古相手を確保しづらくなるだろう。でも、彼らにも当然だが道はある。稽古相手をあらかじめお願いして用意する「アポイント制」だ。実戦に近い「極め合い」がやりたい方は意外といるものだ。これがプロ練に近いと言えば、近い。
話が飛ぶようだが、ある練習をしたいが付き合ってくれる相手がいない、と嘆くケースがあるが、これも同様、「アポイント制」を使うと良い。
詰まるところ言い方は変な感じだが、道場での練習は「パーティー」に近い。人数が多い方が基本的に盛り上がるし、人が一人いるかいないかで全く違う集合体になる。苦手な人間しかいない、なんてことも多々あるだろう。
私は思う。予測不能なことに対処できるように努めるのが真の「練習」なのだ、と。弱点克服など様々なトライを施し、日々の稽古を楽しんで欲しい。
(10:05)
2011年09月21日
今まで「格闘技」をやってきた私だが、「武道」をやってきたという感覚は、あまりない。「武術」を学んでみたいという気持ちはあるが、それは一つの文化や伝統の一端を担うことを意味するような、言うなれば自分の一生をそれに掛けるような心持ちで決めるような一大事であるはずだ。例えばうちのジムに入るように、気軽に「格闘技というスポーツを楽しむ」という感覚で入門するべきものではない。それほど大きな決意の無い今は、興味があるレベルでさまようほか無い。まあ、そのうち何か良い出会いがあれば、きっとなるようになる、と思っている。
もっとも、「柔道は武道だからアンタ、やってるじゃないの」と言われれば、「そうなりますかね」ということくらい言うかもしれないが。
でも武道という言葉は兎にも角にも、自分の範囲を超えている。とてもじゃないが、私に「武道」は語れない。自分がやってきたのは、あくまで「格闘技」で、イコール「スポーツ」だ。私がやってきた柔道は武道がルーツではあるが、主目的は「試合」という「ゲーム」での勝利を目指す「武道スポーツ」である。
でもそれを世の人が、「武道をやってきた人」という認識で自分を解釈するなら、それはそれで構わない。矛盾して聞こえるかもしれないが、人が自分をどう思うかは自分でどうこう出来ることではないし、する意味も、必要もない。
武道について一家言持たれる方々は、世にたくさん存在する。知識も経験も豊富に思われるそれらの方々も、その「定義」については皆少しずつ違うことを言っているように感じられる。そう考えると、知識も経験も豊富でない自分には、武道を定義するのは全くの困難である。
というわけで、以下は私の武道に対する「定義」ではなく、限られた知識から描いている「感想」だと思って読んで欲しい。
自分の認識では「武道」という言葉が人口に膾炙するのは明治以降なはず。つまり武士道と結びつけたり、日本古来の精神文化とするのはやや強引か、と。しかも本来的な「武」の社会的意義は、武士階級が消滅した明治維新から急速に変化していったはずだ。
また、自分の感覚では剣術だとか弓術などの武器術を含まなければ「武」は語れないのではないか、ということだ。つまり、徒手格闘術だけでは片手落ちだと思ってしまう。現代なら複数相手の技術や、対ナイフや対銃、ひいては各種兵器に対しても対応できなければなお駄目だろう。応急手当や接骨、薬学知識などの活法も含まれているべきだ。名著にして拙監修書「ヘンゾ&ホイラー」にもあるが、所詮どの格闘技もそれらすべてへの対応は不可能だろう。
更にもう一つ、真剣に武道を掘り下げて語るのであれば、どうしても国家や宗教を議論することにならざるを得ないと思う。共存以外、絶対に平和的な決着はありえない。故に、ここでは私はこの話から降りることになる。
だから、「武道か、スポーツか」は二者択一でも優劣でもないし、そもそも争うところではない気がする。要するに次元が違う話をしているだけだ、と思う。
ただ、中学校の武道必修化にみられるように武道を固有の日本文化と位置づけ、発信していこうという動き自体には、特に異存はない。国が決めたことなら、極端に理不尽でなければ国民として従うだけだ。
それに、武道という「カラー」は嫌いじゃない。先人たちの偉業にも敬意を払いたいし、歴史上の達人に憧れることも、時にはある。
ただ私は、国家や集団や個人のイデオロギーに関わらず結果が出、同時にその結果に関わらずパーソナルな価値観が保たれる「スポーツ」の世界に生きていて、それが心底好きなのだ。
スポーツで平和が築けるかどうか分からないが、スポーツそのものには平和が垣間見える、とだけは言えると思う。
もっとも、「柔道は武道だからアンタ、やってるじゃないの」と言われれば、「そうなりますかね」ということくらい言うかもしれないが。
でも武道という言葉は兎にも角にも、自分の範囲を超えている。とてもじゃないが、私に「武道」は語れない。自分がやってきたのは、あくまで「格闘技」で、イコール「スポーツ」だ。私がやってきた柔道は武道がルーツではあるが、主目的は「試合」という「ゲーム」での勝利を目指す「武道スポーツ」である。
でもそれを世の人が、「武道をやってきた人」という認識で自分を解釈するなら、それはそれで構わない。矛盾して聞こえるかもしれないが、人が自分をどう思うかは自分でどうこう出来ることではないし、する意味も、必要もない。
武道について一家言持たれる方々は、世にたくさん存在する。知識も経験も豊富に思われるそれらの方々も、その「定義」については皆少しずつ違うことを言っているように感じられる。そう考えると、知識も経験も豊富でない自分には、武道を定義するのは全くの困難である。
というわけで、以下は私の武道に対する「定義」ではなく、限られた知識から描いている「感想」だと思って読んで欲しい。
自分の認識では「武道」という言葉が人口に膾炙するのは明治以降なはず。つまり武士道と結びつけたり、日本古来の精神文化とするのはやや強引か、と。しかも本来的な「武」の社会的意義は、武士階級が消滅した明治維新から急速に変化していったはずだ。
また、自分の感覚では剣術だとか弓術などの武器術を含まなければ「武」は語れないのではないか、ということだ。つまり、徒手格闘術だけでは片手落ちだと思ってしまう。現代なら複数相手の技術や、対ナイフや対銃、ひいては各種兵器に対しても対応できなければなお駄目だろう。応急手当や接骨、薬学知識などの活法も含まれているべきだ。名著にして拙監修書「ヘンゾ&ホイラー」にもあるが、所詮どの格闘技もそれらすべてへの対応は不可能だろう。
更にもう一つ、真剣に武道を掘り下げて語るのであれば、どうしても国家や宗教を議論することにならざるを得ないと思う。共存以外、絶対に平和的な決着はありえない。故に、ここでは私はこの話から降りることになる。
だから、「武道か、スポーツか」は二者択一でも優劣でもないし、そもそも争うところではない気がする。要するに次元が違う話をしているだけだ、と思う。
ただ、中学校の武道必修化にみられるように武道を固有の日本文化と位置づけ、発信していこうという動き自体には、特に異存はない。国が決めたことなら、極端に理不尽でなければ国民として従うだけだ。
それに、武道という「カラー」は嫌いじゃない。先人たちの偉業にも敬意を払いたいし、歴史上の達人に憧れることも、時にはある。
ただ私は、国家や集団や個人のイデオロギーに関わらず結果が出、同時にその結果に関わらずパーソナルな価値観が保たれる「スポーツ」の世界に生きていて、それが心底好きなのだ。
スポーツで平和が築けるかどうか分からないが、スポーツそのものには平和が垣間見える、とだけは言えると思う。
(00:06)
2011年08月19日
パラ東のお盆休館中、私は先日一周忌法要を終えた義母の足跡をたどりに、生誕の地である青森県弘前市を旅しておりました。
出発前々日くらいに弘前のことをいろいろ調べていると、何とカーロス・グレイシーさんに柔術を伝授した、BJJの祖・講道館柔道の前田光世(コンデ・コマ)さんの生誕の地も、現在の弘前市にあたることを思い出しました。今頃、しかもついでに気づくな!って感じですが。
とりあえず、弘前入りして2日目。今年築城400年という弘前城の追手門をくぐって左側、トイレ棟の奥に、何の表示も無く、前田光世の生前の功績を讃えた石碑が立っていました(写真1枚目)。ガイドさんもよく知らない程、ひっそりと…。調べてから行って、正解でした。
日を改めて、生誕の地へも足を延ばしてみました。所在地は弘前市富栄(とみさかえ)笹崎148です。ここにも石碑が立っています(写真2枚目)。
先の弘前城公園の石碑同様、昭和31年の建立だそうです。岩木山を見渡しながら、前田少年は何を想ったのでしょう。りんご畑が広がる「ザ・津軽」といった風景が印象的でした。
更に前田光世の生涯を道徳教育にも採用した、地元の市立船沢中学校も訪問しました。突然の「日本BJJ連盟会長」名義の訪問者を受け入れて下さった校長先生はじめ、先生方にはお世話になりました。
この中学校には記念碑とコンデ・コマ記念武道場があり、場内には大きな写真が掲げられていました。貴重なお写真も見させて頂きました。(写真3、4枚目)
柔道部は今はないとのこと(残念)ですが、野球部員の生徒さん達が口々に見知らぬ私に挨拶していく明るい姿に、コンデ・コマの快活なイメージが重なって見えました。
個人的な旅の記録は以上です。ありがとう東北、義母、グレイシー一家、柔道、そしてコマ伯爵。そしてこれからもよろしくお願いします。
(17:16)
2011年08月18日
私は自分の道場を「万人に開かれたものにしたい」という思いで、これまで運営して来た。またこれからも、ずっとそうしていくつもりでいる。
パラエストラ東京に「プロ練習」は、基本的に存在しない。世界レベルの者と初心者が同じ場所で研鑽できる、いわゆる「クラブチーム」型で常にありたいという思いがあるからだ。もっともプロ(とか白帯)だけで練習している「状況」というのは、当然あり得るのだが。
それでも人は育つ。試行錯誤する。巣立つ。私はその背中を押してやるだけだ。それに後発の人間は、必ず私や今のレベルを超えてゆく。必ず、だ。
私自身、血筋があるわけではなく、何を心得ているわけでもない、只の人だ。ただずっと格闘技が好きで(嫌いにならないで)、今日まで来ただけだ。
強かろうと弱かろうと、大きかろうと小さかろうと、思想や信念に違いがあっても、どんな人間でも構わない。そんなことより、触れ合うことだ。
意見が同じでなくても、全く構わない。そんなことより、直に言葉を交わすことだ。
そのためには社会に「道場」が必要だ、と思っているのだ。身体ごとぶつかれる、道場という「場」が。
そんな中から意志を持った人間が、道場をステップボードにして芽生えてくれたら、これに勝る喜びはない。
パラエストラ東京に「プロ練習」は、基本的に存在しない。世界レベルの者と初心者が同じ場所で研鑽できる、いわゆる「クラブチーム」型で常にありたいという思いがあるからだ。もっともプロ(とか白帯)だけで練習している「状況」というのは、当然あり得るのだが。
それでも人は育つ。試行錯誤する。巣立つ。私はその背中を押してやるだけだ。それに後発の人間は、必ず私や今のレベルを超えてゆく。必ず、だ。
私自身、血筋があるわけではなく、何を心得ているわけでもない、只の人だ。ただずっと格闘技が好きで(嫌いにならないで)、今日まで来ただけだ。
強かろうと弱かろうと、大きかろうと小さかろうと、思想や信念に違いがあっても、どんな人間でも構わない。そんなことより、触れ合うことだ。
意見が同じでなくても、全く構わない。そんなことより、直に言葉を交わすことだ。
そのためには社会に「道場」が必要だ、と思っているのだ。身体ごとぶつかれる、道場という「場」が。
そんな中から意志を持った人間が、道場をステップボードにして芽生えてくれたら、これに勝る喜びはない。
(19:52)
2011年08月16日
数年前からパラエストラ東京は、「キング・オブ・スポーツ路線」と銘打って(?)「ありとあらゆるスポーツに打って出る団体になろう」と非公式に宣言してきました。今回はその真意を述べたいと思います。
そもそも私は、パラエストラ設立当初から「できることなら全団体のオフィシャルジムになりたい」と発言していたのです。当時ある雑誌のインタヴューに応えてのステートメントでしたが、完璧に本音でした。
また古代オリンピックに於いてレスリングが主要競技のひとつであり、メインの五種競技の他の競技(短距離走、幅跳び、円盤投げ、槍投げ)をやって勝ち残った選手が、最後にレスリングを実施した故事にあやかってもいるのです。
加えて道場を運営していく中で、例えば寝技なら寝技だけに偏重していく事で故障が増える可能性があるのかも知れないと感じたことから、道場生の身体面の健康を真に願うなら、「この道場を起点として色々なものに挑戦していく姿勢を後押しした方がより良い」と考え直すに至ったのもあります。
更に突き詰めれば、「すべての運動は格闘技にとって何らかのドリルである」ということに気付いてしまったという私自身の変化があげられます。そうでなければ説明のつかない何人もの生徒の成長が、この私の人生観を形作ってくれました。
以上のような諸々の要因が重なり合って、クロストレーニングを奨励し他の各スポーツや格闘技、武道や武術とも緩やかに繋がっていこう、と願っているわけです。
今では柔道、サンボ、アマチュアレスリング、相撲は勿論のこと、キック等の打撃系競技や各種総合系とグラップリング系、だいたいどこに行ってもパラエストラ・グループの姿を見つけることが出来るはずです。
更にモンゴル相撲や沖縄角力などの民族的格闘技に挑む方や、陸上競技会やマラソン、トレイルランニングなどのランナー達、ボルダリングなどのクライマー達など、いろいろなスポーツに挑む方が続々増えてきました。しかも嬉しいことに、所属の欄にはパラ東の名を記入してくれている方もいらっしゃいます。これからはフットサルなどの球技や、水泳やトライアスロンなどを嗜む方も出てくるのではと考えています。
たとえ、スピンオフして始めたものの方が人生における比重が高くなってしまっても、それはそれで全然悪いことじゃありません。格闘技はいつ始めても、いつ再開しても、出来るものです。門戸は、いつでも開かれています。
そもそも私は、パラエストラ設立当初から「できることなら全団体のオフィシャルジムになりたい」と発言していたのです。当時ある雑誌のインタヴューに応えてのステートメントでしたが、完璧に本音でした。
また古代オリンピックに於いてレスリングが主要競技のひとつであり、メインの五種競技の他の競技(短距離走、幅跳び、円盤投げ、槍投げ)をやって勝ち残った選手が、最後にレスリングを実施した故事にあやかってもいるのです。
加えて道場を運営していく中で、例えば寝技なら寝技だけに偏重していく事で故障が増える可能性があるのかも知れないと感じたことから、道場生の身体面の健康を真に願うなら、「この道場を起点として色々なものに挑戦していく姿勢を後押しした方がより良い」と考え直すに至ったのもあります。
更に突き詰めれば、「すべての運動は格闘技にとって何らかのドリルである」ということに気付いてしまったという私自身の変化があげられます。そうでなければ説明のつかない何人もの生徒の成長が、この私の人生観を形作ってくれました。
以上のような諸々の要因が重なり合って、クロストレーニングを奨励し他の各スポーツや格闘技、武道や武術とも緩やかに繋がっていこう、と願っているわけです。
今では柔道、サンボ、アマチュアレスリング、相撲は勿論のこと、キック等の打撃系競技や各種総合系とグラップリング系、だいたいどこに行ってもパラエストラ・グループの姿を見つけることが出来るはずです。
更にモンゴル相撲や沖縄角力などの民族的格闘技に挑む方や、陸上競技会やマラソン、トレイルランニングなどのランナー達、ボルダリングなどのクライマー達など、いろいろなスポーツに挑む方が続々増えてきました。しかも嬉しいことに、所属の欄にはパラ東の名を記入してくれている方もいらっしゃいます。これからはフットサルなどの球技や、水泳やトライアスロンなどを嗜む方も出てくるのではと考えています。
たとえ、スピンオフして始めたものの方が人生における比重が高くなってしまっても、それはそれで全然悪いことじゃありません。格闘技はいつ始めても、いつ再開しても、出来るものです。門戸は、いつでも開かれています。
(21:53)