SOUL ―1995・4・20 Vale-Tudo Japan Open 95 中井祐樹・戦いの記録

「分水嶺」

修斗なくして、現在の総合全盛時代はなかった。

89年5月18日のプロ公式戦第1戦から17年、修斗はルール、グローブ等、スポーツとしての「総合格闘技」を創造し、ルミナ、マッハ、宇野、KID、五味ら多くの人材を輩出した。

だが、もし、一人の男の魂の戦いがなかったら―――。
すべての格闘技ファンに知ってほしい。
修斗存亡の危機を救った「VTJ95」、
中井祐樹の戦い。

創刊20周年特別企画・完全再録
「SOUL
―1995・4・20 バーリ・トゥード・ジャパンオープン95
中井祐樹・戦いの記録」

 もし、あの夜、中井がゴルドーに屈していたら、今日の修斗は存在しただろうか?
 日本に「総合格闘技」というムーブメントは起こっただろうか?
「目の前の敵は誰であろうと倒す」
 その一念だけで無差別級トーナメントのリングに上がった1人のシューターの放った鮮烈な光がなかったら…。
        *
 1999年2月。熱砂の国・UAEの首都、アブダビ。サブミッションレスリングトーナメント、アブダビコンバット・無差別級、準決勝の舞台に桜井“マッハ”速人が立った。対戦相手のリコ・ロドリゲスは体重130kgの巨漢。それでも桜井は圧力をしのぎながら互角に戦った。両者に決定的なポイントがないまま、時間が過ぎていく。
 だが、劇的なフィニッシュが残り10秒で訪れた。一瞬の隙を突いて、桜井が下から足を絡ませ、ヒールホールドでねじり上げたのだ。体重差は実に60kg。場内は一瞬にして「ハヤトコール」に包まれた。
 しかし、当の桜井は事もなげに言った。
「中井さんも無差別で戦ったでしょ」
 130 kgの敵を前にした時、桜井の頭によぎったのは「中井祐樹」の姿だった。
「中井さんもこんなデカいヤツとやったんだ、っていう気持ちがあったから、相手がどんなにデカくても負けたくなかったし、追い込まれても絶対諦めないと思ってた。だから、いたよ、中井さん。いつも気持ちの中にいた」
 そう言って桜井は自分の胸を叩いた。
        *
 それは95年4月20日、日本武道館で行なわれた「バーリ・トゥード・ジャパンオープン95」(以下、VTJ95)でのことだ。修斗の命運を背負い、身長171cm、体重71 kgと出場選手中、最も小さい当時の修斗ウェルター級王者、中井祐樹が、無差別級トーナメントのリングに上がったのだ。
 そこで、中井はヘビー級選手を相手に計49分間戦い抜き、修斗の強さを身を以て示した。すべてのシューターの胸に今も宿る、中井祐樹、魂の戦い。
 それは、文字通りの「死闘」だった。


勝利の確信と誤算

 試合前、レフェリーの小方康至は出場選手の一人一人に大会ルールを印刷した紙を配って回った。前日のルールミーティングである団体から「決定事項を書類にしてくれ」と申し入れを受けてのことだった。
 ジェラルド・ゴルドーの控え室に入った小方は、それまでと同じように書類を渡し、説明を加えようとした。だがゴルドーはそれを制し、小方にこう告げた。
「私はお前を信じている」
 前日のルールミーティングでは選手同士が激しく牽制し合った。ヒジ打ちを認めろと要求するゴルドーに、それならグラウンドでのヒジ打ちも認めるのか、とヒクソンがやり返す場面もあった。
 だが、試合当日のゴルドーは穏やかで、紳士的な態度だった。
「だけど、僕が甘かった」
 後に、小方はそう振り返ることになる。ゴングと同時に、ゴルドーは豹変した。「喧嘩屋」の本性をムキ出しにしたのだ。
         *
 トーナメント1回戦、中井vsゴルドーが発表されると、関係者は一様にその危険性を指摘した。ゴルドーはアルティメット大会準優勝の実績がある上に、中井との体格差は身長で27cm、体重で29kg。中井の寝技を評価する者もこの「体格差」の前には沈黙せざるを得なかった。
 中井は70年8月18日、北海道で生まれた。北大で引き込みありの七帝柔道に出会い、寝技にのめり込んだ。大学を3年で中退すると92年8月にスーパータイガージム横浜(現・シューティングジム横浜)に入門。94年9月にVTJルールで柔術黒帯のアートゥー・カチャーと対戦し、引き分けには終わったが、カチャーにヒザ十字を極める快挙を演じた。同年11月には草柳和宏を下しウエルター級王座を獲得した。
 しかし、グラウンドに持ち込めば、休むな、と野次が飛ぶ時代だった。中井の技術は理解されず、自分の技術、寝技の重要性を示すには自分がメジャーになるしかなかった。プロレスラーを倒すか、アルティメット(UFC)を制覇する。95年初頭に、中井は自身の「メジャー化計画」を立てた。
 94年の夏からはスーパータイガーセンタージム(現・PUREBRED大宮ジム)でエンセン井上から柔術の技術を学んでいた。準備は整っていた。
「疾走、疾走だった」
 中井は当時をそう振り返る。
 当時、修斗は危機を迎えていた。唯一のプロモーション、日本プロシューティング株式会社の経営的な危機こそ、94年始めのスポンサーの獲得で乗り切ったものの、今度は修斗の本質にかかわる危機に見舞われていたのだ。
 アルティメット大会が起こした「何でもあり、グレイシー」ブームに乗る形で、日本プロシューティング株式会社が母体となったVTJ実行委員会は94年7月にVTJ94を開催した。
 日本初の何でもあり大会ということで東京ベイNKホールはほぼ満員になった。だがそのリングで修斗代表の当時のライト・ヘビー級王者川口健次と、草柳和宏が惨敗。まだ「何でもあり」の技術を修斗自身が掴んでいなかったのだ。大会はヒクソン・グレイシーというヒーローを生み出したが、修斗内部には激しい動揺が走った。自分たちのやってきたことは何だったのか…。
 だからこそ、修斗はVTJ95で結果を出さなくてはならなかった。創始者・佐山聡は、その期待を中井に託した。
「中井の精神的な強さは言わば藤原敏男(元ムエタイ王者)です。ゴルドーには絶対に勝てると信じていました。ただ、ゴルドーの反則があそこまで厳しいとは…。それだけが誤算でした」
        *
 開始のゴング。中井がゴルドーに胴タックルをすると、ゴルドーは中井の頭を抱き抱えるようにしてロープ際まで後退し、引き倒そうとする中井の動きを左脇にロープをはさんでこらえた。そして、中井の右目へサミング(目潰し)を始めた。
 観客からは容赦ない野次が浴びせられた。
「殺せ!」
「ゴルドー、何やってもいいんだぞ!」
 ゴルドーが中井の顔面を殴り出すと、客席がドッと沸いた。
 観客は目の前で展開するムキ出しの暴力に「劣情」を催していた。当時は、人間を金網の中に入れ、馬乗りになっても殴り続けるアルティメット大会の衝撃映像が強く影響している時代だったのだ。VTJが「修斗vs世界」というテーマを打ちだし、その性格を変えたのは翌年以降のことになる。
 最初に、ゴルドーの妙な手つきに気がついたのはリング下のサブレフェリー・石川義将(第2代修斗ミドル級王者)だった。石川は2人が組み合うそばに駆け寄り、ゴルドーの指が動くのを見た。
「サミングだ!」
 石川が叫び、小方がゴルドーに「注意1」を与えた。だが、ゴルドーはそれでも表情一つ変えず、また胸と両手で中井の頭を抱え込む。何かをしているのは分かっても、小方にも、セコンドの朝日昇にもゴルドーが中井に何をしているのかは見えなかった。
 石川がリング下から叫んだ。
「ゴルドー、サミング取るぞ!」
 しかし、客席からは膠着状態にしか見えない。リング上の緊張をよそに、観客の野次と怒号はますます激しく、汚くなっていった。
 開始30秒で中井は右目の視界を失っていた。目の中を爪でえぐるようなサミングに、激しい痛みを感じてうめいたが、それでもゴルドーの体は離さなかった。
 サミングの注意後も、ゴルドーは反則を止めない。すでに右目は腫れ上がっていたが、中井はゴルドーの焦りを感じ取っていた。あと1回の注意で反則負けだ。
 コイツは反則で自滅するな、と確信した。


ゴルドーを制す

 中井にとってこの大会で最大の危機が第2ラウンドに訪れた。右足へのヒールホールドが失敗して下になった中井へ、ゴルドーが上からパンチを打ち付けたのだ。
「ズドン、ズドン!」
 空手家・ゴルドーの正拳が中井の顔面に打ち下ろされる音が会場に反響する。たちまち中井の右目から鮮血が飛び散った。
 この時、小方は中井の目を見ていた。ストップのタイミングを計っていたのだ。
 石川は、ゴルドーのパンチを受けて中井の頭がバウンドするのを見て、もう少し殴られたら自分が止めよう、と思っていた。
「サブレフェリーだから中立なんですけど、殴られるのを見ているのは辛かった」
 横浜ジムで中井に修斗の手ほどきをしたのが石川だった。バーリ・トゥードならば修斗のエースは中井だと考え、VTJ94の際には佐山に中井の出場を進言したほど、石川は中井の精神的な強さを買っていた。それでも、中井の打たれ方は酷すぎた。
 中井が両足でゴルドーの体を抑えようとしても、リーチの長いゴルドー相手では防御の意味を持たなかった。逃げ場のない、絶望的な状況。
 その時、セコンドの朝日が叫んだ。
「中井、こっちに来い!」
 ロープの外ならパンチも打ちにくくなる、と朝日は考えたのだ。同時に、タオルの投入も頭にあった。試合前、中井からどんなことがあってもタオルは投げないでほしい、と言われていたが、本当に駄目だと思ったら投げる、と朝日は答えていた。
 朝日の叫び声に導かれるように、中井はリングの外に上半身を出した。ドントムーブ。なおも身を乗りだし殴り続けるゴルドーの体を小方と石川、もう一人のサブレフェリー・渡部優一(初代修斗ウェルター級王者)が抑え、3人がかりでリング中央に移動させた。だが、ゴルドーは組み合うことを嫌がり、猪木-アリのままラウンドは終了。
 紙一重で、中井は危機を脱した。
 第3ラウンドは第1ラウンドと同じ体勢になったが、中井が頭の位置を動かし続けてゴルドーのパンチとサミングを避けた。中井がバックを取る場面もあったが、ゴルドーがロープとコーナーを巧みに使ってテイクダウンを避けた。
 この時、膠着の多さに客席には白けたムードすら漂っていた。
 ロープを掴むことを許したことが、この大会の大きな失敗だった。ロープを掴んでの打撃を想定したヒクソンのアイデアだったが、ゴルドーと山本宜久(当時リングス)がこのルールを利用し、ロープをテイクダウンを逃れる手段にした。8分1ラウンド、インターバル2分で、決着がつくまでラウンドを繰り返す「時間無制限試合」だったため、観客はいつ終わるともしれない試合に苛立ちを募らせ、野次を浴びせた。この大会の荒れたムードは進行の手際の悪さとともに、ルールも一因になっていた。
 第4ラウンド開始直前、小方はゴルドーのグローブの右手・親指部分をテーピングで固定した。親指とグロープを固定しているヒモが切れていたためだった。このヒモを指を動かすために故意に切ったのか、自然に切れたのかは小方にも分からなかった。
        *
 第4ラウンド、中井は意を決して両足タックルを仕掛けた。当時、修斗の主流は胴タックルだった。VTJ94で川口と草柳が足にタックルを仕掛け、上からパンチで殴り倒された反動だった。だが、中井は局面を打開するため、あえて両足タックルを選択した。中井のタックルを受けてゴルドーはコーナーに詰まるが、またしてもロープを掴んでこらえると、そのままフロント・スリーパーを仕掛けた。
 だが、中井は腰を落とし、少しずつ足元に体をズラすと、ゴルドーの左足を脇にはさみ込み、素早くヒール・ホールドに移行した。
 ゴルドーはロープを掴んで抵抗したが、中井がねじり上げると、ゆっくりとその巨体がマットに倒れた。と、すぐさまゴルドーが左手でマットを叩く。ついに、中井が技と粘りでゴルドーを制したのだ。
 中井は、ヒール・ホールドが右足よりも左足の方が得意だった。第2ラウンドの失敗は右足。フィニッシュは左足だった。
 朝日と、「担架係」としてリング下にいた佐藤ルミナに支えられて中井はリングを降りた。バックステージで中井が叫ぶ。
「やった、専門誌の予想を覆したぞ!」
「当たり前だろ。あいつら、シロウトなんだからよ」
 朝日の答えに中井が微笑んだ。
「そんなこと言ってー。また嫌われますよ」
 2人は控え室には戻らず、武道館の裏手に横付けされた救急車に向かった。
 中井は額全体を腫らし、特に右目は赤黒く腫れ上がっていた。だが、まだ1回戦を突破したにすぎないのだ。あと2つ…。
 試合後、ゴルドーはサミングは故意ではないと主張し、こう言った。
「ナカイはスタミナと強いハートを持ったいいファイター。ヒジ打ちが嫌だなんていうチキン(臆病者)のヒクソンより、ナカイやヤマモトの方がガッツがある」
 ゴルドーは注意1により罰金10万円をファイトマネーから差し引かれた。ヘイズの負傷棄権によって巡ってきた敗者復活戦の権利は左ヒザの負傷により放棄。それでも観客は「ヒクソンvsゴルドー」を期待して騒ぎ出す。すると観客の前に姿を現わして自身の欠場を詫びた後、
「神戸の皆さん(大震災の被災者)にポケットマネーから500ドルを寄付する」
 そう表明し、観客の大きな拍手を浴びた。