2013年05月30日

特別な一日。中井祐樹、11年前の「あの日」を語る

特別な一日。中井祐樹、11年前の「あの日」を語る




まだ24歳の若者がVTJ95で手にしたものは、束の間の栄光と、あまりにも大きすぎる代償だった。

なぜ、彼は無差別級のリングで勝利し、強さを証明しなくてはならなかったのか?

中井祐樹が今、11年間の胸中を明かす。


「真剣勝負を装う“擬似格闘技”と

それを容認する世間への怒りーー。

VTJ95で革命を起こしたかった」



「あの日は…、本当に楽しかったんですよ」

 微笑みながら中井祐樹はこう続けた。

「“世間”と戦っているような感じだったかな。凄く高揚してたし、あの日は試合の合間もずっと“楽しい、楽しい”って言ってたんじゃないかな」

 彼にとっては念願の無差別級トーナメント出場だった。

「世に出たかったというのもなくはないです。ただ“技術が体格差を越えることを証明した”と言われるのは、僕にとってはそんなことはどうでもよかった」

 彼を無差別のリングに駆り立てたもの、それは「怒り」だった。

「怒ってました。無茶苦茶怒ってたんです。真剣勝負で戦ってる自分たちが“弱ええよ、ちっちゃいじゃん”で片付けられて、今だからはっきり言えますけど、真剣勝負じゃない“格闘技系プロレス”がマスコミに大きく取り上げられることに凄く憤ってました。だったらそいつらとやって、皆に自分たちの強さを見せて引っ繰り返そうって。子供っぽい感覚だし、僕の若気の至りとしか言いようがないんですけど、あの時はああいう場で証明するしかなかった。でも…」

 中井はこう付け加えた。

「怒りは物凄いパワーを生みますよね。だけど、ある種、空しいですよね」

         ◇

 今でこそ格闘技とプロレスには明確な「一線」が引かれているが、95年当時、そこに引かれるべき線は、恣意的に曖昧なものにされていた。

 加えて、「真剣勝負」を前面に押し出したシューティング(現在の修斗)は「地味、退屈」なものとして大きく取り上げられることはなく、プロレスラーや格闘技系プロレスラーと比較される時は「体の小ささ」を理由に「弱い」と切り捨てられた。

 当時、強さを測定する際の物差しは、ボクシングやレスリングのような「階級制の格闘スポーツ」の視点は全く存在せず、プロレスを基準にした「大きい者=強い、小さい者=弱い」というビジュアル面のみだったのだ。

 その極めて日本的価値観を大きく揺さぶったのが、93年に誕生したUFCであり、ホイス、ヒクソンのグレイシー一族だった。だから、彼らの存在は日本のプロレス・格闘技界にとって「黒船」だったのだ。

 逆に、試行錯誤を繰り返し、技術を身に付け、真剣勝負の中で「強さ」を追い求めてきた中井たちシューティングの選手にとってはチャンスの到来だった。

「僕には“シューティングはグレイシーに負けてない。総合格闘技のパイオニアはこっちだ”という気持ちがありましたよ」

 VTJ95のトーナメント表を見て、中井は自身の決勝進出を確信し、課題はヒクソンをどう攻略するかだと考えていた。

「グレイシーの寝技は確かに凄い。でも、僕らは“打・投・極”、全部出来る。だから勝つはずなんだ、という根拠のない自信がありましたよ」

 95年4月20日――。

 快晴の空の下、日本武道館を望みながら、中井にはこんな思いがよぎった。

「ここに来る人の中で、僕がゴルドーに勝てると信じて疑わないのは、佐山(聡)先生と僕だけかもしれない」

 観客の期待は圧倒的に「決勝戦でのヒクソンvsゴルドー」。VTJ95は中井にとって完全なアウェーでの戦いだったが、彼には絶対の自信があった。

「負ける要素は全くなかったですから。特に、VTJ94で川口さんと草柳さんの戦いを見て、1年間、エンセン井上とVTやグレイシーの研究が出来たことが大きかった。だから、僕は先駆者と言われるけど、僕の前には川口さんと草柳さんの存在があって、それがなくては勝てなかったです」

         ◇

 中井や佐山聡にとっての誤算はゴルドーのサミングだった。

 ぶしつけなことは承知の上で、中井に聞いた。なぜ、ゴルドーはサミングをしたのだろうか、と。

「そうですね…」

 しばしの沈黙の後、中井は答えた。

「多分、二つあったと思います。一つは、彼はプロレスラーでもあるし、八百長もするし“ファンにウケること”をするんだと思います。あの日は“そのちっちゃいヤツをぶっ殺せよ!”みたいな雰囲気で、彼は観客のノリに乗ったんでしょう。本人は悪い人じゃないと聞きますし、お調子者で、おふざけに近いものだと思いますよ」

 まあ、それが全てなのかな、という中井に「もう一つ」を聞く。

「これは僕の希望的なことかもしれないけど“やられる、こうしないと勝てない”と思ったんじゃないかって。でも最初の、1分も経たないうちのサミングでしたからね。試合の途中では“寝技になったら危ない”と思ったかもしれないですけど」

 筆者は、後者ではないかと考えている。「異種格闘技」的な試合では悪質な反則を犯す選手が実に多い。彼らの共通点は「技術のなさ」。寝技を知らないゴルドーしかり、ローの対処が全く出来ずにK−1に上がったボクサーしかりだ。

 その場合、反則行為の責任は本人は当然のこと、そのルールで戦う技量のない者をリングに上げた主催者にもあると思う。

「なるほど。時々アマチュアで驚くほど悪質な反則をする人がいるんです。喧嘩をしてきた人で、技術がない。それと同じメンタリティーなのかなぁ」

 そして、中井はサラリと付け加えた。

「あの日のゴルドーは僕の両目を潰せば勝てたんだと思いますよ」

 今、ゴルドーに対して特別な感情はない、と中井は言う。ただ、数年前に某雑誌から「ゴルドーと対談してほしい」との申し込みがあった時は断った。

「喋ることはないですから」

 中井とゴルドーを会わせて何がしたかったのだろう。企画者の神経を疑う。

         ◇

 今でも、VTJ95について聞かれることは多いという。

「そういう時は、そんな昔の大会をよく見てるねー、マニアだねーって言いますよ」

 中井の他人事のような口調は「タイガーマスク」の話をされた時の佐山聡氏そっくりだ、と言うと彼は笑った。

「でも、もう自分のことじゃないみたい。あまりにも昔すぎて」

 それが本音なのだろうと思う。VTJ95の話をする時の彼は、心の奥底にしまってある記憶を一つ一つ指でなぞるように、ポツリ、ポツリと言葉を選んだ。

「今はプロレスに対しても、格闘技系プロレスに対しても恨みはないし、文句を言うつもりもないです。ただ静かに、全体の流れに感謝してるだけ。当時は総合格闘技が市民権を得るなんて考えられなかったですけど、今は、真実の戦いが大晦日にまで流れるようになった。そういう流れの発端の一人になれたのなら、それは良かったなと思います。当時は、真剣勝負はエンターテイメントにならないと言われたり、今思えばよくあれが真剣勝負だと思って見てたな、というものがありましたけど、今は色んなフェイクが剥ぎ取られて、ある種、まともになったように思いますし」

 ただし、全てを手放しで喜んでいるわけではない。総合隆盛の中、中井には気に掛かることがある。

「総合格闘技は体の鍛えた人にしか出来ないもので、子供は真似しないように、って今の総合は言ってますか? 僕は元々プロレスファンだったから、プロレスの入門書にあった“この技は体を鍛えたレスラーだから出来ることで子供は真似しないように”という文句がすり込まれてましたよ。

総合がプロレスにとって代わったのなら、言うべきですよね」

 ここ数年で格闘技を取り巻く状況は劇的に変わった。地上波での人気を背景に、ジムが急増し、スポーツジムなどで気軽に格闘技を楽しむ環境も整った。

 だが、その一方で「異種格闘技」的な試合が相変わらず幅を利かせている。

「大晦日に視聴率を取るためにやってますけど、経験のない人に試合させて、事故は起きてないですけど怖いと思いますよ」

 最後に、中井に訊ねた。

 あなたの人生の中で「VTJ95」とは、一体何だったのか、と。

 視線を宙に泳がせ、しばしの沈黙の後で、彼がゆっくりと口を開いた。

「初めて、いろんなことを考えた機会だったですね。成功でもあり、挫折でもある。夢が潰れた瞬間でもあるんで、簡単に言うとターニングポイントですね。あそこから色々なものが変わって、本当にターンした感じですから」

 まだ24歳の若者が、長く憧れていたプロの道をたった2年で断念しなくてはならない無念さは、筆舌に尽くしがたいものがあったことだろう。

 今、中井は「使命」という言葉を使う。

「人はそれぞれ役割があると思います。タレントみたいなことで格闘技を広める人もいるでしょうし、僕は道場で、格闘技をどんなレベルでも楽しめるものとして広めていくのが使命ですね。僕はもう総合をやる立場にはないから、自分の役割を担うだけですから」

 中井が表情を引き締めた。

「こっからですよね。むしろこっからが大事なんじゃないですか。総合をどう熟成させて、発展させていくか」

 最後に、私が彼にVTJ95の話を聞くのは今回限りになると思う。辛い記憶を掘り起こしてしまって申し訳ない。御協力に感謝しています。ありがとうございました。


[出典]「ゴング格闘技」2006年7月号

    茂田浩司 記名原稿



■解説 / 中井祐樹(2013.5.25.談)


 これ(=SOUL)は修斗読本が初出なんですが、それを読んだ時にああすごくいろんな人に噺を聞いたんだなと思った記憶があります。リニューアルされたゴングに再録することで出た時の原稿ですね。その時に追加インタビュー(=特別な一日。)を、パラ東の向かいにある和み亭(現在に和民)でやったんですよね。

 茂田さんとの出会いは、僕が修斗のフロントだった時代(1996年)です。茂田さんは当時「東京ウォーカー」の編集部にいらして、修斗のイベント関係のプレスリリースを流す担当者が、茂田さんだったんですよ。まさかその頃は、格闘技の世界にライターとしてこられるとは思っていませんでした。今ときどきお会いすると話すんですけど、「アレがきっかけになったんですよ」と言って下さったりして。そういう意味では共にやってきたような感じが、勝手ながらしていています。いまやいろんな分野で活躍されてますけど、多ジャンルに興味が向くという意味でも視野の広い方だと思います。

 とても秀逸なもの書いていただいたと思います。自分は闘っただけなんで。ただあの時の事は今となっては苦い想い出でもなんでもなくて、本当にその後の流れに繋がる出来事だったと思うので。語ってもらえる方がいると言うことが、とてもありがたいことだと思います。



■解説 / 若林太郎(2013.5.29.筆)


 茂田さんのご厚意で、玉稿をParaestra Weeklyに再録させていただくことができました。ありがとうございます。

 ここで解説というより、思い出話をひとつ。95年当時、すでに修斗のプランナーを始めていた私でしたが、バリジャパ95はブッキング交渉の諸々から担当を外れ、一関係者として客席から観戦していました。会場内の雰囲気を知るために、試合毎に武道館を移動したりして試合を見ていました。だから中井-ゴルドー戦の時の汚いヤジも、観客席で間近で聞いています。

 93年にK-1で働いたこともあって、ゴルドーとも面識がありその性格も知っていたので、その組み合わせを最初の聞いた時には、佐山さんに翻意を促すためすぐさま高田馬場の事務所から東大宮のスーパータイガーセンタージムへ向かいました。するとジムには中井さんがいて、「いやだな。若林さん、僕が負けると思っているんですか?」とニコっと笑われて、それで何も言えなくなってしまいました。大一番を控えた選手を前に、「危険だ、危険だ」と主張することもできず。

 正直、反則は絶対ありうると思ってした。ゴルドーにとって何でもありとは、「負けないためなら反則あり」だと考えて間違いないからです。中井さんが大きな怪我をしていまうことで、マッチメイクやプランニングを担当していた普段のプロ公式戦に影響が出ることを恐れていました。しかしその「大きな怪我」が、目の負傷であるとは想像だにしませんでしたが。

 大会時にはスタッフから外れた私ですが、大会後に出番が待っていました。詳しい日付は記録してないのですが、おそらく武道館大会から1ヶ月後ぐらいのことだったと思います。(この時私はまだ中井さんの目の事は知らされていませんでした。)私が呼び出されたのはとあるビデオスタジオ。そこではバリジャパ95の本編集が行われていました。多忙だった佐山さん代わって、私は編集の立ち会いを命じられたのでした。

 驚いたのが編集室に入ってまず聞かされたディレクターの演出プラン。「中井-ゴルドー戦は膠着が長いから前半をばっさり切って、ヒクソン-山本を中心に構成しようと思ってます。」絶句すると同時に、立ち会いに来て良かったと思いました。そこからいかに中井-ゴルドー戦がいかに凄い試合で、格闘技史上に残るものであったかを主張し、さらには急遽佐山さんにも連絡してガッチリ言ってもらって、試合はすべてノーカット収録とすることに成功しました。

 そのディレクターさんに対してどうこうではありません。むしろ同じビデオ監督としては、本編集当日に知らない人からやいのやいの言われて作ってきた演出プランを全面的に変えられて気の毒だったとも思います。1995年っていうのはまだそんな時代だったのです。まだまだガチンコ派は、世間と闘わなければならない時代でした。


 下写真は全試合終了後、控え室で私が撮影した試合当日の中井さん。保存状態の悪さでボロボロになっていますが、右下の撮影時刻が「23:04」となっているのがわかるかと思います。
中井VTJ95


paraosaka at 03:07│Comments(0)TrackBack(0)clip!タクミ 

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