中小企業に勤務していると馬鹿になる(2)

 「中小企業に勤務していると馬鹿になる(http://blog.livedoor.jp/patriotism_nippon/archives/4486324.html)」で、大企業の方が中小企業よりも良い最大の理由として人の問題を挙げました。曰く「最も顕著な違いはと言えば、それは人の問題です。言っては何ですが、中小企業には、無学で、無知で、無教養で、話をするのが苦痛になる馬鹿が多いのです」と書き、また「パソコンにパスワードを書いた紙片を貼っている人も珍しくありません」と書きました。いささか辛辣ではありますが、パソコンにパスワードが設定されている理由を考えようともしない人間がゴロゴロしている会社では、およそ話にも何もなりません。

 

 そもそも「考える」という習慣が全くないのであり、その結果、あらゆる場面で弊害が頭を擡げてきます。パソコンのパスワードの例はその好例で、言うまでもなくこれは、家の玄関に施錠しながら、その鍵を玄関のドアに貼り付けているようなものです。それが誤った行為であることに全く考えが至らない。それが中小企業のお馬鹿というものです。そんな会社に入社し、お馬鹿な先輩・上司を見習うことになる若い社員は気の毒なことです。事実、私が現在勤務している会社では、ゴミの分別ができない従業員がゴロゴロしていますし、ゴミは屑カゴの周辺に捨てておけばよいと考えている従業員が少なくありません。そうしておけば誰かが屑カゴに入れると考えているのでしょうし、事実、私が拾って屑カゴに入れていますが、そういう自分の行為の是非を考えることは全くしない(できない?)のであり、いくら注意しても改まりません。それが中小企業のお馬鹿従業員の生態です。

 

 で、先日もまたお粗末な出来事がありました。その日の19時30分から翌日の2時頃まで、事業所にエアコンの清掃業者が入ることになっていました。課長の一人から要望があり、清掃業者を入れることになったのですが、業務中では差し支えるということで夜間作業になったのです。そこで、19時30分に来社する清掃業者に応対し、事業所の施錠の仕方を教えた上で鍵を預け、それから帰宅する係が必要になりました。とは言っても、営業スタッフは19時30分頃までは普通に業務を行っており、施錠の仕方を知っているスタッフが必ずいるはずですから、特に問題はなかったはずなのです。

 

 ところで、私は営業には携わっておらず、障碍者の指導・教育が主業務なので18時には退社してしまいます。そのため、事業所の施錠をしたことはなく、施錠の仕方も知らないので、清掃業者に教えることもできません。1時間30分残業しても無用の長物になるだけですから、残業するスタッフに対応を頼んで、私は警備保障会社に深夜作業等について連絡するだけにしました。この警備保障会社への連絡については誰も気付いていなかったので、施錠に関しては無用の長物の私も、その点では必要な存在だったことになります(笑)。

 

 ところがと言うべきか、やはりと言うべきか、予想していたとおりなのですが、「人に頼まないで自分が19時30分まで残れよ」と批判する部下(課長)が現れました。もちろん、面と向かって言ったわけではなく、自分の部下たちに対してこっそりと言っだけですが、こういう話はすぐに伝わって来ます。普通に考えれば、施錠の経験がない私が残る必然性はありませんし、無要な残業が発生してしまいますから二重の無駄になります。普段どおり残業し、普段どおり施錠して退社するスタッフが清掃業者に対応した方が、理にかなっていることは論を俟ちません。要するに感情論だけで批判しているのであり、批判のための批判をしているだけと言ってよいでしょう。それで部下に対していい恰好をしたつもりなのかもしれません。本人は、課長らしい鋭い批判をしたとでも思っているのでしょう。セクハラ・パワハラが企業文化のような会社であり、誹謗中傷・流言飛語が日常業務のようになっている会社なので、当然予想できたことですが、こういう上司の下にいる若いスタッフは気の毒です。物事を論理的・合理的に考えるということを教わることは決してないでしょうし、感情論だけで物事を判断し、得意げに批判するお馬鹿になるのは明らかです。 

 

その日の出来事は一つの事例にすぎませんが、若い部下に「所長は残らないのですか?」と訊かれたときに、部下が納得するような合理的な説明ができないどころか、自ら率先して「人に頼まないで自分が残れよ」などと陰で言っているような上司の下にいては、その部下の将来も推して知るべしでしょう。いずれは、その上司も部下に同様の批判をされることになるに違いありません。こういう事例は中小企業では枚挙に暇がないでしょうが、中小企業に勤務しているとお馬鹿になる典型的な事例であると感じたので、参考までに書き記しておくことにしました。やはり、中小企業の最大の問題はお馬鹿が多いということなのです。


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大津市は「虐待の街」か?

 また大津市である。またというのは、大津市と聞くと「苛めの街・虐待の街」という印象があるからである。2012年7月に大津市の中学校で苛めによる生徒の自殺事件が起きたとき、私も件の事件について論じたエッセイを連日発表した。思い起こせば、このブログが飛躍的に読者を増やした最初のきっかけは、件の中学生自殺事件だったのだが、当時は教師や教育委員会を擁護する論調が多かったようである。つまりは責任回避に躍起になっていたということだろうが、以来、大津市や滋賀県に対する印象は頗る悪い。

 

 そして、私が抱く印象が正しいことを証明するかのように今回の事件である。事件の発生は先月のことだそうだが、産経WESTの記事を引用させていただくと、詳細は以下のとおりである。

 

大津市の市立南郷中で2年の男子生徒(14)がソフトテニス部顧問の男性教諭(31)から校舎の周りを80周走るよう指示され、熱中症で倒れた問題で、大津市教委の船見順教育長は14日に記者会見し、「体罰の範囲を超えた許されない行為。誠に申し訳ありませんでした」と謝罪した。

 

 市教委によると、教諭は生徒が12日の練習でサーブミスを繰り返したことから校舎の周りを走るよう指示。その際、生徒に何周走るつもりか尋ねたところ、「4周」と答えたことに腹を立て、「80周走れ」と言ったという。

 

(引用終了)

 

 私はこの生徒とは縁もゆかりもないが、私にも息子が二人おり、来年は孫も生まれる。大津市に居住しているわけではないが、他人事という気がしない。有り体に言えば無性に腹が立つ。なぜ、こんな狂った輩が公立中学校の教師を務めているのか不思議だが、昔から言われているように、教員の採用はほとんどがコネで、人格・見識・能力などは評価の対象にならないという説が正しいとしか思えないのである。教師が聖職だったのは遠い昔の話で、今の教育界は屑の吹き溜まりになっているとしたら、まことに嘆かわしい限りである。

 

 で、件の教師の何が狂っているかというと、この点については教育長が上記で引用した記事の続きで、「そもそもサーブミスを理由に校舎の周りを走るのを指示すること自体が不適当だった」と述べていることが正鵠を射ている。ただし、続けて「行き過ぎた指導だった」と述べている点は、暗に件の教師を庇っていると読めなくもない。これは明らかに虐待であって、決して指導ではないからである。

 

 そもそも部の顧問である教師の任務は、適正な部活動の管理・監督であり、生徒の安全を守ることであり、生徒の能力・技術の向上のために指導することである。生徒がミスをしたからといって体罰を加えることが任務ではない。ミスをしたことが気に入らない、上手くできないことが気に入らないからと体罰を加えても、それでミスはなくならないのである。何十キロ走らせようと、それでテニスが上達するはずがないことは誰でも分かる。分からないのは小学生レベルの知能しかないということである。

 

 実は、こういう事例は小学生の間では珍しくないと思われる。私が子供の頃にも同様のことがあった。小学生のころ、大人のコーチのいない子供だけの野球チームがあり、私もそのメンバーだった。主として小学校の校庭を利用して練習していたのだが、チームを率いているのは悪ガキというのが相場であり、チームに入らないと苛めの対象になるから、嫌々ながらチームに加わっていたメンバーも少なくなかった。練習はもちろん酷いもので、特に守備練習は練習とは言えないものだった。悪ガキがノックする打球を他のメンバーが捕球するのだが、下手な子はなかなか上手く捕球できない。すると「馬鹿野郎!グラウンド10周走ってこい」と罵声を浴びせられる(あだち充の野球漫画にも、そういうシーンがあった)。やっと走り終えて再びノックを受けるが、やはり上手く捕球できない。再びグラウンド10周という繰り返しになる。当たり前である。走ってばかりいて、ほとんど守備練習をしていないのだから上達するわけがない。下手な子こそ走らせるのではなく、捕球できるようになるまでノックを続けるべきなのである。悪ガキは、走っていれば上達すると本気で思っていたのかどうかは不明だが、たぶん「ミスをしたら走らせる」と機械的に覚えていただけで、何も考えていなかったのだろう。ちなみに、こういう悪ガキは自分が守備練習のときにエラーをしても、走りに行くフリをするだけで、まともに走った試しがなかったが、小学生のレベルはそんなものだった。

 

 また、こういう状況に我慢の限界を超えた3人のメンバーが「チームをやめたい」と言ったとき、「やめるなら校庭を100周走れ」と言って、実際に20周くらい走らせたようだった。夜になってしまったので途中で終わりになり、その後は何とか折り合いを付けたようだったが、小学生レベルではこういう練習が罷り通っていたのである。大津市立南郷中のソフトテニス部顧問の教師は、もともと虐待癖があり、しかも小学生レベルの知能のまま大人になり、教師として採用されてしまったかのようである。そうだとしたら、生徒たちにとっても父兄にとっても不幸なことである。

 

 もっとも、こういう例は珍しいものではないのかもしれない。以前、私の友人に空手の黒帯がいて、その友人が通う道場では、上手くできないと館長に竹刀で叩かれたそうである。突きのスピードが遅いからといって、腕が折れるかと思うくらい竹刀で叩かれた門下生がいたそうで、友人は館長の厳しさを誇らしげに自慢していた。私は呆れて、「竹刀で叩いても突きは速くならないだろ。腕を痛めて却って遅くなるんじゃないの?突きが遅いなら、速くなるように指導するのが館長だろうに」と言ったところ、「いや、いくら教えても駄目なんだよ」と反論してきた。「そりゃあ突きは急には速くならないだろ。でも、竹刀で叩くのは指導でも何でもなく、ただのヒステリーみたいなものだろ。その館長は馬鹿じゃないの。指導者には向いていないよ」と言って険悪になったことがある。どこにでも馬鹿はいるものである。

 

 ついでだが、記事によると「この教諭は、約半年前にも部活動で行きすぎた指導があったとして、学年主任から注意を受けていたという」とのことだから、教師に対する管理・監督も杜撰に過ぎるという印象は免れない。ちなみに、今さらという感があるが、教育委員会は南郷中にスクール・カウンセラーを派遣するそうである。現在の制度では、スクール・カウンセラーは臨床心理士や精神科医でなければなれないそうだから、教育委員会は件の教師を精神異常者と見ているのだろうか(笑)。当たらずといえども遠からずかもしれないが、そういう手合いを教師として採用し、問題行動を繰り返させた教育委員会の責任も自覚すべきだろう。


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産業カウンセラー養成講座受講記(その後4)

(その後3)に書いたとおり、4月の末に、産業カウンセラー養成講座で同じ教室だった仲間の同窓会が開かれた。同窓生は14人なのだが、出席者はわずかに5人だった。もっとも、一人は地方へ転勤してしまったようなのだが、いずれにせよ集まりがよかったとは言えないだろう。しかも音信不通の御仁もいるので、関心がないのか完全に落伍してしまったのか、本当のところは分からないが、もしかしたら来年には出席者が増えるかもしれない。そうあって欲しいものである。

 

で、その同窓会だが、有り体に言えば「ただの飲み会」だった。「ただの飲み会」というのは、飲んで、騒いで、世間話をしただけという意味である。1人だけカウンセリングに関する講習会のようなものに参加した同窓生がいたが、例外中の例外である。その例外氏は、会社の業務として会社経費で養成講座を受講しており、会社で実際にカウンセリングを行っているらしいので、さすがに他の同窓生とは少々違う。というより相当に違う。養成講座受講中もレジュメを作成して配ってくれたことがあったのである。言っては何だが、他の同窓生は「産業カウンセラー」という資格を得たというだけで完結してしまい、新たにカウンセリングについて勉強を始めたということはないようだった。

 

しかし、「産業カウンセラー」という資格を取得したといっても、たかが140時間の講習を受講し、筆記試験と実技試験に合格したというだけである。それで「カウンセラーでござい」というのは余りにも僭越というものだろう。そもそも養成講座で叩き込まれた来談者中心療法は、「イロハのイ」とでも言うべきものなのである。かつては、特に日本では一世を風靡した理論だったらしいが、それは40年も50年も昔の話である。カウンセリング理論は進歩が著しく、現在では40以上もの理論があるらしいが、その中で来談者中心療法は、いわば基本中の基本とでも言うべきものだろう。カウンセリングの初期には傾聴に徹するという態度は必要かもしれないが、そのまま20回も30回も話を聴くだけのカウンセリングを続けることで、クライアントの問題が解決するというのは現実的ではない。このような主張をすると、「お前はカウンセリングが分かっていない」と非難されるのが産業カウンセラー養成講座だが、今や「分かっていないのはどちらかね?」という話なのである。

 

たとえば、来談者中心療法では、クライアントから「先生は若く見えますね。お幾つですか?」と尋ねられたら、「貴方は私の年齢が知りたいのですね」と応答することになる(國分康孝)。そこだけ聞くと「なるほど」と思うかもしれないが、「はい、そうです。お幾つですか?」と重ねて尋ねられた時に、またもや「貴方は私の年齢が知りたいのですね」と応答することはできないだろう。敢えてするのかもしれないが、三回繰り返して尋ねられ、三回繰り返して「貴方は私の年齢が知りたいのですね」と応答したら、クライアントは怒って帰ってしまうことだろう。「養成講座流の来談者中心療法」は、どう考えても無理があると言わざるを得ないのである。

 

で、(その後3)に書いたとおり、私は産業カウンセラー試験に合格後、カウンセリングに関する書籍をいろいろと買い込んで読み漁っている。特に國分康孝という先生の著書を読んでいるのだが、國分先生は、来談者中心療法については一定の評価をしながらも、既にその任を終えた理論と評し、受容・共感の美名の下にのらりくらりと話を聴くだけというのは無責任である、人間味のないプロフェッショナリズムであるなどと述べておられるが、まさにそのとおりだろう。私は、養成講座受講中にこういう発言をしたので、同じ教室の受講生(同窓生)からも「胡散臭い奴」という目で見られたものだが、カウンセリング界の大御所も、様々な著書の中で私と同じことを述べておられるのである。

 

そういう事情があって、養成講座受講中は鬼っ子だった私は、合格後は三段跳びで自信を回復していった。教室で「私はカウンセラーには不向きです。カウンセラーにはなりません」と宣言せざるを得ないところまで追い込まれていたことを考えれば、これは劇的な変化である。だから、同窓会のときは、同窓生たちが合格後にどのような勉強をしてきたのか、どのように考えを変えたのか、どのような実務経験をしてきたのかに関心があった。しかし、誰もが「カール・ロジャース原理主義」から一歩も踏み出していないようだったのである。試みに、私が繰り返し読み込んでいた國分先生の「カウンセリングの理論」という本を同窓会の席で見せたのだが、誰一人として関心を示さなかった。もはや彼らは、私とは別の世界の人になってしまっていたかのような印象だったのである。「ただの飲み会」とは、そういうことである。

 

最後に(その後3)に書いたことを繰り返すが、産業カウンセラー養成講座を受講している方々はもちろん、既に合格した方々にも、テキスト以外のさまざまな書籍を購読することをお勧めしたい。産業カウンセラー養成講座を受講して受験資格を得て、見事に試験に合格しても、それは終わりのない階段の一段目を登ったに過ぎないことを知るべきである。


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法医学は医学であり、法学ではない

 タイトルを読んで、「お前はアホか?」と思われた方が多いと思われるが、これが意外に笑い事ではないようなのである。敢えて説明するのもなんだが、法医学とは、司法解剖やDNA鑑定などを行う医学の一分野である。医学に詳しくない人でも、テレビドラマを見て多少の知識は持っているという人が多いかもしれない。名取裕子さんが主演する「法医学教室の事件ファイル」や、若村麻由美さんが法医学者を演じる「科捜研の女」(主演は沢口靖子さん)など、法医学者が活躍するドラマがあるからである(いずれも長年続いている人気ドラマである)。

 

 しかし、世の中には頓珍漢なことを言う御仁が珍しくないもので、法医学の「法」という一文字に意識を奪われてしまうのか、法医学を法律学の一分野だと思い込んでしまうらしいのである。当世の社会事情からして、法医学には倫理的な問題はもちろん、法的な問題も付きまとうから、法学部で法医学に関連する法律を学ぶことはあるかもしれないが、それは、あくまでも法律学として学ぶのであって、医学として学ぶわけではない。

 

 そもそも、日本語では修飾語は前に付くものであって、「法+医学」なら、それは法ではなく医学である。もっとも、近頃では話はそれほど簡単ではないとは言える。例えば「首都大学東京」というのがある。昔東京都立大学という名称だった。日本語の常識から言えば、「首都大学東京」は大学ではなく、東京という自治体であるということになる。真っ当な日本語なら「東京首都大学」になるはずであり、初めて聞いたとき、「それは大学なのか?それとも自治体なのか?」と思った人も少なくないのではないだろうか。いろいろ考えて「この奇妙奇天烈な名称は、もしや英語表記の直訳か?」と思った、英語表記では「Metropolitan University of Tokyo」ではなく、「Tokyo Metropolitan University」と表記するそうだから、いよいよ意味が分からない。「素直に東京首都大学にしろよ」と言いたいのは私だけだろうか。

 

 で、話を法医学に戻すと、昨日のニュースで、東大の新入生が将来の志望についてインタビューを受けている場面があったのだが、その中の一人が「ワクチンを創る仕事をしたい」というようなことを言っていた。理Ⅲの学生だったのかもしれない。それはそれで良い。ところが、返す刀で「法医学に興味があるので弁護士にもなりたい」と言っていた。言っては何だが、一瞬耳を疑うような発言である。理Ⅲの学生 → 医学 → 法医学というのは分かる。しかし、法医学 → 弁護士というのは全く意味不明である。私は法学部出身なので、医学部のカリキュラムのことは知らないが、例えば教養課程なら、法医学に関連する法律科目があるかもしれない。しかし、医学部の学生が、民法や刑法や訴訟法を専門的に勉強するはずがない。それはあくまでも法学部の分野であり、弁護士になりたいのなら法学部に進むべきである。もちろん、ロースクールには法学未習者コースがあるから、医学部を卒業してからロースクールに進学することは可能である。しかし、それでは医学部6年、ロースクール3年で、9年間を費やしてから司法試験を受験することになる。これはどう考えてもナンセンスであり、医学部の6年間は無駄である。法医学を専門にしたいなら医学部であり、弁護士になりたいなら法学部である。

 

 してみると、上述したように、件の東大生は「法」という一文字に捉われ、法医学は弁護士になる人が専攻する分野だと思い込んでいたのではないだろうか。いささか信じ難いが、法医学は医学ではなく法学であるという勘違いである。もしそうなら、これは実に滑稽な話である。東大生だというから勉強はできるのだろうし、試験に強いタイプなのだろう。しかし、余りにも無知であり、その発言をそのままニュースで放映するテレビ局もテレビ局である。おそらくは、テレビ局関係者も法医学=法学という認識だったのだろう。コメンテーターとやらも、「理科系の学生も弁護士を目指すんですねぇ」などと言っていた。その無知ぶりもさることながら、法医学が医学ではなくて法学だという日本語力にも呆れてしまう(その昔、「日本語の乱れは、政治家とアナウンサーの無知が原因」と言われた時代があった)。余りに呆れたので、パソコンの前に座った途端に指が動き始め、このブログいてしまったような次第である。

 

 しかも、同じニュースで盛んに放映していたが、最近、またもや日本人の英語狂騒曲が始まったらしいのである。小学校から英語を習うことになったせいもあるだろうが、インターナショナル・クラスのある学校とやらが人気で、クラスの7割が日本人の子供なのだという。英語の勉強を始めるのは早いほどよく、中学校からでは遅すぎるといった親の認識からだろうが、日本語も英語も中途半端な国籍不明人になるのがオチではないだろうか。ただでさえ日本語ができない日本人が増えているのに、小学生のときから英語漬けにして何をしたいのだろうか。子供を海外に移住させたいのか、外資系企業に就職させたいのか、その真意は不明だが、英語が少しできるだけの国籍不明人は、外国の社会では受け入れられないだろう。これは多くの識者が指摘するところである。

 

 そもそも、日本人が英語に弱いのは、日本語と英語の根本的な相違にも原因があるが、最大の理由は学校における教育方法に問題があるからである。だから、中学校から大学まで10年間勉強しても、英語ができない人が多い。しかし、戦前の日本では、中学校から英語の勉強を始めても、英語ができるようになっていた。戦後の日本人が特別に無能なわけではないから、学校の教育方法に問題があるだけなのである。「学校の教育方法に問題があるからこそ、インターナショナル・クラスに進学させる。普通の学校ではまともな英語教育は受けられない」という主張には一理あるだろうが、いささか思慮が足りないという印象は免れない。言っては何だが、英語狂騒曲の裏側には、日本語ができない日本人を増やそうだの、日本文化を根絶やしにしようだのという企みが潜んでいるとしか思えないのである。


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伊調馨選手に対するパワハラ事件について

 今さら言うまでもないことだろうが、日本は世界に冠たる自殺大国であり、苛め大国でもある。生活保護政策などは外国人優遇で日本人は冷遇されているため、高齢者が生活苦から自殺するケースが多いようだが、餓死する人も珍しくない。もちろん、餓死しているのは生活保護を受けられない日本人だけである。外国人が餓死したという話は寡聞にして知らないどころか、生活保護を受けながらポルシェを乗り回している外国人がいることはネットニュースで知った。実に呆れた国である。

 

 で、苛め自殺である。主として中学生の苛め自殺が多いようだが、教育界も政府も口先だけで無策である。一方で少子化対策を叫びながら、また一方では、日本人の子供の自殺を喜んでいるのではないかと勘繰りたくなるところである。そもそも、少子化というのは、移民政策を推進するための厚労省によるデータ捏造で、実は少子化が進んでいるというのは嘘なのだという。移民受け入れに熱心な安倍首相らしいやり口であり、騙されている日本人は、いい面の皮であり、日本人の生活は困窮の一途を辿っているようである。

 

 ところで、目下のところ、苛めで想起するのは伊調選手に対するパワハラ事件だろう。ニュースによると、伊調選手に対するパワハラは2010年頃から続いていたそうだから、よくオリンピックで4連覇ができたものだと感心するしかない。4連覇自体が超人技なのだから、もはや神の領域の人かと崇めたくなるところである。

 

 その伊調選手に対するパワハラ事件だが、何とも浅ましい事件なので、国民の耳目を集めたというより、その心事の醜悪さに眉を顰めた人が多いのではないだろうか。件の事件は、レスリング界で絶大な権力を振るっていた協会の強化本部長である栄氏という御仁が、伊調選手に見限られたことが原因であることは間違いない。見限られたという言い方が適切かどうかはさておき、一人のコーチにのみ指導を受けるのではなく、より優れた多くのコーチの指導を受けたいと思うのは、選手の心情としては当然だろう。しかし、栄氏はそれを許さなかった。自分の指導を受けず、他のコーチの指導を受けるような選手は、試合に出場させないという卑劣極まりない行動に出たわけである。してみると、栄氏という御仁は、選手のためではなく、自分の名声のために選手を指導していたのだろう。だから、自分が育てた選手を他のコーチに取られる(?)ことが許せなかった。狭量というより、異常に嫉妬深く、性根の卑しい人物だったということである。

 

 たとえば、武道の世界には「守・破・離」という言葉がある。最初は師の教えを守り、次第にその教えを破っていき、遂には師を離れていくということである。栄氏の指導に飽き足りなくなった伊調選手が、他のコーチの指導を受けたいと望んだのなら、むしろ優れたコーチを紹介するぐらいの度量の広さを見せられなかったのか。一連のニュースを見た限りでは、栄氏はつくづく浅ましい御仁であるという印象を免れない。

 

 また、本件に関しては、魑魅魍魎の類がほかにも跋扈していたということだろう。パワハラの告発状が取り沙汰されたとき、レスリング協会は、調査を一切せず、直ちにパワハラ否定の見解を表明した。調査する意思もなければ誠意の欠片もないのであり、レスリング協会は、地位・名誉・金を恣にしている連中の巣窟なのだろう。さらに、至学館大学の谷岡学長とやらは、栄氏にはパワーがないからパワハラはできないだの、伊調馨は選手ではないだのと言って、パワハラ事件を揉み消そうとした。選手でないのにオリンピックで連覇してきたというのは奇怪な主張であり、それで大学の学長だというのだから、何ともおぞましい大学があったものである。

 

 そのほかにも、話をすり替えて逃げを打とうとした輩が多い。たとえば「馬鹿と言っただけでパワハラになる」「厳しく指導したらパワハラになるというのなら、選手は強くなれない」といった類の発言である。そうした発言を聴いて、「そうだ、そうだ。そのとおりだ」と納得した人も多いようだが、これは論理のすり替えというより、完全な誤魔化しである。伊調選手側は「馬鹿と言われた」とか、「指導が厳しい」と言ってパワハラ被害を訴えたわけではない。世界のトップ選手の練習なのだから、馬鹿と言われようが、間抜けと言われようが、ノロマと言われようが、それをパワハラだと批判する選手はいないだろう。厳しすぎる指導はむしろ歓迎であり、「和気藹々と楽しく練習しましょう」などという指導では、選手は誰も付いて行かないだろう。要するに、伊調選手側が、指導が厳しいからパワハラだと主張しているように思わせようとする嘘なのであり、全く反省の色がないのである。

 

 すでに広く知られていることだが、伊調選手側がパワハラだと主張したのは、田南部コーチが「伊調を指導するな」と言われたことであり、練習の場を奪われたことである。さらに、「よく俺の前でレスリングができるな」と恫喝されたとのことだが、強化本部長である栄氏の目の届かないところで試合に出るのは不可能だろうから、これは「レスリングを止めろ。引退しろ」と言っているに等しい。それもこれも「伊調選手のためだった」と姑息な嘘をついて恥の上塗りをしていたが、よくもヌケヌケと言えたものである。有り体に言えば、レスリング協会も大学も栄氏も腐敗しきっているのであり、自分たちの利権のために動いているだけなのだろう。

 

 今回、到底十分とは言えないが、伊調選手に対するパワハラが一部認められた。内閣府の調査は継続中だそうだが、見て見ぬフリをして幕引きを図るのかどうか、目が離せないところである。相撲協会といい、レスリング協会といい、腐敗しきった利権団体を見直すときに来ていると言うべきである。


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産業カウンセラー養成講座受講記(その後3)

産業カウンセラー協会はもちろんのこと、養成講座の同窓生たちとも二度と関わりを持つことはないと思っていたのだが、試験に合格すると同窓生たちの去就が気になり始め、同窓会開催のお誘いメールを送信したことは(その後2)に書いた。すると、誰でも考えることは似たようなものらしく、既に同窓会開催の動きが始まっていた。私のメールに対する返信は数件しか届かなかったのだが、しばらくすると、1件また1件と返信が届くようにもなった。

 

結果、全員参加ではないようだが、今月末に同窓会が開催されることになった。有り体に言えば、私は老い先短い年寄りであり、今さら若い人たちの仲間に加わるのもどうかという気がしないでもない。昨年末には、かれこれ十数年ぶりに山岳会に入会したのだが、長年のブランクで衰えた身体はいかんともし難く、どうにも身の置き所がないという有様で、カウンセリングが必要な精神状態に陥っている感があるのである(笑)。

 

もっとも、私がクライアントの場合、産業カウンセラー協会流の来談者中心療法は通用しないだろう。私に言わせれば、それは「カール・ロジャース原理主義」とでも言いたくなるような手法だが、そもそも私は、20回も30回もカウンセリングを受け続けるほど暢気な性格ではない。カウンセリングにそれだけの費用をかけるほど裕福でもない。むしろそれが普通だろうと思う(大抵のクライアントは1回から3回くらいでカウンセリングに行かなくなるそうだ)。カウンセリングは、20回も30回も傾聴を続けることにより、クライアントが自ら変容するのを援助するというのは、机上の空論に過ぎないと思われる。100人に1人くらいは、そういうクライアントがいるかもしれないが、よほど時間と金を持て余している人ではないだろうか。かつて、一世を風靡したという来談者中心療法は、カウンセリングの基本として重要だろうが、私がクライアントなら、さしずめ論理療法または実存主義的な療法あたりが有効ということになるだろうか。

 

さて、長々と枕を振ったが、実は、産業カウンセラー試験に合格後、カウンセリングに関する書籍をいろいろと買い込んで読み漁ってみた。すると、これらの書籍がなかなかどうして面白いのである。養成講座のテキストは意味不明の記述が多く、読むことが苦痛だったのだが(たとえば「セラピストは、その関係の中で、一致しており、統合していること」という記述を読んでも、何のことか全く理解できなかった)、市販されている多くの書籍の中には、非常に示唆的で共感できる内容の書籍も少なくない。養成講座を受講しているとき、私が疑問に思っていたこと、納得できなかったこと、批判していたこと、その他もろもろの点について、容易に回答が見つかるのである。その結果、協会が教えるカウンセリングは「カール・ロジャース原理主義」だと思うようになったのだが(笑)、養成講座を受講している頃にこれらの書籍と出会っていたら、カウンセリングに対するイメージ、産業カウンセラーに対するイメージが、全く違ったものになっていたことだろう。今にして思えば、たった500頁のテキストと140時間の講座では、およそ話にも何もならないのである。恥ずかしながら、最近になって、私は漸くそのことに気付いたのである。

 

そこで、最後になったが、産業カウンセラー養成講座を受講しようと考えている方々に、テキスト以外のさまざまな書籍を購読することをお勧めしたい。試験に合格した人でも、「よく分からないまま合格してしまった」という人が少なくないと思われるので、今後、多くの書籍により古今東西の哲人・心理学者・カウンセラー等に学ぶことをお勧めしたいと思う。もっとも、職業としての産業カウンセラーを目指している方は、この世界に足を踏み入れたときから弛まぬ努力を続けていることだろう。私も見習わなければならないと思う今日この頃である。


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産業カウンセラー養成講座受講記(その後2)

先日のことである。日本産業カウンセラー協会から1通の封書が届いた。中身は今年度の産業カウンセラー試験の合否通知で、私は合格してしまったらしい。

 

実は、得体の知れない産業カウンセラーなる資格は、私の理解を超えた異様なモノに思えていたので、もう試験を受けるつもりはなかった。しかし、私はどちらかと言えば試験は得意な方である(早稲田や慶応の出身者は大抵そうだろう)。得体の知れない試験のために多くの時間と労力と金を費やして、何も残らなかったというのは業腹である。そこで、今年度も土壇場になって受験願書を提出してしまった。去年は年末年始に入院してしまい受験勉強ができなかったが、今年の年末年始は少しばかり勉強できた(実は駅伝ばかり見ていた)。また、受験料の点からも、二度も不合格になるのは御免だったので、試験日の前に2日間の有給休暇を取得して準備した。とはいえ、試験が終わった後、できたのかできなかったのか、さっぱり判断がつかない状態だったことは前年度と変わらなかった。

 

ちなみに、試験会場で同期生の一人と1年ぶりに再会した。彼も前年度に不合格になり、「落ちたままでは終われない」というわけで、再挑戦に至ったらしい。しかし、二人とも、できたのかできなかったのか分からないという有様だった。とにかく得体の知れない試験なのである。どの回答を選んでも正解のように思える上に、自分では満点のつもりだったのに不合格になっていたりする。常識は通用しないし、国語の試験のつもりで回答したら大抵は不正解になる。受験に当たっては、一般常識の試験でもなく、国語の試験でもなく、産業カウンセラーの試験であるということを常に意識しておくことである。何が言いたいかというと、産業カウンセラー養成講座では、専らカール・ロジャースの来談者中心療法を教え込まれる。したがって、試験問題を解くときも「来談者中心療法ではどうなるか」を考えなければならない。なまじ日本語の読解力に長けた人は、まんまと罠に嵌って不合格になる嫌いがある。私は、今年の試験ではその点だけは常に意識して試験に臨んだ。その結果、合格になったのだと思われる。

 

で、その後日談だが、「産業カウンセラー」を名乗るには、日本産業カウンセラー協会に登録料と年会費を支払わなければならない。この点は弁護士や税理士と同様である。しかし、私は勤務先の会社で人事部に所属しているわけでもなく、実際にカウンセラーとしての業務を行う機会は皆無に等しい。もっとも、人生はどこでどう変わるか分からないので、ある日突然、今の会社以外のところで、そういう業務またはボランティアに携わる機会を得るかもしれない。NHKが、自殺志願者を助けている老齢の産業カウンセラーの特番を放送したこともあった。念のために登録しようかと思ったが、他の同期生がどうしているのか気になって、1年ぶりに全員にメールを送信してみた(思い返せば、同期生のメールアドレス名簿の作成を提案したのは私だった)。同窓会開催のお誘いメールも兼ねてのことだったが、返信は4人から届いただけである。合否確認メールや同窓会開催メールは迷惑だと考えている人が多いのだとしたら、合格している人は少ないのかもしれない。

 

なお、仕方がないので、取り敢えず協会に登録して、名刺に「産業カウンセラー」と書いておこうかと思ったが、会社から禁止された(笑)。従業員を虫けらのように使い捨てにする会社なので、産業カウンセラーなどという怪しげな資格を持っている従業員がいては困るのだろう。また、本来ならば、産業カウンセラーは人事部員が取得すべき資格だろうと思われる。しかし、私が勤務する会社にはそんな資格を持っているスタッフはいないだろうし、取得しようという向学心を持っているスタッフもいないに違いない。しかも、もともと私のところには、法律相談や身の上相談をしに来る従業員が少なくなかったので(無学な役員に「法律の勉強をしなさい」と言って追い出し部屋に叩き込まれる前は法務課長だった)、下手をすると、カウンセリング希望者が殺到するのではないかと恐れたのかもしれない(笑)。会社が契約していたカウンセリング会社も既に切られていた。いかにもブラック企業らしい対応と言えるが、どこまで行っても役に立たない資格である。もっとも、同期生の中には、高い講座受講料を会社に払ってもらって参加している人事課長もいたから、この点は会社の質、経営者の質の問題なのだろう。私が勤務する会社では、産業カウンセラーは厄介者以外の何者でもないのである。

 

ついでに書いておくが、インターネットを見ていると、「カウンセラーの資格が通信講座だけで取得できます」とか、「大学・大学院6年分の勉強を4カ月の通信講座で修了できます」といった広告が目に付く。受講料も産業カウンセラーの分の1程度である。「それならば!」と飛び付く人がいるかもしれないが、99%虚偽広告だと考えた方が良いだろう。産業カウンセラーの受験資格を得るための養成講座は20回もあり、1回が7時間である。約140時間の講座ということになるが、座学が5回で35時間、実技研修が15回で105時間といったところである。ほかに宿題も出て、提出に必要な時間は40時間程度と言われており、DVDによる在宅学習も9時間必要と言われている。それでも到底十分だとは言えないが、それだけこなして、やっと受験資格を取得できるのである。講座の期間は7カ月間であり、試験が終了するまでは9カ月間も要する。もし、4カ月の通信講座で大学・大学院6年分の勉強ができて、試験と称する課題を提出するだけでカウンセラーになれるのなら(カンニングOKだから、合格率はほぼ100%だろう)、大学も大学院もカウンセラー協会も無用の長物ということになる。最近は、この手の資格商法が流行で、得体の知れない資格を授与すると称して、高い受講料とべらぼうな登録料(中には登録料70万円というのもあるそうだ)を取る団体が増えているようだが、もちろん資格とは言えない資格であり、何の役にも立たないことは明らかである。世の中に、そんなウマイ話はないと心得るべきである。


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産業カウンセラー養成講座受講記(その後1)

「産業カウンセラー養成講座受講記(1)~(20)」を書いてから1年以上が経過したが、驚いたことに、1千本以上の投稿があるこのブログにおいて、現在に至ってもアクセス数の上位は「受講記シリーズ」が占めているのである。それほど世間の注目が高い資格であるとすると驚嘆に値するが、今年も産業カウンセラー試験が実施され、合否の状況がどうなっているのか気になり始めた。

 

実は、私と同じ教室で、7カ月間にわたって養成講座を受講したメンバーは14人いたのだが、この1年の間、誰からも一度も連絡がなかった。もともと余り仲が良いメンバーではなく、講座が終了した後で飲みに行くとか、コーヒーショップに行くといったことは殆どなかったので、当然の成り行きなのかもしれないが、なにしろ時間と労力と金を費やして受験資格を取得して、漸く受験に漕ぎ着けた試験である。見も知らぬ他人のことはいざ知らず、7カ月間も苦労を共にした同期生の合否が気になるのは人情だろう。教室によっては、同窓会を開いているところもあるというから、妙に冷めたメンバーが揃った教室だったのかもしれない。

 

とはいうものの、連絡が来ない一番の理由は、誰も合格していないからではないかという疑問もある。自分が落ちているときは人に合否を尋ねにくいだろうし、自分が受かっているときも、相手が落ちていたら悪いという思いが頭を擡げるから、やはり尋ねにくいとは言える。結局、誰かが一斉に合否結果確認メールでも送信するか、同窓会の開催でも呼び掛けないと話が先に進みそうもない。とはいえ、やはり気が重いのが産業カウンセラー試験である。なにしろ受かったメンバーがいるとは思えないのである。

 

ちなみに、大きな書店へ行けば、カウンセリングに関する書籍がいろいろと棚に並んでいて、「傾聴」や「認知行動療法」といった言葉が目に付く。「傾聴」は昨今の流行語にもなっているようで、私が勤務する会社の管理職研修でも「傾聴」という言葉が出てきた。試みに薄い本を1冊購入して第1章を読んでみたところ、当然のように産業カウンセラー養成講座で教わったことが書かれている。言ってみれば「蘇る悪夢」といったところだが、その最たる例は次のようなことである。

 

すでに「受講記シリーズ」に書いたことだが、産業カウンセラー養成講座では「クライアントに共感し、無条件に受容しろ」と繰り返し教え込まれる。その点だけを聴くと何となく理解できるような気にもなるが、話はそれほど単純ではない。私が最後の最後まで理解できなかった点は、自分の経験に基づいて共感してはならないという点である。たとえば、「両親が相次いで亡くなった。妻に逃げられた。会社をリストラされた」という悩みを抱えたクライアントがいたとする。両親に先立たれたり、妻に逃げられたり、会社をリストラされた経験がある人なら、その悩みの深さを容易に理解できるだろう。しかし、自らの経験からクライアントの悩みを理解すると、カウンセラー失格の烙印を押されてしまうのである。

 

どういうことかと言うと、カウンセリング理論(いろいろな理論があるが)では、この場合、同じような経験をしたカウンセラーは、クライアントに共感しているのではなく、自分自身の過去の経験について悩んでいると見なされる。したがって、クライアントに共感し、無条件に受容できるのは、両親に先立たれたこともなく、妻に逃げられたこともなく、会社をリストラされた経験もないが、クライアントの悩みに共感できるカウンセラーということになる。あるいは、自分自身の経験をすべて消し去って無の状態で共感することになるわけだが、本当にそういうカウンセラーがいるのかどうかは疑問である。もっとも、共感の意味が普通の意味とは異なるのだと考える余地はあるだろう(と、最近思うようになった)。とにかく、外国語の直訳で満足し、正しい日本語にする努力を怠ってきたのだろうと思うほど、異様な言葉が多い世界なのである。

 

これはあくまでも私見だが、両親に先立たれたことがなければ「親が先に死ぬのは普通だろう」と思う人だっているだろう。妻に逃げられたことがなければ「女房と畳は新しい方がいいぞ」と思うかもしれない。会社をリストラされた経験がなければ「リストラされたのはお前の能力の欠如だろう」と考えるかもしれない。人は、自ら経験していないことには共感できないとまでは言わないが、余りにも恵まれすぎた人生を歩んだ人なら、容易に他人の悩みを理解できないということはあり得そうである。聖人君子だけがカウンセラーになっているはずもない。「カウンセラーとして共感するのは、心ではなくテクニックであり、それが専門家としての技能だ」とでも言うのだろうが、それがクライアントに信頼されるカウンセラーと言えるのだろうか。それでは余りにも人間味がなく、飼い主を慕ってくれる愛犬に話した方がよほどマシだという気がする。

 

もし、私(還暦を過ぎた爺である)がクライアントだとしたら、専門家と称する24歳の女性カウンセラーに対して、「両親に先立たれた。妻に逃げられた。会社をリストラされた」という悩みを相談することはしないだろう。仮に相談したとして、そのカウンセラーが共感できるとは思えないし、共感できると言うのなら、「そういう演技をするのがカウンセラーか・・・・」とか、「カウンセラーは嘘つきだな」とでも思うだろう。少なくとも、絶対にそのカウンセラーを信頼することはないと思う。しかし、産業カウンセラー養成講座では、そういうカウンセラーになれと教え込まれるし、自分の同様の経験から共感してしまったら、カウンセラー失格の烙印を押されるのである。言ってみれば「感情のないロボットのような人間か、ゴルゴ13のような人間になれ」ということだろうか?私がずっと疑問に思っていたことだが、先日購入した書籍にも同じことが書かれていた。私にとっては頗る奇妙なことであり、「私は産業カウンセラーにはなれない」と判断した所以である。

 

とはいえ、私がカウンセリングを受けたカウンセラーは、「助言ができないカウンセラーは現場では役に立たない」と言っていたし、話を聞くだけで一切の助言はせず、質問に対して「それを考えるのは貴方自身です」と突き放すカウンセラーに、高いカウンセリング料を払い続ける酔狂なクライアントが大勢いるとは思えない。「養成講座の受講中と試験のときだけ言われたようにすればいいのよ」というカウンセラーの言葉が思い返されるところではある。

 

さて、今年は同期生たちから合否確認の連絡が届くのだろうか。それとも誰一人として合格していないのだろうか。二人の講師のうちの一人が嫌な奴だっただけに(笑)、同窓会を開催しようという気にもならないのだが、彼らとは二度と会うことはないのかもしれない。会うは別れの始まりであり、それはそれで仕方のないことではあるのだが。


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早稲田大学の思い出あれこれ

 2月14日配信のNEWSポストセブンに、「奨学金『延滞者数』が多い大学 ワースト10」という記事があった。その7位に早稲田がランクインしているのだが、この記事を巡って、かなりの数のコメントが書き込まれていた。中でも、早稲田や大阪産業大などに関するコメントが多かったように思える。私が早稲田出身だから早稲田に関するコメントが目に付くだけかもしれないが、良くも悪くも早稲田に対する注目度は低くはないだろう。早稲田の評判を落とすために数字を操作した順位表だというコメントもあった。事の真偽はともかくとして、慶応や成城などが入っていないのは「そうだろうな」と思わせる。つまりは、そういうこと(親の経済力次第)なのだろう。

 

 その奨学金だが、返済の延滞者が多いというニュースは珍しくない。また、返済に困った女性が風俗業に携わるようになったとか、奨学金の返済のために結婚もできないといった深刻な報告もあるようだ。確かに、有利子で返済が必要となると、大学卒業後、10年以上も返済に苦労することになるのかもしれない。以前、私の部下の女性が奨学金返済の苦労を何度か話してくれたが、経済的負担以上に精神的な負担が大きかったのかもしれない。借金を背負って社会に第一歩を踏み出すというのは、内心穏やかではなかったのだと思う。

 

 で、件の記事の書き込みを読んでみると、これがなかなか面白い。私が学生の頃は、早稲田の学生というと貧乏学生のイメージがあり、ヨレヨレのTシャツとジーンズ姿というのが早稲田マンの定番で、慶応や青学の学生とは住んでいる世界が違うというイメージだった。私などは少しだけマシな方だったと思うが、普通の格好をしていると、「早稲田らしくない」とか「慶応みたい」と言われたものだ。実は、慶応にも合格したのだが、慶応はお坊ちゃま大学というイメージが強く、「スキー部は日本国内ではスキーをしない」とか、「酒を飲むのは銀座」などという都市伝説があったこともあり、貧乏な家庭に育った私には、いささか敷居が高いと思われた。早稲田なら、高田馬場や新宿の場末の飲み屋で飲むのである。また、三田なら良いが、日吉(教養課程)には行きたくないという思いや、友人たちの多くが早稲田へ進学したという事情もあって、結局は早稲田を選んだ。しかし、現在では相当に事情が異なるらしい。

 

 ちなみに、私の場合、家庭教師や土方のアルバイトをすることはあったが、何とか奨学金は借りずに卒業できた。件の記事に「慶応はお坊ちゃま大学だから早稲田に進学した」と書き込んだら、「早稲田の学費は慶応より高い」とか(私は「早稲田の方が学費が安い」とは書いていないのだが、日本語の読解力が乏しい人なのかもしれない)、「早稲田の学生は金持ちの子弟が多い」というコメントが書き込まれたが、ミニ東大化が叫ばれるようになり、早稲田の学生事情がずいぶん変わったのかもしれない。私の時代は、地方の名門進学校の出身者が目白押しで、いろいろな方言、いろいろなお国自慢を聴けたものだが、今では都会の金持ちの子弟が多いのだという。ただし、私は調べていないので、真偽のほどは定かではない。書き込んだ人の主観なのか、あるいは、たままたその人の周囲の学生がそうだったのかもしれない。

 

 もっとも、学生気質がすっかり変わってしまったという話はずいぶん前に聴いていた。早稲田界隈に「早苗」という喫茶店があったのだが(早稲田の高田早苗先生の名前から付けたらしい。名物喫茶店だったが、今でもあるかどうかは確認していない)、試験前にはそこの勉強用の席で勉強したので、早稲田で稲門会連合会の総会があったときに立ち寄ってみた。すると、店は建て替えられて綺麗になっており、そこのママが「早稲田の学生は来なくなって、今は近隣のサラリーマンばかり」と言っていた。建て替えのとき、古い店の勉強用机を貰って帰ったOBがいたそうだが、時代は確実に変わっていたのである。

 

 なお、私は早稲田の学費が安かった時代の最後の世代になる(当時は慶応よりも安かったと記憶している)。私が入学した翌年と翌々年に続けて学費が値上げになったのだが、その値上げ率が尋常ではなかった。2年間で63%(だったと思う)という大幅な値上げだったのである。私が在籍していた法学部では、学年末試験を控えた1月・2月に、授業ボイコットという学費値上げ反対のストライキを打った。しかし、何の効果もなく、学費は値上げされた。おまけに法学部の学生は意趣返しのような措置を受けることになった。それは、ストライキ後の数日のうちに、全科目の学年末試験が一斉に実施されたのである。連日、2科目・3科目の試験が続いたから、学生は大慌てであり、ストライキ期間中に勉強に勤しんでいなかった学生の成績は芳しくなかったことだろう。自業自得と言われればそのとおりなのだが、いかにも早稲田らしい(?)出来事ではあった。その結果、2年後輩の私の妻は、私の1.6倍の学費を払う羽目になったのだから気の毒なことである。

 

 余談だが、法学部だけがストを打ったのは自治会の相違による。当時、法学部自治会は民青の支配下にあり、他の学部の自治会は核マルが支配していた。それで法学部だけがストを打ったのだが、早稲田祭も同様で、当時の早稲田祭は核マルが主導しており、パンフレットの売上収益が活動の資金源になっていた。法学部は早稲田祭とは別に法学部祭を開催していたが、アカデミック過ぎて人気はなかったようである。

 

 話が二転三転したが、たった4年間のこととはいえ、早稲田の思い出は多い。遠い昔のことなのだが、ほんの10年前のことのように記憶は鮮明である。最近は、買ったまま箪笥に仕舞い込んでいた早稲田ロゴのトレーナーやTシャツを着て外出するようになった。手持ちの衣装が少ないせいもあるが、温泉地の旅館やペンションに一人で泊まときに着ていると、強面の私でも、女将さんや仲居さんたちの愛想が良くなるので愛用するようになった(笑)。母校である以上、何の問題もないと思うのだが、世間には早稲田ファンも多い代わりに、早稲田嫌いも頗る多い。当時、毎年10万人が受験して9万人が不合格になっていたのだから、逆恨みしたまま年を取った人たちが少なくないのかもしれない。もっとも、以前の上司は、早稲田は不合格で東大には合格したそうで(東大生の4人に1人、一橋大生の2人に1人は、早稲田を不合格になっていると言われていた)、そういう人は早稲田に遺恨を持ってはいない(当然か・・・)。最近知り合いになった人たちの中にも、「なぜ、そんな着ているの?」と言って、早稲田トレーナーやTシャツに難癖をつける人もいて、「早稲田」の文字に過剰反応する人が多いのは煩わしい。大きなお世話であり、「母校だからだよ」としか言いようがないのである。とはいえ、旅館の女将さんや仲居さんたちの友好的な反応は歓迎であり、やはり「たかが早稲田、されど早稲田」なのである。


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なぜ「日本軍従軍慰安婦はフィクションだ」と言えないのか

 今や年中行事化しているが、韓国が日本軍従軍慰安婦問題を論って騒いでいる。日本では、「日韓合意を履行しろ」という主張が大勢を占めているようだが、韓国人に「約束・合意・条約等は遵守しなければならない」という思想はないはずである。この点は、福沢諭吉翁も断言している。自分たちに都合のよい約束は相手に守らせるが、自分たちに都合の悪い約束はいつでも破る。それが韓国人であり韓国である。まして、相手が日本なら、どのような不条理な真似をしても許されると思っている。日本は絶対悪であり、韓国は絶対善であるという前提に立っているからだ。したがって、韓国に「日韓合意を履行しろ」と要求するのはナンセンスだということになる。そもそも日本にしてからが、韓国が合意を履行しないことは承知の上で合意したものと思われるが、もし安倍首相だけが認識していなかったのなら、学習能力が皆無で底なしの馬鹿であるということになるだろう。相手は韓国なのである。

 

 ところで、日韓合意は安倍首相の外交的勝利だったかのように主張する人たちが多いようだが、そういう認識には根本的な誤りがあると言わざるを得ない。外交的敗北だったからこそ、現在のように際限なく従軍慰安婦問題が蒸し返されるのである。安倍政権では、河野外相が韓国の主張を突っぱねているが、次の首相が韓国との再交渉に応じる可能性はある。もし、岸田や石破が首相になろうものなら、こんな合意はたちまち白紙撤回され、再交渉の末、首相が代わるたびに韓国を謝罪訪問するという合意に変わるかもしれない。賠償金は10億円から10兆円に跳ね上がる可能性もあるだろう。しかも、1回限りのことではなく、何度も繰り返し支払いを強要される可能性もある。現に、繰り返し払い続けてきた賠償金は天文学的な金額になり、今まで韓国経済を支えてきたのである。韓国が今後も国家として存続していこうとするなら、日本の賠償は永久に繰り返されなければならない。それが寄生虫国家・韓国が存続するための絶対条件だろう。

 

 さて、いまさら書くまでもないだろうが、日本軍従軍慰安婦とは、吉田清治なる詐話師が創作したフィクションである。戦時中に、吉田は日本軍兵士として済州島へ行き、韓国人女性を拉致して従軍慰安婦にしたという手記を書いた。しかし、済州島の人々は「そのような事実はない」と主張し、当の吉田自身が完全なフィクションであると認めていた。にもかかわらず、朝日新聞が「日本軍が韓国人女性を拉致して従軍慰安婦にしたという手記が発表された」とご注進に及んだため、悪乗りした韓国人が真実であるかのように騒ぎ立て、元従軍慰安婦と称する売春婦を前面に押し立てるようになった。それが日本軍従軍慰安婦問題である。おまけに、韓国に与する国連のラディカ・クマラスワミが、吉田の手記を証拠として日本軍従軍慰安婦は事実であると騒ぎ立てて世界中に拡散したのだから、実にお粗末極まりない。こんなことが罷り通るなら、敵国だろうと友好国だろうと簡単に陥れることができる。それを正面から証明したのが日本軍従軍慰安婦捏造事件なのである。

 

 ちなみに、韓国人は「従軍慰安婦問題は女性の人権問題である」などと大義名分を唱えて支持を集めているが、韓国人に女性の人権などという思想はないはずである。売春は韓国の文化であり、売春婦(キーセン)を育成するキーセン学校まであった国なのである。現在、アメリカで大量に逮捕されている売春婦は韓国人ばかりであり、日本の大阪だけで韓国人売春婦は5万人以上いると言われている。東京ではそれ以上だろう。アジア諸国に輸出されている売春婦の人数も膨大な数に上るようで、アメリカの著名なジャーナリストであるマイケル・ヨン氏は、「韓国の薄型テレビに売春婦が付属していないことが不思議である」と言っている。ソウルでは「売春させろデモ」が行われている猟奇的な国家なのであり、売春が女性の名誉や人権を踏みにじると考えているはずがないのである。その証拠に、ベトナム人女性を従軍慰安婦にした上で虐殺した韓国軍のことは問題にしていないし、第5種官給品(韓国軍慰安婦)や基地村女性(アメリカ軍慰安婦)のことは一切問題にしていない。日本軍従軍慰安婦が捏造であることも、日本を陥れるための工作であることも、韓国人が売春婦の名誉や人権に無関心なことも明らかなのである。

 

 では、何が最大の問題なのかと言えば、日本の政府・外務省、マスメディア、歴史学者などがこれらの事実を主張しないことである。日本軍従軍慰安婦がフィクションであり捏造であることは、吉田の自白、済州島民の証言、アメリカの調査などで明らかになっている。にもかかわらず、日本の首相や外務省は、決してフィクションであるとは言わない。「謝罪は繰り返し行ってきた」、「賠償は終わった」、「二度とこの問題は蒸し返さないと合意した」と主張するのみである。しかし、合意や条約は破られるものである。独ソ不可侵条約にしろ、日ソ中立条約にしろ、日韓基本条約にしろ、一方的に破棄または無視されてきたのが歴史厳然たる事実である。もし、安倍首相が従軍慰安婦に関する合意だけは未来永劫遵守されると確信していたのなら、底なしの馬鹿というより国民を欺く大嘘つきなのかもしれない。安倍首相は、学習能力が皆無で底なしの馬鹿なのではなく、自分の政権の時代だけ無事に乗り切ろうと企んだ大嘘つきと見るべきなのではないだろうか。

 

 有り体に言って、安倍政権が別の政権に変われば、たとえ自民党政権であろうと、日韓合意を白紙撤回する可能性はある。万一、立憲民主党が政権を奪取したら、首相が代わるたびに韓国を謝罪訪問し、賠償金10兆円を支払うという合意に変わる可能性もあるだろう。現在の状況はその予兆と言えるのではないだろうか。そのような愚かしい未来が到来しないようにするためには、捏造された従軍慰安婦問題で謝罪することや賠償金を支払うことは止め、「日本軍従軍慰安婦はフィクションであり、日本が謝罪する謂われはない」と主張・証明する以外にない。そうでなければ、何度謝罪しようが、賠償金を支払おうが、この問題は永遠に蒸し返されるのである。

 

 まことに残念なことだが、今では事情を知らない多くの日本国民が、「日本軍従軍慰安婦はいた。日本は性奴隷国家だ。我々の先人は恥知らずだった」と思っているのではないだろうか。ただ、「賠償金は支払ったし、問題は蒸し返さないと合意したから、この話は忘れよう」と自分に言い聞かせているだけではないかと思われる。そういう負い目は頭蓋骨の内側に寄生虫のように張り付き、子孫たちに受け継がれていくことになるだろう。そして、いつの日か再び頭を擡げて来るのである。安倍首相は、姑息な合意で無事に任期を終えようなどとは考えず、過去・現在・未来の日本国と日本国民の名誉のために、断固として「日本軍従軍慰安婦はフィクションであり、日本が謝罪する謂われはない」と主張すべきである。


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