2005年08月04日

脳と創造性 このエントリーを含むはてなブックマーク

最近個人的に、ISOとかITILといったイギリス発の仕組みに関わることが多くなっています。
あまり関係ないのかもしれないけど、ふと思い出したのが、「アメリカや日本には憲法の条文があるが、イギリスには文章としての憲法が無い」 「イギリスの文化とアメリカや日本の文化は根本的に大きく異なる」 といった話。最近どこかで読んだはず… と家のあちこちをひっくり返したのですが、なかなか見つけることができなかった… やはりメモっておかないとダメっすね。
 


脳と創造性 「この私」というクオリアへ

いやまったく予想外の結末でした。ここだったかー。

ざっとまとめると、人の「判断」ということの成り立ちを考える上で、国を治める基本的なルールを明文化している日本と、明文化していないイギリスを比べると面白い、とのこと。

イギリスで憲法というのは、さまざまな工夫を積み重ねて出来上がった国家の統治構造のことを指し、一枚の紙に書かれた条文を指すわけではない。
たとえば人生の重大な岐路に立たされたときにメディアや知人、過去の経験などからヒントになるようなことが無いか必死に探す。そして最終的には直感的なものに基づいて決断を下す。まぁ人とはそういう判断能力を獲得してきたわけで、国家の根幹に関わるような重大事ほど、その判断をあらかじめ明文のルールで縛るのはおかしいんじゃないか、なんていうお話が出てました。


こっから先はちょっと音楽系のお話。

こうした人の直感というようなテーマについて、脳の働きなどいろいろな切り口で見ている本なのですが、他にも面白かったところをいくつかメモっておきます。

・感覚する「私」と運動する「私」にはズレがある…
音楽を聴く側の私は音楽のすばらしさがよくわかるのに、いざ演奏してみようとするとまったくうまくいかない。これは脳というアーキテクチャが外界へいったん出力して、それを感覚として入力することなしには情報のループが閉じないようにできているから。こうした他者性、外部性というのは人間ならではのもので、PCなどには無いものである。

・破綻することの自由…
自分が安泰だと思い込み、その状態に安住している人は、創造的になることはできない。創造的であること以前に、この世界で生きるということのリアリティに接続することができない。自分自身は安全基地におき、他人をあげつらうことしか知らない批評家は創造から遠い。
(→ そういえば最近、有名なクリエータや有名な批評家の講演を毎週拝聴する機会があったのですが、こうやって比較しやすい状況下で比べると、申し訳ないのですが批評家の話のしょっぱかったこと… その一方でクリエータで真剣にやっていらっしゃる方々は、皆さんそれぞれひとつの世界をお持ちで本当に魅力的でした)

・人は愛する…
愛はマキャベリ的知性からの一時的休暇を意味する。愛する人を前にした時、相手を様々な文脈の中で値踏みするときに用いられる前頭葉の領域の活動が一時的に低下するというデータがある。愛は盲目ということわざが現代脳科学によって裏付けられる。

・優れた芸術作品は本来文脈には回収されない
現代人は社会の中であるものにつけられるラベルや、文脈を通して対象を流通させ、評価し消費することに慣れている。とりわけ現代批評においては自分の受けたナイーヴな感覚に依拠する「印象批評」は素人っぽいとされ、歴史の重層性の中から様々な文脈を引っ張ってくる「文脈批評」が玄人っぽい批評としてスタンダードとなっている。
→う〜ん、これはジャズ系とかは特にやりがちかもね… PMGとかを聴いた時の心地良さは、胸を張ってそのまんまその感覚だけを伝えるのでも良いわけです。

・脳内現象
私たちの意識の中で感じられるすべてのものは、もともとは自分の脳の中の神経活動から生みだされる「脳内現象」である。地球から38万キロメートル離れた月を見上げるとき、その輝きは自己の中に吸収されている。物理的距離は関係ない。あるものが意識の中で感じられるとき、それはすでに自己を構成する要素になっている。「毎日見ているものによって、書くものが変わってくる」などという現象も了解できる。様々な接するものによって、脳がそれらのクオリアを、栄養としてそのシステムの中に吸収する。それが巡り巡って良き能動につながる。良い絵や良い音楽を鑑賞することは、創作におけるインフラとなる。

 


patweek at 23:54│Comments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!本関連 

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