サイパン パウパウツアーズ☆アイランド日記

サイパンのお天気や現地情報、おススメツアーなど毎日のんびり更新中です☆

カテゴリ: 戦跡 歴史 伝説

8月15日と言えば
『終戦記念日』
テニアン島からB-29が日本に向かった
というのは、サイパンに来てから
知りましたが、これだけは前から私も知っています。

子供の頃の記憶で、毎年のように
テレビで終戦を伝えるラジオの放送を
していたのを覚えています。

勉強があまり得意ではなかった私ですが
せっかくだからちょっと勉強してみようと
インターネットで検索。
今はなんて便利なんでしょう。
インターネットで検索すれば
大体のことは調べられます。
子供の頃は、図書館に行って調べたりしていたのに・・・

色々出てきますので、これを機会に
検索してみてください。

今年は、もう戦後65年になります。
私も含めですが、戦後世代なので
なんとなく平和慣れしてしまっておりますが
毎年、慰霊で来島される方を見ていると
忘れてはいけないことなんだな~と
実感します。
普段は、オフィスでの勤務なので
慰霊のお客様を見送ることしか出来ませんが、
今年こそは、慰霊巡拝ツアーに参加したいと思います!
(今年の抱負の続き)

66年前の今日、
6月15日はここサイパン島に
アメリカ軍が上陸した日です。

もう66年とお感じになりますか?
私はまだ66年、たった66年と
感じています。
ついこの間の事だと思っています。

1944年6月15日
ランディングビーチから
アメリカ軍が上陸。
トヨタマイクロール近く
ビーチロードから空港に曲がる
△地帯にアメリカ軍上陸記念碑が
あります。

同年7月9日までの一月足らずで
島は焼け野原、そして到る所に
亡骸が、完全玉砕です。

玉砕と言うと何か悲しくて
美しい響きですが
たぶんそんなものでは無かった
だろうと想像に余ります。

スーサイドクリフにある
十字架を背にした観音様
宗教、国籍のいかんを問わず
なくなられた方の霊を慰め
この世に再び愚かな戦いが
起きぬよう、永久の平和を
祈願したものとあります。
スーサイドクリフ平和観音

でもね、人間って時が経つと
忘れちゃうんですよね。
喉もと過ぎれば何とやらで、、。
うちの会社にもひとりいる!
すぅ~ぐ忘れちゃう奴が、、。


だから、戦争とは如何に
愚かな行いか、どれほど沢山の
犠牲を生み、如何に悲惨か。

絶対に繰り返してはいけない
と言うことを、この島に住む
日本人として、ひとりでも
多くの若者に伝えて行きたい
と思います。
ホントにそう思ってますよ
こんな私ですけど、、。


この島にはまだまだ沢山
戦争のつめ跡が残っています。
ひとりでも多くの若者が
目で見て肌で感じ取り
心に焼き付けて行って欲しい。
そして今在る平和は
沢山の方の犠牲の上にある。
と言うことを知って欲しい
と願っています。

戦争で命を亡くされた全ての方の
御冥福をお祈り致します。

前の記事からの続きです。

昭和26年6月30日
アナタハンから救出された19名の
日本人男性。

昭和26年7月6日
全員が日本に帰国。

和子さんの本当の夫は
和子さんが亡くなったものと思い
別の女性と再婚していたそうです。
そして、兵助丸の乗組員で
猟師だった男性の妻もまた、
別の人と再婚。
もう一人の兵助丸の乗組員
だった男性の妻は、彼の弟と
再婚し子供も設けていたそうです。

他の男性の妻達も既に再婚を
しており、帰国の喜びもつかの間
皆それぞれの悲しみに
打ちひしがれたのです。

昭和27年
男性32名と女性1名の
アナタハン島での生活が
奇奇怪怪なものとして、
大々的に報道されます。
日本では空前のアナタハンブームと
なり、和子さんのプロマイド写真まで
販売され、飛ぶように売れたそうです。
生還した男性達の事はそれほど
騒がれる事もなかったそうですが、
比嘉和子さんは【悪女】として
報道され、好奇の目に晒されます。
【女王蜂】【アナタハンの毒婦】などと
マスコミは書きたて、猟奇的な事件
のように扱われたようです。

昭和28年
映画【アナタハン島の真相はこれだ】が
上映されます。
主人公は和子さん御本人。

映画出演後【アナタハンの女王】という
舞台の主役に立ち、全国を興業して
回ったそうです。
が、昭和33年には郷里の沖縄に帰り
再婚されました。
そして、昭和49年享年52歳の若さで
永眠されました。

 【完】

このアナタハンに関する当時の記事
並び写真はサイパンの歴史博物館に
展示されています。
場所は日本刑務所跡の近く、
サイパン神社の道路を挟んだ
真向かいにあります。
昔の日本病院だった場所が
今のサイパン歴史博物館です。
サイパン博物館
病院だった頃の当時の写真の
ようです。
(他の記事からの抜粋写真です)




前の記事からの続きです。

墜落していたB29をジャングルの中で
見つけ、パラシュートや燃料タンク、
ピストル等を手にした30人の男性と
一人の女性。
武器を手にしたそのときから
本当の悲劇は始まったのです


その後まもなく二人の男性が
変死します。
木から落ちたのが原因と言われたが
その真意は定かではない。

農園技師と暮らしていた和子さんは
余りの嫉妬深さに嫌気がさしたそうです。
彼女は別の男性とジャングルの中へ
逃げたそうですが、如何せん小さな島。
すぐに見つけられ農園技師のもとに
連れ戻されます。
この頃から男性達が争いはじめます。
原因はもちろん【和子さん】です。

和子さん争奪戦!
農園技師は和子さんを渡さなければ
殺すぞとまで脅されたそうです。
*なんてこったい!)

恐れをなした農園技師は、ここで
和子さんを手放します。
*まったく、情けない嫉妬深いだけかよ!)

しかし、不思議な事にこれをさかいに
農園技師を含む3人の男性と和子さんの
4人の生活が始まりました。
(*手放したんじゃないのかい!)

でも、そんな生活は長続きは
しなかったようです。
男性二人が仲間割れをし
ひとりが射殺されました。
身の危険を感じた農園技師は
さっさと身を引いたそうです。
(*ちょっとぉ~、農園技師さんヨォ~)

しかし、しかしです。
残った一人の男性が失踪します。
農園技師と和子さんは、
彼は夜釣りをしていて海に落ちた。
と皆に伝えます。
が、泳ぎの達者だった彼が
海に落ちて死んだとは
誰も信じませんでした。

そして、和子さんは又、
農園技師と生活を共にしますが、
半年後にはこの農園技師も変死。
和子さんと別の男性の話によると
農園技師は食中毒で亡くなった。
と言うことですが、射殺された
疑いが強かったそうです。

昭和24年2月。
【海鳳丸】の水夫長が崖からの転落で死亡。
【曙丸】の水夫長が食中毒で死亡。
皆、不振な死を遂げているが、調べる事は
出来ませんでした。
この時点での生存者、
男性23人と和子さん。

長老のある男性が提案します。
和子さんが誰か一人を正式に
選び、その人と結婚をする。
そして結婚後は誰も邪魔はしない事。
そして誰もが武器を捨てる。

和子さんはもう男性はこりごりだと
思っていたようですが、
島の平和の為にいやいやながらも
この提案を受け入れ、
一人の男性を選び
簡単な結婚式を行ったそうです。

昭和24年の秋。
アメリカ軍が敗戦を伝え彼らの降伏を
促す為に再び島にビラをまいたり、
上陸して拡声器での呼びかけを
したそうです。
でも、まだ人々は敗戦を信じる事が
出来ませんでした。

その頃サイパン島では不発弾処理が
行われており、その爆音を聞いていた
彼らはまだ戦争は続いていると
信じていたそうです。
(*なんて悲しい、、、、)

昭和25年6月。
(*終戦から5年ですよ、、5年)

爆音も聞こえなくなり、もしや
戦争は終わったのかと思うものも
でてきたそうですが、確認のしようも
ありません。
そんな頃、又、アメリカ軍の船が
アナタハン島にやってきました。
ジャングルの中に逃げていく人々を背に
和子さんだけが船に近付いていったそうです。
*イザって時は女性の方が腹くくるもんですねぇー)

船は救助船で救助隊の中には
日本人もいたそうです。
和子さんはこの船に乗り無事に
アナタハンから脱出しました。
和子さんこの時28歳。

救助隊員と和子さん達は
残っている人々の為に
手紙と日本の新聞を置いて
いったそうです。

が、それでも彼らには終戦を
信じる事は出来ませんでした。
*横井さんや小野田さんも
 同じ気持ちだったのでしょうか。 

2ヵ月後の昭和25年8月
*山本富士子さんが第1回のミス日本に。
 美空ひばりの東京キッドが流行。
 日本は復興まっしぐらの平和な時代を
 迎えていたんですよね。

和子さんの夫であった男性が病死。

年が明けた昭和26年1月
【曙丸】の船長が手首の大怪我が
もとで死亡。
 *日本ではNHK第一回紅白歌合戦放送。
 歌謡曲では上海帰りのリル、あざみの歌がヒット。
 書籍では大岡昇平の武蔵野婦人がベストセラー。

アナタハンの生存者、男性20名。

昭和26年6月
アメリカの飛行艇が再び
島にビラをまきます。
ビラには、近い内に皆さんの
御家族からの手紙を届ける。
と書いてあり、島に残された
全員の名前が書かれていたそうです。

数日後、手紙と共にマッカーサーと
昭和天皇が並んで写っている写真が
掲載された新聞も届く。

一人が、手紙を運んできた船に
乗り込みました。
残された人々もようやく現実を
受け入れる事が出来始めたのでしょうか。
次にアメリカ軍の船が来たら
投降しようかと話し合ったそうです。

昭和26年6月26日
アメリカ軍は「6月30日に迎に来る」と、
書いたビラをまきました。

昭和26年6月30日
残された19名の男性が救出されました。
島での暮らしは7年に及んだわけです。

こうしてアナタハンでの集団生活は幕を
閉じました。

懐かしい祖国に
ようやくたどり着いた彼らを
迎えたその事実は、、。
*戦争というのは
 こんなにも人々の人生を狂わせ
 不幸のどん底に突き落とすものなのでしょうか。
 
すみません次回に続きます。
お仕事もしないと、、。

サイパン島から北へ120キロほど先に
アナタハンと言う島があります。
大きさは南北に4キロ、東西に12キロ。
サイパン島が南北に22キロ、東西に9キロ
なので、サイパンの4分の一強。
どっちにしろ凄く小さい島ですね。

このアナタハン島、噴火するんです。
2003年5月に大噴火をしています。
この時は日本に一時帰国をしていた為
サイパンに戻ってきてから、どんなに
凄かったか話を聞いただけで
自分の目では何も見ていませんでした。

が、2005年の噴火は覚えています。
ちょうどお休みで家に居たのですが、
外が突然暗くなり始め、海の方から
黒い闇が押し寄せてくる感じ。
まるで、映画インデペンデンス・デイ、
自由の女神が闇に包まれていく
あの光景にも似ていました。

お休みで家に居ると、インターネットも
ニュースも何も見ないので
いったい何が起こったのか
全くわからず、、、、、、。
この世の終わりが来たか!
とも思ったほどです。

あれから早5年、。
島に住む人が何人かは
居たようですが、噴火で皆さん
避難されました。
でも、又島に戻って暮らしている方も
いるようです。
やっぱ、住み慣れた所がいいですよね。

このアナタハン島ですが、
【アナタハンの女王】という言葉を
聞いた事がありますか?
戦争と言うのはこんな悲劇をも
生んでしまうんだなと、、、。
彼女のせいではないのに、、。
まるで毒婦のような書かれ方を
している記事もあります。
全く酷い話だと私は憤慨しています。

ここから先は色々な資料を読み
私が勝手にかいつまんで書いた物です。
参考資料の文をそのまま引用している
箇所もたくさんあります。
まぁ、一つ私の話を聞いてやって下さい。

やはり戦中のお話です。
戦前、日本統治時代には
このアナタハン島にも
日本人の方が住んでいて、
椰子の栽培等していたそうです。

昭和19年6月の事。
日本のカツオ漁船数隻に軍属の
猟師が乗り込み南下していた所
米軍機の攻撃にあい、
【兵助丸】と【曙丸】と言う
漁船が沈没します。
沈没した漁船に乗っていた
乗組員はアナタハン島に
泳ぎ着きました。
【えびす丸】という漁船も時を
同じくして米軍の攻撃にあい
沈没しており、えびす丸の
乗組員を助けたのが【海鳳丸】。
この【海鳳丸】もアナタハン島に
たどりつきました。

翌日には遭難者を乗せて
島を出るはずだった
【海鳳丸】も結局空襲にやられ
計31名の乗組員が
アナタハン島に取り残されたそうです。

椰子の栽培に携わっていた人々が
70人くらい生活していたそうですが、
大方は他の島へ避難しており、
日本人では逃げ遅れた男性と
女性が、それぞれ1名づつ
残っていたようです。

男性は農園技師、女性はその技師の
部下の奥様だったそうです。
女性の名前は【比嘉和子さん】
後にアナタハンの女王と呼ばれた方です。

和子さんはパガン島で働いており、
そこで御主人と出会い結婚をされ、
アナタハン島に移り住んだそうです。
その時和子さんは22歳。

和子さんの夫は行方不明の妹さんを
パガン島に探しに行ったきり
消息がわからなくなっておりました。
戦中の出来事なのでどこかで
戦死したのかと思われていたようです。

そんな中、突如31名の遭難者が
一緒に暮らし始める事になったわけです。
和子さん達は農園を持っており、
若干の作物も収穫していたそうですが、
30名以上もの大人を養うほどでは
ありませんでした。
蓄えられていた食料は一月あまりで
底を付いてしまいました。

遭難者の方も芋作りなどを始めますが、
食料は到底足りず、ヤシガニ、トカゲ、
でんでん、こうもり等あらゆる物を
捕獲して食料にしたそうです。

ある日島は暴風雨に襲われました。
高波にさらわれ一人の男性が
行方不明になります。

それから1年余りがたった頃、
島は毎日空襲に襲われ、
残っていた原住民も皆、
島を脱出しており、残されたのは
この30名あまりの日本人だけ
だったようです。

それからまもなく日本は敗戦します。
昭和20年8月15日、終戦です。

しかし、アナタハン島に取り残された
人々が終戦を知る由もありません。
アメリカ軍の「でてきなさぁ~い」
「戦争は終わりました、日本は負けました」
という声も空からのビラまきも届かず、
逃げ暮らしていたのです。

アメリカ軍がアナタハン近くで拡声器を使い
人々に呼びかけても誰も終戦を信じる事が
出来ず、アメリカ軍の姿を見ると逃げ、
隠れていたそうです。

しかしながら、それなりに島での暮らしも
若干のゆとりが出来、食料にもさほど
困らなくなってきます。
椰子酒をつくり宴会等もしたようです。

島でただ一人の女性である和子さん。
彼女をめぐる男性達の戦いが
始まります。
和子さんはわが身を守る為に
農園技師の方と一緒に暮らしはじめます。
農園技師は和子さんが他の男性と
仲良さげに話をしているのを
見ただけで、和子さんに暴力を
振るったりもしたそうです。
男の妬深? 

昭和21年(終戦から丸1年がたっています)
兵助丸の船長が病死しました。
男性30人、女性一人となったわけです。

アメリカ軍の船が島に近付き、
和子さんと農園技師の男性が
ジャングルに逃げ込みます。
逃げ込んだジャングルに
墜落したB29の残骸を見つけます。
パラシュートの布や缶詰など。

パラシュートの布で服を作ったり
ガソリンタンクから鍋や釜。
機体の一部を削ってナイフを
作った人もいたそうです。
B29の残骸の中にはピストルと
弾も残されていました。
ここからが本当の悲劇の始まりと
言われています。

続く。

 



↑このページのトップヘ