彼岸への航海-ガイドブック

誰もが必ず辿る彼岸=あの世への航海のガイドブックです

1.私にとっても未知の航路ですが、出来るだけ灯台や航路標識を整備して航海を楽なものにしたい。

2.航路の整備や情報の充実により人々の不安を和らげ、航海の社会的コストを抑え、後世の負担を軽減したい。

新生児に選挙権を与えよう


孫が私の年令になった時、日本の人口は7000万人になる。現状から5000万人減る。

皆さんはそれがどんな状態か、想像出来るだろうか。

どんな対策をたてたらよいのだろうか。

私は対策の1つとして、<日本人として出生した子供は直ちに選挙権が付与される>制度を提言する。


このアイデアは立木信氏が著書「世代間最終戦争-若者を喰い物にし続ける社会」で提案しているものだ。

ただし立木氏は、<これが国債発行など次世代へのツケ回しの歯止めになる>と言う程度で、そこからあまり突っ込んでいない。<実現の可能性は少ないだろう>とも言っている。

また氏は高齢化社会の問題を強く追究するが、人口減少社会にまでは言及していない。



私は、全出生児への選挙権付与は実現可能な政策だと思う。

それは世代間戦争に対しても人口減少に対しても有効な政策であり、世界の中での日本の地位を高めると思う。

なにより金がかからない。



1.憲法を見てみよう。

 ~~~~~~

44条【議員及び選挙人の資格】

両議院の議員及びその選挙人の資格は,法律でこれを定める。ただし,人種,信条,性別,社会的身分,門地,教育,財産又は収入によつて差別してはならない。

 ~~~~~~

民法、商法など各法での規定があって嬰児の選挙権に抵触する部分もあるだろうが、憲法では排除されていない。

要するに法律で定めればいいのである。



2.嬰児に付与された選挙権を誰が行使するのか。

両親に? これは駄目だ。

私は母親に行使権を与えたい。産んだ事実こそ明快である。

子を持つ母親は老ボスや介護老人の2倍3倍4倍の権利を持つのである。世の中は変わる。

(養育しない母、母の死んだ児など、細則は別に考えればよい。)




3.子供の選挙権は何時から子供のものになるのか。

これも議論だが、私は元服(14,5才?)をもって有権者としたい。母親から譲られる。細則は別に定める。

現在の成人式は酒が飲めるようになるだけだが、選挙権がが付くとなれば意義は大きいだろう。



4.日本人だけか?

これから先、否応なしに外国人の流入は避けられない。

国籍や選挙権など議論の多いところのようだが、ここでは<日本人の両親から生まれた三代目の嬰児から>としたい。細則は別に定める。




どうだろう?
日本の女性は産んだ子供の数だけ選挙権を持つ。

日本独自の政策である。

日本の子供や女性は今よりももっと輝く。



2つの終末期医療TV番組

このところ続けて2つの終末期医療に関するTV番組を観た。
1つはNHKの30分番組で、1つは米国のWBGHとやらが制作した1時間番組である。
どちらも終末期医療の問題を扱っていて興味深かった。
それぞれにテーマは若干異なるのはやむを得ない。

~~~テーマ~~~~~~~~~
NHKのは主として高齢の認知症患者に対する胃ろうをいつまで継続するかがテーマであった。
WBGHのは主として骨髄移植した患者に対して人工呼吸器をいつまで着けるか(いつ治療をやめるか)がテーマであった。

~~~患者~~~~~~~~~
NHKの患者は高齢・認知症であり殆どはっきりとした意志表示がない。
胃ろうを装着して何年も経っている。中には10年以上も。

WBGHでは骨髄移植患者であるから殆どガンを患っている。年齢は壮年から老年前半が多い。
骨髄移植手術は自分の意志で決断したであろうから、延命治療実施への本人の意思確認もしっかりと行われる。
多くの患者が”戦いたい”と望んだ。
しかし留院した者も退院した者も殆どが数週間内に死亡する。

~~~家族~~~~~~~~~
家族の反応・対応は日米に殆ど違いはないように思われた。

~~~医師~~~~~~~~~
米国の医師は本人への意思確認が徹底していた。

米国では最終決定は医師のチームで行っていた。特に何とか委員会ではなく、ナースステーションの一角に数人が寄って話し合う感じである。

延命措置に伴う苦痛を家族に説明する医師は日米同じである。延命措置に伴う医療機関の経済メリットを考えているのではないかと思われる医師の存在も日米同じである。

~~~感想~~~~~~~~~
高齢・認知症で胃ろうを装着された人間の意思確認は無いのであった。

米国人の”戦いたい”意志の強さに感銘を受けた。

米国の患者は低所得層でなくとも一般庶民階層のように見受けたが、医療費負担が殆ど表面に出ず保険制度が機能している感じで、意外であった。

米国の取材場所は高度整備の大学病院らしかったが、ベッドそのものが高機能で日本を遥かに上回っていた。日本なら大臣クラスのベッドだ。

以上

耳鼻科にて考えたこと-加齢による能力低下


耳鼻科に行った。
かねて妻から「耳が遠くなったのではないか。ちゃんと調べろ。」と言われ続けていて今日検診を受けたのである。

私としては遠くなったとは思っていない。



結果「年齢並みで異常はありません。」であった。

私の感想は「あ、国に負担をかけたな。」であった。


歳をとれば多少耳が遠くなるのは自然の摂理である。それをあえて検査して、その費用の9割を国(保険)に負担させるのは社会正義にもとるのではないか、の思いがある。




しかも医者は、さらに検査があるから来週また来るようにと言う。

さて、さらに国費を費わせるべきなのか?




このような事例は医療費に限ってもあらゆる科目で、あらゆるレベルで発生しているであろう。

これも名付けて社会保障費であるか?




人間は加齢による衰えの補いを社会に頼ってもいいのであろうか?

それは自ら耐え忍ぶか、自らの費用負担によるべきでないのか?




この論を突き詰めると安楽死、自死のテーマに至る。

私はこのテーマを追うには能力不足であるが・・・





追記
私は老衰は自己責任とするが、「こども手当」「生活保護」「ベーシック・インカム」には積極賛成の立場である。







臓器移植について

臓器移植についての私の考えは何度か表明している。

 ナイーブな問題だし、世の中の動きに老人が異を唱えてもはじまらないので最近はあえて何も言わないが、私の考えは変わらない。
私は臓器移植そのものに反対である。

いつだったかのニュースで海外で移植手術をした赤子の手術料として3-4億円を請求されたという。
日本では毎年3万人が自殺している。
妻や子や親を残し、どんな思いで死ぬのだろう。いやその者らがいるからこそ死なねばならなかったのだろう。

 3億円あれば、そのうちの何人が死なずにすんだか。

手術した赤子の命は、死なずにすんだかもしれない多くの命とその家族の悲しみに見合うか?
絶対に見合わない。

こんな説話がある。
 ~~~~~~
 インドの昔話にこんな話があるという。
 <旅人が空家で一夜を明かした。鬼が死骸をもって入ってきた。その後から来た鬼と
 取り合いになり、旅人にどちらのものか言えと命じた。最初の鬼のものだと言うと後
 からの鬼は怒り、旅人の手を身体から引き抜いて床に投げた。前の鬼は死骸の手を引き抜いて旅人にくっつけた。後の鬼が旅人の脚、胴、頭とすっかり引き抜き、その度
 に前の鬼が死骸の脚や胴をくっつけてくれた。旅人の身体がすっかり入れ替わってし
 まうと、二匹の鬼は仲良く死骸を半分ずつ食ってしまった。
 旅人は驚き、自分の身体はどこの誰ともわからぬ人の死骸になってしまい、生きてい
 る自分が本当の自分かどうか判らなくなった。そこで寺にとびこみ、「自分の身体は
 あるのかないのか」と聞いた。
 坊さんは言った。「人間の”われ”は仮のものだ。人は”われ”にとらわれて苦し
 む。仮のものだとわかれば苦しみはなくなる。」>
 ~~~~~~

これは臓器移植の話である。

 旅人が鬼か。医者が鬼か。ブローカーが鬼か。
 仮のものだと判れば苦しみはなくなるか?

「自死の日本史」

「自死の日本史」(モーリス・パンゲ 竹内信夫訳 講談社学術文庫)を読んだ。

この書は東京日仏学院院長であったモーリス・パンゲが1986年に出した、自死(意思的な死)をフェーズにとった日本精神文化史である。


安徳天皇を抱いて海に身を投げた二位尼。
鎌倉幕府滅亡時の武士の集団切腹-6千人余という(太平記)。
秀吉に疎まれて自死した千利休。
浅野内匠頭、大石内蔵助と四十七士。
西郷南州隆盛の死と士族の終焉。
乃木希典の殉死。
2.26事件。
芥川龍之介。太宰治。川端康成の自死。
カミカゼ特攻隊の若者の心情。
昭和軍閥領袖の死に方。
市ヶ谷自衛隊の三島由紀夫。


多くの自死を挙げながら日本の文化を語る。
自死・自殺は決して日本だけのものではない。著者の広い学識は古今東西の歴史にも目を配る。


日本の自死を特徴づけるものは「切腹」の様式化であるとする。
為すべきこと何も無く、何も生産しない侍(サムライ)が階級として存続し得たのは、常に切腹の覚悟に裏打ちされていたからだという。
この儀式化された様式は敗戦時の阿南陸相、昭和の三島にも踏襲される。


パンゲは哲学者であるが、これだけ歴史を論ずれば社会科学者でもあらざるを得ない。
自殺の統計、西鶴や近松の演劇、明治維新政府の天皇制教育など多岐に踏み込む。
しかし或る行動を、或る集団を、或る思想を糾弾することはしない。
底に、日本文化に対する深い愛情が溢れている。


これを読んでいま私が思うのは、何も為さず、何も生産しない年金生活者はいかに生き、いかに死ぬべきかということである。 (2012・3・4 記)
 

勿体ない?


勿体ない?-1
先日中学生の孫が遊びに来て、私のiPhoneをいじっていた。
そして帰る時、「いろんなアプリが入っているのに使わないのは勿体ないよ。」と言い置いた。
 
勿体ない?-2
いつだったか「私は酒に弱いのでワインなど飲むことはない」と書いたら、「ワインを味わわないなんて人生の楽しみの半分を知らないことになる。勿体ない。」とコメントされた。
 
勿体ない?-3
尊厳死を法制化しようとの動きがあり、それに関してある現役の医師が「医師からみてまだ助かる可能性があるのに、患者が自ら延命措置を断るのは勿体ない。」と書いていた。
 
 
これらが<勿体ない>ことなのか?
現代人は<足るを知る>ことを忘れてしまっている。
 
 

延命治療と自己決定権

 
人事不省あるいは自分の意思を表明出来ないない状態で病院に担ぎ込まれ延命措置が始められた後に患者の意志が明らかになった場合、医師はどのように対処すべきか、延命措置は中止され得るのか、という問題です。
 
認知症の専門医笠間睦氏は、彼のブログ「Aspil・ひょっとして認知症?」に次のように書いています。今年2月の記事です。
https://aspara.asahi.com/blog/hyottoshite/entry/PhcaLjhUqw
 
~~~~~~~~~~~~
 
自己決定権の尊重という、医療倫理上もっとも重要な原則に照らす限り、患者本人の意思が明瞭に示されている場合に延命治療の中止を認めるかどうかが議論の対象となることはありえない。議論の対象になるとすれば、それは、昏睡患者などで、患者本人に意思を表明することができない場合だが、その場合でも、米国の判例は『昏睡患者などで本人に意思を表明することができない状況においても、その自己決定権の行使を保証する』という立場をとり、近しい家族による本人の意思の推定を、きわめて合理的な手段として受け入れているのである。
 
 米国の医療史において、カレン・クィンランやナンシー・クルーザンの事例は、『患者の自己決定権は延命治療の場においても尊重されなければならない』という原則を、法的に確立する貴重な事例となった。
 
 医療倫理的には、治療を始めないという決定と、一度開始された治療を途中で中止するという決定とは、患者の自己決定権という原則に照らせば等価の決定である。言い換えると、『治療を継続しなければ死んでしまう』という状況において、『治療を中止する』という患者の決定を受け入れることができないという態度は、『患者の自己決定権は一切認めない』と言っているのと何ら変わりはないのである。
 
 もし、日本で、『一度つけた人工呼吸器は絶対に外さない』と決めている学会や病院があったとしたら、その学会や病院は『私たちは患者の自己決定権は一切認めません』と宣言しているのと変わらないのだということは、明瞭に認識されなければならない。
 
 現在の米国医療において、延命治療の中止はルーティンの医療行為であり、昨今の日本のように、『安楽死』や『殺人』と混同されることはありえない。カレン・クィンランの呼吸器取り外しを巡って両親が法的手段に訴えたのは1975年のことだったが、当時、米国でも、延命治療の中止が安楽死と混同されたり、中止に関わった医療者が殺人罪に問われる可能性が論じられたりしたことを考えると、延命治療の中止を巡る現在の日本の状況は、30年以上前の米国の状況に酷似しているといってよいだろう(言い換えると、いまの日本は、米国と比べると30年以上遅れた議論をしていることになる)。
~~~~~~~~~~~~
以上の文章は、李 啓充(り・けいじゅう)医師の書かれた著書から引用し一部改変したものです(李 啓充:続・アメリカ医療の光と影─バースコントロール・終末期医療の倫理と患者の権利 医学書院, 東京, 2009, pp46-48)。
 
李 啓充医師は、1980年に京都大学医学部を卒業し、天理よろづ相談所病院内科系ジュニアレジデント、京都大学大学院医学研究科を経て、1990年よりマサチューセッツ総合病院(ハーバード大学医学部)で骨代謝研究に従事し、ハーバード大学医学部助教授を経て、2002年より文筆業に専念されております。鋭い医事評論で知られる高名な先生であり、米国ボストン在住です。
~~~~~~~~~~~~
 
75才以上の人間にとって病院は避けるにこしたことはないようですね。

延命治療拒否をもっと詳しく

先に「日本尊厳死協会」の「尊厳死の宣言書」を紹介しました。

しかし中村仁一先生(あとで説明)は「・・・延命措置をお断りします」の宣言だけでは不十分だとおっしゃいます。
そしてご自身では次の事前指示書を作成しておられるそうです。

~~~事前指示書 中村仁一~~~~~~~~~
「医療死」より「自然死」が好みのため、意識不明や正常な判断力が失われた場合、左記を希望する(ぼけた時は、ぼける直前に「断食死」を敢行するつもりだが、タイミングを外す場合も考慮して)。

1.できる限り救急車を呼ばないこと。
1.脳の実質に損傷ありと予想される場合は、開頭手術は辞退すること。
1.原因のいかんを問わず一度心臓が停止すれば蘇生術は施さないこと。
1.人工透析はしないこと。
1.経口摂取が不能になれば寿命が尽きたと考え、経管栄養、中心静脈栄養、末梢静脈輸液は行わないこと。
1.不幸にも人工呼吸器が装着された場合、改善の見込みがなければその時点で取り外して差し支えないこと。

2006年9月17日
中村仁一
~~~~~~~~~~~~

ふーん。「できる限り救急車を呼ばない」か。
革命的だなあ。

中村先生は1940年生まれ、老人ホーム「同和園」診療所所長として<最後まで点滴注射も、酸素吸入も一切しない「自然死」>を数百例もみてこられたそうです。

近著「大往生したければ医療とかかわるな-自然死のすすめ」(幻冬舎新書 2012・1)は評判となり、TV出演も増えているようです。
この本についてはこれからも度々引用することになると思いますが、例えば各章のタイトルを見て下さい。わくわくしませんか?

第1章 医療が”穏やかな死”を邪魔している
第2章 「できるだけの手を尽くす」は「できる限り苦しめる」
第3章 がんは完全放置すれば痛まない

 

プロフィール

黒潮丸

アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

タグクラウド
QRコード
QRコード
RSS
  • ライブドアブログ