私はね、浦井洋という共産党の候補者が、選挙カーをおりて、握手してきたから、選挙権を得た最初の選挙には、共産党にいれたのです。ま、二十歳何てそんなもんでしょう。

でも、共産党に入れても当選しないからおもしろくないよね。
で、二度目の選挙では、渡辺なんとかという公明党さんに入れました。
握手はしないけど、当時の私は創価学会と言っても法華経信者なら、一般人より公明正大なのではなかろうかと、信頼したのです。

今でも、一般信者の人々が、世界平和とか、福祉と言われるとき、本気なんだと思っています。

それはさておき、私が密教系の教団に入ったころ昭和の終わりですが、この時期、創価学会とのバトル状態でした。
学会さんには公明党と言う政治力があるから、
政治も行政も操ってしまう。

すると、他教団を妨害するために、消防法の規制を変えたりして、他教団の寺院の設計や設備にいちゃもんがつけられるわけですね。
なんでもできるんです。

そこで、くれぐれも悪評を立てられないように、相当な気遣いがありました。
その心配がなくなったのは、いつごろかなあ?平成10年ごろでしょうか。

学会さんが折伏大行進といって、のきなみ入信させていった時期がありました。
私の住む町内も、のきなみ学会さんでした。
そのころ、こぞって折伏を受けたそうです。
近所に一軒だけ「わたしゃ、入らない」とつっぱねたおばあさんが教えてくれました。
「○○さんはな、創価学会やけど、ええ人や」という、お婆さんの口ぶりから「創価学会にはいい人はいない」と思っているようでした。

息子の同級生に「学会を脱会したら、毎晩大勢で押しかけてくるのに耐えかねて、引越ししてきた一家」もありました。

総じて、評判は悪かったです。

だから、親が私を独り立ちさせるときの戒めは「借金はするな」「学会に入るな」でした。

私が密教に入ったころ、「あなたたちは初心者だから、決して学会さんから議論を仕掛けられても、議論をしてはいけません」と言われました。
あちらは、理論武装しているから、言いまかされるというのです。

はたせるかな、ある日わが家に、近くに住む学会さんがやってきました。
私は、自分はすでに所属する宗教を選んだから、もう、他のものは要らないと言いました。

あれこれ言っても、私が応じないので、彼女は捨て台詞で「じゃあ、競争しようじゃありませんか。20年後、あなたと私のどちらが幸せになっているか。競争しましょう。」
勢いのいい人でしたが・・・その競争の答えはでなかった。20年をまたずに、その人は亡くなってしまったから。

宗教は競争ではないのに・・・・

しいていうなら自分自身との戦い。
他人と競争してもはじまらない。

真善美は「理想」
この「理想」の3つの円が3つともかぶさった部分を「聖」という。真善美の理想のすべてを兼ね備えた究極の理想を「聖」と呼び、宗教が目指すのは、この「聖」という「まこと」

これを目指して、自分の中にある悪と戦いよじ登っていく。
ここまで登った!とうぬぼれるときは、たいてい、登るどころか落ちている。
「自分は、足りない」と、自覚できた時、ほんとうに登っている。

自分の中の「煩悩」を滅するのは並大抵の努力じゃかないません。
自分の力だけでは不可能なんです。
人間ですから。
そこで神仏の力を借りて、半歩登る。

優れた人も、ダメな人も「半歩」ぐらいしか差は無いんです。人間ですから。

それなのに、何を競争しようというのだろう。
幸せの度合いって、どういう物差しで測れるのだろう。

仏教用語に「教相判釈(きょうそうはんじゃく)」という言葉があります。
これは、どの経典がすぐれているか、どの教団が優れているかの優劣を判断することなんですが、
まずは「宗教とはなにか」という定義があります。

正統な宗教であるとみとめられるためには「仏法僧」の三宝がバランスよくそろっていなければならない。

仏とは本尊仏のこと。
法とは経典。
僧とは、教団の組織が整備されていること。

新興宗教団体は、これらが明確でないケースがふつうなんです。
さらに、創価学会さんは、信者の集団であって、僧階を持つ「僧」がいない。
厳密に言うと、宗教団体としての体裁をなしていません。

本尊は板曼荼羅と言うのかもしれないけど、そもそも日蓮の時代にはカンナがなかったのに、なぜ、カンナで削った板に彫りこまれているのか、そもそもその本尊さえ、偽物ではないか疑惑のある日蓮正宗のそのまた亜流だから、つきつめるとその存在は、相当厳しいのです。

聖なるものに一筋に流れる法力は、そういうところには流れません。

学会の人と親しくなった時に理論武装している男性に質問したことがあります。
「創価学会て、どういう意味?」
「価値を創るんや。つまり、価値とは、金やったり、地位やったり、名声やったり、そういうものが得られるということや」

「へえ~。それで、おじちゃんは池田先生を信奉しているの?」
「いいや、わしは池田なんか信じてないし、学会より、もっと利益のある宗教があったら、いつでも乗りかえるで」

そりゃあ、そうだわね、利益がめあてなら、利益のある方に流される。

そもそも、利益が目的なのだから。

そういうわけで、こっちや!と思ったら、乗り換える人も多いらしい。
そこで、あっちの方がいい!とばかりに、私の教団に乗り換える人が続出した時期がありました。

ここ数年も、なんとなく、そんな気がするけど
最初の乗り換えは昭和50年代だったみたい。

ここからの話は表ざたにしていいのかいけないのか、私には判断がつきません。


昭和59年だったのですね。
10月3日、城久氏が、亡くなっています。
その前の日、この方は、私の教団に若い衆をつれて押しかけ「信者をとった」と抗議しました。
その翌日の急死だったので、こちらの方が衝撃を受けました。

この後、妨害はより激しくなり、私まで「どっちが幸せになるか競争しよ!」と言われるありさまに。

平成になってから何年ごろかなあ・・・ある日、私は、あまり人のいない教団内の休憩所で、向かい側の人から声をかけられました。

「私ね、創価学会をやめてここに入ったのよ。ここはいいわ。のどかや。」
「そうですか?」
「なんで、辞めたか教えてあげる。
創価学会ではねお題目を唱えると、願い事が叶うと言われるけど、あれ、本当なんよ。
一心不乱にお題目をあげて願い事をすれば、かなうのよ!」
「へ~?!」
「けど、それが恐いねん。
願ったことは、かなうよ。
けど、そのかわりに、子供が非行化する、夫婦仲が悪くなる、家庭がめちゃくちゃになるなど、周囲が崩れていくねん。」

「あらまあ・・・それじゃ、困りますね」

「でも、私が辞めたんは、本気で恐かったからやねん。
私の隣の人がな、同じ学会の隣家の人が、嫌いで、毎日お題目をあげて、その人が死にますようにと祈ったんよ。
そしたら、本当に、隣の人が交通事故で亡くなってん。
それを見て、私はこわくなって逃げ出したんよ。
ほんとうに、ここは、のどかでいいわ。」

なにをかいわんや。

こういうのを黒魔術というのかな?

そういうわけで、逃げ出す人も続出している。
だから、東京都は知らないけど、もうだいぶ前から実力は落ちているでしょう。
あとは、ムサシとかいう機械に頼るしかないのよ。

親の代ならいざ知らず、親がやっていたから義理でという世代交代した二世は、選挙のために歩いてはくれないらしい。

宗教団体の経営も甘くは無いのです。
少子高齢化は、すべてを脅かしますが、宗教団体をも脅かす。

デフレも同じです。信心する人には関係ないかもしれないけど、教団側としては経営手腕なしでは、危ないですね。

そろそろ、戦後の新興宗教は大半陰りが出ていると思います。
その中での日本会議・生長の家の狂い咲きは・・・何と言ったらいいか。

昔から人間は貧病争が、動機で神様にすがりました。生活保護で、一番底に行くと逆に浮き上がる、医学の格段の進歩、戦争のない長年月・・・この幸せも、宗教を衰えさせました。

いわば、公明党をつくって信者の暮らしを楽にしたことが、逆に、必死になって選挙にあるく人を減らした皮肉な結果になったかもしれません。

また、どの宗教団体にはいってしまうのか、これも、縁というものでしょうかね。なにをするにも、ある程度の頭脳をそなえていないと、他人の食い物にされちゃいますねえ。

まあ、人生そんなもんじゃないでしょうか。

生まれ変わり生き代わりしながら、何億光年かけて、登っていくんじゃないかと思います。


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