私が、最も強く「縁」というものを感じるのは、子供歌舞伎の公演をするときです。


その子のその日は、生涯に一回きり。
明日は、1日分成長していく。


今日の、この輝きは、歴史上、一回きりの輝きなんです。なにもかも、
幼いは、幼いなりに、拙いは拙いなりに、輝きわたる魅力を見せてくれます。

だからと言って、毎回大勢のお客さんがきてくれるとは限りません。
「こんなにかわいいのに、もっと多くの人に見せたいね。もったいないね。」
見た人は、そう言って帰って行きます。

でもね、この地球の此処で、その日その時、パッと輝いた光と出会えるのは・・・縁のある人だけなんです。

いつも、そう思う。

子どもたちが、その刹那に見せてくれる明るく強いエネルギーを受け取れる「縁」のある人だけ。
でも、縁のある人なら、必ず、やってくる。

そう思っているのです。

結局、なにもかも、昔から言われているとおり。
昔の人が言い習わしたことに、間違いはありません。

では、こういう古いものは、今の世の中では、完全に失われたのでしょうか・・・

私は、ときどき孫たちに会いに行きますが、あの子たちが夢中になっているゲームのことは、まったくわかりません。

あの「わからないもの」が世の中に出回りだしたのは「ドラゴンクエスト」という、ファミコンゲームからで、発売とともに売り切れ、手に入れるのが大変でした。

ドラクエⅡが、発売日に買えなかったと言って、小学生の娘が大泣きして大変でした。
そして、わが家には、娘の同級生が、わんさと押しかけて、それぞれのソフトを貸し借りするのですが、自分たちで決めたレートがあって、Aを借りるためにはBとCのふたつと、交換できるという按配でした。

そして、大人たちは、自分たちのわからない世界に、子供たちが埋没するのに眉をひそめました。
「子供は、外で元気に遊ぶものだ。そこでこそ、社会性も身につく」

けれど、すでに「大人たちが描く”外”」なんか、どこにも無かった・・・
草っぱらなんか、町には、全然。
通りは車であぶなくて遊べない。
公園にいけば「球技禁止」と、書かれている。

かくて、子供たちは屋内の液晶画面の前に釘付けになり、そのまま四半世紀が過ぎました。もっと、過ぎました。
結局、ある年齢から下の持つ「文化」は、ここにあるのです。

だから、、孫たちが言う、カタカナの名詞の意味は、私にはわかりません。
そして、そこから広がるゲームの世界も、わかりません。

かつて「おそれいりやの鬼子母神」「死んだはずだよお富さん」「けっこう毛だらけ、ネコ灰だらけ」「遅かりし、ゆらのすけ」などと言っていた句は消滅して、そのかわり、あの子たちの合言葉は「違うもの」に、変わってしまった。

私は、彼らを見ていて「世代の共通語」が日本から消えたと、思っていたけど、そうではなく、違う言葉、違う概念に、置き換わったようです。

それを、私たちは「最近の若者は”モノを知らない”」と、嘆いて、あのサブカルチャーの世界を無視してきました。

桃太郎を知らない子供たちに、では「気は優しくて力持ち」の美丈夫の「概念」は、無くなったのか?というと、そうではなく、どうやら、アニメの主人公や、ゲームのキャラクターに置き換わったようです。

以前、ももたろう列車というゲームがありました。
日本のアニメには哲学があると・・・外国人は絶賛します。

その、哲学とは・・・日本の伝統文化から発生したものです。

ウルトラマンがスぺシウム光線を発射するときの決めポーズ・・・これは、歌舞伎の「みえ」です。
仮面ライダーが「変身するとき」の一連の動作、あれも、ほぼ、歌舞伎の動きをなぞっています。
さらにいうなら「仮面ライダーの仮面」あれは、神楽の神面の概念でしょうね。
面をかぶると神に変身する。

ウルトラマンの顔は歌舞伎の隈取と言えるでしょう。

日本のサブカルチャーが豊かなのは、2000年の歴史がはぐくんだ伝統文化を引き継いでいるからです。

勧善懲悪も、能の「羽衣」や、「幽鬼」の概念も、現代のアニメやゲームに引き継がれています。
エロもグロも、この中にあるのです。

消えてしまったのではなく、形を変えた・・・日本文化そのものは、脈々と生き続けている。

そして、こうなると、形だけ「伝統」にこだわる「農村歌舞伎」は、今では「伝統文化」と、呼べるのだろうか・・・これが、私が、今直面する課題です。

「血沸き肉躍る」「わくわく」「おもしろい」「いろっぽい」「芝居の世界にひきこまれる」・・・人々の心にこういう「ゆすぶり」をかけるのが「日本文化」の粋ではありませんか?

かつて、この鬘をかぶり、この衣装を身に着け、この化粧をして。
このセリフを言って、この物語をやった・・・その時、聴衆は「わくわくして、涙を流し、大笑いして、心をゆすぶられた」

でも、同じ演目を正しく踏襲しても、すでに聴衆が変化しているのだから「同じわくわく感」は、もう出せないのです。

これは、しかし、芝居、地芝居の話です。

プロの日本舞踊、能、神楽、雅楽となると、伝統を作法通りに受け継ぐのがいいと思う。
歌舞伎は、すでに、客に合せて変化しています。

一番難しいのが人形芝居でしょうね。
今さら、人形を変えることも、歌舞伎の様に宙乗りすることもできない。

人形だから、人間にできない動きができて、面白かったものです。
そして、古典もので、完成している。
完成しているけれど、物語が時代に合わない。

落語、講談、浪曲・・・これは、題材が、農村歌舞伎同様、時代に合わなくなった。

明治維新、強引に上陸してきた白人に、狼藉をはたらいたと言って、関係者一同切腹を命じられた。
居並ぶ白人の前で、次々、腹を切っていく・・・血しぶき、飛び出す内臓・・・おそれをなして、白人は船に逃げ帰る・・・あっぱれ、堺の男たち!

こういう浪曲は、もう、受けない。
理解してもらえない。

でも、そこに脈々と流れる「理不尽への怒り」「正義感」「勇気」は、結局、アニメとゲームの世界に受け継がれた。

そういうことなのだと思う。

だから、地芝居は、まだ、変われる。
姿を変えて生き延びる可能性はあるけど、

もし、変わらなければ・・・?
かわらないで、そのままを押し通すことが、果たして「伝統文化の継承」とい言えるのかどうか!

これが、私が、ここ数年胸に抱いてきたテーマなのね。

日本文化とは、なにか?
これがつかめたら、わかりそうな気がする。

そして、日本文化の発祥はホツマツタヘにあるのだと思う。
日本の人々は、このように生きなさい・・・その精神にこそ伝統文化は根ざさなければならない。

意匠とか、形にとらわれては・・・時代に、押し流されるだけだと思う。

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