50年前には、女性週刊誌の片隅に「処女膜再生手術」が出来ますよ、と言う整形外科医の広告が、必ず出ていたのです。

マダムジュジュ、という美顔クリームと、ミクロゲンパスタという眉毛の育毛剤とともに。


マダムジュジュも、もうないけど、処女膜再生手術にいたっては、今、こんな話をしたら、意味不明だろうと思う。


世の中の価値観が180度変わってしまったのだから。


昨日、夕方から決まって長話をする民俗文化に造詣の深い・・・もっといえば、お互い「変わり者」である点が「似ている」と感じている一回りも年下の男性と長話をしていた時に、思い出した。


彼の訴えは「一般的な人々が何を考えているのかわからない」という事だった。

彼らに歩調を合わせることのできない自分は、どうしたらいいのだろう・・・


ああ、同じことを私もずっと感じて来たよ。

私も、群れることが出来ない。

自分が自分であることを、放棄できない。


でも、あの同じ顔をして「世の中は、こうなっている」としたり顔で言う連中が、正しいわけではないよ。

結局、ああいう人たちが、日本をここまで悪くしてしまったんじゃないの。
自分の頭では何も考えない、尻尾について行くしかできない連中が!

でも、私は、反省しているよ。
なぜ、そういう人たちはおかしいと思いながら、黙って来たのかと!

なぜ、もっと前に、そうじゃない、こっちだよと、言えなかったのか?
言ってみても、無駄だったかもしれないけど、実際、言えなかった。

自信がもてなかった。

何が善悪是非なのか、自分のものさしに自信が持てなかった。

せめて60歳でなにか主張できていたら!と思う。

できなかった理由は、世の中から「ものさし」が消えていたからなんだよ。

昔は、50歳になったら、この色の着物しか着てはいけない。髪型はこれしかいけない。つべこべと決まりごとがあって、そのかわり、それさえ心得ておれば後ろ指を指されることも無かった。

一定の枠の中で生きておれば、無事だった。
そこからはみ出した人間のことは、万人が非難した。

だから、自信を持って他人を非難できた。
「それは間違っている」と、正せた。

なぜか?万人が同じ物差しで審判したからだ。
「誰にでも、聞いてくれ、私の言うことが、正しい」といえた。

けど、社会が、その物差しを消してしまった。
今では、誰に聞いても「そうだ」というのは「殺すな」ぐらいなものでしょう?

すると、彼は言った。
「いや、昔は規範が見える形で存在したけど、今でも、見えない形で枠はあるで、なにかあるとSNSで、ボカボカに叩きよるで」

たしかに、規範を失った世の中はおおらかになったのでなく、我欲が跋扈する無法地帯になっているから。

昔のように、灰色の着物さえ来ておれば、誰にも後ろ指をさされないというような、確かな隠れ蓑が無い。

何をしてもいいのだけど、何をしても叩かれる。

みんなが、同じことを善だとか、悪だとか言わなくなったから、何かを主張しても、孤立する・・それがわかっているから、何かを言う自信が持てなかった。

60歳では、まだ、全然だめだった。
今なら言えることがあるよ。70歳になって、ようやく自信ができてきた。遅すぎると思う。
だからといって「これが善、これが悪」と言い切ることは、今でもできない。

そんな価値観の物差しは、個人の勝手だから。

けど、「こういう心掛けで、こう行えば、幸せになれる」「そういう根性で、そんなことをすれば最後は憐れだ」こういうことは、見えて来たよ。


それも、親の一生を見て、親族の生涯を見て、自分で、これでいいか?これでいいのか?と、迷いながら生きてきて、子供たちが無事成人して、独立して、孫を育て、その孫たちが、無事に学齢期に達して、

やれやれ、どうやら、無事で来れた・・・という、今になって、ようやく「こういう道を選んで、こう考えて、ものごとをこうとらえて、時に、信念を曲げず、時に協調して、時に怒り、時に感謝して」行けば、必ず到達できる・・・

どこに?

自分がこの世に出てきた目的地へ。

罪を犯さなければ、必ず・・・

つみ・・・とは包み隠すこと・・・自分の持つ力を隠して発揮しないこと。
つみとは、包み隠すこと・・・他人の能力を押さえつけて発揮させないこと・・・

自分の持つ力を、畏れずに発揮して、決して他を排斥しなければ、やがて、本来の道を見出し、必ず自分の目的の場所に至れる。

これは、もう、消えてしまった社会通念だの道徳、なんかに頼るのではなく、己の心に聞けば善悪是非はわかるものだから、勇気をもってそれに従う。

恐怖と欲に流されないように、・・・それは、容易いことではありません。

私の教団では、世に規範は二種類あると言う

世間で言う道徳。
そして、法における戒律。

これは、共通する部分だけではなく、道徳では許さないが、法愛の中に赦されるものがあり、
世間では通用するが、戒律において許されないものがある。

それを見分けるには智慧が必要。

心がのびやかで、思いのままに行動して、それが規範を越えないのが理想であって、心にあるものを、伏せこみ、包み込み、押さえつけ、無いかのように振る舞うのが、いいわけではない。

それは泥のようになって心の底に積もってしまう。
それを解き放つために、この世に生を受けるのだから・・・

解けたとき、仏になる。

隠したときになるのではありません。

そういうことが、この年齢になって、初めて見分けられるようになったから、これからは、ああだこうだ言える気がする。

でも、これまでは、自信が持てなかった。

若いころ規範だったものが、時代とともに消えて行き、かつて枠組みだったものが、無くなった。

覚えている?昔「処女膜再生手術」の広告が、必ず週刊誌に載ってたでしょ?
「あったなあ・・・最近、見ないなあ。週刊誌も見なくなったけど」

かつて、女性にとって結婚前に処女を失うのは、自殺するしかない大罪だった。
だから、それを救う希望の光だったのよね。

命を救う

私の時代には、25歳までに結婚しないと、後妻のくちしかなかった。
そういわれたから、「適齢期」の23歳に、何が何でも結婚したよ。

そのころには、誰に聞いても正しい・・・ということが、まだ通用していた。50年前には。

だから、そのままの社会だったら、私だって、40歳にもなれば「これはこう、あれはああ」と言えただろう。

「ところがね!適齢期と言う言葉が5年もしないうちに、死語になったのよ。私が30歳になったころには、26歳でもいかず後家とは言われなくなっていた。そして、女性の結婚年齢はどんどんあがって、独身でも、後ろ指刺されなくなった。騙された!と、思ったよ。」

そのうち「処女膜再生手術」なんていう商売は、消えた。

その社会の価値観の激変に添って生きて来たから。

昨日まで「こう」だったことが、急激に「ちがう」ようになる。

それに振り回されて、いったい、何をどうしたら是なのか、考えが構築できない。

しかたなく、それぞれが、てんでに、自分の育てられたように子供を育てる・・・いい親に育った子供たちだけが、無事に成人する。

毒親に育った子供は、人生を構築できない、あるいは、自分の子育てで失敗する。

その時、社会は、何も役に立たない。

昨日、テレビで大阪市がいじめ防止委員会を立ち上げて、即座にいじめに対処します、と言っていた。

あほぬかせ!と、思ったよ。

どういきたらいいのか、迷いぬいた迷子が、めちゃくちゃやっているだけのことなのに、その波の上に出てきた大波だけを摘んでいても、何一つ解決しないでしょ。

社会は、ますます悪くなっている。物事に対する理解力、智慧、慧眼がゼロになった。

最近、私は中国の歴史もののテレビを見ているの。
項羽と劉邦も、見ようとしたんだけど、間違って最終章だけ買ってしまったから、

周の物語で、斉とか、突厥、隋なんかが出てくる。ずいぶん古い時代。

そこで、良い政治をする国は、商業も農業も発展して民が豊かになる。
けれど、武力もなければ、パワーを発揮できない。

あれを見ていて、私は思うんだわ。

せめて、自分が関係する世界では、筋を通そうと。

この世の中に善悪是非の物差しがなくなって、まるで、春秋戦国みたいな乱世になっている。

今までは、自分が被害に遭わないようにするのが精いっぱいだったけど、これから先、いつまで頑張れるか知らないけど、筋を通そう。

誹謗中傷には負けない。

仕事をしていた時には、その他のことが片手間だったけど、腰を据えて取り組むようになると、協力者、賛同者を得られることに気付いたのです。

その人たちを、適所で生かしてあげることで、次の段階が開けるはず。

古来希なりまで生きれば、少しは、モノが見えてくるのかなあ。

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