人生ー生きること死ぬこと

心配ないって!地球は次元上昇するからと言う話

地球は次元上昇しつつあります。

日本や世界や宇宙の動向さんです。


この話はね、飽きるほど聞いたのよ。

2012年にむけて、地球は次元上昇します。

フォトンベルトに入ったら、どうとか。

銀河がみずがめ座の領域に入るとか・・・

そしたら、地球が次元上昇する。
アセンションだ!


2012年ね!

これは船井幸雄さんが、前世紀に唱えた。

あのころは、まだ、ネット情報には接していなかったかもね。

windows95が、最初だったということは1995年が、ネット世界の幕開けでしょう。
神戸の大震災は、その最初のインターネットで報告された。

ところが、肝心の船井さんが2012年になっても、次元上昇したとは言わないでうやむやにしてしまった。

なあんだ!
なんだよ、あれ。

ところがね、私の教団は2012年を特別な年と位置付けていた。
なんで、関係ない船井さんのいう2012年を特別の年というのだろう?
謎だった。

そして2012年12月24日を特別な日だと表明したのよ。

ここにむけて2006年から6年間「油断してはダメ」そう言い続けた。
教団内を引き締めつづけた。

「すべて逆境にあっても
それを素直に受けて、明日を明るく見よ。
必ず開ける」

つまり、教団はこの期間を危機の期間と見ていました。

悪は必ずさる・・・と言われ
善の灯は、どんな風にも消えない。

何があるのか・・・と思う中、あの大津波だった。

詮索してもわからない。
宗教の世界のことは見えない霊界の話でもあるし・・・

教団の存続の危機なのか、
日本の自然災害の危機なのか、
世界の危機なのか

私は、ただ教団指導者の表情から読み取るしかなかった。
指導者は、ずっと苦しい表情を浮かべて信者を励まし「何があってもついてきてください」と訴えたの。

その表情が「勝ちました」という顔に変わったのが2013年3月だった。

何かわからないけど、一つの局面を越えたと、私は理解している。
「でも、まだ油断できません」

約束の2012年12月が過ぎても、まだこれから6年かける・・・と言われたその約束の6年目が今年2018年。

どうやら、大きな山場は過ぎ去ったようなのだけど、
2016年2017年・・・過去2年間、東京にテロの危険があったと私は思っている。

印象的な指導者の言葉として昨年、マクロンが勝利した時期、パリから戻ったとき、「私の力が及ばなかった」と漏らされたこと。また聞きだけど。

「何があるかわかりませんよ。苦労もありますよ。」昨年末に将来を見据えて、そう、言われたけど、表情は明るかった。

見えない世界で、最悪を脱したのだと私は承知しています。
けど、それが、1教団の発展のことなのか、人類全体のことなのか、私にはわかりません。

けれど、あらためて「次元上昇」の話を読むと、
教団が歩調を合わせて進んでいたのは、やっぱり、これかなあと思う。

かつて規律戒律が厳しい教団だったけれど、
自分らしさを大切に、自分の個性を輝かせて、その輝く一人一人が集まって輝く世界をつくりましょう。
決して「同じ顔」の群れになるのではなく、
個々が、それぞれに輝くように。
心が一つと言うのは、ファシズムではない。

2012年の区切りを過ぎて、教団のテーマは大きく変わりました。
そして、これは人間の次元上昇のことを言っているのだと思う。

ひとりひとりが解放されるように。

そういう世界になったからこそ、
悪があぶりだされる。
善と悪、白と黒がはっきり見えてくる。

2000年代になると「悪が噴出してくるように見える。しかし、それは悪が栄えるようになったのではなく、以前は見えなかっただけのこと。見えてきたという事は。退治できるようになったこと」だと、いうのが、教団の指導でした。

そのとき、見えてきたのは例の大蔵省のノーパンしゃぶしゃぶだったわ。
どうやら、あの人たちの体質って全然変わってないみたいね。

昨日、夕刻、ニュース速報で!山口達也がセクハラ・・・というのが出て、びっくりした。
よく聞けば、もう2か月も前のことで示談もすんでいるのに。

NHKがすっぱぬいたんだって。

やっぱり、NHKは、ちっとも改善されてないわ。思った通りだわ。

けど、こんなニュースにもならないことを、ピンこんぴこん鳴らしてテロップをかけるだなんて。

もう、安倍内閣も来るとこまできたね。

名まえが山口で同じだから。
詩織さん事件とわけがわからなくなる年寄りもあるだろう、
今からますます、政権内部のセクハラ、下半身問題がわきあがるから、なんとか、話をそらそう・・・意図が丸見え。

うん、確かに地球は次元上昇中だわ。

今は、上昇すると人類がどうなるかについては、書きません。
わからないし・・・

いずれ、そこは、今、地上にある宗教を越えた世界です。
魂の進歩の段階のことかな・・・

仏教では「人の真の姿は仏性という水晶玉のように澄み切った魂」だと言います。
その水晶玉に「還る」
成るのではないんです・・・「戻るのです・いわば、魂の故郷へ」


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人は何のために生きるのか

「うつ病診断」という簡単な表があります。

昨日、介護予防の半日デイサービスの時に、皆さんに配りました。
こういう場所に出てこれる人に「うつ病」の人なんかいません。

なのに「わー私うつ病だわ!」と、自己診断の点数を見て、叫んだ人がありました。
「え~?まさか」
私は、その女性の理知的な温かい目を見ながら「そんな馬鹿な!」と、もう一度言いました。
「見せてよ」
採点欄を、見直すと、足し算が間違っていて、「あなたは、”うつ”の領域にははいっていません」という、予備軍みたいな点数だった。

「なんか、気がしんどい。意欲が無いの」と、その人は言いました。

「与えられるばかりでは、人は満足しない」んです。
このことは、阪神淡路大震災の時、NPOを立ち上げたCS神戸の中島さんが言っていたことです。

被災地で、避難所で、そこにいる人々に「みなさん何が欲しいですか?何が足りませんか?」と、聞いて回った。

すると、避難所でごろごろして、与えられる食事、おしきせられる衣服、もたらされる日用品漬けになっている”満たされた”被災者たちは、
「もう、なにもいらん。わしらは、もう、与えられるのに、うんざりした。
わしらは、仕事があれば働きたい。
してもらうのは、もう、嫌や”してあげる”側になりたい」

そういう人がたくさんたくさんいたのだそうです。
それで、彼女は「人のために出来ること」ができる道をつけて行きました。
持っている技術が生かせるように、
こうして、傘下にいくつものNPOができました。

CS神戸の前途は洋々としているように見えましたが、
「大破壊」
「修復」
「再生」のある段階では大きな支持を集めたなくてはならない組織だったけれど、
世の中が平穏になり、
人々が、ふつうの生活に戻って行ったあと、
「人の輪」は、解消されていき、大きな組織に成長することはありませんでした。

神戸の婦人会に匹敵する男女を網羅した市民団体になっていくのかと、目を見張っていた私には、拍子抜けするできごとでした。

「満たされることによって消える」・・・
これは「女性の自立・社会参加」も、同じです。
家庭に閉じ込められ、したいこともできない嫁は、姑の目を盗んでPTA活動、婦人会活動に熱心だったけど、
普通に、女性が働ける環境が整ったら、PTAも婦人会も消えていく運命になりました。

さて、「健康寿命」を、のばそう!と言う掛け声の下、各地域福祉センターで進められている「介護予防教室」ですが。

これも、「与えられるだけじゃ、いや」という災害被災者と似たものになる危険があります。

「はい、どうぞ。これも、あれも、はいどうぞ」
「もらうだけじゃいや。私は、世の中の役に立ちたい」

ところが、そうは言っても、高齢者の体力、視力、老化の具合で100%活躍することもできないんです。
出来る範囲を見定めながら、無理にならないところで、「必要とされる喜び」を、思い出してほしい。

去年は、私にとって、最高にハードな年でした。
大殺界のせいかなあ。

疲れて、朝、起きだせない日がありました。
けど、その日、何時にはどこどこに行かなければならない。
だから、重い体を持ち上げる。

動き出すと、何とかなるもので、人前に出たら、無理にでも元気になる。

ところが、何日か、何十日か、無理に動き続けて、ついに、何もすることのない日がやってくる。
最初の日は、もう、綿の様に疲れている。
ぐったり・・・二日目も、ぐったり・・・それが、三日目になると・・・
「私は、世の中から必要とされていない」という気持ちになりました。

一種のワークホリックね。
フルタイム職員でもないのに、毎日定期的に用事がある・・・その方が、普通じゃないのに、それが、3日途絶えたら・・・私は、世の中に不要なんだと不安になる。

やっぱ、病気やね、と自覚する。

呼ばれないと不安になるのは、”病気”だとしても、
呼ばれると、空元気でも、元気になる。

他人から必要とされると言うのが、人にとって、一番うれしいことだから。

私は、たぶん、気ままモノのせいで、しばしば妬みを受けるのだけど、一番妬まれる要素は「人間関係の豊かさ」なのね。
上等なものをもっているとか、大きな家に住んでいる、姿かたちが美しいという理由で妬まれる人もあるだろうけど、
一番羨ましいのは「人気がある」人なのよね。

それぐらい人は、「必要とされるのが嬉しくて」「誰も鼻にもかけてくれないのが、悲しい」
私なんか、この世から消えても、誰も気にも留めない・・・という感じが一番悲しい。

元気を失う。

デイサービスだと言って、人を集めて、あれこれ提供しても、
それは、受け手にとって、真の喜びにはなりえない。

自分も役に立っている、社会にとって必要な一人だと認識できて、はじめて心が豊かになる。

だから、私は提案したの。
「一年に一回、地域福祉センターに小学校2年生が見学に来る日があります。その日のために”いろはかるた”をつくりませんか?
もう、時代遅れのこともあるかもしれないけど、あそこには、大切な先祖の知恵が詰まっています。
今の時代の子どもたちには受けないかもしれないけど、年寄りが遠慮して、古いことを伝えなくなったことが、社会を劣化させたと思う。

だから、皆さんの協力でやってみましょう。」

「そういうんだったら、手伝います」
生き甲斐が無いといっていた人も顔を輝かせました。

だめかもしれないけど、やってみる価値はある。

高齢者が頑張らないと・・・

「うそつきは泥棒の始まり」ということわざを親が教えなかったから「安倍さんができた」と言うと、そこらじゅうの人が、うなづきました。

針はすでに、マイナスに向かってふれています。
あとは、時間の問題。

人はね・・・他人のお役にたてたと感じるときにこそ、生き甲斐を感じるんです。
そして
情けは人のためならず・・・その与えた喜びが、やがて自分や子孫に返ってくるから・・・ますます幸せになるんですよ。


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私の周りの”変わった人々”~超やきもちやきだった姑

最近「女房が、超やきもちやきで・・・」という人に出会ったので、姑のことを思い出してしまったわ。姑は、それはそれは、ものすごいやきもち焼きでした。

姑は岐阜県の陶器商のお嬢様として、なに不自由なく育ち、大正時代から洋服を着せてもらえる裕福な子どもでしたが、

山を越えた向こうの水飲み百姓の末っ子だった父の「陸軍中尉」の姿に惚れこんで、相手が貧乏であることも、ものともせずに嫁に行きました。

義父は田村高広ばりの美男子で、人柄も温和で働き者でした。
苦学して横浜工業高等専門学校を出て、川崎重工に勤務、
技術者として軍用機の風防ガラスの設計をしていました。

その途中で、赤紙が来て、兵隊にとられたのですが、まじめな兵隊だったからか学校を出ていたからか、中尉に出世して、その時、母と結婚しました。

父の軍隊時代の話を聞くと、上官がひどかったこと、軍規が厳しい中で、自分に与えられた装備を無くすとえらいことになるので、「無い!」と、気付くと、他の兵隊のを盗むんだそうです。盗まれた兵隊は、他の兵隊から盗む・・・で、一番要領の悪いのが、上官から殴られるという「緊張の毎日」だったそうですが。

父自身は激戦地には行っていません。
差し向けられた先は台湾。
台湾では戦闘は無かったらしくて、当時の写真と言えば「東雲寮」という遊郭に大勢で繰り出している写真しかありません。

戦争は、実際には父の貴重な青春体験でありました。

東雲寮での、遊女相手の楽しい戦争が、結婚してからだったのか、その前かわからないですが、最初から、母は、父の女性関係を疑っていました。

いわく「すべての男は、すべて浮気をする」というのが、彼女の男の定義でした。

戦地から復員すると、列島は焼け野原・・・軍需産業だった川崎重工が、生き延びられるとは考えられなかった父は、山奥の実家に家族を連れて厄介になります。

そこで、沖縄戦の未亡人である小姑にいじめられ、田舎とはいえ町育ちの姑には、堪えがたい暮らし・・・そこで、義父の実家から、今後は母の実家に身を寄せます。

そこで、義父は陶器商の手伝いをして、重たい陶器類を背中に背負い、戦後の満員列車にしがみついて行商にでることに。

四国と九州が主な売り込み先なので、一度旅に出ると2週間は、戻ってきません。
売り込み先は料亭と旅館なので、行く先々に「女将」がいる!!

姑は、全ての男は浮気をするから、間違いなく、行商先で浮気をしているに違いない!!と考えました。

そこで、主人の一番幼い日の思い出は、真夜中、目が覚めると、包丁を片手にもった母親が、父親に「あんたには女がいるに違いない。くやしいー、あんたを殺して、私も死ぬー」とわめいて迫っていた姿なのだそうです。

そういう日々も朝鮮戦争のころには終わります。
川崎重工が、再生するにあたって、技術者が必要だからと、呼び返されたのです。

これで、母のやきもちがなくなるかというと、そう甘いものではなかったのです。

毎晩家に帰ってくるからと言って、疑いは晴れません。
なにしろ、全ての男は絶対に浮気をするというのが、母の男の定義であるからです。
なんといっても、信じない。絶対に疑う。

それは、子供たちが結婚して家を出て行った老境になっても、続きました。

母が70歳、父が75歳の時、父が心臓発作で倒れた・・・・
それまで、健康な二人だったので、双方相手が死ぬことなんか考えていなかったのですが、この時の、母の落ち込みようはひどく、わずか二日の検査入院の間に、がっくり老い込みました。

なにしろ、掃除洗濯が大好きな姑でしたが、家から、一歩も外に出なかったです。旅行以外は。

すべての用事は、義父が自転車で出かけていました。買い出しも、すべて。父の存在なしでは、義母は一日も暮らせないのでした。

その様子を見て、私たちは「どうしても、義母に先に逝ってもらわないと、後に残されたら、どうしようもない」とため息をつきました。

若いころ、肺病をやったり、肝臓を患った父でしたが、40歳を過ぎると健康そのものになりました。それなのに心臓発作の半年後に、こんどは、胆石の手術をしました。
食欲がなくなり、吐いたり、やせたりという様子を見て、義母は「癌に違いない」と、落ち込みました。

2週間ほど入院するので、一人では暮らせない義母が心配で、主人も様子を見に義母のところに泊りがけで行きました。

帰ってきて
「おふくろは、昔のまんまや。まだ、親父を疑っている。」
そういって、初めて、真夜中、鬼の形相の母親と包丁の話をしました。

「お父さんは癌だから、もうじき死ぬかもしれん。
今のうちに言っておくけど、お父さんが死んだら、遺産相続を求めて”子供です”というのが、名乗り出てくるけど、驚かないように」

母は、まじめな顔で、そういったのだそうです。

「おふくろ、頭がおかしい」

父は癌ではなく、診断通りの胆石で、すぐによくなって、もとの丈夫さに戻りました。

ところが、その一年後、今度は義母が大腸がんを宣告され、手術をしたがリンパへの転移は、とり切れなかったと絶望的な話でした。

こうして人工肛門になった母の、世話を父が引き受け、人工肛門の器具を洗ったり、装着したり、それで肌がかぶれるのを心配したりしていました。
夫の鑑でしたね。

だから、姑が、まさか、まだ、父の女性関係を疑っているとは、私は、想像もしませんでした。

残念ながら、大腸がんの手術から3年目、癌は肺に転移して、義母は肺がんになりました。
もう、手の施しようはない・・・

遠くから、その様子を見ていて、姑は、あとに残されるのがいやで、急いで先に逝こうとしている、と思いました。

肺がんでも、治療の方法が無いので、自宅療養していた母でしたが、ついに呼吸困難となり最後の入院になりました。

年末は、それでも、正月準備をしたり、一見、元気そうだったので、油断したのですが、1月12日に入院。あれよあれよといううちに、悪化していきました。

その週の土曜日に見舞いに行きました。でも、声も大きいし、血中酸素も低くないし、瀕死には見えませんでした。
病院には、お父さんが付き添っていました。
「こういう時に、嫁が交替しなければならないんじゃない?」と、義妹に言うと、義妹は首を振りました。

「私たちは、つきそっているお父さんの世話をするのが精いっぱい。
私たちが交替して、お父さんが病院に来なくなったら、大変なことになる。
お母さんは、お父さんを片時もそばから離さないから。」

そういうことで、義父は、ずっと病室に付き添い、かろうじて「お風呂に入るためだけに自宅に帰る」のですが、義母が、時計をにらみながら待っているので大急ぎで帰ってこなければなりませんでした。

1月22日、義母の妹さん(叔母)から電話がありました。
「姉ちゃんの様子はどう?」と、ひとしきり病状を聞いてから、
「あんたたちには、悪いけど、兄さんは悪い男なんよ」と、切り出しました。
「え?」
「兄さんには女がいるって、姉ちゃんはいつも泣いてるわ。」
「え?」
「家から自転車で15分のところに彼女がいて、そこには子供もいるらしい。
NHKの中学生日記を面白そうに見ているのは、そこにいる我が子が中学生だからなんだって。」「え~?」
「女の家にいってきたとき、糸くずをつけてくると、その糸くずが女の家のだと、勘でわかるんだって。」
「まさか」
「あんたたちにはいいお父さんかもしれないけど・・・この前、墓石を買って墓地を用意してたでしょ、兄さん。
”私が死ぬのを待っている”んだって、姉ちゃん泣いてた。」

”家から15分で彼女の家・・・”そうか、だから義母は、病院で義父を待ちながら、15分予定より遅れると激怒したのか・・・

天地が逆さになるほど驚いて、主人に言うと「ああ、それは昔からや。おふくろの病気や」という。
「病気って・・・」

姑は、夫の浮気以外のことでは、まったく、どこもおかしくありませんでした。
見た目もきちんとしているし、家事も見事にこなしているし。

おかしなことを言うのは”男の浮気”だけでした・・・

「親父に彼女なんかいないって!」と主人は言うけど、
義母の妹や弟たちが、全員、義父を「妻を裏切った悪人」だとみているのは間違いありません。

どーしょー!?

考えているまもなく、二日後危篤の知らせが入りました。
けど、そんなに早く亡くなるとは思わず、岐阜の病院だから青春18きっぷで東海道線に乗って行ったのです。

ついたら病院から叔父が出てくるのとであい「遅かった15分前に息を引き取った」と言われました。

そうなると、今度は葬儀告別式に移らなければなりません。
義弟の車で義父の家に戻りながら、義弟に叔母の言葉を伝えました。
「大変よ、伯母さんたちは、お父さんをひどい人だと思っている。どうしょう?」

義弟は、黙って聞いていましたが、すぐに父に伝えたようです。
母の遺体を葬儀会館に安置し、家に母の親族が詰めかけた時、
義父は、唐突に
「みんな、集まってくれ」と言いました。

父は、夜中寝ていなかったはずだし、予期していたとはいえ、突然のことに動転していたし、
よっぽどうろが来ていたのでしょう。

集まってくれと声をかけたのは、台所から座敷に入って半畳ぐらいの場所だったので、集まってきた4人の姉妹兄弟は、座る場所もなくぎゅうぎゅうづめでした。

突然、なにごとかと、私はテレビの前に立っていました。

父は「みんなも、知っているように、家内は、なんでもよくできたわしには過ぎた嫁やった。感謝している。けど、ひとつだけ困ったことがあった。わしに彼女がいると信じ込んでいた。

けど、わしは、潔白や!」

そういって義父は胸をはりました。

そのいきさつに、驚いて私は、立ち尽くしていました。

すると、間髪を入れずに、くだんの叔母が第一声をあげたのです。

「ほやほや、兄さんは潔白や。
わしら、信じとるでぇ・・・なあ、みんな」

「ほやほや」

「ほやほや」(東濃弁で”ほや”とは、”ほんとうや”のこと)

その後も、ほろほろ鳥が、鳴くみたいに、一渡り「ほやほや。ほやほや」とみんなが言いました。

「うそつきやわ~この人ら!」おなかの中で私は思いました。

一応、話が通じたようなので、義父は、ほっとしたようでした。

「あれには、俺も苦労した・・・」
「ほや。ほや、兄さん苦労やったな」

(うそつき~)

けど・・・82歳の高齢で「現役の男」でおりつづけられる義父は、幸せなんじゃないの?と思いましたね。ふつう82歳なら、「もと男」でしょうに。

そこから始まる通夜の儀式に、父は乗り気ではなかったです。家の裏がお寺で葬儀会館をかねているのだけど、父は、お経をあげるときしか姿を現しませんでした。

義母の遺体には、近づこうとしません。

仕方なく義母の姉と二人だけで、遺体のそばで通夜の御線香の番をしました。

義母が、あんまり苦しそうなので義父は、たまらなくて「先生、楽にしてやって下さい」と頼んだのだそうです。・・・すると医師は、心得て「ああ、そうですか」という感じで、注射を打ったら、たちまち容態が急変して、見る見るうちに息が絶えたのだと、弟が教えてくれました。

「親父は、”そういう意味"で言うたんやないよ。けど、先生が、そう解釈したんやね。」

息を引き取る瞬間、義母はかっと目を大きく見開いて、父をにらみつけて、息絶えた・・・

よっぽど、怖かったのでしょうね。

父は、遺体のそばには、絶対に寄りつこうとしなかったです。

・・・・・・・・・・・・・

葬儀がすんで、親族がみな、引き上げた・・・あと。

父は、「さあ、これから羽をのばすぞ!」
そういって、本当に、両手を後ろにあげて、鳥がはばたくしぐさをしました。

私と子供たちは、そのまま帰宅したけど、主人は、老父のために一晩残ることになりました。

なんと!翌朝、義父は大吐血で、緊急入院。胃潰瘍でした。
もし、一人だったら、そのまま死んでいましたね。

義母が「羽を伸ばさせてなるものか」と、連れに来たんでしょうかねえ~

けど、二カ月の入院中、若いかわいい看護婦さんたちに、大切にお世話してもらって、義父は、すっかり若返って元気に退院し、

義母の7回忌を終えた後「もう、なにも思い残すことはない」と口にするようになり、毎週土曜日、義弟が、訪問する・・・ある朝、ベッドの横で倒れていました。

そのまま意識不明のまま6日目に亡くなりました。

亡くなる2,3日前、姑が私の夢に出てきました。もう満面の笑顔でした。
嬉しそうに、「お父さんがねぇ。8月2日にねぇ・・・」とにこにこして言いました。

けど、父が亡くなったのは4月2日でした。やっぱ、夢は、ええ加減やね。
お母さん、8月じゃないよ4月だよ。

それにしても・・・なんで、私の周りには、こんな小説になるみたいなひとばっかりいるんやろ?

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悲しかった須磨海岸

今日ね…JRに乗って、西に向かいました。
明石に向かったのだけど、電車は須磨どまりだったので、
さわやかな風に吹かれながら、須磨海岸に向き合って、10分間プラットホームに立っていました。

快晴の静かな海に、砂浜で、遊ぶ人影がありました。

海に向かって立つうちに、あの日の記憶が、戻ってきました。
私は、あのあたりに座り、
ひざを抱いて、声を殺して泣いた・・・

平成5年だったと思っているけど、携帯電話を握っていたから・・・平成8年かもしれない。
私は、須磨海岸から「児童相談所」に電話を入れたのです。

「親に見捨てられたかわいそうな子供がいます。
今から連れて行くから、話を聞いてやってください。お願いします。」
「はあ?あなた何を言っているのですか?
よその子を車に乗せて走っている?
親から、誘拐だと訴えられますよ。
ここでは、親からの依頼しか受け付けません。
その子たちをすぐ、放しなさい」

「親が、ちゃんと面倒を見てないんです、だから、保護してやってほしいんです。」
「ダメです。すぐに、その子たちを放しなさい。」
「でも・・」

私は、もう、ダメだとわかって、電話を切った。

そして、北警察署の親しい刑事さんに電話をかけて、訴えた。
「実は、T兄弟とNと、Uと、早朝の駅前で出会ったの。
一晩中、外でうろうろしていて、何も食べていなかったから、朝ご飯を食べさせた。
聞くと、母親は料理も洗濯もしないで、男と麻薬をやっているという。
どうか、お願い、この子たちを、この境遇から救ってやって」

「何を言ってるんですか?
今、どこにるいるんですか?
え?須磨海岸?
その子たちを、車に乗せて?
なんてことをするんですか、
すぐ帰ってきてください。
そいつらは、危険だ。
そいつらを、一時も早く降ろして、すぐに僕に顔を見せてください。
僕は、あなたの無事な顔を見るまでは、心配でたまらない。
行けるものなら、今すぐ、そこに行ってあげるんだけど。
いいですね、すぐ戻ってください。」

「なぜ?なぜ?誰も、この子たちのことを考えてやらないの?このままでは、この子たちはどうなるの?」
「あなたは、自分がやっていることが、わからないんだ。すぐ、戻ってください。そいつらは、危険だ」

電話を切って、砂浜の段差のある所に、がっくり腰を下ろすと、両腕で顔を隠して、声を殺して、泣いた。
誰か、この子たちを助けてやって!!
30分ぐらい、泣き続けて・・・しかたなく立ち上がって、駐車場に戻った。
私、47歳。
まだまだ、社会的にはひよっこ。
何もできなかった。

いくら考えても、どうすることもできない。

仕方なく、立ち上がって、駐車場に行った。
子供たちは、まだ、寝入っていた。

一度、もどって、ドアも窓もあけて、熱中症にならないように、しておいた。
7月2日。もう、夏だった。

その日は、土曜日で、早朝5時半、私は、宗教活動のひとつ、早朝清掃奉仕に行った。
そこで、近所の市住の男の子4人と出会った。
バス停の前の腰掛に座って、しきりに唾を吐いていた。
「どうしたの?」
「夜じゅう家の外にいた。腹減った。」
「早く家に帰りなさい。」
「家に帰っても、母親はご飯も作ってくれない。」
「いつも、薬をやって、ふらふらしている。」

「ご飯を作ってもらえないんだったら、どうしているの?」
「兄ちゃんが食事を作って、おれが洗濯をするんだ」
「え?お母さんはなにもしてくれないの?」
「男と、薬をやっている。男が来ると、俺らは家から追い出されるんだ。」

「学校には行っているの?」
「兄ちゃんは中二で、おれは小6だけど、学校には、ほとんど行ってない。」
「学校に行っても、何もわからん。お母さんは、食事も作ってくれない。洗濯もしてくれない。こんなで、勉強なんかできると、思うか?」

・・・・・「待ってなさい。私が、おにぎりを作ってきてあげるから、30分ぐらい、待って、戻ってくるから、必ず」

私は、踵をかえして取って返し、家に着くと、ゆで卵をつくって、塩こぶをまぶしたおにぎりと、梅干をいれたおにぎりを人数分つくった。
タッパーに詰め込んで、車で、駅まで戻った。

けれど、彼らは、もとのベンチにはいなかった。
どこかに姿を消したのかと、うろうろ探して、あきらめて帰りかけたら、どこからともなく姿を現した。
「六甲山に行こうか」私は、子供たちを乗せて、
峠から、六甲山頂に向かった。

朝もやの中、「羊ちゅうい」の看板があちこちにあって、カーブを曲がると、本当に羊が二頭道路を横切った。六甲山牧場が近い。
「先生、ひつじ、ひくなよ。」後ろからセイジが声をかけた。
そして、やさしい声で付け加えた・・・「俺、わかるわ、泣くやろな、この先生やったら・・・もし羊をひいたら・・・」

靄のかかる、山上の駐車場で、お弁当を広げたけど、景色は、何も見えなかった。

「今度は須磨海岸に行こうか?」
なぜ、私は、あの子たちを山や海へつれていったんだろう?

何も面白くない人生の中に閉じ込められている、この子たちに、山や海をみせてやりたい。そしたら、気持ちがさっぱりするだろう。

子供たちは、口々に親の不満を語った。
この子たちが、名うての不良だとは、思えなかった。
やがて、ひとりひとり眠りの世界に落ちていった。

本当に、安心して眠り込んでしまった。

須磨海岸に着いた時には、寝息しか聞こえない。

そこで、私は、風通しよくして、車を離れ、児童相談所に電話して「このこたちを、この過酷な環境から、救ってほしい」と、訴えたのだ。

でも、誰も手を差し伸べてはくれなかった。

仕方なく、車に戻った、物音で、子供たちが目を覚ました。

私は、泣きはらした目で、不機嫌にドアを閉めて言った。
「帰るわ、ごめん。私は、何もしてあげられない・・・けど、あなたたちには”大人になる”という希望がある。大人になれば、自力で生きていける。」そう自分に言い聞かせるように言った。

もう、誰も何も話さなかった。
団地の近くで、みんなを降ろした。
そして、北警察に行った。
「無事でしたか!心配していたんですよ、無事でよかった、あなたの無事な顔を見るまでは、僕は、心配で心配で」
「なぜ、だれも、あの子たちを助けてやらないの?!」
私は、警察の堅いベンチに座って、もう一度泣き崩れた。

「いいんですよ、あれで、あなたは、あの子たちが不幸だというけど、あいつらは、生まれてからずっとあの環境だから、あれが、当たり前なんですよ。不幸だなんて思ってないんです。」
「そんな、バカな・・・かわいそうじゃないの」

・・・大人になれば、自分で生き方を選べる、自分で生きられる。

そう信じたかった。
でも、一人は、大人になる前に覚せい剤におぼれて医療少年院に行った・・・「この先生なら、羊をひいたら、なくやろな」と言った、セイジだ。
セイジの兄みっちゃんは、20歳で、殺人事件を起こした。
ナオジは、不法侵入罪で、新聞に載った。Kくんは、40歳を待たずに、工事現場から落ちて死んだ・・・

あの日と同じ海と空の色を見ていたら、涙が出た・・・

私は、なんとかして、彼らをそこから救い出してやりたかった。
でも、あまりにも無力だった。
私は、何もしてやれなかった。

あの子たちの人生を救うことなんか何もできなかった。

思い出すたびに悲しい。

でも、車の中で、ひとりひとり静かになって、ぐっすり眠りこけ、何時間も目を覚まさなかったあの時、彼らは、生涯でたった一回、安心しきって眠ったのではないかと、思うことがある。

それが、何になったわけではないけど、もしかしたら、あの霧の中の羊を、明るい海を、彼らは、ときどきおもいだしたかもしれない・・・と、思ってみる。

もしそうなら、ああいう日が一生に一度もないよりは一日あったほうが、よかったかもしれない・・・そう思いたい。
悲しい。

彼らが、ひっきりなしに唾を吐いていたのは、シンナー中毒の症状だとあとから知った。
確かに、危険だった・・・けど、私には、感じやすいやさしい子供たちに見えた。

私はね、この話は、あんまりしないことにしている。だって、「非常識」以外のなにものでもないでしょ?
もう少しで「子供を誘拐してつれまわった」と訴えられるところだったし。
善意だったら、なにをしてもいいってわけじゃない。

だから・・・思い出すたび、ただ、悲しい。

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ひとりひとりが真剣に生きるしか道はないと思う

NEKOさんと、コメント欄で「天皇論」をやりとりしているのですが、
NEKOさんは、極論で言えば「天皇は不要」だという意見です。
私は、NEKOさんの言わんとすることは承知しているけれど、今の日本から天皇や皇室を取り除くと、やはり国民統合の象徴がなくなり、日本人の「まとまり」が危ないと考えています。

いわば、飲んだくれのアル中の親父なんか、この家から出て行ってほしい。という状況があったとして、それでもって「家というものに親父は不要」と言い切るのは極論だと思う。

日本は「形の国」だと言えます。
形を整え、形から入り、究極に到達します。
だから、家には主がおり、国には王がいる。それで、まずは形が整う。

なぜ、天皇なんかいらないと言う議論が起こるかと言えば、近代日本は、ロスチャイルドに操られた偽天皇により、戦争に引っ張り込まれたという見方があるからです。

つまり「形が大事だ」と言うことばかり大切にして「仏作って、魂入れず」になって、すべての形が形骸化して、どこにも、魂が入っていない。

その象徴が、天皇制だという考え方ですね。

そして、私も、NEKOさんと同じことを考えています。

にも拘らず、世の中の8割以上が、なにも考えないで、マスコミの指導に従って、どこへでも走っていく現状で、天皇を取り除くのは危険だと思う。

この8割が思考停止して従っていく王様はおいておかないと、せめてまとまりぐらいはつくようにしておかないと。

けれど「囲い」とか「枠組み」が、どんどん取り払われ、人々のアイディンティティが、どんどん失われて行っているので、「自力で個を確立」するか、完全に支配される家畜になるか、ふたつにひとつしか選択肢は無いように思えます。

日本人の「強さの秘密」は「一体化できる」ところにあります。「協調し協力できる」これは、他の民族には無い特徴です。
そのかわり、日本人は「個を確立できない」弱点を持っています。

他の民族も、洗脳され、他の人のまねをするのは、似たようなものですが、日本人とは毛色が違う。朝鮮人を見ていると、本当に違いますからね。
見た目はそっくりだけど、内容が全然違います。
中国人も全然違う。

中韓の女性は口から泡を飛ばして自己主張します。

全然違います。

日本人の持つ縄文人の特質は、しかしながら、やはり尊いと思います。
その縄文人を征服して大陸の制度を押しつけたのが古代天皇で、どうやら、縄文人たちは、古代から征服民族に首根っこを押さえられ利用されてきた節があるのだけど。

にも拘らず、日本人の特性は尊いと、思います。ユダヤがどうやっても、破壊しつくせていない縄文気質があると思う。DNAですから。

そのDNAが、天皇をつくり守ってきたのだから、今の時代、一方向からだけ見て「要るとかいらないとか」議論するのは短絡的で危険です。

社会全体に与えている広汎な影響を、緻密に調査研究しないと、ここ100年程度の利害だけで論じるのは危険だと思うのです。

私は、頭で考えるのが好きなタイプですが、「自分の思慮だけに頼ったり、自分の考え方が一番正しい」と、思いこむのは危険だと思っています。

違う観点、違う理論、知らない世界が存在することを、常に頭におかなければならないと思う。

けれど、これからの世界は、古代天皇制の時代の様に「畏れ多いもの」に平伏さえしていればOKの時代ではなくなっていくでしょう。

今回「えらかったはずの大臣」末は博士か大臣か!と言われた、出世の究極の存在が、「ありえない馬鹿」だという現実を私たちは見せつけられました。
さらに国家を支える官僚が「うそつき」「策謀家」であるという現実も見せられました。

デモもするけど、だいたい、隣にいる人を変えることさえできないのが人間なのに。
国会の中の人間を反省させることなどできません。

これは、すべて私たちの油断による。
そういう意味ではNEKOさんの言われるように「天皇さえおいておけば日本は大丈夫。なにも変わっていない」という思考停止状態を受け入れたことに最大の問題がある・・・のは、間違いないです。

だからといって、これを廃止したら、うまくいきかというと、そんな簡単なものではないです。

私は、目下、高齢化してささえきれなくなってる地域コミュニティを眺めながら、この議論をしています。

15年前につくった組織は、全メンバーが15歳年を取り65歳だった人が80歳になった。
65歳の時と、同じことはできません。
だから、80歳なんだからやめてください・・・と、まだ60代だった私は2年前に発言しました。
「メンバーが抜けなければ補充できない。」
けど、「辞めない」と反論された。

強引にやめてほしいと言い切ることも、やめてもらうことも不可能ではないと思う。
けれど、よしんば新しいメンバーを据えることができたとして「今できていること」が、同じようにできるだろうか?
もしかしたら、新しい顔ぶれでは、今程度のことも出来ないかもしれないし、
「年寄りは辞めて」といって追い出しても「若い人」が、よりついてくれないかもしれない。

ものごとは、教科書通りには進みません。

1+1が2にならないのが世の中です。

天皇制は悪いことに利用された。だから廃止する・・・そしたら、もっと良い世の中が来る・・・とは言えない。もっと悪くなるかもしれない。
私は、あえて、そんな恐ろしい社会実験をしたいとは思いません。
議論だけなら必要だとは思うけど。

どのみち、我々のいう事はごまめの歯ぎしりだしね。
同じ屋根の下にいる家族でさえ、思い通りにできないのに、他人様を差配するなんぞ、まあ、不可能。
金も力もない身にはね。

しかしながら、現状の日本をもう一度立ち上がらせるのは、一人一人の国民。
私であり、あなたです。
そして、私が、自分の子どもたちをまっとうに育てようと努力して、地域コミュニティを本当に住民の福利のために動かそうと微力を注ぐように。
みんなが、自分の支える、力及ぶ範囲をしっかり支えることができればすべてがしっかりするのです。

評論家の様に「あれが悪い、あいつがダメだ」と言っていても仕方がないんです。

黙って汗を流さないと。

その時に「天皇様や大臣様が自分たちを助けてくれる」なんていう考えを捨てると言う意味では「あの天皇の概念」を捨てることは大事だと思う。
軍の総帥、政の中心の天皇ではなく象徴天皇でありたいと言われた平成の陛下の言葉は重いと思います。

何かをきちんとするのは、そう簡単ではありません。
たゆまぬ努力、変えない姿勢、
なんだっけ?習慣はなんとかの母ということわざがありました。違った!習慣は第二の天性だ。

ことわざは、大事だよね。

良い習慣を「まるで生まれつきのもの」に見えるほどまで続ける…口で言うほど簡単じゃない。
見えない努力を営々と続ける人にだけ、運命の女神がほほ笑む。

今見えている世の害毒を反面教師にして、まずは、自分から始める。

この前ねえ、岐阜に行くとき新幹線に乗ったの。ジパング倶楽部で切符を買ったから3割引きね。けど「のぞみ」には乗れないのが条件。
ところが「ヒカリ」は一時間に1本しかない。
翌日の予定が目白押しの私は1分でも速く帰りたいので、名古屋で「のぞみ」に飛び乗った・・・確かめないで飛び乗ったから新大阪止まりだった。

のぞみに乗り換えたから特急券を払わなければならない。
さあ、そこで、心の中の悪魔が囁いてくる。
「新大阪まで、あと少し、もう検札は回ってこない。しめしめ料金を払わないで”のぞみ”に、無賃乗車できる。
すると天使が、口をとがらす
「だめだめ、それは不正だよ。自分が不正をしておいて、他人を責められるか!」
「やっぱり、黙っておこう」
「いや、ちゃんと払わないと」
1時間揺れ動いて、あと10分で新大阪駅と言うときに、車掌さんの姿が見えた。

私は「あの人たち」のようにはなりたくなくて、呼び止めて1000円払いました。
もしも、新大阪どまりでないヒロシマ行の「のぞみ」に飛び乗っていたら、ぎゅうぎゅうづめで車掌さんどころではなかった。だったら、追加の支払いをしないで逃げたかもしれない、正直、自分がどうしたかは、自信がありません。
でも、わずか1000円でやましい気持ちになりたくなかった。

結局、こういう小さな戦いに勝つことだと思ったの。
どこにでも、自分が試される戦場があります。

彼らは、もっと大きな戦場に置かれている自覚さえないのかもしれないですね。
新幹線の1000円なら、ちゃんと払う人たちかもしれない。

自分が、どういう日本の闇組織に「看板」にされ、どう利用されているのか、少なくとも昭恵さんは、理解できそうにないね。
暴力団、カルト・・・・おそろしい人々に担ぎ上げられるのも、何かの因縁。うらやましくない。

私たちは、彼らがドジを踏むたび露わになることをしっかり見つめて
日本が誰に奪われたか、どうすれば取り返せるかを、考えるべき時にいるのだと思います。

そういう意味で、本当に良い教材ではありませんか?

佐川さんは、罪には問われないのかもしれないけど「偽証」があまりにも明らかで、自分があっち側の人間だったら、恥ずかしくて、道も歩けないですよ。

それを「勝った勝った」といっている情けなさには、こっちが涙こぼれる。

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