キリングジョーク再び。ユースが後年ドラゴンフライというサイケデリックのレーベル立ち上げるとは思わなかった。1985年のライブ。
http://www.youtube.com/watch?v=4hx2q2k7z8g&feature=related
ヴォーカルのデビオン・カーリーらと共に1981年ロンドンで結成され、最初っからダンスフロアを意識したサウンド作りを行ったユニットであったのが他の4ADのアーティストとの大きな違いで、同レーベルの新しい時代を切り開いたとも言える。
デビュー後、しばらくして女性ヴォーカリストのロリータ・グレアムとヤング兄弟のトリオ編成に変わり、当時、英米のクラブ・シーンで大人気だったリミックス・プロデューサー、ポール“グルーチョ”スマイクルと組んで、ダブやヒップホップを積極的に取り入れたカラフルなサウンド展開を聞かせるシングル、アルバムを作り一気に注目を集めるようになる。
とくにデビュー・アルバムは、日本の古い広告をコラージュに使ったデザインで、その点でも一部では話題となった(当時、日本盤が出されたときにはジャケットが変えられた)。
グループが注目を集めたのは、やはり4ADから作品を発表していたA.R. KaneのメンバーやDJのクリス・マッキントッシュらと組んだユニットM/A/R/R/Sとして作ったシングル「Pump Up the Volume」で、とくに過激なリミックスを収めたものがクラブで大人気となり、アメリカではアトランティックからリリースされ、M/A/R/R/Sというユニット名は知らなくとも、リフの部分は誰もが知っているほど世界中で大ヒットとなった。また98年にも再発CDが出された。
http://www.youtube.com/watch?v=ZlUQNdRvtIs&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=mUbQiUv1QHo
ジーザス・アンド・メリー・チェインはメインソングライターのリード兄弟を中心に、ベース・プレイヤーのダグラス・ハート、ドラムのマレイ・ダーグリッシュで結成された。
バンドは1984年10月にクリエイション・レコーズよりシングル『アップサイド・ダウン(Upside Down)』をリリースしレコードデビューを飾る。そのメロディや歌詞は1960年代のガールズ・ポップを彷彿とさせる物だったが、ノイジーなポスト・パンクのトリートメントを施されたそのポップ・ミュージックは、全編に渡りフィードバック・ノイズに彩られていた。
http://www.youtube.com/watch?v=Lr30vo9yK2c
http://www.youtube.com/watch?v=zWEQCOOj7JI
http://www.youtube.com/watch?v=bLPyrLfOYuo
http://www.youtube.com/watch?v=AfiECYxq5YI
http://www.youtube.com/watch?v=UcdotRkKPmY
http://www.youtube.com/watch?v=9O-FRPgs8Zs&ytsession=Sk2v0m-R0Wb7WKateHIC1boz_Ho-qb2TtKB8VT3mMfwE03gCtC_L6jaqWeIRfN7m0K0cdFyfHvXd9JxWQRmFdwdJAsuef1bBzeZlnFlm-yrVJQJIP7obYkQMt_w6G7VUdPtHk7gHnAgf4xF2K79CWJ70QG29WFHvBUnxlL6TQ1iaBUuSzAUjT62s0gnQrEt1dZzyZIWlHNSTsWDT5OnkIUaFyQpfACDmybsyLAMRtPq8ZTRssKxSnaKTpL3TDrKb7ifY4CxwQski93T9JY-Gs4uhasVYdPcrZIVgNR5grI4yHtS2CskRDNGhGET9tA0b
1979年にファーストアルバム 「AUNT SALLY」を発表する。
その活動時期はきわめて短かったが、そのインパクトと、後々の特に女性アーティストたちに与えた影響は甚大だったと思われる。厳しい感性によって書かれた優れた詩とラフな演奏の組み合わせが繰り出す不安定な世界。浮遊感に溢れながらもどこか荒々しくもあるPhewの歌唱は、彼女のルックス的な愛らしさから想像されるものとはまるで違った終末感と倦怠感を醸し出していた。
ボーカルのPhewは、後に坂本龍一プロデュースでソロデビュー。幾度の活動停止を経ながらも音楽活動を継続している。 若い頃にはあまり言われなかったような気もするが、最近では「日本のパティ・スミス」というような呼び方をする向きもある。
http://www.youtube.com/watch?v=ChGesyiBVCM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=0Ky5AAG-8nU&ytsession=LH2SY1PA6P6sRGYXDmV4SZXdA7KxOFm1yxWzP6LPBhbucYQmDauBNP2t9tm36aZTui89F64R4IeGNABCa-o0fBk3vJci8HyUe4EtrnI0ZfSFmzpRSIZWcJyhtGSgAXWZJjfSOIjr8vre2Tnz3cIRG2wRAz4fF5sA_p3Ob47aG8jsBitAIiXTsQCaoK9Gm-wdiA6S5ukihHJa9CrWRjKYk7PiSz08kAI7OPKao0k_pvYK4Cv-dhQaG6ksa85MuU_QOKLC1aCjnSAmh8MxZqB0g1scegySe7uI5T6FYMIxuGgUIQ920wYBpoMHdbkZ0d_5
マーク・スチュワートは1981年にポップ・グループが分裂すると、活動の地をロンドンに求め、On-Uサウンドの活動に参加して、ソロ作品をリリースした。
ノイズ・インダストリアル、ヒップ・ホップ、テクノ等の幅広いジャンルのエッセンスが加えられた、ヘビーなダブ・ファンクのサウンドに社会的メッセージを乗せ、叫ぶように歌う。
http://www.youtube.com/watch?v=-u57J8Iz6J4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=yQ9pLUUS5sw&feature=related
バウハウス(Bauhaus)は、1979年にデビューしたイギリスのロックバンド。名前はドイツのバウハウス芸術活動から由来している。当初は「バウハウス1919」という名前だったが、1年も経たずに今の名前になった。
http://www.youtube.com/watch?v=xbec24p2Ogw&feature=related
後にノー・ウェーブといわれた70年代後半のニューヨークアンダーグラウンドの実験的、前衛的なバンドサウンドを強く反映した作品である。この時代背景についてはS・A・クレーリーのドキュメンタリー映画キル・ユア・アイドルズに詳しい。
http://www.youtube.com/watch?v=VDXRCwVmO8I
1987年に発表したアルバム「シスター」はアメリカのSF作家フィリップ・K・ディックの作品群に強い影響を受けて作られた。アルバムタイトルのシスターとは二卵性双生児として生まれながら生後まもなく死亡したフィリップ・K・ディックの妹ジェーンの事である。
1987年のロンドン・ライブ。
http://www.youtube.com/watch?v=gi28qsi0UnM
http://www.youtube.com/watch?v=WFPni1lVC9k
82年、イギリスの<Red Rhino>より『Hessian』にてデビュー。以後、同レーベルを中心にリリースを重ね、『Norsch』『Populer Soviet Songs And Youth Music』『Collusion』などの傑作を残した。
これらの仕掛け人であるRobin Storeyは、別名義Rapoonとしても活動。
http://www.youtube.com/watch?v=rQIBtbsX32Q&feature=related
サイキックTVとホワイトハウスのソドムの具現ゾスキア。ノイズの迷妄に彼らをブラックロッジへと至らしめたもの、それは暴力と速度が為す神殺しによってである。城の中で語らず、夜へ狂えとのスローガンは遠くアメリカの暗黒サイケデリック水脈にまで及び、彼の地で再びソドムが繰り返されることになったのだが・・・
http://www.youtube.com/watch?v=wKnJ6IuXNdg
デッド・ケネディーズは1978年6月、ギタリストのレイ・ペッパーレル(イースト・ベイ・レイ)が出したバンドメンバー募集広告に集まったメンバーにより結成された。バンドはヴォーカルのジェロ・ビアフラ、ベーシストのクラウス・フローライド、ドラマーのテッド(ブルース・シュレシンジャー)から成り、当初は「ザ・シャークス」を名乗った。彼らは地元で多くのステージを行い、1979年10月に最初のシングル「カリフォルニア・ユーバー・アレス」をオルタナティブ・テンタクルズからリリースする。彼らは続いて東海岸のツアーを行った。
彼らはデビューアルバム『Fresh Fruit for Rotting Vegetables』のリリースに先立って、ベイ・エリア・ミュージック・アウォーズへの参加を依頼された。
よく誤解されるのだが、彼らの81年の代表曲「Nazi Punks Fuck Off」は反ナチ・反ファシズムを謳っているわけではない。当時の体育会系ハードコア・パンクスをナチや軍隊のようだと揶揄した曲である。
http://www.youtube.com/watch?v=R11x32WoxrM&feature=related
マリン・ガールズ (Marine Girls) はイギリス出身のガールズ・バンド。1980年にトレーシー・ソーンとジーナ・ハートマンにより結成された。
音楽のジャンルとしてはネオ・アコースティック、ギター・ポップに分類され、海や恋愛などをテーマにした曲が多い。 チェリー・レッド・レコードから発売されたセカンドアルバム『Lazy Ways』はUKインディー・チャートで4位になった。
1983年に解散した後、トレーシーはエヴリシング・バット・ザ・ガールで成功し、ソロとしても活躍している。
http://www.youtube.com/watch?v=0kjABf474jw&feature=channel
http://www.youtube.com/watch?v=4ouBnu9AQcU&feature=related
1977年5月、パルモリヴやヴィヴがクラッシュのジョー・ストラマーやミック・ジョーンズと親しかったためもあり、スリッツはメンバーが固まってからわずか3回のリハーサルを経たばかりでクラッシュの「White Riot Tour」に前座として起用される。同年9月と1978年4月にはBBC Radio 1の「ジョン・ピール・セッションズ」に出演(デビュー・アルバム以前のオリジナル・メンバー4人による貴重な音源が残されており、1988年にCD化されている)。1978年末にはパルモリヴがレインコーツへ参加するためにスリッツを脱退。新しいドラマーとしてバッジー(本名ピーター・クラーク)が加入。このころまでのスリッツは荒々しい典型的パンク・サウンドの演奏をしていたが、次第にレゲエの影響を受け、特にダブの手法を積極的に取り入れるようになった。
1979年9月、イギリスにおけるダブ・ミュージックの巨匠デニス・ボーヴェル(en:Dennis Bovell)をプロデューサーに迎えたデビュー・アルバム『カット』(:en:Cut)をリリース(同アルバムからは「Typical Girls / I Heard It Through the Grapevine」をシングルカット。B面はマーヴィン・ゲイのヒット曲「悲しいうわさ」のカヴァー)。パンクとダブを融合させた特異なスタイル(ただし、スリッツ以降のポスト・パンク、ニュー・ウェイヴにおいてはオーソドックスとなる)ばかりでなく、アリ、ヴィヴ、テッサの3人が褌一丁で泥まみれになっているジャケット写真は衝撃を与えた。スリッツのメンバーたちだけでなく、たいていの女性パンク・ロッカーは声高にフェミニズムを語ることはしていない(それは語るためのものではなく生き方であるから)。しかしこのジャケットが典型的であるが、スリッツのヴィジュアル・イメージや雑誌などにおける発言、ステージでのパフォーマンスなどのすべてが、それまでのマチズモ的なパンクとは一線を画す姿勢を表している。
『カット』リリース後にバッジーはスリッツを脱退してスージー・アンド・ザ・バンシーズに参加。以後、スリッツは正式なドラマーをメンバーに置かず、そのつどゲストとしての参加を要請するようになる。このとき呼びかけに答えたのは当時ブリストルのポストパンク・バンドザ・ポップ・グループに在籍していたブルース・スミスである。またこのころアイランド・レコードを離れてザ・ポップ・グループと同じラフ・トレード傘下のレーベル「Y」へ移籍し、同レーベルからシングル「In The Beginning There Was Rhythm」( ザ・ポップ・グループ「Where There's A Will」とのスプリット・シングル)、「Man Next Door」をリリース。後者をプロデュースしているのは「On-Uサウンド」レーベルの主宰者で一流ダブ・エンジニアのエイドリアン・シャーウッドである。シャーウッドとの交流は、アリとヴィヴがスリッツと並行して参加したプロジェクト「ニュー・エイジ・ステッパーズ」で生まれたものであるが、ここでスティーヴ・ベレズフォード(en:Steve Beresford)やネナ・チェリー(en:Neneh Cherry)といった先鋭的なシャーウッドの人脈と触れることによって、スリッツはレゲエやダブ、ジャズなどの要素を貪欲に取り入れてさらに実験的・前衛的なスタイルを深化させてゆく。そして1981年10月、CBSとメジャー契約を交わしたスリッツはセカンド・アルバム『大地の音』(Return of the Giant Slits)をリリースするが、これを最後にスリッツは解散してしまう。
http://www.youtube.com/watch?v=ZyXGblps64M
シスターズ・オブ・マーシーを脱退した、ウェイン・ハッセイとグレッグ・アダムスが結成したバンド。当然のことながら、このミッションもゴシック色の強いバンドでありシスターズと双璧を成すゴシック・ロックの代表的存在である。
http://www.youtube.com/watch?v=Mz7R335JH0E
セックス・ピストルズの解散に続いて、ライドンはヴァージン・レコードの会長リチャード・ブランソンと共にジャマイカへ三週間の旅行を行った。休暇の後ライドンはジャー・ウォブルに新バンドへの参加を要請した。彼らは70年代初めからの友人で、セックス・ピストルズの最後の時期にも共に演奏を行っていた。また彼らは共に、後にワールド・ミュージックと呼ばれたレゲエを好んでいた。そして、ギターのキース・レヴィン ドラムのジム・ウオーカーが加わり、最初のアルバム『PUBLIC IMAGE』を発表する。特に「THEME」「RELIGION I II」に現れた内向的な攻撃性は、注目に値する。その後ジム・ウオーカーが脱退。ドラムは、マーティン・アトキンスとなり『メタル・ボックス』を発表。このメンバー構成でのパリでのライブも発表されている。そして、ジャー・ウォブルは、脱退してソロとなる。残されたメンバーは、新しいベーシストを迎えることなく『フラワーズ・オブ・ロマンス』を発表。次には、キース・レヴィンが脱退してコマーシャル・ゾーンをPIL名義で出し、残りのメンバーは、同一曲を含む『This is what you want, This is what you get』を発表。この時点でPILは、ライドンのワンマンバンドと化してしまう。以後のパブリック・イメージ・リミテッドの作品は、ジョン・ライドンのソロ・アルバムといっても良い。そして何作も発表された作品が、彼の創作意欲とともに、彼のヴォーカリストとしての天賦の才能に、魅入られる人が沢山いることを証明している。けれども彼は決して自分の名前の名義でアルバムを発表することは無く「Public Image Limited」という名にこだわっている。
http://www.youtube.com/watch?v=qdAnlXhyikw
http://www.youtube.com/watch?v=q__QnW-9ROs&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=fcT9zI3JfE4
1978年、ウェールズ出身リーズのアートスクール学生、グリーン・ガートサイドが、パンクのDIY精神に刺激を受け、同級生達とソロ・プロジェクト的ユニットを結成(Green/vocal, guitar、Tom/drums、Nial/bass、Simon/tape loops )。ユニット名スクリッティ・ポリッティは、イタリアのマルクス主義の理論家アントニオ・グラムシの言葉から引用。1982年、『ソングス・トゥ・リメンバー』でデビュー。グリーンの中性的なファルセットを活かしたソウルフルなヴォーカルで人気を博し、シングル「スウィーテスト・ガール」はスマッシュ・ヒットを記録。その後、80年代を代表する名盤キューピッド&サイケ'85をリリース、前作はアコースティック中心のアレンジだったが、本作はメンバーも変わり、デジタル・シンセサイザー(YAMAHA DX7)やゲート・リバーブを多用した1980年代的サウンドとなっている。
http://www.youtube.com/watch?v=zHbro18qr0c&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=zP8JUf6vxCQ
http://www.youtube.com/watch?v=8wJ2t0kyRTA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=twWdFC2CHhk
http://www.youtube.com/watch?v=sRThqRP5OMA
http://www.youtube.com/watch?v=C_00r289lqo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=SYyeFhwbhAQ
ヴォーカルで作詞者のマーク・アーモンドはゲイであることを公言しており、そのためか曲名などに色っぽい名前がつくものが多く(例:アルバム『エロティック・キャバレー』(Non-Stop Erotic Cabaret)等)、歌詞の世界も愛やロマンスのみならず退廃的かつ背徳的な内容のものが多い。1981年にグロリア・ジョーンズの1964年の曲(全くヒットしなかった)をカヴァーした『汚れなき愛』(Tainted Love)[1]が大ヒットし全英チャートで1位になり、全米チャートでも最高で8位、43週間もチャートした。その後4枚の全英ヒットシングルを含む10枚近いシングルと、3枚のアルバムを出したものの、1984年に解散。
http://www.youtube.com/watch?v=AbEOgfq3CNc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=DJ6_gQ8QGJ0
http://www.youtube.com/watch?v=13OiNFPINKc&feature=related
クリーチャーズ(The Creatures)は、スージー・スーとバッジーによるユニット。1981年にシングル『ワイルド・シングス』(Wild Things)を発表した後、1983年にはハワイで録音したファースト・アルバム『フィースト(饗宴)』(Feast)を発表。スージーのボイスとパーカッションを中心に、バンシーズの呪術的、民族的側面をより前面に押し出している。1989年にはセカンド・アルバム『ブーメラン』(Boomerang)を発表し、その後も活動を続けている。
http://www.youtube.com/watch?v=Ws7ysXtD2r4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=JZ2TQc-wwbw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=AF-hic7hNpk
http://www.youtube.com/watch?v=15uW8Y6OOBU&feature=related
1980年に作詞兼ヴォーカル担当であったイアン・カーティス(Ian Curtis)が自殺したため活動停止を余儀なくされたジョイ・ディヴィジョン。残された3人のメンバーは紆余曲折の末、バーナードがイアン・カーティスに代わりにボーカルとギターを担当し、当時モリスのガールフレンド(のちにモリスと結婚することとなる)でパンクバンドで活動していたジリアン・ギルバートをキーボードとギター担当の新メンバーとして迎え入れ、バンド名も新たに「ニュー・オーダー」として活動を開始。途中、家庭の事情(子供の病気)でジリアンが脱退し、サポートメンバーだった元マリオンのフィル・カニンガムを正式メンバーに加え現在に至る。その命名の由来はナチス・ドイツの提唱した「新秩序」であるが、メンバーによると政治的な意図は無く単に響きで選んだものであるとのこと。
ファーストアルバムこそジョイ・ディヴィジョンの延長線上ともいえる陰鬱なサウンドだったが、12インチシングル「エヴリシングス・ゴーン・グリーン」を発表した時期から元々導入していたエレクトリックサウンドの比重が高まり、ギターとエレクトロニクスを融合させたロックバンドの草分け的存在の一つとなった。また1983年の「ブルーマンデー」のロングヒット、さらにヒップホップにおける代表的なプロデューサーであったアーサー・ベイカーと組んだ「コンフュージョン」等により今や世界のクラブシーンで直接的、間接的を問わず「彼らの影響を受けていない人間を探すことは難しい」とさえいわれる。
http://www.youtube.com/watch?v=ivXc5U2z07E&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=NyA-jiBdTGU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ZLUUDZdKxuA
1978年、前身バンドとなるイージー・キュアーを母体として、ロバート・スミス、マイケル・デンプシー、ローレンス・トルハーストの三人で結成された。 翌1979年にシングル「Killing An Arab」[1]でフィクション・レコードよりデビュー。
第1期(1978〜1979)
ポストパンク期にリリースされたデビューアルバム『Three Imaginary Boys』は、シンプルながらもクールで捻くれたギターサウンドが特徴的で、記号化されたスリーヴデザインと相まって、すでに独自の世界観を築き上げていた。 また、ロバートはスージー・アンド・ザ・バンシーズの全英ツアーのサポートギタリストとしてステージに上がったりもした。
第2期(1980〜1982)
この時期のキュアーは、無駄な音を排除した、研ぎ澄まされたサウンドを追求していた。
マイケルに代わり、サイモン・ギャラップとマシュー・ハートリーの二人を加えて作られた2ndアルバム『Seventeen Seconds』は、1stアルバムにもあったミニマル要素を発展させた内容で、初めて全英トップ20入りした「A Forest」やライヴでのファンの合唱でおなじみの「Play For Today」が収録されている。
続いて制作された3rd『Faith』は、ミニマル的アプローチの完成形であり、その洗練された音使いから初期の最高傑作であるという声も高い。タイトル曲「Faith」はロバートの宗教観を歌ったものであるという。
だがサウンドと同様にバンド内の緊張感も次第に強まってゆき、それは4th『Pornography』で爆発する。 ロバートの死に対するオブセッションと行き場のない怒りを反映した本作にて、リズムマシンとシンセサイザーを大胆に導入し、ヘヴィーでダークな極彩色のサイケデリック・サウンドへと変貌を遂げた。そして極度の緊張の中で制作されたためにメンバー間の仲は最悪なものとなり、ツアー中にロバートとサイモンは大喧嘩をして、サイモンはバンドを去り、ロバートは活動の休止を決意した。 日本でのデビュー作はこの『Pornography』であり、各楽曲に付けられた奇抜な邦題[2]は当時のキュアーのパブリック・イメージを物語っているといえる。
第3期(1983〜1984)
この時期、ロバートはスージー・アンド・ザ・バンシーズとキュアーの活動を掛け持ちしており、度々解散をちらつかせていたが、結局キュアーをとった。スージー・アンド・ザ・バンシーズでは、ロバートはパーマネントなギタリストとしてアルバム(『Hyaena』)やツアーへの参加を行っている。(83年のバンシーズの来日公演にも参加。) また、バンシーズのベーシスト・スティーヴ・セヴェリンとのプロジェクトザ・グローヴの活動も並行して行い、アルバム『Blue Sunshine』が制作された。
http://www.youtube.com/watch?v=l8CDERzun4k&feature=related