インドの女性とはかくも異なる。。

だいぶ前になりますが、9月の初め、
インドの女性経営者の会の方々との懇談会に参加しました。

その際、インドと日本では、同じような仕事上の立場でも
置かれている状況が全く異なることを実感したのです。

まず、彼女たちが政府に要求したことにより、
会社では必ず一人以上女性役員を置く法律ができたそうで、
その発言力に驚きました。

また、ある技術を習得させる専門学校を経営している方が
日本側を代表して自分の会社についての発表をする際、
「結婚や出産というライフイベントがあっても、
 女性がこの技術を持つことによって
 一生仕事を続けることができるようになる。」
と説明されたのですが、インドの女性たちには
その内容がピンと来ない様子でした。

インドの裕福な家庭では、家事や育児などは皆、
使用人に任せるもので、職業の有無にかかわらず、
女性がそのような「ライフイベント」に関わるために
自分の人生が中断されるということはあり得ないからです。

使用人と呼ばれる立場の人たちは人たちで、
働かなくては生きて行けず、「専業主婦」などという
優雅な立場にはなれません。
やはり「ライフイベント」で職業生活が中断することはないのです。

そういえば、インドだけでなく、アジアの国々では
過去何十年も前から女性の首相や大統領が登場しました。
インドのインデラ・ガンジー、パキスタンのブット、
フィリピンのアキノ、韓国のパク・クネetc.
これらの国々では、男女差よりも階級差が大きく、
名門の家系であるという力の前に、女性であるということは
さほどハンディにはならないのです。

インドで会社の経営に関わるような女性たちは
カースト制で上位に立ち、
多くは財閥の娘や嫁や妻の立場にあります。
だから、政府に対しても発言力が強いのでしょう。

日本ではそのような圧倒的な財閥や富裕層がなく、
どのような階級の人でも権力者となり得る平等な社会でした。
だから、男女差がより大きな差として扱われたのでしょう。

それにしても、昔の中流家庭では、
童謡でも歌われるように、「ねえや」や「子守り」という
使用人がいる家庭が多く、ライフイベントの負担は
その後の中流家庭よりも少なかったと考えられるのですが、
その中から、女性経営者は何人も出ているけれど、
家業の域を出ないものが大半で、所謂政治経済の中枢で
女性のリーダーが出てくるまでには至らなかったのですね。

戦後50年、つまり今から20年以上前、
政治家か評論家か誰か忘れましたが、ある男性が
「戦後50年で最も変わったのは女性の心だ」
と言っていました。
しかしそれでもまだ女性の置かれた立場は
さほど大きく変わっていませんでした。

戦後70余年、雇用機会均等法施行30余年経って
やっと少しずつ変わってきた、そんな感じです。

今の状況が当たり前という環境に育った世代が
社会の中枢になるころに、女性であることによる
潜在的な垣根はなくなっているのかな。












 

震度7を体験してみた。

我がマンションでは、毎年1回消防訓練があります。
消火器の使い方を習って以来、
数年参加して来ませんでしたが、
今年は地震を体験できる起震車が来るというので
覗いてみました。

4人までが一度に乗り込み、揺れ始めとともに
真ん中置かれているテーブルに潜りこみます。
私より少し年配の女性も、震度7で何ともなさそうだったので、
「やります。」 と手を挙げたら、
 「やるの?大丈夫?」と念を押されました。
そんなにヤワに見えるのかしら。

実際はいつ地震が起きるか分からないのだけど、そこは訓練。
全員がテーブルの上に手をついてスタンバイ。
3、2、1のカウントダウンでガタガタガタと揺れ始めました。
皆一斉にテーブルに潜ります。 
縦揺れなので、「正座してください。」と言われても、
体が上下してじっとできません。
膝と足の指がバンバン打ちつけられます。
ジーンズの中の膝は擦りむけそう。
ソックスを履いてくれば良かった。
でも、いつも家の中では素足だからこれも経験。
我慢、我慢。

上下に動くと地面に手もつけないので、
自然にテーブルの脚を、これが頼りと握り締めます。

実際にこんな地震に遭遇したら、
ヘルメット被ったり、ドアを開ける余裕なんてありません。
ひたすらじっとうずくまるだけ。

2、30秒で止まった時には、立ち上がってもちょっとフラフラします。
それ以上に辛かったのは足指を擦りむいたこと。
膝も擦りむいたかなと思ったけれど、
ジーパンの下で赤くなっただけでした。

でもまぁよい経験だった、と意気揚々帰宅したまでは良かったのですが…

夜になると肩が痛い。
二の腕肘近くが筋肉痛。

翌日はもっと腕が痛い。
荷物を持ち上げるのも一苦労。

ギュッとテーブルの脚を握っていたからです。

そうか。
地震は無事にやり過せても、
その後後始末やらやらなくてはならないことがたくさんある。
そんな時、この筋肉痛にも耐えながらやらなくてはならないのだな。
年を取るってこんな点でも不便だ。

力を入れずに物を握り締めることができるのかしら。

単に揺れを体験しただけでない課題が見つかったのでした。









 

明治人の偉大さー吉田博展

かつての同僚に勧められ、
吉田博生誕140年展に行ってきました。
’P827吉田博展'








最終日前だったので、入館に20分、
グッズショップの会計に30分かかったほどの
混雑ぶり。

と言っても、今回の展覧会までこんな画家がいるとは
私は寡聞にして知りませんでした。

明治9年生まれ。
明治後半から戦後しばらくまで活躍した画家で、
水彩画、油絵、木版画とその技法を広げ
高山や海など自然の風景を多く描いていますが、
光や水面の揺らぎなどの描き方は類がなく、
心の琴線を揺さぶるものがあります。

日本だけでなく、早い時期から米国、欧州へ赴いて
そこで絵を売って財をなし、
晩年インドなどのアジアにも足を向けて
その風景を版画に収めています。

特に何十回もの摺版を重ねる木版画は
水彩画のような独創的な色彩を生み出していますが、
私が驚いたのは、
多くの写真もテレビなどの情報もない当時、
山岳画を描くために、穂高や富士など日本の山は勿論
グランドキャニオンやモンブラン、ユングフラウなど
海外の高山へも実際にガイドとともに登頂し、
実際にみたままの風景を描いているということです。
画家である条件としての登山家でもありました。

また、昭和初期にインドに渡り、インドの町や
ヒマラヤ連峰を描いています。

通信機器も情報も、衣類や機材も
今とは比べ物にならない当時、
日本から見れば世界の果てとも思われるような国々に
どんどん取材の旅に出て行った気力と胆力に
驚嘆と敬意を禁じえません。

明治時代の人はなんと勇気と行動力があったのでしょう。
否、まだ見ぬ題材を求めるために必要なものは
綿密な計画とそれを実行する手段と情熱だけで、
勇気というほどのものも要らなかったのかもしれません。

吉田は、黒田清輝の白馬会と二分する
太平洋画会を率いていましたが、
後の教科書に出てくるような著名な画家ではありません。
水彩画から始まって、
江戸時代からの版画の技法をさらに発展させた
独特の技術を持って、日本よりも渡航先の海外で
むしろ先に高い評価を得た人です。

文明開化の名のもとに、西洋の文化を取り入れた側面が
文化史としてはいつも取り上げられますが、
そればかりではない、江戸時代以来の高度な文化から
脈々と受け継がれたクールジャパンの礎があるということを
古人の開拓を厭わないたくましさとともに、
私たちはもっと知るべきではなかろうか。

美しい光と水の流れの余韻に浸りながら
感じたことでした。












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