かつての同僚に勧められ、
吉田博生誕140年展に行ってきました。
最終日前だったので、入館に20分、
グッズショップの会計に30分かかったほどの
混雑ぶり。
と言っても、今回の展覧会までこんな画家がいるとは
私は寡聞にして知りませんでした。
明治9年生まれ。
明治後半から戦後しばらくまで活躍した画家で、
水彩画、油絵、木版画とその技法を広げ
高山や海など自然の風景を多く描いていますが、
光や水面の揺らぎなどの描き方は類がなく、
心の琴線を揺さぶるものがあります。
日本だけでなく、早い時期から米国、欧州へ赴いて
そこで絵を売って財をなし、
晩年インドなどのアジアにも足を向けて
その風景を版画に収めています。
特に何十回もの摺版を重ねる木版画は
水彩画のような独創的な色彩を生み出していますが、
私が驚いたのは、
多くの写真もテレビなどの情報もない当時、
山岳画を描くために、穂高や富士など日本の山は勿論
グランドキャニオンやモンブラン、ユングフラウなど
海外の高山へも実際にガイドとともに登頂し、
実際にみたままの風景を描いているということです。
画家である条件としての登山家でもありました。
また、昭和初期にインドに渡り、インドの町や
ヒマラヤ連峰を描いています。
通信機器も情報も、衣類や機材も
今とは比べ物にならない当時、
日本から見れば世界の果てとも思われるような国々に
どんどん取材の旅に出て行った気力と胆力に
驚嘆と敬意を禁じえません。
明治時代の人はなんと勇気と行動力があったのでしょう。
否、まだ見ぬ題材を求めるために必要なものは
綿密な計画とそれを実行する手段と情熱だけで、
勇気というほどのものも要らなかったのかもしれません。
吉田は、黒田清輝の白馬会と二分する
太平洋画会を率いていましたが、
後の教科書に出てくるような著名な画家ではありません。
水彩画から始まって、
江戸時代からの版画の技法をさらに発展させた
独特の技術を持って、日本よりも渡航先の海外で
むしろ先に高い評価を得た人です。
文明開化の名のもとに、西洋の文化を取り入れた側面が
文化史としてはいつも取り上げられますが、
そればかりではない、江戸時代以来の高度な文化から
脈々と受け継がれたクールジャパンの礎があるということを
古人の開拓を厭わないたくましさとともに、
私たちはもっと知るべきではなかろうか。
美しい光と水の流れの余韻に浸りながら
感じたことでした。
吉田博生誕140年展に行ってきました。
最終日前だったので、入館に20分、
グッズショップの会計に30分かかったほどの
混雑ぶり。
と言っても、今回の展覧会までこんな画家がいるとは
私は寡聞にして知りませんでした。
明治9年生まれ。
明治後半から戦後しばらくまで活躍した画家で、
水彩画、油絵、木版画とその技法を広げ
高山や海など自然の風景を多く描いていますが、
光や水面の揺らぎなどの描き方は類がなく、
心の琴線を揺さぶるものがあります。
日本だけでなく、早い時期から米国、欧州へ赴いて
そこで絵を売って財をなし、
晩年インドなどのアジアにも足を向けて
その風景を版画に収めています。
特に何十回もの摺版を重ねる木版画は
水彩画のような独創的な色彩を生み出していますが、
私が驚いたのは、
多くの写真もテレビなどの情報もない当時、
山岳画を描くために、穂高や富士など日本の山は勿論
グランドキャニオンやモンブラン、ユングフラウなど
海外の高山へも実際にガイドとともに登頂し、
実際にみたままの風景を描いているということです。
画家である条件としての登山家でもありました。
また、昭和初期にインドに渡り、インドの町や
ヒマラヤ連峰を描いています。
通信機器も情報も、衣類や機材も
今とは比べ物にならない当時、
日本から見れば世界の果てとも思われるような国々に
どんどん取材の旅に出て行った気力と胆力に
驚嘆と敬意を禁じえません。
明治時代の人はなんと勇気と行動力があったのでしょう。
否、まだ見ぬ題材を求めるために必要なものは
綿密な計画とそれを実行する手段と情熱だけで、
勇気というほどのものも要らなかったのかもしれません。
吉田は、黒田清輝の白馬会と二分する
太平洋画会を率いていましたが、
後の教科書に出てくるような著名な画家ではありません。
水彩画から始まって、
江戸時代からの版画の技法をさらに発展させた
独特の技術を持って、日本よりも渡航先の海外で
むしろ先に高い評価を得た人です。
文明開化の名のもとに、西洋の文化を取り入れた側面が
文化史としてはいつも取り上げられますが、
そればかりではない、江戸時代以来の高度な文化から
脈々と受け継がれたクールジャパンの礎があるということを
古人の開拓を厭わないたくましさとともに、
私たちはもっと知るべきではなかろうか。
美しい光と水の流れの余韻に浸りながら
感じたことでした。