骨の軋みはうるさくとも

ベトナムに留学してました。ベトナムの珍スポットや博物館、風俗習慣、少数民族、古本屋政談、カルト宗教、ベトナム人予言者などマイナーなことばっかり書いています。万国のマイナー趣味者よ、団結せよ!

「そんな格好して恥ずかしくないん?」 

とまで言われても、私は絶対に女装を続ける。

私は異性愛者で自分の性別に違和感もない。セクシャリティではなく嗜好の追求として女装をはじめた。

そもそもなぜ女装をするのか?文字通り女を装うわけだから男性が女性になるためにすると考えるのが普通だろう。女装する男性はどのような人物かというと、セクシャリティに意識が向いていたり、もしくは底抜けにひょうきんな余興向きの性格なのか。

では、なぜ私は女装するのか、なぜ女装して彼女(と向こうは思っている)と淫を為したのか、その時なぜ射精が南京玉すだれのような曲芸じみた軌跡を描けたのか。女装には男性的なジェンダーロールからの解放という側面から語られる場合もある。その考えを念頭にダイナミズムを語らせてほしい。

女装の高揚感は説明できるのか?


女装をする(cross-dressing)ーというとスカートを履いたりフリルのブラウスを着たり、場合によってはパニエやコルセットを装着して伊勢半の眉マスカラを使いこなしたりと、私たちは外見的な特徴を変えることに重きを置いて理解する。

しかし私は違った。私の女装遍歴はタマトイズから販売されている「ペニたまセット」から始まった。いわば紐パンにペニスケースがついた下着である。



アダルトグッズショップでアルバイトをして気付いたことがある。男の娘(女装子)用品として男の肩幅に合わせて作られたセーラー服やスクール水着を店に置いていたがほとんど売れることはなかった。一方でパンティー、ブラジャー、ベビードールはよく売れていた。それらは服の上から見ることは難しいし、家の外で見ることも滅多にない。とすれば、トップスやスカートのように外見的な特徴を変えるわけではないアイテムを着用するのは何かしら理由があるのではないか。仮説の誕生。これが全ての始まりである。

ペニたまセット(改造パンティー)を履き、腕を少しつりそうになりながらブラジャーのホックを締め、ベビードールを着た。

はじめての感覚だった。この感覚回路を何度も繰り返していくのだろう。獣道とはかくして出来上がっていくのだと思った。

横乳が圧迫されている。肩になんらかのヒモがかぶさっている。肩に強い力がかかっているのに肩付近の部分は露出している。頼りないヒモが腰に巻きついている。エロい。エロいことをしていないのにエロい、しかと高揚感を覚えたが語る術がこれ以上ない。

このとき僕の胸に三島由紀夫『太陽と鉄』の一節が去来した。確かふんどしを着けて神輿を担いで、そのあとに見えた空の青さに普段見る青とは全く別のものを覚えたページだ。

太陽と鉄 (中公文庫)
三島 由紀夫
中央公論社
1987-11-10



これを私なりに翻訳すると、頭で考えるだけでは追いつかない領域があって身体にかかわる陶酔感はやってみないと分からないし語れない、となる。(三島は「太陽」をそういった感覚の比喩として、「鉄」をロジカルで考えてロジカルに表現する比喩として使っていたと思うのだけど後半から本当に訳がわからなくなって全く覚えていないことを告白しておきます…)

ここで私にできることはなんだろうか。

肉体的な言語を書き尽くすのが無理だ、ということをできる限り丁寧に綴るだけだ。

オートガイネフィリア(autogynephilia)という概念がある。

これは男性が自身を女性と思うことによって性的に興奮する一種の性的嗜好なのだが、僕はこれに当てはまらない。

私は、女装にハマった主要因である「締め付け」などの男性的でない(女性的である?)感覚を身体に刻みながらも私は依然として自分を男性だと認識していた。高揚感と同時に「おれ何してんねん」とも考えている。

ただ「おれ何してんねん」と考えているということは男性的であることと別の回路ができつつあると言えよう。スマホの言語設定を日本語から英語に変えている時間にも似ている。たとえば画面にWaiting…と英語が表示されている。待てと言っているってことはまだスマホの中の言語は日本語のままなんだな?二刀流だな?アンドロイドじゃなくてアンドロギュヌスじゃねえか!と思う時間と同じである。

こんな私を彼女(と向こうは思っている)はどのようにして受け止めたのか?

女装こそ音楽のないレイブだ


女装をすると自分の感情はかき乱される。というよりは冒頭に書いた男性的なジェンダーロールから解放とは異なるが、一歩踏み出してしまって自分を律する重い鎖が外れてパンドラの箱から味わったことのない感情が湧いて出るのだ。レイヴしてるときにも似た感情の揺さぶりが起こる。

レイブとは野外で音楽を流して各人が好きなように踊るパーティーみたいなものだ。かつて清野栄一が『地の果てのダンス』でレイブパーティーで踊ることもついて

”自分が壊れて消えてしまいそうな危うさを私は感じる。なしくずしの死を感じる。どうなるかわかったもんじゃない時間の果てに、自分の虚空へ降りていく”

と書いている。つまり音楽や場の空気に身を任せて身体を解放するくらいの意味で、女装にも同じように感覚を鋭敏にする力があると思う。鋭敏な感覚になっているから、いやその逆かもしれないが常識や性別から逸脱しつつあるのが非常に気持ち良くなっていた。

地の果てのダンス
清野 栄一
メディアワークス
1999-09





(余談だがこのように感覚が敏感になるとどんなにつまらなくても些細なことで爆笑してしまったりする。その時の空気感や聞き手のマインドセットを完全に無視して、パーティーやクラブや酒場で起こった面白エピソードを話すと絶対にスベる。これこそ一般人がパリピを「つまらない」と一刀両断して嫌う理由だろう。)


だから女装に解放を見出すのも認めるが、解放された先のカオスの方を欲している派も少なからずいるはずだ。

さて本題に入る。女装して性交する相手は彼女(と向こうは思っている)なのだが、女装した男とそうした状況になったことは今までにないらしい。初めてだからか私に投げつけてきた相手の言葉は陳腐としか言いようがなかった。「そんな格好して恥ずかしくないん?」「もう女の子やね」「こんな人おらんよ」など、日本語母語話者にしてはかなり限定的な語彙しかなった。今思い返すと蜷川実花デザインの極彩色下着は相手に着させられたので、恥ずかしくないん?とか聞くなよとも思う。

しかし告白する。私のジュニアは固く親密に怒張しており、下半身だけ独立させてフォークリフトの替え刃にできるのではないかとも思うほどだった。刺さる。相手の貧弱なボキャブラリーが剥き身の感情に刺さった。私にはマゾの傾向などないが、もう頭は何も難しいことを考えられないほどパンクしており、B級言葉責めをただ武蔵坊弁慶の最期のように黙って受けとめるしか為す術が無かった。

この感情の隆起および勃起になんのロジックもない。ホテルの窓から夜景を眺めて意思とは無関係に涙を流したり、深夜ハイ状態であらびき団のふとっちょ☆カウボーイで抱腹絶倒したりするのと同じくらい非・ロジカルな感情だ。

難しいことが考えられないのでここで奇を衒ったような語彙や小難しいライプニッツのモナド論の話を振られても何にも感応しないだろう。

その後、村上春樹の小説の主人公くらいがするのと同じくらいあっさりと尿道鉄道から列車を発射させた。

女の子になりたいから女装するのではない 愛の才能はない


以上のように私は女の子になりたいから女装をしているわけではない。女の子の格好をしないと到達できない領域があるから女装を続けているに過ぎないのだ。下着の締め付けから「空の青さ」のようなものを感じたように、女装のクオリティをあげればあげるほどきっとより「空の青さ」を感じられるはず。自分にとって除毛や体型維持や肌ケアはそうしたイニシエーションをよりスムーズに行うため、くらいしか価値がない。精神統一のために窓をしめて雑音を消したり、催眠術にかかるためにリラックスするのと同じである。

”届かないって言われたってこのままジャンプしたい(1/2)”

と思うくらい自分が達したい領域に達するには自分の

”境界線みたいな身体が邪魔(1/2)”

で、

”イケナイことでも経験したいの体で悟りたい窒息しそうなスリルな瞬間感じたい(愛の才能)”

に尽きる。踊れ!ヅラ被れ!カラダ改造しろ!常識を捨てろ!

つまるところ女装とは男か女か定かならぬ領域にパートナーの力を借りて飛翔する永遠のパスポートでなかろうか。これはTMNETWORKだけど前半は川本真琴です。

ここまで来れば、もはや私が何であるかなんてどうでもいいし、誰もそれを知りたがってはないはずだ。

私が思う「私」など大した箱ではないし、私が考える「男」も仮初めチックな概念だ。彼女も彼女としてではなくパートナーとしてどこかに飛んでいった(ことにしておく)。女装の最大の弱点はここにある。想定されている男女間の行為というよりもパートナー間の戯れの方が近いからだ。パートナーをパートナー然させてしまうので、後処理が面倒くさい。

僕らが消える代わりに川本真琴が現れ、終わりなき旅が始まった。終わりなき旅ーa never ending journey、尿道鉄道前立腺ーthe Galaxy Express 999

あの人の目が頷いていたよ
別れも愛のひとつだと...

the Galaxy Express 999
will take you on a journey
A never ending journey
A journey to the stars

the Galaxy Express 999
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ゴダイゴや...

私は虫を食べるのが大好きだ。しかしそれ以上に虫本体が大嫌いだという思いがいつも先行している。

食べるのが好き、というのはもちろん味が好き(特にゾウムシの幼虫とカメムシ)なのだが、それが虫嫌いの同志が食べるための説得力になったことはない。私には無性に女を抱きたくなるのと同じくらい自然な感情でイナゴの佃煮を食べたくなる日があるのだ。

一方で自分の周りで虫を好んで食べる人を見ると、どうも元から虫好きで食べるのにも抵抗がなかったとか、地元が田舎で虫に囲まれていたとか、単純に南信州出身だったりする。もはや虫が嫌いかどうかよりも虫に触れるかどうかが影響するように思える。

せっかくなら色んな人と美味しさを分かち合いたいし、虫嫌いで虫食い好きなのはほぼ誰もいない。食虫に一歩が踏み出せなかったり、断片的なWeb記事だけの情報ではピンとこない人にオススメしたい本を集めてみた。仲間探しでもある。

とりあえず議論をふっかけたいだけのヤンキーに「この記事に書いてある本全部読んだか?」とあしらう簡単な手段としてもどうぞ。

ムシモアゼルギリコ『むしくいノート』



どれか一冊だけオススメするなら私はこの本を選ぶ。

はじめに、で書かれているこの2行だけで安心して読み進めることができるなと思った。

セミや毛虫を食べるたび、見た目と味のギャップに笑いがこみあげてきます。もしかしたら、大笑いするために食べているのかもしれません

想定されている読者はビギナーだが、こういう食べ方もあってええんやと視点が新鮮なのである程度知識や経験がある層でも満足ができる仕上がりになっている。6章構成でメインとなっているのは第1章の「虫の食べ方」。1匹1匹の昆虫について、虫の解説・食べ方・捕まえ方・調理法をイラスト入りで図解する構成で注目したいのは著者の文章力だ。

本人は虫好き(まあこういう本出しているくらいだから)だからか虫の解説や食べ方に愛を感じる。というのも読者側に何かを押しつける雰囲気は一切なくて、勝手に本人がテンションをあげてそれを文章に落とし込んでいるだけだからだ。逆にこちら側が歩み寄りたくなる。章終わりに美味しくなかった昆虫をしっかり紹介しているのも人間味があって信頼できる。

他にむしくいカルチャーと称して『アタゴオル物語』や『はだしのゲン』などの漫画で見られる昆虫食を紹介している。残念ながらAmazonで昆虫食と調べてもヒットするのは数ページで、食虫描写がある書物まではアクセスできない。だからこうしたページはすごく貴重。あとで紹介する三橋淳先生が文学の中での昆虫をまとめていた気がするけど忘れた。

最後に都内でしっかりと美味しい昆虫料理が食べられる店(これだけで一冊書けそう)、世界で起こっている昆虫食ニュース(これだけで一冊書けそう)、栄養について(これだけで一冊は難しそうやけど)が盛りだくさん書かれている。

構成も内容も充実しているのだが、一番は引き込む文章のうまさだろう。フリーライターらしい。フリーで食っていける文章力はすごい。

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背表紙の「食ったる!!」が好き。


ヴィンセント・M・ホールト著・友成純一訳 『昆虫食はいかが?』


昆虫食はいかが?
ヴィンセント・M. ホールト
青土社
1996-07



これこそ虫嫌いに勧めたい一冊。が、勧めたいのは内容ではなく訳者・友成純一のあとがきである。

氏は『家畜人ヤプー』などで有名な幻冬社アウトロー文庫や最近潰れたミリオン出版で本を書いているちょっとアヴァンギャルドな作家。なんと相当な虫嫌いらしい。ここで僕はグッと心を掴まれた。翻訳を引き受けた理由が僕にとっては考えを改めるキッカケになった。引用すると

私は昆虫を食べるという行為を、他人事ではなく、まさに我が事のように生々しく実感した。そして困ったことに、その感触を楽しんでいる自分をも発見した。この辺の私の倒錯した快楽が、上手く翻訳に滲み出てくれているといいのですが。

物腰の低さもさることながら、嫌い・苦手という意識を克服するのではなくそれと向き合った結果接近できるという逆説を身を以て提示してくれたのがカッコいい。ちなみにこの人の書いた小説を読んだのですが天才的なグロ描写の連続でした。え、それで虫苦手なんか?

解説はあとで紹介する小西正泰氏。書誌の整理と称して65冊もの食用昆虫に関する本(和洋問わず)の寸評が読めるのはありがたい。英語で書かれたものならFAO(国連農業機関)やボーデンハイマーあたりを取り上げている。

さて肝心の内容はと言うと…あまり大したことが書かれているわけではない。昆虫の利用方法について体系的にまとめられているわけでもなく、なんで虫食べないの?美味しいのに?という純粋すぎる疑問にスラーっと答えているだけだ。

もちろん原著の初版が19世紀末であり、その背景には当時の農民の事情があるわけだがその辺は解説を参照してもらいたい。

もっと言えば現在とこれが翻訳された20年前でもインパクト大きく違うだろう。トーマス・マンが『ヴェネツィアに死す』で美少年との同性愛をなんかのモチーフか修辞で描写しているのだが、そのショッキングな起爆力を今となっては感じ取ることはできない。その意味で昆虫食がメディアで取り沙汰される現在では”古い”本なのかもしれない。

同書の主張は単純だ。著者はバターソテーばかり例に挙げるのでそれはバターが美味いんとちゃうんかとも思うが、虫がうまいということ。感覚というのは習慣の一種であり(だから虫食おうや?)、流行こそが購買の動機であって(だから虫食おうや?)、虫を食べることを忌避するのは偏見!偏見!馬鹿げている!くらいである。

文章で見所があるとしたら文の始まりが聖書のレビ記第11章第22節の引用から始まっている点だ。もちろん昆虫食に関連しており、その内容は「次のものは食べることができる。移住イナゴの類、云々」のくだりである。ヨーロッパの教養人ぽさが感じ取れて面白い。プリニウスが言うパルティア人はバッタを食べてた、ヘロドトスが書くナサモン人がバッタをケーキにしてたなどの引用も然り。

実はヴィンセント・ホールはイマイチよく身元が分かっていないらしい。デレク・ハートフィールドみたいなでっち上げだったらイヤだなあ笑

三橋淳 『世界昆虫食大全』『昆虫食文化大全』/『文化昆虫学事始め』『昆虫食古今東西』


世界昆虫食大全
三橋 淳
八坂書房
2008-11-01



『世界昆虫食大全』・『昆虫食文化大全』は食用昆虫のバイブル的な書物だと思っている。少し専門的な見解や網羅的な知識を得るには十分だと思う。しかし各々4000円ほどするので、ちょっと知りたいだけなら後ろの2冊がコンパクトにまとまっているのでそちらを手に取ってもらいたい。

まず特筆すべきは圧倒的な情報の多さに尽きる。地理的な範囲で言えばアフリカから中東、オセアニア諸地域にまでおよぶ。ブルキナファソでの昆虫の産業利用について割と長く書いていたりするのだが、まずブルキナファソってどこだよと言いたくなる。それくらいの勢いだ。

ただ一方で、国単位で見ると論文の翻訳が中心であるので所々で情報が古いのではないかと思うこともあった。例えばベトナムの記述は1928年のTiêu論文がほとんどのソース元であるからだ。逆に言えばまだまだ調べる余地があってワクワクもする。

専門の採集方法や養殖、飼料(僕らが食べるということは家畜も食べるのだ)、薬用昆虫などのトピックになると具体的な実験データや栄養成分の表などが詳しく載っている。これだけでも価値があるのではないだろうか。文系やからよく分からんけど。

全てやり尽くした感も出てるが、宇宙食としての昆虫なんかはこれからもっとアツくなるだろうし、今後この”バイブル”がどのように古典となっていくのかが楽しみ。『昆虫食文化大全』は『世界昆虫食大全』の続編という位置づけなのでぜひ2冊とも読んで見てほしい。

野中健一 『虫食む人々の暮らし』『昆虫食先進国ニッポン』


昆虫食先進国ニッポン
野中 健一
亜紀書房
2008-12-01



こちらは文化人類学者が書いた本。

現地の人々の暮らしに入り込んで深く「探る」 さまざまな土地の中で虫がどのように食べられているかを広く見出す

と、『虫食む人々の暮らし』の序章で示されている通り、栄養とか飼料効率とかよく聞くスタートアップベンチャーでしきりに喧伝されている側面とは違う地点スタートしている。そうした大義名分がスッと入ってこない人にとっての一つのアンサーになり得るんじゃないかと。発信する側が栄養面に着目するのは自然に思えるけど、受信する側が全体としてその一点にのみ着目するとカルト宗教っぽくなってしまう(ex.マクロビ教・オーガニック教)ので。

当人はラオスを中心にアフリカや長野でフィールドワークをしており、とりわけラオスのカメムシの味覚表現に対する記述がおもしろかった。外国語で昆虫食を捉えたときに見える世界も色々あるんやなと。

ヘボ追いをそんなにマジでやるのか?くらいのガッツと同時に見せるすごく冷静な視点(ex.「先を争うように買わねばならぬほど活きイナゴは希少価値のあるものなのか?」『昆虫食先進国ニッポン』など)が交互に描かれていて飽きることなく読める。都度問いを明確にして状況を客観視するので冗長さもない。

この人は学問的見地から昆虫食に興味を持ったのだが、自分はというと好奇心50%美人のブロガーに誘われたから50%だ。人生何があるか分からんなあ。

内山昭一 『人生が変わる!特選昆虫料理50』



昆虫食イベントを多く開いているので界隈では相当な有名人。

Part1では見た目にやさしいと銘打ってコオロギを使ったハンバーグをはじめ、がんもどき、ポタージュ、クッキーなどのレシピを紹介している。続くPart2では素材を活かした料理としてハチノコ飯やらジャンボカイコを使ったパスタなどが紹介されている。

素人で虫を食べようぜ!となると素揚げという思考停止に陥ってしまう。それでしかもそこそこ美味いので、今一歩先に進もうという創作意欲もないのでこういう本は貴重だ。1つのサンプルを知るという意味ではいいだろう。問題は材料をどう確保するか...

高橋敬一 『昆虫にとってコンビニとは何か?』



表題「昆虫にとってコンビニとは何か?」を皮切りに昆虫にとって車とは、ビールとは、人家とは、など様々な角度から昆虫を見ていく。

気に入ったのは第8章「昆虫にとってイナゴの佃煮とは何か」と第15章「昆虫にとってスーパーとは何か」だ。

8章では昆虫食は産業化できないと、つまり大量に取れないとそこまで意味はないんじゃないかとバッサリしている。特段に食虫を推している人ではないのでそこら辺はフラットだ。15章ではエネルギー効率の観点から農薬は絶対に必要だと前置きした上で、見栄えの悪い野菜を売るのはほぼ不可能と説く。その結論の裏には「必要最低限のレベルで止まるものなどないし最低限ってなんだ?」という考えがあるのだが、これはそのまんまマズイもんを食わせようとする人に当てはめれるんのではとグサッときた。


梅谷献二 『虫を食べる文化誌』


虫を食べる文化誌
梅谷 献二
創森社
2004-09


この本が特筆すべきはP122あたりからのタイの食虫についての記述の多さだろう。

習俗としてのそれなら、数多の本で紹介されているが田舎(チェンベー、タンケーン、サコンナコン...いやどこやねん!)での調査記録に加え、農業試験場で缶詰を作った時の話など産業レベルまで取材している。年内はコンケンに滞在して調査する予定なのでとても参考になった。

釣り餌としての昆虫についての調査も珍しい。釣りしてるけどこんなこと考えもしなかった。基本的な情報はもちろん書かれているのだが、珍品も多く隠れた名著だと思う。

他、割と頻繁に紹介されている本


内山昭一『昆虫食入門』
水野壮『昆虫を食べる!』
篠永哲・林晃史『虫の味』
野中健一『虫はごちそう』

Webサイト





昆虫食が過去最高にブームである。といっても、新聞やテレビなどメディアがそういう雰囲気を急速に作り上げており広告代理店くさいのは否めず、実際に食べているのはモノ好きや一部の好事家くらいだ。規模は小さい。

さらに継続して昆虫を食べ続けているのはもっと少ない。このまま一過性のブームで焼畑農業みたいに多くの人が寄ってたかって食べ、いずれは昆虫食に見向きもしなくなってしまうのだろうか。僕はそうしたフェーズで終わらせたくはない。

というよりなぜ今になって昆虫を食べようという話になったのか?

推進する側がよく主張する食べるメリットはこうだ。高タンパクである、普通に美味しい、牛肉と比べて育てるコストがはるかに低く地球環境に優しい、文化的に虫を食べてない期間の方が珍しい、コオロギはエビっぽい、タガメはフルーティ、アリの酸味はたまらない、etc

一方で絶対に食べたくない派はまずビジュアルが無理だ、コオロギがエビっぽいならエビ食うたらええやんけ、などと言う。双方が絶妙に噛み合ってないのは分かるだろう。

こうした大局観を持っているのは自分が前者の昆虫食を推進する側でありながら、その界隈と根本的に相入れない部分がありどこかで冷めているからだ。僕は虫を食べるけど触れない。嫌いどころか気持ち悪いとさえ思っている。美味しいと思うこともある。どちらにも染まりきれず、しかしながらどちら側とも視点を共有しているつもりだ。

虫嫌いが虫を食べ始めた理由


僕が虫を触れるのは料理として提供されたときと己を殺したときだけである。軽い気持ちでセミ捕りなんてできない。

だから今でも美味しいと分かっていても口の手前に運んだ時点で一度ひるんでしまう。僕の知る範囲では昆虫食のメリットを主張する人の多くは虫が好きであったり、虫に近しい環境で育った抵抗感が少ない人である。そんな人たちが一度食べてしまえば虫への嫌悪感もなくなるよ!、昆虫食のキモは食感だからあえて粉にして食べるのって楽しいのか?、そもそも虫の何が嫌なんだ理解できないから教えてほしい、と口にされてもピンと来ない。歩み寄り方が大股すぎる。オタクっぽいのだ。ちなみに私は何度食っても虫嫌いは治らない。

しかし、かく言う僕もトビタテ!留学JAPANという官民共同の留学プロジェクトの選考に際して、上のような論法および昆虫こそ食糧問題解決の手段たりうるぞと如何にも善なる金看板を振り回して、奨学金を受給できることになった。10月からタイのコンケン大学に3ヶ月ほどいる。自分ではあまり納得できず、受け入れ難い論法を得意の舌先三寸で丸め込んでしまったのだ。

もちろん大学5年生にして就職活動をやめて、もらった内定も断って、突き動かされるように留学に行くと決めたのは理由がある。

大学ではベトナム語を専攻し、卒業論文のテーマにはベトナム文学を選んだ。1年間ホーチミン市に留学していたし、漠然とベトナムと関わって働きたい気持ちもあった。リアルな欲を言うと、急速に話題にされている昆虫食界隈の波に乗って少しでも優位に立ちたい、タイ語をやりたい、東南アジアを股にかけたい、他の奨学金とは違ってメディアとのコネクションも強くデカいコミュニティを利用したい、などが少なからずある打算的な理由だ。

しかし何よりも大きいのは自分が24年でめちゃくちゃ美味しい昆虫料理に出会ってきたからに他ならない。この感動を思い出に留めておくのはもったいないと思った。

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(2016年関西虫食いフェスティバルにて)

出会えたのは毎年夏に兵庫県伊丹市で開催される関西虫食いフェスティバル、昆虫食のentomoが大阪・難波にある赤狼で開催していた試食会で出された創作料理の数々、留学中に食堂で食べたカイコガ蛹のライムリーフ炒め、魚醤につけて食べるヤシオサゾウムシの踊り食いである。それにVũ Bằngという自分が最も好きなベトナム人作家が著書”Miếng lạ miền nam(『南部の変わった料理』)”で絶賛していたのも一つの理由だ。

そこにあったから食べた、というのは正しい。ただ思い返せば決め手となったのはよく通っていた料理屋の店主が作るから、とか地元民が絶賛していたなど圧倒的に美味しいという情報があったからではないか。

逆を言えば素材本来の味について自分はなんの説得力も以って伝えられてはいないのではないか。昆虫の味がエビっぽいだのフルーティーだの言って誰が食べ始めるのだろう、地球環境に優しいだけで虫食うか? このような問いが自分の中に生まれた。


コオロギの味がエビっぽいとしてそれがどうしたというのだろう


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槍玉に挙げているエビっぽいからどうだという虫はコオロギである。僕が持っている粉末コオロギ(クリケットパウダー)を食べたことがある人の感想の多くは「川エビ」だという。次いでえびせん、ナッツ、土(食ったことあるのかよ)、ドッグフード(食ったことあるのかよ2)などである。意外とイケるやんという人もいれば、こんなマズいの食わねえよという人もいる。中には「大義名分の暴力」とまで言う人もいた。体言止めしとけばおもろいワードになると思ってるんとちゃうぞしょーもない。

待ってほしい。僕もそのまんまのコオロギは美味しいと思っていない。種々の虫食いイベントで食べたほとんどのかき揚げをそんなに美味いと思っていない。美味しいのは衣だ。唐揚げ粉だ。私たちは衣を食べるためにエビ天を食べるのではない。衣に包まれたエビを衣と一緒に食べるためにエビ天を食べるのだ。味覚こそ主観の最たるものだが、あのレベルの食い物を美味しいよねとワーキャー言っいてる空間は正直、ディストピアの扉をちょっと開けてしまった気分になって仕方がない。もちろんエビっぽいやろ?と勧めて食べさせていた自分の伝え方も愚かである。




僕はこんなことを言う始末である。これは虫を魚の味に近いものとして捉えていた時期。


私が虫を食べるわけ
ダニエラ・マーティン
2016-09-30



コオロギの沽券のために補足しておく。ダニエラ・マーティン『私が虫を食べるわけ』によると牛肉1キロを得るためには(つまり牛1キロ分を育てるため)、飼料が10キロ、水8400リットル、牧草地41平方メートル必要。一方で虫肉は飼料が2キロ、水8.4リットル、0.06立法メートルの場所が必要と書かれている。栄養面から見ても賞賛すべき点も多い。たとえばカナダ・エントモファームズが販売しているローストクリケットであれば10g中の6gがタンパク質である。ものすごく素晴らしいエビか...

ほなエビを食べたらええやん。

これはコオロギだけの話ではない。ラ・フランスらしいタガメ、ナッツっぽいセミ、トロっぽいカミキリムシ… 

ほなラ・フランスを食べましょうよ。

例えばエビが手に入らない、世界的なブームで価格が高騰し、絶滅の危機に追いやられているなら別にコオロギは食べると思う。今まで僕は人にコオロギを配りながら「でもごっつい量のエビがインドネシアとかで養殖されてるよなぁ」と思ってきた。うなぎならまだしも、味がありふれている食材に似ていても人を動かす力にはならない。

論点が非常に多いトピックなので今回は味に絞って考えてみた。

食べ物を食べ物でたとえる意味とは


そもそも”味”とはなんだろうか? 食べ物の味を食べ物の味でたとえることにそれほど意味があるのだろうか?

思い起こせば私の食道楽がはじまったのは19歳の頃。神戸のベトナム料理屋で食べたカエル肉だった。

カエルがほぼ鶏肉の味だというのは何度か聞いていたとおりで、可食部位が少ない以外は味は鶏肉に似ている。ただどことなく魚っぽさというか水生生物っぽさもあって、これぞ両生類の味かとその場にいた友人と盛り上がった。

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(うまかった...)

大学2回生の頃、大阪の四條畷にある居酒屋でカエル、ラクダ、シカ、ワニ、カンガルー、ウーパールーパー、トド、ダチョウ、馬のたてがみ、グソクムシ、スッポンを食べた。

初めは牛肉っぽいだの鶏肉っぽいだの盛り上がっていたのだが、途中から「これはシカ寄りのラクダやな」、「いやいやちょうどカンガルーとワニの中間やないか」、「ワニ肉ってほぼ鶏肉やん!」、「鶏肉に味が近いカエルとワニ肉は同じか?」、「いや違う」、「ほなA=B, B=C, A=Cが成り立たへんのは論理的におかしいやないか」…などその場にいた全員が食べ物で味をたとえることに限界・無意味さを感じはじめた。

あるのは”そのものの味”だけである。言葉を介在させたところでとりわけ未知の食材であれば追体験などできるわけがない。

たとえば池波正太郎(ずっと美味いもん食べてる作家)がエビについてこのような文章を残している。

「歯にあたるとサクリとして脂のいい香りがした。中の具は竹の子の千切りと真紅の海老で、味蕾をくすぐる香ばしい下味が染みついている」

レトリック的な問題として日本語では味覚を表現する語彙がないらしい。だから視覚、触覚、嗅覚、聴覚を研ぎ澄ませた描写をする。丹念に描写してもこれが最高レベルである。コオロギについての描写だったらどれくらいピンとこないと思う。

鶏肉っぽいからワニ肉を食べようとなるだろうか、エビっぽいからコオロギを食べるだろうか、これらは食べさせる側が生み出したロジックである。しかも本質的な言葉を紡ぐのを怠って生まれたそれである。決して食べる側のロジックに立脚した言葉ではない。

たとえば確かにカエルの味は鶏肉に近い。日本であまり信念を持たない店でカエルを食べるとき、私の経験で言えば鶏肉と同じ調理法で料理が提供されるケースが多い。しかしベトナムに留学していた時にいくつかのカエル料理を食べていた時にあることに気付いた。カエルは炒めるときにタデ(rau răm)を使っていたのだ。鶏肉とタデを一緒に食べているのはあまり見たことないし、もしかするとカエルとタデの相性は抜群だけど鶏肉とタデでは微妙なのかもしれない。(たぶん臭み抜きとか殺菌とか食べ合わせの問題もあるでしょう)

※追記:ハノイにあるbún thangという麺料理は鶏肉を錦糸卵とキノコとエビタデを一緒に食べていたと思います。鶏肉とタデ以外の何かしらの食材がこの組み合わせろ許すのかもしれません。

コオロギはエビを超えられない、漸近的にしかエビに近付けない。マネだけをしてオリジナルを超えたことってあるのか?ダウンタウンのマネだけしてた芸人が生き残っているか???

しかしコオロギ本体の味をグッと引き出すことができれば、エビを超えられないという事実は残るものの、エビもコオロギを超えられない段階にまで持っていける気がする。コオロギらしさだ。そのヒントとなるのが伝統であったり民間信仰上の食べ合わせだったりするのではないか。

三橋淳『世界昆虫食大全』という本によると結構な数の国で食虫習俗がある。


割かれているページ数から中国・タイでは産業的なレベルで昆虫食の取引が行われていたり、ページ数は少ないもののブルキナファソや沖縄での養殖事例も紹介されていた。食べられているならどの国にいってもある程度の調査ができると思っていた。

ここで自分が使命感に燃えたきっかけはまさしくベトナムである。同書でベトナムに関する記述は1928年のベトナム系フランス人の論文を依拠しており、不十分と感じる節も多々あった。これは私がベトナムに行くしかない。僕がベトナム料理を好きな理由は料理が芸術として洗練してるように思うからだ。ライムリーフで炒めたカイコガ蛹も、魚醤にライムを絞って唐辛子を浮かべたところに漬けるヤシオサゾウムシも、YouTubeでしか見たことないが田舎の兄ちゃんが炒めているバッタも、文献でしか読んだことがないビンディン省山間部で食べられることもあるという粉末カイコガ蛹を練りこんだ揚げ春巻きも僕にはうまそうに思えて仕方がない。

タイもそうである。少なくとも自分にとっては洗練されたように見えるし、留学先に選んだ東北部のコンケンは昆虫食のメッカとも言われる場所だ。何かの代用品ではなくこれでないとダメだって例をできるだけ多く見つけたい。繰り返すが僕は丸焼きの虫のほとんどを美味しいと思わないし、天ぷらや唐揚げも美味いのは衣であって虫ではない、という立場だ。そういう類の虫は救荒食としてなら食べる。

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これは2016年の関西虫食いフェスで食べたカイコガ蛹のフライが入ったタイカレーである。自分のカレー史上でトップレベルに美味しかった。というのもカイコの味はもちろん、フライにしたときの食感やパサつき、大きさなど全てがカレーにマッチしていた。クルトンではなく、あのカレーにはフライカイコがベストなのだと思う。しかも冷めてもなお美味しかった。本当にうまかった...なんでだろう。私はああいう経験や情報を海外から日本に持ち帰りたい。

食用昆虫は今後どうなるのか


コオロギを広める大義名分に従うなら、多くの人にも食べてもらいたい。

見た目の気持ち悪さから粉末状にしてパスタやパンに練りこんでしまおう派(ex.フィンランド)、オーガニックプロテインバーなどの形でアプローチする派(ex.多くのスタートアップ)、動物性タンパク質に転換した飼料やドッグフードとして流通させようとする派(オーガニックフードってことで意識高い人にはウケがいいみたい)、様々な食材がいつでも手に入る今だからこそ作れる創作昆虫料理でイベントを打つ派、など様々だ。

内山昭一先生はカメムシを使った料理とパクチー料理を食べ比べる会を企画していた。すごくいいなと思った。キャッチーだから人も来るし、一方でしっかりと対比させることで「らしさ」を身を以て覚えることができる。かなりおトクなイベントで都内在住者が正直羨ましい。

伝統的な昆虫食があって次のフェイズにあるそれを流行りのミームに則って言うなら何が昆虫食2.0となるのだろうか?

私自身は何が2.0になっても3.0になってもいい。昆虫そのものへの愛着が全くないからだ。

ここまで長く書いたことを念頭にwebメディアや新聞、他ブログの記事を読み込んでみてほしい。

特にプロがその書き方でホンマに読者の食指を昆虫に動かせるんか、と。真に虫のおいしさを知るためにはやはり食べるしかない。私ができるのはエビっぽいから美味しいよ、なる喧伝に対する違和感をぶった切るだけだ。私の文章で食べる気が起こらなかったなら仕方がない。けれど、少しでも食指が動いた方は一歩進んでほしい。日本はもうすぐ冬だ。虫が食えない。今しかない。


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