2020526_200526_0005
(ハノイ市某所にて撮影)

モラルハザードはだれ?


知人が1組の夫婦と6人の男で乱交パーティーをした日、いの一番に言われたのが「歯を磨いてこないなんて、お前は頭がおかしいのか?」だったらしい。乱交しましょうと掲示板に書く夫婦が他人に向けるべき言葉ではないことしか分からない。

たしかに性行為前に歯を磨くのは紳士のたしなみだ。しかし、知人も全裸の男女に囲まれて全裸で怒られるとは思いもしなかったはずだ。それに乱交に興じる8人とは別に、いかにもな刺青をデカデカと入れた金剛力士像みたいな全裸の男が風呂場で仁王立ちしていたという。

吽形像の男は乱交に参加せず、ただ乱交を見ながら一心不乱に一人でしごいたらしい。ひたむきにシゴいているのはマヌケな姿だが、刺青がいかついので、ホテルの部屋には独特の緊張感が張りつめていたと聞いた。(どっかの部族のイニシエーションではない)

私がこれを聞いて感動した。なによりも乱交、つまり、一般的な社会通念から外れた行為であるからといって、その場や人もヌルヌルのベトベトの酒池肉林に支配されている訳ではないという摂理が新鮮だったからだ。

強いていうならば、無菌室。見知らぬ男たちが歯を磨き、秘部を舐め合い、9本もの男根が1つの穴に集中し、着々とコンドームにハードミルクを補填する。そこに一種の”清潔ではないけど清潔”という矛盾する状況が頭に浮かんでしまう。

アンチ・風俗深イイ話

ここで一旦、去年行ったドーソンについての誤解を解かねばならない。

ドーソンとはベトナムのビーチリゾート、もとい本番アリの置き屋街だ。首都ハノイから車であれば4時間程度で行ける。値段はどの店もほとんど一律で1500円ほど。最後の楽園と言われるゆえんだ。ローソンで買い物するのと変わらない。首都でしっかりした店に行けば1万円はいくだろう。

たとえばソープランドの建前は自由恋愛である。しかしドーソンに自由恋愛はない。あるのは棒と穴だけ。キスはない。会話もほぼない。あった会話は「お前サムスンの社員か?」「違うで」「ほなええわ」だけだった。

穴ぼこに棒を突っ込んで射精したら解散。ただそれだけ。射精後のエアポケットタイムをやり過ごすにはベトナムの喧騒はうるさすぎた。

無音無声で腰を振って射精するのは本当に悔しい。

そもそも、ここには意味不明な転倒と倒錯がある。金を払ってるのだから、気持ちよくなるサービスを享受するのが道理のはず。しかし日本を支配する性の豪傑伝説は金を払ってどれだけ相手をイかせたかを自慢する風潮が強く、なんとそれを行動指針にしてしまっている自分もいる。ガラパゴスはシモの話題も及ぶのだ。

当然ながら悔しい理由はそれだけではない。村上龍的に言えば、単純に”金払ってでしかおまんこできない”と自分で認めるのが悔しい。

ただし、文●科●省が主導で集めた企業協賛金が基になった奨学金を使って、射精という排泄に金を使ってしまっていることについては何の後ろめたさも感じなかった。

もちろんドーソンだからこその良い点もある。ドーソンには「1500円の排泄」を「幸福な射精」などと誤認する男がいない。

安い置き屋のメリットは凡百の風俗深イイ話から決別できることに尽きる。人情もなく、潔癖に近い。本当に風俗で人生を変えたい人は雄琴のプルプルプレミアムに行くと相場は決まっている。

もはやこの街でマトモな、というか人情味・人間味のある人間は手マンのジェスチャーをしただけで腹を抱えてゲラゲラ笑うポン引きくらいだ。並んだ娼婦を一方的に指差しで選ぶのは、いささか吉原遊郭っぽさもあるが、ドーソンで大炎上が起こったっとしても、火の手が迫り来るのも構わずに互いに貪り合う男女はいないだろう。ドーソンは五社英雄の世界観を夢見させることもしないロマンのない街だ。

これを安さゆえの気まぐれと信じてしまったのが事の始まり。

2020526_200526_0002
(ドーソンのビーチになぜか裸婦胸像があった)

その日のうちに2軒目の置き屋へとハシゴした。この時点ではまだドーソンに懐疑的だった。さっきの店が悪かったのか、自分の振る舞いが悪かったのか。明らかにしたい。

次の店で相手をした娼婦は粥見井尻遺跡から出土された土偶草創期の女性像に似ていた。丸みを帯びているのに固くて、でかくて、凹凸が少なかった。胸囲は少なくとも着ぐるみのミニオンくらいあった。

ミニオンは私にサムスンの社員かどうかだけ聞き、股を広げて無言でベッドに寝ている。

棚畑遺跡の土偶ならまだしも、草創期の土偶は女性性があまりにも抽象的で、私はおさな勃起(造語です)すらままならなかった。ミニオンは勃起の対象になり得ない。

いやー、疲れてるんだ今日は2度目さ、なんてベトナム語で喋っても向こうはどこ吹く風。出身がソンラ省だとは教えてくれたが会話は続かず。ふにゃけてしまった棒は挿入した気にならない。腰を振り続けていると、土偶が電話を始めた。なんと相手は土偶の彼氏らしい。映画を観に行く話をしている。アンともウンとも言わないどころか、おれは認識されていないも同然だ。腹が立ってしまい、わずかな間、一生懸命に腰を振った。椎名林檎っぽくいえば、能動的大ピストン。Come back to life and be high. 太ってるのにブヒブヒとも啼かない。ミニオンは、えー?仕事終わったら行くやんか!ぽしゃけ飲みたい(拙訳)とか言ってる。癪である。ナンマンダナンマンダとボソボソ唱えてみる。安宿のベッドは硬くて、ぎしぎしきぃきぃとうるさい。臥薪嘗胆という言葉を思い出すためだけの装置として捉えてもいいくらい硬い。念仏攻撃が利かないので"Mẹ ơi! Mẹ ơi!(母さん!母さん!)"と叫んでみた。いやちゃうちゃう、なんか変なやつおるねん笑(拙訳)と電話し続けるミニオン。全く気持ちよくないからこっちだって、あっ...と漏らす声もない。ギシアンならぬギシキィ。こけおどしで腰振りの小休止がてらミニオンの脇毛を唇で挟んでちぎってやると鋭い目つきで睨まれる。背中がぶるっと震えて、日本にいる恋人のことを頭に浮かべてそそくさと射精した。I'm your redord. I keep spinning round. But now my groove is running down. Don't look back bother get it on...Up, up and away!

また金を払ってスペルマを排泄しただけ。彼氏との電話を邪魔するなと怒られたが、脇毛をちぎったのは怒られなかった。

(余談だが、村上龍の『テニスボーイの憂鬱』ではちぎった脇毛を口に含ませてジャラジャラした舌で乳首舐めるシーンがあった。もしかしたら脇毛ちぎりはセックス猫だましではポピュラーな部類かもしれない

私は彼女を娼婦失格などと言うつもりは毛頭もない。あくまでこれはドーソンの基準に則ったプロフェッショナル、だと考えている。

2020526_200526_0004
(壁)

しかし、そうは割り切っても、違和感が消えた訳ではない。部屋を出て、連れの後輩を待っている間にハノイビールを飲みながら呆然と壁を眺めていた。壁は天の川か男性器のどちらかに見えるロールシャッハテストのようだ。深層心理でもおれはちんこなのか。社会人になって分かるが、あれは労働した後の疲れとほとんど同質だった。エッチだってしたのにふざけんな!(指原莉乃)

大人のキッザニア

 冒頭の知人の話に戻る。乱交パーティーの良さとはなんだろうか。個人がどう興奮するかに着目すれば背徳感があるからだろうが、俯瞰してみると乱交は経済的なのだ。効率を考えると妥当な考えだと思う。

となれば、組織的な行為になるにつれて乱交”パーティー”はますますシステマティックにならざるを得ない。自然発生した3Pならまだしも、10人も関われば致し方ない。

友人の場合はそれを歯を磨くことで甘んじて受け入れた。乱交ならではの快楽に身を委ねられたが、思っていた愉楽とは違っていたように。

同様に私がドーソンで二人の娼婦としていたのがセックスと言えるのかどうか、かなり怪しい。恋人とのセックスとは当然違うし、いわゆる風俗店でのそれとも異なる。たとえるならば、学校教育を受けずにずっと同じ椅子工場の同じラインで働いている子供に「君は何を作っているの?」と聞いたときに、「僕は右からきたあれを左に流すものを作っています!」と答えられたような。「椅子じゃなくて?」「はい!僕は左から来たあれを右に流すものを作っています!」「セックスじゃなくて?」「はい!僕は男性器を女性器に入れるだけの行為をしてました!」...工場にいるようだ。おれは赤ちゃん工場で働いていたのだろうか...?灼熱のベトナムで飲むビールと空心菜のニンニク炒めは犯罪的にうまいのはこういう理由あってこそなのか。体に染み込んできやがる・・・

待ってほしい。1500円という手頃な代価を支払って働いている...ここはキッザニアか?まるで大人のキッザニアじゃないか。避妊はしているので赤ちゃん工場の1日体験といったところか。キッザニアでtoC以外の仕事が体験できるのは大人だけだ。たった1回の儚エッチなど単発労働に過ぎない。

キッザニアと言えど給料が園内通貨という形で発生する。が、これも旅行者と縄のれんで一杯やるときに束の間、会話に花を咲かせられるくらいでちょうど1500円くらいの価値しかない。1500円あったらミルボンのサロン専売シャンプーでも買って、髪の毛にコシとハリを与えた方がいい。3000円あったらアリミノメンのハードミルクも買うといい。ここ数年のメンズ整髪料最高傑作の一つだと思う。メンズスタイリング剤の容器として最も男性器近い。ノズル式で先端からピュルピュルと出るのもまた一興。





このエントリーをはてなブックマークに追加

世界を変えるのは認識だけだ。このおそらくは唯一絶対の真理に従うなら、僕がタイに行くときにはほぼ必ずチンコに乗るという不条理を甘受している。一言で珍事だ。

チンコ保持者がチンコを持ちながらもチンコに乗るフラクタル構造とはこれいかに。自分で自分の頭の中に飛び込むのをオチとする古典落語にも似た感触を、不条理さと同時に懐かしさを以って迎える自分もいる。


しかしチンコ (せっかくタイの話なので梵語にちなんで摩羅と呼ぼう)に乗れる航空会社は今のところこの世に一つだけしかない。エアアジアでもライオンエアーでも、ましてやJALやANAやタイ航空も摩羅たり得ない。上に挙げたノックエアーだけが摩羅に乗れる。ノックエアー以外はチンコでもちんぽでさえない。ただの鉄塊。残念な話だ。

画像の通り機体の先端部は鳥を模している。ノック(nok,นก)というのはタイ語で鳥類一般を指す。例えばノック・クラチョークならスズメで、ノック・ユーンならクジャクだ。

鳥だからなんなんだ?おれにも摩羅に乗せてくれ?

少しだけ付きあってほしい。僕も摩羅使いの摩羅乗りになるまではほんの少しだけチンたらと回り道をしなければならなかった。それにはベトナム語の知識が必要だった。

数年前にベトナム留学してた頃、ベトナム語で鳥類一般を表す言葉はchim(チム)だと教わった。どうせ周りに日本人もいないし嫌なことがあると「ちんちんじゃねぇかよ」と呟いており、口の閉じ方を変えてchimのmをnにするだけで全く違う意味になるチンケなスリルを楽しんでいた。

しばらくして鳥類一般を指すチムが隠語で男性器を指すことを知った(!) といっても、日本語のチンコに対応しているわけではない。偶然の音の一致。留学中にタイ旅行したときもノックエアーを利用したが、特に鉄摩羅航空だとは考えもしなかった。

調べていくうちにどうやらチムは鳥類一般を指すチムのみならず、具体的な鳥類の名称が男性器の意味を持つこともあるらしい。ならばタマタマ、男性器の隠語を表すchimと鳥類一般を表すchimが同音異義語として一致したのではなく、必然性があってその意味を持つようになったと考えるのが自然だろう。

いくつかの証言を集めると
  • cu(鳩の一種、普通の大きさ)
  • cò(コウノトリ、当然でかい)
  • hoạ mi(ガビチョウ、スズメ目の鳥、小さい)
これら3種が鳥類で男性器を表すらしい。私が実際に聞いたのはhoạ miだけだが、古い辞書でもcuが男性器の意味を持つと載っている。còもどこかの誰かが言っていることにしよう。これは論文ではないのだから。おそらく地域差・時代差以上に個人間で通じるかなり柔軟な比喩なのだろう。

それらの具体的な名称を聞いたときさえ「だからなんで鳥がチンコやねん」感は拭えなかった。しかし実際的な用法を聞いて、甚く感心した。ふつう勃起するときはcương cứng(硬い言い方)(勃起の強度には依らない)とかlên rồi(よく聞く言い方)と言うのだが、主語がチム、つまり鳥の場合はhótという動詞を使うのだ。使う、というか事後に聞いた。

hót(ホット)は小鳥がさえずるという意味。ピーチクパーチクと餌を求めて鳴くとき、首をニョキっと高くあげるからじゃない?(vươn cổ cao lên)と仮説を開陳された。


タイ・ラオス卒業旅行_200323_0196
ちんこの先端部

全裸ながら文字通り膝を打ってしまった。琉球方言で言うと胸がチムドンドンしている。Chim hót vươn cổ cao lên...なんて詩的な表現なんだろう!ベトナム語の詩を何十篇も暗記させられ、紙の上だけで見た使い道のない語彙が現実世界で生きている!「洗濯物を干す」よりも「マンゴスチンなどの果実がたわわに実る」という表現を先に覚えるような日々は無駄でなかった!

ノックエアーの長い機体は既に「首を伸ばした鳥」のようである。ここではじめて、大空に羽ばたくノックエアーは、ズボンを突き破ろうとしているちんこと一致している、と気付くのである。

生まれて此の方、僕は鳥について真剣に考えたことなんてない。況や比喩にするなど、である。コウノトリならまだしも、自分の性器を「ガビチョウ」だなんて小鳥の名で呼ばれた日には自信を失ってしまうのでは?と思ったが、大きさや色なんぞは本質的な話ではないのだ。勃起される側(告白すると僕は生まれて初めて”勃起する”を他動詞として使った)からすると都市生活で想像力の衰えてしまった僕には、餌を求めて首を突き出すさまを勃起と関連づけるのは新鮮すぎた。

余談だがchuồn chuồn(トンボ)が男性器を表すケースもあるらしい。トンボがなぜ?となるので端的に特徴を描写した詩を引用する。

ベトナムの詩人スアン・クィンによる「嵐を知らせるかげろう」の冒頭はこうだ。

Con chuồn ngô hay làm dáng
Chao mình soi mặt ao trong
(トンボはおめかしして、
ぶらぶら揺れて透き通った池にその身を映す)

と書いている。安直にトンボの身を男性器、複眼を睾丸と見立てたのではない。それはそれでジョルジュ・バタイユ的にいえば、理性器官である眼球が射精の根源である睾丸に見立てられている気色悪いパラドックスの妙もあるわけだが。まあタマタマでしょう。

実際のところは、ぎこちなく、ぶらぶら揺れるさまをちんこに喩えたのだろう。愛はかげろう、つかの間の命、激しいまでに燃やし続けて、過ぎ去る後に残るものはいつも女の乾いた涙...硬さと長さを誇る虚勢なぞどこ吹く風。ちんこを見て泣けてくる。射精後に言われる”chết rồi(死んだやん)”も思い出す。(※スアン・クィンはちんこについて書いているわけではありません)

永田守弘による『官能小説用語表現辞典』では244ページから287ページにかけておよそ300例もの男性器表現が載っている。しかし、こうした文脈で計上してもよさそうな動物は2例の鯰のみ。淡水魚特有のぬたつきゆえから鯰を採用したのだろう。暴れたら地震を起こすぜとでも言うのか?僕は相手の反応に依存したちんこを必要としていない。欲しいのは飛躍的な詩だ。別の官能小説で、挿入するものであるから「カード」とした男性器表現も見たことがある。が、誰がそんな抽象的な次元で無機質で機会的な性交するのだろうか?セックス工場とちゃうねんから。

一方で男性器をムスコ、のように擬人化する表現は世界共通だ。ムスコでなくともベトナム語であれば小さな友達(cậu nhỏ)、英語なら人名のジョンソンやディックがある。中国語にも同じような言い方があると聞いた。これらの性器表現は、単純に長さや硬さから関連づけてバットやピストルや鉄パイプなどと表現されたものとは一線を画している。

それはたぶん自分に近しい存在だけど全く別人格があると受け止めているからだ。性欲はときに抑えることができない。そういう諦めと謙虚さと明鏡止水の境地があらわれているように思う。それを踏まえてのチム・ホット(勃起)である。人ではないのだとしたらよもや教育など施しようがない。自然への畏れさえも読み取れる。


ちんこは身近に潜んでいるのかもしれない。


引用
NXB Văn Học "Thơ Xuân Quỳnh" P132 "Chuồn chuồn báo bão"

このエントリーをはてなブックマークに追加

_190618_0060

「いやー、めちゃ薄いハイボールやったら10杯くらいいけるんですけどね〜」

僕がNON STYLEで面接官が女子高生ではないかと思うほど盛り上がった2次面接の最後に聞かれたのは酒をたくさん飲めるか否かだった。僕は相当な下戸である。この返しに満点は与えられなくとも、下戸に与えられる事実上の満点ではないだろうか。しかし、営業部の人間からは「ま、ウチはビール会社との取引があるのでハイボールしか飲まないというのは困る」と秒殺。

グレーのスーツに過剰なジェル、鋭くはないが奥底で他人をコントロールしたがってる眼差しが威圧的。普通ならノックアウトされそうだったが、顔がゴルバチョフに似ていて救われた。スターリン似だったら膀胱中の尿をすべて漏らしている。よく通るゴルバチョフの声には説得力があって、ひとまとまりのトピックを話せばシュイン!と音を立ててペンを滑らせた。あんなんで文字書けへんやろ。一瞬だけ怯んでしまう。ひ弱そうで高い声の人事は「僕も〜接待の場面で〜お酒って〜必要だと思うんで〜はい〜」と続ける。ひ弱でよかった。彼の声のおかげで、負の感情を怒りにコンバートできた。

唯一理解できたのは、間違いなくこの場を支配しているのは人事ではないことだ。ゴルバチョフが握っている。ゴルビー次第で僕は落ちる。

ほなビール飲めますか?って聞けや(ハイボールも取引するやろ)(ハイボールしか飲まないとも言ってない)とは思いつつ、僕の胸に去来したのは文系新卒就活って何が見られているんだろうという単純な疑問と、少なくともスキルとか経歴とかではなく、ある種「変えようのない部分」が重視されているんだなあという気付きだった。その「変えようのない部分」は往々にして差別的な要素を孕んでいる。

結論から言うと僕はこの面接には落ちた。粛清されたのだ。あそこまで露骨な態度を取られた以上は覚悟していたが、他に内々定はあったので落ち込みはしていない。昭和と令和を一直線で結んだペレストロイカみの感じられない会社などノーサンキューだ。

語学が堪能なので1年目2年目からバンバン海外に行くことも可能か?と質問されて、「求められるならいつでも行きます」と答えると「求められたら、ということは自分からはチャンスを求めない性格ということでよろしいですか?」とゴルバチョフに返されたあたりから入社したくないとは思っていた。

理由の知らされない不合格通知は不条理にさえ思う。華麗な経歴やスキルを携えて、それらしい意識の高い定型句を並べ立てる学生が全くうまく就職活動がいかないお決まりのてんやわんやは、今までにフィクションでもノンフィクションでも数多く描かれてきた。しかし、能力を身につけながらもそうした自惚れからも距離を取ってきた自分が、条件付きの愛を受けて育ってきたかのような崩壊した倫理観を持つ面接官のふるまいに一喜一憂しなければならない状況におかれるのは耐えられなかった。朝青龍の言葉を借りると、ありえない話!アホ●ね、である。

変えられる部分/変えられない部分


僕の出した仮説は前述のとおり「変えようのない部分を見られている」に尽きる。

明文化されていないので確たる採用基準はおそらく肌感覚でつかんでいくしかない。ここで言う不条理さや差別的な視点というのは、酒を飲めるか飲めないか、男であるか女であるか、美人であるかブスであるか、どこの学校か、センスがあるかないか、ざっくり会社の雰囲気に合うか合わないか。どこまでをそれに含めるかは会社と我々次第である。

ちなみに夏と冬のインターンシップはそうした言語化(=万人に一般化)できない匂いをテイスティングして、誰も的を射る表現をせず(=極めて個人的に好きか嫌いかという視点のみに支えられた旅行客レベルの感想を持つ)に就活サイトとSNSに垂れ流すだけのイベントだと気付いたのは面接がはじまってから。採用直結かどうかなんて些細な問題だ。

一例をあげよう。関西の中小企業を受けたときの話。業界は一発で会社が特定されるので伏せておく。

中規模ながら数百年近い歴史がある。しかし最近の事業は伝統的な企業にしてはやや革新的。海外志向も強い。改装した新オフィスは席と席の間にあるはずの区切りが取っ払われている。テレビで見るイケてる外資系企業とまでは行かずとも、一定以上の風通しの良さを感じた。実は最も志望度が高かったのはココで、英語以外の語学力も評価されているし、人事部長ともやけにウマが合った。しかし絶対受かるやん…という確信は最終面接の開始2分で潰えた。

会社のコアが急に霞んだ。最終面接にはスーツのダサい社長とスーツがカッコいい人事部長、一言もしゃべらない黒スーツ(喪服?)の坊主がいる。おかしい。全員のキャラが違いすぎている。社長の手元には僕が出したエントリーシート、履歴書、今までの面接でのメモのようなものがあった。簡単な自己紹介の後に、ゆっくりとした口調で社長が言ったのは「全く分からない」だった。本当に全く分かっていなさそうで自信なさげでもあった。何が全く分からないのか不明瞭だったので聞くと、なぜわざわざ旧帝大から中小企業を志望したのかとのことだった。これまでの時点でも、現時点でも、手元の資料にほとんど目を通していないのは明らかだった。

なぜ志望したのか、なぜ同業他社の中でもここなのか、大学時代に何をしたのか、なぜ留学をしたのか、留学中に何をしたのか、なぜ英語以外の言語をするのか、なぜ東南アジアなのか、なぜ大企業ではないのか、なぜ多趣味なのか(ほっとけ)...と矢継ぎ早に質問をする気持ちは分からなくはない。自分でも回り道は多いと思う。でも資料に目を通しておけば解決するレベル。

ただ慣れたもので僕の回答は実に明快だ。それでいて独自性があって、おもしろい。トークが消え物で、記録されない、死ぬべき存在であることを惜しいとさえ思った。人事は速記の大会くらいに鬼気迫るスピードでメモをしている。坊主は黙ってお茶を飲んでいる。社長は全ての回答に首を振ってこう答える。御社に入れてくれー!

「まあ阪大やしな」の連呼だった。

「なんでまだ勉強してるの?阪大入ったしええやん」
「僕のアイデンティティは所属大学で決まるわけではないので。それに単純に勉強するのは自分にとって楽しいので〜」
「全く分からんけどまあ阪大やしな?」

「英語以外の言語をやる気持ちってわからないな」
「現地語の書籍を読んだり、現地の人と会話するには現地語がベストです。それに言語が好きでいまの学部にいるので〜」
「全く分からんけど阪大の回答やな」

「留学中、勉強以外は何をしてたの?」
「好きな詩人がいたので、詩が詠まれた聖地の巡礼をしてました」
「よく分からんけど阪大っぽいな」

と、ハナから話を聞くつもりなどないと分かった。熱心な人事部長が滑稽に見える。

60年くらい生きて測るものさしが出身大学というのも哀れな話だ。人間を見る解像度が粗すぎる。凡人のいいところは、自分のものさしだけで測りきれへん存在に嫉妬ではなく革命を感じられる一点にあるんとちゃうんか。

もちろん序列的な学歴差別の方が巷には溢れているのだろうけど、今更どうにもならない、変えようのない部分で落とされているのは本当に気分が悪い。それを「逆にそういう会社と縁が切れたからOK」と諭されるのも解決になっておらず、納得がいかない。僕の人生の邪魔をしないでほしい。

自己アピールできるものをひとつ持ってこいというお題があったので、メモだらけでズタボロのタイ日大辞典を渡した。ある程度得体の知れないものにも本気で立ち向かいますよ、くらいの意味合いである。しかし社長ため息をついて「全く読めない」と言われた。せめて「全く分からない」でかぶせて欲しかった。あと喪服の隠喩はやめてほしい。俺は覚えてるぞ。あともう一個。社長が阪大嫌なら書類で落としとけよ!

やはり新卒採用は本質的に不条理な側面がついてまわるのではないだろうか。

もちろん「変えようのない部分」だけが全てではない。面接とは4技能をきちんと測る語学検定のようなものだからだ。つまり、合計で60%以上の得点率であることと、読み・書き・聞く・話すの各項目で最低40%以上なければ合格にならないように自分の面接では確実に「変えようのない部分」が拒否されていた。仮にその組成を「変えようのない部分」、志望動機、今までの経歴、コミュニケーション力として、志望動機の部分だけ粗くしたらどうなるだろうか?実際にとある農薬メーカーで試してみた。

秒で落ちた


エントリーシートは視点を相手に寄せれば自ずとストーリーは練れるので、苦労はしていない。このメーカーは一次面接から片道交通費を支給してくれるので、別企業の日程に組み合わせて受けた。

志望動機を無にして臨んだというよりも、メーカーの事務職で文系が働く熱意の出所はどこにあるのか?というどうしようもない問いだけを頼りに面接へ向かった。もちろんそこで何らかの情熱をもって働く人が存在することは別に問題ではないし、自分と違うモチベーションで生きる人間が存在していてもいい。

僕が言いたいのはこうだ。事務職で採用された場合、当然ながら作り手になることはできない。そこで営業職などが取引先から要望などを聞いて、その分析を作り手と共有してより新しい製品を世に出すという意味で広義の製造に参画できるというのは、実態はさておき説明会やインターンシップではよく語られることだ。では農薬業界ではどうか?

農薬を必要としない農家なんてない。絶対に売れるはずだ。しかし、たとえば自然科学についてはズブの素人である自分が表面的な知識を聞きかじって、確たる思いで売れるか?僕の場合はNOである。産業機械やボールベアリングならまだ分かる。性能が数値化されて比較がより容易だからだ。買い手(農家)だってほとんどが農薬については素人だろう。

よく分かってない素人によく分かってるフリをした素人がよく分からん製品を売るという構図が釈然としない。資本論も読んでない左翼がゲバ棒を振り回しているような野放図さがある。拝金主義中核派。それに、もし「絶対に効果ありますよ!?」と売り込んで効果がなかったとしたら…?農学部に通う友人にこれについてどう思うか聞いたところ、デキる農家はお前の話じゃなくて別のデキる農家の話を聞くんじゃないかと言われた。ものすごい正論だと思う。

業界への興味のなさもある。むしろ身体が業界を拒否していた。よく考えると虚業っぽいというのが拒否の理由なのだが、こう判断したのはあくまでそのときの僕の判断力によるものである。会社も受検者と同様に「変えようのない部分」を見られており、それをジャッジするの個人だ。個人が会社を見るときにこうなってしまうのは仕方ないとして、人事がほんとうに会社の人格を代表できているかは危ういのでやっぱり納得がいかないのは別の話。

(業界への考えの賛否についてはノーコメントでお願いしたい。興味のないことをディスカッションする気にはなれない)

これについて話すと、人事から返ってきた答えは満面の笑みの「そこが営業の腕の見せどころです!」だった。きっと何度も聞かれているのだろう。ナイス・何度も・やってる・詭弁。その前に社の技術を高めろよと思いつつ、あんまり対話しているように思えなかったので、もしかしたら農薬もそうやって対話をせずに売りつけているのではないかと邪推してしまった。夢で一度だけ目撃したが、やはりそう売りつけていた。話を戻すと、最低限の志望動機がないと落ちるということだ。


「人間の顔をした」就活がしたい


なぜ正直に酒を飲めないと言ったのか、なぜ正直に業界の先行きが不透明であることを質問したのか、なぜ正直にそれは虚業と大差はないと仮定したのか、とサークルの先輩や先に卒業した同期から至極まっとうに聞こえる助言をいただいた。しかし、僕に言わせると伝え方を相手に寄せるのと相手に媚びるのは根本的に違う。

不条理な選考基準やがさつな質問に振り回されるのは嫌だ。無理に合わせるために自分を殺すのはしんどい。それは媚び売りに過ぎない。こうしたくだらない儀礼に「日本の就活はおかしい!」なんて声もある。僕の場合は違う。僕は制度と戦っているのではない。掌で踊っている時点でもう相手の思うがまま。僕はチップを生活の当てにして、客層が悪いバーでお笑い役に徹しているドサ回り旅芸人兼ウェイターではない。

僕は「人間の顔をした就活」がしたい。ありのままを見てくれなんて言わない。マイナビ、リクナビ、キャリアパーク、unistyle、ONE CAREER、外資就活ドットコム...手を差し伸べてるつもりか、コミンテルンのつもりか、役に立った覚えはない。「枠からはみ出るな」を金科玉条としていて、つまらんエントリーシートでドヤ顔する人間が同世代に多数いるくらいしか得られるものがなかった。連帯しようぜ?

世に企業は数あれど、自分が「人間の顔」で完全にピッタリくる会社など存在しない。これは仕方ない。そこでほぼ確実に内々定と思しき会社があったので僕が取った戦略はこうだ。他社の最終面接までは「人間じゃない顔」を演じ、受け答えに自分が強く反感を持ったところは選考が通っても即日で辞退した。「人間の顔」をするとワルシャワ条約機構ヅラして潰してくるから。お祈りメールで無血革命のつもりか。(あとでかなり焦ったのでやらなければよかったとも思っている)

・某化学メーカー

原料素材のハラル認定取得にめちゃくちゃ力を入れているとアピールしてきたので、同業他社との比較した上で「数字の上ではそう見えないが、これから上回っていくという認識で間違いないか」と聞いたところ「お答えできません!」と一喝される。お答えできなアカンのちゃうか。

・某化学メーカー

冗談ぽく共産主義者かどうか聞かれた。おもんない。(大学で落語やってたときの名前が”トロツキー”だったことからこの話題に)

・某建設関連会社

卒論のテーマである文学や人文学が社会に役立つとは思えないがそれを専門でやってきた学生生活に意義はあるのか、と高3理系みたいな質問ばかり。1次面接は説明しても納得いかなさそうだったが通過。2次面接も同じようなことを聞かれて通過。建築業界の中でもかなり閉鎖的な部門で、知性レベルが低いように思えて辞退した。一応本は読んでるけど、読んでるのは文字のデカいビジネス書みたいな。

・某農薬メーカー

フィードバックによると自信に満ち溢れすぎて、人生で挫折をしたことがなさそう(あるわ!)で応援できないらしい。次は挫折のエピソード考えておいてくれとのことだったが、次なんてない。

・某小売

吐き気がするほど嫌いな質問:学生時代に一番力を入れたことは何か? 

個人が一生涯かけて追求しているテーマがあることも、投資時間や成果以外にも尊さや価値を測る指標があることも無視してそうでバカ丸出しのテンプレ質問。”一番”って何だ?いちいち逆張りするのも無駄なので、一応準備していた話を提示すると「本当にそれでいいんですか?」とラスボスみたいな煽りで、自然と顔の筋肉がピクついたのを覚えている。一緒に受けた隣の人が「私はぁぁ!ゲームセンターのバイトでぇぇぇ!売り上げをぉぉ!お客様にぃぃ!寄り添っ、あ、っと、添うことでぇぇ!2倍にしましたぁぁ!」と嘘八百の話をしていて、僕はずっと半笑いだった。一回だけ下を向いた。ここは落ちた。

・某商社

「先輩社員との座談会を兼ねた相談会をやります!」いや、僕はお前のことをまだ先輩やと思ってへんし...

他にも面接が始まるまえにもう無理だなと思うこともある。サードにライトゴロは捕れない。

・某商社

「当日の持ち物:ありのままの自分」

なんやねん

オナニーは形而上的たれ



なぜこんな振る舞いをしてしまうのか?当然、自分に自信があるからだ。なぜここまで書くのか?それは器がとても小さいからだ。これが8000字を費やした対立姿勢の正体だ。

僕は就職活動を通じて自分はある種の自己愛を高めていった。自己愛が高まった形而上的なオナニーをしていたと言ってもいい。うっとりするほど当意即妙な返答、定番の質問には正面突きのごとく芯を得た言葉が用意されており、雑談だけで面接官は僕を「忘れられない人間」と胸に刻む...くらいのイメトレを数百回と繰り返した。

これは荒唐無稽な夢物語ではない。実現可能性も再現性もじゅうぶんにある。つまり何度でも頭で形而上的なオナニーができるわけだ。略してジョニーと呼んでいた。

なぜ自己愛が高まるのか?あくまで対等な人間同士。リラックスしてくれと促されることは確かにあるものの、面接というのは自分がどのような人間であっても受検者をパッシブにしてしまいがちだ。パッシブというのは程度の差こそあれ、踊らされている状態に過ぎない。マゾでない僕は受動態から充足感など見出せない。僕はそれを打ち破るのが得意だった。ざっくり言うと面接で「ウケていた」

この場合の「ウケていた」とは決して張り詰めた雰囲気の中で突飛なボケをかますことではない。インターネットのやり過ぎには注意したい。文章を書くのが決して不得意でないこともあって、アロハシャツ着た証明写真を添付したエントリーシート以外は幸い全て通過し、多くの場合は面接官が文と内容と考え方のユニークさに触れた。もしエントリーシートの文章を彼女の身体に書いてセックスをしたらいつもより早く射精できそうなくらいに出来が良かった。そうした事情もあって相手が自分に強く興味を持っているの明らかだった。

つまり相手は自分に向かって開かれており、パッシブな客は私ではなく、面接官である。「ウケた」と表現し、面接のあり方を考えると、会場の様子はショーパブや寄席小屋そのものにも見えるかもしれない。しかしそこが大阪の本町であっても東京の神田であっても、僕の場合は森ノ宮ピロティホールでの独演会だった。目当てがあって客は足を運んでいる。(実際に足を運んでるのは僕)(地方公演の挨拶で「わざわざ遠いところからありがとうございます。まあ、一番遠くから来たのは私なんですが…」と一瞬で観客の心を掴む立川志の輔に自分を重ねて”ジョニー”していたのは認めます)

僕の、僕の意思決定による、僕がより良く生きるために出来上がった価値観やその証左となる二十数年の蓄積された生活を誤解なく伝えたときには必ず面接官の目が変わった。室内に人間と人間が触れ合うニオイが充満する。緊張がほぐれて脇が開いたのかもしれない。スラックスの下で公権力に抗うくらい暴力的な勃起をみとめた。自己批判を迫られることもない。中には神に捧げてもいいくらい「ウケた」時もある。それができたときは漏れなく、これからもよろしくと握手を求められた。僕は御社の中に入っていって、御社は僕を包みこんだ。入社の意志は硬く、握手は親密だった。

やれやれ。いくつか頂いた内々定の中から、僕は最も形而上的で激しい性交をした企業の内定を受諾した。



※入社の意志は硬く、握手は親密だった→村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』所収の短編で”勃起は硬く、セックスは親密だった”というフレーズがあります。ずっと心に残っていて、いつか放出したいと思ってのオマージュです。文脈は完全に忘れました。

このエントリーをはてなブックマークに追加

バンコク2018年末_190502_0002


会話でちょっと難しい言葉を使ってみて、読みや意味が違っていたりするととても恥ずかしい。年に数回ある話だ。

では、自分が”あえて間違った方法で語彙を使う”ことはあるのか?私は日常的にある。その筆頭が表題の「カモやん」だ。

とはいえ、この「カモ」は間違っているというより自分なりに意味を拡大し、聞き手にとってもギリギリ理解できる絶妙なラインを攻めているつもりだ。そうやって意味づけが徐々に広がっているのは実にポエティックだと思う。

それに「カモ」が本来持つユニークな響き以上に面白さを感じられる。これが”あえて”間違った使い方をし続ける理由だ。

ちなみに明鏡国語辞典でカモは

鴨が葱をしょって来る:ますます好都合であることのたとえ 鴨肉がある上にネギまで揃えば、すぐにでも鴨鍋が作れることから

だまして、利用しやすい相手、また負かしやすい相手

と定義されている。 

Twitter、messenger、line、会話など様々な場で「カモ」を使っているが収集しやすいLINEのトーク履歴からサンプルを見てみよう。2017年3月から現在まで「カモ」で検索すると279件ヒットした。その内、カモノハシやカモコセリザワなど関係のない語彙が9件、私以外の人が「カモ」を使っている例が43件。よって私が実際に使ったのは227件となる。具体的な例を見ていこう。

  • 用例1(余裕)

    「その留学計画やったら奨学金通りそうやな」
    「カモやわ」

  • 用例2(簡単)

  • 「2次面接通ったで」
    「よかったやん」
    「カモ」
    「バリ調子乗るやん」

  • 用例3(OK)

  • 「コピーカードの許可証、若い方の院生が持ってるらしいで」
    「カモやん」

  • 用例4(自分でもよく分かっていないが、同じ状況ならカモって言っちゃう)

  • 「店着くの8時前になるから7時から飲んどいてー」
    「じゃあ間をとって7時半開始にしとくわ」
    「カモやな。それでいこう」

  • 用例5(予想通り)

  • 「あのモノマネ動画、いつでもウケますね」
    「カモやカモ」

  • 用例6(大丈夫)

  • 「地震大丈夫?」
    「カモやで 伊丹もカモった?」

  • 用例7(煩わしいものがない)

  • 「家のWi-Fiコレやで」
    「カモやん」

  • 用例8

  • 「あと5分で着く」
    「カモやん」

  • 用例9

  • 「誕生日おめでとう」
    「カモやわ」

  • 用例10

  • 「チケット買ったで!」
    「カモ!」

  • 用例11※

  • 「俺の嫁と絶対気合うでほんま!どら焼きこんなに好きなん嫁と岸本だけやもん!」
    「ホンマですか?カモですね」

  • 用例12※

  • 「妹どんな人?」
    「この写メの右側やで」
    「へー、カモやん」

    しかし、このように「カモ」の用法を文法的用語などで分類していくことになんら意味はない。大西泰斗は『英文法を壊す』の中で、thatやtoについて「数多くの用法」など存在しない、と言い切っている。数多くの用法とは”thatを切り刻み部品化する過程にのみ存在する幻影”であり、本質的な理解をすれば”ことばが紡ぎ出される母なる感覚に回帰する”と。

    私にとっての「カモ」の母なる感覚とは何か。ベトナム語のđượcだと思う。 

    đượcはbịと並んでベトナム語で受動態を作る言葉だ。

    例えば英語でbe +動詞の過去分詞形となるところを、ベトナム語の受動態ではđược +動詞もしくはbị+動詞となる。ではどのようにđượcとbịを区別しているかというと、非常に簡単。前者は「恩恵」を後者は「被害」をあらわす。ほめられたときにはđượcで、顔射されたときは(ほとんどの人間は)bịを使う。

    đượcについて『世界の言語シリーズ4 ベトナム語』では

    ”「〜する機会に恵まれる」「幸運にも〜だ」といったニュアンス”、”動作や状態が主語にとって好ましい状態であることをあらわす”

    とされている。

    もちろん「カモ」の核とđượcの核に多少の乖離はある。けれども、ベースにあるのは①恩恵の気持ちを②表に出すという発想である。また私はどんな友人にも分け隔てなく「カモやん」を使っているが、他人から「カモやん」というフレーズが出た43件のうち39件はベトナム語専攻のグループラインだったのは無視できない事実だろう。

    では特殊な2例を見てみよう。

    用例11

    「俺の嫁と絶対気合うでほんま!どら焼きこんなに好きなん嫁と岸本だけやもん!」
    「ホンマですか?カモですね」

    用例12

    「妹どんな人?」
    「この写メの右側やで」
    「へー、カモやん」

    この2つは会話から生まれた。自分史上で今後も使いまわしてしまいそうな面白さがある。ポエティックだ。なぜウケるのか?に対する全体的な解釈は後に書くので、ここでは上の例だけに絞った個別的な説明にとどめる(後で読んでもOK)

    一般に誰か、もしくは特定の状況に対して「カモや」と思ったとき、それを「カモ」の当人に直接伝えることはない。話し手が頭の中で思い浮かべるか、利益を共有する側(カモにする側・内側)に向けれられており、コミュニケーションを志向する性質はそれほどない。

    しかし、上の例では実際に会話の中で口に出している。妹どんな人?に答える私の「カモやん」は可愛いとかキレイだね(≒恩恵)に相当するのは分かるだろう。一方で聞き手にとっては「カモにされている」、つまり簡単にセックスできそうとか標準より乳の揉み応え(≒被害)がありそうとかそう受け取りかねない。

    それでいいのだ。僕自身は”恩恵”のニュアンスを外して”いいね”くらいのニュアンスだけを伝えようとしている。本来の「カモ」の意味を二段階も踏み外しているのだ。(独りよがりなポエティシズム)私も相手を選んでこうした表現をしているので、聞き手は単純に「カモ」からサウンズバッドを感じつつ、徐々に「こいつは単純に”恩恵”のニュアンスを伝えるためだけに『カモ』と使うのであって、だれかの被害の上に成り立っている表現ではないのでは…?」と気付く(相手の汲み取る配慮に依存したポエティシズム)。

    これが面白さである。

    このとき「カモ」を乱用する私の「無礼」が時間、浸透、使用、誤用、対話、状況、関係性…云々を通して理解しつつも、ナンセンスな笑いが勝っている。それこそ私が狙っている”あえて間違った方法で語彙を使う”に他ならない。ドキュメンタルseason1で野性爆弾の川島がダイノジ大地にしつこく「高野豆腐」と連呼して、閾値で笑わせたのもこれに近いのではないか。私が解釈したポエティックなカモはナンセンスなのではなかろうか。チュートリアルの漫才ってこういうものなのではないだろうか。

    聞き手は「カモ」の意味をつかみ取ろうと、理解しようとおのずから対話を進めてくれる。マジでカモである。彼らは私が作り出したフィールドで遊泳している。呑み込まれてペースを崩した聞き手は理解して「笑う」か理解できず「怒る」かの二択だ。M-1グランプリ2005でのチュートリアルに似ている。BBQでどういう食材をどういう順番で串に刺すのが一番近代的か、が漫才のテーマなのだがそもそもBBQに近代的かどうかなんてない。そこでツッコミの福田が徳井に乗っかってナンセンスな4分間が始まる。

    渡辺正行はその漫才を「BBQのハウツーはオーソドックスなテーマだがキャラクターショーに持っていったのは見事」と評しているが、これは少し言葉足らずで、キャラクターショーに持っていけるナンセンスな展開とその展開だからこそ許される変態性を限界まで表現できたのは見事と言うのがより正しいのではないかと思う。

    なぜチュートリアルを引き合いに出したかというと彼らの漫才の基本テーマは「わけわからんけど、わけわかる」だからだ。「カモやん」とチュートリアルはナンセンスさにおいて共通する点がある。彼らにとって妄想漫才というのは必要条件であって十分条件ではない。

    「カモやん」然り、チュートリアルのナンセンスさ然り、その語彙や世界観が一方によって占有されている。「カモやん」は漁業選管区域のようなもので、私にしか具体的な様相はつかめていない。もしくは使用者当人である私でさえも「カモやん」につかみきれない部分がある。

    対話を続ける中で聞き手は「カモやん」を受け入れて笑い、ほとんどを理解したと確信を持つ。しかし私が私でいる限り「カモやん」の用法は増殖し続ける。そのパターンが読めても読めなくても笑うしかない。聞き手はシーシュポスの神話のような立場におかれる。しかし同時にそうした逸脱をも面白いと感受しているし、むしろそれでオーガズムを感じている人もいる。だからこそ私は自分さえ許せば「カモやん」の用例を増やすのも辞さないつもりだ。

    最後に


    実は「カモ」以外にも同様の試みをしたことがあるが、いまいちうまくいっていない。その代表例が「マンコやな」である。

    元々は僕の先輩が「ホンマないわ」とほぼ同じ状況で使っていた表現である。そこに侮蔑の意味はない。純粋にニュートラルなマンコである。性のないマンコだ。しかし、知人に「そもそもマンコは我々にとって尊ぶべき存在だからミスマッチではないか?」と指摘された。

    もっともである。

    ただ補足しておくと、「ホンマないわ」といえど強い落胆ではなく不満はありつつも許せるくらいのニュアンスである。例えば待ち合わせに1時間遅刻しそう、と言われたときであれば「ホンマないわ、まあカフェで買ったばっかりの本をちょっと読み進められるし、コーヒー1杯おごってくれたらええよ」に近い。(マンコという単語がサッと出せるほど余裕がある)

    後付けでOh Hell! Oh, for Heaven’s sake!のように性器関連で天国も地獄も経験したからこその「マンコやな」とも考えたが普通に無理がある。

    何よりもあまり公衆の面前で口に出す単語でもないから当然の結果ともいえる。 
    このエントリーをはてなブックマークに追加

    コンケン2018_190211_0106-min


    タイ料理は実に規定が難しい。

    酸味、辛味、甘味をトムしてヤムして渾然一体となるタイ料理を1本の筋だけでこれこれだと説明するのが野暮だ。

    規定の難しい料理にポテンシャルが未知の食材・昆虫をどう生かすのかを考えるのはより一層難しい。とすれば、経験に即して都度、昆虫に思いを馳せながら活路を見出さなければならない。ちなみに僕はめっちゃ虫食べますが全然触れないです。嫌いです。時には組み合わせにバサラさえ感じるタイ料理のカオスについて言えることが一つある。食材の味を互いに隠しあっているわけではなく、それぞれの役割を果たしている。僕はコオロギが羽ばたく(死んでるけど)料理をミアンカムの中に見つけた。

    コンケン2018_190211_0254-min


    ミアンカム(เมี่ยงคำ/miang kham)とは炒ったナッツ、ココナッツ、唐辛子、ショウガ、マナーオと呼ばれるライム、海老の塩漬けペーストや魚醤などを煮込んだソースをハイゴショウの葉でくるんで食べる料理だ。ソース以外は調理らしい工程を経てはいないのでスナック・おやつの類と言ったほうがいいかもしれない。ビルマ文化の影響を受けて、タイ北部で広まったと言われている。ミアンプラーといえば魚が、ミアンガイといえば鶏肉が、ミアンベトナムといえば豚肉が包まれるが食べたことがないので割愛。

    僕が滞在していたタイ東北部コンケン市内のナイトマーケットでは1軒だけミアンカムを専門に売っていたが、それ以外に”ミアンカム屋”を謳う店は見たことがない。あったとしても、割合しっかりしたレストランが余芸で、ウチこんなんも分かってますねんとメニューにあるか、家庭料理として消費されるかだろう。実際にバンコクやチェンマイなどで長期滞在を経験した友人の中でも知名度は二分されていた。

    味は好きだ。タイ料理さながら大胆かつ複雑な味の融合がありながら口中の腥を取り除いてくれる、寿司で言えば芽ねぎのような役割。

    けれど、それだけではミアンカムの本質は捉えられていないと思う。

    ミアンカムはまず第一に自分の舌で味を変えられることに良さがある。ちなみにこれは口中調味とは違う。

    前回の記事で言えばシルクワームが乗ったクリームチーズケーキがいい例だ。えぐみと甘み、旨味と酸味、バリバリとしっとり。全てを口の中で、舌を動かして絶妙にうまい賞味の仕方を探し出した先に、おいしさがある。つまり×××上手は味わい上手。本来の味とは別に我々の姿勢によって味が変わる。

    口中調味に厳密な定義はないにせよ、最大公約数的な見解を出すと、コメを口に含みながらオカズを口に放り込んで米との調和を楽しむ食べ方だ。前回も言及したヤム(混ぜる・ยำ)の一種に他ならないが、ミアンカムの味わい方も同じかと言えばそうではない。こちらはそもそも葉に包まれて提供された時点で完成されている。コメにオカズを詰めるという終わりの見えない営みとは大きく異なる。(それやるならいっそ丼にしてくれ)

    コンケン2018_190211_0246-min
    (Miengkam Krobros FlavorのKrobrosが何かはよく分かりませんでした。カボス?じゃないよなぁ)

    タイにはレイズのミアンカム味が売っている。しかし味がミアンカムぽいとはいえ、単なるライムフレーバー多めショウガの風を吹かせたナッツ風味ほのかにココナッツ香るちょい辛めポテトチップスに他ならない。うまいのは確か。武器多いねん。ラスボスと戦ってんのか。断わっておくと、フリトレー社がビネガー味だけではなく、そのタイ法人までもがミアンカム味でポテチ酸味界という天空城を作り出したことは記念碑的瞬間である。食いながら思う、インカ帝国かここは?(タイです)

    ただここには舌先で変化する味がない。彼はポテチ界の器用貧乏だ。

    ミアンカムならあとは中のライムを噛むなり、唐辛子を舌の上に置くなり、口中で好きな旋律を奏でながら味の変化を楽しめる。

    もちろん、だからこそ美味しいなどと言うつもりは毛頭ない。ミアンカムならではを味わうならこれを意識したいというだけだ。我々が「おいしく食べる姿勢」を違和感なく外発的に起こすギミックこそが”ならでは”の説明となる。ではどうしたらミアンカムをさらに美味しくできるのか?

    僕ならできる。それもコオロギでだ。軽く炒ってサッと塩をふりかけた小ぶりなコオロギが様々な問題を解決してくれる(してくれた)。コオロギの味の良さはあえてここで議論する必要もないだろう。エビっぽいか否かも干しエビと一緒にコオロギを食べれば微々たる違いに双方の良さを発見できるはず。

    コンケン2018_190211_0125-min
    (使ったコオロギ缶はタイ・コンケン県にあるプーファームから購入したもの)

    ミアンカムのいいところは中身が見えないところ。

    食糧危機に際して、あなたは昆虫を食べるのか?という陳腐なディスカッションテーマがある。僕は盛り上がっているのを一切見たことがないが。下手同士のテニスにも似て、全く議論が発展しない。見た目そのままでは食えない、粉にすると旨味しか味わえず、コオロギじゃなくてもええやん感がある…など水かけ論に終始する。簡単な話だ。はじめから見えないし食感を損なわないためにはこうして包めばよいのだ。

    コンケン2018_190211_0255-min
    ナイトマーケットやスーパーではミアンカムキットがたまに売っている。セットで50バーツ(180円くらい)

    あとはピッタリ符合するスナックを探せばいい、という時にミアンカムを見つけた。ナッツから始まりコオロギに至るまでパリパリポリポリの口内バリエーションが1つ増えるだけで非常に楽しい。リズムになる。硬さの主張が大きすぎず小さすぎず、独特でヤム(混ぜる・ยำ)の秩序を乱さない。It'a true wolrd 豊富な動物性たんぱく質?それ、誉め言葉ね。好きな昆虫:ヨーロッパイエコオロギ(予期せぬ大量発生はNO)

    小ぶりなコオロギが手に入った際はぜひミアンカムを。こんなにも賞味するスタートに立つのが難しいのに実は「美味しい!」の強度はさほど大きくない。申し訳ない。しかし、より広い”あそび”という語彙の指す範囲を獲得できるはず。むしろ僕は強度という幻想に振り回されていたのではないか。原付のレバーの余裕部分を”あそび”と表現するのを知った20歳の快を思い出した。ミアンカムはあそべる。”あそび”がないとどっかで事故る。


    余談

    コンケン2018_190211_0257-min
    (怒涛の勢いでミアンカムを包むおばちゃん)

    どうやらラオスではこの包む葉っぱがレタスらしい。しかも包まれる具も肉や魚などいかにも食った気がする食材へとシフトする。サムギョプサルやんけとも思ったが、これがラオスであろうともベトナム西北部のタイ諸族であってもお店や食卓ではキッチリと包まれて出されるとのこと。非常に興味深い。
    このエントリーをはてなブックマークに追加

    ↑このページのトップヘ