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最終意見陳述書

 

 

2010年3月24日

 

  十亀 弘史

 

被告人として、下記のとおり意見を述べる。

 

 

1 はじめに

 

私は本件両事件に関与していない。それが事実の全てです。

 私は本件両事件に使用された砲弾について、信管を製造したことはなく、炸薬を装填したこともありません。本件両事件について誰かと共謀したことはありません。本件について私は無実です。

 証拠は何もありません。事実のないところに証拠はあり得ません。

 検察官の「立証」は立証ではありません。存在しない事実を証明することは出来ません。

 検察官立証がどうやっても立証として成立しない。それが、公訴提起以来すでに22年半に及ぶ本件裁判の全てです。

 

 昨年12月の公判で検察官は、私に対して、私たち3人に対して、「論告」と「求刑」を行った。

 辞書によれば、「論告」とは「刑事訴訟で、証拠調べが終わったのち、検察官が行う事実および法律の適用についての意見陳述」だということです。

 しかし、本件において検察官が主張するような「事実」は存在しない。存在しない事実について「法律の適用」はできません。さらに、検察官は「証拠調べ」など終わらせてはいません。検察官が「証拠」と称しているものは、全て、本件両事件に届く射程を有さず、本件の証拠になりません。差し戻し審においてなされた、いわゆる「3証拠群」についての証拠調べは、本件両事件をかすってさえおらず、無意味です。そのように全く関連性を欠く「証拠」をいくら調べても、証拠調べにはなりません。

 以上のとおり、事実も法律の適用も存在しない本件について、検察官論告など成立しません。

 さらに、「求刑」とは「検察官が被告に刑罰を要求すること」だとされています。しかし、事実も立証もないところに「刑罰の要求」などなんで出来ますか。そのような根拠のない「求刑」は断じて許されません。

 

実際には検察官は私たちの無実を初めから十分に知っています。証拠の不在を熟知しているのは検察官だからです。デッチあげ、とりわけ政治的なデッチあげは、偶然の過失によってなされるわけではありません。政治的デッチあげは、いつでも、デッチあげであるとはっきりと意識され、そして計画され、準備され、実践される権力による犯罪です。

 検察官は、私たちの無実と証拠の不在を知りながら、私たちを逮捕し、起訴し、そして15年を越えて独房に勾留した。これが犯罪でないとは言わせません。

 従って、本件において論告と求刑を受けるべきは、まず第一に、デッチあげに手を染めた公安警察と検察官自身です。

 

 裁判所もまた犯罪的です。検察官の無意味な立証を制限せず、無罪判決までに16年を費やした。しかもその間私たちを独房に勾留し続けた。一体15年2ヶ月の未決勾留など、世界のどこにありますか。裁判長は、そのような長期の未決勾留を聞いたことがありますか。それは、裁判所による拷問であり、判決なしの無期禁固です。

 しかもその上で東京高裁は、長期裁判の結果として極めて詳細な証拠調べとなった差戻し前一審の当たり前の無罪判決を、いっさい証拠調べをしないまま一瞬にして破棄した。それどころか「有罪」方向の実質的な事実認定にまで踏み込んだ。これもまた裁判所による犯罪です。証拠裁判主義はどこへ行ったのですか。重大な憲法違反、刑事訴訟法の原則違反以外ではありません。

 従って、裁判所もまた、本件において論告と求刑を受けるべきです。自らの犯罪の責任を逃れることは出来ません。

 本件において裁くのは裁判所ではありません。裁くのは私たち被告です。本件で明らかにされるべきは「被告が何をやったか」ではありません。「公安警察と検察官そして裁判所が、被告に対して何をやったのか」です。そのことを、最初にはっきりさせておきます。