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5 検察官立証は立証ではない

 

検察官が「証拠」とか「立証」とか称しているものに対する「証拠論」としての批判は、弁護人の最終弁論において、すでに詳細に述べられています。私としては、証拠論については、大きく3点についてだけ述べておきます。

 

(1)まず、第1に言わなければならないのは、検察官主張には被告の行為についての具体的な要素の特定がないということです。

 検察官の主張と「立証」は、岩手借家押収のメモを勝手に解釈して、一つの物語(フィクション)を創作するものであり、立証ではありません。そして、フィクションならば、その展開を首尾一貫させることは容易にできます。しかし、それは事実の実証ではありません。好き勝手に前後の辻褄の合うストーリーを創作したにすぎません。 

そしてその架空のストーリーの源泉が岩手借家押収のメモです。メモは、どのようにも解釈される多義性を有しています。検察官はメモのその多義性を徹底して悪用しています。

 しかし、そうでありながらなお、検察官のストーリーは、決定的に空疎です。すなわち、被告人のどの行為についても、いわゆる「5W1H」の具体的要素の特定がない、ということです。

 差戻し前一審における検察官冒頭陳述や論告あるいは控訴趣意書、また今回の論告を読んでみて下さい。そこには、被告人の行為について、いつ・どこで・誰と誰が・何を・どのように・どうしたのかが特定されていません。検察官は「被告人3名が本件両事件の砲弾について信管を製造し、炸薬を装填した」と主張しています。しかし、それが、いつ・どこで・誰と誰によって・どのように行われたのかを具体的に示していません。訴因の特定は日時・場所等を示して具体的になされなければならないと、刑訴法にはそう書いてあります。そうしなければ、検察官が一体何を立証したいのかはっきりしないからです。本件ではまさに、検察官が立証したいはずの「要証事実」それ自体が何なのかはっきりしません。

 検察官は、ただ、「何時とは知れず・どことも知れないところで・何をどうやったのかも分からないが、しかしとにかく被告人3名が、本件の信管の製造と炸薬の装填に関与した」としか言っていないのです。さらに行為の主体についてさえ、ほとんどの項目で「中核派革命軍は」とか単に「被告人3名は」とか言うだけで、特定の個人としての誰と誰なのかを示していません。

 そうであれば、例えばアリバイ主張など不可能です。検察官主張の無内容さは、メモ解釈以外の一切の根拠を欠くことの結果でもありますが、一方で無内容さに居直って反論を封じようとする卑劣さを有しています。

結局、私は、公訴提起以来すでに22年半を経ても、未だに、私が、一体いつ・どこで・何をしたから逮捕され起訴されたというのか、それを知ることができません。こんなものが刑事法廷における検察官主張や立証として通用するのですか。こんなもので人に15年2ヶ月も独房生活を強いることが許されるのですか。

こんなことが許されれば、公訴提起など無制限に出来るじゃないですか。漠然と「やったらしい」といえば直ちに起訴して、15年を超えて独房に勾留できる。どこに憲法がありますか。どこに裁判がありますか。どこに民主主義がありますか。暴力そのものじゃないですか。裁判官は一度同じことをやられてみるべきです。15年とはいいません。1年で十分です。「いつだか、どこでだかわからないが、何かやったんだろう」といわれるだけで獄中に勾留される、これがどれほど理不尽なことであるか、身に沁みて分かるはずです。

具体的な中身のない公訴提起を絶対に許してはなりません。

 

(2)第2に、検察官の主張と立証そして控訴審判決が論理法則に反していることを述べます。

ここでいう論理法則は、単純明快なものです。すなわち、AならばBでもCでもDでもEでも・・・その他でもあり得る場合は、「AだからB」だとはいえないということです。AならばBであって、B以外ではあり得ないという時に初めて「AだからB」といえます。それが当たり前の常識的な論理法則です。

 検察官は、ある根拠「A」を挙げて、だから「B」だと主張している。その「B」の内容が具体的でなく、漠然とした抽象的なものでしかないことはいま述べたとおりです。

その上で、検察官が挙げている「A」という事柄からは、論理的にはけっして「B」という結論は出てきません。すなわち「A」からは、検察官が主張する「B」以外の他の様々な可能事態が想定されるということです。

例えば、岩手借家から「ハート開発」に関するメモが押収されたことをもって、検察官は直ちにそのメモが「被告人らが本件両事件に使用することを目的にして新炸薬『ハート』の開発に関与していたことの証拠だ」と主張する。しかしなにより、「ハート」なる新炸薬は本件両事件で使用されていません。また、検察官は、その「ハート開発」がいつ・どこで・誰と誰によって・どのように進められたのかを一切明らかにしていません。

その上で検察官は、メモに書かれた内容が実際には行動に移されていない可能性を否定できません。ハート開発が仮に実践に移されていたとしても検察官が主張するような85年の秋から冬にかけてのいつか以外の、全くかけ離れた時期に進められた可能性を否定できません。ハート開発が本件両事件とは無関係に計画された一般的な爆薬開発計画である可能性を否定できません。ハート開発についてのメモが、鍋爆弾のための火薬を設計するための参考資料として元のメモを書き写したものである可能性を否定できません。それらの他にも様々な可能性が想定されます。検察官は、そのように「ハート」メモから言える色々に異なる、他の多くの可能事態のどれ一つも否定できません。

しかも、ハートに関わるとされるメモには本件両事件に触れた記載は全く存在せず、むしろ両事件と無関係であることを示唆する記述があります。また、メモそのものがいつ・どこで・何のために作成されたのか全く不明であり、そのメモの記載内容を直ちに何かの事実の証拠とすることは許されません。実際には、私たちはハート開発なるものに一切関与していません。ハートに関わるとされるメモは鍋爆弾用の爆薬の設計のための参考資料として元のメモを書き写したものです。

 そうでしかないのに、検察官は、ハートメモから直ちに、「被告人3名が本件両事件に使用するための新炸薬の開発に関与した」と主張する。そして、控訴審判決がその検察官の主張をそのまま容認する。一体これのどこが論理ですか。論理法則はどこにあるのですか。合理的な疑いを越える証明はどこにあるのですか。疑いだらけじゃないですか。

 証明という点でいえば、科学における仮説の実証と刑事法廷における事実の立証は、基本的には同質の過程でなければなりません。科学においては実験結果やデータが仮説に合わなければその仮説は誤りとして放棄されます。刑事法廷でも証拠が起訴事実を証明していなければ直ちに起訴事実こそが放棄されなければなりません。

そのように、検察官に「合理的疑いを越える証明」を求めるのは刑事訴訟の原則中の原則です。すでに最終弁論が述べたとおり、検察官立証に対しては、どの立証項目についても、無数の合理的疑いを対置できます。どの証拠も要証事実に届く射程を有しません。

 検察官立証は立証ではなく、控訴審判決は判決ではありません。