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刑法(刑事司法)の耐え難い状況

シュペー『刑事裁判官への警告』を読む〔27〕

冤罪誤判の罪と罰4 

教誨師・古川泰龍の雪冤運動

(その1)

宮本 弘典(関東学院大学)


 在獄二八年を経て、「確定死刑者再審特例法案」の廃案に伴って約束された「恩赦の積極的運用」も反故にされ、無実の死刑囚・西武雄は一九七五年六月一七日午前一〇時三〇分過ぎ、突然の執行宣告の直後に縊り殺された(死亡時刻は午前一〇時五三分三五秒)。身の回りの品を整理して遺書をしたためる時間も、親しい者への別れの挨拶の時間もない突然の処刑であった。

「古川先生の家に帰ります。遺骨や遺品は古川先生に渡してください」

「真実は石井(建治郎)が知っている。石井に最後まで戦うように伝えてほしい。」それが西の最期の言葉だったという。

 一方、被害者2名の射殺の事実を認めつつ、しかしそれは喧嘩の相手方だという誤信によるものであり、断じて強盗目的によるものではなく、西に依頼されて殺人を請け負ったのではないと主張していた石井建治郎は、同日恩赦決定を告げられ、無期懲役に減刑されて熊本刑務所に移管された(一九八九年一二月八日仮釈放)。西の処刑を知った石井は、同日に自分も処刑されるに相違ないと思い込み、わずかな時間で母親や支援者宛の遺書を書き上げたと語っている。

 西武雄の遺骨と遺品を託された生命山シュバイツァー寺開山・古川泰龍は、その当日も西と石井の恩赦請願のため上京していた。死刑囚教誨師として2人に接し、その無実・無罪を確信して2人の雪冤運動に生涯をかけた古川は、桐箱に入った西の遺骨を受け取り、「西さん(の遺骨)のなんと軽いことよ」と涙し、その後にショックで減じた体重がもともと痩身の身に再び戻ることは生涯なかったという。古川にとって、西は自らの半身にも等しく、西の処刑によってもぎ取られた生命が「私の半身なのか、西さんの半身なのか解らない」と述懐している。

つづく

花1