刑法(刑事司法)の耐え難い状況

宮本教授3シュペー『刑事裁判官への警告』を読む〔31〕

差戻し控訴審判決の罪と罰

(その4)

宮本 弘典(関東学院大学 法学部教授


  「被告人に対して長年よからぬ感情を抱いている人びとがある場合、この人びとは被告人をひどい目にあわせる絶好の機会を手にすることになる。彼らが申し立てることのできることを容易に見出せるなら、彼らは喜んでそうするからである。」

 治安機関に成り果てた裁判所と検察にしてみれば、政治犯はもっとも手強い不倶戴天の敵である。まさしく彼らは何もかもかなぐり捨てて被告人を有罪にしようとする。

  「被告人にも弁明が許されているかのような外観を保たんがため、たいていの場合、見せかけだけだが被告人は先ず裁判所に引致される。そこで先ず徴憑が読み上げられ、それについて尋問を受ける。もっともそれを尋問と呼ぶことができればの話だが。

その際、被告人がこれらの徴憑に反論し、個々の点で完全かつ十分に説明しても、それはなお録取するに値しないものとされる。申し分のない反論で反駁されようとも、徴憑は総じてその力と意義を保持する。」

 検察の攻撃をすべて反論の余地なく反駁しようとも、裁判官に特有の「経験則」「論理則」が登場し、事実は捻じ曲げられ、被告人の抗弁はすべて無に帰せられる。

  「一度捕縛した者を、嫌疑が晴れて潔白であるとして釈放するとすれば、それは審問官の恥辱なのだろう。一度捕縛された者は、如何なる犠牲を払おうと有罪となるほかない。」

 魔女裁判では、まさに「証拠や論理は必要とされない。どんな卑劣な手口も許される」手続で、数多の無辜が死に追いやられた。

しかし、五〇〇年前のこのシュペーの告発は、法史のグロテスクな一時代に対するものにとどまらない。それはそのまま、現下のニホンの刑事裁判への『警告』であるかに思える。

ニホンの刑事裁判において、戦後はまだ始まっていない。筆者は以前そう述べた。いや、ニホンの刑事裁判においては、いまだ近代は始まっていないのかもしれない。

『無罪!』第100号より